ジャック・ド・モレー

■1307年頃

 当時のフランスはイギリスとの戦争によって多額の債務を抱え、テンプル騎士団が最大の債権者であった。そのためフィリップ4世は、債務の帳消しをはかってテンプル騎士団の壊滅と資産の没収(略奪)を計画した。まず手始めにフィリップは聖ヨハネ騎士団との合併をテンプル騎士団総長ジャック・ド・モレーに提案したが、これは即座に拒絶された。そこで王はどのようにテンプル騎士団の資産を没収するかを検討したが、そもそも何の罪もない人々を一般的な裁判形式で裁いても有罪の立証に持ち込むことは難しい。そこで、匿名の証言を採用できる「異端審問方式」を用いることで有罪に持ち込もうと考えた。異端審問を行うにはローマ教皇庁の認可が必要であるが、当時のローマ教皇はフランス王の意のままに動くフランス人のクレメンス5世であり、何の問題もなかった。こうしてテンプル騎士団を入会儀式における男性同士の性愛の男色行為(なんしょくこうい)、反キリストの誓い、悪魔崇拝といった容疑で起訴することになった。


■1314年頃

 資産の没収を終えると、フィリップ4世は口封じのために投獄されていた4人の指導者たちの処刑を指示。最後の総長のジャック・ド・モレーら最高指導者たちは、パリを流れるセーヌ川の中州のシテ島の刑場で、生きたまま火あぶりにされた。
 この時、ローマ教皇庁と対立していたロベール王の率いるスコットランドは、そもそもローマ教皇の決定など意に介していなかったので、同地の騎士団は弾圧を免れ、テンプル騎士団の残党もスコットランドに逃れた。この時に生き残った騎士団がフリーメイソンとしての組織を作り、スコットランドが近代フリーメーソンの発祥の地となり、ロッジが数多く存在することとなった。
 テンプル騎士団の総長ジャックドモレーが殺された後、団員達が総長の遺体を掘り起こした。そのとき、頭蓋骨と2本のクロスした骨が埋まっていた。これを見た騎士団の団員は、人は頭蓋骨と2本の骨さえあれば復活できると言って、ジョリー・ロジャーという海賊旗を作ったとされている。海賊旗の始まりはテンプル騎士団で、テンプル騎士団解散後、海賊となって海を渡った団員や石工職人となってフリーメイソンになる者もいた。海賊とフリーメイソンはつながっている。
 ただ実際のところ髑髏(どくろ)マークの起源は、アヌンナキの子孫であるイルミナティのエリートたちが、人間が持っていたアトランティス文明の時代に存在した強烈なパワーを持つクリスタルスカルの髑髏(どくろ)に対するポジティブなイメージを、意図的に歪めるために作られたプロパガンダである。