般若心経とアヌンナキ

般若心経------------------------------------------------------------------------------------------------------

 般若心経のサンスクリット語での解釈は、次のようになる。

仏説摩訶般若波羅蜜多心経
ブッセツマーカーハンニャーハーラーミーターシーンギョウ
“仏(釈迦)が説いた偉大なる般若波羅蜜多の教え”

観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、
カンジーザイボーサー、ギョウジンハンニャーハーラーミータージー、
(観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行ぜし時、)
“観自在菩薩が、深遠な般若波羅蜜多の修行を実践している時、”

照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子、
ショウケンゴーウンカイクウ、ドーイッサイクーヤク。シャーリーシー、
(五蘊”ごうん”は皆空なりと照見して、一切の苦厄”くやく”を度せり。舎利子よ、)
“五蘊あり、しかも、それらは自性空であると見極めた。シャーリプトラよ、”

色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、
シキフーイークウ、クウフーイーシキ、シキソクゼークウ、クウソクゼーシキ、
(色は空に異ならず、空は色に異ならず、色即ちこれ空、空即ちこれ色なり、)
“ここに於いて色は空性であり、空性は色である。色とは別に空性は無く、空性とは別に色は無い。色なるものこそが空性であり、空性なるものこそが色である。”

受想行識、亦復如是。舎利子、
ジューソウギョウシキ、ヤクブーニョーゼー。シャーリーシー、
(受想行識も、またかくのごとし。舎利子よ、)
“受、想、行、識についても、まったく同様である。シャーリプトラよ、”

是諸法空想、不生不滅、不垢不浄、不増不減。
ゼーショーホウクウソウ、フーショウフーメツ、フークーフージョウ、フーゾウフーゲン。
(この諸法は空相なり、不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり。)
“存在するものはすべて空性を特徴としていて、生じたというものでなく、滅したというものでなく、穢れたものでなく、穢れを離れたものでもなく、足りなくなることなく、満たされることも無い。”

是故空中、無色無受想行識、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法、無限界乃至無意識界、
ゼーコークウヂュウ、ムーシキムージューソウギョウシキ、ムーゲンニービーゼツシンニー、ムーシキショウコウミーソクホウ、ムーゲンカイナイシームーイーシキカイ、
(この故に空性の中に、色は無く受想行識無く、眼耳鼻舌身意無く、色声香味触法無く、限界無く、ないし意識界無く、)
“これ故に、空性に於いては、色は無く、受・想・行・識無く、眼耳鼻舌身意無く、色声香味触法も無い。限界から意識界に至るまで、ことごとく無い。”

無無明亦無無明尽、乃至、無老死亦無老死尽、無苦集滅道、無知、亦無得。
ムームーミョウヤクムームーミョウジン、ナイシー、ムーロウシーヤクムーロウシージン、ムークージュウメツドウ、ムーチー、ヤクムートク。
(無明無く、また無明の尽くること無く、ないし、老死無く、また老死の尽くること無く、苦集滅道無く、知無く、また得も無し。)
“明知無く、無明無く、明知の滅無く、無明の滅も無い。老死無く、老死の滅も無い。苦・集・滅・道無く、知ることも無く、得ということも無い。”

以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、
イームーショートッコー、ボーダイサッター、エーハンニャーハーラーミーターコー、
(得る所無きをもっての故に、菩提薩埵は、般若波羅蜜多に依るが故に、)
“これ故に、ここには如何なるものも無いから、菩薩は般若波羅蜜多を拠り所として、”

心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顚倒夢想、究竟涅槃。
シンムーケーゲー、ムーケーゲーコー、ムーウークーフー、オンリーイッサイテンドウムーソウ、クーギョウネーハン。
(心に罣礙(けいげ)無し、罣礙無きが故に、恐怖あること無し、一切の顚倒夢想を遠離して、涅槃を究竟せり。)
“心の妨げなく安住している。心の妨げが無いので、恐れが無く、無いものをあると考えるような見方を超越していて、まったく開放された境地でいる。”

三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。
サンゼーショーブツ、エーハンニャーハーラーミーターコー、トクアーノクターラーサンミャクサンボーダイ。
(三世の諸仏は、般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。)
“過去・現在・未来の三世に出現するすべての仏は、般若波羅蜜多を拠り所として、無上の完全な悟りを成就している。”

故知、般若波羅蜜多、是大神咒、是大明咒、是無上咒、是無等等咒、
コーチー、ハンニャーハーラーミーター、ゼーダイジンシュー、ゼーダイミョウシュー、ゼームージョウシュー、ゼームートウドウシュー、
(故に知るべし、般若波羅蜜多は、これ大神咒(だいじんしゅ)なり、これ大明(だいみょう)咒なり、これ無上咒なり、これ無等等(むとうどう)咒なり、)
“それ故に、知るべきである。般若波羅蜜多の大いなるマントラ、大いなる明知のマントラ、この上ないマントラ、比類なきマントラは、”

能除一切苦、真実不虚故、説般若波羅蜜多咒。即説咒曰。
ノウジョーイッサイクー、シンジツプーコーコー、セツハンニャーハーラーミーターシュー。ソクセツシューワツ。
(よく一切の苦を除き、真実なり、虚しからざる故に、般若波羅蜜多の咒を説く。即ち、咒を説いて曰わく。)
“すべての苦を鎮めるものであり、偽りが無いから、真実である。般若波羅蜜多の修行で唱えるマントラは、次の通りである。”

掲諦、掲諦、波羅掲諦、波羅僧掲諦、菩提、娑婆賀。
ギャーテイ、ギャーテイ、ハーラーギャーテイ、ハラソウギャーテイ、ボーディ、ソワカー。
“ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー。”

般若心経。
ハンニャーシンギョウ。
“以上で、般若波羅蜜多のマントラ、提示し終わる。”

 般若心経の世界最古のサンスクリット写本が残っていたのは、法隆寺であった。そこは秦氏の本拠地の1つで、さらに聖徳太子はイエスをモデルとしている。つまり「生命の樹」はイナンナが掛けられた木が原型だが、イエスが掛けられた十字架も重ねられている。
 般若心経の解説を一言で言えば“完全なる知恵に到達するためのマントラ”で、「生命の樹」の奥義を知るということである。従来の固定観念に縛られることなく、無我を認識することにより(照見五蘊皆空)心に妨げが無い状態(心無罣礙)となり、「生命の樹」を上昇していく(遠離)ことができる。そして知恵を得て超越したものの見方ができるようになり(究竟涅槃)、神界の真理(阿耨多羅三藐三菩提)に至る。

 瞑想の際に唱えるマントラは、“ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー”である。これは“知恵という完成”を讃えるマントラである。“知恵という完成”とは、一般的な知恵を超越して、「生命の樹」に隠された真理を知ることに他ならない。”
 よって般若心経は観自在菩薩が弟子のシャーリプトラに説いている情景描写だが、“観自在”とは“達観して物事を観ることができる”“すべてを見通す目”の象徴である。

 釈迦は16歳で結婚して妃ヤショーダラーとの間にラーフラをもうけたが、人生に疑問を抱き、29歳で一切を捨てて出家した。釈迦は断食などの苦行を行っていたが、苦行が無意味であることを悟り、村娘スジャータの捧げる牛乳粥(かゆ)で体力を回復した後、ブッダガヤにあるアシュヴァッタ樹(インド菩提樹)の下で瞑想した。そして夜明け近く、“明けの明星”が輝く頃、35歳でついに悟りを開いた。

 人生の最後は、クシナガラ郊外で迎えた。そこには、東西南北に2本ずつのシャーラ(沙羅樹)が生えていたので、この木を沙羅双樹(さらそうじゅ)と呼ぶようになった。シャーラとは、優れた木、堅固な木の意味で、沙羅はそれを音写したもの。釈迦は2本のシャーラの間に横たわり、80歳で入滅した。遺体は火葬され、遺骨(仏舎利”ぶっしゃり”)はストゥーパ(仏塔:インドの墓)に納められると同時に、信者に分け与えられた。
 釈迦は、「生命の樹」の奥義を知るには、苦行は無意味であると悟った。アシュヴァッタ樹も沙羅双樹も「生命の樹」の象徴である。2本のシャーラの間に横たわって入滅したことは、「生命の樹」と「知恵の樹」の「合わせ鏡」でもある。

 このような釈迦の生涯は、イエスのものと類似している。何よりも、悟りを開いた時には“明けの明星”が輝いたことが、それを最も端的に暗示している。このように、般若心経には死んだ者の魂が到達すると言われている彼岸や涅槃などについて述べた部分は無く、死者にはまったく関係の無い内容である。まして、観自在菩薩は現世の在家求道者で、天国で救ってくれるような存在ではない。

 最も重要なマントラ“ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー”が“知恵という完成”を讃えるマントラとは言うが、ガテーとは、女性名詞ガター(行きたる女性)の呼びかけの形である。“行きたる女性”とは悟り、つまり、般若に他ならない。ここでは般若が女神と考えられている。
 パーラガテーは“向こう岸に行った女性(女神)よ”を、パーラサンガテーは“向こう岸に行き着いた女性よ”を意味する。ボーディは“悟りよ”のことで、スバーハーは掛け声である。

 現存する最古の心経のサンスクリット写本には「般若波羅蜜多の心」とあり、「経」の文字は無い。この心(フリダヤ)とは真言を意味する。つまり、心経はいわゆる経ではなく、女神・般若波羅蜜多の称名を勧めるメモである。
 “行きたる女性”“向こう岸に行った女性(女神)”“向こう岸に行き着いた女性”が悟りの知恵を得た女性・女神ならば、それは知識の“メ”を得た知恵の女神、“メ”のレディ、イナンナに他ならず、知恵の女神で豊穣神、インダスの最高神イナンナへの讃歌(さんか)に他ならない。
 こういったことがあり、イナンナが掛けられた木、イナンナが好物だったナツメヤシが原型となっている「生命の樹」の真理を悟る内容なわけで、イナンナが掛けられた「生命の樹」の象徴たる十一面観音に対して唱えられることは最も相応しい。インダス文明の創造神はイナンナである。

 もっと広い視点から見ると、女神を宇宙の女性原理と見なせば、その女性原理と波動で共鳴する、ということでもある。女神ガイアもそれに共鳴する。よって唱えること自体に意味がある。
 般若心経はこういう意味だが、その真意からすると、シヴァが好んだ修行や苦行も意味を持ってくる。このマントラには更に意味が隠されていて、“行きたる”“向こう岸に行った、行き着いた”をイナンナの奔放な性的側面から解釈するならば、“性的に愉悦(ゆえつ)を得た女性、女神”ということでもある。“聖なる結婚の儀式”の大元であるイナンナに相応しい。つまり、オーガズムを感じた女神ということである。
 聖婚では、イナンナの相手のほとんどは、朝には死んでいた。よってイナンナを歓ばせるためには、肉体的・精神的に鍛え上げなければならない。シヴァのシンボルはリンガ(男性器)である。つまり般若心経はこういった性的な意味も含まれている。