日高見国(ひたかみのくに)の統治方法

■紀元前656年  

日高見国(ひたかみのくに)の統治方法-------------------------------------------------------------------

 安日彦(あびひこ)と長髄彦(ながすねひこ)はまず高倉王とワケグラ王の地位をつくって王を即位させ、その下にベグラオサ、すなわち民の長を決め、故地(こち)邪馬台国統治時代の五王制を復活させた。
 五王制とは奥州を五つに分けてそれぞれ王を配し、中央の司、西の司、北の司、南の司、東の司でもって、その国を太平にする国法で、安日彦(あびひこ)が中央に君臨し、西に長髄彦(ながすねひこ)、北に耶馬止志利、東に卒止志利、南に亜舎流部(あやるべ)等の王を配し、それぞれの王に道を開いて村を造り、農業を営ませる役務(えきむ)を与え、その総所は北上川の流域平泉に置いた。
 その要所は、菊多ー白河ー沼垂ー多賀ー玉野ー出羽ー桃生ー玉造ー雄勝ー河北ー厨川ー閉伊ー須賀ー糠部ー比内ー檜山ー能志呂ー都母ー安東ー有澗等で、その大司所を東日流(つがる)に置いた。
 しかし東日流(つがる)にはまだこの治政に伏しない少数民族も残っており、さらにその北方には大国があったので、タカグラの配所カムイ丘を北国のタカグラとして長髄彦(ながすねひこ)を配し、南のタカグラを日高見(ひたかみ)に築き、安日彦(あびひこ)が自ら王となって北方に備えた。
 国の制度づくりを終えた南北の荒吐王安日彦(あびひこ)と長髄彦(ながすねひこ)は、自ら先頭に立って軍を率い、東日流(つがる)を進発、兵馬を進めてニサッテイ、ニイ、カズノ、ヌタリ、ミツシマ、シラカワ、トヨタに侵領したが、この軍の進むところ敵なしで、奥州で伏しない少数民族を含めて征討(せいとう)に要した期間は、わずか三年にすぎなかった。