線香と人間司祭の崇敬

線香と人間司祭の崇敬-------------------------------------------------------------------------------------

 ミサや他の儀式の間、祭壇の周りで香が焚かれる。何世紀も前から東洋のヒンズー教でも線香が焚かれてきた。しかし、カトリック教で最も奇妙なのは、人間司祭の崇敬である。「司祭の威厳と務め」という本の中に、聖アルフォンス・リグオーリが、司祭の教理的見解と立場を述べている所がある。

「神は司祭の言葉に従って、彼らが呼べばどこの祭壇にでも降りてくる。そしてその後は、彼らが敵であろうと彼らの意のままになる。場所から場所へ好きなだけ、神を動かせる。望むならば、神殿の中に閉じ込めておくことも、祭壇上に晒(さら)しておくことも、教会の外に持ち出すこともできる。選ぶならば、彼の肉を食べ、他の人にそれを与えることも出来る。彼らの力は何と大きいことだろう。民衆はキリストの犠牲を受ける為、祭司の下に来なければならない。司祭の権力は、すなわち、神の権力である。パンの実体変化(聖餐"せいさん"のパンとぶどう酒がキリストの肉と血に変わること)は、天地創造と同じ力を要するからである。こうして、司祭は創造主を創造する者と呼ばれるに相応しい者となるのである」。

「司祭は全ての作られた権威のうち、最上の者であり、また無限の威厳と驚くべき奇跡、偉大で広大、かつ無限、天よりも高く上げられた威厳、彼は神にのみ劣るものである」。

 この立場に於いて司祭は、古代異教の祭司らと全く同じ立場を取っている。決してキリストは、地上でこのような祭司制を起こさなかった。罪人を赦免することに於いて、司祭は聖霊の務めそのものと、魂の清めをなすその務めの故、人々は清めか許しを司祭から受けられると感じて、俗人の下に罪を告白しに集まっているのは、最も悲しむべきことのひとつである。イノセント3世はこう書いた。「彼らの務めの高貴さを見ると、司祭達は、まさしく神々である」と。

 祭司が神の礼拝の為に選ばれたように、古代の寺院では、女たちがベスタの処女、あるいは女祭司として選別された。今日、女祭司の形を引き継いでいるのが、修道女である。開かれた修道院の尼僧たちは、多くの素晴らしい働きをしているように見える。ところが、閉じられた修道院では、彼女たちは司祭らにこき使われている。そこで彼女らは苦労を強いられ、そこで死んで逝く。彼女たちは二度と再び、家族や友人たちに会うことが出来ない。