キリスト教に見る異教礼拝

キリスト教に見る異教礼拝-------------------------------------------------------------------------------

 キリスト教に見る異教礼拝教会はこのような異教の儀式を覆い隠すためには何でも行ったが、これらの儀式をあるクリスチャン聖徒たちの名にすり替えて、続けさせるのを許していた。こうして教会は異教の神々を取り入れ、それらにキリスト教徒の名を付けたのであった。今日キリスト教会に於いて、人々が目にする像の多くは、もともと異教徒たちが伏し拝み、犠牲を捧げていた異教の神々であった。

「教会の指導者たちは、初期の頃から悪の感染に抵抗し、悪魔崇拝に用いられていた器具や付属物を伝道に使用する為、キリスト教の力に託し、必要が起れば大衆の儀式や習慣を取り入れる真似をする、または是認する準備が出来ていた」
(キリスト教教義の発展372頁)。

 つまり、今日のキリスト教会の儀式はもともと異教のものであり、そのことは教会自身が認めている。

 前述の例は、より重要な太陽の祭りを挙げているだけだったが、これら異教の産物は現在でも同様の力を振っていることは明らかである。そしてキリスト教を表面に出しながら多くの場合、実際には異教の儀式を取り入れて行っている。これらの儀式が始まった起源に注意が向けられない為、これら異教の趣旨は単に見失われているだけにすぎない。この異教の浸透はあまりにも大きい為、キリスト教はミトラ教(古代ペルシャの宗教)の宗派と化してしまった。ミトラ教はローマでキリスト教が設立された当時、ローマの国教であった。明らかに日曜礼拝やミサで聖餅を食べると言ったミトラ教の名残がその頃キリスト教に取り入れられたと言える。ミトラ崇拝は占星術の一種であり、太陽神と自然の神々を拝む神秘宗教であった。
 要するに太陽礼拝は象徴的に、今日キリスト教会が祝っている大きな祭典の真髄そのものを信徒に語っているのであり、これら異教の名残は、その神聖な儀式という媒体を通して、興味深いことに、それらの霊とは完全に対立するはずの習慣や信条と非常にうまく混ざり合ってしまったのである。