邪馬台国の終焉

■紀元前662年 

邪馬台国の終焉----------------------------------------------------------------------------------------------

 饒速日(ニギハヤヒ)は亡くなった日子五瀬(長男)と計画した作戦を実行に移すことにした。それは饒速日(ニギハヤヒ)が長髄彦(ながすねひこ)に降伏すると言って陣を開かせ、陣が開くと同時に兵を攻撃に転じるという策だった。(いわゆる裏切りである)
 長髄彦(ながすねひこ)はこの申し出を、縁続きの饒速日(ニギハヤヒ)の申し出であり承諾、陣を開いた。饒速日(ニギハヤヒ)は陣が開くと一気に兵を攻撃に転じさせた。とまどう邪馬台軍を、饒速日(ニギハヤヒ)が指揮する日向軍が猛攻した。
 その時、邪馬台国副王の長髄彦(ながすねひこ)が、日向軍の放った矢を太ももと肩に受けるという重傷を負った。長髄彦(ながすねひこ)が重傷を負ったことから日向軍の士気はあがり、戦況は日向軍有利に傾いていった。
 長髄彦(ながすねひこ)の娘、可思耶岐媛は、饒速日(ニギハヤヒ)との間に生まれた宇麻島津命とともに、邪馬台国本拠のタカグラに人質となっていたが、妻子の愛情を絶った饒速日(ニギハヤヒ)の攻撃は止まなかった。
 邪馬台軍に戦利のないことをさとった長髄彦(ながすねひこ)は、安日彦命(あびひこ)と計画して軍を退くことを決断、寄せ来る日向軍の見える高台に立って叫んだ。
「わが豊かな里は、勇猛なる邪馬台の民が屍を楯に積んででも護り抜く。日向族がここを侵すなら必ず討ち果たす。狩に用いる弓矢、海で用いる銛(もり)を取ってでも必ず討ち果たす。そのことを忘れるな日向族よ。わが邪馬台の国が、たとえ敵の手に落ちようとも、わが体に血の流れがあるかぎり、日向族が生きているかぎり、勇猛な邪馬台の民は国を奪い返すことを決して忘れない」

 長髄彦(ながすねひこ)の叫び声は三輪山(みわやま:奈良県桜井市)に響き渡った。長髄彦(ながすねひこ)は叫んだ後、タカグラで人質となっていた娘の可思耶岐媛とその子の宇麻島津命を饒速日(ニギハヤヒ)のもとに送り返し、その後に軍を退いた。
 安日彦(あびひこ)王は、弟の長髄彦(ながすねひこ)の重傷に心を痛め、東方へ落ちることを決意した。それは東方へ落ち行く先々で、邪馬台国に心を寄せる諸族から新手の兵を募り、再挙しようとの思いもあったからだった。
 その時、「日本国北の国果に国がある。そこに住んで、大和に君臨する者に、末代まで忌まわしさを与える報復の地とすれば、汝ら一族に出世の道が開けるであろう」と、天の神よりお告げがあった。このお告げに従って2人の王は、北方にある会津(あいづ:福島県西部)の地で落ち合うことを約束して別れた。

 この年の大和地方は凶作に見舞われ、住民は飢えに苦しんでいた。安日彦(あびひこ)王が東方落ちを決断したのには、これ以上戦が長引けば、住民の多くに餓死者が出ると、心を痛めたのも一つだった。
 安日彦(あびひこ)王は一族の将士・那江山蜘蛛の江字加志、宇田の江志岐、奈賀須祢大呂等を呼び寄せて退陣することを告げ、多くの兵及び領民を連れて越国(こしのくに:福井県敦賀市から山形県庄内地方)に脱し、そこから北へと向かった。この落ち行く人数の総計は、十数万人にも及んだ。
 その時、邪馬台一族を無事に落とすため、邪馬台軍の矢楯(やたて)となったのは高尾張(たかおはり)の地将・土蜘蛛(つちぐも)の伊志久利彦の軍だった。
 日向軍は安日彦(あびひこ)と長髄彦(ながすねひこ)が撤退したことを知らず、土蜘蛛の陣を本陣と思い込み、全軍あげてここを攻めた。
 土蜘蛛一族は七日七夜に渡って応戦したが、奮戦及ばずことごとく討ち死にした。また葛城(かつらぎ:奈良盆地の南西部)の八十梟帥(やそたける)も奮戦したが、かいなく敗れ、この軍もことごとく討ち死にした。こうして邪馬台国はついに日向族によって侵略されてしまった。

 幾万年にわたる天運は日向族に開き、367代の王継邪馬台国の落日(らくじつ)だった。長髄彦(ながすねひこ)の受けた肩と太ももの矢傷は思ったよりも重く、死との境をさまようほどだったが、気力をふるい起こし、従者500人、女子供600人を引き連れ、兄の安日彦(あびひこ)と落ち合う約束の地、奥州会津(おうしゅうあいづ:福島県)の地に逃れ、地中より湧き出る温泉につかって、戦で負った傷を癒した。
 安日彦(あびひこ)は遅れて到着、2人は再会を喜び合ういとまも惜しみ、この地で再挙する兵を募ったが、敗者のみじめさ、邪馬台一族の治政下にあったこの地の一族も敗者を見限り、日向族に味方するのもあって思うように兵が集まらず、両王は再起をあきらめた。
 この時、地住民よりさらに北の陸奥へ行けば、騎馬で狩する津保化族(ツボケゾク)という族がいることを聞き、一旦は再挙をあきらめた両王だったが思い直し、これを戦に引き入れて再挙しようとさらに北の陸奥(むつ)に向かった。

 邪馬台国を追われた安日彦(あびひこ)と長髄彦(ながすねひこ)が多くの兵及び住民を引き連れて、東日流(つがる)に落ちて来た。落ちて来た邪馬台人は、葦(あし)の茂る東日流(つがる)の平原を見て、農耕するにはほどよく土が肥え、葦を刈って住居を建て、水を引いて田地(でんじ)を造り、高地を焼いて畑を開墾すれば、拓地(たくち)の稔(みの)りは豊かで、まさに安住できる新天地になると思った。
 稲はホコという種類で、遠く韓国より来た種で寒さにも強く、冷たい水にも強い稲だった。
 先住民の阿曽辺族(あそべぞく)と津保化族(つぼけぞく)は話し合って、この大勢の侵入者を追い払うことに決め、二族の連合軍は邪馬台人の駐留する仮陣営に攻め寄せた。
 激しい戦となり、阿曽辺族(あそべぞく)と津保化族(つぼけぞく)の連合軍は、日中は騎馬で戦い、夜は邪馬台族の宿泊地に忍び込み住民を襲った。
 この攻撃によって邪馬台側に多くの死者が出た。やむをえず安日彦(あびひこ)と長髄彦(ながすねひこ)は、宇濤前の飛鳥(ひちょう)山に逃れ、落着するとそこに仮陣を張った。  


 邪馬台一族は飢えれば連れて来た馬を殺し、食糧にして命を保った。この殺した馬に悔いて祀った山を馬人山と呼び、馬を殺した山麓(さんろく)を馬喰い平と言って、今もその場所は残っている。
 安日彦(あびひこ)と長髄彦(ながすねひこ)は、いつまでもこの状況に黙しているわけにはいかず、60日間をかけて武具を整備して兵をまとめ、二族の連合軍と戦うべく挙兵した。
 そこで安日彦(あびひこ)と長髄彦(ながすねひこ)は話し合い、中国から漂着して住みついている支那民に支援を頼みこんだ。支那民の代表として君公子の家臣だった人物は、この頼みを受け容れ、邪馬台族に味方し、糧物(かてもの)や武具を与え支援した。
 邪馬台族は、はじめの頃は敗れることが多かったが、この支援によって態勢をもり返し、支那民より習った異国戦法で応戦した。
 まず津保化族(つぼけぞく)を安東浦で攻め破り、阿闍羅山(あじゃらやま)では阿曽辺族(あそべぞく)と津保化族(つぼけぞく)の連合軍を一気に攻めて降伏させ、和睦して邪馬台族の定住を認めさせた。よって東日流(つがる)に邪馬台族も同居することとなった。

 この邪馬台族を支援した支那漂流民の中に、君公子の大臣・里克(りく)という者がいたが、彼には2人の姫があった。その2人の姫は花のように美しく、みめうるわしい美女で姉を秀麗(しゅうれい)、妹を香蘭(こうらん)と言った。
 この2人の姫を、邪馬台国王だった安日彦(あびひこ)が姉の秀麗(しゅうれい)と、弟の長髄彦(ながすねひこ)が妹の香蘭(こうらん)を妃としたことによって、邪馬台人と支那漂流民との混血がなった。


 しかし津保化族(つぼけぞく)の中に、同居することを不服としてそむいた残党がいたが、両王は定住地に大きな柵を築き、邪馬台城を作って支那の漂流民、邪馬台人の全員を柵内に入れ、柵内で稲作をして米を収穫、冬期にも食糧に困ることなく安住の生活を続けた。

 邪馬台城(青森市三内丸山遺跡)の位置は、梵珠(はんじゅ)連峰が北に連なる山中に、飛鳥(ひちょう)山と言う山があり、その山の林の中に、石垣が延々と続いてる東日流邪馬台城(つがるやまたいじょう)が築かれた。城跡は五角形で、その周囲は空濠(からほり)をめぐらし、しっかりと守られてあった。邪馬台城の地底には多くの洞穴があった。