カナン(フェニキア)

カナン(フェニキア)-------------------------------------------------------------------------------------

 カナン(パレスチナ地方)の歴史は、シュメール時代にまで遡る。“海の民”の侵入があったが、その後、著しく発展している。ヒッタイトも紀元前1200年頃、“海の民”によって本拠地を追われた。

 古いカナン暦では、秋分の頃(現行暦の9~10月頃)から1年を数え始めた。この時期は雨が降らない夏が過ぎ、秋の雨が降り出して、種まきを始める時期である。ダビデ王国以後もこの暦が採用されていたが、紀元前604年頃のエレミヤ書に依れば、1年は春から始まるように変えられた。これはバビロニア暦の影響で、この直前にネブガドネザル2世がエジプト軍を破っており、カナン地方が新バビロニアの勢力範囲に入ったためである。
 エジプトは当時(紀元前1200年代)、カナンのことを“フル”と呼んだ。これは、フルリ人に由来する。アッカド王朝時代、アルメニア地方を起源とするフルリ人がチグリス川東方からカナン地方まで進出した。(紀元前18世紀の出土記録が最も古い。)風習として、実子が無い時には養子を迎え、その後で実子(じっし)が生まれればその実子が第一相続人となるが、この風習は旧約のアブラハムの子の記述などに見られる。

 カナンの歴史を振り返る時、見逃せないのはエジプトのアマルナ文書に出てくるハビル人である。ハビルは民族には関係無いグループで、シュメール語でサ・ガズ(破壊者、虐殺者、暴民などの意)と同じ意味である。ウガリト文書ではアピルとされている。彼らは一定の共同体から疎外された人々で、徒党を組んで略奪したりして、乱世を生きぬいた人々で、日本で言えば戦国時代の野武士に相当する。
 カナンで活躍したのは他に、ペリシテ人がいる。“海の民”の一派で、おそらくシリア方面から南下して来た。カナン地方が後にギリシャ人によって“ペリシテ人の地方”という意味で“パライスティネ”と呼ばれ、これが現在の“パレスチナ”である。ペリシテ土器には水鳥や尾が魚の尾のような水鳥が描かれている。また、ペリシテ人によって、契約の箱はサウルの時代に奪われたが、ダビデの時代にようやく戻った。

 フェニキアはシュメールに匹敵する古い地域である。ヒッタイトと同様、“海の民”が侵入したことは注目である。フェニキアは“海の民”による侵入を受け、その時点から急速に発展している。ならば、この“海の民”は古代先進文化、シュメールの末裔と見なしても良い。つまり、ヒッタイト側に侵入した“海の民”がフェニキアで合流した。ヒッタイトも通説では、紀元前1190年に“海の民”によって滅ぼされたとされている。

 古いカナン暦では秋分の頃から1年を数え始めた、ということだが、それはカナン暦では種まきを始める時期である。ところで、神宮の神嘗祭(かんなめさい)は“神宮の正月”とも言われており、かつては9月に行われていた収穫を感謝する神事である。しばしば、ユダヤ暦との類似性が言われたが、ユダヤ暦はそれよりも古いカナン暦の影響を受けているに過ぎない。

 カナンの元々の最高神はエルだった。これは個人神の名称でもあるが、“とても高い神”を意味する包括的用語でもあった。“アブアダム(人の父)”が彼の肩書で、“情け深い、憐(あわれ)み深い”があだ名だった。とても高貴な神でアダムの父ならば、それは人類を創成し、大洪水から人類を救った“情け深い、憐み深い”神エンキに他ならない。これを裏付ける詩がカナンには残されている。「情け深い神の誕生」という詩である。

“エルが海岸にいると、2人の女性が彼のペニスの大きさにうっとりしてしまった。そうして、遊んでいた鳥が浜の上で日光浴をしている間に、エルはその2人の女性と交わり、二柱の神シャハル(夜明け)とシャレム(夕暮れ、または完成)が生まれた。しかし、彼らはエルの主要な息子たちではなかった。”

 これは、“アダパとティティの誕生”場面が原型となっている。“アダパとティティの誕生”場面では、生まれた2人は息子(アダパ)と娘(ティティ)で、ここでは2人の息子とはなっているが、いずれも“夜明け”と“夕暮れ”で、生まれた2人は確かにエンキの主要な子ではないので、本筋は同じである。エルの主要な息子はバールだが、バールや彼に関わるヤム、アナトの神話はいろいろな神々が場面場面で対応し、それは後にマルドゥクによって改竄された結果なので、詳細は重要ではない。
 このように最初はエンキが主神だったが、後にイシュクルの領地となり、イシュクルはウツ、イナンナととても仲が良かった。よってイシュクル、ウツ、イナンナが主要三神へと変化し、その後はイナンナが主神となった。

 天照大神の原型がウツ、豊受大神の原型がイナンナなので、伊勢神宮でカナンの神が祀られていても不思議ではなく、ある意味当然である。太古は農作物の種蒔きや収穫の時期を決めるために暦がとても重要で、暦を操る者が王でもあった。よって、暦の源流を調べていけば、どこの由来なのか解る。
 日本でも、陰陽師が暦を専門に扱った。また、カナン(パレスチナ地方)はエジプト人から“フル”と呼ばれ、それはシュメール語と日本語に共通する膠着語(こうちゃくご)を話し、シュメール起源のフルリ人がチグリス川東方からカナン地方まで進出したことが起源である。このフルリ人の習慣は、聖書でも最も重要な人物の1人であるアブラハムの子の記述などに反映されているので、かなり重要な民族であることを伺わせる。
 後のイスラエル十支族はカナン地方に散らばったわけだが、その後のガド族の大王が祖先に因んで“フル”を名乗ったとしても、それはこのようなことがあったからだ、とも言える。
 そして、ペリシテ人は“海の民”の一派とされ、水鳥や尾が魚の尾のような水鳥というのは主エンキを暗示しているので、これもまたシュメールの末裔。そして、主エンキを崇めるペリシテ人は契約の箱を奪ったが、それは契約の箱が“主エンキとの契約”であるからに他ならないとも言える。
 このように、カナン(パレスチナ地方)には多くの民族が集まり、明らかにシュメール系と思われる民族がある。つまりシュメール系のフルリ人と“海の民”が重要な役割を果たしている。“海の民”は海洋民族である。

 核戦争の前、エンリルは神聖な場所、第4の地域(シナイ半島)、“二輪戦車の場所”を守りに行くよう、イブル・ウム(アブラハム)に命じた。ニブル・キ出身でウリム(ウル)の王の血も引く神官で王族の末裔のアブラハムである。
 それに応じて、ハランに居たイブル・ウム(アブラハム)は“二輪戦車の場所”、シナイ半島のエル・パランへ向かったが、その直後、マルドゥクがハランにやって来て、人々を扇動した。そのため、“二輪戦車の場所”は破壊されることになった。事前にイブル・ウム(アブラハム)の一族を保護してから、ニヌルタとネルガルによって攻撃された。

 その後、助かったバビリ(バビロン)をマルドゥクが治め、最高神を名乗り、エンリルとニヌルタは離れて行った。その後、エンキは去っていなかった。他に残っていた神々はニンギシュジッダ、ウツ、イナンナ、イシュクルで、あとの神々はエンリルとニヌルタに続いた。
 ただし、マルドゥクが最高神を宣言した以上、残った神々は表立って出てくることはなく、かつてエンキがジウスドラ(ノア)にしたように、姿を隠したまま、時々お告げを告げる程度だった。主エンキは主に海神として振る舞った。
 つまり保護されて地下へ避難していて、地上が安全になってから出て来たイブル・ウム(アブラハム)の一族をエンキが守護して導いた。イブル・ウム(アブラハム)はウリム(ウル)の王の血も引いていた。そのウリムからは“フルリ、フル”が進出してミタンニを建国した。もう一方の中心的役割を果たした“海の民”は、イブル・ウム(アブラハム)の直系ということである。

 よって“海の民”が侵入する毎に、著しく発展しているわけである。その集大成の地がカナン(パレスチナ地方)、フェニキアということである。この地には後に北イスラエル王国ショムロン(サマリア)が建国されるが、それは“小さなシュメール”という意味である。サマリアはシュメールの末裔が集まった場所で、しかもニブル・キ出身でウリムの王の血も引く神官で王族の末裔が居た。その末裔が、後に北イスラエル王国を率いるエフライム族の大王となった。
 エンリルより天皇として選ばれたイブル・ウム(アブラハム)の祖はアルバカド=シャルル・キン=サルゴン1世で、彼はイナンナをレイプしても赦されて王になったほど、イナンナから寵愛(ちょうあい)を受けていた。だから、その末裔がイナンナが主神の地で王となることは辻褄が合う。