大和朝廷

大和朝廷------------------------------------------------------------------------------------------------------

 秦氏への王権委譲によって、新たな統一王国が建国された。大和朝廷である。祭祀の中心はイエスへと変えられたが、それ以前の祭祀を無くすことはしなかった。無くしてしまえば、いつ宗教戦争が勃発してもおかしくなく、結局、イエスと共にシュメールの神々も降臨した以上、無くすことはできなかったのである。
 そのため、以前の祭祀の上に新たな祭祀を重ねるというカバラ的手法が採られた。すなわち、シュメールの神々信仰の上にユダヤ教、その上に原始キリスト教という祭祀構造である。
 そのために、三輪山が新たな神山と決められた。卑弥呼の邪馬台国の都介野岳(つげのだけ)での祭祀を、大邪馬台国が引き継いで新たな神山を泊瀬山(はつせやま)としたように、この両方の祭祀を、三輪山を神山として引き継いだ。都介野岳(つげのだけ)も泊瀬山(はつせやま)も人工の山だが、新たに三輪山も造成したのである。そして、奈良県橿原市白橿町の益田岩船(ますだのいわふね)を起点、日葉酢姫(ヒバスヒメ)陵を終点として盆地全体に陰陽の仕掛けを施し、時が満ちれば邪馬台国や大邪馬台国の真相を紐解くことができるようにされた。これは、後の平城京遷都まで考慮された仕掛けだった。岩船は磐座と同義で、大地の神を表す。

 都介野岳も泊瀬山も、そして三輪山も人工の山だったが、卑弥呼の邪馬台国の都介野岳(つげのだけ)を影向する斎槻岳と、トヨの大邪馬台国の泊瀬山(はつせやま)を影向する巻向山(まきむくやま)は最初からあった自然の山だった。それを基準に、都介野岳、泊瀬山、三輪山を造った。巻向山と三輪山(と耳成山)の山頂が見事に直線上に並ぶのは、自然ではあり得ない。
 そして、三輪山の西から見て、春分・秋分や夏至、冬至の日の出の方向に、都介野岳や泊瀬山のような見えない隠国(こもりく)の神山が無いのは、三輪山信仰は都介野岳や泊瀬山信仰の氏族とは異なる氏族=秦氏のものである、という暗示なのである。

 仕掛けについては、すべてを説明するのは大変だが、要点だけ掻い摘むと、まずは位置決め。最も重要な都介野岳を通る完全な東西ラインを中心軸とする。このラインよりも南側が陽、北側が陰という陰陽の祭祀構造となる。神器で言えば、陽は鏡、陰は剣と勾玉である。南北ラインとしては、後の平城京の神山となる春日御蓋山(かすがみかさやま:三笠山)を通り、三輪山の麓がその南北ライン(B線)になるように三輪山の東西の位置は決める。そして、泊瀬山を通る南北ライン(A線)との幅(A線-B線間距離)とほぼ同等の幅でもう1つの南北ライン(C線)を決める。

 次に、東西ラインに対して泊瀬山と点対称の位置を長谷とし、長谷と都介野岳を結んだラインを直角に折り曲げてC線と交差した点が益田岩船となる。岩船は磐座と同義で、大地の神を表す。その岩船の上部には2つの穴があり、かつてはそこに天神が降臨する依り代である神籬(ひもろぎ)が立てられており、天地の陰陽合一を表す祭祀施設だった。その名残が、大和地方の農家で旧暦4月8日に行われていたテントバナ(天道花)というお祭りで、2本の高い棹(さお)を立てて天からの穀霊を迎え、山から神を迎えた。この日は、大兵主神社(だいひょうずじんじゃ)の例祭日でもある。

 また、同様に泊瀬山と都介野岳を結んだラインを直角に折り曲げてC線と交差した点が日葉酢姫陵(ひばすひめのみことりょう:佐紀陵山古墳)で、益田岩船と点対称の位置にある。日葉酢姫(ひばすひめ)は卑弥呼が投影された海部(あまべ)氏の巫女(みこ)であることを暗示しており、“氷羽州比売(ひばすひめ)”とも書くが、これは日輪の霊と海の霊を併せ持つ大変な意味を持った巫女王という意味である。
 その陵には他の古墳には見られない特徴がある。殉死を廃止して形象埴輪を陵に立てるようになった最初の陵である。

 その埴輪の中に蓋(きぬがさ)形のものが中央に1個、その東側と西側に各々4個、計9個が置かれていて、それぞれが高さ約1.5メートル、幅約2メートルという巨大なものである。蓋は“オオガサ”と言い、朝儀や祭会の時に貴人の頭上を高く覆う笠(かさ)、天蓋のことで、これを“キヌガサ”と読むのは、表と裏を絹で覆うからである。
 このような笠(かさ)は天と地を象徴する大きな笠なので、日葉酢姫陵(ひばすひめのみことりょう)は天と地の合一を象徴するものである。9個の“9”は最大の陽数で太陽神を象徴し、八角形の“8”は横向きにすると“∞”で“不老不死”を象徴するので、天を象徴する蓋がほぼ八角形に配置されていることは、太陽神の不老不死を暗示する。

 あるいは、ウツとイナンナでも良い。そうすると、その南端の岩船は大地の神が出現する磐座で、天神の依り代である神籬(ひもろぎ)を立てたとされるので、万物の生成発展を象徴化したものとして、日葉酢姫陵(ひばすひめりょう)と対応する。
 これが奈良盆地に展開する様々な古墳群や神社群の要となっている。そして、後には神籬(ひもろぎ)として「生命の樹」をシンボル化した十一面観音が天のラインであるA線に集中して置かれ、それは天神の依り代を象徴しているからに他ならない。まさに、奈良盆地に展開された巨大な地上絵である。
 このような基本構造だが、これでは三輪山が都介野岳(つげのだけ)や泊瀬山(はせやま)と関わっていない。そこで重要なのは、天照国照尊(あまてるくにてるのみこと)の分身としての鏡を祀り、草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を奉じて太陽神を祀っていたことを暗示している正一位という最高社格の八尾鏡作(やおかがみつくり)神社である。八尾鏡作(やおかがみつくり)神社の位置は重要で、仁徳・応神天皇陵などとも深い関わりを持っているが、ここは泊瀬山と斎槻岳を結んだライン上にある。

 ここから三輪山を望むと立春の日の出を拝め、二上山を望むと立春・立冬の落日を拝むことができ、かつ、雨乞いの竜王山はほぼ真東に位置する特異的な位置にある。
 泊瀬山と斎槻岳を結んだライン上で、三輪山を望むと立春の日の出を拝める場所として選ばれたのが八尾鏡作神社なのである。そして、八尾鏡作神社から泊瀬山-斎槻岳-八尾鏡作神社のラインを90度曲げ、三輪山から真西に伸ばしたラインとの交点を多(おお)神社とした。この多神社は、八尾鏡作神社に直結しているライン上にあるから、御神体としては鏡、祭神としては太陽神の天照国照尊(あまてるくにてるのみこと)となる。

 これは山立てという手法で位置関係を決定し、そのライン上の神を降ろしてくるというものである。山立てとは、海上の船から陸地に重なって見える2つの山頂(あるいは目印となるような木や構築物)などを適宜(てきぎ)選択し、これを真っ直ぐに見通すと、海上に1本のラインを設定したことになる。
 次に、このライン上の船から別の目標を定め、このラインとその目標との角度を記憶しておけば、いつでもその場所に船を進めることができる。これを山立てと言う。
 このようにして、近海の漁師たちは豊富な魚場を発見した時、山を立てて位置を記憶し、それが航海にも応用され、航海長のことも“山立て”と呼んだ。古墳群や神社群の配置は、この手法で行われている。その主な目的は、山の神をヤマトの平野に降ろすということである。つまり、古墳や神社の造営者は、海人族ということである。


 その多神社は(1つ上の地図では)C線からわずかにずれており、太陽神を祀るための剣が無い。そこで、C線と三輪山から真西に伸ばしたラインとの交点に姫皇子(ひめみこ)神社を置き、今度は(下の地図で)箸墓-斎槻岳-八王山のラインに着目すると、斎槻岳も八王山も雨乞いや水神に関係し、剣の象徴でもある。その八王山と姫皇子(ひめみこ)神社を結べば、姫皇子神社は八王山に直結しているライン上にあることになるので、御神体としては剣、祭神としては天照国照尊(あまてるくにてるのみこと)の陰の側面、豊受大神(天照大日孁尊之分身と表現)となり、神社名も“姫”を冠して陰であることを象徴している。
 そして、これら一直線に並ぶ2つの神社、多神社と姫皇子神社から真東に三輪山を遥拝すると、三輪山に太陽神を迎え、剣を奉じて祀る形態が完成する。三輪山は、このようにかなり間接的にしか泊瀬山と関連していないので、卑弥呼の邪馬台国、トヨの大邪馬台国とは血統的に異なる王統であることを暗示している。複雑な仕掛けである。

 多神社は正式には多坐弥志理都比古(おおにいますしりつひこ)神社で、延喜式(えんぎしき)では名神大社(みょうじんたいしゃ)という最高の社格であって、弥生前期以来の遺跡の中心にある最古級の社である。この志理都比古(しりつひこ)とはシリツヒコノミコトで、この時代に高尾張(タカオハリベ)氏が分家し、イリネノキミが裏切った。
 この時代は、正史では景行天皇であるが、その景行天皇陵は(上の地図では)八王山-姫皇子神社のライン上に位置し、泊瀬山-斎槻岳-八尾鏡作神社のライン上にも位置しているが、これは三輪山と泊瀬山、都介野岳とを関係付けている。その印として、八王山-姫皇子神社のライン上に配置した古墳と、新たな遥拝(ようはい)の地である多坐弥志理都比古(おおにいますしりつひこ)神社がほぼ同時期に建造されたことと、その祭司の血統が徐福の系統の葛城氏=伊理泥王(いりねのみこ)の血統であることを暗示している。言い換えれば、シリツヒコノミコトに相当する天皇が景行天皇であって、この時代にイリネノキミが裏切ったことを暗示している。

 この配置に、そこまでの意味が隠されていた。更に、このラインは陰である剣を象徴するラインであると同時に、この陵の陽の部分である後円部が陽のラインである泊瀬山-鏡作神社のライン上にある。よって、景行天皇陵は陰陽・天神地祇の合一を象徴しているとても重要な陵である。秦氏にとって王権委譲の礎が成された時代の大王なので、とても重要なわけである。
 景行天皇は日葉酢姫(ひばすひめ)と垂仁天皇(すいにんてんのう) の子で、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の父とされ、妹に倭姫命(やまとひめのみこと)がいる。記紀でも、それほど重要な扱いである。そして、景行天皇陵が箸墓と泊瀬山の両方に結ばれていることにより、統一国家としての大邪馬台国に於いてトヨが祭祀を始めたことが、神宮の起源であることを暗示している。

 三輪山の神は、大物主神(おおものぬしのかみ)の子孫とされる大田田根子(おおたたねこ)に祀らせよ、という逸話があった。御神宝をめぐってイリネノキミの一族、つまり、出雲族の間で血の悲劇が起きたが、今までに、こんなことは起きなかった。よって神話で出雲系の神は、その子孫の一族が祖先の御霊を丁重にお祭りしなければならないのである。大田田根子(おおたたねこ)はその象徴的人物であって、名にも“大=多”が入っている。つまりそれが、暗示だった。

 また、(上の地図で)箸墓の後円部-泊瀬山という正確な東西ライン(太陽の道)を基準とした場合の、30度折れ曲がって泊瀬山から東殿塚古墳を経て八王子神社の東の春日社(別名・石上神社)に至るラインと、箸墓(はしはか)の前方部-桧原(ひばら)神社-泊瀬山のラインを基準とした場合の、30度折れ曲がって泊瀬山から西殿塚古墳を経て八王子神社に至るラインの角度差はわずか1 度だが、そこまで計算して配置されている。
 広大な地上図では、土地の起伏状態などを考慮すれば、1度という角度は誤差範囲である。だからこそ、わざわざ東殿塚・西殿塚両古墳を並べ、しかも、箸墓の前方部、後円部と分けて通過している点は相当意図的と言える。
 方角として象徴的に西は陰、箸墓の前方部は陰、八王子神社は陰なので、箸墓の前方部-桧原(ひばら)神社-泊瀬山-西殿塚古墳-八王子神社のラインはすべて陰の象徴となる。対して、方角として象徴的に東は陽、箸墓の後円部は陽、春日社は陽なので、箸墓の後円部-泊瀬山-東殿塚古墳-春日社のラインはすべて陽の象徴となり、それは更に春日社で90度曲げられて三笠山に達している。つまり、陰陽の区別が明確で、それぞれに展開する陰陽を、後の平城京となる所まで遷している意図が明らかなのである。
 そうなると、桧原(ひばら)神社は意図的に泊瀬山からの正確な東西線上に乗せなかった、ということになる。それは桧原(ひばら)神社が“陰”であることを暗示させるためでもある。

 桧原(ひばら)神社は陰のライン上にある。桧原(ひばら)神社は女神の天照大神とされている天照大神若御魂神(わかみたまのかみ)を祀り、太陽崇拝のはずなので陽だ、と思われている。しかし、大邪馬台国の時代には、箸墓から泊瀬山を遥拝するのはダンノダイラだったので、その手前に更に遥拝所がある必要は無いので、桧原(ひばら)神社は大和朝廷が泊瀬山から三輪山崇拝へと祭祀を変更した際に、謎を解く鍵として後から建造されたものである。
 その鍵とは、女神としての天照大神。ここで“天照大神とされている天照大神(あまてらすおおみかみ)若御魂神(わかみたまのかみ)”とは、秦氏の創作した女神の天照大神であることに注意しなければならず、そのモデルは卑弥呼。それが、“若御魂”として暗示されている。そして、秦氏の最も重要な神はイエスである。イエスは自らを“神の子”ではなく“人の子”と言っているので、神を天神と見なせば陽で、それに対して人は地で生まれるからイエスは陰となる。また、シンボルの十字架もカバラでは陰である。つまり、桧原(ひばら)神社は、初めて卑弥呼とイエスを重ねて祀った場所なのである。よって、元伊勢と言われるのである。

 そして、この時から正式に天神と地祇(ちぎ)が分祀されるようになった。それが、天照大神と倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)を宮中の外に移し、両大神を分祀した、という話に創り替えられた。ただし、この神社の場所が“笠縫宮”ではなく“笠縫邑(かさぬいむら)”となっているのは、完全な祭祀が行われたのではないことを暗示している。秦氏にとって元伊勢(内宮)が“宮”となっていないことは、イエスの御神体(十字架)が無かったからである。この時点では、まだ十字架は最初の到着地点である海部(あまべ)一族(エフライム族)のお社にあった。
 分祀(ぶんし)したとなると、三輪山の神は地祇(ちぎ)の大物主神(おおものぬし)で出雲族が祀り、秦氏は天神・天照大神を祀り始めたわけではない。本来の天神を祀ることができる一族は海部(あまべ)一族(エフライム族)に限られた。秦氏の祀るイエスは陰なので、天神に対する地祇(ちぎ)である。それを端的に表しているのが内宮の千木(ちぎ・鰹木"かつおぎ")で、あの内削(うちそ)ぎは地祇(ちぎ)を暗示する。そして対する外削(そとそ)ぎの外宮は天神である。だからこそ、外宮先祭とされ、太陽神祭祀の中心地は伊勢へと移動させられた。

 古代に於ける神祭りは、特定の血統の者にしか許されないので、卑弥呼亡き後に大混乱が生じたことからも明らかなように、祭神を変えたりすることは容易ではなかった。よって、以前の祭祀を踏襲(とうしゅう)しつつ、見かけは新たな祭祀へと変えていったわけである。
  つまり一見、太陽神の天照大神祭祀は秦氏が始めたように見えても、実は、秦氏は太陽神を祀れなかったということである。よって、ヤマトの地から伊勢の地に祀る場所を変え、太陽神の祭祀は海部(あまべ)一族(エフライム族)の中の度会氏(わたらいうじ)が引き受けた。
 そして、イエスも重ねられているので、そちらの祭祀は秦氏が受け持った。後に、神宮の祭司が度会氏(わたらいうじ)から秦氏の荒木田氏(あらきだうじ)へ変えられたのは、祭祀の中心を本来の太陽神から“彼らの太陽神”イエスへと変えるためだった。これは重み付けの違い、という点でだけである。
 イエスは地祇(ちぎ)なので、いくら人類の贖罪(しょくざい)を背負って十字架に掛けられて人類に対する光になったとは言え、完全な太陽神には成り得ない。よって、蛇神の要素を持って来た。光り輝く蛇神で太陽神的なのはケツァルコアトルことニンギシュジッダである。このような地上絵を仕掛けることのできる知恵の神も彼以外にいない。

 大神(おおみわ)神社もそうだが、桧原(ひばら)神社も三ツ鳥居で有名である。大神神社(おおみわ)拝殿奥の三ツ鳥居は、桧原(ひばら)神社の三ツ鳥居を暗示している。

 この三ツ鳥居を、(下の図の)三輪山の真南に位置する春日神社の位置に置くと、三輪山山頂は春分・秋分の、斎槻岳(大兵主神社)は夏至の、玉列(たまつら)神社は冬至の日の出を拝することができる。三輪山山頂を中心として、兵主(ひょうず)神社と玉列(たまつら)神社、春日神社と秉田(ひきた)神社は綺麗な菱形を形成する。
 兵主(ひょうず)神社は鏡を祀り、玉列(たまつら)神社は玉を祀り、三輪山の神は蛇神で剣に関係するので、三種の神器が揃う。また、春日神社付近はかつては岩田村と言い、“岩田”は大神(おおみわ)神社の“祝田(いわいた)=斎田”に由来し、これは大嘗祭(だいじょうさい)の主基田(すきでん)に相当する。この対称の位置にある秉田(ひきた)神社は、秉(へい)は禾束(かそく:稲の束)のこと故に神に奉げる稲束を作る地の社を意味し、悠紀田(ゆきでん)に相当する。“ひきた”は“ゆきた”が転訛したものである。

 三輪山山頂は、新帝(しんてい)が天神地祇(てんじんちぎ)と一夜を過ごして現人神となる大嘗宮(だいじょうきゅう)だった。よって、禁足地だった。そして、これらの配置は、次のように作図することができる。

1)斎槻岳aの南北ラインと八王子神社からの45度ラインとの交点を三輪山bとする。
2)斎槻岳の南北ラインを三輪山から南に延長する。
3)斎槻岳-三輪山の長さを半径とし、三輪山にコンパスの軸足を置いて円を描き、斎槻岳の南北ラインとの交点を玉列(たまつら)神社cとする。
4)斎槻岳a-玉列(たまつら)神社cの長さを半径とし、斎槻岳aにコンパスの軸足を置いて円を描く。
5)同様に、玉列神社c にコンパスの軸足を置いて円を描く。
6)4)と5)の2つの交点のうち、西側を春日神社d、東側を秉田(ひきた)神社eとする。

 この方法により、三輪山を囲う各神社は配置できる。すなわち、3つの円によって配置できるので“三輪”という字を充てられているのである。海部(あまべ)氏(エフライム族)、物部氏、秦氏の輪=和ということではなかったのである。
 他にも大和三山の配置などいろいろあるが、いずれも今言った配置が基本となっている。