高砂軍はまた筑前(ちくぜん)を進発、筑紫の国崗水門というところに到着した

■紀元前678年

 高砂軍はまた筑前(ちくぜん)を進発、筑紫の国崗水門というところに到着した。高砂軍はここにとどまって船を造り、兵糧(ひょうろう)を貯え、紀元前678年、日子稲飯(二男)と三毛渟麻(三男)は、船二百艇を率いて安芸(あき:広島県安芸郡)の国、埃という水門(みなと)にこぎ寄せた。
 なぜ近い周防(すおう:山口県)の上陸を避けて、全軍船を安芸(あき:広島県安芸郡)に上陸させたかは、この地に邪馬台軍の巨軍が駐留しており、その軍との衝突を避けるためだった。そして稚三毛渟麻(四男)と日子五瀬(長男)も周防(すおう:山口県)の邪馬台軍を避けて安芸(あき:広島県安芸郡)に上陸し、全軍が多祁理(たけり)というところで合軍した。
 それを知った邪馬台軍はところを変え、周防(すおう)に布陣していた二万の兵と以前より駐留している味方の軍と合軍、多祁理(たけり)の高砂軍に攻め寄せた。
 これに応戦したのが豊後国(ぶんごのくに)の地族宇佐津比売(うさつひめ)で、足一騰(あしひとつあがり)をあげて戦ったが、瞬く間に敗れて討ち死にした。

 高砂軍は進発してここまで、邪馬台軍との攻防は七年に及んでいた。高砂軍はこの地にとどまって筑紫の新手二万を組み入れて態勢を立て直し、まず南海道の邪馬台軍を攻め落とし、再び安芸(あき:広島県安芸郡)に攻め寄せた。
 安芸(あき:広島県安芸郡)を防御していたのは邪馬台国・出雲のワケグラ王耶馬陀彦(やばだひこ)の軍だった。ここでも両軍が激しい攻防戦を繰り返したがついには高砂軍は敗れ、吉備国・高島というところまで逃れ、そこに仮宮を造り、軍を移した。
 しかし、ここへも邪馬台軍が攻め寄せ仮宮を包囲した。またも激しい攻防戦となったが勝敗は決せず、その状態が三年間にも及んだ。
 そこで高砂族の皇子たちは謀って、邪馬台軍の将・出雲のワケグラ王・三毛稲(耶馬陀彦(やばだひこ)と同一名か)に、莫大な貢ぎ物を献(けん)じて和睦(わぼく)を申し出た。
 そこで三毛稲は、この莫大な貢物やその中にあった珍しい異国の品物に心を奪われ、独断でこの和睦を受け容れてしまった。
 三毛稲は、邪馬台国五王の西ワケグラ王の地位を捨てて邪馬台国を裏切り、高砂軍に加わった。
 三毛稲は邪馬台国ワケグラ王の地位にあり、邪馬台国のために尽くさなければならないのにもかかわらず、高砂軍に国を売った奸物(かんぶつ)となってしまった。三毛稲が邪馬台軍を裏切って高砂軍に加わったことによって高砂軍の戦力は強大となった。

 邪馬台軍の安日彦(あびひこ)と長髄彦(ながすねひこ)は、高砂軍の戦力が増大したことに、このままこの地で戦を続けることは不利だと判断した。そこで両王は謀り、決戦の場を自国領に移そうとの策を決め、大和に引き揚げ、高砂軍の来襲に備えた。