秦氏渡来と王権委譲(出雲の悲劇)

秦氏渡来と王権委譲(出雲の悲劇)---------------------------------------------------------------------

 渡来した秦氏は、大王家(海部氏・エフライム族)の招きによって、新たに列島の中枢となったヤマトに入って行ったものの、大王家は彼らの裏に潜む計画には気付いていなかった。半島の動乱に乗じて次第に渡来秦氏は増え、いつしかその中枢部が契約の箱と十字架を持って二手に分かれて渡来した。

 契約の箱は九州、十字架は丹後半島に到着した。両方から包囲していこうとする作戦だった。そして、契約の箱があることを理由に、王権の移譲を迫ったものの、当然のことながら、最初は拒否された。しかし、彼らは買収工作を展開し、大王家に不満を持つように仕向けて行った。

 そんなある時、大事件が起きた。天宮一族と共に祭祀を行っていた出雲族での出来事である。出雲族は海部(あまべ)氏(エフライム族)の徐福系の葛城氏の一族である。

 出雲族の伊理泥王(イリネノミコ)が兄の留守の間に、管理していた御神宝の剣を秦氏に渡してしまったのである。帰って来てそれを知った兄は激怒し、イリネノミコを水浴びに誘い出し、だまし討ちして切り殺してしまった。兄弟間での血の惨劇は、カ・インとアバエルの惨劇の記憶を呼び覚ました。
 しかし、御神宝を手にした秦氏は、増々勢いづいてきた。このままでは、この小さな列島で秦氏と大戦争が発生してしまう可能性があった。そこで、大王家(海部氏・エフライム族)は一族と出雲族の代表、縄文の大王家を招集して議論した。出雲族は王権委譲に賛成していたが、大王家(海部氏・エフライム族)は最後まで抵抗の意志を示していたものの、ようやく結論を下そうとしていた。それは、卑弥呼亡き後、国が乱れた時と同様、無益な争いは避けるということだった。
 まさにその時、天から秦氏の神、イエスがニンギシュジッダに導かれて降臨した。そこには、エンキとウツ、イナンナ、イシュクルも随行していた。これにより、天宮一族は秦氏に王権を委譲することを正式に決定し、国が大混乱に陥ることが免れた。秦氏の大王フルは、その和平の印として天宮一族に婿(むこ)入りし、持っていたマナの壺を手渡した。しかし、天宮一族にとっては、最大の屈辱となった瞬間だった。

 半島での秦氏の動向は、BC2世紀頃に、東北アジアにツングース系騎馬民族の扶余(ふよ:夫余)が出現した。その大王の名が解夫婁(ヘブル)で、当然ヘブライのことである。彼らは朝鮮半島に達し、高句麗を建国した。更に南下し、元々あった馬韓(ばかん)に加え、辰韓(しんかん,)、弁韓(べんかん)を建国した。ただし、辰韓(しんかん)は海部(あまべ)氏(エフライム族)の一族が渡来し、彼らと友好を結んで建国した。
 百済の建国神話には、解夫婁(ヘブル)の息子の朱蒙(シュモウ)の2人の息子、沸流(フル:兄)、温祚(オンソ:弟)が登場する。フルは海側に、オンソは内陸に国を造り、オンソの国は百済へと発展したが、フルの方は土地がやせて衰退し、これを恥じてフルは自殺した、と。死んだことになっているのは、他の国へ行ってしまったということで、つまり、そのフルこそが、契約の箱を持って渡来した秦氏の大王だった。「百済本記」に依ると、百済王家の姓は解氏と真氏で、出自は扶余(ふよ)族とある。解氏は繁栄したが、真氏は滅びた。つまり、解氏=オンソで解夫婁(ヘブル)の“解”であって、真氏=フルである。
 「新選姓氏録」には“真人は是、皇別の上氏なり”とあり、真氏の筆頭は息長真人(オキナガノマヒト)で、“誉田(ホムダ)天皇より出づ”とある。つまり誉田(ホムダ)天皇は応神天皇のことで、真氏が百済王家のフルならば、フルこそ応神天皇である。秦氏の中枢部として渡来した大王で、秦氏の初代天皇である。よって、応神の東征は神武の東征にそっくりで、応神縁の宇佐神宮(うさじんぐう)は“皇室第二の祖廟(そびょう)”とも言われている。宇佐は縄文以来の聖地である。

 秦氏がヤマトの中枢部に入って来たのは、AD240年~300年頃の、志理都彦命(シリツヒコノミコト)の時代である。その時代に海部(あまべ)氏と尾張氏に兄弟分家し、次の川上真稚命(カワカミマワカノミコト)の時代(AD315年頃)に海部(あまべ)氏本体がヤマトから丹波へと戻り、その後の丹波大矢田彦命(タンバオオヤタヒコノミコト)の時代には祭祀もヤマトから丹波へと遷され、同族の尾張氏は尾綱志理都岐根命(オヅナシリツキネノミコト)の時代(AD353年よりもやや後)に尾張に移動させられた。

 出雲族は純粋な海部(あまべ)氏の血統ではない。徐福は秦の始皇帝の命を受けて渡来した。秦帝国は失われた十支族、あるいはバビロン捕囚後にペルシャに残って移動した南ユダ王国の末裔、あるいはその両者の混合で、同じ“秦”を名乗る秦氏の正体を知ったことにより、容易に改宗した。それに、彼らの中には、海部(あまべ)一族や縄文王家に対して最初から好意を抱いていなかった者たちもいた。出雲族の悲劇は、出雲振根(イズモノフルネ)の話で日本書紀に書かれていた。

“崇神天皇は出雲大神の宮に納められている神宝を確かめさせるため、武諸隅命(タケモロズミノミコト)を出雲に派遣した。神宝は出雲振根(いずものふるね)が管理していたが、ちょうどこの時は筑紫(つくし)に行っていたので、弟の飯入根(イイイリネ)が対応し、弟の甘美韓日狭(ウマシカラヒサ)と子の鸕濡渟(ウカヅクヌ)に神宝を持たせて献上してしまった。帰って来た振根(ふるね)は怒り、いつか弟を殺そうと考えた。振根(ふるね)は密かに刀とそっくりな木刀を作り、腰に掛け、水浴びに誘った。振根(ふるね)は先に上がり、弟の刀を身に付けると、弟は驚いて兄の木刀を取ったが、振根(ふるね)に切り殺されてしまった。”

 時代的には崇神天皇=オトヨノミコトよりも後になるが、これは事実だった。場所としては現在の出雲地方ではなく、奈良県桜井市の纏向(まきむく)周辺の出雲である。また古事記の倭建命=ヤマトタケルの出雲征伐の話も似ている。

“景行天皇(けいこうてんのう)の命により、倭建命(ヤマトタケル)は出雲建(イズモタケル)を征伐しに行った。倭建命(ヤマトタケル)は木刀を作って身に付け、一緒に川に入り、倭建命(ヤマトタケル)が先に上がって出雲建の刀を取った。驚いた出雲建は上がって来て倭建命(ヤマトタケル)の刀を取ったが、抜くことができず、倭建命(ヤマトタケル)に切り殺されてしまった。”

 古事記ではヤマトタケルに変えられ、乱暴者として描かれているが、海部(あまべ)一族を陥れるためである。かつて、出雲は投馬国(とうまこく)と呼ばれる大丹波国の一部で、容易に国譲りした功績により、イリネノミコの子孫は後に出雲を与えられた。その子孫の一血統が蘇我氏である。これを、記紀では「合わせ鏡」により、最後まで抵抗していた出雲、という構図に書き換えた。むしろ、海部(あまべ)一族を出雲と重ねることにより隠した、と言う方がよい。蘇我氏は葛城氏の子孫だ、と主張しているが、そういう意味である。
 出雲大社では、本殿北側のスサノオを祀る社は素鵞社(そがのやしろ)で祀られているが、この“素鵞(そが)”も蘇我氏を暗示している。

 この事件をきっかけとして、秦氏の大王フル(応神天皇)が王権委譲されたのが、建振熊宿祢(タケフルクマノスクネ)の時代である。つまり、海部(あまべ)氏最後の大王がタケフルクマノスクネということである。兄弟分家の尾張氏は、その前の時代に尾張へと移動した。

 “フル”が名前に含まれているということは、応神の“フル”を暗示している。この大王の時代という暗示であり、かつ、御神宝=王権の象徴を渡した出雲“振”根(ふるね)も暗示している。つまり、御神宝と王権の委譲の両方の意味合いがある。古事記には気比(けひ)大神について記述があり、御食津神(みけつのかみ)である気比大神(けひのおおかみ)がホンダワケ(幼少の応神天皇)と名を取り換えるという話があり、これなどは王権を取り換えたという暗示である。
 第15代天皇の応神というと、第16代天皇の仁徳と並んで巨大な古墳が有名だが、仁徳は応神の子とされているが、事績(じせき)の一部が父の応神と重複・類似することから、元来は1人の天皇の事績を2人に分けたという説があり、日本書紀仁徳の条と古事記応神の条では矛盾が見られたりする。
 実は、タケフルクマノスクネこそ、第16代の仁徳天皇である。古事記では、仁徳は大変徳の高い天皇とされ、大阪の難波には世界最大の墳墓が造営された。これは、王権委譲に対して、最大級の賛辞と敬意が表されていることを暗示している。この大王だけは“ミコト”ではなく“スクネ”である。皇位継承権を奪われて、臣籍降下させられたことを暗示しているのである。

 ナンバは現在は大阪だが、本来の難波はその字が示す如く、日本海側だった。大阪湾では、波は凪(なぎ)なので“難”ではない。京都の日本海側の天橋立(あまのはしだて)の近くにも難波野(なんばの)という地名がある。本来は、丹後半島全体か日本海側が難波野だった。その難波を冠する大王が、タケフルクマノスクネ(仁徳天皇)の3世代前の難波根子建振熊命(ナンバネコタケフルクマノミコト、別名:丹波大矢田彦命)で、その1世代前が川上真稚命(かわかみまわかのみこと)で別名が大難波宿祢(おおなにわのすくね)で、海部(あまべ)氏本体がヤマトから丹波へと戻った時代である。よって、この大難波宿祢(おおなにわのすくね)の“スクネ”はヤマトの地から移動させられたことを暗示し、丹波大矢田彦命の難波根子建振熊命(ナンバネコタケフルクマノミコト)という別名は、難波野での祭祀が本格化したことを暗示すると同時に、実際に王権を譲らされた悲劇の大王の名を暗示している。
 タケフルクマノスクネ(仁徳天皇)は若狭の木津高向宮(こづたかむくのみや)で海部の姓を賜った。それが気比神宮(けひじんぐう)での逸話に変えられ、アマミヤ一族も“天宮”から“海宮(海部)”へと変えさせられた。
 導きのニンギシュジッダは猿田彦だが、エンキとウツ、イナンナ、イシュクルも随行したということは、海部(あまべ)一族(エフライム族)や出雲氏、縄文系は当然、イエスのことなど知らない。よって、イエス以前の彼らが祀っていた神々が降臨しなければ、王権の委譲はできない。エンキ、ウツ、イナンナ、イシュクルでメルカバー(神の戦車、天の車)を形成し、その中心がイエス。
 つまり、伊勢神宮の御紋はそれを暗示している。そして、神宮は太陽神を祀る。その原型はウツとイナンナなので、両者に共通の菱形をシンボルとした。そして、中心は十字なのでイエスだが、丸に十字で、イエスの父で地球の主エンキをも暗示する。そうなると、ニンギシュジッダも花弁の1つに入るというわけである。あるいは、十字をイエスの原型のイナンナと見なしても良く、そもそもの最高神アヌやニビルのシンボルと見なしても良い。


 また海部(あまべ)氏の奥宮、真名井神社はマナの壺に由来する。海部(あまべ)氏が代々宮司を継承する際、少々削って飲んだらしい。それは、外宮の多賀宮(たかのみや)に持って行かれ、その地下に安置された。

 また、神社は、崇神から応神までの間=応神の時代が建設ラッシュである。よって、秦氏が関与している。秦氏は、それまでの物部系神社を次々と封印していった。ヤハウェ信仰から絶対三神信仰へと変更するために。




Hiloyuki Kubota/久保田 啓敬