天皇(現人神"あらひとがみ")の始まりと歴史

天皇(現人神"あらひとがみ")の始まりと歴史-----------------------------------------------------------

 紀元前2760年頃、第1のメソポタミア地域で、1人の指導者の下に国々を統一しようとアヌンナキは決め、武闘派の王を望んだ。マルドゥクと敵対するイナンナは、旅行中に出会い愛した1人の強い男をエンリルに推薦した。4つの駐屯地の司令官を父に持ち、高僧を母に持つサルゴン1世(アルバカド)であった。

 彼はノア(ジウスドラ)の子孫であり、エンリルは彼に王冠と笏(しゃく)を与え、シャルル・キン(サルゴン)、“高潔な摂政”として指名した。そして、新しい王権都市が樹立され、アガデ、“統一された都市”と名付けられた。つまりこれが、地球司令官エンリルから地球統治を任された半神半人で、始めの天皇である。
 サルゴン1世はセムの息子の1人である。マルドゥクは地球人の軍隊を組織して野望を果たそうとしたが、イナンナに選ばれた武闘派の王サルゴン1世は、マルドゥク軍と戦うために選ばれた。

 そのサルゴン1世の後継者たちのシュメールとアッカドの王たちの時代には、“聖なる結婚”の儀式とは別に、イナンナは王たちと一緒に新年の祝いの儀式(新年祭)も行うようになった。

 最初の頃は神々だけが集い、アヌンナキの地球滞在記などが生々しく語り継がれており、“ア・キ・チ(地球の生命の創成)”と言われた。王権導入の後、イナンナは王たちをギグヌ(夜の愉しみの家)に招待し、彼女の“性のパートナーの死”を再現し始めた。死ねば、王は交代させられた。これは祭事全体の流れの中に取り込まれた。そのため、王たちはイナンナと一夜を過ごしても、何とかして死なずに済む方法を見つけ出さねばならなかった。そして、これは王の運命だけではなく、来るべき年が豊作となるか、凶作となるのかを占う神事でもあった。
 そして新年祭の9日目の夜が迫ると、王は体を洗い清め、香水を付けられ、ギパールの館に導かれる。やがて朝になり、イナンナとの夜のセックスを生き抜いたことをすべての民に知らせるために、王はその姿を民の前に現す。こうして“聖なる結婚”の儀式が終わり、王は次の1年間の統治を許され、その地と領民は繁栄の時を約束された。
 この“ア・キ・チ”は、現つ神(あきつかみ:現人神"あらひとがみ")の語源である。つまり、イナンナに招待された王を意味し、神に選ばれし王、ということである。こうしてサルゴン1世から始まった地球の王である天皇は何世代も続いてきた。
 イナンナと天皇の関係は密接であり、こういった流れもあってイナンナのシンボルである十六花弁ロゼッタが、皇室の紋章となる。


 時が経ち、エジプトの王権は崩壊し、無秩序と混乱が蔓延していた。アガデが全滅させられた後、メソポタミアでも王権はアヌンナキの都市と人間の都市を転々とした。そしてエンリルは夢でのガルズからの提言もあり、サルゴン1世の孫イブルの子孫で、ニブル・キで6代続く神官ティルフ(テラ)とその子供たちに目を付けた。特に、ティルフ(テラ)の一番上の息子イブル・ウム(アブラハム)に。


 イブル・ウム(アブラハム)は勇敢で、聖職者の秘密に精通した王子に相応しい子孫だった。エンリルは宇宙船の昇り降りができるように、神聖な場所である第4の地域のシナイ半島の“二輪戦車の場所(宇宙船基地)”を守りに行くようイブル・ウム(アブラハム)に命じた。こうして旧約聖書に出てくるアブラハム(サルゴン1世の子孫)が天皇となった。

 そしてアブラハムの子孫のイサク、ヤコブが天皇として続き、ヤコブの子らがイスラエル12支族となり、イスラエルから東アジアへやってきて、その一団の一つエフライム族が当初、日本の天皇となる。その後、中国地方で秦氏ともなったガド族が現在の天皇へと繋がっていく。天皇とはエンリルに代わって地球の政治を執り行う立場のことである。

 エンリルから地球の王(天皇)として任命されたサルゴン1世は、王権の象徴として王冠と笏(しゃく)を授与されたが、その伝統は現在も続いている。次の画像は人物は違うが、ゾロアスター教の最高神アフラマズダー(エンリル)から王権の象徴(王冠と笏)を授受されるサーサーン朝ペルシア帝国の初代君主アルダシール1世のレリーフである。

 そして天皇が皇位を継承したことを内外に示す即位の礼(そくいのれい)でも、その王冠と笏(しゃく)を見る事ができる。

 アフラマズダ(エンリル)が手渡している王冠の後ろ側から長く伸びた纓(えい)は、二枚である。冠は時代とともに形状が変化している。纓(えい)は平安時代には単なる飾りになったが、古い頭巾(ずきん)時代の紐(ひも)で絞った名残で、纓(えい)は後々まで二枚で作られている。平安時代までの纓(えい)は、左右の肩に垂れ下げるなど二枚だったが、剛装束(こわしょうぞく)となった平安末期からは、二枚を留めて一枚のようにして用いるようになった。しかし現在でも二枚を張り合わせた形式である。


 笏(しゃく)は中国で、前漢の時代に著された「淮南子(えなんじ)」に、「周の武王の時代、殺伐とした気風を改めるため武王が臣下の帯剣(たいけん)を廃し、その代わりに笏(しゃく)を持たしめた」とあるのが笏の起源と云われている。笏を使用する事が日本の制度して公式に明文化されたのは、文武(もんむ)天皇(在位697年-707年)の時代に成立した大宝令(701年)からで、公式にはこの大宝令が日本での笏の起源となる。

 笏(しゃく)はイスラエルから中国と渡り、そして東アジア各国の歴代王朝にも広がっていくので、中国、朝鮮、ベトナムの皇帝や日本の将軍や神職も持っていた。