倭(わ)という言葉と円形心理


倭(わ)という言葉と円形心理------------------------------------------------------------------------------

 直線が表すものは相対的な世界であり、円形は絶対的な世界である。直線的なシンボルも本来、人には必要な要素であり、直線は理知的な意識や、分析的な意識を形成する。そしてそれは常に、円に取り込まれるときそれが創造性と結びつく。自然界には、人間が考えるような直線は存在しない。水平の代表のような地球の水平線でさえも、実際には巨大な円の一部であるように、そこにあるのは常にさまざまな高低であり、差異であり、究極的な違いである。そこには真の調和と創造があり、それが人間が「愛」と呼ぶ根本のエネルギーであり、尊敬である。現代人は自然界のすべてに存在するこの構造を無視しており、意識的に作り出した直線に固執することで、本質的に存在する人と人との関係を崩壊させている。
 現代人には理解しがたいことだが、さまざまな高低や差異がなければ真の愛はあり得ないという認識が、シュメールの神官たちの基本的概念の一つであった。現代人はこの点で大きな誤りを犯しており、つまりすべてを画一的に並べようとする現代人の平等感は、自然の法則に反する概念であることに気づいていない。現代人はそれによって、真の愛というものを見失っている。この問題を超えることができない限り、現在の不調和を解決することはできない。

 円に集まるとき、一人一人が向かう方向(角度)はすべて異なっている。それに対し直線的に集まるときには、人々はすべて同一方向を向く。こうした画一的な環境が生んだ価値感こそが、現代の個人主義的平等観である。それは共感の感覚から人と人を感じるのではなく、直線的に同一ラインの上に並べようとする平等感覚で、そこには不自然さがある。そしてその反動が、自我そのものである競争意識を生み出している。現代の平等感覚と競争心は、直線的概念が形成する裏表の関係にある。
 人間の祖先は遠い昔、封建主義とはまったく異質の、宇宙本来の原理に基づいた人間観を持っていた。現代人の持つ平等観は、人と人との間に摩擦を生み出す不自然な人間観といえる。たとえばスポーツのバドミントンを例にとると、まずお互いのコートの広さなどの条件がすべて平等であることが前提になる。だが日本の古来の文化がもつ「羽根つき」では、平等条件は設定されない。そしてこの違いが生み出す方向性は、前者は競争であり、後者は二人でいかに長くつけるかという調和と共同の動きである。

 太古の人間は、こうした実に理想的で宇宙的な人間観によって世界を形作っていたのであり、それゆえにその子孫でもあるシュメール人は、その本質を踏襲しようとしていた。
 たしかに日本には古来、師を尊び、目上の人を尊ぶ習慣があった。そして世界的にもまれに見る道徳心が養われていたが、今やそれは過去のものとなってしまった。家に鍵をかけることを必要としなかった長い歴史は、そうして養われた精神性の何よりも確かなしるしでもあった。日本にも平等思想が広まり、鍵の必要な社会になり、道徳的にも社会は荒廃した。日本に本来ある上下意識とは、現代人が考えるような封建的で権力的なものではなくて、本当は宇宙的な人間観に支えられたものであった。
 すべての人々の方向性が同じライン上に並ぶ直線的関係と比べると、すべての方向が異なる円の次元では、それぞれが独自の個性を有している。それゆえに、一人一人の役割がそのまま守られるために、人と同じになろうとする画一性はなく、その画一性が生み出す比較や競争や摩擦も発生しない。今日、学校では対面して物事を教わるが、縄文の人々は現代人がイメージするような、教えるという文化を持たなかった。直線的に同じ方向を向く人々に対して、一人の人間が何かを教えるという形は、教える内容にかかわらず、その形態が二元的な意識構造を潜在意識に形作る。それが生み出すものとは、権威者にへりくだることで関係を築こうとする意識であり、もう一つは、そこに疑問が生まれることで権威者に対抗しようとする意識である。これらが直線心理というもので、自然界には存在しない直線が生み出す心理なのである。
 日本人の祖先の中には、常に円形心理が形成されていた。たとえば祭りの場では、同じように円の中央を向く年長者たちの行動や儀礼のあり方は、それを見たり、感じたりする子供たちや若者たちに模倣され、学ばれた。そこでは人との共感性が高められ、人間を深くとらえる直感が育てられる。円形心理は、その本質である絶対心理であるところからきており、それは他人への依存性を完全に超えるものであるがゆえに、他人に対する真の共感性を生み出す。現代人の「教える」という考えそのものが、直線的思考であり、概念なのである。
 現代の日本は、すべてが直線の世界になってしまっている。しかし日本の文化の中には、その潜在的な宇宙観が残っている。たとえば日本の国旗には、現代人の潜在心理と天性が象徴的に投影されている。現在の国々が選択しているほとんどの国旗には、その民族の潜在意識的なすべてが象徴的に表現されている。男性的極性の強い影響下にあるイギリスやアメリカの国旗は、すべてが直線でできている。イギリスの国旗が直線のデザインであることは一目瞭然であるが、アメリカの国旗もそうである。本来の星は円形であるのに、その星型さえが直線で描かれており、直線以外存在しない。

 国旗のデザインは近年になって行なわれたものであるが、こうしたものにも今の人間の中に、潜在的なシンボリズムが働いていることを示している。日本人の意識に円形の象徴が今も強く残っている要因は二つある。一つは、日本列島の大地が地球上でもっとも母性的なエネルギーを持つ領域であり、それが円的なエネルギーとして表出されているからである。そしてもう一つは、それによって歴史的に円的シンボルを尊重していた歴史が、他民族より色濃く長いことである。
 そうしたことのすべてが国旗に現れており、日本の国旗は日本人の天命を象徴している。それだけではなく、国旗と同じく、日本の国名にもそれは象徴的に刻まれている。日本の最古の国名を思い出すと、それはかつて、倭(わ)の国と呼ばれていた。やまと言葉の「わ」は円の概念そのものである。倭という漢字は当て字であるから、この漢字には意味はない。そのほかにも訓読みの「わ」に該当する漢字は輪・環があるが、いずれも円概念である。この言葉こそ、宇宙的象徴を示す聖なる言葉であった。この日本のやまと言葉の「わ」は、円形象徴を示す人類最古の音の一つであり、現在でも円形を意味する「輪(わ)」の概念はそこからきている。円という言葉は大陸から伝わった漢語であるが、日本では「円」という言葉が伝わる前から、円形や円形の次元を「わ」という聖なる音で表していた。太古の日本人の認識では、宇宙の原点は「あ」であり、それが形として現れたものが「わ」であった。そのゆえに、家も村々も円形に形作られて配置され、国全体が円形に配置されたのである。

■紀元前97年頃

 弟を奥州のタカグラ王に即位させることに失敗した開化帝は、責任をとって倭のワケグラ王の座を離れ、日向族、出雲族、南海道の狼族の離反を止めようと画策(かくさく)したが、その時カラクニ皇子(開化天皇の子息・御間城入彦五十瓊殖尊"みまきいりびこいにえのみこと")が出て来て開化帝を殺害し、自らが崇神帝(十代天皇)として即位した。