フェニキアの文化

フェニキアの文化-------------------------------------------------------------------------------------------

 エジプトの外交文書であるアマルナ文書に依ると、テュロス、シドン、ベイルートといったフェニキア南部の都市はいずれも王家や議会、商船団を持ち、発達していた。フェニキア人は海のエンジニアとして古代から評判が高く、商業都市はすべて港が中心だった。

 そして、フェニキア人の軍隊と言えば海軍で、その軍船は速さと俊敏さで抜きん出ていた。フェニキア人はかなり南まで航海しており、エジプト王ネコ(BC610-BC595)の命によるアフリカ周航に成功していた。当然、地中海沿岸地域はフェニキアの植民地とも言える状態で、リビア系フェニキア人(昔のカルタゴ=現在のリビアの土地を植民地支配したフェニキア人)をポエニ人と言い、ポエニの産業は造船、兵器、漁業である。これには、“海の民”が大いに関係している。
 BC13世紀からBC12世紀に掛けて、“海の民”と称される外国人の侵入があった。しかし、海岸沿いのどの都市についても、大きな破壊や崩壊の跡は示されていない。また、キュプロスと同様、アシュケロンからアッコに至るパレスチナ沿岸諸都市も、“海の民”の侵入の跡、BC12世紀後半に急速に発展している。キュプロス島の“キュプロス”とは、古代ギリシャ語で“銅”という意味である。

 エジプトが古くからビュブロスに関心を持っていたのは、レヴァントの木材(レバノン杉)が欲しかったからである。フェニキアは何よりも杉の取引を大事にしてきた。ヘブライの民が登場した時代、テュロスの神殿はソロモン王の興味をかきたて、フェニキアのエンジニアに目を付けた。旧約(列王記)では、フェニキア人は青銅で祭具を製作することや建物内部の装飾など、特定の仕事を請け負っている。ソロモンがフェニキア人に頼んだ2本の青銅の柱、ヤキンとボアズは、ヒラム王がテュロスのバアル・シャメム神殿に建てた記念碑的な一対が手本だった。

 ソロモンの神殿建設は、テュロスと新興のイスラエル連合王国との通商協定の産物だった。ソロモンはテュロスに木材と専門技術(大工仕事、石積み、青銅工芸など)の提供を頼み、その見返りに、毎年かなりの量の小麦とオリーブオイルを提供し、更に銀で支払いを補った。つまり、イスラエルはテュロスの商業経験と技術的ノウハウの恩恵を受けた。
 そして、テュロスとイスラエルの関係は王家同士の婚姻によって更新され、強化された。分裂後のイスラエル王国の新しい首都はサマリアだった。なお、そのイスラエル連合には、フェニキア南部の後背地、テュロスやシドンなどの境界線まで含まれていた。
 他にも、フェニキアから様々な国に渡った“渡りの職人”が古代社会に重要な役割を果たした。豪華な象牙細工は、フェニキアのお家芸とも言える特産品で、職人は同業組合ギルドのメンバーだった。フェニキアの金細工師の技術と名声は、旧約の中では不動のものだった。

 フェニキアの特徴として、装飾された金属鉢などの中央には必ず円形の部分、メダリオンがあり、ロゼッタか物語の一場面が描かれている。他にもフェニキアの特産品があり、アクキ貝という貝から抽出される紫の色素(テュリアンブルー、テュロス紫)、ガラスなどである。


 フェニキア人の航海術は凄かった。地中海やアフリカ周辺だけではなくアメリカ大陸など、世界中に広がっていた。そして日本へはエフライム族の大王がフェニキアの大船団と共に渡来した。
 フェニキアの特産品のガラスは、イタリアのヴェネチアに渡ってヴェネチアン・グラスとして門外不出の技とされた。フェニキアから渡っていたことに因んで、ヴェネチアなのである。その証拠に、ヴェネチアにはフェニーチェ劇場があり、これはフェニックス=フェニキアを意味する。ヴェニスの商人というのは、フェニキアが最大の商業国だったことに由来する。

 そして、イタリア人はパスタやピッツァの粉モノが好きで、会話好きで黙っていられない。人生楽しく陽気に生きることや、フェニキアは商業が盛んだったという点は大阪人に似ている。つまりイタリア人と大阪人は、祖先がフェニキア人であり、よって、大阪は商人の町になった。その決定的な証拠が大阪の住吉大社である。海神を祀り、本殿が西を向いてるのは、故郷のフェニキアが西にあるからである。


 また、ソロモンの神殿が、材料的にも人材的にもフェニキア人に依るものだが、日本の職人技の凄さも、フェニキアのエンジニアに由来するのである。そういった技術の根本は当然シュメールであり、フェニキアの金細工技術の凄さは、シュメールの影響を大きく受けている証拠である。