荒吐(あらばき)五王の掟

■紀元前614年  

 南王の安日彦(あびひこ)は、北王の長髄彦(ながすねひこ)が崩じたことから、南北を一王の支配に改め、タカグラをミヤサワに築いて治政の掟を修正した。
 それは貧富皆無(かいむ)制で、労働倶営、民族皆兵、牛馬飼育、毎戸配分、糧物(かてもの)配分、衣織倶労、治政衆議、刑罰衆決、国王長老選挙の八つの掟だった。

荒吐(あらばき)五王の掟------------------------------------------------------------------------------------

一、
 五王を選ぶのは、荒吐族(あらばきぞく)の長老がこれを決める。五王の座位に坐(ざ)する者は、安日彦(あびひこ)大祖の累計及び、長髄彦(ながすねひこ)大祖の直径にゆかる者を立君(りっくん)させる。

一、
 五王は領を治め、水利、田、道、橋を開く先導者であり、領民に税を課す。これは一族安住のためである。

一、
 五王は常に寄り合って、世の中の将来を見つめてことに当たり、一族に危難が及んだ時にはこれを護り、また、敵と交戦しても死をおそれぬ者がよい。五王たる者は、常に新しい業を見つけることを肝に命ずること。

一、
 五王とは人を抑えるのではなく、人を導く導師である。よって民よりこのことについて反すると長老に訴えがあった時は、罪をこうむることもある。

一、
 荒吐族(あらばきぞく)の和を乱すようなことをした者は死罪とする。

一、
 五王は◯◯◯(三字不詳)領を知って、その中央の治司及び敵の侵略に備えて、難攻不落の地を選び館を築くべし。

 この掟にもとづいて太平な世が続いていた紀元前614年、日高見国(ひたかみのくに)王の安日彦(あびひこ)が73歳を一期として崩じた。
 両王の滅後、荒吐一族(あらばきいちぞく)治領の司所を、東日流(つがる)より陸中(りくちゅう:岩手県)黒沢尻に移した。また荒吐(あらばき)五王の配所もここに属し、北司配を東日流(つがる)十三湊(とさみなと)に置き、東司配を陸前桃生(りくぜんものう)に置き、南司配を磐城白川(いわきしらかわ)に配所した。

 しかし、日向族との攻防は坂東になると考え、更に東海の勝田、魚津、糸魚川(いといがわ)、高浜磐城にポロチヤシ(大規模な城柵)を築き、ここに奥州全域(日高見国、奥州六国五十三郡、坂東八国七十二郡)を掌握し、強大な大国を造りあげた。
 押領には血を流すことなく先住民の賛従を得た。それは奥州いずれの地に行っても邪馬台国の故族だったため、荒吐(あらばき)五王制域に反対する者はいなかったからだった。
 さらに故地(こち)邪馬台国奪回の伏線(ふくせん)として南へ押領(おうりょう)し、さからう者は討ち取り、美濃(みの)の大垣、若狭(わかさ)の小浜に進んで、邪馬台族旧族の猾族、八十梟師(やそたける)族、磯城(しき)族、赤銅(あかがね)族、土蜘蛛(つちぐも)族、新城戸畔(とべ)族、祝族等を荒吐族に組入れて広げていった。
 そして邪馬台国奪回を悲願とし、軍を麁(あら)という騎馬軍と、熟(にぎ)という歩兵軍、津狩という水軍の三軍に分けて一族の軍事力を強化した。よって荒吐族(あらばきぞく)の故地、邪馬台国奪回を果たす準備は整った。

■紀元前613年  

 日高見国(ひたかみのくに)王の安日彦(あびひこ)が、老齢のため73歳で亡くなる。安日彦(あびひこ)と長髄彦(ながすねひこ)の両王の死によって邪馬台国奪回の気運は止まっていた。