ツラン文明から縄文時代の富士王朝の始まり

ツラン文明から縄文時代の富士王朝の始まり----------------------------------------------------------

 大洪水の後、半神半人ジウスドラ(ノア)などの生き延びた一団の一部は、アララト山から中央アジアのツラン平原に辿り着く。そしてそこから東北にある天山(テンシャン)山脈の西南麓に王都を築いた。しかし時が経ち、その土地が王都としてふさわしくなくなったので、日本列島の富士山麓へ遷都を決意し、一団は海を、一団は陸を東進して日本列島に渡来することになる。そして中央アジアのツラン平原からツラン文明がユーラシア大陸各地に、農業とともに宇宙観、世界観、そしてそれにもとづく学術と道徳、人道の秩序の体系が伝播されていく。この一団には、祭司王の半神半人ジウスドラ(ノア)やシャーマンなどがいた。このツラン文明は、大洪水前から人々が存在していた文明ではあった。

 中央アジアの高原地帯にいた聖の一団が東に向かい、日本列島に到着して、ここに人類の正統文明を立てた。聖とは、宇宙の真理を認識し、かつそれを表現することばを生み出し、会得した人々の意味である。このツラン(天の子)民族がツラン平原から北回りで日本に移住して、縄文文明を生み出した。そしてツラン平原から南下した仲間達が、インダス川やメソポタミアにシュメール住み着いていった。またその道中で分かれた集団が中国の黄河文明や長江文明を築いていく。


 縄文人は、荘厳(そうごん)なる宮殿をつくらず、美麗なる礼服で飾らず、外観の浮華を自慢しなかった。日本民族にとって歩むべき道とは、人間の営み(人工)が、自然を破壊してはならない、自然と調和し、人工がむしろ自然をより豊かに、より美しく繁栄させるものでなくてはならない。そのような方向に人間が進んでいく時、それを「道」と名づけるのである。人間の営為(人工)が、このように積み重ねられてゆくありさまを、「文明」と賞賛するのである。これこそ、ツラン文明→縄文日本人→日本民族、と受け継がれた根本概念である。こうしてツラン文明を正統に継承したのは縄文文明であった。

 2度目の大洪水の後、ツラン民族によるツラン文明の原型は成立しており、後のシュメール文明はこのツラン文明の南下した一分派である。「ツラン」とはシュメール語で「天の子、天の保持者、天の帯」を意味し、ツラン民族とはツラン平原で発祥し、ウラル・アルタイ語族に属し、北方アジア民族とも呼ばれ、言語はウラル・アルタイ系の膠着語(こうちゃくご:立語の中国語、屈折語のインド・ゲルマン語と文法が根本的に違う)を語り、ツランから発してユーラシア大陸全域に棲みついた民族で、北ツラン族と南ツラン族に分け、北ツラン族をウラル・アルタイ語族と称した。

北ツラン族 : ツングース、モンゴル、トルコ・タタール、フィン・ウゴール、サモエード
南ツラン族 : タマル(タミール語族)、ボオチア(チベット・ブータン語族)、タイ(シャム)、マライ

 縄文の日本で富士王朝を建国したのは、天山(テンシャン)山脈西南麓に王都を築いた大洪水の生き残りの人々であった。日本列島の富士山麓へ遷都を決意した彼らの話はこうである。なお、ここでは和名を用いているが、すべてアヌンナキの血を濃く受け継ぐ子孫達である。

 天地開闢(てんちかいびゃく=大洪水の後)のとき、天之峰火雄神(あめのほほおのかみ=ノア)が生まれた。この神の王朝は7代30万日(約820年)を経て、天の世と呼ばれた。次に天之御中主(あめのみなかぬし=アヌ王)神から15代67万5000日(約1850年)続いた王朝は、天之御中世(あめのみなかよ)と称された。その最後の神皇が高皇産霊神(たかみむすびのかみ=エンキ)で、国土が八方に広がったため、七人の皇子をそれぞれの地方に派遣することにした。第一皇子・有能氏は大陸の大中原にとどまり大アジア州の皇帝となり、第二皇子・朝天氏は大陸の東部を、第三皇子・南陽氏は大陸の南部を、第四皇子・清賢氏は大陸の西部を、第五皇子・農立氏(イナンナ)は東海の島を、第六皇子・農永氏は大陸の北部を、そして末子の第七皇子・農佐氏は父のもとにとどまった。
 ところが、派遣された皇子のうち第五皇子の農立氏(イナンナ)だけは、「日の本なる海原に世に二つなき蓬莱山(ほうらいさん:富士山)のある蓬萊国(ほうらいこく:日本)」に行ったまま、1万7500日(約48年)経っても帰ってこなかった。高皇産霊神(たかみむすびのかみ=エンキ)は「連絡がないのは、その土地が連絡することを忘れるほど素晴らしいからに違いない」と考え、第七皇子・農佐氏を指揮官に任じ、神后ともども3500余神を率いて、住み慣れた王都を捨て、蓬萊国(ほうらいこく:日本)に遷都することにした。
 高皇産霊神(たかみむすびのかみ=エンキ)の一行は、天山(テンシャン)山脈の麓を出発して、現在のシルクロードを陸路東進、朝鮮半島から日本の能登半島に上陸した。その後、瀬戸内海沿岸を経て、渥美(あつみ)半島に達すると、東に富士山が見えたので、再び船に乗って海路東進し、田子の浦に再上陸。富士山の麓に王朝を築いた。


 一方、先に蓬萊国(ほうらいこく:日本)を目指していた第五皇子・農立氏(のちの国常立尊”くにとこたちのみこと”=イナンナ)は、天山(テンシャン)山脈を出た後、南に向かいインドから南岸沿いに東進、海人と交流しながら船で島々を這うようにして海路沖縄にたどり着いた。そこから船で日本列島に渡り、瀬戸内海の淡路島にとどまり、蓬莱山(ほうらいさん:富士山)の所在を求めていた。そこへ父皇(エンキ)と弟たちが自分の後を追って日本列島へ渡ってきたことを知り、富士山の麓で弟と再会した。
 兄弟はともに協力して新しい国作りを誓い合った。そして最初に天降った兄の農立氏(イナンナ)は国常立尊(くにとこたちのみこと=イナンナ)と名前を改め、「高天ヶ原の世」の第一代神皇に即位するとともに、「東西分治の制」を定めて西を統治することにした。日本の本来の最高神はスサノオことイナンナである。弟の農佐氏は、国狭槌尊(くにさつちのみこと)と名前を改めて第二代神皇となり、富士山麓を拠点にして「高天ヶ原」を治めた。

 最後の世界的洪水の後、最初に文明が開け、その文明を世界に広げたのが日本である。神の道とは、すなわち自然と調和して生きる術であり、自然の力を利用する術である。世界に派遣された日本の皇子たちは、自分達の都を「すがすがしい」という意味を込めてスガ、あるいはスカと名付けた。つまりスカ、スガに接頭語のアやナを付けて、アスカ(飛鳥)やナスカなどの地名になった。
 このスガという地名の由来については古事記の出雲神話にも記されている。スサノオがヤマタノオロチを退治した後、クシナダヒメとの新居の宮を造る土地を出雲の国に捜したとき、現在の島根県大原郡大東町(現在は雲南市に合併編入)須賀に気分がすがすがしくなる土地を見つけ、そこに新居の宮を造ったので須賀と呼ばれるようになったとしている。

 奈良県の明日香村には、爬虫類人の姿をしたアヌンナキの像が見られる。後のメソポタミアのシュメールでも、よく似た爬虫類の姿に変身したイナンナ像が発見されている。

 またメソポタミアで発見される像と同じような手を組んで座る像も、明日香村より見つかっている。

 明日香村には亀石が存在するが、それはアヌンナキのエンキのシンボルである。

 下記の地図のように、現在の日本にはイナンナを表した多産のシンボルとされるヴィーナス像や、無数の巨石文化が存在している。奈良県の石舞台古墳もその一つだが、これらの巨石建造物は、この富士王朝時代のアヌンナキによって作られた。

 アララト山のノアの箱船のツラン民族がツラン平原から広がっていった後、紀元前9000年~前7000年前までの間に、

1.中国大陸の全域に拡散して漢族、苗族(ミャオぞく)となり
2.日本列島にも到達して縄文文化人となり
3.タイに入って東北部のパンチェン文化人となり
4.インド西北部から西部に入ってインダス人となり
5.メソポタミアに入ってシュメール人となり、
6.中央アジア、西方アジア、西方ヨーロッパ方面に向かって各種のウラル・アルタイ系、ツラン系の民族になる。