統一王国への道と新羅建国

統一王国への道と新羅建国--------------------------------------------------------------------------------

 縄文人たちは海の漁や山の狩猟を主な生活源としており、海辺に近い地域に集合村落ができていた。山には磐座(いわくら)があり、神聖な地域だったので、祭司などの特定の者以外、入ることは許されていなかった。祭祀を行うには神が降臨するための磐座や山が必要となるが、新たな統一王国の中心地として丹後(京都府北部)は手狭だった。そのため、新たな開拓地が求められた。
 丹後地方の山を越えた南方には、広大な湿地帯が広がっており、それは紀伊半島の山岳地帯の麓まで続いていた。また、徐福一団は稲と呼ばれる穀物を持って来ており、これはニビル由来の小麦とは違って純地球種だった。そして、小麦と同様、一粒植えれば収穫時に何倍にもなる優れた穀物で、特に湿地帯に適した穀物だった。これを栽培することにより、多くの人口が賄(まかな)えるようになり、定住生活も可能となる。そこで、この列島の中心的位置でもあるこの湿地帯を開拓し、そこに新たな統一王国を造ることが決められた。

 ナガスネヒコが彼らを導くことによって、できる限り小競り合いが避けられた。丹後地方の山を越えると、徐福が率いてきた技術者集団が湿地帯の干拓を進めた。彼らは秦帝国を建造した一級の技術者集団だった。その一派は秦に残り、始皇帝の陵墓を建造したのである。
 最初彼らは、後に山城と言われるようになる地から、広隆寺(こうりゅうじ)が建てられる太秦一帯までを足掛かりの地とした。そして、すぐ傍にある列島最大の湖を遠い故郷のガリラヤ湖(竪琴の湖)に因んで“琵琶湖”と名付けた。この巨大な湖の水運を活用し、丹後の日本海側と太平洋に通じる東海地方との交易を盛んに行った。これにより、朝鮮半島から日本海を経て、太平洋までの経路が出来上がった。更に、木津川を上り、紆余曲折しながら、ようやく統一王国に相応しいと思われる土地に辿り着いた。
 これと並行して、朝鮮半島との鉄鉱石の貿易をより確実でスムーズなものにするため、天宮一族の瓠公(ココウ)が徐福系の一団を率いて半島に渡り、彼らが通って来た日本海側の経路に国を造った。後の新羅である。更に建国後には、天宮(あまみや)一族と婚姻関係を結んだ徐福系の脱解尼師今(だっかいにしきん)が渡って、国王となった。

 稲は徐福が持って来たが、よって海部(あまべ)一族(エフライム族)の近くには“伊根”という地名がある。お米は「八十八」と書くから、これに天神で豊穣神のヤーが加われば“888”となる。
 徐福の居た秦帝国で、ようやく漢字は統一された。方士(ほうし:中国古代の方術を行なった人)でカバラの使い手の徐福は、漢字の表意性、表音性に、更にカバラも付け加えた。つまり、今日に繋がる日本のカバラの大元は、この時代に始まる。よって、王権のある土地の象徴でヘブライ語の"YHWH"を意味するヨッド(’)の形に加工した玉を勾玉と名付けた。“勾”の“勹”は“包む、とらえる”という意味、“ム”は“わたくし(私)”という意味で、“勾”は“私は在る”ということである。

 つまり海部(あまべ)一族(エフライム族)は大王家で祭祀一族でカバラの使い手なので、“元八咫烏”のような存在で、八咫烏は秦氏である。広隆寺から太秦にかけてはその八咫烏の拠点だが、その前は海部(あまべ)一族(エフライム族)が治めていた。
 広隆寺では牛追い祭りという変わった祭りがあり、ただただ牛を追いやる。これは、物部氏(もののべうじ)の“物”という字が“牛に勿(な)かれ”と書くことが暗示しているが、物部氏は牛を使って燔祭(はんさい)を行っていた。本来は、エルサレムの神殿でのみ行うべき、ということで、秦氏によって禁じられたのである。つまり、広隆寺は元々物部氏縁の地で、しかも、神殿に相当するような施設があった。広隆寺(こうりゅうじ)の“広隆”は道教由来の“黄龍(こうりゅう)”に通じる。徐福は道教の方士(ほうし)とも言え、黄龍(こうりゅう)は地上の王を表す。そして有名な聖徳太子像がある。
 聖徳太子は基本的にイエスをモデルとした架空の人物だが、名前がイエスを暗示している蘇我馬子(”そがのうまこ”我、馬やどの子として蘇り)だとも言える。その蘇我氏は、実は徐福系の子孫である。蘇我氏は、葛城氏の子孫だと主張していたが、葛城氏の祖は徐福なので、それは本当だった。
 徐福は海部(あまべ)一族(エフライム族)となり、ニギハヤヒとされたので大王とも言える。そして、正史では、聖徳太子は皇統の皇子とされている。広隆寺には他に、国宝第1号と指定された弥勒菩薩半跏像があるが、それは、新羅様式である。それは、新羅は海部(あまべ)氏(エフライム族)が建国した国なので、聖徳太子像で大元の王族を暗示している。よって、天皇陛下が大嘗祭(だいじょうさい)後の即位式で召された黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)が、この聖徳太子像に着せられるわけである。

 それに、アメノヒホコやタジマモリが新羅国王の子孫とされたのは、新羅建国に海部(あまべ)一族と徐福系が関わっていたからである。それが神話では、高天原を追放されたスサノオが檀国(タングク)に降臨した逸話に変えられた。新羅は海部(あまべ)氏(エフライム族)・徐福系を暗示する重要なキーワードである。新羅となる以前は辰韓(しんかん)=秦韓(しんかん)だったが、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人の国とも言われている。ならば、一旦秦に帰国した後、朝鮮半島を経由して九州に再上陸した徐福一団を“秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人”と見なせば良いわけである。

 熱田神宮(あつたじんぐう)にある草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)がかつて新羅の僧に盗まれたという話があるが、それは神器は特定の氏族にしか扱えないという暗示である。新羅建国に関わったのは海部(あまべ)氏だからである。その盗まれたという話は、剣の写しを造るために一旦、秦氏によって没収されたということである。それを、新羅の僧が盗んだことにした。
 国史的には、新羅はあまり良い扱いを受けていないのは、海部(あまべ)一族の真相を封印するためである。海部(あまべ)一族が後に鬼や土蜘蛛(つちぐも)など、異形の者とされたのも同じ事である。