秦氏(はたうじ)、忌部(いんべ)、漢波羅(かんぱら)

■282年頃

秦氏(はたうじ)、忌部(いんべ)、漢波羅(かんぱら)----------------------------------------------------

 忌部(いんべ)は秦氏であり、秦氏には色々な職業、家系がある。例えば、政治関係を担当する秦氏は藤原家、経済担当は三井家、武家担当には源平等がある。三井家は神宮遷宮時の費用を捻出していた。これらの家系が持つ古代からの知識は、大洪水時に神官に伝えられたカバラなどの知識がルーツにあり、縄文時代の日本からシュメールに渡り、再び日本に戻ってきたものである。

 秦氏はやがて改名して歴史から姿を消す。役割分担をはっきりさせると共に国体の護持の為に秦氏は改名した。忌部は秦氏の中でも祭祀を専門に担ってきた。忌部は秦氏の中で祭祀を職に持つ者で、忌部は秦氏と同族である。しかし忌部は物部に祖がある。物部氏の中でも祭祀を担当する祖先が、後に神武天皇と共に渡来した秦氏と婚姻を結び、秦氏としての忌部がある。秦氏系忌部は神宮、熱田、諏訪、宇佐、高良等の大社の祭祀をしている。しかし物部系忌部は出雲、伊雑(いざわ)、籠、石上、大神神社等の古社の祭祀をしている。祭祀支族の太祖に、天細女命(あまのうずめのみこと)、天児屋命(あめのこやねのみこと)、天太玉命(あめのふとだまのみこと)などがある。天細女命は猿女氏(さるめうじ)、天児屋命は中臣氏、天太玉命は忌部の太祖である。

 記紀の奥義の一つに、全ての神道祭祀が開始されたのは、天岩戸開き神話からとある。天岩戸開き神話において、祭祀の中心は天児屋命、天太玉命である。天児屋命が太祝詞言(ふとのりとごと)を奏上(そうじょう)し、天太玉命が五百津真賢木(イオツマサカキ)に鏡、勾玉(まがたま)を飾り付けた。この時の祭祀が神道祭祀の始まりである。

 天児屋命の子孫、中臣氏の「中臣」は、神と人の間という意味がある。中臣氏の中でも政治に必要な行事の亀ト(きぼく)を専門に行うものをト部氏(うらべうじ)という。現在、広く知られている神宮、宮廷祭祀を担当するのはこの中臣氏である。後に中臣氏の中で政治を担当する者は藤原と名乗った。この藤原氏の中で一般向けの祭祀を行う者は斎藤と名乗る。天太玉命の子孫である忌部は、神器を直接扱う事が赦された者である。天太玉命の太祖は高皇産霊神(タカミムスヒノカミ)であり、その娘である万幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)が生んだ子である。天太玉命には5人の配下が存在し、それぞれが天太玉命とは別に忌部の祖となった。阿波忌部(あわいんべ)の祖「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」、讃岐忌部(さぬきいんべ)の祖「手置帆負命(たおきほおひのみこと)」、紀伊忌部の祖「彦狭知命(ひこさしりのみこと)」、出雲忌部の祖「櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)」、筑紫・伊勢忌部の祖「天目一筒命(あめのまひとつのかみ)」、安房忌部(あわいんべ)の祖は「天富命(あめのとみのみこと)」である。

 賀茂氏は忌部の中でも最高の祭祀支族である。大祭司は賀茂氏であり、忌部の中の忌部である。よって、賀茂氏も秦氏である。神宮の祭祀は中臣氏であるが、それは表の儀式で、陰陽道は裏表がある。裏の祭祀で神宮の心御柱(しんのみはしら)を直接奉斎(ほうさい)するのは賀茂氏。賀茂氏の中でも天皇陛下直属の賀茂氏は、戸籍と姓名が無い。戸籍の無き賀茂氏は「漢波羅(カンパラ)」や「八咫烏(やたがらす)」と呼ぶ。表の陰陽師(おんみょうじ)を陰陽師、裏の陰陽師を漢波羅と申す。この漢波羅が神道奥義を握っている。

 賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)の祭神の、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は八咫烏の化身であり、神武東征に際し、太陽神天照大神と高木神(たかぎのかみ)の令をうけ、金鵄(きんし/金色のトビ。八咫烏とも)に化身して神武天皇を先導した。その八咫烏を祖とするのが賀茂氏、すなわち鴨氏である。

 表神道の頂点は伊勢神宮で、裏神道の頂点は賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)であり、ここは漢波羅の活動拠点となっている。