久佐男彦が三輪山(奈良県桜井市)に立君

久佐男彦が三輪山(奈良県桜井市)に立君----------------------------------------------------------------

 この当時、日本国全体を表す日の下の国は八州からなっていた。太古より日本の民は陽が昇る方向を崇拝する習わしを持っており、その方向を陽の国の東とし、陽が沈む方向を陰の国、西とした。北を日高見(ひたかみ)の国と呼んだのは、北ほど夜が明けるのが早い国ということから呼ばれたものである。
 この日の下の創国(そうこく)は、南米からカ・インの子孫が移住して来た民がそれぞれの地に分布して定住し、結集して国を造り、代々を経て強国は小国を併合して国勢を大きくし、十ヵ国から八ヵ国、或いは八ヵ国より三ヵ国にと、小国は威勢のある国に併合されていった。
 その手段は戦略、権謀、侵略、宗教による攻略などの術をもって併合する他は、小国は自らのぞんで寄らば大樹の陰と安住を求めたが、賦制(ふせい:税)に苦しみ逃げ出す者もあった。横暴な国主(こくしゅ)は、小国に復讐されて敗れたりと、様々な経過をたどり創国となった。
 創国時の日の下(もと)の国を大きく分けると、カラフト(流鬼国)、北海道(日高国)、奥州(日高見国)、関東(坂東)、北陸(越国)、山陰・山陽(出雲)、信州(信濃:しな)、近畿、四国(南海道)、九州(筑紫国)、沖縄(高砂国)、陸奥(むつ:東日流"つがる"国)の12国8州だった。この12国8州はさらに分かれ、国主150人が在位していた。


 現在の福井、富山、石川、新潟あたりを支配していた越の国は、スメル族たちがメソポタミアのシュメールに一大文明を築いたちょうど紀元前3500年頃、ヒスイ文化圏の中心、あるいは東アジアの首都として栄えていた国である。
 古代において日本海側は、大陸との交易や文化的な交流など環日本海文化の中心地、それこそ日本の表の顔であった。つまり、きわめて重要な戦略拠点となりえる地であった。その中で、古くからヒスイ文化の中心として開けていたのが越の国で、ここを統治することが最優先事項であった。

 世が移り、日本国土に住民の数が増えてくると食糧に窮(きゅう)するようになった。そうなると強い者が弱い者を制し、国が貧しくなると豊かな国を侵略するという国土の争奪、また、食を求める集団も出没したりして、民間同士が生き抜くための闘争を続けた。
 そのため国主の在位が長く続かない状態の戦が長い間続き、その攻防はひどいものであった。
 この頃の暮らしには法律というものがなく、略奪や殺傷は日常茶飯事だった。それを防ぎ護るには一人より家族、家族が集まって集落を造り、集落がまとまって国となり、民は結集、結縁して人数を増やして国の勢力を強め、侵入してくる敵より安住を護る国を造っていった。
 その国造りが出来ていたのは南から高砂族、出雲族、邪馬台族、越族、東族(坂東)、東日流の6国だった。
 この6つの族を最初に統一した国主は、安日彦命(あびひこ)と長髄彦(ながすねひこ)の祖先、近畿・邪馬台国の国主・山大日之国彦命という王で、政所(まんどころ)を邪馬台国の三輪山(みわやま)においた。

 このカ・インの子孫である山大日之国彦命はもと伊勢国の山間部に住んでいた一族の長だった。この国主は山間部の民と海辺の民を併せた強力な国造りをし、国土を南に西に北にと広げて一族の国とし、その統括した民族は87国にも及んだ。


 日の下(もと)の国の政所(まんどころ)を大和の三輪山におき、大陸との間にある海を船で往来、交易した。
 この日の下(もと)の国主の君臨する時代が長い間続いた。その間の高殿(たかどの:政治を司る庁舎)が移ったところは、北はミヤサワ、坂東のセタ、越のアサヒ、信州のワタ、伊勢のトロ、出雲のヤマタ、邪馬台のミワ、紀のナチ、備のクレ、北筑紫のオカダで、乱れのない太平の世が続いていた。