田道軍の副将倭毛津禰という忠臣

■366年  

 東国(とうごく:関東から静岡辺り)は天下泰平の世が続いていた。しかし倭朝はまたも日高見国(ひたかみのくに)を己の王領にしようと、上毛野(かみつけの)君祖・竹葉世(たかはせ)に荒吐族(あらばきぞく)討伐を勅(ちょく)した。
 この時の荒吐族(あらばきぞく)領大津(滋賀県大津市)は凶作が続き、大津に駐留していた荒吐族(あらばきぞく)五王が大津より奥州に引き揚げることにした。
 それを聞いた竹葉世(たかはせ)と弟の田道は、時を得たとばかりに荒吐族(あらばきぞく)王が引き揚げる際に三万の兵を率いて迫った。
 そして東日流(つがる)行丘に陣を張り、荒吐族(あらばきぞく)と戦ったが敗れて中山に追われ飯積(いいずみ:千葉県印旛郡酒々井町)、山田というところで荒吐族(あらばきぞく)五王の達磨(だるま)が奇襲して田道軍を攻め破り、上毛野(かみつけの)田道はついに右肩をとりかぶとの毒矢で射抜かれ討ち死にし、兵の半数が殉じた。
 その時、田道軍の副将倭毛津禰という忠臣(ちゅうしん:家来)がいて、残る官軍を率いて魔神山に脱して田道将軍の遺骸を常棣樹の煙で干し、一年の歳月をかけて墓をつくり埋葬した。
 帰朝した上毛野(かみつけの)竹葉世(たかはせ)より報告を聞いた倭朝は、しばらくの間征夷を中断していた。