火葬と生贄

火葬と生贄---------------------------------------------------------------------------------------------------

 動物の生贄(羊か子羊)は神官か執行人によってうやうやしく祭壇へと運ばれ、その後ろから生贄の提供者と祭具(斧、ナイフ)の運び人が付いて行く。生贄は血を抜かれ、切り落とされた頭部が祭壇に供えられる。生贄が焼かれる間、供犠の祈りが唱えられ、脂肪と内臓が焼き尽くされると肉が切り分けられ、執行人と提供者に分配される。執行人は胸と右の腿肉(ももにく)を取り、提供者は残りの肉と皮を取る。その後、生贄の灰が埋められ、そこに奉納の石柱が建てられる。
 BC1,000年紀のどこかの時点で、新しい埋葬法である火葬が、フェニキア本土と近隣のシリア、パレスチナを含んだレヴァント海岸に出現した。テュロスではBC10世紀には既に火葬が行われていた。

 これはユダヤ教の生贄と同じである。またヒンズー教では、魂は焼かれることによって天に登り、遺灰を近くの川に流すことで自然に還り、新しく生まれ変わることができると信じられている。この考えは、フェニックスと同じで、フェニキアもインダスも創造神はイナンナなので、基本的に同じ考えとなる。また、暑い地域では遺体はすぐに腐敗して不衛生なので、火葬のような埋葬法が出現したとも言える。フェニキアとインダスのどちらがより古い起源なのかは、現状解らない。
 いずれが起源にしても、“アシュタルテに生贄として捧げられた聖王の霊魂=鳥が火葬の炎から再生して天界へ飛翔する”という発想は、火葬が出現した後である。

 フェニキアでは死者はネクロポリスという共同墓地に葬られ、子供の生贄を埋葬したとされるトペテが存在した。特に、ポエニには悪名高い生贄の儀式があった。

 トペテの埋葬地から発掘された骨壺からは、生贄は3歳未満の幼児で、未熟児が多かった。ボロボロの灰になるまで焼かれているので、性別は不明である。明らかに未熟児や新生児が多く、大人の墓地には赤子がほとんど埋葬されていないことなどから、死産児や病気で死んだ子供という可能性もある。しかし、様々な文書や、墓自体と添えられた墓標には“バアル・ハンモンとタニト(妻)にモルクを供える”と記されていることから、この儀式は実際にあったとされている。


 子供の人身御供(ごくう)については、現在、様々な偽情報や懐疑(かいぎ)主義が氾濫(はんらん)しているが、それはイルミナティが教育や情報を完全に支配しているからである。
 しかし、この悪魔主義の慣行は、今日だけではなく、歴史的に何千年にも渡って行われてきた。末期に使用された埋葬地からは、7000個以上の骨壷が発見されている。あらゆる階層の人々が、貧富を問わず神(特にモレクとして一般に知られている神)をなだめるために自分の子供を犠牲にした。また他所の国から子供を攫(さら)ってきて供犠したと言う説もある。
 今ではイルミナティと呼ばれている当時の神秘宗教の幹部の家系は、当時の平均的な人々よりも頻繁に子供の人身供犠を行った。トペテの埋葬地は千年以上も使われ、恐らく今日もひそかに使われている。

 “モルク”とは子羊の供物を指すが、修飾語の"b'l"が人間の埋葬を意味し、ポエニ語の“願掛け”や“誓願”に相当する"ndr"という語が頻繁に見られることから、普通の墓石とは明らかに性質の異なるものであることが伺われる。
 そして、他の墓地が何度か移転しているにも関わらず、カルタゴのトペテだけは決められた場所から動かず、不可侵であることも、特別な意味を持っている。
 旧約では、預言者たちが幼児の生贄を激しく非難していることからも、実際にあったのだろう。このような生贄の儀式は、商人、神官、市の執政官など上流階級が行っていたが、ローマ帝国によって廃止されたものの、北アフリカではAD1世紀になってからも密かに継続されていた。


 トペテに奉納された石柱の中で祈りが捧げられている神はタニトである。タニトであるイナンナがそのような子供の生贄を望んでいたわけではなく、これもマルドゥクに依る乗っ取りである。最初は病気の新生児や未熟児だったが、それが次第に誤解され、幼子が供されるようになった。
 そして、後の裏の世界支配者たちの間でも、このような生贄は継続された。人間の生贄を好むのは、悪い想念によって創り出されたエネルギー体、サタンである。フェニキアは偶像崇拝ではなかったが、後に一部でこのようなことが成されたので、聖書では批判されている。