紀元前672年

■紀元前672年

 高砂族の長・豊玉彦(とよたまひこ)は征服した国の一つ日向を都とし、一族を日向族(ひゅうがぞく)と名乗ると宣言した。豊玉彦(とよたまひこ)には娘があり、名は玉依姫(タマヨリヒメ)といい、夫のウガヤフキアエズとの間に男子4人があった。
 四人は成長して長男が日子五瀬(ひこいつせ)、二男が日子稲飯(ひこいなひ)、三男が三毛渟麻、四男が稚(わか)三毛渟麻と言った。

 その頃の支那は釐王(りおう)の世(紀元前681〜前677)となり、日本では倭の国・邪馬台国には五畿七道(ごきしちどう)の王、安日彦命(あびひこ)と長髄彦(ながすねひこ)の両王が君臨していた。
 大和と婚姻関係を結んだ日向族だったが、徐々に不穏な気配を感じさせるようになった。そこで大和のタカグラは、日向族の挙動に備え、諸国に兵の配備を命じた。
 勢力を増大した日向族は、筑紫9ヵ国の支配に満足せず、日向吾田村の高千穂(たかちほ)麓に集まり、どこを都とすれば天下統一ができるかと、日向族の王、葺合不王(ふきあえずおう)と子息4人の兄弟が老臣(ろうしん)にはかった。
 その時、「東方には美しい邪馬台国がある。邪馬台国は日本の中央に位置しており、あの国を征伐してわれらの王国に定めたらと思うがいかに!」と老臣(ろうしん)の塩土翁(シオツチノオジ)が提言した。「それは理にかなったことでわれらが常に思っていることである。今はわれらが勢力もそれが出来る域に達している」と一つにまとまった。邪馬台国と結んだ和睦(わぼく)の条件など意に介されなかった。
 日向族は、邪馬台軍によって征服され不満を持っている諸国の残党、または安日彦命(あびひこ)と長髄彦(ながすねひこ)によって追われた者たちを味方につけ、邪馬台国征服の軍に加えた。この連合軍を率いたのは豊玉姫(とよたまひめ)の末子、佐奴(さぬ:日本史書では神武天皇を称す)といい、この時の年齢は45歳であった。

■紀元前669年 

 日向軍が吉備(きび)に移ってから8年が経過した。日向軍はこの8年の間に船を造り、武具、兵糧(ひょうろう)を貯え、紀元前669年、三万の陸兵と二万の水軍を集めて軍を結集、東征(とうせい)の軍備を整えると、陸兵は破竹の勢いで征途の諸族を味方に加え、邪馬台軍の本拠、大和へと迫った。

 長髄彦(ながすねひこ)は以前、反逆した出雲と南海道の説得に向かう折り、日向族との和睦(わぼく)の条件として娘を差し出して縁戚(えんせき)関係を結んでいたが、その娘が日向軍の将・饒速日(ニギハヤヒ)の妻となり子まで得ていることから、副王の長髄彦(ながすねひこ)は平和交渉を旨(むね)としていたので、独断で和睦(わぼく)することに決め、使者を日向軍の将・饒速日(ニギハヤヒ)のもとに送った。饒速日(ニギハヤヒ)は日子五瀬と三毛渟麻に謀(たばか)り、これを2人が受け容れ、和睦がなった。しかし日向軍の総帥(そうすい)・稚三毛渟麻は、この和睦に不満だった。
 日向軍は新手三万を加え、出雲軍も加えた大軍であり、勝てる戦をなぜ続けなかったのかと饒速日(ニギハヤヒ)を責めた。
 一方の邪馬台国王・安日彦命(あびひこ)も肉親の情にほだされ、長髄彦(ながすねひこ)が独断で行った和睦に不満を持ち、大いに怒って長髄彦(ながすねひこ)を叱った。長髄彦(ながすねひこ)は安日彦命(あびひこ)より叱責を受けた疑念を晴らすため、饒速日(ニギハヤヒ)を殺害しようと呼び寄せた。
 しかし、今はわが娘との間に子まで得ていることもあって、呼び寄せたものの殺害することが出来ず、ひそかに逃した。
 この両軍の王、総帥の不満から和睦は決裂した。和睦の決裂から日向軍は策を練り、二万の巨軍で、海上より難波(大阪市中央区)の崎(みさき)にある邪馬台軍の本営を攻めようとの策を立て難波に向かった。
 この日向軍の作戦に対して邪馬台軍の将・ 長髄彦(ながすねひこ)は、邪馬台軍の水軍、淡路水軍と南海道水軍に応戦を命じた。
 内海(瀬戸内海)において激戦となったが、遂に日向軍が敗れ、多くの軍船が海に沈んだ。この海戦で、邪馬台国を侵略しようとの提案者・日向族の老臣(ろうしん)・塩土翁(シオツチノオジ)が、邪馬台軍の放った矢を受けて死んだ。
 日向族は一時、これに怖れてひるんだが、同年二月十日、秘策をもって淀川(よどがわ:大阪にある)をさかのぼり、河内国草香村(大阪府東大阪市)の地に上陸した。
 日向軍の秘策は成功、上陸できたことを喜び、さらに陸路を取り、龍田から邪馬台国・タカグラのある大和へ攻め込むことにした。
 しかしその道は狭い上に険しく、並んで行軍ができず、一人ずつの行軍では時を浪費することから、生駒山(奈良県生駒市)を通って攻め込む道に変えた。
 しかしその始終が、邪馬台軍の長髄彦(ながすねひこ)の知るところとなり、地の利を知る邪馬台軍は、日向軍が通らなければならない道、孔舎衛坂(くさえざか:奈良県の生駒山地を越える坂)というところに兵を伏せ、日向軍と出雲の連合軍を迎え討つ作戦をとった。
 それとは知らず進軍してきた日向連合軍は、邪馬台軍の待ち伏せにあって大敗し、五瀬という将が討ち死にした。よって従兵(じゅうへい)はみな散々に敗走して紀伊(和歌山県)の名草村というところまで逃れたが、その地で地将の名草戸畔(なぐさとべ)の追討(ついとう)を受けてとどまれず、さらに逃れて熊野村(和歌山県)に至り、そこより東海に逃れた。
 この大敗によって日向軍は陸攻めをあきらめて水軍のみで攻める策に変え、東の熊野水門に漕ぎ入った。
 これに応戦したのが邪馬台軍の熊野水軍と尾崎水軍だったが、この両水軍の名は勇猛さで地域に知られていた。

 海戦が始まり、日向水軍の多くの軍船が沈没、稲飯(二男)と三毛渟麻(三男)の両将も熊野灘の怒濤(どとう)に討ち沈められ、ここでも日向軍の大敗となった。
 この勝利に邪馬台国王の安日彦命(あびひこ)と副王の長髄彦(ながすねひこ)は、邪馬台国の海神と、荒吐神(アラハバキ=イナンナ)が憤怒(ふんど)し、暴風を起こされたお陰であると、ここの海辺・熊野荒坂の地に鎮座されている荒吐神(アラハバキ=イナンナ)に祭礼した。

 陸に残っていた日向軍は、熊野荒坂の津(つ:三重県中部)で迎えの船が来るのを待っていたが、いくら待っても来ないことからあきらめ、引き揚げようと残った兵を集めて陣を立て直したが、そこへ邪馬台軍の地将・丹敷戸畔(にしきとべ)の軍が攻め寄せた。
 日向軍は退いて道のない険しい場所に陣を移し、必死に応戦した。この応戦によってなかなか勝負の決着がつかず戦いが長引いた。

 この時、日向軍の陣内に悪性の疫病が発生、この疫病にかかる兵が続出した。それでも日向軍は移動せず、長期にわたって立て篭(こも)り、病の癒えるのを待った。日向軍は、兵が亡くなるとその都度遺骸(いがい)を埋葬したが、その埋葬した塚に、カラスの群れが飛来してその屍(しかばね)をついばんだ。そのいまわしい様は、まるでこの世の地獄絵図(じごくえず)を見るようだった。
 その時、日向軍の将・道巨彦(みちひこ)は策を考え、陣内の兵全員に、武器を捨てて裸になるよう命じ、全員が裸になって邪馬台軍に降伏するように見せかけ、カラスの鳴いている荒坂より菟田(うた:奈良県宇陀市榛原)の下県(しもつあがた)に下り、その地の地将・兄猾(エウカシ)、弟猾(オトウカシ)を討ち取ってしまった。
 兄猾(エウカシ)、弟猾(オトウカシ)の将は、日向軍をあわれに思って救ったのが仇(あだ)となり、命を落とす羽目になった。
 このようにして日向族の作戦は成功し、菟田(うた:奈良県宇陀市榛原)の里を掌中(しょうちゅう)にした。これがもととなって日向軍の武運が開け、数多(あまた)の捕虜を得たことから地の利をさとり、国見が丘では邪馬台軍の八十梟(やそたける)を破り、三輪山(みわやま:奈良県桜井市)では兄磯城(エシキ)を討ち取り、続いて高座山(たかざす)にある邪馬台国の本拠、タカミクラを攻める作戦を立てた。
 この時の日向軍の兵の総数は、味方となった出雲軍を加えて六万に達していた。日向軍の将・饒速日(ニギハヤヒ)は、妻が邪馬台国副王の媛(ひめ)であることから、邪馬台国本拠の地利についてわずかながら知っていた。
 そこで日子五瀬(長男)と計画し、邪馬台国本拠を攻め寄せた。これに応戦する邪馬台軍の指揮は副王の長髄彦(ながすねひこ)が執(と)っていた。その指揮下の軍は強く、激戦となった。
 しかし日が経つにつれ、日向軍の形勢が不利となった。この合戦において日向軍の日子五瀬(長男)が、馬を移動させようとした時、邪馬台軍の放った流れ矢を受け、瀕死(ひんし)の重傷を負った。
 これを見た饒速日(ニギハヤヒ)は日子五瀬(長男)を助けて軍を退いた。日子五瀬(長男)が重傷を負ったことによって、日向族は「われらは太陽の神を崇拝する一族であるのに、その太陽に向かって矢を射るような戦をしては戦利はない。故に太陽を背にして戦える地を選び、そこより邪馬台国を討つべきだ」と、五月二十日、日向軍は、迂回して南の和泉国(大阪府和泉市"いずみし")、茅渟山(ちぬやま)の水門に到着した。

 この海辺で手を洗ったことから、この地を血沼(ちぬ)の海と呼ぶようになった。この地で日向軍の日子五瀬(長男)は、負った傷と過労のため七転八倒、「ああ悲しいかな、このような矢傷を受けながら、その恨みも晴らさず死ななければならないのか」と雄叫びをあげて亡くなった。
 そのことからこの水門を雄の水門と名づけ、遺骸は紀伊国のかめ山に埋葬された。これで日向軍の皇子四人のうち三人が亡くなり、残ったのは末子の稚三毛渟麻ただ一人となった。
 
 この敗戦に稚三毛渟麻(四男)は、兄三人を討たれたことを怒り、将の饒速日(ニギハヤヒ)を呼び寄せ責めた。
 饒速日(ニギハヤヒ)は、妻子が邪馬台国副王・長髄彦(ながすねひこ)と血縁関係にあり、そのことで攻撃に手心を加えているのではと思われるのを嫌い、「義父(ぎふ)は自分が必ず討つ、他の者は決して手出しをするな」と宣言して軍を立て直し、邪馬台国本拠を日中は正攻法で、夜は夜で夜襲(やしゅう)を繰り返したが、長髄彦(ながすねひこ)が指揮する軍の護りはかたく、勝負は決せず戦は長引いた。