宇宙の創世の動機

 まずはじめにあったのは、意識的エネルギー体である「存在のすべて」だけだった。それは存在するすべてであり、始まりであり終わりである。アルファであ りオメガであり、太陽であり物質である。問いであり答えである。上昇であり下降である。左であり右、現在であり、過去、未来である。「存在のすべて」は、 人間が理解できる形も姿もない。それはどんな形や姿になることもできるが、「存在のすべて」は偉大なる「見えざるもの」であって、ある瞬間の形や姿ではな い。「存在のすべて」の世界は、絶対の世界であって、そこでは、ひとつのものが、他との関係によって存在しているのではなく、何ものからも、独立して存在 している。
 その「存在のすべて」は、自分自身が何かを知ることはできない。なぜなら「存在のすべて」があるだけで、ほかには何もないからである。ほかに何かがなけ れば、「存在のすべて」も、ないということになる。「存在のすべて」は、裏返せば「無」と同じであった。これが、時のはじめから神話が語りつづけてきた 「すべてであって/無である」ということである。
 その「存在のすべて」は、あるのは自分自身だけだと知っていたが、それだけでは充分ではなかった。なぜなら、「存在するすべて」であることの絶対的な素 晴らしさを概念的には知っていたが、体験的には知りえなかったからである。そこで、自らを体験したいと強く望んだ。素晴らしいというのはどんな感じなの か、を知りたがった。だが、それは不可能だった。なぜなら、「素晴らしい」という言葉そのものが相対的なものだったからである。「存在のすべて」は、素晴 らしくないとはどういうことかわからなければ、素晴らしいとはどんなものかを知ることができなかったのである。否定があってはじめて肯定があるからであ る。 
 そこで考えた。一部は全体よりも小さい。それなら自らを分割すれば、残る全体を振り返って素晴らしさを知ることができるだろう。「存在のすべて」は自分 を分割し「これ」と「あれ」とになった。また「どちらでもないもの」も存在した。これは科学者のいう「ビッグバン仮説」である。
 自分自身を分割した「存在のすべて」の聖なる目的は、たくさんの部分を創って自分を体験的に知ることだった。 創造者が「創造者である自分」を体験する方法は、ただひとつしかない。創造することである。そこで「存在のすべて」は、自分の無数の部分である霊や魂に、 全体としての「存在のすべて」が持っているものと同じ創造力を与えた。人間の宗教で「人間は神の姿をかたどり、神に似せて創られた」というのは、そういう 意味である。これは、物質的な身体が似ているということではない。そうではなくて、本質が同じだという意味である。
 また「存在のすべて」と人間も、同じものでできている。それらは「同じもの」なのであり、同じ資質、能力を備えている。生命はすべて振動であり、人間が 生命と呼ぶものは、全て純粋なエネルギーである。このエネルギーはつねに振動している波動である。異なる速度で振動する波は、異なる密度あるいは光を生み 出す。これが、物理的な世界の「効果」を創り出す。
 「存在のすべて」と同じ能力の人間には、宇宙から物質的な現実を創出する力も含まれている。「存在のすべて」が人間を創造したのは、神としての自分を知るためだった。人間を通してしか、知る方法がなかったからである。