キリスト教の誤りは正されなければならない

キリスト教の誤りは正されなければならない----------------------------------------------------------

  聖書に記されている出来事の背景には、偉大な真実があるが、その多くは意図的に書き換えられており、しかもわざと翻訳せずに残されている。それは現在の地球の社会体制を作り上げて機能させている一握りの者たちが、人類のコントロールを維持するために行なってきたことなのである。

 イエスの本来のメッセージは、後世において多くの書き換え、付け加えが行なわれて、本来のものは歪められてしまったが、それを見分けるにはごく単純に、「魂の法則」に反する信念はどれも、イエスの教えたものではないということである。イエスはこうした宇宙の法則を熟知していたので、それを聞く耳を持つ者に伝えようとした。次はその中のいくつかの例である。

①すべての人間は人種や性別、宗教にかかわらず、同じ本質を持つ存在である。つまり、すべての者が進化途上にある魂であり、そのゆえに兄弟姉妹である。(マタイによる福音12章50節、18章12~14節)

②魂の生命は永遠であり、死は存在しない。(マタイによる福音10章28節、3章13節)

③ 地球上の人間の務めは、無条件に愛することを学び、エゴから解放されることだ。魂がどれだけ成長したかの印は、愛の力量だけで量られる。愛だけが我々を進化させるのであり、自らの内なる神へと近づけるのである。(マタイによる福音5章43~48節)(ヨハネによる福音15章12節)

④霊的成長進歩は、自分自身の努力にかかっている。人間の肉体的死後の運命は、生きていた時の「愛の法則」に基づいた行為、あるいは反した行為によってのみ決定される。(ヨハネによる福音3章21節)(マタイによる福音18章18節)

⑤各人はそれぞれ神との独自の繋がりがあるので、仲介者に依存して霊界と交信する必要はない。(マルコによる福音11章24~25節)(ヨハネの第一の手紙5章14節)(ルカによる福音11章9~13節)

⑥魂の成長進化はただ1度の肉体的転生では成し遂げられず、より高度な霊性を獲得する進歩のためには数多くの転生が必要である。(ヨハネによる福音3章3節~13節)

⑦「霊的裁きの法則」あるいは「原因―結果」の「因果応報の法則がある。その意味は、自分が蒔いたものは自分が収穫しなければならないということ。(マタイによる福音7章1~2節、12節)

⑧この地球上以外にも人の住む多くの世界があり、その目的はどこも同じである。すなわち、魂の霊性を進化させる学校としての役目である。(ヨハネによる福音4章2節)


 次に霊的な観点から、イエスの死後に付け加えられた、真実でないキリスト教の信念の例である。挙げればたくさんあるが、中でも霊的な進歩にとって一番悪い影響を及ぼしている最も重要な例を挙げる。

①宗教的儀式の執行に精神的な何らかの価値があり、死後に天国において特別な賜物の確保に役立つという信念。

②聖書やその他の聖典が神のみ言葉であるという信念。

③教会や聖職者が、地上における人と神の仲介者であるとする信念。

④自らの悪い行為を清算するためには「告白・告解」が必要であり、司祭から許されることで解消されるとする信念。

⑤臨終において悔改めれば、すべてが許されるという信念。

⑥イエスが十字架上で死ぬことで、人類の罪を贖(あがな)ったとする信念。

⑦原罪があるとする信念。

⑧性を何か罪深いものだとする信念。

⑨人生は1度きりであり、ただ1度の人生で魂の行く末が永遠に決められるとする信念。
 (救われる者は永遠の天国と栄光が約束され、罪人には永遠の地獄と罰が待ち受けるとする信念)

⑩キリスト教信者だけが救われるとする信念。

⑪肉体の蘇えりを信じる信念。

 霊性進歩の道には近道などはなく、自分を霊的に進化させる、つまり「救済する」唯一のものとは自己の改善であり、エゴを手放して愛の能力を成長させること以外にはない。救済には宗教的儀式が不可欠とする信念は、さまざまな教会の指導者たちが人々の霊性を監督指導し、コントロールするために利用してきたものである。
 また人々の霊性を操作したり逸脱させるために、儀式を利用するのは良くないことである。儀式など必要ないのに、どうしてその儀式を行ない続けねばならないのか。人間の歴史を見ると、儀式や象徴は、メッセージの代わりに別に用意されたあるメッセージにすり替えられてしまうことが多い。その結果、そうした儀式や象徴を盾に取り、結果的に従うべき信仰にことごとく反するという大きな過ちを犯すことになる。そのいい例が十字軍と宗教裁判である。それは胸元に大きな十字の印を付けた人々による大量虐殺と殺人であった。彼らは毎日、聖体を受けており、手に聖書を握って、死の宣告を行なった。隣人に対する愛の教えは一体どこにあるのか。

 また聖餐式(ミサ)は、イエス自身によって伝えられたのではない。イエスが自分の処刑までもう時間が残されていないと悟り、別れの晩餐に弟子たちを集めたことは本当である。だが彼は聖体を与えるような儀式だけでなく、その他のいかなる儀式や式典なども確立させようと考えたことはなかった。さらに言えば、たとえそれが象徴的なものであろうと、キリストの肉を食べ、血を飲むとする行為は、まさにカニバリズム(人肉食習慣)を連想させるものであり、イエスはそうしたものと何の関係もない。

 こうした儀式には、それ以前からある他の宗教儀式がキリスト教に取り入れられたのである。そのようにしてイエスの使徒たちの名称や十字の印などとともに、後世に導入されたのである。十字の印もイエスに由来してはいない。十字架というものはイエスの時代には、現在の電気椅子と同じように、人を処刑するために用いられていた。
 もし人々に正常な判断力があれば、自分の信仰の象徴に十字を使おうと思いつく者は誰もいなかったことがわかるだろう。イエスが現代に生まれて電気椅子で処刑されていたなら、あなた方は電気椅子をペンダントとして胸に下げようとするのだろうか。
 こうした話はかなりショッキングなものなので、キリスト信者、特にカトリック信者にとってはなかなか受け入れ難いことである。この時代の宗教組織のしてきたことは、多くの迷信と戒律で人々を怖れさせ、聖職者が自らの富と権力を手にするために神の名を利用し、長い間人々の真の霊的成長を阻害してきたのである。複雑な儀式を利用して人々からお金を巻き上げ、人々の犠牲の上に裕福な暮らしをしていた。そしてイエスがその事実を曝露したので、彼を殺したのである。当時のイルミナティのユダヤ教会は、イエスの人物像を利用して彼の教えを操作し、人類の霊的な成長を押さえ込んで生きながらえてきた今日のイルミナティのキリスト教会の姿と、非常に良く似ていた。こうしたことはきちんと正されるべきである。