大邪馬台国(後期邪馬台国)建国

■紀元前695年

大邪馬台国(後期邪馬台国)建国------------------------------------------------------------------------

 卑弥呼が女王となる前から、現在の纏向(まきむく)付近の開拓が開始され、また、オキツヨソノミコトが中心となって、伊勢や尾張地方などが統一国家へと組み込まれていった。国造りは順調に進んではいたが、卑弥呼亡き後、乎縫命(オヌイノミコト)が祭祀男王として就任し、最高神もイナンナへと戻された。それにより大混乱が発生し、多くの者が死傷した。あわや、国を二分しての大戦乱となる寸前、卑弥呼の宗女(そうじょ)で孫の世代にあたる13歳のトヨが新たな巫女女王として擁立(ようりつ)され、小登與命(オトヨノミコト)が彼女を補佐する大王となった。そして、最高神も太陽神ウツに戻され、先祖の卑弥呼も太陽女神として共に祀られることになった。

 また、その頃には纏向(まきむく)付近の開拓が終わり、現在の近畿~中部地方一帯まで組み込まれ、ここに於いて、ようやく統一国家と言えるものが誕生した。大邪馬台国である。奈良県桜井市(旧磯城郡"しきぐん"纏向村"まきむくむら")にある纏向(まきむく)遺跡がそれに当たる。

 新たな神山として奈良県桜井市の泊瀬山(はつせやま)が選ばれ、その遥拝所(ようはいじょ)はダンノダイラと決められた。
 そして、海部(あまべ)氏の兄弟分家である尾張氏と共に祭祀を営む徐福系の葛城氏の一族が出雲族と称し、それに因んでダンノダイラや纏向(まきむく)周辺には“イズモ=出雲”を冠する地名が付けられた。

 卑弥呼亡き後、国が乱れたというのは、最高神が変えられたからである。古代で最も重要なのは祭祀で、そこで、国が大混乱するほどのことが起きたのなら、それは祭祀に関わることである。女神は男王が祀り、男神は巫女女王が祀った。卑弥呼亡き後、男王が立って国が混乱したのなら、それは祀る神を女神に変えたからである。
 その時、偶然にも卑弥呼に匹敵する能力の持ち主が一族の少女トヨとして存在したので、子供ながら女王に擁立された。伊勢神宮の御遷宮(ごせんぐう)で重要な神事には、必ず物忌童男(ものいみおぐな)か童女(どうじょ)が携わっていたが、それはトヨの大邪馬台国の祭祀が大元である。神官の父が娘を補佐するという形態である。
 明治以前、神宮では物忌童男(ものいみおぐな)と童女(どうじょ)が御饌(ぎょせん)を奉り、特に重要なのは、童女(どうじょ)の大物忌(おおものいみ)が心御柱(しんのみはしら)に対して神饌を供え、御遷宮(ごせんぐう)での心御柱(しんのみはしら)の立て始めの役割を担ったことだった。つまり、伊勢神宮では邪馬台国の祭祀が連綿と受け継がれていたのである。

 そして卑弥呼も神宮で祀られている。伊勢神宮の御紋は、住吉大社のものとそっくりである。住吉大社では、祀っている神功皇后(じんぐうこうごう)が新羅遠征の際、身にまとっていた鎧に着けていた御紋、という伝承となっている。神功皇后(じんぐうこうごう)のモデルは、日本書紀の一書にも仄めかされているように卑弥呼なので、御紋で卑弥呼が祀られていることを暗示している。
 その御紋に秘められた意味はそれだけではない。御紋は花菱と言うが、菱形の楔形文字はウツとイナンナのシンボル。4枚の花弁は神の戦車メルカバーである。そして、良く見ると、中心が丸で、花弁を貫くように十字がある。十字はイエスの掛けられた十字架で、丸に十字は日本を暗示する。そして、丸を拡大すれば島津家の御紋だが、海神ポセイドン(エンキ)のシンボルでもあり、占星術では地球のシンボルでもあるから、地球の主で海神のエンキをも暗示している。このような様々なシンボルが重ねられている。


 オトヨノミコトはトヨを暗示した名前だが、別名が御間木入彦命(ミマキイリヒコノミコト)で、崇神天皇と同じ。その崇神天皇の諡号(しごう)は“ハツクニシラス”で神武天皇と同じである。つまりそれはオトヨノミコトの時代にトヨを女王として、ようやく日本国の大元が建国されたということを暗示している。

 第10代の崇神天皇の時代に、天照大神の祭祀が宮中以外の場所で行われるようになったが、ある意味、それまでは大物主神の祟りなどの話ばかりで、天照大神の神祭りはほとんど出てこない。言わば、ここで初めて、天照大神の神祭りが正史の表舞台に登場し、ここから本格的な祭祀が始まったとも見なせる。
 このオトヨノミコトは初恵比寿で有名な熱田神宮の上知我麻(かみちかま)神社で祀られている。恵比寿は蛭子=ヒルコで、イザナギとイザナミの国生みの際、最初に生まれたが骨が無い奇形なので流された神である。つまり、王権を奪われた一族という暗示である。その上知我麻(かみちかま)神社は東を向いており、熱田神宮の本宮と別宮は南を向いている。南北向きは秦氏が渡来してからだが、それ以前は東西向きだった。つまり、上知我麻(かみちかま)神社の祭神と向きで、大邪馬台国の真相を暗示していた。熱田の尾張氏は海部(あまべ)一族(エフライム族)の兄弟分家であり、偉大な先祖を祀るのは当然である。

 熱田の本殿では建稲種命(タケイナダネノミコト)と宮簀姫(ミヤズヒメ)を祀っている。いずれもオトヨノミコトの子だが、建稲種命(タケイナダネノミコト)は“稲の種=籾”で豊受大神を象徴し、ミヤズヒメの“ミヤズ”は豊受大神を主神とする海部(あまべ)一族(エフライム族)のお社が鎮座する“宮津”に通じる。つまり、いずれも豊受大神を暗示している。
 そして、神器は元々持つべき氏族以外には許されないので、草薙神剣は、オキツヨソノミコトこと日本武尊が倭姫から譲り受けたことにされた。その剣を依り代とし、鏡を分身とする祭祀が本格的に始まった。天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は陰で、象徴的には陰である水や雲、雨である。葛城も、月に生えるとされる想像上の木“桂木”なので、陽の太陽に対して陰である。
 しかし、何故、その一族が“出雲”なのか。出ずる雲は太陽を隠す。太陽神の真相は海部(あまべ)氏(エフライム族)にある。出雲一族には血の悲劇があり、それ故、丁重に祀られることとなり、本来の太陽が隠された。つまり“出雲”は後から付けられた名称である。
 現在、奈良県桜井市の出雲村がある一帯のダンノダイラ付近だが、ここには遥拝所(ようはいじょ)の印でもある巨大な磐座がある。その磐座を泊瀬山(はつせやま)に見立て、泊瀬山(はつせやま)を影向(えいこう)した。つまり、柏峰から都介野岳(つげのだけ)を拝する卑弥呼の邪馬台国と同じ構造である。


 大邪馬台国ではダンノダイラを遥拝所(ようはいじょ)として巻向山(まきむくやま)越に、見えない泊瀬山(はつせやま)を遥拝したが、それと同様な構造を取った。すなわち、元兵主(もとひょうず)神社を遥拝所(ようはいじょ)として斎槻岳(ゆつきだけ)越に、見えない卑弥呼の邪馬台国の神山である都介野岳(つげのだけ)を遥拝(ようはい)した。

 元兵主(もとひょうず)神社は、応仁の乱(1467年)で焼失した穴師坐兵主神社(あなしにいますひょうずじんじゃ、兵主神社、穴師上社)のことである。現在は、かつての穴師下社(あなししもしゃ)だった大兵主(だいひょうず)神社に、穴師兵主神(アナシヒョウズノカミ)、若御魂神(ワカミタマノカミ)、大兵主神(オオヒョウズノカミ)が祀られているが、正一位の宣旨(せんじ)を賜った最高の社格をもつ大和一の古社と言われている。アナシヒョウズノカミは、天祖降臨の際の三体の鏡の一体を御神体とする御食(ミケ)津神で、生産と平和の神、智慧の神でもあり、倭姫命(やまとひめのみこと)が創建されたとされる。それは豊受大神、イナンナそのものである。鏡を御神体とする豊受大神ならば、海部(あまべ)一族(エフライム族)の祀る社と同じ構造である。そして海部(あまべ)氏(エフライム族)の祖の倭姫である。
 そして、ワカミタマノカミは稲田姫命(イナダヒメノミコト)のことで、御神体は勾玉と鈴で、芸能の神として崇敬を受けられている。つまり“稲田”は御食津神で、鈴と芸能の根源はアメノウズメノミコトなので、これもイナンナである。
 この“若”は、シュメールにあった元初最高の神々の宮殿である天の少宮(わかみや、小宮)に由来する。そして、オオヒョウズノカミの御神体は剣(ほこ)で、武勇の神で相撲の祖神。そうすると、鏡、勾玉、剣で三種の神器が揃う。よって大邪馬台国の祭祀場に他ならない。
 ヒョウズノカミは支那の史記に登場する神である。山東地方で祀られていた天主、地主、兵主などの八神を始皇帝が祀ったのが初めで、漢の高祖が兵を挙げた時、兵主神の蚩尤(シユウ)を祀って勝利を祈った。支那では、蚩尤(シユウ)は魔を払う半人半獣の守護神で、両鬢は逆立って剣の切っ先のように鋭く、頭の真ん中には角が生えており、砂と石、一説には鉄鉱石を食べていたらしい。ならば、蚩尤(シユウ)は製鉄を暗示している。

 鉄を制したものが武力を制したので、まさに兵の神、兵主神となる。そして、邪馬台国時代の朝鮮半島に於ける製鉄の中心は辰韓(しんかん)=新羅と弁韓=伽耶(かや)で、海部(あまべ)氏が新羅を建国したので、日本海を挟んで新羅からヤマトへ鉄が流入し、ヤマトに於ける中心が兵主だった、と言える。始皇帝が関わっているのなら、その系統の葛城氏が祭祀に関わっていたのは当然である。
 剣を“ほこ”と読ませているのは、本来の金属製の剣ではなく、木でできたアロンの杖だからである。それに、アメノヒホコを暗示し、それは、大邪馬台国では海部(あまべ)氏だけではなく、徐福系=葛城氏も祭祀に加わることにより国が統一され、それを暗示している。そして、ヒョウズノカミにより、鉄剣をも暗示している。誰かが、三種の神器はユダヤの三種の神器と決めつけたが、そうではなく、鏡、剣、勾玉は神器として明らかに存在している。

 現在、穴師下社(あなししもしゃ)とされるのが大兵主(だいひょうず)神社だが、そこと箸墓(はしはか)古墳の中心線を延長すると、兵主(ひょうず)神社跡(元兵主神社、穴師上社”あなしかみやしろ”)と斎槻(いつき)岳に達する。このラインと東西ライン(箸墓-桧原神社-泊瀬山ライン)の角度は約22度だが、このライン上から太陽が昇るのは夏至の約1ケ月前後で稲の播種の時期で、故に、“夏至の大平”と言われる所以でもある。ここからも、奈良盆地を埋め立てたり干拓し、稲作を基盤とする国家体制を築いたことが伺える。現に、古墳は墳墓と思われているが、実は古墳の周囲に張り巡らされている周濠(しゅうごう)は広範囲の灌漑用水として利用されていたことが解っており、古墳造成期と平地での稲作普及の時期が一致している。つまり単なる墳墓ではなかった。

 また、下社から上社に昇る古道は天皇坂と呼ばれていた。“天皇”を当てているが、海部(あまべ)氏(エフライム族)由来なので、本来は“天王”である。そうすると、古代の大王は祭祀王なので、大王が歩いて行く坂道が天王坂で、元兵主神社のあった水平な方形(=天に対する地)の台地から、斎槻岳を通じて天神の都介野岳を遥拝していたという祭祀形態が浮かび上がる。

 すなわち、都介野岳を遥拝するのは元兵主(ひょうず)神社で、言わば、元桧原(ひばら)神社でもある。邪馬台国と大邪馬台国は別の国ではなく、邪馬台国の発展系が大邪馬台国なので、大邪馬台国での祭祀は邪馬台国での祭祀も直接受け継いでいるのは当然である。更に、笠縫邑(かさぬいむら)の伝承地と称して元伊勢と伝えられ、斎宮山があり、天照大神を祀る天神社がある都祁野(つげの)の小夫(おうぶ)が、これらの大元と言える。

 古代は祭祀が最も重要だったので、御祭神や神社の配置がとても深い意味を表している。出雲に関わる話として、日本書紀に登場する丹波の氷香戸辺(ヒカトベ)という巫女が皇太子・活目命(いくめのみこと:垂仁天皇)に次のように言った。

“「私に子供が言います、出雲人の祈り祭る本物の見事な鏡、力強く活力を振るう立派な御神の鏡をもって祭れ、出雲人よ」

 これは、私の子に神が乗り移って言うのであろう。このことによって、出雲人は神祭りを許した。”であり、これは、出雲人=葛城氏が祭祀に加わっていたことの典型的な象徴である。つまり大邪馬台国では元兵主(ひょうず)神社での祭祀は海部(あまべ)氏直系のみが担当し、ダンノダイラでの新たな祭祀は秦氏に素直に従った徐福の系等の葛城氏(出雲氏)が加わり、葛城氏が中心となって祭祀を行っていた。