荒吐族の邪馬台国の奪回

■紀元前477年  

 神武天皇が崩じてから百余年が経過、大彦(おほひこ)王は倭国に使者を派遣し、故地邪馬台国の返還を要求した。この要求を倭は拒否した。この時の倭国は、前帝の懿徳天皇(いとくてんのう)滅後、皇位が二波の争いによって定まらず、空位の期間が長く続いていた。
 日高見国(ひたかみのくに)王の大彦(おほひこ)王は、この年、奥州(おうしゅう)六郡の荒吐族(あらばきぞく)に五王制を宣布し、一族の統制を改めて固め、武力による故地奪回を決意した。
 その勢力は祖来の仇、出雲の反忠一族と、日向の侵領一族を討って遺恨を晴らそうとの一念で兵を八方で訓練し、屈強な兵にするとの願いは、大彦王によってかなえられ、兵の数も六万余りに達していた。
 大彦王は、この大軍を率いて日高見国(ひたかみのくに)を進発、北陸、東海、木曽を長蛇のごとく進軍し、大和に迫った。
 大彦王に従うのは安倍臣、胆臣、阿閇(あべ)臣、伊賀臣、加茂臣の五王で、これは皆、大彦王の子息だった。

 皇位が二派に分かれて争っていた倭国だったが、この寄せ手に対しては力を合わせて戦った。倭朝の空位が長期にわたって続いたのは、日向族の中に王位に即位する各王があらわれなかったこともあった。
 攻防には刻(こく:時間の単位)を要したが、馬を使って戦う荒吐族(あらばきぞく)の戦法は無敵で、ついに日向族は敗れ、日向族系の皇子は皆、出雲、南海道、筑紫へと四散、逃げ散った。こうして荒吐族(あらばきぞく)の邪馬台国の奪回は、奪われてから百余年でなった。
 倭に残っていた邪馬台族は、この日高見国(ひたかみのくに)軍を喜んで迎え、逆に加勢する者が多かった。
 日向族の高御座(たかみくら)を護っていた日向兵は、ただ右往左往して逃げ回り、何とか脱しようとしたが、荒吐族(あらばきぞく)の囲みを逃れることが出来ず、追いつめられて斬られた。その血は泉のように流れ、屍(しかばね)は山となって積まれた。討ち残された者は、恐怖におののいて尿をし、甲を捨て、糧材を捧げて降伏した。
 勝利を得た大彦王だったが、倭国と日高見国(ひたかみのくに)を統一せず、邪馬台国の司所を大和の生駒(奈良県生駒市)に置き、邪馬台川(大和川)の里・羽曳野(大阪府羽曳野市)で和睦した。
 その条件は、倭国統治は荒吐族(あらばきぞく)に一任すること、荒吐領は尾張(おわり:愛知県西部)村より東とし、その領地は賀川、信州を除いたところとするというものだった。
 大彦(おほひこ)王は、奪回した倭国の統治を大毘彦(荒吐族)と建沼名河別彦(たけぬなかわわけひこ:日向族)の二王にゆだね、自身は奥州日高見国(ひたかみのくに)へ引き揚げてしまった。
 しかしこの和睦は、大彦(おほひこ)王より邪馬台国統治を委ねられた二王が邪馬台国の統治から筑紫国を除くことを日向族が主張し、また帝の立君についても意見がまとまらず、倭に残って経緯を見守っていた荒吐族(あらばきぞく)の王らは、後を大毘彦と建沼名河別彦(たけぬなかわわけひこ)にゆだねて奥州に引き揚げてしまった。しかしこれによって兵乱はしばらくの間止んだ。

 時が移り、奥州(おうしゅう)の日高見国(ひたかみのくに)では大彦(おほひこ)王の係累(けいるい)東日流(つがる)丸二世が日高見国(ひたかみのくに)王・荒吐族(あらばきぞく)王を継いだが、安日彦(あびひこ)命系ではなかったことから、倭にいた安日彦(あびひこ)命系の者は怒り、奥州にあった長髄彦(ながすねひこ)命系の者は喜んだ。そうして、東西(倭国と日高見国)の荒吐族(あらばきぞく)の統治が大いに乱れた。
 一方、倭より追われた日向族王(天皇の係累)は、逃亡先の副宮出雲国において出雲族から帝を即位させたことによって倭朝の天皇空位は63年間に及んだ。このことで日向族内に内紛が起こり、筑紫に去って行く者も多く出た。倭では意見が対立して皇位に即位する者が定まらなかったが、どのような経過をたどったかは知れないが、副宮で即位した帝が、大和に移ることとなった。
 この時、日向族と共に大勢の出雲族も大和に移り、出雲族の帝が君臨する時代が長い間続いた。
 時が流れ、筑紫に去っていた日向族の皇子らは、大和に君臨する出雲族に、帝位の返還を迫った。しかし出雲族がその要求に応じず、日向族と出雲族の間で、皇位争奪の激戦が約300年にわたって続いた。