北イスラエル王国と南ユダ王国の本当の関係

北イスラエル王国と南ユダ王国の本当の関係----------------------------------------------------------

 ヘブライの有名なダビデ王に関わる物は、実は何一つ発見されていない。旧約自体、後代の加筆や編集の跡が多く見られ、場合によっては一節毎に、いつの時代にどんな人たちが書いたのかを考えながら読む必要があり、さもなくば、話が重複したり矛盾したりして、理解できない。
 例えば、歴代誌にあるアダムからダビデに至る系図などは、ずっと後代に書かれたもので、すこぶる人為的なものである。ダビデはサムエル記にも“ベツレヘム(パンの家、の意)の人の息子”としか書かれておらず、ユダ族出身、などという根拠は何も無い。サムエル記には、ペリシテの武将たちがダビデとその兵を“このイブリーたち”と呼んでいる。イブリーとは、元来“ロバによる隊商の長”という説があり、奴隷の場合もあり、傭兵の場合もあり、ハビルと大変類似している。
 彼らの特徴は、公道上の略奪は名誉ある武勇談であり、戦いの旗色を見て、都合の良い者に味方した。ダビデはペリシテに属しながら、南部の遊牧民族を襲って略奪を行い、私有財産を増やした。そして、その一部をユダ部族(南のユダ王国)の長老たちに贈り、友好関係を結んだ。

 (北)イスラエルの諸部族は元々南部の諸部族(ユダ王国)と対立していたが、サウルの死後、ユダ部族はヘブロンに居たダビデを王とし、ダビデは南部ばかりではなく北部まで手中にした。そして、王都をヘブロンからシオンへ移動し、ダビデはユダの家の王とイスラエルの王とを兼ねることになった。

 ダビデの特異性は即位にも現れている。サウルの即位は、神の人サムエルが神のお告げに基づいてサウルに油を注いで聖別した。しかし、その後のダビデの即位には聖職者は関わらず、ユダの人々もしくはイスラエルの長老たちが聖別した。その子のソロモンになると、ダビデ自らが即位を命じた。
 また、ダビデは契約の箱をダビデの町に戻す際、エフォド(エポデ)を身に着けていたが、これは本来、神官が神のお告げを伺う時に用いた祭具であり、俗人が用いることは許されなかった。このように、ダビデは自ら神官の役目まで行い、宗教的権威まで手中にした。

 忘れてならないのは、エルサレムの神殿も王宮も、すべてはフェニキアの都市テュロス(ヘブライ語ではツォル)の王の援助が無ければできなかった、ということである。ダビデと同様に、モーゼは旧約の中ではっきりとした人物像として描かれているが、歴史学的・考古学的証拠は無い。史料というものは、そこに“書かれてある時代”よりも、“書かれた時代”そのものを反映している。例えば過越(すぎこし)の祭りの記事は、バビロニアから帰還した捕囚の民が記したものであり、バビロンの新年祭を思い起こし、それとモーゼのエジプト脱出に因んだ過越の祭りを結び付けたものである。

 つまりダビデが盗賊の首領で、ユダ族とは何の関係も無かった。ダビデとその兵は、先ほども出てきたハビルだった。ダビデはその棟梁ということだった。しかし、当時は悪い意味ではなく、英雄視されていた。よって様々な部族を束ねることができた。むしろ、それほどの統率力が無いと、様々な部族が乱立するあの地域を治めることはできなかった。シュメール語でサ・ガズ(破壊者、虐殺者、暴民などの意)などと呼ばれていたのは、ある部族から見た敵対意識やジェラシーの裏返しである。
 20世紀後半から21世紀初頭まで、中東から北アフリカにはいわゆる独裁者と決めつけられた人物たちがいたが、あのような強い人物がいなければ、あの地域は治まらないのである。その敵対心やジェラシーをイルミナティが利用して扇動し、“英雄”を暗殺させた。
 ソロモンが背教したためではなく、北と南は元々仲が悪かったので、ダビデというタガが外れると、即座に分裂したのである。そして、エルサレムの神殿や王宮がフェニキア(カナン)の援助無しには建造できなかったことは、北イスラエルの方が文化的・芸術的に優れていたことを伺わせる。特に、ダビデがフェニキアの南にある“海の民”のペリシテに属していたことは注目すべきで、ダビデがユダ族とは何の関係も無いことも合わせると、いわゆる“ダビデの星”とされる六芒星はユダ族のシンボルなどではなく、むしろ、北イスラエルの方に縁がある。その北イスラエルの地はサマリア=小さなシュメールなので、六芒星の根源は太陽神ウツのシンボル以外にあり得ない。
 一般的な歴史解釈では、アッシリアに捕囚された北イスラエルの人々を、南ユダ王国の人たちがサマリア人と呼んで、異端者扱いするようになった。アッシリアは、メソポタミア北部を占める地域で、北部にはミタンニやヒッタイトが控えていた。しかし、勢力を増したアッシリアが北イスラエル王国を滅ぼした時、占領地政策として支配階級の移動を行った。アッシリア領の各地からサマリア地方に来た人たちは、土地と地位を与えられ、上流階層として相当の権力を有した。また、それぞれの故郷の宗教も認められたので、サマリア地方は民族的にも文化的にも異国化した。これはある意味、大変意義深いことで、この当時、既に“宗教の自由”が認められていたわけである。

 アッシリアが滅んで新バビロニア王国となると、南ユダ王国は陥落し、ユダ地方はサマリア総督の支配下に置かれた。一般にこの時代以後、彼らは“ユダヤ人”という名称で呼ばれるようになった。ユダヤ教が成立したのは、第二神殿建造の際、エズラがエルサレムの民衆の前で律法の書を読んだ時である。律法第一主義となったものの、古い史料もあれば新しい史料もあり、そこに矛盾があり、更に口伝の掟や慣習もあるので、後のサドカイ派、パリサイ派などに繋がる分派行動が発生した。
 陥落した南ユダ王国もサマリア総督の支配下に置かれたことからすると、いわゆる“ユダヤ”の大王家は南ユダ王国のユダ族ではなく、サマリアの大王家、と言っても過言ではない。ユダ族の王とされているダビデも、実際にはユダ族とは無縁で、むしろ北イスラエルとの関係が深いことも、それを裏付ける。