邪馬台国(前期邪馬台国)建国

邪馬台国(前期邪馬台国)建国--------------------------------------------------------------------------

 統一王国に相応しいと思われる土地に辿り着いたものの、そこは山間地だった。そのため、平地のような田は作れないので、開墾して段々畑のような狭い田やどちらかの方向に長い田が作られた。
 また、建田勢命(タケダセノミコト)の時代、半島経由で大陸から銅鏡が伝えられた。その中の重要な鏡は、光を当てると反射した像に鏡面の模様が浮かび上がる魔鏡だった。特に重要だったのは一対の大きさの異なる鏡で、物質世界の基本原理である鏡像反転の原理を暗示し、カバラの根本原理とも言える「合わせ鏡」となっている息津鏡(おきつかがみ)・辺津鏡(へつかがみ)である。「合わせ鏡」の像は無限に続いているような錯覚を与えることから、“永遠”“不老不死”をも暗示する。銅鏡の中心部分には不老不死を表すイナンナの八角形が刻まれているものもある。

 祭祀としてはまだイナンナを最高神として祀っており、イナンナには太陽女神としての性質があったものの、男神を太陽神とする徐福系との争いがあちこちで発生していた。そのため、特に重要な一対の鏡を太陽神の分身として、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と共に二璽神宝(ふたつのみしるしのかんだから)とすることが検討され、新たな祭祀の準備が整いつつあった。


 そして、続く建諸隅命(タケモロズミノミコト)を経て、次の倭得魂命(ヤマトエタマノミコト)の時代に、ようやく統一連合国としての形態が整った。ここまでは地球の主エンキ、イナンナ、ウツを重ねて“ヤー”として祀っていたが、実質の最高神は女神イナンナだった。そのため、男王が祭祀王として仕えていた。

 しかし、その次の代、意富那比命(オオナビノミコト)が大王となるのと同時に、ヤーを三神に分離し、エンキを海神、イナンナを豊穣神、ウツを太陽神として祀り、最高神は太陽神と決められ、太陽神の分身が息津鏡(おきつかがみ)・辺津鏡(へつかがみ)、依り代が天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)とされ、それまでの祭具だった銅鐸は破棄された。
 そして、男神の太陽神を祀るため、神懸かり的な力を秘めた姉の卑弥呼が巫女女王として君臨することとなり、ようやく連合国家が誕生した。その国の名は、ヘブライ語で“神の民”を意味する“ヤマトゥ”の国である。これが支那の書では“邪馬壹国(やまいちこく)”と書かれた。
 その場所は、現在の宇多川に分岐した奈良県桜井市の泊瀬(”はせ”初瀬)、上の郷付近で、深めの笠のように整った円錐形の山である奈良県の大和高原の都介野(つげの)岳を神が降臨する山とし、その神山を祀るための場所が奈良県桜井市の小夫(おうぶ)である。しかし、連合国家とはいえ、それはこの付近に限定されたものであり、特に狗奴(くな)国との争いは絶えなかった。



 卑弥呼の邪馬台国は纏向(まきむく)ではなく、泊瀬(はせ)の上の郷(かみのごう)付近だった。纏向(まきむく)はその時、まだ湿地帯だった。だから、そこを干拓して開墾する前の土地として、ここが選ばれた。そして、当時はまだ争いが絶えなかったので、最初から一気に統一国家を造る予定ではなかった。
 日本書紀には、天照大神が天邑君(あめのむらのきみ:天上界に於ける村の長)を定め、天狭田(あめのさなだ)と長田(ながた)を作った、とある。このような山間地では平地のような田は作れないので、この天狭田(あめのさなだ)と長田は泊瀬(はせ)付近の山間部に最初の王国ができたことを暗示している。
 その“上の郷(かみのごう)”と同じ地名が他にもある。それは内宮別宮の伊雑宮(いざわのみや)で、本来の神宮は、封印された伊雑宮(いざわのみや)なので、“かみのごう(重県志摩市磯部町上之郷)”という地名で本来の場所を暗示している。

泊瀬(はせ)の上の郷(かみのごう)には白木という地名があり、伊雑宮(いざわのみや)のある三重県の志摩にも白木という地名がある。さらに、日本地理志料に依ると、小夫(おうぶ)には斎宮山があり、天照大神を祀る天神社があって、これを笠縫邑(かさぬいむら)の伝承地と称して元伊勢と伝えている。これからも、都介野岳(つげのだけ)という神山を祀るための場所が小夫(おうぶ)だと言える。
 更に、都介野岳(つげのだけ)の西側は小山戸(おやまと)という地区だが、かつては“おうやまと”と呼ばれていた。“大いなるヤマトゥ”の意味だが、“小”を“おう”と読ませているのは、この最初の統一国家の王であるオオナビノミコトに因み、それが後に美称の“おう”“おお”とされ、警蹕(けいひつ:御神体を遷す遷御の際や天皇陛下が公式の席で着座・起座される際、行幸時に殿舎等の出入りされる際、天皇陛下に食膳を供える際などに、周りを戒め、先払をするために側近者の発する声)とされた。たった一言の“おう”にも、それだけの意味が隠されていた。

 他にも、小夫(おうぶ)の南に接した滝倉には神山の瀧蔵(たきくら)山があり、イザナギとイザナミを祀る瀧蔵権現社(たきくらごんげんしゃ)があり、上の郷(かみのごう)には古代祭祀にまつわる古社や伝承が多い。息津鏡(おきつかがみ)・辺津鏡(へつかがみ)こそ、卑弥呼が神事で使い始めた鏡だった。それに、「合わせ鏡」にも深い意味がある。だからこそ、卑弥呼一族の子孫である海部(あまべ)一族(エフライム族)が、代々手渡しで継承してきた。そして八咫鏡のオリジナルでもある。今まで、誰も見破れなかったのは、ヘブライ語が書かれた鏡だとばかり思われていたからである。

 鏡が太陽神ウツの分身で、剣が依り代だが、剣はイナンナの依り代でもある。イナンナには太陽女神的性格があるので、いずれも太陽神の依り代と言える。それに、イナンナは戦いの女神でもある。
 残りの勾玉については、山幸彦(やまさちひこ)が海神ワダツミノカミの所に行った時、海神の娘トヨタマヒメの侍女が持っていた水の入っていた壺に、自分の首飾りに付いていた勾玉をとって口に含んで壺の中に吐き掛けたところ、勾玉は壺にくっついて離れなくなった。つまり、勾玉は海神縁ということである。

 また神山とされた都介野岳(つげのだけ)のある一帯の地名は都祁(つげ)で、新羅の都祁野と関係がある。新羅の延烏郎(ヨンオラン)と細烏女(セオニョ)の逸話が暗示している。

 “第8代・阿達羅(あだつら)王の即位4年(AD157年)の丁酉(ひのととり)の年のこと。東海の浜辺に延烏郎(ヨンオラン)と細烏女(セオニョ)がおり、夫婦で暮らしていた。ある日、延烏郎(ヨンオラン)が海中で海藻を採っていると、突然岩(魚の場合もあり)が出現し、延烏郎(ヨンオラン)を乗せて日本に帰った。日本の人は「これは並みの人ではない」と言い、王に擁立した。
 細烏女(セオニョ)は夫が帰って来ないのを不審に思い、夫を探し求めた。夫の脱いだ鞋(わらじ)を見つけると、彼女もまた岩に上った。岩はまた前のように細烏女(セオニョ)を乗せて日本に帰った。日本の人は驚き怪訝(けげん)に思い、謹(つつし)んで王(延烏郎”ヨンオラン”)に細烏女(セオニョ)を献上した。そして、夫婦が再会することとなり、細烏女(セオニョ)は后(きさき)とされた。
 この時、新羅の太陽と月は光を消してしまった。日官(イルクワン)という予言者が(新羅の)王に奏して言うには、「日月の精は、降臨して我が国に在った。しかし今、日本に去ったので、この不思議な現象に到った」と。新羅王は使者を派遣して2人を探した。延烏郎(ヨンオラン)が「私がこの国に到ったのは、天が然るべくさせたものである。今どうして帰ることができようか。だが、私の妃が織る薄絹(うすぎぬ)があるので、これを持ち帰って天を祀ると良いだろう」と言った。
 使者はその薄絹を持ち帰り、新羅王に事の仔細(しさい)を奏上し、延烏郎(ヨンオラン)から言われた通りに薄絹を奉じて天を祀った。すると間もなく、太陽と月は元に戻った。そして、その薄絹を国宝として国王の倉庫に収納し、その倉庫を貴妃庫と名付け、天を祀った場所を迎日(ヨンイル)県(朝鮮半島新羅付近)、または都祁(つげ)野と名付けた。”


 この場合の新羅とは、BC2世紀末からAD4世紀にかけて存在した辰韓(しんかん)のことだが、アメノヒホコの逸話とそっくりである。記紀では男が女を追って渡来したことになっていて、「合わせ鏡」である。そして、絹を持って帰る話は、日本書紀に登場する。ここでは新羅が任那(みまな)に変えられ、新羅が悪者扱いである。

“ツヌガアラシトは崇神天皇の御世に加羅(から)=任那(みまな)から渡来し、垂仁天皇に3年仕えた後、帰国した。その際、垂仁天皇から赤織の絹を賜って帰国し、自分の国の蔵に収めて大切に保管したが、新羅人がそれを聞いて兵を起こしてやって来て、その絹をすべて奪って行った。”

 いずれにしても、日本と朝鮮半島に同じ話が伝承されていた、ということで、アメノヒホコ伝承が基である。延烏郎(ヨンオラン)と細烏女(セオニョ)の話は年代的には、脱解(だっかい)王が新羅の第4代の王(在位はAD57年~80年)とされているので、この話はその4代後である。延烏郎(ヨンオラン)は日本の王になったわけなので、それは海部(あまべ)一族(エフライム族)の暗示で、新羅では太陽とされている。ならば、この延烏郎(ヨンオラン)に相当する人物こそ、銅鏡を伝えた人物である。大倭神社注進状裏状(オオヤマト ジンジャ チュウ シンジョウ ウラジョウ)に依ると、ヒホコとは鏡のこととあり、アメノヒホコの血統のタジマモリ、その兄弟とされている清日子(キヨヒコ)の別名を持つタケダセノミコトその人の可能性が高い。
 ツヌガアラシトの話に登場する“赤織の絹”の“赤”は古代に見られた瑞兆(ずいちょう:良い事が起こる前兆)の象徴で、火の鳥=フェニックス=不老不死に由来するもので、海部(あまべ)氏(エフライム族)の象徴である。また、海部(あまべ)氏一族(エフライム族)の大海人皇子(オオアマノオウジ:天武天皇)は壬申の乱の際、赤い色を旗印とし、天武15年には“朱鳥(あかみとり)”という元号が立てられたことから、“赤”は“新羅人”と合わせて海部(あまべ)氏を暗示している。後から渡来した原始キリスト教徒の秦氏は、イエスは白い鳩と関わりが深いので、“白”となる。

 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の真相は瀛津世襲命(オキツヨソノミコト)で、卑弥呼の時代の海部(あまべ)氏一族(エフライム族)。源氏は源義経(みなもとのよしつね)の鵯越(ひよどりごえ)が有名なので、騎馬系のようにも思われるが、実は海人系で、源頼朝(みなもとのよりとも)の母親は熱田神宮(あつたじんぐう)宮司の娘である。

 延烏郎(ヨンオラン)にも細烏女(セオニョ)にも“烏(からす)”という字があるが、これは八咫烏(やたがらす)を中核とする秦氏系ではない。八咫烏(やたがらす)の元の話は支那である。太陽には烏(からす)が住み、10個の太陽がそれぞれ天を駆け巡って1つの旬を形成すると考えられていたが、ある時、太陽が一度に天に現れて地上は灼熱と化し、天帝に命じられた弓の名手が9個の太陽を射落とすと、9羽の“金の烏(からす)”が落ちてきて、足が3本だったという話が、春秋戦国時代の「楚辞(そじ)」に書かれている。これは統一国家の秦帝国ができる以前の話である。そうすると、道教の方士(ほうし)たる徐福が持って来た話としても矛盾はしない。
 烏(からす)と太陽の関係はこれだけではない。シュメールのメソポタミアでは、聖書に於いて、大洪水後のノアの方舟から地上の偵察として初めて外に放たれた動物で、水が引いたことを知らせた。大洪水後に水が引いている状態は空が晴れ上がっている状態なので、大地に太陽光が降り注いでるわけで、太陽関係である。エジプトでは太陽の鳥とされ、ギリシャでは太陽神アポロンに仕える鳥だった。つまり、烏(からす)は太陽とは切っても切り離せない関係で、八咫烏のオリジナル、というわけではない。
 だから、延烏郎(ヨンオラン)と細烏女(セオニョ)の逸話を、新羅と邪馬台国建国の中枢にいた海部(あまべ)氏の暗示と見なしても問題無いわけである。秦氏の中核である原始キリスト教徒が、元々あった烏伝承に重ねて、自分たちを八咫烏と称した、ということである。ある意味、徐福系を含む海部(あまべ)氏一族は“元八咫烏”とでも言うべき存在なのである。


 そして話を戻すと、新羅で天を祀った場所を都祁(つげ)野と名付けたことは、実は新羅建国に関わった海部(あまべ)氏を暗示する。ヤマトでは邪馬台国、朝鮮半島では新羅を建国したので、逸話が新羅になっていても良い。言い換えれば、卑弥呼の邪馬台国は都祁(つげ)野と呼ばれる地域に存在した、ということを仄めかしている。
 都介野岳(つげのだけ)が深めの笠のように整った円錐形の山なのは何か偶然ではなく、この山の北の麓には柏峰という小山が、山頂には水平に均した方形の台地があり、北の麓には国津神社(くにつじんじゃ)があり、柏峰を御神体としている。周髀算経(しゅうひさんけい)には“笠を以って天の形を写す”とあり、“天は青く、地は黄色く赤い。そこで丸い笠型の表面を青黒に、裏面を丹黄にすれば、これによって天と地の位置を象徴する”とある。

 よって、笠型の都介野岳(つげのだけ)は天の祭壇、方形の柏峰の台地は地の祭壇となる。そして、“天は円に通じ、地は方に通じる”とされ、古代支那では“冬至には円丘(えんきゅう:都介野岳)に至りて天を拝み、夏至には方丘(ほうきゅう:柏峰)に於いて地を拝”み、これを“二至(にし)の祀”と呼んだが、都介野岳(つげのだけ)と柏峰はまさにこの関係になっている。つまり、両所で合せて天神地祇(テンジンチギ)を祀っていた。
 更に、柏の葉は新芽が出ないと古い葉が落ちないので、“子供が産まれるまで親は死なない=家系が途絶えない”という縁起に結び付け、子孫繁栄の象徴とされて、5月の節句は柏餅(かしわもち)で祝う。そうすると、都介野岳(つげのだけ)=天神と柏峯のセットで、“天神の未来永劫の繁栄”となり、“天神の子孫の未来永劫の繁栄=永遠、不老不死”をも象徴する。


 “柏木”という姓も、元々は“神聖なる柏の木”という意味から、皇居を守る兵衛、衛門の別称だった。つまり、皇居=天皇=天=天神=都介野岳(つげのだけ)を守るのが柏峰、ということである。
 “天は青く、地は黄色く赤い”ことからすると、“黄色く赤い”色は丹(に)色なので、他にも意味が隠されている。丹(に)色は不老不死の妙薬とされた丹生(にゅう=硫化水銀)のことである。よって、“青”は“天”、“丹”は“地”を象徴する。
 “青”と“丹”が合わさった“青丹(あおに)よし”は“奈良”に掛かる有名な枕詞(まくらことば)である。つまり、後の歌にも登場する“青丹(あおに)よし奈良”という真意は、“天と地が良く調和する素晴らしい奈良”という意味であって、無意味な枕詞(まくらことば)ではない。そして、俗説で言われる“奈良”が朝鮮語で“国”を意味する“ナラ”ならば、“天と地が良く調和する素晴らしい国”という意味にもなる。


 都介野岳(つげのだけ)の山頂中央には、円形の列石が置かれている。円形列石=ストーンサークルは古代祭祀の典型例で、世界各地に存在するストーンヘンジはニンギシュジッダが考案し、ニヌルタ(アラム・ムル)とイシュクルが建造を手伝った。日本にもその足跡が残っており、都介野岳(つげのだけ)は人工の山でピラミッドである。ピラミッドの設計者はニンギシュジッダである。
 その都介野岳(つげのだけ)の中腹には、堂ヶ平(どうがたい)という祭祀遺跡の反対側の尾根に、約40メートルに亘って岩石を積み上げた遺跡がある。それは、高さ約8メートルの主丘の裾(すそ)に陪冢(ばいちょう)を控えた墳墓(ふんぼ)である。その上部は穴が開けられて盗掘されているが、弥生後期の巨大な墳墓であることはほぼ間違いない。しかも、聖なる山の中腹という位置からすると、この時代の特別な貴人の墓と言える。