10章 倭国と東西ローマ帝国


■476年頃

 西ローマ帝国の皇帝ロムルスは実際は権威を持っておらず、ゲルマン人の将軍達が実験を握っていた。その中で軍人オドアケルが皇帝ロムルスを退位させたことで西ローマ帝国は滅んだ。その後オドアケルは東ローマ帝国の皇帝ゼノンへ西ローマ皇帝位を返上、自らはゼノンの代理としてラヴェンナを中心としてイタリア統治を開始し、イタリア王に即位した。オドアケルはローマ元老院をそのまま残し、古代ローマ式の統治方法を採用した。

■477年頃

スリランカのヤーパフアとシーギリアの獅子像とライオン像の前足------------------------------

 スリランカのヤーパフアには2体の獅子像、多角形の石積み、巨石の山が存在する。シーギリアにはライオン像の前足、巨大な巨石(石球)、巨石の山が存在する。どちらもスリランカにあり、距離も近い。つまりこれらもアヌンナキが作った。シーギリヤの遺跡は、カッサパ1世(在位477〜495年)によって建造されとされ、要塞化した岩上の王宮跡と、それを取り囲む水路、庭園、貯蔵施設などの都市遺構からなる。

■495年頃

 悪魔崇拝のカトリック教会では、イエス・キリストに従った使徒の一人のペトロを初代のローマ教皇とみなし、初期のローマ司教たちはペトロの後継者、ペトロの代理者を任じていたが、時代が下って教皇の権威が増すに従って、みずからをもって「イエス・キリストの代理者」と任ずるようになっていった。「キリストの代理者」という称号が初めて歴史上にあらわれるのは495年で、ローマの司教会議において教皇ゲラシウス1世を指して用いられたものがもっとも初期の例である。教皇はカトリック教会全体の首長という宗教的な地位のみならず、ローマ市内にある世界最小の独立国家バチカンの首長という国家元首たる地位をも担っていた。ただこのキリスト教は、326年頃の第1ニカイア公会議で、民衆を巧みに支配する為に創作されたものであり、現在まで続いている。

■500年頃

熊本県のチブサン古墳-------------------------------------------------------------------------------------

 熊本県のチブサン古墳は前方後円墳で、壁画には7機のUFOを迎えている冠をかぶった王の姿が描かれている。チプは北海道のアイヌ語で船を意味し、サンケは降ろすや降臨させるという意味である。壁画の絵は「チプサン(ケ)(宇宙船を地上に降ろす(着陸)させる際の儀式)」を意味している。熊本県の名称がどうして北海道のアイヌ語で解読できるかというと、アイヌ民族はもともと日本全国にいたため。一般的には古墳内部の中央に描かれている装飾の紋様が女性の乳房に似ていることから、「乳の神様」として現在に至るまで崇められている。


熊本県の井寺古墳(いでらこふん)の多角形の石積み--------------------------------------------------

 熊本県の井寺古墳(いでらこふん)は円墳で、内部に多角形の石積みがあることからアヌンナキが作ったとわかる。500年頃の築造と推定されている。チブサン古墳とは年代も距離も近い。

熊本県の大戸鼻古墳群(おおとはなこふんぐん)--------------------------------------------------------

 大戸鼻古墳群(おおとはなこふんぐん)は、500年頃のものと推定され、5基の古墳があったが現存するものは4基。ここもチブサン古墳や井寺古墳と年代も距離も近い。南一号古墳はドルメンであり、神とされたアヌンナキへ動物の生贄などを捧げる場だったと考えられる。

 南2号古墳の石室も大きな石を積み上げるドルメン型であり、アヌンナキによるものとわかる。その内部に描かれている円の装飾には、ギザギザ模様が描かれているが、これは銅鏡でも見られる。下記の銅鏡は京都の椿井大塚山古墳(つばいおおつかやまこふん)のレプリカ。多くの銅鏡にも黄金比の渦模様が見られ、装飾の細かさなどからアヌンナキが作ったものと推察される。


 熊本県には巨石の石室がある装飾古墳が日本一の数を誇り、そこにドルメンや多角形の石積みがある。ただ埴輪なども出土していることから、昼は人間が、夜はアヌンナキが作ったと考えられる。


■538年頃

仏教伝来------------------------------------------------------------------------------------------------------

 百済の聖明王(せいめいおう)の使いで訪れた使者が、欽明天皇(きんめいてんのう)に金銅の釈迦如来像や経典、仏具などを献上したことが始まり。仏教伝来と日本の被差別部落には関係があり、被差別部落は日本にやってきた古代ユダヤ人によって作られた集落である。この根拠は、仏教伝来と共に牛を殺す=殺生となり、古代ユダヤ人たちは、牛を犠牲にし続けたため、江戸時代になって身分制度に組み込まれ、穢多(えた)と呼ばれるようになった。そして明治時代になって解放されたが、なお差別は続く。
 この牛を犠牲にする習慣は、人間が創造主の前に罪を犯し悪をやった場合は、牛あるいは羊を犠牲とし、創造主の前に罪の許しを得るというもので、旧約聖書に書かれている。故に、犠牲の字は両方とも牛偏(牛偏に正義の義、また義は羊の下に我)、(牛偏に生きる)であるとする。

 秦氏の一団には、鞣革(なめしがわ)職人もおり、これが後の皮多(かわた)・河原者となった。(元に戻れば、波多 → 秦と遡ることができる)。また、被差別者である穢多(えた)=古代ユダヤ人は裏社会を形成したため、忍者、ヤクザ、四条河原などで勧進興行を行い、安土桃山時代には河原者(河原乞食)とも呼ばれた出雲阿国(いずものおくに)が始めたと言われる歌舞伎や、室町時代には伊賀服部氏の出自である世阿弥(ぜあみ)が大成した能(または芸能界の役者・俳優)などの職種に、多くを見出すことができる。

etc.
イスラエルのレビ族と日本の部落問題のつながり----------------------------------------------------

 紀元前1000年頃に書かれた旧約聖書の中の古代ユダヤ歴史書の1つサムエル記下(きか)には、神の箱が登場し、それは契約の箱(アーク)のことで、日本へ伝わってお神輿(みこし)となる。また「神」や「主」とはアヌンナキのことである。サムエル記下(きか)では次のように書かれている。

サムエル記下
6:12 主が神の箱のことで、オベデ・エドムの家と彼に属するすべてのものを祝福された、ということがダビデ王に知らされた。そこでダビデは行って、喜びをもって神の箱をオベデ・エドムの家からダビデの町へ運び上った。
6:13 主の箱をかつぐ者たちが六歩進んだとき、ダビデは肥えた牛をいけにえとしてささげた。
6:14 ダビデは、主の前で、力の限り踊った。ダビデは亜麻布(あまぬの)のエポデ(真っ白な聖なる服=日本の神職の装束になる)をまとっていた。
6:15 ダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして、主の箱を運び上った。
6:16 主の箱はダビデの町にはいった。サウルの娘ミカルは窓から見おろし、ダビデ王が主の前ではねたり踊ったりしているのを見て、心の中で彼をさげすんだ。
6:17 こうして彼らは、主の箱を運び込み、ダビデがそのために張った天幕の真中の場所に安置した。それから、ダビデは主の前に、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげた。
6:18 ダビデは、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげ終えてから、万軍の主の御名(みな)によって民を祝福した。
6:19 そして民全部、イスラエルの群集全部に、男にも女にも、それぞれ、輪型のパン一個、なつめやしの菓子一個、干しぶどうの菓子一個を分け与えた。こうして民はみな、それぞれ自分の家に帰った。

 6:13の「肥えた牛」とは健康な牛のことだが、それをユダヤ人であるダビデが、主であるアヌンナキへ捧げた。ダビデはエンリルより地球統治を任されたアブラハムの子孫で、アヌンナキの直系血族である。やがて彼らの血族のイスラエル10支族が日本へやってきて漢字も作り出され広まっていくが、「犠牲(ぎせい)」という漢字は両方とも牛偏(うしへん)である。つまり旧約聖書の書かれた古代ユダヤに漢字の意味があり、ルーツも古代イスラエル、古代ユダヤにある。紀元前1500年頃に書かれた旧約聖書のレビ記にも、牛の生贄(いけにえ)に関して次のようにある。ここでの主もアヌンナキのことである。

レビ記
1:1 主はモーセを呼び寄せ、会見の天幕から彼に告げて仰せられた。
1:2 「イスラエル人に告げて言え。もし、あなたがたが主にささげ物をささげるとき、誰でも、家畜の中から牛か羊をそのささげ物とせよ。
1:3 もしそのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば、傷のない雄牛をささげる。それを、主に受け入れられるために会見の天幕の入口の所に連れて来る。
1:4 その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖(あがな)うため、彼の代わりに受け入れられるためである。
1:5 その若い牛は主の前でほふり、祭司であるアロンの子らは、その血を持って行って、会見の天幕の入口にある祭壇の回りに、その血を注ぎかけよ。
1:6 また、その全焼のいけにえの皮をはぎ、いけにえを部分に切り分けなさい。
1:7 祭司であるアロンの子らは祭壇の上に火を置き、その火の上にたきぎを整えなさい。
1:8 祭司であるアロンの子らは、その切り分けた部分と、頭と、脂肪とを祭壇の上にある火の上のたきぎの上に整えなさい。
1:9 内臓と足は、その人が水で洗う。祭司はこれら全部を祭壇の上で全焼のいけにえとして焼いて煙にする。これは、主への宥(なだ)めのかおりの火によるささげ物である。
1:10 しかし、もし全焼のいけにえのためのささげ物が、羊の群れ、すなわち子羊またはやぎの中からなら、傷のない雄(おす)でなければならない。
1:11 その人は祭壇の北側で、主の前にこれを屠(はふ)る。祭司であるアロンの子らは、その血を祭壇の回りに注(そそ)ぎかける。
1:12 また、それを部分に切り分け、祭司はこれを頭と脂肪に添えて祭壇の上にある火の上のたきぎの上に整える。
1:13 内臓と足は、その人が水で洗う。こうして祭司はそれら全部をささげ、祭壇の上で焼いて煙にせよ。これは全焼のいけにえであり、主への宥(なだ)めのかおりの火によるささげ物である。
1:14 もしその人の主へのささげ物が、鳥の全焼のいけにえであるなら、山鳩(やまばと)または家鳩(いえばと)のひなの中から、そのささげ物をささげなければならない。
1:15 祭司は、それを祭壇のところに持って来て、その頭をひねり裂き、祭壇の上でそれを焼いて煙にしなさい。ただし、その血は祭壇の側面に絞り出す。
1:16 またその汚物のはいった餌袋を取り除き、祭壇の東側の灰捨て場に投げ捨てなさい。
1:17 さらに、その翼を引き裂きなさい。それを切り離してはならない。そして、祭司はそれを祭壇の上、火の上にあるたきぎの上で焼いて煙にしなさい。これは全焼のいけにえであり、主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。

 レビ記の1:2にある「牛か羊をささげ物」で、漢字の「犠牲」の「犠」は、牛偏(うしへん)と羊の下に我と書く。つまり人間はアヌンナキの許しを得たり受け入れてもらうために、牛や羊を殺し、皮を剥(は)ぎ、取り出した内臓や足を水で洗い、生贄として捧げた。また1:3にある傷のない雄牛(おうし)とは、神であるアヌンナキに捧げるので、傷物では駄目だということである。
 レビ記の1:7〜1:9にある祭壇で生贄を切り分けたりした祭祀とはレビ族である。これはイスラエル12支族の一つで、失われた10支族として日本へもやってくる。
 日本では牛を殺して皮を剥(は)ぐ者は汚れた者とみられた。これが日本の同和問題、部落問題につながる。日本で差別に遭ってきた人々は、実は祭祀であるレビ族の末裔で、古代ユダヤでは高貴な人々であった。日本は静岡辺りから東日本と西日本に分かれるが、東日本で肉と言えば豚か馬、西日本では牛となる。そして同和問題、部落問題も東日本にはなく、西日本に存在する。その理由は古代ユダヤ人であるレビ族がやってきたのは関西で、牛の生贄を続けていたからだった。しかし後の552年頃、日本への仏教伝来と共に牛を殺す=殺生(せっしょう)となり、古代ユダヤ人たちは牛の犠牲を続けたため差別されるようになる。そして1185年頃から1333年の鎌倉時代までには奈良と京都で穢多(えた)差別があったことが明らかになっており、1603年から1868年の江戸時代になって身分制度に組み込まれ、士農工商に分類されない最下層の身分として穢多(えた)・非人(ひにん)とされた。
 こうして関西圏には皮田村(かわたむら)という被差別部落が存在してきた。この皮に氵(さんずい)をつけると、波田(はた=秦)と呼べる。古代日本にいた秦氏は、イスラエルからやってきた古代ユダヤ人である。日本の名字には穢多(えた)の別称として皮田、皮多、川田、革多、革田など様々あるが、それは古代ユダヤ人が自分たちの名前をなんとか残そうと苦労してきた結果である。
 また明治4年(1871年)まで、農家の働き手の牛や馬が病気や寿命で死んで場合、死牛馬取得権(しぎゅうばしゅとくけん)は被差別部落(当時は皮田・革多・穢多)が持っており、牛が死んだ農家は部落(皮田村)へ連絡をして、処理を願っていた。
 そして戦後1945年以降の日本でも差別は根強く、根本的理由もよくわからないまま、虐げられる必要のない人々が虐げられてきた。被差別部落とは日本にやってきた古代ユダヤ人によって作られた集落である。

etc.

ユダヤ教、山伏(やまぶし)、雅楽(ががく)、伎楽(ぎがく)、天狗の共通点------------------------

 538年頃の仏教伝来と共に伝わったものが他にもある。日本の伝説上の生き物とされる天狗が頭に付けている黒い小さな箱は兜巾(ときん)というが、ユダヤ教徒はヒラクティリーという黒い箱を頭に乗せている。中に戒律(ティフリン)が入っている。日本では山中で修行をする修験道の行者の山伏(やまぶし)が兜巾(ときん)を頭につけ法螺貝(ほらがい)を吹くが、ユダヤの祭事ではヒラクティリー(黒い小箱)を頭につけ、ショーファーという羊の角の楽器を吹く。

 この兜巾(ときん)を天狗(てんぐ)も付けている。一般的に天狗は山伏(やまぶし)の服装で、赤ら顔で鼻が高く、翼があり空中を飛翔するとされる。

 さらに山伏(やまぶし)は「虎の巻」を、ユダヤ人は「トーラースクロール(トーラーの巻物)」を持っている。虎の巻は、門外不出の秘伝が書かれている書。トーラースクロールは唯一神が預言者モーセに語った天啓の書(モーセ五書)で、ユダヤ教の根源となる最重要の経典。「虎」とはトーラーのこと。

 古代イスラエルには山を聖なる所として捉えることがあった。ユダヤ人は山でお祈りをしたり、山に行って身を清めたり、一種の修行のような礼拝行為をしていた。日本の山伏(やまぶし)も山中で修行をする修験道の行者。
 天狗は鼻が高く描かれることが多い。天孫降臨の際に道案内をしたということから、キリストを日本へ連れてきた導きのニンギシュジッダは猿田彦(サルタヒコ)。猿田彦は天狗の姿で表される。

 兵庫県の大避(おおさけ)神社にある雅楽(ががく)面も、鼻が高いで共通している。大避(おおさけ)の元字は大辟(だいびゃく)で、意味は“死刑”で、イエスの磔刑(たっけい)。同音で別の字では大闢(だいびゃく)。この字は、中国ではダビデの意味。

 東京国立博物館に保存されている鎌倉時代の雅楽面も鼻が高く、頭に鳥獣のような生き物が乗っている。

 山伏(やまぶし)、ユダヤ教徒、雅楽面、これらに共通する額の上の兜巾(ときん)やヒラクティリーや鳥獣。そして天狗と雅楽面に共通するのは鼻が高いということ。その雅楽面は大避(おおさけ)神社のダビデのように古代イスラエルに関係する。また天狗には羽がある。これらと共通する像が、90年頃の古代ローマよりアイオーンの像として見つかっている。アイオーンにも羽があり、額に生き物が乗っていてヒラクティリーの原型と考えることができる。姿は天狗ととても似ている。

 アイオーンの足元には2匹の蛇が描かれており、これがニンギシュジッダであることがわかる。その手には長い杖を手にしている。山伏(やまぶし)も金剛杖(こんごうづえ)という長い棒を手にしている。
古代の日本で演じられた仮面舞踊劇である伎楽(ぎがく)に用いられた伎楽面(ぎがくめん)も、天狗のように鼻が高く、顔が赤い。伎楽(ぎがく)は612年の推古天皇の時代に百済人味摩之(みまし)によって中国南部の呉(ご、222年〜280年)から伝えられたとされる。


 また烏天狗(からすてんぐ)という鳥の顔をした天狗もいるが、これはインド神話のガルダを前身とする仏教の守護神の迦楼羅天(かるらてん)がルーツと考えられ、伎楽(ぎがく)面でも見られる。中国での烏天狗(からすてんぐ)の根源は、紀元前223年までの楚(そ)の時代の天狗のような羽人(うじん)ともされる。

 次の画像は伎楽(ぎがく)の上演。迦楼羅天(かるらてん)の面(左上)や、天狗に似た赤い顔に高い鼻の面(右上)、そして獅子舞のルーツなる獅子(左下)、そしてアヌンナキからの王権の象徴である2本の纓(えい)がついた帽子などが見られる。この場合の帽子は、アヌンナキから渡されたものというよりも、衣装として反映されたということ。

 つまりここまでの共通点をまとめると、ニンギシュジッダ(アイオーン)によって古代イスラエルに広がったアヌンナキ由来の雅楽やユダヤ教が、中央アジアから中国では伎楽(ぎがく)へと変化し、538年頃からの日本への仏教伝来でそれらが伝わる。その時やってきたユダヤ人の秦氏と共にユダヤ教の文化も変化していて山伏(やまぶし)として伝わり、雅楽や伎楽(ぎがく)も伝わり、伎楽(ぎがく)の面が天狗へ、迦楼羅天(かるらてん)の面が烏天狗(からすてんぐ)になったと推察される。そして伎楽(ぎがく)から獅子舞も伝わった。

新説!?みのもんたの日本ミステリー!〜失われた真実に迫る〜 / 天狗の正体は古代イスラエル人だった!?
伎楽に密着!天理大学雅楽部へ!
Hiloyuki Kubota / 久保田 啓敬


獅子舞(ししまい)も唐草模様(からくさもよう)もルーツはアヌンナキ----------------------------

 世界中に渦模様があり、それはイナンナのシンボルでもある。それが日本では唐草模様(からくさもよう)として知られ、710年頃の奈良時代に渡来した様式から、次第に和様式の唐草模様となったものが好まれるようになる。
 唐草模様の風呂敷をかぶって踊る伝統芸能の獅子舞(ししまい)は、伎楽(ぎがく)がルーツ。つまり獅子舞も唐草模様(からくさもよう)も、アヌンナキ由来という結論。

 中国のライオンダンスも日本の獅子舞とルーツは同じだが、中国では200年代に行われていた記録が漢書(かんじょ)に残っており、これが最古の記録ではないかとされている。

漢書 : 象人 若今戲魚蝦師子者也
意味 : 象人(仮面をつけた人)は、今の魚蝦(ぎょか、魚類一般)・獅子を戯(ぎ、たわむれる)するがごとき者也
— 礼楽志 巻22

 現在演じられるライオンダンスは、1616年の清(しん)の時代に確立された形。


 インドネシアのバリ島でも、獅子の姿の聖獣バロンのバロンダンスが行なわれている。バロンの造形は唐代(618年〜907年)に中国から東南アジアに伝播した獅子に類似している。


■540年頃

エチオピアのアヌンナキの建築物------------------------------------------------------------------------

 100年頃から940年頃までエチオピア東北部では、アクスム王国が栄えた。ここでもアヌンナキの多角形の石積みが見られる。アクスムは、キリスト教を国教として初めて受入れた文明の発祥地であると同時に、エチオピア最古のアクスム王朝の中心として栄えた古都。また、エチオピア、セム族の王族が眠る聖地となっており、モーゼの十戒を収めたアーク「契約の箱」も、このアクスムにあるといわれている。アクスムは世界一高い一枚岩の石柱でも知られている。現存している最も高い石柱は高さは23メートル。かつては130本を超える石柱があったとされているが、その多くはイタリアとの戦争で倒壊し、現在は放置されたままとなっている。
 アクスムにあるラムハイ王と家族の地下墓の入り口には、多角形の石積みが見られる。この墓の近くにはラムハイ王のオベリスクがあり、高さ33m、重さ500トンとなっている。普通に考えれば、そんな巨石を人間が運ぶことはできないので、これもアヌンナキが作ったと考えることができる。


 アクスムにはキリスト教徒だったカレブ王(510年〜540年)の地下墳墓もある。ここにも多角形の石積み、隙間なく積み上げられた石が見られることから、アヌンナキが作ったと推察される。

 アクスムの南にはラリベラという街があり、ラリベラの岩窟教会群と言われる石をくり貫いて作ったエチオピア正教会の教会堂群がある。これも人間が作ったとされているが、何百トンもの石をくり貫いたということと、この建物の扉周りデザインがアクスムのラムハイ王と家族の地下墓と同じことから、アヌンナキの科学技術によって作られたと推察される。
 
etc. 

世界中の巨石遺跡で見られるT字の締(し)め金---------------------------------------------------------

 アクスムにあるラムハイ王の地下墓には、石と石を連結させるT字の締(し)め金が見られる。これと同じ技術が世界中の巨石遺跡で見られる。つまりこの技術もアヌンナキによるものということになる。下記の場所はそのT字の締(し)め金が見られる遺跡。

エチオピアのアクスムのラムハイ王の地下墓とカレブ王の地下墳墓
チュニジアのドゥッガ
エジプトのデンデラ神殿、カルナック神殿、ルクソール
イタリアのサルデーニャ島のタロス
ギリシャのアテネのアクロポリス、パルテノン神殿
イランのキュロスの墓
カンボジアのアンコール遺跡群のタ・プローム
インドのサーンチーの仏教遺跡
日本の江戸城の本丸中之門石垣
ボリビアのティワナク、プマプンク
ペルーのオリャンタイタンボ




■550年頃

 この頃、イスラエルから伝わった相撲は西日本各地で広まり、須恵器には力士の小さな像が装飾として飾られている。島根県、岡山県、兵庫県などでもそういった須恵器は作られた。


■552年頃

関東の荒吐族(あらばきぞく)------------------------------------------------------------------------------


 またこの頃、関東の荒吐族(あらばきぞく)と中国の北斉(550〜577年)の間には交流があり、北斉から水瓶(みずがめ)が荒吐族(あらばきぞく)へもたらされていた。しかし倭国と北斉との間には国交はなかった。北斎は騎馬民族の国であり、それが荒吐族(あらばきぞく)へ伝わった。


 これまでにメソポタミア文明のデザインを持つ太刀がもたらされたが、それが荒吐族(あらばきぞく)の群馬県の高崎観音塚古墳より出土する。

 観音塚古墳(全長約105m)の前方後円墳には、一尺35センチの高麗尺(こまじゃく)という古代中国の寸法が使われていた。この石室を35センチで計算すると石室内の350cm(10尺)と280cm(8尺)ときれいに計算できる。さらに天井の石は畳一畳より大きく、50トンを超える重さである。その重さの巨石を運んで石室を作れるのは、アヌンナキの科学技術である。

 また伊勢塚古墳の中は小さな小石の間に大きな石を挟んだ緩やかなドーム状の部屋になっている。その壁の小石だけで天上の巨大な天上石を支える造りになっている。

 また、古墳から出土する埴輪では、関東の埴輪は武人や武器などが多く、近畿では家が多い。この前方後円墳も夜はアヌンナキが、昼は人間が作ったという結論。

東日流外三郡誌

■574年頃

奈良県の飛鳥寺と古代ペルシャのつながり------------------------------------------------------------

 秦氏(はたうじ)で有名な人物である秦河勝(はたのかわかつ)は、飛鳥時代の皇族であり政治家である聖徳太子に仕え、太秦に蜂岡寺(広隆寺)を創建した。そして推古天皇の摂政として活動し、冠位十二階の制や憲法十七条を制定し、中国に小野妹子などの遣隋使を派遣するなど海外との対等外交も展開した。

 秦河勝はこの頃に朝鮮半島を経由して日本列島の倭国へ渡来した渡来人集団である。また大阪の四天王寺(593年〜)にある聖徳太子の七星剣(しちせいけん)には、北斗七星が刻まれている。北斗七星はシルクロードを旅する時の道標として使われたが、北斗七星を崇拝することはペルシャに繋がっている。
 聖徳太子と繋がりの深い奈良の飛鳥寺を建てた職人達の名前の名簿は、漢字の当て字で書かれているが、それはペルシャ語で解読できる。大阪外国語大学の名誉教授、井本英一氏の解読によると、太良未太(タラミタ Tara Mita)はペルシャ語の当て字でダーラー・ミトラと言い、寺の匠(たくみ)や総監督のような意味である。また白昧淳(はくまいじゅん)はPayman-dunで物差し入れの名前、麻奈文奴(まぬもんぬ)はMarnar+Minagで大理石+上薬というようにである。つまりペルシャ語の職業や道具の名前を、職人達の名前としていた。これは飛鳥寺の建立にはペルシャ人が関わっていた事を意味している。

 また聖徳太子が住んだ斑鳩宮(いかるがのみや)と飛鳥京(あすかきょう)を結ぶ太子道や法隆寺近くの道は、北から北北西に20度傾いているが、これは紀元前520年頃にアヌンナキによって作られた古代ペルシャのペルセポリス宮殿と同じ傾きで、古代ペルシャのシリウス信仰からきている。シリウスは、古代ペルシャで第二の太陽とされていた。古代ペルシャの暦では冬至の日(12月22日頃)が大晦日だったが、どちらの神殿も20度傾けることにより新年を迎える瞬間、南南東20度の角度の正面にシリウスが見える角度が北北西20度だった。これを聖方位としてペルシャ人は崇めていて、住居の窓もそれにあわせて作られていた。当時の太子道でも同じくシリウスが見られた。アヌンナキのニビルはシリウスBの軌道を廻っていた巨大惑星であり、そこからやってきた。全ての文化はアヌンナキが由来であり、よって彼らの故郷のシリウスを崇める。


飛鳥寺の黄金比----------------------------------------------------------------------------------------------

 創建時の飛鳥寺の講堂の大きさは東西35.15m、南北18.7mで、奈文研都城発掘調査部が作成した講堂遺構図では、敷地がちょうど黄金比の形になっている。つまりアヌンナキがペルシャ人と共に飛鳥寺を建立したと推察される。




ここまでの秦氏渡来の流れ--------------------------------------------------------------------------------

 古代日本は、物部王国であった。彼らは、海のシルクロードを渡ってきたイスラエルの失われた十支族の中の一部の者たちである。日本の建国は紀元前660年であり、失われた十支族が建国したと考えても良い年代である。(イスラエルの北朝が滅亡したのは紀元前722年。)
 最も勢力を誇っていたのは、東海地方から畿内まで治めていた尾張氏(尾張地方の名の由来)と、畿内から丹後付近(京都府北部)までを治めていた海部(あまべ)氏である。尾張氏は代々熱田神宮の宮司の家系であり、別姓が海部氏である。つまり、尾張氏と海部氏は同族の物部氏である。よって、愛知県西部に海部(あま)郡があり、海部(かいふ)なる姓がある。海部氏こそ、代々、京都の天橋立の袂にある籠(この)神社の宮司の家系である。

 籠(この)神社は天橋立(京都府北部)の袂(たもと)にある。天孫降臨となった場所は、全国にいろいろあるが、天橋立を伴うものはここしかない。天橋立は、天浮橋(あめのうきはし)が倒れたもの。似たようなものにヤコブの階段(梯子"はしご")がある。アブラハムの孫ヤコブ(後のイスラエル)は、旅の途中、野宿して夢を見た。先端が天まで達する階段が地に立てられ、天使たちが昇り降りしていた。そして、天橋立も同様に神が昇り降りしていた。故に、天橋立のモデルはヤコブの階段(梯子"はしご")である。

 この古代日本の物部王朝へ、原始キリスト教の流れを汲む秦氏が来日した。そして、ある目的のために国中をカッバーラで封印し、今日に至る。それには、日本固有と思われている神道(しんとう)が大きく関わっている。

 秦氏は朝鮮半島からの渡来人であり、土木工事や鉄器製造、機織りなどに優れた殖産豪族であることは知られている。例えば、京都の嵐山は秦氏の拠点の1つであり、桂川の治水工事や有名な渡月橋の建造は、その例である。それだけでなく、彼らは芸術的センスにも優れ、秦氏の氏寺、広隆寺にある新羅様式の弥勒菩薩半跏思惟像は国宝第1号に指定されたほどのものである。

 北朝イスラエルが滅亡後、北朝十支族は歴史から消えた。聖書には、失われた支族は東で膨大な数になっている、とある。そして、彼らは「マナの壺」と「アロンの杖」を携えていた。エルサレムから見て東側、大陸には多くの遊牧民が生活していた。スキタイ族、サルマタイ族、匈奴(きょうど)、鮮卑(せんぴ)、烏桓(うがん)などである。ユダヤ民族は元々遊牧民の血統であるから、いつしか遊牧民と同化した。遊牧民は宗教に対しては寛容であるので、彼らが何を信仰していても問題なかった。

 そして、次第に極東方面までに達していた。このような騎馬民族が、大国中国をして、戦々恐々とさせていたのである。その防衛手段として造られたのが、万里の長城である。

 紀元前2世紀ごろには、東北アジアにツングース系騎馬民族「扶余、夫余」が出現した。その大王の名が「解夫婁(ヘブル)」であり、当然ヘブライのことである。従って、扶余(ふよ)族こそ、失われた十支族の流れなのである。そして解夫婁(ヘブル)の息子の大王フルが婿入りして、日本で応神天皇となる。

 ついに南朝ユダ王国も滅亡寸前になると、異教徒の手に落ちる前に、原始キリスト教徒の祭司(レビ)一族は密かにアークを持ち出していた。原始キリスト教徒は祭司一族と共に、失われた十支族の後を追ってシルクロードを東征したのである。「契約の箱アーク」とイエスに関する物を持ち出して。
 彼らを追った理由の1つには、彼らは「マナの壺」と「アロンの杖」を持っている。そして、もう1つはイエスの教えである。イエスは、ユダヤ人のみに対して伝道したが、“イスラエルの家の失われた子羊”にも伝道しなければならないとしていた。子羊とは神の生贄であり、神の僕のことである。それは、神と契約を交わした、失われた十支族のことに他ならない。そして、聖書には、失われた支族は東で膨大な数になっている、とある。
 そこで、ユーフラテス川を越え、シルクロードを東征していくと、ヤマトゥ(弓月王国)の地に当たる。そこで彼らは、元々いたシュメール~ヒッタイトの末裔と同化し、鉄器製造、土木工事、芸術などの高度な技術を受け継いだ。

 彼らが更にシルクロードを東征して中国へやって来た時、中国式の名前、すなわち、漢字で姓と名が必要とされた。ユダヤ人は姓が無かったので、何か姓を付けなければならない。中国は彼らの姓を“秦氏”とした。“秦”とは“秦の始皇帝”の“秦(シン、チン)”ではない。当時、中国ではローマ帝国のことを大秦と書いた。この頃のエルサレムは、ローマ帝国領であった。大秦(だいしん)から字を採って“秦氏”、また先ほどのように“秦人”で“流浪の民”の意味がある。彼らが、放浪の民だったからである。
 更に、彼らが自分たちのことをアラム語で“イエフダー(ユダヤ)”と言っており、「フダー」から「ふた」「はた」としたのである。(中国や朝鮮半島の非ユダヤ系秦氏は「チン」と読む。)よって、南朝の原始キリスト教エルサレム教団の彼らこそが、本当の秦氏なのである。

 彼らは中国と戦ったり牽制(けんせい)したりすることなく、失われた十支族の後を追った。そして朝鮮半島に達し、とうとう失われた十支族の流れを汲む扶余(ふよ)族と合流した。そして、更に南下して伽耶(かや)に達した。
 そして、文化的には新羅(辰韓)の様式を継承していた。しかし、4世紀頃に中国が台頭すると、高句麗がそれに抵抗。そして半島全体が動乱に巻き込まれた。この頃の伽耶は新羅と百済に挟まれた小国だったので、海を隔てた九州物部王国と同盟を結んでいた。この動乱を機に、伽耶に居た十支族の流れを汲む騎馬民族が、東シナ海を渡って九州物部王朝に渡来した。その頃の遺跡に、突如として馬具が多く見られるのは、そのためである。その大王こそが、伝説上で海側に国を造ったが衰退し、自殺したと言われている、フル(真沸流)なのである。
 物部氏は失われた十支族の内、海のシルクロードを渡ってきた者たち(エフライム族)である。彼らは「アロンの杖」を携えていた。そこへ、「マナの壺」を携えた騎馬民族の大王フル(ガド族)が婿入りして初代天皇、応神天皇となった(神武ではない)。


 応神天皇は何回かに亘って秦氏を呼び寄せた。そして、イエスのカッバーラに従い、今日の日本の基礎となる土台を作り上げた。ユダヤの三種の神器なども封印した。徹底的に封印した。神社は言うまでもなく、民一人一人までも。カッバーラに囲まれているので、いつしか誰もカッバーラをカッバーラとも思わなくなった。漢字、相撲、七五三、門松、御札、家紋などである。(日本の場合、西洋の黒魔術的カバラと違い、イエスが明らかにした正統派カバラなので、原音に近い「カッバーラ」とする。)

 秦氏は弓月君に率いられて来日したとあるが、それが真沸流ではない。真沸流は失われた十支族の流れを汲む騎馬民族の大王であり、“秦人”と呼ばれていた秦氏である。エルサレム教団の秦氏ではない。しかし、外から見れば、同じユダヤ系の区別のつかない秦氏なのである。
 つまり、朝鮮半島から渡来した秦氏とは、最初が失われた十支族の末裔の騎馬民族であり、後の日本の根幹を形成することになる中核の秦氏は、原始キリスト教エルサレム教団(特に祭司一族)だったのである。

 イエス・キリストをヘブライ語ではヨシュア・メシアッハ、アラム語ではイシュ・マシャ、メソポタミア東部やインドではイズ・マシと言う。イズ・マシという発音は京都の太秦(うずまさ)である。「ウズマサ」はヘブライ語で「ウズ=光」、「マサ=賜」という意味もある。
 また、種なしパンを「マッツォ」と言い、聖体拝領で使う特別なパンも種無しパンである。そして「秦氏」の総本山は京都の「松尾大社」である。松尾大社は酒の神でもある。マッツォと酒。まさに、聖体拝領を連想させる。ちなみに、マッツォはロシア語では「モチ」と言う。
 古代ローマ帝国の時代、中国ではローマ帝国のことを「大秦(だいしん)」と書いた。この頃のエルサレムは、ローマ帝国領。「大秦」と「太秦」は極めて類似している。

 京都御所は、聖徳太子のブレーンであった秦河勝の邸宅跡である。何故、天照大神の子孫が秦氏の邸宅跡に住んでいたのか?それに、聖徳太子は厩戸皇子(うまやどのおうじ)と呼ばれ、馬小屋で生まれたとされており、大工の神様でもある。まさにイエスである。さらに八角形の夢殿もある。
 天皇陛下をはじめとした貴族が着る服で、最も高貴な色は紫。イエスが鞭打たれていた時も、(赤)紫の外套を着せられていた。


■581年

 物部連が奥州に来て蘇我氏討伐の兵を募り、戦乱を起こしたが遂に敗退、荒吐族(あらばきぞく)の長となった。

東日流外三郡誌

■590年頃

この時代にエンリルやイナンナがいた証拠が残る遺跡ターク・イ・ブスタン-------------------

 イラン西部のササン朝ペルシャ時代の遺跡ターク・イ・ブスタンには、巨大なレリーフ(浮き彫り)彫刻が石窟に彫られている。岩山をくり抜く技術はアヌンナキのテクノロジーである。そこではエンリルであるアフラ・マズダ神から王権の象徴である王冠を与えられるササン朝ペルシア帝国の君主が見られる。ササン朝ペルシャは、226年〜651年の間メソポタミアを支配した王朝。

 ホスロー2世はササン朝ペルシアの王。在位590‐628年。つまりこの時代、エンリルやイナンナ(アナーヒター神)はまだ地球におり、世界各地を訪れてハイブリッド(半神半人)と交流を持っていたということになる。アナーヒターはバビロニアではイシュタルと呼ばれていた。

 アルダシール2世はササン朝ペルシア帝国の第10代君主で、在位379年〜383年。先代シャープール2世の兄弟であると言われる。王となる前はメソポタミア北部のアディアバネの王であった。この国の王族は1世紀頃、女王ヘレナの下でユダヤ教に改宗しており、その王達はエルサレムの神殿建設に多大な資金提供を行っている。

 シャープール3世はササン朝ペルシア帝国の第11代君主で、在位383年〜388年。シャープール2世の息子であり、先代アルダシール2世の甥に当たるとされる。しかしこの時代は名前が同じ人間が多く、はっきりと断定はできない。

 アフラ・マズダ神(エンリル)から授与される王権の象徴の二枚の纓(えい)がついた王冠と笏(しゃく)は、日本の天皇の即位の礼でも見られ、アジア各国の王族にも見られる。つまり、この王冠と笏(しゃく)を持つ一族は、アヌンナキからの直系血族であるユダヤ人であり、血縁を重要視するエンリルから支配・統治する役目を任されたことを意味する。

 ターク・イ・ブスタンの石窟横に彫刻された渦模様は、黄金比となっている。古代においてアヌンナキがいる所には、必ずと言っていいほど黄金比が見られる。また石窟上部には、エンキのシンボルの三日月も見られる。

Hiloyuki Kubota / 久保田 啓敬

■600年頃

イースター島のモアイもアヌンナキのニンギシュジッダ作------------------------------------------

 モアイで有名なイースター島にも、世界各地の巨石建造物と共通した石積みがある。つまりモアイを作ったのも、巨石を動かしデザインするテクノロジーを持ったアヌンナキとなる。アメリカの進化生物学者ジャレド・ダイアモンドらによれば、600年〜800年頃に、イースター島でプラットホーム状に作られた石の祭壇のアフ作りが始まり、遅くとも900年代にはモアイも作られるようになったとしている。

 イギリスの大英博物館に展示されているイースター島のモアイ像の胸には、黄金比の渦模様が見られる。つまり、巨大なモアイ像を作ったのもアヌンナキという結論。このモアイ像は1000年〜1200年の像とされている。


 そして地中にはモアイの胴体が埋もれていた。各地の巨石と同じく、100トン近い石を動かしたのは、人間の筋肉ではない。


600年から1500年頃まで見られる鬼瓦----------------------------------------------------------------

 神社仏閣などの屋根にある鬼瓦(おにがわら)には黄金比の渦模様が見られるものもあり、それが800年前後まで続く。


 600年〜800年までの鬼瓦は作り込みがしっかりとし、装飾も細かくされている。 黄金比の多用の仕方がデザイン性に優れていなければできないことである。これらの時代の黄金比のある鬼瓦は、アヌンナキが作った可能性が高い。

 同じ時代、朝鮮半島でも黄金比がある鬼瓦が見られる。

 800年代までは鬼瓦に黄金比が見られ、装飾もしっかりと細かく作り込まれたものだった。しかし900年代からは黄金比が消え、デザイン性も装飾も素人が作ったかのようなレベルのものが現れる。ここにアヌンナキと人間のデザインレベルの差を見ることができる。

 1400年代に入ると人間が作る鬼瓦も進化し、立体的で作り込まれたものが作られ始める。中には黄金比を取り入れたものもある。

■607年

奈良県の法隆寺の黄金比-----------------------------------------------------------------------------------

 法隆寺は607年に創建されたとされる。この中の西院伽藍(さいいんがらん)は、現存する世界最古の木造建築物群である。建造物以外にも、飛鳥・奈良時代の仏像、仏教工芸品など多数の文化財を有する。現存する法隆寺の伽藍(がらん)は火災で一度失われた後に再建されたものではないかという意見もある。法隆寺も黄金比が多数見られることから、アヌンナキと人間の両者が作ったと考えられる。

 日本書紀によれば、聖徳太子は飛鳥からこの地に移ることを決意し、斑鳩宮(いかるがのみや)の建造に着手、605年に斑鳩宮(いかるがのみや)に移り住んだという。法隆寺の東院(とういん)の所在地が斑鳩宮(いかるがのみや)の故地である(下図)。この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺(いかるがでら)、すなわち法隆寺であったとされている。
 聖徳太子が住んだ斑鳩宮(いかるがのみや)と飛鳥京(あすかきょう)を結ぶ太子道や法隆寺近くの道は、北から北北西に20度傾いている。さらに、法隆寺の西院伽藍(さいいんがらん)南東部の境内から発見された若草伽藍(わかくさがらん)は、創建時の法隆寺であると考えられているが、これも北から北北西に20度傾いている。これは紀元前520年頃にアヌンナキによって作られた古代ペルシャのペルセポリス宮殿と同じ傾きで、シリウス信仰の角度である。古代ペルシャの暦では冬至の日(12月22日頃)が大晦日だったが、20度傾けることにより新年を迎える瞬間、南南東20度の角度の正面にシリウスが見える角度が北北西20度だった。アヌンナキの惑星ニビルはシリウスBの軌道を廻っていた巨大惑星であり、彼らはそこからやってきた。つまり、彼らの故郷のニビルを崇める角度である。

 法隆寺の若草伽藍(わかくさがらん)などからは、黄金比の装飾がある軒平瓦(のきひらがわら)が出土している。

法隆寺の金堂の裳階(もこし)に乗る獅子にも、黄金比の渦模様が彫刻されている。

 法隆寺の五重塔の支柱を支える邪鬼(じゃき)・力士にも、黄金比の渦模様が彫刻されている。
  
 法隆寺の金堂の縦横の比率は黄金比、五重塔の塔身(とうしん)も断面図では黄金比となっている。また金堂の屋根の高さや幅が、2つの黄金比を重ねた時にできる比率に設計されている。

 法隆寺の金堂や中門(ちゅうもん)は、人間の目線で見れば黄金比の比率に収まる位置があり、その位置から見える黄金比の比率に屋根の高さが設定されている。立面図では黄金比ではない。つまり人間の目の高さから見れば美しく見えるように、黄金比になるよう計算して設計されている。
  
 法隆寺の中門(ちゅうもん)の内側の柱は、下の方が太く、上に行くにしたがって細くなっている。これはエンタシスの柱と呼ばれている。ギリシャのパルテノン神殿にも、この様式が取り入れられている。エンタシスは建築において、円柱の下部から上部にかけて徐々に細くした、もしくは中部から上部にかけて細くした形状。古代ギリシャ発祥の建築方法である。法隆寺の柱にも用いられており、建築家の伊東忠太(いとう ちゅうた、1867年〜1954年)によりその起源が古代ギリシャにあると提唱されたが、科学的に証明されなかった。ギリシャのパルテノン神殿は巨石建造物で、建物上部の三角形部分の原型は、「生命の樹」のケテル(王冠)の部分であり、アヌンナキが作ったもの。
 エンタシスの柱を人間目線で下から見上げると、真っ直ぐに安定して見える錯覚を生む。法隆寺の金堂や中門の縦横の比率が、人間目線からは黄金比になっている共通点からも、アヌンナキの技術と知識を法隆寺とパルテノン神殿に見ることができる。
  
  この法隆寺敷地内にも多角形の石積みも見られ、切込み接ぎ(きりこみはぎ)である。
 
 法隆寺の西院伽藍(さいいんがらん)の中心的な建物である金堂の内陣には、釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)、薬師如来像(やくしにょらいぞう)、阿弥陀三尊像(あみださんぞんぞう)の3組の本尊が安置されている。これらの仏像はいずれも銅造。釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)の光背(こうはい=後光"ごこう")裏面には推古31年(623年)造立、薬師如来像(やくしにょらいぞう)の光背裏面には推古15年(607年)造立の銘文(めいぶん)がある。この金堂の薬師如来像と釈迦三尊像には無数の黄金比の装飾が施され、デザイン性も高いことから、アヌンナキが作った可能性がある。

 法隆寺の東院伽藍(とういんがらん)には夢殿(ゆめどの)があり、739年頃の創建になる八角堂で、本尊の救世観音(くせかんのん)立像とともに国宝となっている。八芒星はイナンナの象徴であり、8のシンボルは世界中で見られる。

 夢殿(ゆめどの)の救世観音(くせかんのん)立像の渦模様も黄金比となっており、その数は膨大である。

 法隆寺の国宝である四騎獅子狩文錦(しきししかりもんきん)は、ササン朝ペルシャ(226年〜651年)の文様と言われ、左右対称の構図をもち、ペルシャ風の四人の騎士が有翼(ゆうよく)の駿馬(しゅんめ)を扱い、飛びかかる獅子を射ようとしている。
 この騎士の頭上に見られる三日月が、夢殿(ゆめどの)の救世観音(くせかんのん)の宝冠(ほうかん)や、金堂の釈迦三尊の左右にいる脇侍(きょうじ)にも見られる。アヌンナキで三日月と言えばエンキのシンボルで、シュメールの粘土板にも見られる。
 また、この四騎獅子狩文錦(しきししかりもんきん)の渦模様も黄金比でできている。このササン朝ペルシャの国旗にはWinged sun(ウィングド・サン)のマークがあり、これはニビルのシンボルである。

 法隆寺の五重塔には、侍者像(じしゃぞう)という像があり、馬頭形(ばとうぎょう)、鳥頭形(ちょうとうぎょう)、鼠頭形(そとうぎょう)という3つの像がある。顔がシュメールの爬虫類人であるイナンナと似ていると指摘される像だが、細かく見比べるとくちばしや服装のパターンが奈良県の興福寺(こうふくじ)の迦楼羅像(かるらぞう)と同じになっている。その興福寺の迦楼羅像(かるらぞう)にも黄金比の装飾が施されている。奈良県の興福寺の創建は669年、 法隆寺の創建は607年とされ、年代も場所もほぼ同じである。


古代インドのストゥーパと五重塔------------------------------------------------------------------------

 五重塔の原型は、ストゥーパである。ストゥーパとは、仏舎利(釈迦の遺骨)を納めるために紀元前300年頃から造られ始めた仏塔のことである。ストゥーパを音写したのが、墓に立てる卒塔婆(そとうば)である。古代インドのストゥーパは饅頭(まんじゅう)形(半球形)のものであったが、この形式が中国に伝えられると、楼閣(ろうかく)建築の形式を取り入れて高層化するようになった。

 塔の上にあるアンテナのような部分(下の図)は相輪と言い、9輪あり、その上に宝珠が乗っている。相輪は上から宝珠(ほうじゅ)、竜車(りゅうしゃ)、水煙(すいえん)、九輪(宝輪”ほうりん”)、請花(うけばな)、伏鉢(ふせばち)、露盤(ろばん)の7つの部分から成る。塔の中では相輪が最も重要なものであり、ここに仏舎利が納められる。相輪の中央を貫く心棒は、刹管(さつかん)または擦(さつ)と言う。

・宝珠(ほうじゅ):仏舎利を納める。
・竜車(りゅうしゃ):高貴な人を乗せる乗り物。
・水煙(すいえん):火炎の透し彫り。火を嫌うことから水煙と呼ばれる。
・宝輪(ほうりん):9つの輪。五大如来と四大菩薩を表す。
・請花(うけばな):前記までのものを受ける飾りの台。
・伏鉢(ふせばち):墓の原型。
・露盤(ろばん):伏鉢の土台。

 この7つの部分は、“イナンナの冥界下り”の「生命の樹」の7段階を表す。宝輪(ほうりん)と宝珠(ほうじゅ)を合わせると10個であり、「生命の樹」に於けるセフィロトの数である。そして、両者の間には竜車(りゅうしゃ)と水煙(すいえん)がある。竜と水は切っても切れない関係のため、これで一まとまりと見なすと、隠されたダアトに相当する。竜は蛇であり、蛇は知恵の象徴である。

 また、五大元素とはアダム・カドモン(カバラの言葉で原初の人間・神人間の意味)に於ける五体満足を暗示し、隠されたダアトを含めた11個のセフィロトを象徴している。アダム・カドモンとの対応は、足から膝が“地”、膝から肛門までが“水”、肛門から心臓までが“火”、心臓から眉間までが“風”、眉間から頭頂までが“空”である。
 つまり、五重塔自体が「生命の樹」でもある。なお、塔は必ずしも五重とは限らず、三重や七重などもあるが、いずれも奇数である。これは、七五三のゲマトリアに於ける陽数であり、十字架を形成する。
 また、ラジャスとタマスは“大”という力の塊となり、自己感覚としての5つの微細元素を生み出すと同時に、その器官として11根(こん)を生む。これは、人間の11器官に対応し、隠されたダアトを含めた11個のセフィロトを象徴している。


■613年頃

 476年にゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって西ローマ帝国が滅び、7世紀にムハンマドを指導者とする「新興宗教イスラム教」が誕生すると、それまでキリスト教によって圧迫を受けていたパレスチナ地方は、イスラム運動の支配下に入った。イスラム教によって民族的に目覚めたアラブ人により、イスラム帝国は急激な成長を遂げ、西アジアから北アフリカ、そして南ヨーロッパ一帯にかけてを版図にし、キリスト教圏と対峙した。しかし、イスラム教徒は一部の例外もあるが、基本的にはユダヤ人を迫害し弾圧するということはなかった。なぜならば、アラブ人とユダヤ人はアブラハムの兄弟関係に当たるからである。そのため、アラブ人はユダヤ人を被保護民族と位置づけ、特別な人頭税を課す代わりに、その宗教と生活を保護した。そのため、ユダヤ人は本部をバビロンに置いた。
 このように、イスラム圏内の大多数のユダヤ人は、身分差別をされながらも、その共同体を保ったまま、安定した生活を送ることができたのである。しかも、中世イスラム社会では、ユダヤ教学最高の学者マイモニデスを一大頂点とした学術活動がなされ、ユダヤの思想文化面に輝かしい展開もみられたのである。
 だが、中世イスラム社会とは対照的に、中世ヨーロッパ社会、すなわちキリスト教社会においては、古くからユダヤ人を嫌悪する差別感情が定着していたため、ユダヤ人の職業は制限されていた。


■638年

 荒吐族(あらばきぞく)が一挙して倭の政治にそむいた。倭朝は上毛野(かみつけの)片名に荒吐族(あらばきぞく)の討伐を宣(せん)した。
  上毛野(かみつけの)片名は大挙して日高見国(ひたかみのくに)に攻め寄せたが、兵が寄せ集めの烏合(うごう)の衆(しゅう)であったので一戦で敗退した。
 倭朝はこれだけ敗北が続くのには何かわけがあると考えた。結論は、奥州を討伐するのに旭日(きょくじつ)に向かって矢を射るゆえであるとし、以後から戦いは旭日(きょくじつ)に背を向けて戦える位置へ寄せて、そこから大軍で攻めれば利があるとして、以後はその策をとることに決めた。

東日流外三郡誌

■645年

 春、東日流(つがる)有澗郡に物部一族が落ちて来た。

東日流外三郡誌

大化の改新---------------------------------------------------------------------------------------------------

 大化の改新が起こる。大化元年(645)から翌年にかけて中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)・中臣鎌足(なかとみのかまたり)が中心となって行った、蘇我氏打倒に始まる一連の政治改革。唐の律令制を手本として、公地公民制による中央集権国家建設を目的としたもの。その国家の実態は「支配階級は中国人を中心にし、その中国人に妥協した藤原氏」となっていた。中大兄皇子は天智天皇であり、中臣鎌足は藤原氏の始祖で藤原鎌足である。


■647年頃

イスラエルのダビデと大避神社(おおさけじんじゃ)の関係------------------------------------------

 中国ではダビデを漢訳して「大闢(だいびゃく)」と書くが、秦氏は西日本の日本海各地に大避神社(おおさけじんじゃ)と号する神社を建立し、また京都の広隆寺の隣に秦始皇帝を祭神の1つとして建立した大避神社(おおさけじんじゃ)も、昔は大辟、さらにさかのぼると大闢(だいびゃく)と号していた。つまり大避神社は、ダビデ神社ということである。


 また同神社が管理している木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)にある「三柱鳥居(みはしらとりい)」という珍しい鳥居は三位一体を表し、カバラの生命の木とも関係している。


 秦河勝を祭神に祀るのが兵庫県坂越(さこし)の大避神社(おおさけじんじゃ)で、坂越の大避神社で天神祭にあわせて「神社貴重宝物特別展」が開催され、河勝の作とも河勝が弓月国から持ってきたとも言われている舞楽面が展示されていた。


■648年

 この頃まで日本は平穏な世が続いていたが、荒吐族(あらばきぞく)王に津刈丸(つがるまる)が就くと、自ら日本将軍と名乗り、五州の五王を挙動して故地邪馬台国奪回を企てた。
 あわやまたも倭国との間で、騒乱が起こるやに見えたが起こらなかった。

東日流外三郡誌

■650年頃

埼玉県の八幡山古墳の多角形の石積み------------------------------------------------------------------

 650年頃とされるこの古墳の石室にも、多角形の石積みがある。奈良県の明日香村の石舞台古墳に似ていることから、考古学者の大場磐雄が「関東の石舞台」と形容した。天井は巨石であることから、アヌンナキが作ったということがわかる。


奈良県明日香村はアヌンナキの街------------------------------------------------------------------------

 明日香村にある石舞台古墳は700年頃の遺跡とされ、多角形の石の部分が見られる。元は土を盛りあげて作った墳丘(ふんきゅう)で覆われていたが、その土が失われ、巨大な石を用いた横穴式石室が露出している。

 明日香村にある岩屋山古墳にも同様の多角形の石積みが見られ、全体的にここの石積みにも隙間がない。年代も石舞台古墳とほぼ同じとされている。

 カッバーラで使用される図象の一つである生命の樹を元に作られた酒船石。カッバーラはアヌンナキであるニンギシュジッダが創始者であり、多角形の石積みもニンギシュジッダによるものである。カッバーラは「神から伝授された知恵」や「思想体系」というようなものであり、ユダヤ教、仏教における密教など、各宗教にもその考え方は見られる。

 また明日香村には、爬虫類人の姿をした像が見られる。メソポタミアのシュメールでも、よく似た爬虫類の姿に変身したイナンナ像が発見されている。

 メソポタミアで発見された像と同じような手を組んで座る像も、明日香村より見つかっている。

 明日香村には亀石が存在するが、それはアヌンナキのエンキのシンボルである。

 明日香村にあるキトラ古墳と高松塚古墳も石舞台古墳とほぼ同時期で、ここも多角形の石積みで作られたアヌンナキの建造物。



 この二つの石室内に描かれた中国の神話の四神、玄武(げんぶ)・青龍(せいりゅう)・朱雀(すざく)・白虎(びゃっこ)は、アヌンナキに対応する。玄武の亀と蛇はエンキのシンボルである。


 アステカ神話のケツァルコアトルは「羽毛ある蛇」とされ、ケツァルが鳥の名前、コアトルが蛇の意味。ケツァルコアトルはマヤ文明のククルカンと同一で、ニンギシュジッダを表す。青龍もまた羽を持つ蛇であることからニンギシュジッダとなる。


 朱雀は鳳凰(ほうおう)、不死鳥、フェニックスとも同一視される。朱雀の朱は赤であり、フェニックスという言葉は“紫”の意味も持つが、赤紫色やフェニックスはイナンナを意味する。つまり朱雀はイナンナを表す。


 エンキ、ニンギシュジッダ、イナンナという流れの次は、エンリルが白虎と推測できる。



■652年

 唐国船が東日流(つがる)於呂処浦に来航、十二宗(じゅうにしゅう)の仏法寺を三峰山(みうねやま:三重県と奈良県)の麓に建立し、僧30人を住(すま)いさせるようにと願った。

東日流外三郡誌

■655年

 難波の倭王宮(大阪市中央区)より招きがあり、柵養(きこう)の荒吐族(あらばきぞく)郡司五人、荒吐族(あらばきぞく)長老と津刈丸(つがるまる:のちの安倍安東)が、その招きによって、騎馬兵600人を従えて談議に訪れた。
 要件は、荒吐族(あらばきぞく)が異国の政治に倣(なら)って行っている居住地の五王制の制度を改め、倭国の治政に服することを要求するものだった。
 またも同じことの要求だったが、即刻回答のできるものではなかった。この時、倭は回答は後日、安倍比羅夫(あべのひらふ)を赴かせるのでその時で良いと言った。倭朝は話し合いに訪れた者全員に、その証として冠二階の位を授けたが、津刈丸(つがるまる)だけは断り応じなかった。

 荒吐族(あらばきぞく)の一行は、和睦することを条件として奥州に引き揚げた。倭朝は安倍比羅夫(あべのひらふ)を奥州に赴かせるにあたり、もし荒吐族(あらばきぞく)が倭朝の治世下に服さない時は、征討(せいとう)するようにと命じた。
 安倍比羅夫(あべのひらふ)は四年の歳月をかけて軍船380艘(そう)をつくった。その規模は兵の数が1万8000人も乗り込めるほどのものだった。
 安倍比羅夫(あべのひらふ)はまずその内の180艘を率いて東日流(つがる)に向かうこととし、残りの船200艘(そう)は予備として越(こし)の国(福井県から山梨県の一部)に控えさせた。

東日流外三郡誌

■656年頃

 京都の八坂神社が創建される。高句麗より来日した伊利之使主(いりしおみ)が、新羅の牛頭山に祀られる素戔嗚尊(すさのおのみこと)を山城国(やましろのくに)愛宕郡(おたぎぐん)八坂郷に祀り、「八坂造」の姓を賜ったのに始まる。ヘブライ語で八坂→ヤーサカとは神を称える「神よ!」という表現で、神(ヤー)の尊敬表現。

■658年

 安倍比羅夫(あべのひらふ)は軍船180艘(そう)に兵一万を乗せて、越州柏津を進発して東日流(つがる)に入り、荒吐族(あらばきぞく)王・津刈丸(つがるまる)と五王全員と会って、倭国に帰属する回答を求めたが、色よい返事は得られなかった。
 安倍比羅夫(あべのひらふ)は味方の軍船が停泊している有澗浜に引き揚げて陣をたてなおし、いざ、荒吐族(あらばきぞく)討伐の兵を挙動しようとしたその時、荒吐族(あらばきぞく)は、安倍比羅夫(あべのひらふ)が大勢の兵を伴っていたことから、戦は避けられないと想定していて、いつでもそれに対応できるよう軍策、その配備に怠りはなかった。
 会談が決裂したことから、荒吐族(あらばきぞく)は先手を打って陸と海より安倍比羅夫(あべのひらふ)の船団を囲んだ。あわや惨事発生かと思われたが、危険を察した安倍比羅夫(あべのひらふ)は、とっさに討伐の備えを急遽、鹿狩りにする布陣に改め、兵は弓や楯を踊りの道具に変じ、大円形をつくって踊りつめた。
 こうして、人垣で囲んで狩った獣は、鹿20頭、兎68匹、狐7匹、狸28匹、猿43匹、熊3匹、野生の馬17匹、山鳥31羽で、それを料理して大饗宴(だいきょうえん)を催し、歌い踊って荒吐族(あらばきぞく)の蜂起(ほうき)をかわした。
 その宴会の席上で安倍比羅夫(あべのひらふ)は、荒吐族(あらばきぞく)の齶彦、渟代彦を倭国の臣にすると言い、荒吐族(あらばきぞく)の長老・東日流(つがる)のワケグラ王馬武(ばぶ)に大乙上(だいおつじょう)、宇曽利(うそり)小表の青蒜(あおひる)に小乙下(しょうおつげ)、その臣、有健者には位一階を授けると言って、さらに長老馬武(ばぶ)には蛸旗(たこはた)20頭、鼓二面、弓矢二具、鎧二領を授け、改めて倭朝への帰属を請願したが、受け容れられなかった。
 こうして安倍比羅夫(あべのひらふ)の荒吐族(あらばきぞく)を倭朝へ帰属させる説得は失敗に終わった。
 やむなく安倍比羅夫(あべのひらふ)は、引き揚げるための物々交換の話に移り、軍船20艘(そう)と北海の干物、飲水、干肉、食糧との交換を申し出た。
 しかし荒吐族(あらばきぞく)王の津刈丸(つがるまる)は、この条件を納得せず、さらに50艘(そう)の軍船と、その軍船に積まれている矢、鎧のたぐいもすべて差し出すようにと追加要求した。
 安倍比羅夫(あべのひらふ)は致し方なくすべてを受け容れて倭に帰り、荒吐族(あらばきぞく)と物々交換で得た北海の産物を荒吐族(あらばきぞく)の貢物であると報告し、宮廷人の前でつくろった。
 荒吐族(あらばきぞく)は安倍比羅夫(あべのひらふ)と物々交換で得た軍船を荒吐族(あらばきぞく)の船と比較し、速度が劣るとしてすべてを焼き沈めてしまった。
 倭に帰った安倍比羅夫(あべのひらふ)の諸将は、この失策の恥をすすごうと再度荒吐族(あらばきぞく)討伐を企てた。

東日流外三郡誌

 
■659年

荒吐族(あらばきぞく)の浮木(うきぎ)の軍策-----------------------------------------------------------

 荒吐族(あらばきぞく)討伐の企てを朝廷に奏上して許可を得、越(こし)に残して置いた軍船200艘(そう)に、よりすぐった精兵を乗せ、朝廷の立てた旭日(きょくじつ)を背にして戦う作戦を実践、東日流(つがる)外浜の後方に上陸しようと軍船を寄せ、いかりを降ろした。

 しかし、これも荒吐族(あらばきぞく)が察知し、夜中ひそかに浜辺近くに停泊している軍船に近づき何やら仕掛けをし、地中から湧き出る大量の油を運び、浜辺に停泊している軍船のまわりに流した。

 翌日、夜明けと共に宇曽利(うそり)の荒吐軍(あらばきぐん)が、ハタという数十艘の小舟で安倍比羅夫(あべのひらふ)の船団に近づくや、数艘のハタを残してパッと四方に散った。
 しばらくすると、残し置かれた数艘のハタよりもうもうと黒煙があがり、その黒煙は、海風にあおられてみるみるうちに広がり視界を絶した。
 そして海辺では荒吐族(あらばきぞく)の兵の一人が、その水面に向かって矢を放つと、一瞬にして海が燃え上がり、浜辺近くに停泊していた軍船に火が移り燃え上がった。
 安倍比羅夫(あべのひらふ)の兵は「あれよ、蝦夷(えみし)の地の海は燃える」と言って肝をつぶし、船上の兵は戦意を喪失して恐怖におののいた。
 浜辺近くにとまっていた22艘(そう)の軍船が紅蓮(ぐれん)の炎につつまれて燃え上がった。安倍比羅夫(あべのひらふ)の兵は、急ぎいかりを揚げようとしたが、時すでに遅く、軍船は舵を切り落とされて漂い、船同士が激突して移り火し、燃え上がり沈んでいった。その様はあたかも船の墓場を見るようだった。
 これは荒吐族(あらばきぞく)の長老・馬武(ばぶ)の軍策で、荒吐族(あらばきぞく)が仕掛けた海中の水隠れ柵・浮木(うきぎ)のからくりによるものだった。浮木(うきぎ)は荒吐族(あらばきぞく)が鯨(くじら)を捕まえるときに使う漁法の一つで、この仕掛けによって安倍比羅夫(あべのひらふ)の軍船は見事なほどに、外浜の入江に封じられた。
 浮木(うきぎ)の仕掛けは十重に張られ、船の自在がきかず、浜に上陸しようとする者は、波打際で待ち構える荒吐族(あらばきぞく)兵のかっこうの的となりえじきとなった。
 また燃え上がる火の熱さから逃れようと、海に飛び込む者もあったが、燃えている火に巻き込まれ、苦しみの叫び声をあげて死んでいくのみだった。

 安倍比羅夫(あべのひらふ)はなす術がなく、船中の弓、矢、武具を海に投げ込み、貢物を献じて降伏を願い出たが許されなかった。
 安倍比羅夫(あべのひらふ)は荒吐族(あらばきぞく)の虜となって、船に積んでいた兵船具から兵糧まで、全荷物を戦利品として奪われ、そのうち軍船200艘(そう)のうち100艘を焼失した。
 この時、東日流(つがる)より援軍に駆けつけていた荒吐族(あらばきぞく)の長老・馬武(ばぶ)が、虜となっている安倍比羅夫(あべのひらふ)に向かって言った。
「わが東日流(つがる)は、倭の鬼門に当たるところにあり、そこへ向かって弓を引くような仇心(あだごころ)は、汝らに百厄(ひゃくやく)を招くことになる」
と、安倍比羅夫(あべのひらふ)は大いに得心(とくしん)し、降伏の証としておのれの頭冠を荒吐族(あらばきぞく)王の津刈丸(つがるまる)に献(けん)じ、それに付しておのれの姓・安倍の姓を与えた。これ以後、荒吐族(あらばきぞく)の王らは安倍姓を名乗った。

 安倍比羅夫(あべのひらふ)は解き放たれ、生き残った兵を指揮し、陸路と海路に分けて退帰させたが、海路をとる兵は、いつ沈没するかわからないような朽ち船、26艘(そう)をあてがわれ、陸路をとる兵は裸にされて解き放たれた。裸にされて退く兵は、武人としてこれほどの恥はなかった。

東日流外三郡誌

■661年

 またも荒吐族(あらばきぞく)に敗れた安倍比羅夫(あべのひらふ)は、おのれの恥に憤怒(ふんど)やるかたなく、三たび朝廷に奏請(そうせい)して許しを得、援軍に大華下阿雲比羅連、大山物部連熊(だいせんもののべのむらじくま)・大山守君大石(だいせんもりのきみおおいわ)を加えて兵船180艘(そう)を連ねて、東日流(つがる)安東浦及び後潟(うしろがた)に攻め寄せた。

 しかし安倍一族(荒吐族)は、その領港諸々に、一挙皆兵で飽田(あきた)、渟代(ぬしろ)、胆振(いぶり)、吹浦(ふくら)、吾妻浜(あづまはま)、十三湊(とさみなと)の水戸口(みとぐち)、外浜(そとはま)、宇曽利(うそり)に至る海辺の警護を固め、安倍比羅夫(あべのひらふ)の軍船に上陸を許さなかった。
 安倍比羅夫(あべのひらふ)はまたもなす術がなく降伏した。沖に停泊していた軍船はそれを見ると、皆逃げ失せてしまった。
 安倍比羅夫(あべのひらふ)は虜となり、多くの物を戦利品として奪われ、30日の間、八枚河岸に捕縛(ほばく)されていたが、一族の長老・馬武(ばぶ)の情けによって死刑だけは免じられた。
 安倍比羅夫(あべのひらふ)は涙を流して己が犯した罪の深さを謝罪したが、安倍一族(荒吐族)はこれを許さず、今女慎国に流すことを決めた。安倍比羅夫(あべのひらふ)以下全員が渟代(ぬしろ)まで歩かされ、そこより朽船に乗せて解き放たれた。粛慎国(みしはせのくに)は契丹(きったん:中国北部)の東北にあり、韃靼(ダッタン:北アジアのモンゴル高原から東ヨーロッパのリトアニアにかけて)の属国であった。
 粛慎国(みしはせのくに)に流された安倍比羅夫(あべのひらふ)は、このまま帰参(きさん)しては朝廷に対して面目が立たないと、渡島(わたりしま:北海道)粛慎国(みしはせのくに)のおとなしい地住民の珍愚志族(ツングースぞく)を名目上、討鎮めたと、安倍一族(荒吐族)の王に頼み込んで証明してもらい倭に帰った。(※この史伝を日本公使では、奥州及び粛慎国"みしはせのくに"を討ったと言っている)

 この三度の戦で勝てなかったことを倭では、東日流(つがる)は倭宮の鬼門にあたると怖れ、侵せば百厄の凶が兆すと、以後東日流(つがる)は、征夷の軍議から外された。

東日流外三郡誌

■662年

 中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:後の天智天皇・38代)が、荒吐族(安倍一族)の建国600年を祝う。

東日流外三郡誌

■663年頃

 朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)で、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との間で戦争が起こる。これは白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)と呼ばれ、唐・新羅連合軍は18万の大軍であった。日本は白村江の戦いに敗れ、唐の植民地支配を受け入れる。そして倭国は「日本」へ国号を変えた。


■672年

 壬申の乱が起こる。671年に天智天皇が崩御すると、その子、大友皇子と天智天皇の弟、大海人皇子(オオアマノミコ)が不和となり、672年に壬申の乱が起きたが、大海人皇子(オオアマノミコ)は勝利して第39代天武天皇として即位した。
 これにより応神天皇以来続いていた秦氏系の皇統から海部氏(エフライム族)系の皇統である天武系列が八代続くことになる。


■677年

 荒吐一族(あらばきいちぞく)は、十三湊(とさみなと)、安方湊(やすかたみなと)、吹浦湊(ふくらみなと)、舞戸湊(まいとみなと)、土崎湊(つちざきみなと)を要湊とし、更に加えて小泊(こどまり)、金井、神田、野追知、大間、糠部(ぬかのぶ)の七湊を設け、陸海共に実益をあげ巨万の富を得た。

東日流外三郡誌

■680年

奈良県の薬師寺の黄金比-----------------------------------------------------------------------------------

 680年創建の南都七大寺のひとつ、薬師寺にも数多くの黄金比が見られる。
 
 人間目線で見た場合、薬師寺の金堂にも黄金比の比率に収まって見える位置がある。その位置から見た場合の黄金比の比率に、柱の間隔などが設定されている。立面図で見た場合は黄金比にならないが、左右幅合わせで黄金比をひくと、左右の階段位置が黄金比の比率になる。

 薬師寺の金堂の平面図に黄金比を重ねてみると縦横の比率自体が黄金比になっており、その中にできる4個目の黄金比の大きさに階段幅が設定されている。

 薬師寺の大講堂にも2つの黄金比の比率に収まる位置があり、その黄金比にあわせて屋根の高さが設定されている。

 金堂の日光菩薩の光背(こうはい)にも、黄金比の渦模様が見られる。

 薬師寺創建当初の700年代の鬼瓦には、黄金比の渦模様が見られる。しかし1336年の室町時代から1868年の江戸時代末までの鬼瓦は精度も下がり、黄金比も見られなくなる。これは人間による改修された鬼瓦と推察できる。


 薬師如来の台座に描かれている人物の頭部の装飾は、とても細かい渦模様となっている。人間の手作業ではなく、アヌンナキの3Dプリンタのような科学技術で彫られたと考えられる。そして薬師寺もアヌンナキが主導しながら、人間もそれを学び建てたと推察される。


■685年頃

 天武天皇14年、第40代の天武天皇が、伊勢神宮の神宮式年遷宮の制を制定する。

■690年頃

 日本で最初で最大の都城である藤原京が、持統天皇によって奈良県橿原市に遷都される。

■697年頃

ヴェネツィア共和国の誕生--------------------------------------------------------------------------------

 東ローマ帝国の自治領として誕生したヴェネツィア共和国(697年-1797年)は、アドリア海と東地中海での貿易により繁栄し、強力な海軍を背景に、その版図はダルマチアを始めとしてアドリア海沿岸からイオニア海、エーゲ海、キプロスに及んだ。

イエスに追放された者たちのその後---------------------------------------------------------------------

 18年頃、イエスによって神殿から追放された者たち、特に、金貸しや神殿売春を行っていた者たちはフェニキアに逃れ、いつかイエスと彼らの信者に復讐してやることを誓っていたが、そのために、彼らが目を付けたのは地中海対岸のヨーロッパだった。そこはまだ、イエスの教えが普及しておらず、フェニキアとの交易が盛んだった。そこに加担したのが、イスラエルの支族の中のダン族である。彼らはフェニキアの商人に紛れて渡航し、最初の寄港地をフェニキアに因んでラテン語風にフェニーチェ=ヴェネチアと名付け、彼らの拠点とした。

 そこでも、彼らは相変わらず高利貸しを続けていたが、いつしか、王侯貴族に貸し付けるのが最も効率的に利益を回収できることが解った。彼らは金を貸し付けた王侯貴族の弱みに付け込んで婚姻関係を結び、社会的地位も確保していったが、あくまでも“裏”に徹した。表の位は高くはなく、裏から王侯貴族を操った。彼らは皮膚が浅黒かったので、“黒い貴族=ゲルフ”と言われた。そして、後に普及した教会も彼らの手中に落ちた。

 呪われたカナンとは、追放された者たちが隠れ住んだからで、そして、いわゆる“ヴェニスの商人”の一部となった。彼らの宗教はユダヤ教だと多くの人がそう思っていたので、事あるごとに“ユダヤ人が…”と言われるようになってしまった。しかし、実情は(マルドゥクのバビロニアの)タルムードを曲解したサタン崇拝である。イエスに敵対し、カネを崇め、性的退廃や人身供儀(じんしんきょうぎ)を主体とするのはサタン崇拝である。それが後に、シオン議定書(1897年頃)となって彼らの計画が文書化された。

 王侯貴族の中でも、最初はヴェネチアのあるイタリアだが、後に本拠地はオランダを経て英国となった。オランダはダイヤの取引など、彼らが独占的に行っていた国である。そして、世界を股にかけ、麻薬貿易も盛んに行って莫大な利益を上げてきた。そのオランダから渡ったのが、彼らの血を引くオレンジ公ウィリアムで、英国はそれ以来、ずっとその家系であり、エリザベス女王へと続いていく。

 特に、ダン族は王侯貴族に深く関わっている。祖のダンは、旧約では“マムシ”と表現され、ヨハネ黙示録の中では、通常は十二支族とされているダン族が外され、代わりにレビ族が加えられている。それは、後にダン族がこういったことに深く関わり、救われないことを預言してのことである。ヨーロッパ王室は家系が複雑に入り組んでいるので、金融と麻薬貿易という点で彼らの手中と言っても良い。それを仕切っているのが国際銀行で、いわゆる国際金融資本である。
 時代が下って表に出てきたのが、ドイツで“赤い楯”を称したロスチャイルド一族で、彼らの中枢中の中枢である。元々のバビロニア式貨幣経済では貨幣は物々交換の手段だったが、彼らが手段から目的へと変えた。そして、彼らに逆らって貨幣発行を独自に行おうとしたのがアメリカ独立戦争だが、実質的には独立できなかった。


■701年頃

 この頃、中国の百済の滅亡など緊迫する東アジアの国際情勢の中で、日本は中央集権化を進めることで政権を安定させ、国家としての独立を保とうとした。そのため当時の政権は、唐・朝鮮半島の統治制度を参照しながら、王土王民思想に基づく国家づくりを進めていった。その集大成が大宝律令であった。大宝律令により国家の楽制として雅楽寮(うたいのつかさ)が設けられ、平安時代には代々の天皇は雅楽が必須教養とされた。


■705年

シリアのウマイヤド・モスクの黄金比------------------------------------------------------------------

 ウマイヤド・モスクは、シリアの首都ダマスカスに建築された現存する世界最古のモスク。ウマイヤ朝第6代カリフのワリード1世によって705年に建てられたとされる。もとはキリスト教の洗礼者ヨハネ教会であったが、7世紀になってダマスカスがムスリムの支配下に入り、10年の歳月を費やして敷地全体がモスクへと改装された。このため、通常のモスクとは違いローマ建築・ビザンティン建築の様式が色濃く出ている。ここにも黄金比の建築デザインが見られる。


■710年


奈良県の平城宮に見られる黄金比------------------------------------------------------------------------

 710年に奈良県の平城京が日本の首都になる。ここもアヌンナキと人間の両者が作ったと考えられる。



 平城京の中にある平城宮(へいじょうきゅう)にも、黄金比の鬼瓦がある。平城宮とは大内裏(だいだいり)のことで、天皇の住まいである内裏(だいり)即ち内廷(ないてい)と、儀式を行う朝堂院(ちょうどういん)などからなる。つまり天皇の住居はアヌンナキが作ったということ。また平城宮(へいじょうきゅう)東端には東院庭園がおかれ、宴などが催された。この東院庭園は今日の日本庭園の原型とされている。日本庭園の原型もアヌンナキにルーツがある。


 平城京の朱雀門(すざくもん)の朱雀とは、鳳凰(ほうおう)やフェニックスのことでイナンナを表す。その朱雀門(すざくもん)の縦横の比率も見る場所によって黄金比になる位置がある。つまりイナンナの渦巻きの黄金比と関連している。朱雀門(すざくもん)は、バビロニアの神イシュタル(イナンナ)のイシュタル門のアジア版である。また太極殿の縦横の比率は黄金比ではないが、朱雀門のように黄金比を重ねてみると、2つの黄金比が重なり合った幅が階段の幅になる。
 しかしこれは朱雀門も太極殿も人間の目の高さから見た場合は黄金比になるということであって、立面図では黄金比にならない。つまり、実際に建てて人間の目の高さから見た時に美しく見える比率に計算されて作られているということ。

 朱雀門と太極殿の屋根と地面の高さにあわせて黄金比を重ねてみると、黄金比の中にできる3個目に小さな黄金比の幅に階段幅が設計されている。朱雀門に関しては柱の間隔も、その黄金比の幅になっていて、それが5つ並んでいる。石の土台の高さも、その黄金比の中の比率になっている。

 中国神話の四神である朱雀(すざく)はアヌンナキのイナンナのことであり、平城京にあった12の門のうち最も重要な門であった朱雀門とはイナンナの門である。朱雀門の正面にあった朱雀大路(すざくおおじ)も、イナンナの道ということになる。平城京は中国の長安城を模したもので、長安城にも朱雀門がある。その長安は現在は西安と呼ばれ、少なくとも29個のピラミッドが存在している。長安も中国文明もアヌンナキが作ったもの。


 また、平城京の第一次大極殿には、天皇の即位式を行う高御座(たかみくら)が飾られている。この高御座の上部についた黄金の渦巻きは黄金比となっていて、その上には鳳凰(ほうおう)であるイナンナが乗っている。高御座の周りの壁には、四神と十二支が描かれている。四神とは、東の青龍(せいりゅう)、西の白虎(びゃっこ)、南の朱雀(すざく)、北の玄武(げんぶ)。玄武は亀で、蛇が巻き付いた形で描かれることが多い。これはアヌンナキに対応し、奈良県明日香村にあるキトラ古墳と同じ。

 2016年に、奈良市の平城宮跡から出土した8世紀(700年代)中頃の木簡に、ペルシャ(現代のイラン付近)を意味する「破斯(はし)」という名字を持つ役人の名前が書かれていたことが、奈良文化財研究所の調査でわかった。
 国内でペルシャ人の名前を記した出土遺物が確認されたのは初めてで、奈良時代の日本の国際性を裏付ける成果となる。
 木簡は1966年、人事を扱う式部省があった平城宮跡東南隅の発掘調査で出土した。文字が薄く肉眼では一部が判読不能だったが、赤外線撮影をした結果、役人を養成する「大学寮」でのペルシャ人役人の宿直に関する勤務記録とわかった。
 表側の上部に「大学寮解 申宿直官人事」、下部に、定員外の特別枠で任じられた役人「員外大属(いんがいだいさかん)」という役職名、中国語でペルシャを表す「波斯(はし)」と同じ読み・意味の「破斯」という名字を持つ「破斯清通」という人名と、「天平神護元年(765年)」という年号が書かれていた。


香川県の善通寺の多角形の石積み------------------------------------------------------------------------

 創建時の善通寺について現時点では必ずしも明確ではないが、出土瓦などから創建は710年頃の奈良前期まで遡ることは可能とされる。平安時代初頭の807年に真言宗開祖空海の父である佐伯善通を開基として創建されたという説もある。ここの多角形の石積みの一部は石自体は大きくないが、とても複雑にできた切込み接ぎ(きりこみはぎ)である。もし人間が作るなら、わざわざ複雑にする必要性がないここもアヌンナキと人間の両者が作ったと考えられる。


■712年

長野県の諏訪大社とイスラエルのつながり----------------------------------------------------------

 長野県の諏訪湖周辺4ヶ所にある諏訪大社(すわたいしゃ)は、全国に約2万5000社ある諏訪神社の総本社である。創建や祭祀が始まった時期は不詳で、諏訪大社の起源は712年の古事記、806年〜906年頃の先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)にあるとされている。

 諏訪(すわ)大社には、秦氏によってイスラエルからの文化が伝わっている。諏訪(すわ)大社の十間廊(じっけんろう)は古代イスラエルの幕屋と、入口と本殿の方角が同じであり、また幕屋と十間廊(じっけんろう)の大きさはほぼ同じ。日本の一間(いっけん)174cmの長さのもとが、古代イスラエルの1キュビト=44cmから来ている。

 また長野県諏訪(すわ)地方で行われる祭で、諏訪大社の最大の神事で7年に一度行われる御柱際(おんばしらさい:正式には式年造営御柱大祭)は、長さ17m、重さ10トンの御柱を、氏子(うじこ)と共に傾斜約30度、距離80mの木落し坂から落とす。御柱際は大木を山中から切り出し社殿まで運ぶ祭りである。この御柱祭と同じことが聖書に記されている。旧約聖書に記されたソロモン神殿建設に関する描写は次の通りである。

 紀元前10世紀頃、古代イスラエル(イスラエル王国)の第三代王に就いたソロモンは、父ダビデの意志を継ぎ、エルサレムのモリヤの丘に神殿建設を決める。ソロモンは港湾都市ティルス(現レバノン)の王フラムに、小麦とオリーブオイルなどを与える代わりに神殿建設に必要なレバノン杉やモミの木を山から切り出させてほしいと頼む。フラムは承諾し、山から切り出したレバノン杉とモミの木を港まで降ろし、筏(いかだ)に載せて海路エルサレムのモリヤの丘まで運んだ。このレバノンでの作業にはイスラエル全土から強制的に労働者が徴募(ちょうぼ)され、三万人が三交替で従事した。そして、それらの木材は、神殿の床や壁、拝殿の入口の扉などに使われた。神殿の大きさは、長さ約27メートル、幅約9メートル、高さ約13.5メートル(1キュビト45センチで計算)であった。その神殿の中に拝殿と至聖所を設け、至聖所には十戒の石版が収められていた契約の箱と、高さ4.5メートル、両翼の長さ4.5メートルのオリーブの木で造ったケルビムという天使像二体を安置した。ソロモン神殿は7年目に完成した。

 御柱祭(おんばしらさい)は木の柱が崇拝され神様として扱われているが、古代イスラエルでも木には神が宿るとされていた。そのイスラエルの神の名は女神アシラで、日本の柱(はしら)という言葉は、古代イスラエルのアシラからきている。女神アシラはニビルのイナンナであり、シリア、パレスチナではアーシラトと呼ばれ、メソポタミアではイシュタル、日本では遮光器土偶のアラハバキ、白山姫を神とした邪馬台国の神でもある。

 御柱祭(おんばしらさい)では、柱を乗りこなした男が英雄とされるので、柱がイナンナの暗示で、この祭りが行われる安曇(あずみ)はアド、つまりドゥムジの暗示で、イナンナとドゥムジの聖なる結婚である。柱に男衆(おとこしゅう)が群がって乗っているのは、女神イナンナに乗っていること、つまり性行為を表している。
 さらに諏訪大社の御頭祭(おんとうさい)は、鹿の頭75頭分を神に捧げる祭りである。明治以前の御頭祭(おんとうさい)は全く違う形で行われていた。明治以前は8歳くらいの子供を柱に縛りつけ生贄(いけにえ)にし、神官が子供に刃物を振り上げる。次の瞬間、別の神官が現れ子供を解放する。そして子供の代わりに、鹿の頭75頭分を身代わりに捧げるものだった。
 この内容は聖書の創世記の第22章のアブラハムとイサクの伝承にも存在する。アブラハムは息子イサクを丘へ連れて行き、生贄にしようとした。すると神の使いが現れてアブラハムを止める。そして息子の身代わりに羊を捧げた。この物語の舞台となったのはモリヤという地であった。モリヤは現在のエルサレムの中心地で聖地である。諏訪大社の神体山(しんたいさん)も守屋山(もりやさん)という。

 そして諏訪湖(すわこ)で行われる神事の最大は、諏訪湖の氷が轟音とともに裂け、延々と亀裂が入る現象の御神渡り(おみわたり)である。御神渡りは冬季の寒冷地で、湖面に一部盛り上がった氷堤(ひょうてい)が見られる現象である。諏訪大社の神が湖の上を歩いた跡と言われている。これと同じ内容が聖書にもある。ガリラヤ湖を船で渡る弟子たちのもとに、イエス・キリストが水の上を歩いてきた。ただ当時のガリラヤ湖は凍っており、キリストは氷の上を歩いた。つまり諏訪の地は聖書の記述を祭りとして残した場所であった。

 こういった諏訪大社の祭りは、ミシャグジ信仰と関係がある。ミシャグジは日本古来の神である。ミシャグジ信仰は東日本の広域に渡って分布しており、当初は主に石や樹木を依代とする神であったとされる。ミシャグジを祀っていた神社では、神官に憑依して宣託を下す神とされた。また1年毎に八歳の男児が神を降ろす神官に選ばれ、任期を終えた神官が次の神官が決まると同時に人身御供として殺されるという「一年神主」の伝承も残る。
 ミシャグジ信仰にはもう一つ注目すべき点がある。縄文の影響が強く見られることである。ミシャグジ神が降りてくるといわれる大木に置かれる祠(ほこら)には、御神体として石棒や石皿が置かれている場合が多い。神長官守矢氏に祀られる「御頭御左口神(ミシャグジ神)」の御神体も石棒である。巨石にもミシャグジが降りてくるとも考えられるが、ここで祀られている石棒や石皿は男根や女性器を表している。これらのものが豊穣をもたらしてくれるものとして、住まいやその周辺に祀るのは古く縄文時代から行われていたことである。

諏訪大社 日本のルーツは古代イスラエル
Hiloyuki Kubota / 久保田 啓敬
etc. 
 
古事記の編纂と偽書説-------------------------------------------------------------------------------------

 倭朝では、太安万侶(おおのやすまろ)が古事記を編纂し、元明天皇に献上する。しかしその内容には邪馬台国や荒吐族(あらばきぞく)についての歴史がなく、その他矛盾点も含め偽書説は現在もなくなっていない。『古事記』の原本は現存せず、幾つかの写本が伝わるのみである。
 日本神話は秦氏によって創られた。それは、まずは天照大神ありき、という大前提に立って創作されたのである。籠(この)神社の石碑が示しているように、「豊受大神 別名 天御中主神 別名 天照大神」で、すべての神々が天照大神に集約されること、最初に登場したわけでもないが、天照大神が国家の最高神であること、各家の神棚には必ず天照大神の御札が必要なことからも言える。よって、“天孫降臨”神話により、実際に“太陽神の孫”たるイエスが地上に降臨したことを暗示しているのである。


■713年

中国の楽山大仏(らくさんだいぶつ)はアヌンナキによって作られた-------------------------------

 楽山大仏(らくさんだいぶつ)は、中国・四川省楽山市にある弥勒菩薩を象(かたど)って彫られた巨大な磨崖仏(石仏)であり、石窟寺院の一種である。伝えるところによれば、713年に、楽山周辺では塩が大量に取れ、年間の生産高は現在の価格に換算すると1千億円以上でその成功を仏様に感謝したいという気運が高まったことと、当時頻繁に起こっていた塩を運ぶ大動脈である岷江(みんこう)の水害を大仏の力で治めてもらおうという願いから、僧の海通(かいつう)が民衆の布施の下に寺院・凌雲寺(りょううんじ)に隣接する崖に石像を彫り始めたと伝えられている。
 この楽山大仏は岩山を71mもくり抜いた中に、約60mの石仏が作られている。岩山をくり抜くテクノロジーはアヌンナキである。さらに、この大仏の頭の渦模様は黄金比になっている。大仏の頭に渦模様が刻まれ、それが黄金比になっているのは、日本の大仏でも見られる。


■720年

日本書紀の編纂と偽書説-----------------------------------------------------------------------------------

 倭朝では藤原不比等(ふじわら の ふひと)が命じて、日本書紀が完成する。日本書紀の編纂は国家の大事業であり、皇室や各氏族の歴史上での位置づけを行うという極めて政治的な色彩の濃厚なものである。しかしそこにも古事記と同様、邪馬台国(海部氏・エフライム族系)のことなどの記載がない。信頼性が低いものという見方が現在も続いている。

Wikipedia
etc.
 
■723年

 倭朝が陸奥(むつ)に多賀城を築いたが、荒吐族(安倍一族)が怒り、これを焼き払った。

東日流外三郡誌


■744年頃

八咫烏の結成-------------------------------------------------------------------------------------------------

 イスラエルの十支族のレビ族が秦氏となった後、日本で八咫烏となる。元出雲・丹波国で唐の長安より会得した迦波羅(かばら)の呪術を基に、陰陽道、神道、神祇祭祀(じんぎさいし)の陰を司り、奉仕する為に八咫烏神を主祭神とし、種々の呪術や火、水、土、木を用いた祈祷(きとう)、儀式を執り行っている。

 平安時代(794年〜)から江戸中期(1700年代)まで榮え、明治政府の陰陽道弾圧により消滅寸前までの衰弱を強いられるが、その困難を乗り越えて現在に至るまで、小規模ながらも唐の時代より続く迦波羅(かばら)による陰陽道、神道儀礼の祭祀祈祷を続けている。
 八咫烏は丹波本拠や下賀茂神社(京都)、糺の森河合神社(ただすのもり かわい じんじゃ:京都)、上賀茂神社(京都)、熊野大社(島根)、伊勢神宮(三重)、出雲大社(島根)などを拠点に祭祀活動も行っている。八咫烏は戸籍、皇籍に属さない金鵄(きんし)3人、十二烏12人、二十四烏24人に加え、戸籍に属する天狗烏の神職など69人の奉職者からなっている。
 現在、八咫烏は大震災や大噴火に備え国家地鎮、世の迷いを鎮める国家安泰の祭祀や宮中祭祀の委任奉仕に力を注いでいる。

■752年

奈良の東大寺の黄金比-------------------------------------------------------------------------------------

 南都七大寺(なんとしちだいじ)の一つ、奈良県の東大寺は700年代前半に、聖武天皇が国力を尽くして建立した寺であるとされている。大仏殿は2度の兵火(へいか)で焼け落ち、現存する大仏殿は江戸時代の再建。大仏は台座と袖、脚などの一部に当初部分を残すのみで、体部の大部分は中世の作、頭部は江戸時代の作とされている。この話がどこまで事実かは不明だが、東大寺でもアヌンナキの共通点を多数見ることができる。



 人間目線で東大寺の屋根と床に黄金比をあわせた時、3個目にできる小さな黄金比の幅に階段の幅が設計されている。

 この東大寺の前の左右の敷地は黄金比の広さになっており、中央の道幅もそれによって決められている。

 
 東大寺の転害門(てがいもん)は、2度の兵火も免れた貴重な国宝とされている。この階段や屋根の幅なども、人間目線で黄金比を2つ重ねた時にできる幅に設計されている。

 中門(ちゅうもん)は1716年ごろの再建とされ、国の重要文化財に指定されている。ここでも人間目線で黄金比を2つ重ねた時にできる幅に、階段幅や両端の柱の間隔が設計されている。

 東大寺の鐘楼(しょうろう)は、重源(ちょうげん)のあとを継いで二代目の大勧進(だいかんじん)となった栄西(えいさい)が再建したものとされている。吊られている梵鐘(ぼんしょう:大鐘)は国宝。この鐘楼(しょうろう)でも人間目線で2つの黄金比を重ねた時の幅で、階段幅や柱の位置が設計されている。また梵鐘(ぼんしょう)は752年に製作されたもので、高385cm、口径271cm、重量26.3トンもある。梵鐘(ぼんしょう)もアヌンナキが作り、その製造方法を人間に伝えたという可能性がある。

 東大寺からも、黄金比の曲線がある鬼瓦が残っている。


  奈良の大仏の光背(こうはい)にも、黄金比の渦模様が見られる。

 大仏の頭の渦模様も耳の形も黄金比となっており、鎌倉の大仏や中国の楽山大仏(らくさんだいぶつ)と同じになっている。
 
 奈良の大仏の隣にある虚空蔵菩薩像(こくうぞうぼさつぞう)の光背(こうはい)にも、黄金比の渦模様が見られる。

  この虚空蔵菩薩像(こくうぞうぼさつぞう)と中央の大仏の下の石積みが、多角形の石積みになっている。石積みが、エジプトのメンカウラー王のピラミッドの石積みと同じになっている。


  東大寺の金堂の多聞天像(たもんてんぞう)や広目天像(こうもくてんぞう)にも、黄金比の渦模様が見られる。

 大仏殿の前にある国宝の金銅八角燈籠(こんどうはっかくとうろう)にも、黄金比が見られる。


■759年

奈良県の唐招提寺(とうしょうだいじ)とパルテノン神殿の共通点----------------------------------

 759年に鑑真(がんじん)によって創建されたとされる奈良県の南都七大寺(なんとしちだいじ)の一つ、唐招提寺(とうしょうだいじ)も、アヌンナキに関係するシンボルで溢れていることから、人間との両者で作ったと考えられる。

 唐招提寺の金堂(こんどう)の屋根の低い方の高さと上部の幅は、2つの黄金比を重ねた時にできる幅となっている。金堂の立面図で同じように黄金比を重ねてみても、その幅は現れない。

 金堂を上から見た平面図は、ちょうど黄金比の形となる。さらにその黄金比の中にできる3個目と4個目に小さな黄金比のサイズに階段幅がなっている。この金堂の木組みは複雑な構造になっている。

 唐招提寺から出土している鬼瓦にも、黄金比の曲線が見られる。

 唐招提寺の金堂の作りは、ギリシャのパルテノン神殿と類似点が多い。柱の中央部分には若干の膨らみをもたせたエンタシスの柱となっており、法隆寺の作りと同じ。エンタシスの柱はパルテノン神殿にも見られ、柱の中央部から上を細めている。唐招提寺金堂のエンタシスは、柱身の中央部のやや下あたりが最も膨らんでいる。

 唐招提寺金堂もパルテノン神殿も正面は8本の列柱(れっちゅう)で、どちらも両端部の幅を狭くして、立面(りつめん)が安定して見えるように造形している。

 一番端の柱を内転び(うちころび)にする造りも、金堂とパルテノン神殿に共通している。内転(うちころ)びは、柱を内側に少し傾斜させる技法で、柱間の上部を近くで見上げた時に、2本の柱の上が開いて見えるのを矯正する。常に人間目線で見た時に美しく見えるかを考えて作られている。

 唐招提寺の礼堂(らいどう)にも小さい石だが、多角形の石積みが見られる。石積みの由来はアヌンナキである。

 唐招提寺には木造の四天王像も残されており、各像に黄金比の渦巻きが彫刻されている。

 唐招提寺は鑑真(がんじん)が創建したとされている。鑑真(がんじん)は中国の唐で生まれ、742年には中国の揚州(ようしゅう)の大明寺(だいめいじ)の住職であった。当時、奈良には私度僧(しどそう=自分で出家を宣言した僧侶)が多かったため、伝戒師(でんかいし=僧侶に位を与える人)制度を普及させようと聖武天皇(しょうむてんのう)は適当な僧侶を捜していた。そして日本へやってきた鑑真(がんじん)は、聖武天皇、孝謙天皇(こうけんてんのう)、淳仁天皇(じゅんにんてんのう)から勅(ちょく=天皇の命令)を承り、様々な活動を行う。唐招提寺の創建は759年とされる。この唐招提寺に安置されている国宝「鑑真和上像 (がんじんわじょうぞう)」の台座には黄金比の渦模様が描かれている。


 山梨県中巨摩郡(なかこまぐん)では、「昔、日本の仁王(におう=金剛力士)と唐(618年〜907年)の伽王(かおう)との間に生まれた子は、デーラボッチといって非常に大男であった(甲斐伝説集)」という言い伝えが残っている。仁王とは、寺の門の両わきに立っている守護神のことで、法隆寺や東大寺に仁王である金剛力士が建っている。この山梨県甲斐(かい)市の牛句(うしく)の池の原に、デーラボッチの足跡といわれる沼がある。つまり、仁王像とはアヌンナキのことであり、この時代、巨人であるアヌンナキ、もしくはハイブリッド(半神半人)が人間社会にいた可能性を示している。

■761年

 倭朝が陸奥と出羽に築いた柵に荒吐族(安倍一族)が攻め入り、朝廷人を追い出して柵を掌握する。

東日流外三郡誌

■767年

栃木県の日光東照宮の多角形の石積みと黄金比-------------------------------------------------------

 栃木県の日光東照宮の歴史は源義朝(みなもと の よしとも、1123年〜1160年)による日光山造営までさかのぼるとされ、日本全国の東照宮の総本社的存在である。ここにも多角形の石積みや黄金比の装飾が見られることから、アヌンナキが建造した可能性がある。



■770年

 男系男子で見れば第47代・淳仁天皇(じゅんにんてんのう)までは確実に天武天皇=海部氏(エフライム族)・尾張氏の血統だが、第49代・光仁天皇からは天智系(秦氏系)となった。第45代・聖武天皇は藤原不比等の娘を后とし、実質的にこの時点から藤原鎌足と藤原不比等という表の秦氏が外戚として権力を握っていった。

 海部氏系の天武系天皇は皇室の菩提寺・泉湧寺(京都市東山区)で祀られておらず、平安時代、天武系の天皇陵に対しては奉幣の儀も行われていない。これなども、海部氏・尾張氏の血を引く天武系天皇と、天武系と婚姻関係を結んでいた天皇が無視されていることの一例である。
 天武系男系の最後の天皇、聖武天皇は藤原氏に抵抗し、東大寺に行幸して大仏に北面して頭を垂れた。これは、藤原不比等らが創作した新生・中臣神道を否定したことを象徴する。
 天武天皇は海部氏(エフライム族)によって養育された海部氏の王であった。熱田神宮、源氏、織田信長、豊臣秀吉など、海部氏(エフライム族)・尾張氏系が台頭してくるたびに潰されている。
 現在、マナの壺は外宮に、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は皇居にあるが、外宮の元伊勢は唯一、籠(この)神社だけなので、外宮は海部氏(エフライム族)=古代の皇統(秦氏の応神天皇以前)を、皇居は現在の皇統を象徴している。


■780年頃

東南アジア、ジャワ島、ボロブドゥル寺院-------------------------------------------------------------

 ボロブドゥル寺院は、インドネシアのジャワ島中部のケドゥ盆地に所在する大規模な仏教遺跡である。この建造物にもアヌンナキの共通点を見ることができる。一般的にはシャイレーンドラ朝の時代、大乗仏教を奉じていたシャイレーンドラ王家によって、ダルマトゥンガ王治下の780年頃から建造が開始され、792年頃に完成をみたと考えられている。
 5kmにわたる回廊の壁には釈迦の生涯を描いたレリーフが続くが、この石積みも世界各国の巨石建造物に見られる多角形が含まれ、細かく見れば少し曲線にカットされた部分もあり、それは隙間なく積まれている。この石積みに彫られているレリーフも当然、アヌンナキのテクノロギーによって彫られたものである。

■784年頃

 京都の長岡京が日本の首都になる。桓武天皇の勅命により、平城京から北へ40kmの長岡の地へ遷都。現在の京都府向日市や長岡京市、西京区に位置していた。

■786年

ドイツのアーヘン大聖堂の多角形の石積み-------------------------------------------------------------

 カール1世がアーヘンの宮殿教会の建設を始めたとされる。しかし、ここにもアヌンナキの多角形の石積みがある。

 800年、カロリング朝のフランク王カール1世が教皇レオ3世(在位:795年-816年)によってローマ皇帝として戴冠(たいかん)された。

 814年にカール1世が死ぬと、彼は自身のアーヘン大聖堂に埋葬される。936年から1531年にかけての約600年間に、神聖ローマ帝国の30人の皇帝たちの戴冠式(たいかんしき)が執り行われた場所でもある。800年から1806年の神聖ローマ帝国は版図消滅後、財政基盤をロスチャイルドに残すかたわら、多民族を統治した勢力均衡の要領をウィーン体制に継承した。
 アーヘン大聖堂にはプロビデンスの目の装飾もある。下側にローマ数字で「MDCCLXVI(1766年)」と書かれている。
■788年

比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)の黄金比と多角形の石積み-----------------------------

 延暦寺は滋賀県大津市の標高848mの比叡山全域を境内し、平安時代初期の僧・最澄(さいちょう、767年〜822年)により開かれたとされる日本天台宗の本山寺院。ここにも黄金比や多角形の石積みが見られる。

 戒壇院(かいだんいん)は、出家者が正式の僧尼となるために必要な戒律を授けるために設置された施設。ここにも多角形の石積みが見られる。

 焼失前の大講堂の断面図では、縦横の比率が黄金比となっている。

  

■791年

 坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)が巨軍で東日流(つがる)へ攻め入ったが、修験宗、依行者の説得によって軍を退いた。

青森ねぶた祭-------------------------------------------------------------------------------------------------

  青森ねぶた祭りの起源は、のちに征夷大将軍となる坂上田村麻呂が、この時、荒吐族(あらばきぞく)の東日流(つがる)の蝦夷征討(えみしせいとう:三十八年戦争・第3期)の戦場において、敵を油断させておびき寄せるために大燈籠(だいとうろう)・笛・太鼓ではやし立てたことを由来とするものである。
 現在、青森県青森市で8月2〜7日に開催される夏祭りであり、毎年、延べ300万人以上の観光客が訪れる。1980年には国の重要無形民俗文化財に指定された。

東日流外三郡誌

■794年

京都の平安京に見られる黄金比--------------------------------------------------------------------------

 794年、桓武天皇により平安京が日本の首都として定められる。現在の京都市の中心部。1869年(明治2年)に政府が東京に拠点を移すまでの日本の首都。エルサレムはヘブライ語で平和な都市、つまり平安京を意味する。ここにも朱雀大路(すざくおおじ)や朱雀門(すざくもん)があり、朱雀とはアヌンナキのイナンナのこと。

 太秦(うずまさ)周辺で鴨川を修復しながら先住していた秦氏たちを、同じユダヤ人である藤原氏が後からやってきて、彼らを追い出して平安京を作った。そして藤原氏の子孫は天皇の外戚となって勢力を拡大し、摂政・関白という位について摂関政治を行っていく。摂政とは天皇が子供や女性だった場合に天皇の代わりに政治を行う立場であり、関白とは天皇が大人になってからも天皇の代わりに政治を行う立場のこと。

 藤原氏にとって藤原という姓は中国人から付けられたものであり、それを嫌っていた彼らは後に、近衛(このえ)、冷泉(れいぜい)、鷹司(たかつかさ)、一条、二条、などと改名する。天皇も藤原氏もイスラエルからやってきたユダヤ人であり、アヌンナキの直系血族。


 794年の平安京の鬼瓦にも、黄金比や細かな装飾が見られる。ここでも平城京と同じく平安宮(へいあんきゅう)と呼ばれる大内裏(だいだいり)に黄金比の鬼瓦がある。また、平城京と同じく朱雀門(すざくもん)もあり、それはイナンナの門のこと。平安京の建造にもアヌンナキが関係していたと考えられる。

 大内裏(だいだいり)の紫宸殿(ししんでん)は、本来天皇の私的な在所である内裏(だいり)の殿舎(でんしゃ)の一つであったが、平安中期以降、大内裏(だいだいり)の正殿であった大極殿が衰亡(すいぼう)したことにより、即位の礼や大嘗祭(だいじょうさい)などの重要行事も紫宸殿(ししんでん)で行われるようになった。平安時代の紫宸殿(ししんでん)の立面図にも、黄金比の比率が見られる。


 現在の京都御所の紫宸殿(ししんでん)は、幕末に建てられたもの。

 また、京都御所の清涼殿の天皇の座の前には一角獣と獅子の像が見られる。古代イスラエルのユダ族は獅子で象徴され、エフライム族は角がある雄牛で象徴される。

 現在の京都御所(ごしょ)は、1392年から1869年まで歴代天皇が居住し儀式・公務を執り行った場所。これは、内裏(だいり)が火災で焼失した場合などに設けられた臨時の内裏の一つであった土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)の地で、もと里内裏(さとだいり)である。


 この京都御所は国民公園である京都御苑(ぎょえん)の中にあるが、京都御苑の敷地は3つの黄金比を並べた大きさとなり、一部の道の位置も黄金比の比率によって決められている。さらに御所の中心線も、京都御苑にひいた黄金比の線上に位置している。
 
 平安京はアダム・カドモン(カバラの言葉で原初の人間・神人間の意味)であるが、下の図は旧平安京の見取り図である。正方形の部分を塗りつぶしていくと、長方形の升目(ますめ)で構成された人形(ひとがた)が浮かび上がる。船岡山はアダム・カドモンの頭部に相当する。更に、その浮かび上がった人形の外形を浮かび上がらせると鳥居となり、鳥居の額束の部分が大内裏となる。このアダム・カドモンは、上から見て向かって右=東が重要である。平安京は南向きで、太陽は南から北を照らし、太陽は神の象徴である。だから、太陽から見て向かって右=上から見て向かって右=東が重要となる。そのため、貴族の館を含めた現在の御所は、元々の大内裏の位置(船岡山の南)よりも西ではなく東に移動している。

 秦氏は船岡山に磐坐(いわくら)を置き、神の姿を完成させた。また、船岡山はT字型十字架の罪状板にも相当する。罪状板には「ナザレのイエス、ユダヤの王」とギリシャ語、アラム語、ラテン語の3言語で書かれていた。これをラテン語で記述すると、“Iesus Nazarenus Rex Indaeorum”であり、頭文字を取ると“INRI”で、“稲荷=INARI”の語源である。

 その証拠に、船岡山には命婦稲荷神社があり、稲荷神社の総本山である伏見稲荷の元宮として最古の稲荷神社となっており、稲荷は宇迦御魂(ウカノミタマ)=豊受大神=ヤハウェであるから、稲荷という名称からも、ヤハウェ=イエスということを暗示している。また、この人形自体が十字架でイエスを象徴すると同時に、鳥居はヤハウェを象徴しているから、イエス=ヤハウェを暗示している。そして、船岡山の船=「アーク」だから、「契約の箱アーク」も暗示しており、南北(条)、東西(坊)それぞれ12の升目は、イスラエルの十二支族とイエスの12人の使徒を表している。
 エルサレムには船岡山に相当する山があり、それは“聖なるオリーブ山”である。エルサレムのT字型の頂点は神殿の燔祭台の位置であり、その下に血を落とすための丸穴が開いていた。その場所はアブラハムが息子イサクを犠牲にしようとしていた場所であるため、その丸穴はアブラハムが聖別して建てた柱の跡と考えられている。そこは“モリヤの山”“シオンの丘”とも言われている。


日本の支配階級はイスラエルからのユダヤ人の末裔-------------------------------------------------

 次の図を見れば、日本の支配階級は過去から現在まで、古代イスラエルからのユダヤ人の末裔であることがわかる。秦氏が藤原、源、平、三井、忌部などに改名し、その一族が現代まで日本を支配している。


etc.
■800年

インドのチャンド・バオリの階段井戸の多角形の石積み--------------------------------------------

 インドで最も深く大きな階段井戸の一つであるチャンド・バオリは800年代に建造され、階段の総数は3500、階数は13階で、その深さは約30メートルに達する。ここにも多角形の石積みが見られることから、アヌンナキが作ったと考えられる。



ポルトガルの聖母ラッパの石窟礼拝堂の多角形の石積み--------------------------------------------

 800年頃、ポルトガルには巨石が乗った教会があり、そこや他のキリスト教の聖母ラッパの石窟礼拝堂にも多角形の石積みが見られ、十字架が彫られている事から、アヌンナキがキリスト教の建物を建てたということ。


■811年

 陸奥(むつ)鎮守府(ちんじゅふ)将軍永世官の藤原冬嗣(ふゆつぐ)左大将が、東日流(つがる)へ攻め入ったが敗退する。

東日流外三郡誌

■824年

奈良県の大野寺(おおのでら)の弥勒磨崖仏(みろくまがいぶつ)-------------------------------------

 大野寺(おおのでら)は弘法大師・空海が、824年に堂宇(どうう)を建立したと伝えられている。大野寺(おおのでら)には、岩壁を高さ13.8mにわたってくり抜き、その中に高さ11.5メートルの弥勒仏立像(みろくぶつりゅうぞう)を線刻で表した弥勒磨崖仏(みろくまがいぶつ)がある。この顔の右側部分と腰部分に、多角形のブロックが埋め込まれたような彫り込みがある。またこの岩山のくり抜き方は、スリランカのポロンナルワや中国の莫高窟(ばっこうくつ)でも同様に見られる。つまりこれらの共通点から、アヌンナキのテクノロジーによって作られたということがわかる。一般的に作者は、宋から来日した石工・伊行末(いぎょうまつ)の一派と考えられているがそうではない。また、大野寺の近くの室生龍穴神社(むろうりゅうけつじんじゃ)には多角形の石積みが見られる。ここの建造にもアヌンナキが関係していたと考えられる。

Hiloyuki Kubota / 久保田 啓敬

アフガニスタンのバーミヤン渓谷(けいこく)の石仏-------------------------------------------------

 標高2500mほどの高地に位置するバーミヤン渓谷には、400年〜500年に作られたとされる、石仏と石窟が存在する。高さ55m(西大仏)と38m(東大仏)の2体の大仏をはじめとする多くの巨大な仏像が彫られている。この石窟のくり抜き方と形は、奈良県の大野寺の弥勒磨崖仏(みろくまがいぶつ)と同じである。つまり、バーミヤン渓谷の55mの石仏なども、アヌンナキが作ったということである。

■827年

 唐船が十三湊(とさみなと)に来航し、泉大光院に像を献ずる。

 
■855年

 荒吐族(あらばきぞく)の統主・安倍清兼が奥州平征に侵領していた和人(わじん:アイヌ以外の日本人)の役付(やくつき)者を滅ぼし、自ら日本(ひのもと)将軍を宣言した。

東日流外三郡誌

■869年頃

祇園祭---------------------------------------------------------------------------------------------------------

 祇園祭の起源となった御霊会(ごりょうえ)が、京都にある東寺真言宗の寺院の神泉苑(しんせんえん)で行われた。これは疫病の流行が続いた為に朝廷によって無病息災を祈念して行われ、970年からは毎年行うようになる。
 祇園祭はノア一家が大洪水を無事乗り越えたことを祝う王のシオンの祭り(古代ユダヤ7月の祭り)であり、ノアの箱船と大洪水を表している。両祭りは日にちも内容も類似している。
 どちらも疫病を払うもので、7月1日から1ケ月間祭りは続く。7月17日の山鉾巡行(やまほこじゅんこう)の日はイスラエル人にとって聖なる日で、旧約聖書「創世記」第8章、ノアの箱船がアララト山に漂着した日で、祭りもクライマックスを迎える。
 また祇園祭を彩る山鉾(やまほこ)はノアの箱船そのものを象徴し、山鉾を装飾する鳥獣や草花は洪水を生き延びるために箱船に収容された生き物を表している。山鉾のような祭の飾り付けを「山車(ダシ)とも呼ぶ。


 これは、シルクロードの果てから新羅経由でやってきた秦氏が、古代イスラエル文化を日本に伝えたもの。平安京をつくったのは桓武天皇だが、技術・資金の多くは秦氏からのものでもあり、祇園祭を主催する八坂神社をつくったのも秦氏だった。

 祇園祭は毎年7月17日がクライマックス。この日は、ノアの箱舟がアララト山に漂着した日であり、それを記念したもの。(一般的な謂"い"われは表向きである。)
 祇園の名称の由来は、日猶(にちゆ)同祖論者の間では“シオン(Zion)の丘”と言われている。シオンの丘は、アブラハムが息子イサクを犠牲にしようとしていた場所であり、“モリヤの山”とも言われている。確かに、祇園の氏神がある八坂神社の後ろは東山であるものの、平安京の風水的には水を司る青龍であり、祇園の場所も平地であるから、丘や山には相応しくない。
 それよりも、エデンの園にあった川の名称の方が相応しい。エデンの園は4本の川、すなわちピソン川(多量の)、ギホン川(外へ流れ出る)、ヒデケル川(チグリス)、プラス川(ユーフラテス)の水路から水を引いた場所にあった。チグリスとユーフラテスは知られているが、ピソンとギホンに相当する川は、現在は見られない。しかし、ランドサットによる高解像度画像で、クウェートとバスラ付近にある砂利の堆積跡がクウェート川で、ピソン川に相当すること、また古代の国クシュシュの主要な川で、現在は干上がってしまったカルン川がギホン川に相当することが判明した。ラテン系言語のように、ギホンの発音から“h”を抜けばギオンとなる。そして、ギホン川はクシュシュの土地全部を取り巻いており、ノアの洪水で世界が水に覆われていたイメージに重ねることができる。
 また、ギオンがギホン川の象徴であるならば、鴨川から祇園の東端に至るまで川ということになり、東端にある八坂神社が青龍を祀る氏神なのも納得できる。そうすると、到達する八坂神社(の後ろの東山)はアララト山に相当し、そこから現在の人類の繁殖が始まった。八坂は弥栄(いやさか)であり、繁栄を意味する。
 そして、大洪水後に人類の繁栄を約束したのは主=ヤハウェであるから、八坂=弥栄=ヤハウェが人類を繁栄させる約束をした、となる。(また、箱舟で救われたノアの家族は8人で8=ヤ=ヤハウェとなる。)つまり、祇園の語源はエデンの園のギホン川である。

 祇園祭で繰り出す32隻の山鉾(やまほこ)は、「生命の樹」に於けるセフィロトとパスの数を合わせたものである。セフィロトは隠されたダアトを除いた10個、パスは22個である。ダアトは“知識の門”であり、そこを通るにはイエスのカッバーラを知らなければならない。この祭りはエデンの園、ノアの洪水、ヤハウェに関連するが、イエスには直接関係しない。そのため、隠されたセフィロトであるダアトは数えないのであろう。
 山鉾(やまほこ)は「(アララト)山」に関連するが、何故か、他の祭りで使われるような神輿(みこし)ではなく山車(だし)である。神輿(みこし)は「契約の箱アーク」であり、モーゼ以降の時代のことである。祇園祭で再現しているのはノアの箱舟なので、「アーク」が造られるよりも前のことである。そのため、神輿ではなく、山に関連する山車(だし)となる。
 なお、伊勢神宮のお祭りでも神輿(みこし)は出ないが、神輿とは「アーク」を模したものであり、“本物”が存在する神宮では神輿を担ぐ必要が無いからである。

 祭りで使用される山鉾(やまほこ)という絵には西洋や中近東を描いた絵がかけられており、旧約聖書の内容のものまである。これは10支族であるユダヤ人がやってきた行程や、先祖のルーツを描いている。彼らはアヌンナキのエンリルより地球統治を託されたアブラハムの子孫で、直系血族である。



五山の送り火(ござんのおくりび)------------------------------------------------------------------------

 京都の7月の祭りが祇園祭ならば、8月は「五山の送り火(ござんのおくりび)」である。(「大文字焼き」は通称で正式名称ではない。)送り火は仏教の精進送りのように思われているが、そうではない。日本に於ける仏教は死者のための宗教のように思われているが、仏教は元々、死者や祖先を無視した。すべてを断ち切るのが解脱・悟りへの道だからである。しかし、中国に導入されてから、先祖を敬わないとは何事だ、ということで、ユダヤ教やキリスト教のように先祖を敬うことを始めたのである。だから、精霊流しや送り火は、仏教のものではない。

 その証拠に、京都よりも古くから送り火を行っていた所がある。それは、群馬県である。群馬県多野郡吉井町の付近は、昔は多胡(たご)群と呼ばれ、統治していたのが羊太夫(ヒツジダユウ、7~8世紀)という人であった。興味深いことに、この人の墓からキリスト教の十字架と、イエスを示す“INRI”の文字が刻まれた古銅券が発見された。これは、年代的に後のキリシタンのものではなく、秦氏の原始キリスト教である。そして、名前の“羊”は“神の子羊”である。
 また、群馬県もその名の通り、奈良時代前後から羊や馬が放牧され、遊牧民の流れを汲む者たちが居たことを表している。その羊太夫の死後、この地の人たちが彼を偲んで、送り火を毎年行ってきた。
 毎年8月16日、城山(しろやま)という山の斜面で行う。文字はその時々で異なり、「大」であったり、雨乞いを兼ねて「雨」や「天」であったりする。点火道具は仏教式に108燈が用いられるが、昔は12束の藁であった。そして、集めた柴(しば:大きくない雑木)の束に12人で点火する。
「契約の箱アーク」はシケム→ベテル→ギルガル→シロ→エルサレムへと移されたが、「サムエル記」で扱われている紀元前1050年~紀元前920年頃には、北イスラエル王国のヤハウェの聖所はエルサレムの遥か北の「シロ」にあった。(その当時、「契約の箱」は南ユダ王国の聖所にあった。)これに因んで、「城」という言葉ができた。
 また、ヤハウェのシロ(聖所)、ということで「ヤ・シロ=社」である。12束と12人は十二支族と12人の使徒に因むことは、言うまでもない。柴については、モーゼの前に初めて主の使いが現れたのは、柴が燃え上がっている炎の中であった。そして、柴は炎で燃えているのに、柴は燃え尽きなかった。つまり“燃える柴”は、モーゼの前に初めて現れたヤハウェの姿を象徴している。

 エルサレムに神殿があった時代、ユダヤ暦7月15日の仮庵(かりいお)祭の時には、神殿の庭に巨大な灯火が設置され、高い位置に掲げられた。そこに来るヘブライの民も、篝火(かがりび)や松明(たいまつ)を持って集まった。そして、神殿自体も大きな燭台で照らされた。これらの光は、夜のエルサレムとその近郊を明々と照らし出し、その光景は遠くからも見ることができたという。人々はその灯火の下で踊った。これが盆踊りの起源である。

 このように、京都の送り火は、ユダヤの仮庵(かりいお)祭が原型であることが解る。仮庵(かりいお)祭とは、出エジプトの際、荒野で天幕に住んだことを記念し、祭りの際は仮設の家=仮庵(かりおい)を建てて住んだことに因む。
 更に、その原型は何と、シュメールにある。シュメール人は、ニビルが天空に現れると、「神々」を地上に召喚する儀式を行っていた。その儀式は日没と同時に始まり、木星、金星、水星、土星、火星、月などの星が夜空に現れる毎に「手洗いの儀式」が行われた。そして、すべての惑星が出揃ったところで聖餐が始まった。聖餐が終わると、一瞬の静寂が地を支配した。その後、大祭司が立ち上がり、讃歌を歌った。“カガブ・アン・エテル・シャアメ(大神アヌの星が天に昇る)”これを受けて、すべての祭司がその讃歌を歌った。(最後の晩餐の後、ゲッセマネで祈ったことに似ている。)

 そして、ニビルがついに姿を現すと、讃歌を歌う声は一段と高まり、篝火(かがりび)が次から次へと点火されていった。篝火は野火のように広がっていき、ついにはシュメール全土が光り輝いた。その光に呼び寄せられるように、「神々」は天から降臨してきた。神道の祭祀に於ける篝火(かがりび)には、このような意味がある。
 では、五山の送り火には、それぞれどのような意味があるのか。送り火は、2つの「大」と「妙法」の文字、鳥居の形、舟の形である。


・鳥居
 YHWHをヘブライ語で表すと下の図のようになる。これを、下から組み合わせると鳥居の形になる。そして、鳥居がアダム・カドモン(カバラの言葉で原初の人間・神人間の意味)になる理由は、左側の文字が下から両足、胴体、両腕、頭と象徴されるからである。

 この文字は炎のように燃えている。モーゼの前に初めて主の使いが現れたのは、柴(しば)が燃え上がっている炎の中であった。つまり、これはモーゼの前に初めて現れたヤハウェの姿を象徴している。そして、柴(しば)は炎で燃えているのに、柴(しば)は燃え尽きなかった。
 また、モーゼは旗竿に「炎の蛇」を掲げ、主は「生命の樹」に至る道を守るために、エデンの東にきらめく剣の炎を置かれた。炎とは主であり、「生命の樹」そのものである。
 4つの部分は「生命の樹」の四位階を表し、それは神の戦車メルカバーでもある。メルカバーは人間・獅子・牛(ケルビム)・鷲などで表され、人間は流出世界で神の栄光を、獅子は創造世界で神の玉座を、牛(ケルビム)は形成世界で神の戦車を、鷲は活動世界で地上を表す。
 そして、鳥居の形の上から一つ巴(Y)、三つ巴(H+W)、二つ巴(W)となる。巴は“神の御心の炎”である。その基字は己、已、巳であり、いずれも蛇がとぐろを巻いた状態を表す。特に、巳は陰陽五行説では火を表すが、それはまさに「炎の蛇」である。“忌”は“蛇の御心=主の御心”であるから、神宮に於いては死ではなく、この上なく清浄な、という意味で使用する。忌竹(いみだけ)、忌火(いみび)などのように。
 鳥居、特にお稲荷さん系の鳥居は朱に塗られているものが多いが、これは「過ぎ越の祭り」で家の柱を生贄の血で赤く染めたことに由来するのと同時に、主の炎を表す。このように、燃える鳥居は主の炎、ヤハウェの炎を表す。

■890年頃

東南アジア、カンボジアのプレアヴィヒア寺院--------------------------------------------------------

 プレアヴィヒア寺院(Preah Vihear Temple)は、カンボジアとタイ王国国境にあるダンレク山地内のカンボジア王国領内(プレアヴィヒア州)に位置するヒンドゥー教寺院で、800年代末にクメール人によって建設され、1000年代に増築されたとされる。ここにも世界の巨石建造物と共通のアヌンナキの石積みがあり、獅子(ライオン)像も存在する。


■938年

 安倍勢が出羽一円を掌握した。

東日流外三郡誌

■944年

東南アジアのタイのパノムルン歴史公園----------------------------------------------------------------

 944年のアンコール王朝のラジェンドラヴァルマン2世から作られたとされるタイのパノムルン歴史公園にも、アヌンナキの多角形の石積みがある。


■977年

 東日流(つがる)荒吐族(あらばきぞく)と津刈(つかり)族は和合して安倍一族となり、奥州の五国は建固となった。

東日流外三郡誌

■1000年頃

三方楽人(さんぼうがくにん)------------------------------------------------------------------------------

 平安の中頃から、雅楽寮(うたりょう)の機能は「楽所(がくそ)」に受け継がれ、京都御所の「京都楽所」、奈良興福寺・春日大社・東大寺などの「南都楽所」、大阪の「四天王寺楽所」を「三方楽所」といい、その楽人(がくにん)は「三方楽人」と称された。1467年の応仁の乱の勃発により、京都楽所の楽家(がくけ)は解散させられるが、戦国期の正親町天皇(おおぎまちてんのう)の時代に秦氏のもとで四天王寺に属していた楽家が、かつての京都楽所にかわって京都御所に招かれた。秦氏は林氏・小野氏・岡氏・東儀氏にわかれて宮廷に仕えた。東儀氏は、安部氏の姓を与えられて宮廷の御神楽(みかぐら)の式典では篳篥(ひちりき)を演奏した。1868年の明治維新の東京遷都とともに「三方楽所」の楽人は東京に移り、合体して今日の宮内庁式部職楽部となった。



ロシアのショリア山の巨石群-----------------------------------------------------------------------------

 ロシアのほぼ中央、南シベリアのケメロフ地方のショリア山近く、海抜1000mの地点にも巨石群が存在する。壁の高さは40メートルあり、200メートルの長さに伸びている。石のいくつかは20メートルの長さで5~7メートルの高さがある。全ての石の重量は1000トン以上ある。ここでもアヌンナキの隙間なく密着した石積みや、形はやや崩れているが多角形の石積みが見られる。
 ここに現存する痕跡によると、これらの建造物は超強力な爆発物によって破壊された痕跡があり、遺跡の一番古い部分は1000年も経過していない。

Hiloyuki Kubota / 久保田 啓敬

■1000年頃

マルドゥクが再び地球へやってくる---------------------------------------------------------------------

 マルドゥクと約300人のアヌンナキが再び地球に戻ってきた。彼らはマルドゥクを宇宙唯一の神とするピラミッド型の権力構造を作る。マルドゥクは聖書のサタンであり、成長する地球の人口を操作し、地球人を分裂させて征服するために、すべての主要な宗教を支配した。
 彼が最初にしたことは、人間が自分の歴史と起源について持っていたすべての知識を消して、自分を全能の神としての地位に置くために、歴史を書き直そうとする試みであった。その中の一つに、バビロニア神話の創世記叙事詩エヌマ・エリシュを書き直すという仕事もした。この中ではマルドゥクが、初期メソポタミア文明において神々の王とされていたエンリルの地位を超越した存在となっている。
 現在、マルドゥクは多くの秘密結社で神として崇拝されている。しかしフリーメイソンなど多くの秘密結社では、そのことをほとんどのメンバーには知らされていない。マルドゥクはフリーメーソンのピラミッドの上にある“万物を見通す目”である。こうして歴史と秘密とオカルトの指示書を書き直すことによって、すべての秘密結社をマルドゥクのために働く知的組織に変えていった。
 この時代、地球にはエンリルやエンキはいなかった。そこでマルドゥクは自身の評議会を設立する。そして自分はニビル王であるとし、マルドゥクは地球の王(サタン)とニビル王の両方であることを発表する。
 こういったマルドゥクの主張にニビルの評議会は反対し、マルドゥクを地球に隔離(かくり)することを決定した。これによって地球全体が隔離され、人間も宇宙の遠くまで飛行することはできなくなった。
 今日、マルドゥクは世界中のほとんどの機関、銀行カルテル、教育システム、宗教、エンターテイメントなどを支配している。しかし、彼は完全な独占を維持しているわけではない。それはエンリルとエンキの派閥と、さらに少なくとも2〜3種類の他の宇宙種族との駆け引きが行なわれているからである。こうしたことにより、事態はより複雑になっている。


The Wes Penre Papers
■1017年

スリランカのポロンナルワの遺跡群---------------------------------------------------------------------

 ポロンナルワはスリランカ北中部州にある中世の古都で、1017年から1255年までスリランカの首都であった。ここにもアヌンナキの多角形の石積みの遺跡が数多くある。ここに彫られている巨大な仏陀の石像も、アヌンナキのテクノロジーによって彫られたということ。

 僧の坊主頭は、半神半人のアダパが、身分が上のニビル王アヌに会うために剃ったことに由来する。このブッダの像もアヌンナキのテクノロジーによるもので、彼らはキリスト教だけでなく、仏教も作り出した。


■1029年

グルジアのスブティツコベリ大聖堂---------------------------------------------------------------------

 グルジアのスブティツコベリ大聖堂は1029年に完成したもので、ここでも多角形の石積みや、敷地の比率に黄金比を見ることができることができるので、アヌンナキが作った大聖堂と考えることができる。

 スブティツコベリ大聖堂の立面図や平面図にも黄金比が見られる。

 このスブティツコベリ大聖堂にはたくさんのフレスコ画が描かれており、キリストの磔刑(たっけい)の絵の十字架の左右に、クラゲのような物体が描かれている。詳しい説明は後述しているが、これは1327年に建てられたコソボのデチャニ修道院にも描かれており、結論的にはアヌンナキの宇宙船で、右側がキリスト、左側はキリストを助けるためのエンキからの使者である。

 十字架の左右の宇宙船は他の宗教画にも見られる。

 場合によっては、その宇宙船は太陽と月として表されていることもある。
 
■1051年

 安倍頼時が朝廷に貢税(ぐぜい)を断納し、奥州の官職者を追放した。

東日流外三郡誌

■1053年

京都の平等院に見られる黄金比--------------------------------------------------------------------------

 京都南郊の宇治の地は、源氏物語の宇治十帖(うじじゅうじょう)の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。
 現在の平等院の地は、800年代末頃、光源氏(ひかるげんじ)のモデルともいわれる左大臣で嵯峨源氏(さがげんじ)の源融(みなもと の とおる)が営んだ別荘だったものが宇多天皇(うだてんのう)に渡り、天皇の孫である源重信(みなもと の しげのぶ)を経て、998年に摂政(せっしょう)藤原道長(ふじわら の みちなが)の別荘の宇治殿(うじどの)になったとされている。平等院(びょうどういん)鳳凰堂(ほうおうどう)の建立(こんりゅう)は、平安時代の1053年とされ、10円玉の裏に描かれている寺院である。鳳凰堂も立面図では黄金比にならないが、人間目線で見れば黄金比になっている。ここの建造にもアヌンナキが関係していたと考えられる。

 鳳凰堂の中堂(ちゅうどう)の入り口も、黄金比の比率でできている。

 鳳凰堂の阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)にも黄金比の渦模様が見られる。

  鳳凰堂の阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)の周囲の壁には、52体の雲中供養菩薩像(うんちゅうくようぼさつぞう)が飾られ、雲部分の渦模様が黄金比になっている。



■1056年

 源頼義が奥州に赴いて来たが、安倍一族に敗退する。

東日流外三郡誌

■1062年

 源義家(みなもとのよしいえ)が安倍貞任(あべのさだとう)と交戦、安倍一族(荒吐族)が敗亡する。

東日流外三郡誌

■1078年頃

 1078年にローマ教皇グレゴリウス7世がユダヤ人に対し「公職追放令」を発令すると、全ての職業組合からユダヤ人が締め出される事態となった。キリスト教は、他人にカネを貸して利息を取ることは罪悪であると考えていた。ところが、ユダヤ教は『タルムード』の中で異邦人から利子を取ることを許していたので、ユダヤ人は古くから自由に高利貸業を営むことができた。そのため公職追放令が発令されると、ユダヤ人はキリスト教徒には禁止されていた金融業に喜々として手を染めていったのである。「カネに汚い高利貸し」というイメージがユダヤ人に定着したのはこの頃からだと言われている。

 11世紀にイスラム東方世界が分裂すると、それまでユダヤ人に対して穏健であったイスラム政権は、ユダヤ首長を追放。これによりバビロンのサンヘドリン本部は陥落してしまった。そのため、彼らは本部をヴェニスに移動した。ヴェニスはユダヤ商人の活躍により、地中海貿易最大の港町へと発展していった。

 ユダヤ人を追放しなかったキリスト教国でも、イエスを殺害した民族という偏見から、ユダヤ人は抑圧対象とされた。中でも「ユダヤ人集団隔離居住区(ゲットー)」の誕生はその典型である。ゲットーは1554年にヴェネチアに初めて設置されたもので、ローマ教皇パウルス4世がユダヤ人にゲットーへの居住を強制すると、瞬く間に世界各地へ広まった。ゲットー内ではシナゴーグ(ユダヤ教会堂)や学校が設置され、ユダヤ人の高い教育水準と宗教文化が保たれることになったが、ユダヤ人に対する差別政策は完全に制度化してしまった。

 しかし、全てのユダヤ人がゲットー生活を強いられていたわけではなかった。完全に自由な特権を享受していたユダヤ人が存在していたのである。彼らはドイツ諸侯の高級官僚や宮廷出入りの御用商人となっていたため「ホフ・ユーデン(宮廷ユダヤ人)」と呼ばれていた。彼らは天性の商才によって、莫大な富を蓄積していった。現在、世界最大の財閥のロスチャイルド財閥も、もともとはホフ・ユーデンの出であることで知られている。


■1096年頃

 この頃、西ヨーロッパのキリスト教の中でも、主にカトリック教会の諸国が、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に十字軍を編制し派遣した。十字軍はイスラム教徒から聖地エルサレムを奪回したが、巡礼者たちの安全までは確保することができず、1096年の第1回十字軍の終了後に巡礼者たちの保護を目的として聖堂騎士団が創設された。ただ創設の他の目的には、キリストの血を受けたとされる聖杯や失われたアークの調査などもあった。ソロモンの神殿の置かれていた王宮の跡地に本拠があった為、聖堂(テンプル)騎士団という名称がつき、この騎士団は瞬く間にヨーロッパ全土に普及し、貴族だけでなく様々な階層からなる巨大な組織に発展してゆくことになった。


■1100年代

東南アジア、カンボジアのアンコール・ワット-------------------------------------------------------

 カンボジア北西部に位置するアンコール・ワットにも、多角形の石積みや獅子(ライオン)像が存在する。1100年代前半、アンコール王朝のスーリヤヴァルマン2世によって、ヒンドゥー教寺院として30年を超える歳月を費やし建立されるとされる。しかし、ここにも多角形の石積みがあり、敷地の大きさや建物の配置も黄金比の比率となっていることからアヌンナキが作ったとわかる。
 アンコール・ワットは真東に対して0.75度ずれている。地球の最左運動で0.75度移動するには54年の年月が必要だが、54という数字はアンコールのいたるところででてくる。このずれがアンコール・ワットに春分の三日前だという注意を与えた。昼と夜が同じ長さになる分点の時に昇る太陽が、中央棟と一直線に並ぶ。寺院のバイヨンへの入り口である南大門の左側には54体の神々の像が、右側には54体の阿修羅像が巨大な蛇の胴体を引き合っている。


■1121年

イランのジャーメ・モスクの黄金比---------------------------------------------------------------------

 イランのエスファハーンにあるジャーメ・モスクは金曜モスクとも呼ばれ、771年に建築されたエスファハーンでもっとも古いモスクであり、絶え間無く建築活動が行われた結果、建物のどの部分がどの時代に建てられたのかすら特定が困難な複雑な歴史を持つ。
 ジャーメ・モスクは、771年にエスファハーンの別のモスクからミンバル(説教壇)をこの地に移送してきたことから始まる。最初期のモスクの形態については不明な部分も多く、考古学的な発掘調査によって煉瓦(れんが)と木材を使用した古典的なモスクであったことが判明している程度である。

 ジャーメ・モスクの中央の広場は、黄金比を2つ並べた大きさとなっている。ただ綺麗な長方形型ではなく、少し歪(ゆが)んでいる。中央の道は、黄金比の比率の道幅になっている。

 次の画像の建物はイスラム建築によく見られるイーワーンというものだが、1121年から1220年ごろまでに南、東、西、北の順に、それぞれのイーワーンが建築されたと考えられている。このイーワーンも黄金比の比率でデザインされている。


■1136年


ヨーロッパに突如現れたゴシック建築と3つの技術革新---------------------------------------------

 ゴシック建築には、古代エジプトのピラミッドの高さ146.6mよりも高い157mのケルン大聖堂や、広さは自由の女神がすっぽり収まるものもある。重力に逆らって5トンもの石を自在に積み上げ、エンパイアステートビルと同じくらいの重さの建造物もある。建築の歴史に革命を起こしたその建物こそ、ゴシック様式の大聖堂と言える。

 文献によると大聖堂の建設には、古代ローマ時代の兵器を巻き上げ機として使用していたとされている。この方法なら1人で自分の体重の6倍の重さのものを持ち上げることができた。

 少しずつ車輪が石を吊り上げてゆく。その間にモルタルを練る。これも昔からの手法で、焼いた石灰岩と砂を混ぜ合わせる。モルタルは石と石の隙間は埋めるが接着力は強くない。乾きにくく壁の内部にはほとんど空気がないので乾くのに1000年以上かかることもある。この石材を安定させるために使ったのは圧力。6万トンにも及ぶ建物事態の重さが1つ1つの石を固定している。ただしそれぞれの石の層が水平でなければ壁はたちまち倒れてしまう。例としてエンパイアステートビルは102階の建物で、高さ443.2m、総重量は33万トン、鉄骨の総重量は6万トンとなっている。
 ゴシック様式が現れる以前、高い建物を建てるためには厚く大きな壁を築くしかなかった。その結果建物は巨大化し、中は真っ暗だった。やがて聖堂建築に大きな変化が現れる。
 1144年6月11日、国王と王妃をはじめ多くのフランスの名士がパリ郊外のサン・ドニで一堂に会していた。そして王家の教会堂で革新的な建築技術を目の当たりにする。色鮮やかな光が巨大なステンドグラスの窓から差し込んで、これまで見たこともないほどの薄い壁に降り注ぎ、高くそびえる天井を照らしている。


 当時のサン・ドニ大聖堂(Basilique de Saint-Denis)の修道院長シュジェは、この新しい教会堂の建築様式をモダン様式と名付けた。しかし後世の批評家は、ドイツ平原の古民族ゴート人が建てたように野蛮だという意味で、ゴシックと呼び嘲笑(あざわら)った。しかし修道院長にとってはこの教会堂が、聖書にうたわれた神の家、ソロモンの神殿に思われた。聖書には宝石やガラスや黄金が散りばめられた神殿が数多くでてくるからだ。

 修道院長にとって光は神の象徴だった。多くの光を取り込めば、それだけ人々が神に近づけると考えた。狭く薄暗い家で暮らしていた当時の人々は、高くそびえる光の壁に畏敬の念を抱いたことだろう。
 ゴシック建築の技術者達は石ではなく、ガラスを使ってとても薄くて高い壁を築いた。もろいはずのガラスの窓が高くそびえる石の天井を支えている。ゴシックの建築家はなぜこのようなことができたのか。その答えはスペインでばらばらに解体された教会堂にある。建築様式はゲドロン城の分厚い壁とサン・ドニ大聖堂の高くて薄い壁の中間に位置する。1931年、アメリカの新聞王ウィリアム・ハーストがヨーロッパの教会を買い取り解体して船でカリフォルニアに運んだ。ところが大恐慌のためにハーストは教会の再建を断念した。

 そして、経験豊かな石工職人フランク・ヘルムホルツがカリフォルニアでこの教会堂の再建に取り組んだ。1930年頃、スペインでバラバラに解体された多くの石材が、倉庫に保管されている。まずこの石材をすべて分類するのに、10年近くかかった。そしてその後7年かけて、教会堂の外観を復元した。
 するとこの教会堂は、2種類の建築様式で建てられていることが分かった。教会堂の裏側、分厚い壁のロマネスク様式(おおよそ1000年から1200年頃までのゴシック建築以前の建築を指す)、丸みのある窓からはあまり光が入らない。窓は小さく細く作らねば、間部の重さを支えられないからだ。

 一方正面はゴシック様式。当時の大聖堂のように薄くて高い壁を持ち、大きな開口部からたくさんの光が差し込む。アーチの形も違う。先端が尖っている。
 
 この尖ったアーチが大聖堂の壁の高さに関係あると考えたヘルムホルツは、詳しく調べるため、アーチの縮尺模型を作ることにした。まず木の骨組みを作る。石が積みあがるまで、この骨組みがアーチを支える。実物の16分の1の大きさだが、1つ1つの石を正確に置いていかねばならない。


 石を斜めに積んでゆくと、重力が作用し始め、斜め下に広がろうとする応力(おうりょく)と呼ばれる圧力が生じる。丸い半円形のアーチでは応力は横方向に強く作用し、支柱を押し広げようとする。そのためアーチが高すぎたり広すぎたりすると中央が凹み崩れてしまう。しかしアーチの先をとがらせると応力が下の方向に向くので、高いアーチを作ることが可能になる。尖頭(せんとう)アーチと呼ばれる先端の尖ったアーチこそが、高くそびえる大聖堂を築くための最初の技術革新だった。


 しかしこの尖頭アーチにも限界はあった。その尖ったアーチは重力を下に向けるが、それでも柱の先端部分には応力が生じる。この問題を解決しなければ、石の継ぎ目が離れてアーチ全体が崩れてしまう。
 パリから北へ130kmに崩壊寸前の大聖堂がある。1220年、新興都市アミアンは人口2万人という町に相応しい立派な大聖堂の建設に取り掛かることになった。当時大聖堂の建築はブームとなっていた。

 サン・ドニの教会堂に刺激を受けて、パリ周辺、やがてはヨーロッパ全土にゴシック建築の大聖堂が続々と建設された。どの町も地上でもっとも高く、光に満ちた教会を目指した。アミアン大聖堂(ノートルダム大聖堂)も他の多くの大聖堂と同じく、十字架の形をしている。


 十字架の交差部分には先の尖ったアーチのような高い壁が築かれた。その高さは12階建てのビルほどもある。しかしこの高さが構造的な欠陥を招いたと考える人もいる。カリフォルニアの模型と同じく、このアーチにも石の圧力がかかっている。2階から見てみると、割れ目や亀裂がよく見える。ひび割れたアーチの左側は大きな中央の柱があり、重さが何1000トンもある石の天井を支えている。つまりこの割れ目は大聖堂の中心部が崩壊の危機にあるという警告なのかもしれない。

 この大聖堂がどうなっているのか、ハイテク機器でスキャンする。レーザー光線、1秒間に数千回という速度で建物との距離を測定する。壁全体を見渡しながらレーザーを発射して測定を行い、計測したデータを座標に落として三次元モデルを作る。わずか数分でアミアン大聖堂の中央部分全体がスキャンされた。コンピューターが描きだしたきわめて精密な大聖堂の三次元モデル、聖堂の傷み方が分かる。
 中央の柱にしぼり、損傷の兆を探す。柱と柱の間の距離を3つの高さで測定。柱がまっすぐなら距離は3か所とも同じはず。一番下で測ると11m60cm、これが基準。次に3mの高さで測ると11m50cm、10cm狭まっている。三次元モデルからすぐに石の柱がまっすぐでないことが分かった。さらに一番上、柱頭のすぐ下で距離を測ると11m70cm、柱の中央と比べて20cmも差がある。三次元モデルで見ると柱は2方向に動いている。下のほうでは内側に、上のほうでは外側に歪んでいる。上でも下でもアーチの石が押し出され、柱に圧力をかけている。コンピューターが作り上げたモデルから、壁の割れ目の原因は、アーチが柱を押し出しているためだと分かった。このままずっと押し続ければ、いずれはアーチが倒れ、壁全体が崩れ落ちてしまうだろう。

 根本的な原因はアーチに働く応力。カリフォルニアでも同じ問題に取り組んでいた。もし木の骨組みを外せば、応力は柱上の石を押し出そうとしているので、アーチは崩れてしまう。この応力に対抗してアーチを支える腕木のようなものを作った。この見事な解決策は、飛び梁(はり)と呼ばれている。飛び梁(Flying buttress)をうまく機能させるためには、取り付ける位置が重要。取り付ける位置が高すぎるとアーチの下の部分が崩れる可能性がある。逆に低すぎると、アーチの上の部分が押し出されてしまう。モルタルで固定されていない石のアーチは、慎重に迫枠(せりわく)と呼ばれる木の支えを外す。

 実際のゴシック大聖堂では飛び梁の大きさは圧倒的なスケール。入り組んだ蜘蛛(くも)の巣のように、石の飛び梁は地面から天に向かって高々と延びている。飛び梁は尖頭アーチに次ぐゴシック建築第2の技術革新。飛び梁のおかげで大聖堂は天の光を捕え、空に届くほどにそびえ立つことができた。大聖堂の天井の高さを支えているのは尖頭(せんとう)アーチと飛び梁(はり)、ただし大聖堂の構造はトランプで作った家に似ている。どれ1つ石がかけても建っていられない。

 ゴシック様式で画期的だったのは、なんといっても優れた石造建築の技術、尖頭アーチと飛び梁。こうした技術革新によって光に満ちた美しい壁がもたらされた。大聖堂の壁はほとんどがこうしたガラスでできている。では、なぜこのガラスの壁で、巨大な石の天井を支えられるのか。それはリブボールトというゴシック様式における3つ目の技術革新があったから。尖頭アーチや飛び梁と共に建物の重さを支え、地面へと導く骨組み。こうして重さから解放された壁には、色とりどりのガラス窓をはめ込むことができるようになった。

 中世のガラス職人のステンドグラス作り基本的な工程は、今も変わっていない。粉状にした石英(せきえい)結晶、様々な金属、ソーダ灰(ばい)の混合。化学製品の混合物を炉(ろ)にいれる。炉の温度は摂氏1200℃、火山の溶岩より高温。中世の職人はガラスに金属を混ぜると様々な色を作れることを知っていた。銅を混ぜると緑や赤のガラス、コバルトを加えると青、セレンを混ぜるとオレンジや黄色になる。熱したガラスを回転させ、円盤状に形を整える。こうした技術を使って中世の職人たちは万華鏡のように色とりどりのガラスを作った。そして複雑で精密な図柄を持つ巨大なステンドグラスの窓を生み出した。
 ここに描かれているのは聖書にでてくる様々な物語。アダムとイヴ、ノアの箱舟、イエス・キリストの復活・・・中世には文字が読める人はごくわずかだった。そのためステンドグラスの窓が光で語られる聖書となった。天から差す色鮮やかな光の壁に包まれた広々とした空間、その中で中世の人々は辛い日常を忘れ、楽園の気分を体験した。しかしそれは、技術の革新と結びついて初めて実現した。尖頭(せんとう)アーチと飛び梁(はり)とリヴボールト、この3つの技術革新がなければ大聖堂の建築は不可能だった。


 大聖堂の大きさを示す数字には、聖書の数字が隠されている。ジョージア大学のステファン・ヴァンリファレンジは、パリのノートルダム寺院をレーザースキャナを使って調べた。1階と2階それぞれの高さを測り、各階とも32.8feet(フィート)、およそ10mだった。しかし中世には現代とは違う単位が使われていた。中世の尺度Royal feet(ロイヤルフィート)に換算すると、上下階ともおよそ30Royal feetになった。合計すると高さ60Royal feet。

 この30と60という数字を見て、ヴァンリファレンジはひらめいた。フランス最古の図書館の1つ、マザラン図書館で、中世の文献のスコラ哲学的聖書物語を調べた。これはノートルダム寺院の建設に携わった司祭ペトラス・コメスト(Petrus Comestor)が、1100年代末に記した書物。この本はノートルダム寺院の建設中に書かれたとされている。
 コメストは旧約聖書の一説を引用し、地上に作られた神の家と称えられるエルサレムのソロモンの神殿について詳しく説明している。
「1階の住居は高さ30Cubits(キュビト)、その上の住居も高さ30Cubits(キュビト)だった。」
 ノートルダム寺院の建設者にとって、ソロモンの神殿の大きさは極めて重要な意味をもっていたようだ。1階の高さが30Cubits、2階までの高さが60Cubits、30Royal feetと30Cubits、数字が一致する。これは単なる偶然の一致なのか、それとも聖書の中の神聖な数字が意図的に大聖堂に組み込まれたのか。

 パリの南西およそ90kmにあるゴシック建築の最高峰、シャルトル大聖堂に手掛かりがあった。シャルトル大聖堂のステンドグラスはほとんどが1200年頃のもの。ここでは聖書の物語はステンドグラスだけでなく、石にも刻まれている。イエス・キリストや聖母マリア、そして12使徒の石像が外壁をとりまいている。しかしゴシック建築の専門家シャクリーン・ユング(イエール大学)が注目するのは、キリスト教が誕生する数百年前に活躍した古代ギリシャや古代ローマの学者達の像。アリストテレスやユークリッド、そしてピタゴラスの姿もある。シャルトル大聖堂を建設した聖職者は、古代の異教徒を崇めていたのだ。


 アミアン大聖堂、聖なる数字を探してみよう。まず十字架の中心にあたる正方形をした部分の寸法を測る。中央の正方形の1辺はアミアン大聖堂の建設者が使ったRoman feetという単位で測ると50Roman feetだった。50というのも聖書に登場する重要な数字。神がノアに作るよう命じた箱舟は幅が50Cubitsだった。ノートルダム寺院と同じくアミアン大聖堂にも聖書に示された数字が取り入れられている。

 レーザースキャンした画像を見直してみた。カナメ石を1つ選び、線を床まで下すと敷石までの距離がでる。42.55m、測定した距離を中世のローマンフィートの単位に変換する。するともう1つの聖なる数字144が現れた。この数字は新約聖書の中で神の都と呼ばれる天国の城壁の高さ144Cubitsと一致する。ヨハネの黙示録の一説で、ヨハネがアポロンに見た都の城壁を測ると144Cubitsだった。そしてなんとアミアン大聖堂が完成した時の式典で司祭が朗読したのも、神の都の城壁の高さが144だと記されたヨハネ黙示録の一説だった。

 聖なる数字がほかにもないか、一部が崩れかけたフランスのボーヴェ大聖堂も調べた。大聖堂の高さは144.3Cubits、アミアンでもボーヴェでも設計者は大聖堂を神の都と同じ高さに設計しようとした。ノートルダム大聖堂で30というソロモン神殿の数字が、アミアン大聖堂では50というノアの方舟の数字が見つかった。


尖頭(せんとう)アーチはアヌンナキの建築技術--------------------------------------------------------

 1200年代のヨーロッパの建築史に突如と現れ、技術革新をもたらした尖頭アーチは、インドのクトゥブ・ミナールにもタージ・マハルにも見られ、このどちらもがアヌンナキが作った建物。つまり、突然ヨーロッパに尖頭アーチの技術をもたらしたのはアヌンナキであり、ゴシック建築自体がアヌンナキの建築物と言える。


ゴシック建築とガーゴイルと悪魔崇拝------------------------------------------------------------------

 キリスト教会組織自体に性的シンボル、または男根崇拝が浸透している。今日キリスト教会を見てみると、床やアーチやドームばかりであり、それらは生々しい性的シンボルを拝む異教(悪魔教)に他ならない。教会の尖塔(せんとう)や中庭などは、全て性的シンボルを崇拝する概念を反映している。これらはイルミナティやフリーメイソンなどがバビロン由来のマルドゥク(ルシファー、サタン)を悪魔崇拝するシンボルを取り入れたもので、マルドゥクとその手下に捧げられている。
 キリスト教の大聖堂には、ガーゴイル(悪魔)などグロテスクな像もたくさん飾られている。動物の面や頭部の彫像は古来、魔除けに用いられてきたとされているが、これらはキリスト教がバビロニアからの悪魔崇拝を取り入れた証拠の一つである。ゴシック建築もアヌンナキが作ったもので、ここではグロテスクな彫像や性的シンボルによる悪魔崇拝、聖人たちの彫刻を置いた偶像崇拝が行われている。これを主導しているのはマルドゥクである。
 

1200年代の建築技術だけで建設中のフランスのゲドロン城---------------------------------------

 1100年代末の建築技術を考えると、ゴシック建築の技術レベルは飛躍的に向上している。技術の急激な進展が見られるときは、必ずと言っていいほどアヌンナキが関係している。この1200年代の技術レベルを知る上で、わかりやすい例がある。フランスのブルゴーニュ地方ゲドロンで、中世の城を当時の技術と道具だけを使って建設しようというプロジェクトで、建設中の城砦(じょうさい)はゲドロン城と呼ばれている。石切りや大工など45人の職人が、一切の近代的な手法を使わず、水や土、石、木、砂などを利用し、1200年代の技術をもって25年もの歳月をかけて本物の城砦(じょうさい)を建てる。2015年で着工18年目。採石工、石切り職人、左官(さかん)、大工、樵(きこり)、鍛冶屋、馬方、瓦職人、籐(ラタン)細工師、縄職人などの多くの本職の職人がいる。

 1200年代の技術で建築中のゲドロン城の壁と、1225年に完成したゴシック建築のノートルダム大聖堂の壁を比べると、その技術レベルの違いがわかる。どちらもフランスの建築物。

 次の動画では、1200年代の技術だけでゲドロン城を作る職人の実際の技術を見ることができる。この内容を見る限りではゴシック建築の大聖堂を作ることは、当時の人間の技術だけでは不可能と考えられる。


■1146年頃

 フランス・カペー朝の第6代国王ルイ7世の命により、フランス王国の国庫は正式にテンプル騎士団に預けられ、この体制はフィリップ4世の統治時代まで続く事となる。


■1147年頃

 テンプル騎士団は1147年の第2回十字軍に際して、フランスのルイ7世を助けて奮闘したため、十字軍の終了後、ルイ7世は騎士団にパリ郊外の広大な敷地を寄贈。ここにテンプル騎士団の西欧における拠点であるタンプル塔が建設された。この支部は壮麗な居館(きょかん)のまわりに城壁をめぐらした城塞(じょうさい)のごときものであり、教皇や外国人君主がフランスを訪れる際の宿舎となり、王室の財宝や通貨の保管まで任されるようになっていった。

 またこの頃、テンプル騎士団はキリストの聖遺物を探して守るのが役割で、失われたアーク(契約の箱)を探しにキリストの墓がある青森に来ている。新郷村の農作業着がテンプル騎士団の服装と似ていたり、新郷村の日本人の墓には星の形をしたテンプル騎士団のペンタグラムの家紋の家庭もある。


■1177年頃

 テンプル騎士団はモントギサールの戦いでサラディン率いるイスラム軍を撃退し、フランスのフィリップ2世やイングランドのリチャード1世とも共闘し、スペインやポルトガルでも対イスラム教徒戦闘に従事して、その勇名を不動のものとした。

 そして、テンプル騎士団の入会者たちは、個人の私有財産を会に寄贈して共有しており、騎士団は軍事活動のみならず、巨大金融機関としての側面も持つようになり、テンプル騎士団が巡礼者の預金証を作成し、彼らの資産を預かる銀行システムを編み出した。

 このような銀行システムの構築と、多くの寄進を集めたことによって、12世紀から13世紀にかけて騎士団は莫大な資産をつくり、それによって欧州から中東にいたる広い地域に多くの土地を保有し、そこへ教会と城砦(じょうさい)を築き、ブドウ畑や農園を作り、やがて自前の艦隊まで持ち、最盛期にはキプロス島全島すら所有しており、パリにあったテンプル騎士団の支部のタンプル塔は、フランスの非公式な財務省といえるほどの規模になり、たびたびフランス王に対する財政援助を行った。



■1185年頃

 源頼朝が鎌倉幕府を創設する。場所は現在の神奈川県鎌倉市で、日本初の武家社会である。源氏もまたイスラエルからのユダヤ民族であり、同じイスラエルの失われた10支族のユダヤ民族である藤原氏の藤原王国を転覆させた。
 源氏とは藤原氏たち貴族の土地を守っていた武士・傭兵であり、それが武器を手に取って日本を引っくり返した。つまり藤原氏たち貴族に長年虐げられてきた下層階級の同じ古代ユダヤ人が、その後の日本を支配し続けていくことになる。
 また鎌倉幕府職制の守護・地頭という職にあったのが毛利と島津である。これが後に、倒幕・明治維新を行う事となる。鎌倉の源頼朝の墓の後ろの山の中腹に大きな穴が二つ開いており、その中は毛利と島津の先祖伝来からの墓がある。つまり鎌倉の昔からこの二氏は古代ユダヤ人としての墓を作っていた。藤原氏から見ると源氏は同族でありライバルでもある。下記の写真の源頼朝が持っている王冠と笏(しゃく)は、アヌンナキから続く王権の象徴。平安時代末期まで纓(えい)は二本だったが一本になった。

etc.

■1190年頃

吉田司家と相撲----------------------------------------------------------------------------------------------

 鎌倉時代、後鳥羽天皇は相撲の伝統を守り続けるよう吉田司家に命じた。1945年までは横綱の免許を与えられるのは吉田家だけで、土俵の規格、行司の登場礼式、力士が登場する作法などを定めてきた。相撲の宗家として代々「追風(おいかぜ)」の号を名乗る。元来、古代イスラエルの子孫である藤原氏が改名してできた京都二条家に奉公し、奈良・平安時代の宮中の年中行事の節会相撲(すまひのせちえ)の行事官として務めていた。本来、相撲とは神と行うもので、天下泰平、国家安全、五穀豊穣の政として相撲を行ってきた。


■1200年頃


沖縄県の勝連城の多角形の石積み------------------------------------------------------------------------

 沖縄県の勝連城(かつれんじょう)は、1200〜1400年の間に茂知附按司(もちづきあじ)により築城されたとされている。ここにもアヌンナキの多角形の石積みが見られる。




インドのクトゥブ・ミナールの多角形の石積み-------------------------------------------------------

 クトゥブ・ミナールは、インドのデリーにある世界最高のミナレットで、1200年ごろに奴隷王朝の建国者であるクトゥブッディーン・アイバクによって、クワットゥル・イスラーム・モスクに付属して建てられた。ヒンドゥー様式とイスラーム様式が混在した様式となっている。クトゥブ・ミナールという塔の入口にも、アヌンナキの多角形の石積みが見られ、同時に花弁が16枚ある紋章も見られる。またこの塔や周辺の装飾もアヌンナキの芸術である。



 クトゥブ・ミナールの近くにあるイルトゥトゥミシュの廟(びょう)にも、多角形の石積みが見られる。シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ(?-1236年)は、北インドのイスラム王朝であるインド・マムルーク朝の第3代君主(在位1211年-1236年)であった。
 またここにも16枚の花びらの紋章があり、ギリシャの南東沖のエーゲ海辺りから出土している紋章や天皇の菊花紋とも似ている。ギリシャの出土品には、イナンナ(イシュタル)の渦巻きのマークも刻まれている。渦巻きはイナンナのシンボルであり、縄文のヴィーナス像にも描かれている。縄文のヴィーナス像もイナンナである。
 イナンナの十六花弁ロゼッタは、後光が差して十六芒星となっている。イナンナの金星が先端の尖った三角形の光を放つ八芒星で表現されていて、その間に四角で後光が表現され、全体として十六芒星として表現されている。
 またメソポタミアのアッシリアのレリーフには、16枚の花びらの腕輪を付けたアヌンナキが描かれている。


  クトゥブ・ミナール内の錆びないデリーの鉄柱は、古代インドの商業都市の毘舎離(びしゃり)にある獅子像が乗った石柱とデザインが同じになっている。デリーの鉄柱は99.72%という高純度な鉄で、直径は約44cm、高さは約7m、地下に埋もれている部分は約2m、重さは約10トンある。これらから見て、そしてクトゥブ・ミナールの敷地内にあることから、この錆びない鉄柱もアヌンナキが作ったものとわかる。


クスコ王国の多角形の石積み-----------------------------------------------------------------------------

 クスコ王国は、南米のアンデス山脈山中の小王国。1200年頃にケチュア族が作った小規模の都市国家として始まり、和戦両様の同化によって成長し、インカ帝国により引き継がれた。ここにもアヌンナキの多角形の石積みがある。





ペルーの脳手術----------------------------------------------------------------------------------------------

 南米のプレ・インカのひとつ「ワリ文化」で頭蓋骨に穴を開ける脳外科手術が行われていたことを証明する遺骨が発見された。プレ・インカとはインカ帝国以前のアンデス文明の諸文化のことで、そのひとつのワリ文化は西暦500年~900年ごろアンデス中央高地で繁栄した。
 アメリカ、カリフォルニア大学サンタバーバラ校の考古学者ダニエル・クリン氏ら研究チームは、ペルーの南中央アンデス地方で32体の遺骨を発掘し、45の手術痕を確認。放射性炭素年代測定によって西暦1000~1250年頃に埋葬されたものであることが判明した。これも南米にいたアヌンナキが、彼らの科学技術で手術したと考える方が自然である。
 
■1202年

三重県の新大仏寺の多角形の石積み---------------------------------------------------------------------

 三重県伊賀市の新大仏寺は、1202年に源頼朝(みなもと の よりとも)が後鳥羽天皇(ごとばてんのう)の勅願寺(ちょくがんじ)として開創、重源(ちょうげん)を開山として創建されたと伝えられる。重源(ちょうげん)は鎌倉時代に東大寺大仏と大仏殿の復興事業を指揮した僧として知られ、当寺は東大寺の伊賀別所となった。

 大仏の体部は江戸時代の補作で、頭部は仏師の快慶(かいけい)の作とされる。


 大仏の石造基壇(きだん)は造像当時のもので、多角形の石積みが見られる。

 大仏殿の裏手にある岩屋不動は岩をくり抜いた場所に立っているが、つまりこれもアヌンナキの科学技術で作られたと考えられる。

 新大仏寺に祀られている不動の顔の頭部にも、黄金比の渦模様が見られる。総合的に見て、新大仏寺もアヌンナキの科学技術によって作られたと推察できる。
  

■1215年頃

アルメニア共和国のゲガルド修道院---------------------------------------------------------------------

 ゲガルド修道院は、301年に歴史上初めてキリスト教を国教と定めたアルメニアでも古い歴史を持つ修道院で、初期キリスト教時代にはすでに開設されていたと伝えられている。今日残っている中央聖堂は、1215年から1283年にかけて建設されたもの。洞窟修道院とも呼ばれ、院域のいくつかは岩盤を掘って造られた洞窟となっている。僧院は中央聖堂北側に接する岩盤を掘って造られ、十字架を彫った石盤がいたるところに設置されている。このゲガルド修道院にもたくさんの多角形の石積みが存在し、アヌンナキによる建造と考えられる。

 またゲガルド修道院の入口の門のアーチ(輪石)は、奈良県のキトラ古墳の石室の石組みと同じである。キトラ古墳もアヌンナキが作ったもの。

 さらに十字架もたくさん彫られている。キリスト教はアヌンナキによって作られた宗教。

 またフラワーオブライフの彫り込みもアヌンナキが行った。
 


■1225年

ゴシック建築のノートルダム大聖堂---------------------------------------------------------------------

 フランスのパリのノートルダム大聖堂(アミアン大聖堂)はゴシック建築を代表する建物であり、ローマ・カトリック教会の大聖堂。ノートルダムとはフランス語で「我らが貴婦人」すなわち聖母マリアを指す。ノートルダムの敷地は、ローマ時代にはユピテル神域(エンリル)であったが、ローマ崩壊後、キリスト教徒はこの地に教会堂を建設した。1163年、司教モーリス・ド・シュリーによって、現在にみられる建築物が着工され、1225年に完成した。ここにも多角形の石積みが見られる。また1階と2階の高さが、ソロモン神殿と同じになっている。ノートルダム大聖堂の建造も、アヌンナキが関係していたと推察される。

■1238年

スペインのアルハンブラ宮殿------------------------------------------------------------------------------

 スペインのアンダルシア州に位置するアルハンブラ宮殿にも、アヌンナキの共通点を見ることができる。アルハンブラ宮殿が大きく拡張されたのは、この時期に建国したイベリア半島最後のイスラム王国であり、グラナダを首都としたナスル朝(1238年〜1492年)の時代に入ってからである。よって、イスラム建築との類似点も多い。1400年頃のムハンマド5世没後、ナスル朝はおよそ100年間存続するが、新たな建造物はほとんど建てられなかった。


 アラヤネスの中庭のアーチ周辺の装飾には、コーランの章句が彫られている。

 このコーランの章句のデザインパターンは、インドのタージ・マハルやクトゥブ・ミナールにも見られ、この2か所はアヌンナキが建造した場所。つまり、アラヤネスの中庭もアヌンナキが作ったということ。

 アルハンブラ宮殿のカルロス5世宮殿の入口には3つの扉があるが、この作りはアヌンナキがよく使うデザインパターンの生命の樹であり、フリーメイソンのシンボル図でも使用されている。扉の上の三角形は、生命の樹のケテルの三角形であり、プロビデンスの目と呼ばれ、それはマルドゥクによって悪魔崇拝のシンボルとされている。


 このカルロス5世宮殿の外壁は、独特の形をした石でできている。結論を言えば、これもアヌンナキが作った可能性が高いが、アヌンナキ建築でこのタイプの石は珍しい。

 アルハンブラ宮殿のカルロス5世宮殿の壁には、アヌンナキの多角形の石積みが見られる。



 同じくカルロス5世宮殿の壁には、黄金比の渦巻き模様も見られる。
 
 アルハンブラ宮殿内の窓には、イナンナの十六花弁ロゼッタも見られる。

 一般の歴史ではアルハンブラ宮殿は当時の人間が作ったと考えられているが、ここもアヌンナキが作った場所であることが見えてくる。そしてアヌンナキ建築のもう一つの共通点である細かな装飾も、ここでは数多く見られる。これは手作業ではなく、3Dプリンタのような科学技術で作ったものと推察できる。もしこれを人間が作ろうとするならば、圧倒的な芸術センスと技術力が必要であり、偉大な芸術家として後世にも名前が残っているはずである。


■1248年

ゴシック建築のケルン大聖堂-----------------------------------------------------------------------------

 ドイツのケルンにあるゴシック様式のケルン大聖堂は、ゴシック様式の建築物としては世界最大であり、ローマ・カトリック教会のミサがおこなわれている。初代が完成したのは300年代、2代目は818年に完成、3代目は2代目が焼失した年である1248年に建設がはじまり、財政難から一度工事が途絶し、1842年に建設が再開され、全てが完成したのは建設開始から600年以上が経過した1880年。ケルン大聖堂にも多角形の石積みや黄金比の渦模様が見られる。装飾の細かさもアヌンナキの特徴を表している。ケルン大聖堂の建造にもアヌンナキが関係していたと推察される。



■1252年

鎌倉の大仏の黄金比----------------------------------------------------------------------------------------

 神奈川県にある高徳院(こうとくいん)は鎌倉の大仏を本尊とする寺院だが、開山、開基(かいき)は不明で、大仏の造像(ぞうぞう)の経緯についても史料が乏しく、不明な点が多い。1252年から造立の開始された大仏が、現存する鎌倉大仏であるとするのが定説となっている。鎌倉の大仏の高さは11.39m、重量約121トンで、黄金比などを見ることができることから、アヌンナキと人間の両者で作ったと考えられる。

 大仏の背面側の台座には、多角形の石積みが見られる。わずかに角を付けた形は、エジプトのメンカウラー王のピラミッドにも見られる。どちらも石積みは隙間なく密着している。


 大仏の頭の渦模様は黄金比となっている。これは中国の高さが約60mもある楽山大仏(らくさんだいぶつ)と同じ造りになっている。


 大仏の耳の形も黄金比になっている。耳に黄金比の曲線を取り入れることはエジプトのスフィンクスにも見られ、スフィンクスにも多角形の石積みが見られる。スフィンクスはアヌンナキが作ったもの。


 大仏の台座は八角形になっており、それは法隆寺の夢殿(ゆめどの)にも見られる。8はイナンナを表す数字で、古代バビロンの円筒印章にも見られる。

■1300年頃

 テンプル騎士団が祀っていたキリスト教の悪魔の一人バフォメット(マルドゥク)の記録が、カトリック教会の異端審問の裁判記録に残されている。両性具有で黒山羊の頭を持つ姿で、魔女の崇拝対象となった悪魔である。つまりテンプル騎士団は悪魔崇拝を行う団体。


中国の紫禁城(しきんじょう)に見られる黄金比--------------------------------------------------------

 中国にある紫禁城(しきんじょう)は、元(げん、1271年〜1368年)の時代に作られ、中国の歴代王朝の明(みん、1368年〜1644年)と清(しん、1644年〜1912年)の旧王宮である。紫禁城にもアヌンナキに関するシンボルが数多く見られることから、アヌンナキが建造に関わっていたと推察される。

 紫禁城の敷地は2つの黄金比の大きさとなり、それを縦横に並べたときに現れる線の位置に、建物や橋が配置されている。つまり非常に計画的に設計されており、アンコール・ワットと同じパターン。

  正面から見た太和殿(たいわでん)に2つの黄金比を配置すると、前方にある階段の幅と位置が黄金比の比率の位置になる。

 世界中の巨石建造物に見られる多角形の石積みが、太和殿の階段横などにも見られる。


 その階段の壁や手すりには、黄金比の渦模様が彫刻されている。これも各大陸で見られるアヌンナキ建築の共通点。

 太和門の両側にいる獅子像も、エジプトから日本までの間の国々で見られ、黄金比の渦模様も彫刻されている。渦の中に、さらに細かい線が見られる。これは手作業ではなく、3Dプリンタのような科学技術で作られたと推察される。

 紫禁城内の亀の像やその他の建物にも、黄金比の渦模様が彫刻されている。


 

■1307年頃

 当時のフランスはイギリスとの戦争によって多額の債務を抱え、テンプル騎士団が最大の債権者であった。そのためフィリップ4世は、債務の帳消しをはかってテンプル騎士団の壊滅と資産の没収(略奪)を計画した。まず手始めにフィリップは聖ヨハネ騎士団との合併をテンプル騎士団総長ジャック・ド・モレーに提案したが、これは即座に拒絶された。そこで王はどのようにテンプル騎士団の資産を没収するかを検討したが、そもそも何の罪もない人々を一般的な裁判形式で裁いても有罪の立証に持ち込むことは難しい。そこで、匿名の証言を採用できる「異端審問方式」を用いることで有罪に持ち込もうと考えた。異端審問を行うにはローマ教皇庁の認可が必要であるが、当時のローマ教皇はフランス王の意のままに動くフランス人のクレメンス5世であり、何の問題もなかった。こうしてテンプル騎士団を入会儀式における男性同士の性愛の男色行為(なんしょくこうい)、反キリストの誓い、悪魔崇拝といった容疑で起訴することになった。


■1312年

インドのアライ・ミナール--------------------------------------------------------------------------------

 1200年頃に建てられたクトゥブ・ミナールの近くに、アライ・ミナール(Alai Minar)がある。高さ20mほどの巨大な基壇跡。奴隸王朝に代わったハルジー朝(デリー・サルタナット第2王朝)のアラーウッディーン・ハルジーの命で、高さ150mになるミナレットの工事が1312年に着工したとされる。完成はしなかったがその基壇が残り、直径はクトゥブ・ミナールの2倍近い。


■1314年頃

 資産の没収を終えると、フィリップ4世は口封じのために投獄されていた4人の指導者たちの処刑を指示。最後の総長のジャック・ド・モレーら最高指導者たちは、パリを流れるセーヌ川の中州のシテ島の刑場で、生きたまま火あぶりにされた。
 この時、ローマ教皇庁と対立していたロベール王の率いるスコットランドは、そもそもローマ教皇の決定など意に介していなかったので、同地の騎士団は弾圧を免れ、テンプル騎士団の残党もスコットランドに逃れた。この時に生き残った騎士団がフリーメイソンとしての組織を作り、スコットランドが近代フリーメーソンの発祥の地となり、ロッジが数多く存在することとなった。

 テンプル騎士団の総長ジャックドモレーが殺された後、団員達が総長の遺体を掘り起こした。そのとき、頭蓋骨と2本のクロスした骨が埋まっていた。これを見た騎士団の団員は、人は頭蓋骨と2本の骨さえあれば復活できると言って、ジョリー・ロジャーという海賊旗を作ったとされている。海賊旗の始まりはテンプル騎士団で、テンプル騎士団解散後、海賊となって海を渡った団員や石工職人となってフリーメイソンになる者もいた。


■1327年

コソボにあるデチャニ修道院のキリストのフレスコ画と宇宙船------------------------------------

 コソボにあるデチャニ修道院は1327年に建てられた。

 デチャニ修道院の中にあるフレスコ画の「キリストの磔刑(たっけい)」には、宇宙船と思われる物体が上部左右に2機描かれており、1機にはイナンナの八芒星も描かれている。この左側の宇宙船の人物の後頭部には、2本の紐(ひも)が見られる。これはアフラ・マズダ神(エンリル)から与えられる王権の象徴の2本の纓(えい)のある王冠と似ている。またキリストはエンキから「十字架に掛けられた後は、私の使者が救いに行くであろう」と言われ、磔刑(たっけい)の後、仮死状態となったキリストをエンキの使者とイナンナが助けた。つまり、左側の宇宙船の人物はエンキの使者で、当時のどこかの王がキリストを宇宙船で助けた場面と推察される。よって右側の宇宙船に乗っているのがキリストと考えられる。


「キリストの磔刑(たっけい)」のフレスコ画の下には、その宇宙船に乗りながらキリストが座り込んだ人の手を掴んでいる絵が見られる。他にも椅子に座ったキリストの背後の人々のさらに背後に、同じ宇宙船と思われる白くて丸い、3つの尖ったものが飛び出た物体も見られる。これらの物体は、外側が白色、中側が灰色に塗られているので、同じ宇宙船を描いていると推察される。これらの絵は磔刑(たっけい)の後、イエスが宇宙船に乗って現れ、自分が復活したことを使徒たちに示し、40日間彼らの前に現れ、様々な真相について話したシーンの可能性も考えられる。

 メキシコのマヤ文明の出土品にはアヌンナキの宇宙船(シェム)が描かれているが、後部の半球のデザインと尾翼(びよく)のパターンが、デチャニ修道院に描かれた宇宙船と似ている。

 このデチャニ修道院にも、アヌンナキの多角形の石積みが見られる。

 デチャニ修道院の正面の装飾はとても細かく作られており、アヌンナキの建築パターンと同じになっている。

  内部の壁にはキリストに関係する絵が、隙間なく描かれている。

 結論を言えば、「キリストはアヌンナキと人間のハイブリッド(半神半人)で、宇宙船に乗って移動していた」ということ。それを知っていたアヌンナキが、このデチャニ修道院もフレスコ画も作った。


■1336年

はだか祭り---------------------------------------------------------------------------------------------------

 平安時代より、天下の奇祭、国府宮(こうのみや)のはだか祭が始まる。愛知県の国府宮(こうのみや)の尾張大國霊(おわりおおくにたまのかみ)神社で、毎年2月中旬頃行われる勇壮な祭りである。大まかに説明すると、祭りは次のように行われる。

①神男は神社でくじ引きにより選ばれる。
②選ばれた神男は全身の毛を剃り落とす。
③御神事の3日前になると、神社に籠もって身を清める。
④前々日に土餅搗神事並秘符認(つちもちつきしんじならびにひふしたため)が行われる。
⑤前日に庁舎(ちょうや)神事が行われ、大鏡餅が奉納される。
⑥当日(旧暦正月13日)、御神事の前に儺負笹(なおいざさ)が奉納される。
⑦祭りに参加する裸男は、白い下帯1枚の姿になる。裸男から儺負布(なおいぎれ)をもらうと御利益がある。
⑧以前に神男を務めた者たちが全裸の神男を取り巻いて守り、参道に出る。
⑨神男はすべての厄を受けるので、神男に触れた者は厄が落ちる。そのため、裸男たちは争って神男に触ろうとする。
⑩神男は最後に儺負殿(なおいでん)に引き入れられ、表向きの祭りは終わる。
⑪翌日の午前3時に庁舎に於いて夜儺追(よなおい)神事が行われ、祭りは終了する。

 実に奇怪で勇壮な祭りであるが、実はイエスが磔にされる場面を再現している。以下、その意味を見ていく。

①くじ引き
 聖書に於いて、何かを決める場合、特に御神意を伴う場合はくじ引きで決められた。一般的には神男と言うが、正式には儺負人(なおいびと)と言う。儺負(なおい)とは厄を背負うことであり、本来の儺(な)=厄とは、イエスが背負った全人類の贖罪のことである。

②剃髪(ていはつ)
 古来、毛髪には不思議な力が宿るという観念があった。旧約に登場するナジル人、サムソンは怪力の持ち主だったが、長い髪を剃られて怪力を失い、ペリシテ人に捕らえられた。ナジル人とは、自らを聖なる者として神に捧げ、献身する者のことである。そのため、厳格な規定があり、髪を剃ってはならないというのもその1つである。
 対してエジプトでは、僧侶が剃髪(ていはつ)するのは神に対する恭順(きょうじゅん:命令につつしんで従う態度)の姿勢を表わした。また、すべての大元である“主エンキの御言葉”では、アダパがニビルの大神アヌの下へ連れて行かれた時、ボサボサだった頭を剃られた。よって、剃髪(ていはつ)だけならば、髪を剃ることによって“イエスの奇跡の力”を無くして厄を背負わせることと同時に、神の前に従順であることを象徴していると見なせる。しかし、全身の毛を剃るわけなので、そのようなことではないだろう。この祭りは以前に死者も出たように命にも関わる危険な祭りであり、“毛が無い”ことは“怪我無い”ことに繋がるので、祭りの安全無事を祈願するものであろう。あるいは、“生まれたままの姿”に戻ることにより、穢れの無い純粋無垢な状態となり、他人の厄を一手に背負うのであろう。

③3日間の籠もり
 順序的には逆だが、イエスが処刑されて3日後に復活したことの象徴。

④土餅搗神事並秘符認(つちもちつきしんじならびにひふしたため)
 土餅搗神事(つちもちつきしんじ)とは、旧正月11日早朝、あらゆる罪穢(けが)れを搗(つ)き込んだものと言われる土餅(昨年の夜、儺追神事"なおいしんじ"に於いて焼かれた礫"つぶて"の灰を餅に包み、外も真黒に灰をぬった餅、土餅"どべい"、灰餅、儺追餅とも言う)を宮司が搗(つ)き、夜儺追神事(よなおいしんじ)に儺負人(なおいにん)に背負わせ追放する御神事である。
 土餅搗神事(つちもちつきしんじ)に引き続き、宮司が御神前に於いて“一宮・真清田神社、二宮・大縣(おおがた)神社、三宮・熱田神宮、総社・尾張大國霊神社”の四柱の神様の御神名を奉書に認め秘符を作り、御鉄鉾(おてっしょう、3メートル程の大榊(おおさかき)で、儺追神事(なおいしんじ)で使われる神籬(ひもろぎ)に結び付けるのが秘符認(ひふしたため)である。秘符に書かれた四柱の神様は、神の戦車メルカバーの象徴である。

⑤庁舎神事と大鏡餅
 庁舎神事とは、旧暦正月12日に境内東南の庁舎に於いて“一宮・真清田神社、二宮・大縣神社、三宮・熱田神宮、総社・尾張大國霊神社”の四柱の神様を招聘(しょうへい)し、天下泰平・悪疫退散・五穀豊穣を祈る神事で、儺追神事(なおいしんじ)の前夜祭である。鏡餅は本来、正月にお供えするものである。大鏡餅が奉納されるのは旧暦正月12日で、旧暦ではほぼ正月に相当する。鏡餅の2枚の餅はそれぞれが鏡で「合わせ鏡」を象徴しており、上に太陽の輝きを表す橙(だいだい)が乗せられる。これで「生命の樹」を象徴する。上に乗せる柑橘類は橙(だいだい)に限られる。その字の如く“木を登る”こと、すなわち「生命の樹」を上昇することを意味するからである。

 本来、餅は種無しパンの日本版であり、ユダヤの過越祭(すぎこしのまつり)が起源である。種無しパンを意味するマッツォが変化してマツオ、モチになった。過越祭(すぎこしのまつり)は春、ユダヤの正月に相当する。

⑥儺負笹(なおいざさ)の奉納
 笹とは竹のことであり、竹の旧字は“艸(そう)”を「合わせ鏡」で逆にした字である。“艸”は左右それぞれ3本の木から成る「生命の樹」であり、両方で「合わせ鏡」による古事記と日本書紀の絶対三神を象徴している。神社の御神事では忌竹(いみだけ)が使われるが、意味はそれと同じである。“忌”とは“この上なく清浄”という意味であるが、イエスの死に関係していることから“忌”であり、イエスは蛇神なので“蛇=巳の心”ということで“忌”であり、つまり忌竹(いみだけ)とは、イエスが掛けられた聖十字架の象徴で「生命の樹」でもある。“儺(な)を負う笹”とは、まさしくイエスが掛けられた聖十字架に他ならない。

⑦⑧全裸の儺負人、裸男の白い下帯、儺負布
 イエスは十字架に掛けられた時、衣服を剥ぎ取られた。それ故、儺負人(なおいにん)は全裸となる。ユダヤとの関係でよく言われるのが、契約の箱アークが20年ぶりに戻った際、ダビデは裸になって踊ったので、これがはだか祭りの起源だ、という説がある。しかし、この話だと、儺負人(なおいにん)が厄を一手に背負うという意味がまったく不明であり、はだか祭りではアークを象徴する御神輿が登場せず、矛盾する。儺負布(なおいぎれ)は剥ぎ取られた衣服を象徴している。剥ぎ取られた衣服はくじ引きでローマ兵に分けられたが、イエスが身に付けていた神聖な布であるため、それを象徴する儺負布(なおいぎれ)をもらうと御利益がある。裸男については、本来、裸である必要は無い。御神事上、儺負人(なおいにん)が全裸で厄を背負い、儺負人(なおいにん)に触れると厄が落ちるのであれば、儺負人(なおいにん)だけが裸だと目立って人が殺到し、大変なことになる。そのため、御神事に参加する男たちは下帯(したおび)だけを付けた裸になり、儺負人(なおいにん)の影武者も登場する。下帯は、死装束の象徴である白。

⑨儺負人(なおいにん)はすべての厄を受ける
 イエスは全人類の贖罪を背負って十字架に掛けられた。その象徴である。

⑩儺負人(なおいにん)は最後に儺負殿に引き入れられる
 儺負殿は御社の聖域であり、十字架に掛けられたイエスが死んで聖域=天国に召されたことの象徴である。

⑪夜儺追神事(よなおいしんじ)
 表向きの祭りが終了した翌日の午前3時に庁舎に於いて斎行される、はだか祭りの本義。儺負人に土餅を背負わせ、御神宝の大鳴鈴(おおなるすず)や桃と柳の小枝で作られた礫(つぶて)で追い立てて、境外へ追い出す。追い出された儺負人は、家路につく途中で土餅を捨てる。この土餅を神職の手により埋めることで、世に生じた罪穢悪鬼を土中に還し、国土の平穏を現出するのである。称徳天皇の御世より現代に至るまで最も神聖視され、重要視されている。

 イエスは十字架刑と“復活”により人類の贖罪を清算したが、儺負人は多くの人の厄を受けたままである。その厄を落とすために、このような御神事が行われる。特に桃は、イザナギが冥界から戻ってくる際に投げてつけて悪霊を退散させたことから、厄除けや悪霊払いに使われる。この時期に行われる節分は厄除けの行事であるが、日本に於ける節分行事の発祥は、秦氏の重要拠点である京都の吉田神社である。ここでは豆を蒔かず、疫鬼を追い払うために神職が桃弓で葦矢を放ち、桃が使われる。豆を蒔く風習は、室町以降に行われるようになったと言われている。

 このように、国府宮のはだか祭りは、神道の謎を解くための重要な鍵が秘められたお祭りで、イエスが磔にされる場面を再現しているのである。


■1340年

 人口20万人だった青森の十三湊(とさみなと)を大津波が襲い、安東水軍は一夜にして壊滅した。かくして津軽の地は衰え、その歴史は抹殺されていった。この大津波の際に出港中の安東船は536艘2000余人。十三湊(とさみなと)の壊滅によって帰港できずに諸国に散らばり、その地に定住している。

東日流外三郡誌

■1376年頃

 英語のフリーメーソンという言葉が、文献に登場し始める。14世紀から18世紀にかけて、イギリスで書かれた約150の写本にはレギウス写本(1270年)、ヨーク石工令(1352年)、ロンドン石工令(1356年)などがあるが、なかでもクック写本(1430年)は、近代メーソンの創設者たちにインスピレーションを与えた。

 これらの資料では、石工たちが建築現場の脇に設けられた集会所のロッジに集まっていたことが記されている。ロッジでは、徒弟の養成・支援にあたる石工長の権威の下で、仕事の秘密が伝授された。そこでは秘儀の伝授があったとしても技術的知識の伝授にとどまり、象徴的な儀式による参入儀式があったわけではなく、現会員による新会員の選考制もなく、仕事の能力だけが入会を決める唯一の条件であった。

 真のフリーメーソンであるための条件とは、神への信仰、道徳律の尊重、ロッジのメンバーは男性に限られる、秘密を守る義務、などはこの時代に定められた。

■1386年

ゴシック建築のミラノ大聖堂-----------------------------------------------------------------------------

 イタリアのミラノ大聖堂は世界最大級のゴシック建築であり、1386年の着工後、宗教改革による中断を経て最初の石が置かれてから約500年後の1813年に、多くの芸術家によって完成されたとされる。ここにも多角形の石積みや黄金比など、アヌンナキの共通点が見られる。ミラノ大聖堂には135本の尖塔(せんとう)があり、尖塔の天辺には一つ一つに聖人が立っている。一番高い位置に金のマリア像が輝いていて、昔はこのマリア像より高い位置に建物を建ててはいけないとされた。ミラノ大聖堂の建造にもアヌンナキが関係していたと推察される。
 

■1391年頃

 チベット仏教の初代ダライ•ラマとなるゲンドゥン・ドゥプパが生まれる。ダライ・ラマは観音菩薩の化身とされ、チベット仏教では、チベットの国土と衆生は「観音菩薩の所化」と位置づけられている。

■1410年

 18年にイエス・キリストに追放されたエルサレムの両替商達の子孫が、14世紀には銀行家として台頭し、フィレンツェ共和国政府にもメンバーを送りこむまでになった。その一つのメディチ家は、ジョヴァンニ・ディ・ビッチの代の1410年に、ローマ教皇庁会計院の財務管理者となり、教皇庁の金融業務で優位な立場を得て、莫大な収益を手にすることに成功した。このメディチ家が1727年に三百人委員会となる。

 メディチ家は、ルネサンス期のイタリア・フィレンツェにおいて銀行家、政治家として台頭。フィレンツェの実質的な支配者として君臨し、後にトスカーナ大公国の君主となった一族である。その財力でボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ヴァザーリ、ブロンツィーノ、アッローリなどの多数の芸術家をパトロンとして支援し、ルネサンスの文化を育てる上で大きな役割を果たしたことでも知られている。

 このメディチ家の紋章は、エルサレムの両替商達と共に逃れたイスラエル12支族のダン族の鷲の紋章と同じになっている。


■1429年

琉球王国成立と首里城の黄金比--------------------------------------------------------------------------

 首里城の創建年代は明らかではない。近年の発掘調査から最古の遺構は1300年代末のものと推定されている。尚巴志(しょう はし)が三山を統一し琉球王朝を立てると、首里城を王家の居城として用いるようになった。1429年、三山(中山、山北、山南)を統一し、琉球王国を成立させた。
 首里城の正殿も人間の目線で見た時に美しく見えるように、黄金比の比率で設計されている。年代を超えて日本各地の神社仏閣と同じ建築パターンということは、同じ知識を共有しているものが作ったと考えられる。また多角形の石積みも数多く見られることから、アヌンナキが作ったという結論になる。

 土台の石積みの端から黄金比を置いた時と、建物の側面から黄金比を置くパターンで見ると、柱や階段幅、屋根の位置などの比率が出てくる。

 首里城に見られる石垣は復元されたものもあるが、多くの石が複雑な形にカットされ、隙間なく密着して積まれている。

 沖縄・奄美大島には琉球の創生神・天地開闢(かいびゃく)の女神アマミキヨの話が伝わっている。呼び名は他にもアマミク、アマミコ、アマンチュなどがあるが、これはアヌンナキのことを指している。はるか昔、天から下界に降りてきたアマミキヨは太陽神に命じられ、何もなかった大海原に島を生み、以降御嶽(ウタキ)をこしらえ、人を作り、五穀と稲をもたらし、そうして人々の世を作り上げたとされる。
 また、琉球王国の第二尚氏(しょうし)王朝の第三代国王、尚真王(しょう しんおう)時代に、神に使える女神官ノロが制定される。琉球の信仰はアニミズムと祖霊信仰を基本とする。ノロは民間の巫女(みこ)であるユタとは異なり、豊穣を願い、災厄を払い、祖先を迎え、豊穣を祝うといった時期ごとにある数多くの祭祀を行うことと、その祭祀において神を憑依させる依代(よりしろ)となることが存在意義。

■1438年

マチュ・ピチュの多角形の石積み------------------------------------------------------------------------

 インカ帝国は、前身となるクスコ王国が1200年代に成立し、1438年のパチャクテク即位によってインカ帝国として成立し、1533年にスペイン人のコンキスタドールに滅ぼされるまで続いた。マチュ・ピチュはインカ帝国の遺跡で、標高2430mにある。ここにも世界の巨石遺跡共通の多角形の石積みが見られることから、マチュ・ピチュはアヌンナキが作ったとわかる。




 インカ帝国(クスコ、マチュピチュ、サクサイワマン、マルカワシ高原など)の国旗も、2匹の蛇の絵柄となっている。つまりニンギシュジッダを表している。彼は世界中の多角形の石積みによる巨石遺跡を作った。

■1453年頃

フリーメーソンの集会所の語源---------------------------------------------------------------------------

 悪魔崇拝のローマ帝国が滅亡したとき、ローマの建築職人の集団が、コモ湖のコマキ島に逃れ、ローマの石造建築技術を維持する事になった。その後、中世の大石造建築の建設には、このコマキ島の建築集団によって温存された建築に関する秘伝が使用された。彼らの組織は、親方と徒弟からなり、ひとりの大親方によって支配され、集会所はロギアと呼ばれ、ロッジと呼ばれるフリーメーソンの集会所の語源となった。

■1475年

イングランドのウィンザー城内の聖ジョージ礼拝堂の黄金比--------------------------------------

 1348年にイングランド王エドワード3世によってセント・ジョージ・ホールが建設され、1475年のイングランド王エドワード4世の時に改築され、聖ジョージ礼拝堂となる。


 聖ジョージ礼拝堂もゴシック建築で、平面図には黄金比の比率が見られる。

 聖ジョージ礼拝堂はイギリス王室のウィンザー城の場内にあり、イングランドの都市ウィンザーに位置する。ウィンザー城は、女王エリザベス2世が週末に過ごす場所でもある。

 またウィンザー城からロングウォークの反対側には、イギリス王ジョージ3世(1738年〜1820年)の銅像が岩の上に飾られてある。この岩は比較的大きな石で、隙間なく密着し、多角形の石積みになっている。銅像のために作られた土台なのか、それより以前からあったのかは不明。

■1485年

 フッガー家(財閥)は、銀の先買権を手に入れ莫大な利益を獲得する。フッガー家は、中世ヨーロッパのアウクスブルクを中心に鉱山、金融を営んだヨーロッパの富豪である。


■1513年

メディチ家からのローマ教皇-----------------------------------------------------------------------------

 18年にイエス・キリストに追放されたエルサレムの両替商達の子孫のメディチ家(財閥)のジョヴァンニ・デ・メディチが、ローマ教皇(法王)「レオ10世」に即位し、メディチ家(財閥)はフィレンツェとローマ教皇領を支配する門閥となり、ローマを中心にルネサンス文化の最盛期をもたらしたが、多額の浪費を続けて教皇庁の財政逼迫を招き、サン・ピエトロ大聖堂建設のためとして大掛りな免罪符の販売を認めたことで、1517年のマルティン・ルターによる宗教改革運動のきっかけを作った。


 1517年に、ヨアヒム1世(ブランデンブルク選帝侯)の弟のアルブレヒト(マクデブルク大司教)は、マインツ大司教位も得ようと考え、ローマ教皇庁から複数司教位保持の特別許可を得るため、多額の献金を行うことにし、その献金をひねり出すため、フッガー家(財閥)の人間の入れ知恵によって、自領内でサン・ピエトロ大聖堂建設献金のためという名目での免罪符販売の独占権を獲得し、稼げるだけ稼ぐという秘策を考え出した。
 カトリック教会の発行した免罪符の販売で宣伝されていた「免罪符をお金で買えば、生きている間に犯した罪が軽減される」ということに反感を持ったマルティン・ルターは、ドイツのハイデルベルクで総会を開き、自説を熱く語り、総会後にはローマ教皇「レオ10世」であるジョヴァンニ・デ・メディチに対して、自らの意見を書面にして送付した。こうして、マルティン・ルターによる宗教改革運動が始まった。
■1522年頃

茶の意味------------------------------------------------------------------------------------------------------

 この頃、わび茶(草庵の茶)の完成者の千利休が生まれる。

①茶碗
 茶碗は3回半回す。3回転半と言えば、「生命の樹」に絡みついた蛇の巻き数である。そして、イエスに関連する「生命の樹」と言えば聖十字架である。つまり、茶碗は「生命の樹」と聖十字架を象徴している。

②抹茶と御菓子
 茶碗が「生命の樹」と十字架ならば、抹茶はイエスの血であるワイン、菓子はイエスの肉であるパンの象徴。茶道は禅寺系から発生しているので酒は禁物で、それでお茶ということである。茶はラテン語系で“テ”と言う。これは“主、神”という言葉のヴァリエーションである。そして、日本語では“手”であり、手は神と人を結ぶもの。(おむすびは手で握るが、この“むすび”は古事記の高御産巣日神"たかみむすびのかみ"と神産巣日神"かみむすびのかみ"の産巣"むすび”に由来している。)初期の茶道菓子は“ふの焼き”と言い、小麦粉を練って焼き、味噌を塗ったものだった。つまり、酵母の入らないパンそのものである。

③蹲い(つくばい)
 蹲い(つくばい)とは、茶室の庭にある、手を洗って清める場所、つまり、神社の手水舎(ちょうずや)に相当する。石庭で有名な竜安寺には有名な蹲い(つくばい)がある。“吾唯足知(われ、ただ足ることを知る)”である。
 “口”を中心に四文字が配置され、メルカバーの形である。庭の石はすべては見えないが、足ることを知らなければならない。人生も同じである。

④茶室に入るにじり口
 にじり口は狭い。一般的には、武士も刀を外さないと入れず、茶室内は身分の上下を無くすため、と言われている。しかし、真相は新約にある。マタイの福音書7:13、14 にこうある。
“狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。”
 茶室のにじり口は命に通じる門、神の国に通じる門なのである。

⑤“茶”という字
 最も重要な草冠がある。草冠の元字は“艸(そう)”で、三叉(さんさ)の「合わせ鏡」である。三叉は3本柱の「生命の樹」なので、古事記と日本書紀、旧約と新約に於ける絶対三神の「合わせ鏡」である。“ホ”は一対のケルビムの間に安置された十字架で、契約の箱の上に安置された聖十字架を象徴する。その間の“人”は、土俵の上にある屋根、ピラミッドの「重力拡散の間」の天井の形で、「生命の樹」の至高世界である。

⑥祈祷殿に奉られた2献のお茶
 2本の「生命の樹」なので、古事記と日本書紀、旧約と新約に於ける絶対三神の「合わせ鏡」である。そして「知恵の樹」と「生命の樹」の「合わせ鏡」である。
 他にも、茶道にはキリスト教の儀式に近いものが多く、キリスト教徒の人が茶道のお手前を拝見すると、キリスト教との共通点を見出すらしい。そして、茶道の創始者、千利休は洗礼名サン・ルカに因む。神社は天照大神=イエスを祀る神殿なので、イエスに関係の深い茶道が奉じられる。


支那(中国)由来の粽(ちまき)-------------------------------------------------------------------------------

 粽(ちまき)は支那由来の菓子で、笹には祓(はらい)の力があるとされ、祇園祭でも供えられる。京都の川端道喜(かわばたどうき)という老舗の粽屋は、お茶会の注文がある時以外は、普段は粽(ちまき)とお干菓子しか作っていない。しかし、明治時代までは毎朝、塩餡(しおあん)を包んだ餅を宮中に献上していた。その餅は“お朝物(あさのもの)”と呼ばれ、後に朝餉(あさがれい)の儀として形式化し、明治天皇が東京に移るまで続いた。京都御所には、建礼門(けんれいもん)の東横にこの老舗の名を冠する「道喜門」という名の専用門が今も残っている。

 お茶はお寺が主体と思っている人が多いが、神社の御神事でも供えられる。また、茶菓子の元は、小麦粉を練ってクレープ状に焼き、西京味噌(さいきょうみそ)を塗った麩(ふ)の焼きである。つまり、酵母を入れずに焼いたパンと同じである。つまりお茶はワインの代わりということである。よって茶道は、キリスト教の聖体拝領の暗示である。お茶室の躙(にじ)り口は狭いわけはこういった理由がある。

“イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか?」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである」(ルカ13 章22~25節)”


■1523年

ルーマニアのシギショアラの教会の宇宙船の絵-------------------------------------------------------

 ルーマニアのシギショアラの教会は1289年に建てられた。そこにある壁の絵は、煙を放出している建物の上に円盤状の物体が描かれている。絵の下側には、“Israel, hoffe auf den HERRN,”と読むドイツ語の字幕があり、それは「イスラエルよ、主にあって、あなたの望みを置け」と訳される。これは旧約聖書の「都上りの歌」の「130:7 イスラエルよ。主を待て。主には恵みがあり、豊かな贖いがある。」からの引用。旧約聖書の主とは、アヌンナキを指す。
 シギショアラの教会は1300年代に建設されたが破壊され、1600年代に再建されたとされる。そして、この絵を誰がいつ描いたのかは不明となっている。しかし絵画の説明の日付は1523年より後の、おそらく聖書をドイツ語に翻訳した時であるとされている。この絵は、この時代に宇宙よりやってくるアヌンナキの宇宙船を表している可能性がある。


ジュリオ・デ・メディチが、ローマ教皇「クレメンス7世」に即位-------------------------------

 教皇・レオ10世の下で枢機卿として有能な手腕を発揮していたメディチ家(財閥)のジュリオ・デ・メディチが、ローマ教皇「クレメンス7世」に即位する。ローマ教皇レオ10世であるジョヴァンニ・デ・メディチは1521年、死去した。
 
■1526年頃

ゴールドシュミット家とロスチャイルド家-------------------------------------------------------------

 ドイツのフランクフルトに両替・金貸しをするユダヤ人が集結。そのひとりがモーゼス・ゴールドシュミット(ゴールドスミス)で、またロスチャイルド家の祖アムシェル・モーゼス・ロートシルトもいた。アムシェル・モーゼス・ロートシルトはフランクフルト・アム・マインのゲットーで両替商や絹布貿易を営んだ。
 ロスチャイルド家はもともとゴールドシュミットから派生した一族である。現在のロスチャイルド家はゴールドシュミット(ゴールドスミス)家と、複雑に結婚し合ってきた同じ家系。ロスチャイルド家の掟は、男子相続であり、フランクフルト家では後に男子が生まれず、フランクフルト家最後のミンナ・ロスチャイルドが結婚した相手が、同じフランクフルト出身のユダヤ系財閥ゴールドシュミット一族のマクシミリアン(Maximilian von Goldschmidt-Rothschild)である。
 このマクシミリアンの弟の孫が、今日の世界的投資家で欧州議会議員のジェームズ・ゴールドスミスだが、このゴールドシュミット一族が、マクドナルドの大株主である。

 お金を汚いものとした清貧思想のカトリックキリスト教では、金貸しビジネスをユダヤ人に押し付けたため、ゲットーは差別としてのユダヤ人隔離のためのユダヤ人居住区であると同時に、中世の金融街を形成していった。ゴールドシュミット家は、このゲットーで大きく育ち、1700年代に入ってから、この一族から一人の大きな巨人を輩出し、ロンドンのシティを支配する金融業者になっていく。彼らは東エルサレムでイエス・キリストに追放された金貸し・両替商の子孫。


■1534年

 18年にイエス・キリストに追放されたエルサレムの両替商達の子孫のメディチ家(財閥)のジュリオ・デ・メディチ(ローマ教皇「クレメンス7世」)が死去し、アレッサンドロ・ファルネーゼが、ローマ教皇「パウルス3世」に即位して、対抗宗教改革(カトリック教会を建て直してプロテスタントの教勢拡大を食い止める運動)を目的として、イグナチオ・デ・ロヨラとフランシスコ・ザビエルに、イエズス会 (別名「教皇の精鋭部隊」)を創設させる。

 イエズス会が発展するに伴ってイエズス会の活動分野は三つに絞られていった。第一は高等教育であり、イエズス会員は神学だけでなく古典文学にも精通していることが特徴で、ヨーロッパ各地で学校設立の願いを受けてイエズス会員は引く手あまたであった。第二の活動分野は非キリスト教徒を信仰に導く宣教活動であった。第三はプロテスタントの拡大に対するカトリックの「防波堤」になることであった。イエズス会員の精力的な活動によって南ドイツとポーランドのプロテスタンティズムは衰退し、カトリックが再び復興した。悪魔崇拝のイエズス会のトップは影の支配者サンヘドリンより権力を持つ立場で、強大な力を持ち、ブラックポープと呼ばれている。
 イエズス会の紋章にある「IHS」は、エジプトのイシス、ホルス、セツ(セト) を表し、それはアヌンナキのことである。イシスとセツ(セト)はニビルのマルドゥク(ルシファー、サタン、ニムロド)の子であり、ホルスはイシスの子である。


■1536年

南米ペルーのオリャンタイタンボ遺跡------------------------------------------------------------------

 ペルーのオリャンタイタンボ遺跡にも、アヌンナキの多角形の石積みがある。1536年、インカ帝国がスペインに対し反乱を起こした際に立てこもったが、スペイン軍の攻撃の前にオリャンタイタンボは放棄された。

■1541年頃

 フリーメイソン最古のロッジがあるスコットランドのアバディーンでは、アバディーン・ロッジがアバディーン市を訴えている。これによって、当時のスコットランドでフリーメーソンの力がいかに強かったかを知る事ができる。アバディーンには公文書に残されている最古のフリーメーソンの記録がある。

 また幕末に、坂本龍馬の亀山社中(後の海援隊)にヨーロッパの武器を売っていたグラバー商会のトーマス・グラバーは、スコットランドの寒村フレイザー・バラに生まれ、そこからさほど遠くない港町アバディーンに移り住んだ。

フリーメイソンのロッジはアヌンナキの建築デザインがルーツ------------------------------------

 サウジアラビアの古代都市マダイン・サーレハ、トルコのカウノス、ペトラのエル・カズネ、ライオン・トリクリニウム、エド・ディル、ローマ兵の墓の遺跡のデザイン的要素は、アヌンナキが作ったバールベックのバッカス神殿とジュピター神殿と同じとなっていることからも、これらがアヌンナキ作ということがわかる。また同様のデザイン的要素はギリシャのパルテノン神殿や、現代のアメリカ政府のホワイトハウスにも見られる。ホワイトハウスを使用するアメリカ政府は、アヌンナキと、その中のマルドゥクを悪魔崇拝するイルミナティによって支配されている。イギリスはロンドンにあるバッキンガム宮殿も同様のデザインであり、イルミナティであるエリザベス女王が住んでいる。

 世界中にあるフリーメイソンのメソニック・ロッジも同じデザインである。つまり大本のデザインはアヌンナキにある。

 この三角形部分の原型は、「生命の樹」のケテル(王冠)の部分であり、古代メソポタミアのエンリルの監視塔の形も三角形であった。その部屋にサーチライトのレーダーが設置され、それによってエンリルは、すべての土地の深奥部(しんおうぶ)を捜索することができた。これが「すべてを見通す目(プロビデンスの目)」であり、エンリルの監視塔の象徴でもある。

■1546

金沢城の黄金比と多角形の石積み------------------------------------------------------------------------

 1546年、空堀や柵などを備える城造りの寺院であった尾山御坊(おやまごぼう)が建立され、加賀一向一揆で加賀の支配権を得た本願寺の拠点となった。1580年に佐久間盛政(さくま もりまさ)が尾山御坊(おやまごぼう)を攻め落とし、金沢城と改称して用いた。ここにも黄金比と多角形の石積みが見られ、日本書紀の前方後円墳の記述通り考えれば、昼は人間が、夜は神(アヌンナキ)が造ったと推察される。

 復元された河北門も黄金比の比率で設計されている。下の図ではニの門に合わせた黄金比の中にできる3つ目に小さな黄金比を並べていくと、一の門などの比率が出てくる。ニの門の中段右手にある小さな扉も、この立面図では黄金比になっている。




 金沢城にも巨石の石垣が見られる。


■1549年

フランシスコ・ザビエルの来日---------------------------------------------------------------------------

 フランシスコ・ザビエルが、イエズス会の宣教師として日本へ来日した。日本は豊臣秀吉の室町時代だった。
 この当時のローマ法王が、日本にフランシスコ・ザビエルが来る前に、側近もほとんど連れずにわざわざ日本を視察しに来ていた。このローマ法王が日本へやって来た後、フランシスコ・ザビエルが日本にやって来て、一斉にキリスト教を広めたのである。この事実は日本の教科書からは抹消されている。この時、日本側で手引きしたのは明智光秀だった。明智光秀は「天海」であり、天海は比叡山密教系である。よってなぜ彼が織田信長を暗殺したのか、その理由は明確で、織田は高野山系の密教と神道系の呪術の両方を使うので、そのような無敵の強さを持つ織田をイエズス会がけむたく思い、1582年に天海の明智光秀を使って「本能寺の変」を起こさせた。つまり比叡は本来キリスト教なのである。また、明智光秀の三女で細川忠興の正室の細川ガラシャは、キリスト教信徒であった。


■1557年

トルコのスレイマニエ・モスクの黄金比---------------------------------------------------------------

 トルコのスレイマニエ・モスクは、オスマン帝国の旧都イスタンブールにあるモスク。1557年完成で、オスマン建築(トルコ建築)の最高傑作のひとつと言われる。オスマン帝国の第10代君主スレイマン1世の命により、当時の宮廷建築家頭で、トルコ史上最高の建築家と呼ばれるミマール・スィナンが設計、1550年に着工し、7年の歳月をかけて完成したとされる。しかし、ここにもアヌンナキ建築に関する共通点が見られる。
 19世紀の修復で創建当時の様式が復元されたが、第一次世界大戦中に武器庫に使われたのが原因で再び火災の被害を受け、1956年に修復されて元の姿を取り戻した。

八咫烏と国際金融資本-------------------------------------------------------------------------------------

 現在のオランダ国内にある大学としては最も古いライデン大学が、八十年戦争におけるネーデルラント側の指導者ウィレム1世によって設立された。

 イエスに追放された者たちの末裔は、着々と西洋社会を蝕んでいき、中世には日本にも目を付け始めた。それに気付いた八咫烏は、室町時代頃からオランダのライデン大学に密使を派遣して西洋思考を学習させ、密かに彼らの組織に潜り込ませると同時に、裏から操るよう、息の長い工作を開始した。その資金は、縄文以来の王家の血統が受け持ち、後には金融王国スイスの財政基盤となるぐらいまでの規模となった。無論、その資金の名目上のトップは皇室である。
 追放された者たちの末裔は、イエズス会が率先して宣教師となり、アジア・アフリカ・中南米諸国に潜入した。彼らが扇動し、資源を根こそぎ剥奪して人々を蹂躙する手口はどこの国に対しても行われ、日本も例外ではなかったが、日本ではキリシタン禁止令と鎖国が、彼らに対する防波堤となっていた。

 しかし、時代の流れに抗(こう)することは難しくなってきたので、西洋フリーメイソンなどの組織に潜り込んで工作した者たちが、開国時の日本に渡来した。グラバーなどの工作員である。彼らが表で動き、裏では八咫烏が天皇の偽装崩御工作などを秘密裏に実践することにより、西洋式の破壊的な革命は最小限に抑えられたのである。これは皇室が南北朝に分裂した際、秘密裏に統合する時に実践された手法を応用したものだが、いずれも最大の目的は、国体護持であった。
 そして、国際金融資本に対抗すべく、日本独自の金融と世界的商社ネットワークも設立された。特に重要だったのが、八咫烏の金庫番とも言うべき四井一族による銀行で、クエーカー(キリスト友会)教徒の多いフィラデルフィアを発祥地とさせた。後に平成天皇の教育係となるヴァイニング夫人もまた、クエーカー教徒の一人である。

 明治以降の世界的戦争は、いずれも国際金融資本によって計画的に引き起こされ、その目的は富の略奪と戦争に依る資産の増殖、余剰人員の削減に他ならないが、日本への被害は最小限に抑えられるよう、最大限の工作が図られた。
 しかし、第二次世界大戦の頃には、八咫烏の中にもナチスに協力する者が出てきたり、日本政府や軍、官僚の中にも、裏事情を理解すること無く、国際共産主義にのめり込んだスパイ的人物も多数現れるようになった。そのため、本来は勝てたはずの大東亜戦争も負けてしまい、多大な被害を被り、大東亜共栄圏の実現はかなり先延ばしにされてしまった。それに伴い、神宮の式年遷宮も2013年に照準を合わせ、延期された。
 しかし、いち早く敗戦を予期した八咫烏は、皇族を中心としてアジアの日本軍を秘密裏に指揮させ、資金をあちこちに分散させた。それが、戦後の敗戦処理に利用されたのである。また、陸軍中野学校のメンバーをアジア各地に配置して資金を守らせたり、ベトナムなどでのゲリラ戦を現地人に叩き込んだりして、欧米からのアジアの独立を推進させた。そして、朝鮮半島を防共の砦とし、米ソが冷戦となることまで見越して、北朝鮮が造られたのである。
 中には、国際共産主義に協力するフリをして、裏工作を進めた者たちも居た。中野学校の教訓と同様、表面的には国賊の汚名を受けても、生き恥をさらしてでも国体護持に務めるという者たちであった。加藤忠商事を世界的な諜報組織にまで仕立て上げた瀬島隆二氏などは数々の疑惑が叫ばれていたが、それはあくまでも表向きのものであり、裏では八咫烏の伝令通り、将来の日本が世界的に果たす使命に向けて、着々と準備を進めていたのである。それでも、表の世界は錯乱した国際金融資本の思うツボだった。


■1582年

本能寺の変---------------------------------------------------------------------------------------------------

 本能寺の変(ほんのうじのへん)が起こる。1582年6月21日、備中高松城包囲中の羽柴秀吉を救援しようとしていた織田信長に対して、先発させた家臣明智光秀が謀反(むほん)を起こして丹波亀山城から引き返し、京都の本能寺に宿泊していた信長と妙覚寺に宿泊していた当主の織田信忠を襲撃したクーデターである。
 この頃、悪魔崇拝のイエズス会は高野山系の密教と神道系の呪術の両方を使う織田をけむたく思い、天海である明智光秀を使って本能寺の変を起こさせた。


グレゴリオ暦-------------------------------------------------------------------------------------------------

 1582年頃、悪魔崇拝者の第226代ローマ教皇のグレゴリウス13世が、ユリウス暦を改良して制定したグレゴリオ暦を使用し始める。これは後に現代社会で広く使われる暦となる。


■1583年

大坂城の黄金比と多角形の石積み------------------------------------------------------------------------

 大坂城は豊臣秀吉によって1583年に築城された。

 1583年の豊臣秀吉の大坂城と、1626年頃の徳川家康による大坂城にも黄金比の比率を見ることができる。これらは少なくとも2つの大きさの黄金比が組み合わされて設計されている。

 この大坂城には2種類の石積みが見られる。一つは、方形に整形した石材を密着させ積み上げる切込み接ぎ(きりこみはぎ)、もう一つは表面に出る石の角や面をたたき、平たくし石同士の接合面に隙間を減らして積み上げる打込み接ぎ(うちこみはぎ)。

 大坂城の石垣の中でも比較的新しい白っぽい石は、形はそのままに現代に入り修復された部分。多角形の石積みが見られる。

 桜門枡形の蛸石(さくらもん ますがた の たこいし)は大坂城内第1位の巨石で、重量は約130トンと推定されている。これらの巨石の多くが多角形の石積みと、隙間のない組み方で作られている。大坂城の巨石ランキングは次のようになっている。

1 約130トン 桜門枡形の蛸石
2 約120トン 京橋門枡形の肥後石
3 約120トン 桜門枡形の振袖石
4 約108トン 大手門枡形の大手見付石
5 約85トン 大手門枡形の大手二番石
6 約82トン 桜門枡形の碁盤石
7 約81トン 京橋門枡形の京橋口二番石
8 約80トン 大手門枡形の大手三番石
9 約60トン 桜門枡形の桜門四番石
10 約52トン 桜門枡形の竜石
11 約40トン 桜門枡形の虎石

 これだけの重量の巨石を運ぶと、現代では次のような輸送車が必要となる。

 大坂城を建てるよう指示した豊臣秀吉も、世界中でアヌンナキから続く纓(えい)のついた王冠と笏(しゃく)を手にしている。儀式としてこの格好をしているのか、実際にアヌンナキからもらったのかは不明。平安時代末期より、纓(えい)は二本から一本にまとめられている。

 日本人にとって、日本の城の建築に宇宙からの来訪者アヌンナキが関わっていたと考えるのは抵抗を感じる。現時点で言えることは、大坂城にも黄金比の建築設計が見られ、この時代どのようにして動かしたかも解明されていない100トンクラスの巨石が何個もあり、そこに多角形の石積みもあり、それを建てた豊臣秀吉はアヌンナキの王冠と笏(しゃく)を手にし、同じ時代に他国でもアヌンナキの建築が見られるということで、これらの共通点からアヌンナキが当時の人間を使いながら日本の城を建てたという結論。
 もし市民が空からやってくるアヌンナキを目撃していれば、何かしらの形で後世に話が残る。しかしそれがないのは、日本書紀の一文の「この墓は、昼は人が造り、夜は神が造った」という前方後円墳の箸墓古墳(はしはかこふん)を造った時のように、夜に人間に見られないようにやってきたからとも考えられる。


■1591年

インドのチャール・ミナールの黄金比------------------------------------------------------------------

 4つの光塔をもつ大建造物のチャール・ミナールは、ゴールコンダ王国の伝説的最高傑作とされ、今なおハイデラバードを象徴する最も有名な建造物である。
 これは1591年に、ムハンマド・クリー・クトゥブ・シャーによって建設されたとされ、基盤の一辺は20m、4つのアーチは幅11m、高さ20m。4階建ての光塔は、四面アーチ構造建造物の屋上から20mの高さにまでそびえている。4つ(チャール)の光塔(ミナール)があるところから、チャール・ミナールと名づけられた。
 チャール・ミナール建設の意義と妥当性は、今なお終わることのない論争テーマとなっている。ある説によると、「上層階は学校だった」、「くみ上げ式の溜池だった」、「当時流行した疫病除け」、「妃への贈り物」、「ゴールコンダ城と秘密のトンネルで結ばれた脱出路」、「ただの門構えである」等さまざま学説や流説がある。これも黄金比があることや巨大建造物であること、これらを踏まえ尖頭(せんとう)アーチがあることなどから、アヌンナキが作ったものと推察できる。

■1600年

エリザベス女王と徳川家康の関係------------------------------------------------------------------------

 エリザベス1世は、日本との貿易を望み日本の銀を独占しようとしていた。英国からウィリアム・アダムス(=三浦按針”みうら あんじん”)がリーフレス号に乗って日本に漂着した。アダムスが大量の武器を日本に密輸し、徳川家康はアダムスの武器を買って「関ヶ原の大戦」に備えた。


 イギリス公文書館に残っていた資料から「20ポンド(現在の約500万円)のお金を(イギリス)東インド会社がイギリスに残されたアダムスの妻・メアリに渡した。この他、確認されただけでも5000万円ものお金がアダムスの妻に渡されていた。」
 アダムスの手紙には「我々は日本を目指した」と書かれてた。按針(アダムス)を送り込んだのはエリザベス女王の密命だった。
 なぜエリザベス女王は家康に勝ってほしかったのか?石田三成の西軍にはキリスト教信者が多く、スペインやポルトガルと密接な関係にあった。エリザベス女王としては東軍の家康を応援することによって日本への影響力をつかみたかった。

 1600年9月、関ヶ原の戦いが起こる。徳川家康率いる東軍7万5千人、石田三成率いる西軍8万2千人。両軍16万人の戦いは3ヶ月はかかるものと見られていたが、家康は開始7時間で勝利した。
 関ヶ原の戦いで東軍が勝ったおかげで、日本からスペイン・ポルトガルを追い出し、イギリスはオランダが台頭してくるまで日本の貿易を独占する。エリザベス女王は悪魔崇拝者であり、すでにこの時代からイルミナティ、フリーメイソンは日本へ接触していた。

 関ヶ原の戦いは、徳川家康を総大将とする東軍と、毛利輝元(てるもと)を総大将とし石田三成(みつなり)を中心とする西軍との戦いと知られているが、別の見方がある。それは、イスラエルからやってきたユダヤ人の子孫の源氏の末裔である徳川家、同じく源氏の末裔である毛利家・島津家の戦いである。この時は徳川家にイルミナティやフリーメイソンからの支援があった。この両者は約267年後の明治維新でも争う。関ヶ原の戦いの主な東西の大名は次の通り。

東軍、徳川家康256万石、前田利長84万石、伊達政宗58万石など
西軍、上杉景勝120万石、毛利輝元112万石、島津義弘73万石、石田三成19.4万石など

etc.

■1602年頃

 世界初の株式会社と言われるオランダ東インド会社が、オランダで設立される。会社といっても商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えられ、アジアでの交易や植民に従事し、一大海上帝国を築いた。資本金約650万ギルダー、本社はアムステルダムに設置され、重役会は17人会と呼ばれた。18世紀末に政府により解散させられた。


■1603年頃

 この頃、日本は江戸時代で、相撲は庶民に親しまれるようになった。

■1605年

 18年にイエス・キリストに追放されたエルサレムの両替商達の一派のメディチ家(財閥)のサンドロ・オッタビアーノ・デ・メディチが、ローマ教皇「レオ11世」に即位する。彼が教皇の座に就けたのは、トスカーナ大公国大公のフェルディナンド・デ・メディチの影響力が大きい。

■1609年

名古屋城の黄金比と巨石-----------------------------------------------------------------------------------

 徳川家康によって名古屋城が建てられる。ここにも黄金比の比率が見られる。

 名古屋城にある石垣の一つ清正石(きよまさいし)は横6m、縦2.53mの大きさで、重さが何十トンもある。この時代の人間がどのようにしてそれを運んだのか解明されていない。清正石の上部には多角形の石積みのような石が見られる。
 日本の城が黄金比の比率で設計されているだけでは、アヌンナキとの関係を示す証拠としては弱いが、そこに当時の人間がどのように運んだか解明されていない巨石の石垣が存在すると、アヌンナキが関係したという考え方は現実的になる。

■1613年

徳川家の日本がイギリスと国交を結ぶ------------------------------------------------------------------

 イギリスから国王使節が初めて来日したのは慶長18年(1613年)のことで、オランダ国王使節の来日から4年後のことである。イギリスとの通商交渉にも、ウィリアム・アダムズが深くかかわっていた。アダムズは自分の身の上に起こった出来事を書簡にまとめ、イギリスに送っていた。その手紙には、皇帝家康がイギリスとの貿易を望んでいることも書き、イギリスが日本と交易することを薦めた。

 1613年に日本は、イギリスと初めて国交を結ぶ。国交樹立の記念として、2代将軍、徳川秀忠がイングランド王ジェームズ1世に岩井与佐衛門(いわい よざえもん)作の日本の鎧を贈った。これはイギリスのロンドン塔に所蔵されてある。

  江戸幕府である徳川家康は豊臣軍との大坂の陣(1614年〜1615年)に備え、イギリスからカルバリン砲を4門購入した。射程距離は6300mで、遠く離れた場所から大坂城に球を1.7秒で届かせる事ができた。この戦いは徳川家康が勝利した。

世界へGO! 徳川家康×エリザベス1世 大坂の陣の真実

■1626年

アヌンナキのデザイン的要素とサン・ピエトロ大聖堂-----------------------------------------------

 1626年にバチカン市国にあるカトリック教会の総本山、サン・ピエトロ大聖堂が完成する。このデザイン的要素は、アヌンナキが作ったバールベックのバッカス神殿とジュピター神殿と同じである。また同様に、アヌンナキが作ったヨルダンのペトラのエル・カネズなどとも同じである。


■1627年

江戸城の黄金比と多角形の石積み------------------------------------------------------------------------

 江戸城は徳川家康の改築以降、本丸の天守は慶長(けいちょう)度(1607年)・元和(げんな)度(1623年)・寛永(かんえい)度(1638年)と三度築かれている。どの天守も鯱(しゃち)や破風(はふ)の飾り板を金の延板(のべいた)で飾っていた。1657年の明暦の大火(めいれきのたいか)により寛永度天守が焼失した後、直ちに再建が計画され、現在も残る御影石(みかげいし)の天守台が加賀藩主の前田綱紀(まえだ つなのり)によって築かれた。
 元和(げんな)と寛永(かんえい)の江戸城にも、アヌンナキ建築の黄金比のパターンが見られる。さらに隙間なく密着して積まれた巨石、多角形の石積みも見られる。そして明治時代から天皇の皇居は、この江戸城内にある。


 江戸城内には石室もあり、そこでも多角形の石積みが見られる。


 また世界中のアヌンナキが作った巨石遺跡で見られる石と石をつなぐT字の締め金も、江戸城の中之門で見られる。


 徳川家康もまた、アヌンナキの笏(しゃく)と纓(えい)のある王冠を身につけている。纓(えい)が一本しかないのは、平安時代末期より二本を一本に束ねたため。徳川家康も古代イスラエルからやってきた秦氏の末裔で、ユダヤ人の子孫。

 
■1640年

パキスタンのマクリの丘の黄金比や多角形の石積み--------------------------------------------------

 1300年代から1700年代まで、パキスタン・シンド州の中心地であったタッターは、隣接するマクリの丘の共同墓地でよく知られている。約10平方キロメートルの広大な範囲に50万基もの墓標が存在し、世界最大の共同墓地となっている。王侯をはじめ、役人、聖人、学者などさまざまな人々が葬られている。ここにもアヌンナキ建築の共通点が数多く見られる。
 1640年頃に、イサハーン・タルハーン廟(びょう)が作られたとされている。ここでも黄金比の比率を取り入れた設計が行われているが、このパターンはイスラム建築や日本の神社仏閣でも見られる方法となっている。

 このジャム・ニザムディン廟(びょう)には、無数の小さな渦模様が見られる。これら一つずつを測ったわけではないが、これまでの例から考えれば黄金比の曲線であると推察できる。これだけの細かな彫刻と洗練されたデザインを、科学が発達していない時代の人間が手作業で行うとは考えづらい。つまりアヌンナキの3Dプリンタのような科学技術で作られたと考えられる。


■1648年

フランスの代用貨幣(だいようかへい)に宇宙船--------------------------------------------------------

 1648年〜1680年のフランスの代用貨幣(だいようかへい)に、宇宙船の絵が見られる。フランスでの代用貨幣はジュトン(Jeton)とも呼ばれ、民間企業、団体あるいは個人により発行される場合と、地方銀行が発行する場合があった。この代用貨幣の宇宙船の下部の花弁模様の数がそれぞれ異なることから、3種類の宇宙船を見ることができる。

 この代用貨幣の宇宙船の中心からは、尖ったものが少し出ている。これは1523年頃のシギショアラの教会の壁に描かれた宇宙船と、似たデザインになっている。


 この宇宙船の絵を盾(たて)を描いたものとする意見もある。しかしこの代用貨幣にも、アヌンナキの共通点を見ることができる。次の画像の代用貨幣の宇宙船の花弁模様は16枚となっており、イナンナの十六花弁ロゼッタと同じになる。また裏側にはシュメールの粘土版にも描かれている生命の樹を思わせる植物が描かれている。つまりこの代用貨幣には、この時代に現れたアヌンナキの宇宙船が描かれ、発行した人物もアヌンナキの知識を持つ権力者だったと推察できる。



■1653年

インドのタージ・マハルに見られる黄金比-------------------------------------------------------------

 インド北部アーグラにあるタージ・マハルの一般的な歴史では、ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが、1631年に死去した愛妃(あいひ)ムムターズ・マハルのため建設した1653年の総大理石の墓廟(ぼびょう)とされている。
 タージ・マハルは、事実上設計者名は不明なままである。シャー・ジャハーンの主任建築家だったウスタード・アフマド・ラホーリーの墓碑には彼がタージ・マハルの設計者だったと記されているが、これも多くの工匠らが持ち寄った設計を纏(まと)める役割に過ぎなかったと考えられる。
 タージ・マハルにも黄金比の渦模様が見られ、多角形の石積みもあることから、アヌンナキが作ったとわかる。また壁にコーランの章句が刻まれていることが、アヌンナキが作ったクトゥブ・ミナールのデザインと同じになっている。


 タージ・マハルを正面から見た場合、黄金比の比率でデザインされていることがわかる。正面中央は2つの黄金比の大きさとなり、その中にできる1個目と4個目に小さな黄金比で、他部分のデザインも構成されている。下段の装飾の下位置も黄金比の比率で決められている。こういった黄金比での設計は、日本含め世界中で見られる。


 タージ・マハルのメインの敷地は3つの黄金比を並べた大きさとなっており、建物や道は黄金比の比率を取り入れた配置となっている。

 ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンの皇妃(こうひ)ムムターズ・マハル(1595年〜1631年)の肖像画にも黄金比の模様が見られ、イナンナのシンボルである8枚の花弁(はなびら)のような紋様(もんよう)が描かれている。紀元前3000年頃からインド周辺のインダス文明はイナンナの領地であったので、彼らがアヌンナキの直系血族であっても不思議ではない。


■1673年

パキスタンのバードシャーヒー・モスクの黄金比----------------------------------------------------

 パキスタンにあるイスラム建築のバードシャーヒー・モスクは、ムガル帝国の第6代君主アウラングゼーブの命によってラホールに建設されたモスクとされる。1671年から1673年にかけて建設された同モスクは、完成時には世界最大のモスクであった。現在は、パキスタンで2番目、世界で5番目に広いモスクとなっている。

 このバードシャーヒー・モスクの敷地にも黄金比の比率が見られる。


 バードシャーヒー・モスクにある建物も、黄金比でデザインされている。正面の建物は、中心部分の黄金比の中にできる2個目と3個目の黄金比の大きさに、左右に5個ずつ並ぶアーチが幅が設計されている。入口の建物には16花弁も見られ、アヌンナキが関係していることがわかる。


■1694年頃

オレンジ結社とイングランド銀行の創設---------------------------------------------------------------

 イングランド銀行が、ロンドンのポールトリー街のグローサーズ・ホール内に作られる。1689年、オランダのフリーメーソンであったオレンジ公ウィリアムス(ウイリアム3世)が、イギリスにフリーメーソン結社のオレンジ結社を創設した。これに参加した貴族たちが中央銀行の元締めとしてイングランド銀行を創る。その銀行が後にロスチャイルド一族に管理されることになる。
 英国はこの後、戦争と内戦に突入するが、ソロモン神殿を作った「フラムの子ら」であるフリーメイソンは、英国に軍事費用を貸し付ける代わりに、英国銀行の設立権と理事権、そして金本位制を確立する法的権限を得た。


■1710年

宇宙船を描いた宗教画-------------------------------------------------------------------------------------

 オランダの画家アールト・デ・ヘルデル(Aert de Gelder)が1710年に描いた「キリストの洗礼(Baptism of Jesus)」の絵には、円板型の宇宙船のような物体が見られる。キリストの洗礼の絵は多くの場合、丸い物体ではなく白い鳩(はと)が描かれることが多い。少なくとも1710年頃に宇宙船を見なければ、こういった絵にはならない。


■1717年頃

 6月24日の聖ヨハネの日、ロンドンの4つのロッジの代表者が、グース・アンド・グリドアイアンに集まって「ロンドン・グランド・ロッジ」を設立した。イングランド型ロッジの最初ということで「マザー・ロッジ」と呼ばれ、フリーメーソンは長い地下組織の歴史に終止符を打ち公然化させ、近代フリーメイソンの歴史がこれにより始まる。「フリーメーソンの理想は、社会や国家を改良して、普遍的人道主義的な世界共和国を建設することである」と詠った。ロッジをまとめるグランドロッジも設立された。またロッジ運営の中心となる役職グランド・マスターが配置され、新しいロッジを承認する権限が与えられている。近代フリーメイソンのすべては、1717年に発足したイギリスのグランド・ロッジに端を発する。この年より、フリーメイソンの規模は世界中で急速に拡大し、支配者層、権力者層が会員となっていく。

 4つのロッジから始まったロンドングランドロッジは、1725年に64ロッジを支配下に置いた。1733年にロンドン・グランドロッジは126ロッジへと増加した。1773年にフランスのグランドロッジ「大東社」が設立され、フランス革命前にフランスには629のロッジがあり、パリだけでも69のロッジが、また69の軍隊内ロッジがあった。


■1727年

 14世紀に、銀行家として台頭していたメディチ家に起源を持つ三百人委員会が設立される。悪魔崇拝の三百人委員会の思想の大元は、古代バビロニア王室(アヌンナキのマルドゥク)である。彼らはアジアや中近東、ヨーロッパ間の貿易によって富を築いた。その後仲介するビザンチン帝国を避けるため、港町アムステルダムに本部が移行された。そこで東インド商会を作り、直接アジアと取引することにより更なる富を得た。
 こういった歴史的な流れがあり、1727年にイギリス東インド会社の300人の会議をもとにして、英国貴族によって三百人委員会は設立された。フリーメイソンの第33階級、最高大総監に相当する。三百人委員会はオリンピアンズ(オリュンポス十二神)とも呼ばれる。三百人委員会の根本思想は、イルミニズム、悪魔主義である。その超国家的組織は超選民主義の究極的な形態である。

 彼らは三つの原則によって社会を管理してきた。火薬、金、ペンである。要するに暗殺、賄賂、プロパガンダの組み合わせである。現代彼らは三つの小さな独立都市から世界を支配している。「火薬」である戦争の担当はアメリカから独立をしている都市ワシントンDC。そして「金」である賄賂担当は独立都市であるロンドン。最後に「ペン」であるプロパガンダ担当はバチカン帝国である。
 三百人委員会のメンバーは悪魔教の信者であり、彼らの配下に存在するのが多くのアシュケナージユダヤ人やアングロサクソン民族。そして彼らは現在でも人間を生贄にする儀式を定期的に行っている。


■1743年

ドイツのロスチャイルド家--------------------------------------------------------------------------------

 マイヤー・アムシェル・バウアー(後のマイヤー・アムシェル・ロスチャイルド)がドイツのフランクフルトで生まれる。彼が後にロスチャイルド財閥を築くことになる。彼は両替商及び絹布貿易を営んだドイツ系ユダヤ人モーゼス・アムシェル・バウアーの息子。
 マイヤー・アムシェル・バウアーは、モーゼス・ゴールドシュミット家から独立して両替商となり、会計事務所の経営者となる。出入り口のドアに彼は赤い看板を据える。

 ロスチャイルド家は東エルサレムでイエス・キリストに追放された金貸し・両替商の子孫で、イスラエルのダン族と関係がある。ロスチャイルド家の紋章には左にユダ族のライオン、右にエフライム族のユニコーン、上部にダン族の鷲(わし)が描かれている。この鷲は同じ金貸しのメディチ家の紋章にも描かれている。

 古代イスラエルの各支族は紋章を1つではなく複数個ずつ持っていた。

 ダン族の鷲(わし)の紋章は、国章にも見られる。またデザインもロスチャイルド家と同じくライオンがいたりと、同じパターンになっている。こういった国を作ってきた中心人物は悪魔崇拝者でイルミナティであり、ダン族の子孫であると推察される。


■1750年

ゴシック・リヴァイヴァル建築と新古典主義建築が興る--------------------------------------------

 イギリスの政治家で貴族のホレス・ウォルポールは、ロンドン近郊のストロベリー・ヒルの別荘を、彼の著作『オトラント城奇譚』そのままに改築し、ゴシック建築をイギリスの田園邸宅として確立した。彼はイギリスの初代首相ロバート・ウォルポールとキャサリン・ショーターの3男である。

 この1750年頃から1900年までにかけてゴシック建築の復興運動であるゴシック・リヴァイヴァル建築が興る。イギリスを発祥とし、1700年代後半にはフランス、ドイツに、その後イタリア、ロシア、アメリカに広がる。例としては、イギリスのフォントヒル・アビーやタワー・ブリッジ、スペインのサグラダ・ファミリア、アメリカのワシントン大聖堂などがある。細部をよく見ると、アヌンナキが作ったゴシック建築よりも作り込みの精度が劣る。

 また同じ頃、フランスで啓蒙思想や革命精神を背景として、新古典主義建築が興る。たんなる古代の復興にとどまらず、当時の政治情況とも関連していた。これは古代ローマ建築や古代ギリシャ建築を取り入れたものだった。

 これらゴシック・リヴァイヴァル建築と新古典主義建築を別の言い方で表すと、イルミナティ、フリーメイソンによるアヌンナキ建築の復興と言える。こういった建造物を建てるのは権力者や大富豪であり、イルミナティ、フリーメイソンであることが多い。この時代、アヌンナキは地球上から姿を消しており、イルミナティは4次元のマルドゥク(サタン)と、悪魔崇拝の儀式によってコンタクトを取り続ける。


■1756年頃

 音楽家のモーツァルトや初代アメリカ合衆国大統領ジョージ•ワシントンも、フリーメーソンの会員となる。

■1760年

 ドイツのハノーヴァー(ハノーファー)のオッペンハイマーが所有する銀行で、マイヤー・アムシェル・バウアーは10年間修行する。そこで彼は大きく成功し、ジュニア・パートナー(パートナーシップにおける立場の低いメンバー)になる。銀行で働いている間、彼はエストルフ将軍と知り合いになっている。エストルフ将軍とはカルル・ビュルデスというヴィルヘルム1世の財務官を通じて近い関係になっている。ビュルデスもロスチャイルドも野心家であり、徹底的に頑固で、忍耐強く、人目につかないことを好む点で似た者同士で、意気投合し、相互援助の協定を結んだ。

 マイヤー・アムシェル・バウアーの父親が亡くなり、バウアーは父親のビジネスを引き継ぐためフランクフルトへ戻る。バウアーは、赤い看板の重要性を認識し、バウアーからロスチャイルドに名前を変更する。その後、出入口のドアの上に666を示す赤い看板を垂れ下げる(レッドはドイツ語で腐る、サインはドイツ語でシルト)。

 名前を変えたマイヤー・アムシェル・ロスチャイルドは、エストルフ将軍(Emmerich Otto August von Estorff)がドイツのハーナウのヴィルヘルム1世 (ヘッセン選帝侯)の宮廷にいることを発見する。そして彼は将軍に、価値のあるコインや装飾品を割引の値段で売ることを口実に、再び近づく機会を作った。
 彼の計画では、ロスチャイルドは続いてヴィルヘルム1世に自分を紹介し、珍しいコインや装飾品を割引いた値段で提供して満足させ、またロスチャイルドは王子においしい話を提供する。そうしてロスチャイルドはヴィルヘルム1世と親しくなり、宮廷のメンバーとも取引を始める。

 
■1769年

 マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドは、ヴィルヘルム1世から正式に彼の事業の看板を、会社の正面に掛ける許可を与えられる。


■1770年

 マイアー・アムシェル・ロスチャイルドはグトレシュナッパー(Guttle Schnapper)と結婚する。彼はイルミナティの創始の計画を作成し、1773年にその構成と開発をアダム・ヴァイスハウプトに託す。


■1773年

 長男アムシェル・マイアー・ロスチャイルドが、ドイツのフランクフルトに生まれる。フランクフルト家を継承。
■1774年

 次男ザーロモン・マイヤー・ロスチャイルドが、ドイツのフランクフルトに生まれる。オーストリアのロスチャイルド財閥の創始者で、ウィーン家の祖。


■1776年頃

イルミナティの設立-----------------------------------------------------------------------------------------

 1776年5月1日、ロスチャイルドより任命されたバヴァリアのインゴルシュタット大学法学部教授アダム・ヴァイスハウプトが、イルミナティを設立する。この日付は共産主義圏の祝日。
 ヴァイスハウプトは深く古代神秘科学にも傾倒していた。「イルミナティ」という名称は、「神や人間についての内的な啓示」という意味を持つ言葉として、古くから多くの宗派に用いられてきたものである。このことから、イルミナティを創設したアダム・ヴァイスハウプトがイルミナティの教義の“始祖”ではなく、彼は古代ギリシアやエジプトの神秘主義的哲学を研究し、それを復活させたということである。
 アダム・ヴァイスハウプトがロスチャイルドより任命された目標は、全部で25項目。概要は次の通り。

 1 人々を善ではなく悪に導け
 2 リベラリズム(自由主義)を説け
 3 “自由”の概念を使って階級戦争を起こせ
 4 イルミナティの目的達成の為ならどんな手段も惜しまないこと
 5 イルミナティの権利は力の中にある
 6 我々の富の力は表面化しないように保たなくてはならない・・・どんな狡猾さ、力によっても損なわれない強さを得るまでは
 7 群衆心理をつかんで、大衆を操作しろ
 8 酒、麻薬、退廃的モラル、あらゆる悪徳を使って若者のモラルを組織的に低下させよ
 9 どんな手を使っても不動産を没収せよ
10 心理戦争として「自由、平等、博愛」などのスローガンが大衆の口から出るようにさせよ
11 戦争を仕掛けよ どちら側の国々も負債を抱え込むよう戦争を実行させよ また和平会議では双方が領土を獲得しないようにせよ
12 我々は財を活用して、要求におとなしく従い、陰で操る者たちのゲームの駒となる候補者を議員に選ばなくてはならない。彼らの助言者たちは、幼少のころから世界情勢を支配するための訓練を受ける
13 メディアを支配せよ
14 エージェントたちはトラウマを生む状況を扇動しながら終わった後大衆の救世主として現れる(実際はその逆で大衆の殺戮に関心を抱く)
15 不況、金融パニック、失業、飢え、食料不足を引き起こし、これらを大衆コントロールに利用せよ。生意気な邪魔者は暴徒を使って一掃せよ
16 フリーメーソンの中に潜入し彼らを利用しろ
17 組織的な目くらましに価値がある。理想の高いスローガンや言葉を利用し無理とわかっていても大衆には太っ腹な公約をせよ
18 決議の計画を詳細に立てよ。大衆を速やかに服従させるには「市街戦」が必要
19 戦争後にはエージェントを使って背後から助言してもらえ。支配を手に入れるために密使を使った外交活動をせよ
20 世界統一政府につながる巨大な独占支配を樹立せよ
21 原材料のコントロールによる経済破綻を導くために、高い税率と不公平な競争を用いよ。労働者同志の間に争いを起こし、競争相手に補助金を与えよ(GATT、NAFTA)
22 我々の利益を守るのに足るだけの武装警察、兵力をたくわえよ
23 世界統一政府の指導者はディレクターによって任命されるだろう
24 嘘とわかっている理論や原則を教え込むことで、社会の若い構成員を騙し、混乱させ、腐敗させる。この目的のために社会・政府のすべての階級の中に潜入せよ(これは国連によって結果重視の教育が押し付けられている)
25 国内法、国際法は文明を破壊するために使う(世界人口を5億人まで、米国の人口を2000万人まで減らす)

 元FBIロサンゼルス支部長テッド・ガンダーソン(1928年-2011年)は自らの調査で、イルミナティという組織が陰謀論ではなく、実在する悪魔崇拝カルトであると証言している。次の動画でそれを見ることができる。


フリーメイソンであるゲーテ-----------------------------------------------------------------------------

 ゲーテ(1749年〜1832年)はフリーメイソンであった。ゲーテはドイツの詩人、劇作家、小説家、自然科学者、政治家、法律家で、ドイツを代表する文豪であり、小説『若きウェルテルの悩み』『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』、叙事詩『ヘルマンとドロテーア』、詩劇『ファウスト』など広い分野で重要な作品を残した。



フリーメイソンであるヘーゲル---------------------------------------------------------------------------

 ヘーゲル(1770年〜1831年)もフリーメイソンであった。ヘーゲルはドイツの哲学者で、ドイツ観念論を代表する思想家である。優れた論理性から現代の哲学研究も含め、後世にも多大な影響を与えた。


■1777年頃

 三男ネイサン・メイアー・ロスチャイルドが、ドイツのフランクフルトに生まれる。ロンドン家の祖。


■1787年頃

 フランス革命が起こる。1787年に王権に対する貴族の反抗に始まった擾乱(じょうらん)は、1789年から全社会層を巻き込む本格的な革命となり、絶対王政が倒れたのち、フランスは立憲王政から共和制へと展開する。1799年にナポレオン・ボナパルトによる政権掌握と帝制樹立に至る。ナポレオンやフランス革命の当事者たちの多くがフリーメイソンであった。


■1788年

 四男カルマン・(カール)マイヤー・ロスチャイルドが、ドイツのフランクフルトに生まれる。ナポリ家の祖。


■1789年頃

 フランスの人間の自由と平等、人民主権、言論の自由、三権分立、所有権の神聖など17条からなるフランス革命の基本原則を記した「人間と市民の権利の宣言」が、憲法制定国民議会によって採択された。フランス人権宣言とも呼ばれ、その図の中央上部にピラミッドの目のマークがある。これは侯爵で軍人で政治家であるラファイエットが起草に着手した。ラファイエットは1779年の20歳代はじめにフリーメイソンに加入した。参入儀式はアメリカのジョージ・ワシントンが執り行った。フランスのグランドロッジ大東社は、この年のフランス議会の準備期間及び開催中の組織的プロパガンダの主役だった。

■1791年

 ロスチャイルド家は工作員アレクサンダー・ハミルトンを通じ、アメリカに「第一合衆国銀行」という名の中央銀行を設立して「一国の通貨の管理」をその手に握る。同行は20年間の認可を得て、設立された。この銀行は、新たに形成されたアメリカ合衆国中央政府の財政的需要と要求事項を取り扱うために創設された。それまでは13植民地がそれぞれに銀行、通貨および財政制度と政策を持っていた。
 当時の国務長官トーマス・ジェファーソン(後の米国大統領)は次のように述べている。
「わが国の憲法を改正して借金をする権利を連邦政府から剥奪できたらどんなにいいか。」


■1792年

 五男ジャコブ・マイエール・ロスチャイルドが、ドイツのフランクフルトに生まれる。パリ・ロスチャイルド家の祖。



■1796年

 長男アムシェル・マイヤー・ロスチャイルドはエヴァ・ハーナウと結婚する。

■1798年

 三男ネイサン・メイアー・ロスチャイルドはフランクフルトからマンチェスター(イングランド)に移る。ここで彼は英国の織物をヨーロッパに輸出し、父親と兄弟を助ける。


■1800年

 次男ザーロモン・マイヤー・ロスチャイルドはキャロライン・スターンと結婚する。



ホワイトハウスはアヌンナキのデザイン的要素を取り込んでいる---------------------------------

 1800年には、アメリカの大統領府であるホワイトハウスが完成する。そのデザイン的要素も、アヌンナキが作ったバールベックのバッカス神殿やジュピター神殿と同じで、新古典主義建築である。またギリシャのパルテノン神殿とも同じである。ホワイトハウスを使用するアメリカ政府は、アヌンナキと、その中のマルドゥクを悪魔崇拝するイルミナティによって支配されている。三角形は「生命の樹のケテルと三角形」と「エンリルの監視塔」の象徴でもある。


■1806年

 この時代、ナポレオンは次のように述べた。「ヘッセン=カッセル方伯領(ほうはくりょう)の支配を取り除き、権力図から追い払う。」それを聞いたドイツのハーナウのヴィルヘルム1世は、ドイツからデンマークへ逃げ、当時約3.5億円とされた彼の財産をロスチャイルド家の父マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドへ託す。

 三男ネイサン・メイアー・ロスチャイルドはハナ・ベアレント・コーエン(1783年-1850年)と結婚する。裕福なロンドンの商人の娘であった。そして彼はロンドンにビジネスを移動させ始める。


■1808年

 三男ネイサン・メイアー・ロスチャイルドに最初の息子ライオネル・ド・ロスチャイルドが生まれる。


■1809年

 輸出業が困難になっていたこの時期、三男ネイサン・メイアー・ロスチャイルドはロンドンのニュー・ストリートへ行き、銀行家となった。


■1810年

 イギリスの銀行家フランシス・ベアリングと商業銀行家アブラハム・ゴールドスミッドが亡くなる。これでイングランドに残る主な銀行家は三男ネイサン・メイアー・ロスチャイルドになる。

 次男ザーロモン・マイヤー・ロスチャイルドはウィーン(オーストリア)へ行き、銀行(M.von Rothschild und Sohne)を設立する。
■1811年

 イルミナティのロスチャイルド家の父マイアー・アムシェル・ロスチャイルドおよび、息子の三男ネイサン・メイアー・ロスチャイルドによりN・M・ロスチャイルド&サンズという投資銀行がロンドンに設立される。これによりロスチャイルド家が金価格の決定権を持った。現在、世界中に57の事業所が存在する。


 また、1811年に合衆国銀行の認可の有効期限が切れるが、アメリカ連邦議会はその更新に反対した。三男ネイサン・メイヤー・ロスチャイルドはこれを不服として、次のように述べる。「許可更新の申請が認められなければ、アメリカはこれまでになく悲惨な戦争に巻き込まれることになるだろう」
 後に第7代アメリカ合衆国大統領(1829年〜1837年)になるアンドリュー・ジャクソンはそれに対して次のように返答した。
「あなたは泥棒で毒蛇の巣窟(そうくつ)である。私はあなたを追い出すつもりである。永遠の神によって、あなたを追い出すつもりである。」
 三男ネイサン・メイアー・ロスチャイルドはそれに対し、次のように返答した。「生意気なアメリカ人に教訓を教えてやる。アメリカを植民地時代に戻してやろう。」

■1812年

 ロスチャイルドの資金に後押しされ、イギリスはアメリカに宣戦布告する。ロスチャイルドの計画では、アメリカをロスチャイルドに降伏させ、そしてアメリカのロスチャイルド銀行の特権を認めさせることにあった。

 またこの年、5兄弟の父マイアー・アムシェル・ロスチャイルドが亡くなる。その時、ロスチャイルド家の決まり事を残した。
「ロスチャイルド家の事業における重要な役職は、ロスチャイルド家が独占すること。」「事業にはロスチャイルド家の男性のみ携わる事。(父マイアー・アムシェル・ロスチャイルドには5人の娘がいた。今日、ロスチャイルドの名前を使わずしてロスチャイルドのシオニスト王朝が広がっていることは注目すべきことである)」
「結婚は第一もしくは第二の”いとこ”とすること。」
「長男が跡を引き継ぐこと。(この条件は家族の大半の合意がなければ覆される)」
 父の死後この決まり事はすぐに実行され、三男ネイサン・メイアー・ロスチャイルドは父の後を継いで家族の長となった。

 またこの年、五男ジャコブ・マイエール・ロスチャイルドはフランスのパリへ行き、銀行を設立する。そして、五男ジャコブ・マイエール・ロスチャイルドの義理の息子ナサニエル・ド・ロスチャイルド生まれる。
■1813年頃

 日本のフリーメイソンはフィリピンから承認され、フィリピンのフリーメイソンはアメリカから承認され、アメリカのフリーメイソンはイギリスから承認された。その流れはフランス、ドイツ、韓国、台湾などへも広がり、英国からアメリカへも拡がり、世界的な影響力がさらに大きくなった。これは世界のあらゆる国々に特権階級のネットワークができたことを意味し、一般市民には見えない部分で世界が操作されていくこととなる。


■1814年

 ハーナウのヴィルヘルム1世が5兄弟の父マイアー・アムシェル・ロスチャイルドに保管を委託した約3.5億円について、ユダヤ百科事典の1905年版、第10巻、494ページで次のように述べられている。
「伝説によれば、このお金は、ワイン樽に隠された。そしてナポレオンの兵士がフランクフルトに入ってきた時には、その捜索を逃れた。1814年に同じ樽でそのまま復元された。ハーナウのヴィルヘルム1世はドイツに戻った。事実は幾分ロマンチックでなくより事務的である。」
 この最後の行は、お金がロスチャイルドによってハーナウのヴィルヘルム1世に返されなかったことを示している。ユダヤ百科事典ではさらに次のように記されている。三男ネイサン・メイアー・ロスチャイルドがこの約3.5億円をイギリス東インド会社の金に投資した。イギリス東インド会社はイギリスの政治家アーサー・ウェルズリー(初代ウェリントン公爵”こうしゃく”)が半島戦争(ナポレオン戦争)のためにそのお金を必要なことを知っていた。

■1815年

 5人のロスチャイルドの兄弟は、ウェリントンの軍隊にはイングランドの三男ネイサン・メイアー・ロスチャイルドを通して、ナポレオンの軍隊にはフランスの五男ジャコブ・マイエール・ロスチャイルドを通して、ワーテルローの戦い(モン・サン・ジャンの戦い)の争い中の両側に資金の提供を始める。事実、これらの兄弟がヨーロッパ中に銀行を広げたことにより、迅速な特使と秘密のルートの無敵のネットワークを組み立てる手法を手に入れた。このロスチャイルドの特使は、英国・フランスの封鎖を通過することを認められた唯一の商人であった。
 

 特使によって最新情報を手にしていた三男ネイサン・メイアー・ロスチャイルドは、どのように戦争が進んでいるのかを把握し、その最新情報を株の売買に利用した。
 そして三男ネイサン・メイアー・ロスチャイルドは世紀の大もうけに成功する。皇帝ナポレオン率いるフランス軍と、イギリス=オランダ=プロイセン連合軍が戦ったワーテルローの戦いが起こった。この戦争は、仮にイギリスがフランスに負ければ、大陸のパワーバランスが崩れ、イギリスの大陸における利権が一気に失われかねないということで、非常に大きな意味を持っていた。
 この時、イギリスは国債を発行することによって対ナポレオン戦争の軍資金を調達していた。イギリスが負けることになれば、当然、イギリスの国債は大暴落してしまう。投資家たちは皆、戦争の行方がどうなるのか固唾を呑んで見守っていた。
 そして、戦争終結から数日後、イギリスの国債は大暴落した。その理由となったのは、三男ネイサン・メイアー・ロスチャイルドであった。その日の朝、ロンドン取引所の持ち場にいたネイサンは、青ざめ、疲れきった顔をして、急に国債を売り始めた。ネイサンは、イギリスに対して莫大な投資を行っており、また独自の情報ネットワークと情報を素早く手に入れるための手段(個人の快速船など)を有していることが知られていた。そのため、ロンドンの市場関係者たちは、「ロスチャイルドが債権を売っているということはイギリスが負けたのだ」と考え、われ先にと債権を売り始め、最終的に国債は大暴落した。
 しかしながら、実際はナポレオンがイギリスに敗北。当然、戦勝国であるイギリスの国債は、大暴落した次の日には、イギリス勝利の情報とともに暴騰した。しかし、その時はネイサンがイギリス国債を大量に買い漁った後だったのである。誰よりも早く、そして密かにイギリス勝利の確かな情報を手に入れていたネイサンは、イギリス国債を売りまくり、イギリス敗北を偽装するかたわら、秘密の代理店を使って、紙屑同然の値段の国債を買いまくっていたのであった。
 この出来事により、多くの投資家と、ほぼ全ての名門の家系が破産し、対してネイサンは約100万ポンドの利益を得たといわれている。これは、当時のお金の価値では天文学的な数字で、この日の儲けで彼の財産は2500倍まで膨れ上がったともいわれている。

 この出来事は、ロスチャイルド家に英国の経済の完全な支配権を与えた。イングランドはやむを得ず新しいイングランド銀行をロンドン中心部に設立し、三男ネイサン・メイアー・ロスチャイルドはそれをコントロールした。
「どんな操り人形がイングランドの王座について帝国を支配しようが気にしない。イギリスの通貨供給量を操作するものがイギリスを支配する。そして私がその通貨供給量を操作する。」
と三男ネイサン・メイアー・ロスチャイルドは述べた。
 ロスチャイルド家はさらにイングランド銀行の支配権を使って国から国へ金を輸送する方法を代えて、ヨーロッパ中に広がった彼らの5つの銀行を使って紙の負債と信用による取引システムを構築した。それが今日の銀行システムである。


銀行システムと貨幣の歴史のまとめ---------------------------------------------------------------------

 現代の世界の国々で共通する通貨システムといえば、「紙幣とコイン」である。どこの国も高額通貨には「紙幣」を用い、低額通貨に「コイン」を用いているが、主役は何といっても「紙幣」である。そして、この現在につながる紙幣による通貨システムは、この時代の中世ヨーロッパに起源をもつ。
 紙幣が発明される以前のヨーロッパ諸国では、各国の国王や支配者が金・銀・銅でできた延べ棒やコインを発行し、国民はそれらで商取引をしていた。中でも価値の高い「金」は、柔らかいためにすり減ったり、盗まれる危険性があるために人々は丈夫な金庫を持った金庫番(当時の金細工職人や両替商)に自分の「金」を預けた。そして、「金」を預けた代わりにその証明書として預り証を受け取る。そして後に、この「金」の預り証が、紙幣になっていく。
 人々は、自分の「金」が必要な時に預り証を持って、金庫番の所に引き取りに行っていたが、やがて、経済が発達してくると、商取引の際にいちいち金庫番のところに行くのが煩わしくなってきた。
 そこで、人々は預り証で直接、取引をするようになる。預り証でモノを買ったり、モノを売ったときに預り証を受け取ったりという具合である。このように元々は、「金」の預り証であった「紙」が通貨としての機能を持ち始めた。
 街の人々は、預り証で取引をするのがあまりにも便利なため、ますます多くの預り証が市場に出回る。こうして、預り証は人々の信用を得て、金庫番のところには、誰も自分の「金」を引き取りに行かなくなる。
 その結果、自然と金庫番は、有り余るほどの「金」を手にするようになった。そこで金庫番は気づく。
「人々が一度に全ての金を引き取りに来ることはない。だから、預り証を勝手に発行してもばれない!」
 こうして元々は、「金」を預かる代わりに渡していた預り証を、金庫番はこれを「金」を預けていない人にも発行し、利子をつけて貸すようになった。これが銀行の始まりである。

 その後、金庫番は一般市民に貸すより、国王に貸付するほうがはるかに儲かることに気づく。戦争のたびに、各国の国王は多額のお金が必要なため、銀行家に借りるようになった。戦争は、銀行家にとって一番うまみのあることだった。もし国王が戦争に負けて借金を返せなくても、借金の担保である国王の財産・土地・建物・税金が銀行家のものになるからである。
 こうして、戦争のたびに財産を増やし、力をつけた銀行家は、やがて王族と血縁を結び、いつのまにか貴族になっていった。貴族となった銀行家は、さらに大きな権力をもち、手持ちの「金」よりずっと多くの紙幣を発行する権利を国王に認めてもらう。つまり、何の価値の裏づけもない紙切れに価値をつけて、人々にどんどん貸し出す権利を手に入れたわけである。
 ただの「紙切れ」を貸す代わりに、人々からは家、お店、車、貴金属、宝石、家畜など価値のあるものなら何でも担保に取っていく。それらは全て銀行家の財産になっていく。これが現在でも行われている「紙幣」と「銀行」の仕組みである。
 この「お金の仕組み」がわかると、今の「世界の仕組み」と「本当の支配者」が理解できる。そして、この現実の世界で、「紙切れの貸付、利子と担保の取り上げ」によって、世界中の富を手中に収めている代表的な銀行家が、「ロスチャイルド家」である。

■1816年

 アメリカ連邦議会で、ロスチャイルド家が支配するペンシルベニア州フィラデルフィアの第二合衆国銀行を認可する法律が成立、20年間の設立許可を与えられた。これによってロスチャイルド家は再び貨幣供給を支配するようになる。この第二合衆国銀行のデザインもアヌンナキが作ったバールベックのバッカス神殿やジュピター神殿と同じで、新古典主義建築である。


■1818年

 ロスチャイルド銀行はプロイセン政府に対する500万ポンド(約10億円)の融資を手配し、政府の債権を発行した。政府の計画に対して革新的かつ複雑な資金提供を行うことは、銀行の主力業務として、19世紀の大半を費やし形成されていった。当時、プロイセン王国はドイツ北部からポーランド西部を支配していた。


■1820年頃

 イギリスハノーヴァー朝の国王ジョージ4世以降、イギリス王室は代々フリーメーソン入りするのが伝統的なしきたりとなった。英国東インド会社にも関与し、アヘン貿易によって巨額の富を得ている。この頃から、フリーメーソンが英国王室を取り巻くようになった。

■1822年

 ロスチャイルド一族全員がハプスブルク家より男爵位を与えられ、また五兄弟の団結を象徴する五本の矢を握るデザインの紋章も与えられた。以降ロスチャイルド家はその名前に貴族を示す「von(フォン)」や「de(ド)」を入れることになった。ハプスブルク家はドイツ系の貴族の家系で、ユリウス一門(カエサル家)の末裔を自称していた。

 当時のヨーロッパ諸国のすべてがロスチャイルド商会をあてにするようになり、ヨーロッパ全土の王室がロスチャイルド家に金を無心していた。こうした状況から、当時の資産は天文学的だったことが分る。

■1823年頃

 フリーメイソンは英国の貴族の紋章を授けるよう願い出たが却下されたため、政府に大きな経済的圧迫を加えることで1822年、これを成就させた。そして1823年には、全世界のカトリック教会の財政を一手に引き受けた。


■1828年

第二合衆国銀行とアンドリュー・ジャクソン----------------------------------------------------------

 1816年以来12年に亘(わた)ってロスチャイルドの第二合衆国銀行が容赦なくアメリカ経済を操作し、アメリカ国民に不利益をもたらしながら自分たちの利益を追求した結果、アメリカ国民の我慢は限界に達し、この銀行に反対する人びとがテネシー州選出の上院議員アンドリュー・ジャクソンを大統領候補に指名。
 ジャクソンは大統領選で勝利を収め、この銀行をできるだけ早く廃業させるつもりだと明言した。そして1832年再び大統領選に立候補し、11月に地滑り的勝利で再選される。ロスチャイルド家がジャクソン大統領の暗殺を試みることになる。


新古典主義建築のイングランド銀行---------------------------------------------------------------------

 建築家ジョン・ソーン卿により1828年に完成したロスチャイルドのイングランド銀行の外壁も新古典主義建築で、アヌンナキ建築の要素を取り込んでいる。


■1835年

 ロスチャイルド家は、スペインのアルマデン鉱山の権利を得る。これは当時、世界で最も大きな利権世界でロスチャイルド家に世界独占を与えた。

 原子力産業の仕組みもロスチャイルドが作った。発掘した金や銀を精製するには水銀が必要となる。その水銀が豊富なアルマデン鉱山をスペイン王室が所有し、ユダヤ十二大富豪と言われるワイスワイラー家が事業を行っていた。アンリ・ロスチャイルドの妻はワイスワイラー一族のマティルド・ワイスワイラーである。アルマデン鉱山は亜鉛(ジンク)も豊富に産出し、これがのちにロスチャイルド家のリオ・ティント銅山と合併し、1962年にウラン・シンジケートの支配者「リオ・ティント・ジンク」が誕生する。
 金あるいはダイヤモンドのために鉱山を採掘すれば、当然、他の鉱物資源も同時に産出される。ダイヤモンドの「デビアス(De Beers)」、金の「アングロ・アメリカン(Anglo American PLC)」、そしてウランなどの非鉄金属を扱う「リオ・ティント(Rio Tinto)」、この三社がロスチャイルドによる鉱物支配の主要企業である。原子力産業は、ウランなどの鉱物事業の利益を目的として誕生したものでもある。

 2007年における日本のウラン輸入先(率%)ランキングは次のようになっている。

1 オーストラリア 33%
2 カナダ 27%
3 ナミビア 16%
4 ニジェール 13%
5 アメリカ 7%
6 その他 4%

 ロスチャイルドのリオティントは2つのウラン鉱山を操業しており、オーストラリアに位置するレンジャー鉱山とナミビアのロッシング鉱山である。ロスチャイルドのオーストラリアとナミビアのウランで、日本の大部分のウランをまかなっていることになる。

知らない方が幸せかもしれない 原発大震災の超ヤバイ話 / 安部芳裕
etc.

■1836年

 三男ネイサン・メイアー・ロスチャイルドが亡くなる。


■1837年

 アンドリュー・ジャクソンは、第二合衆国銀行に対して銀行認可の更新を認めず、ロスチャイルド家の中央銀行をアメリカから締め出した。ジャクソンの英断のお陰で、それから80年間、つまり1913年の連邦準備銀行(FRB)の発足まで、アメリカはロスチャイルド家の中央銀行の支配を受けない時代を経験することになる。しかし1913年FRBの発足以後、アメリカは金貸しの命令するがままに戦争漬けの国家となっていく。


■1838年

 長男アムシェル・マイヤー・ロスチャイルドは述べた。「私に一国の通貨の発行権と管理権を与えよ。そうすれば、誰が法律を作ろうと、そんなことはどうでも良い。」


■1840年頃

 清とイギリスとの間で、1840年から2年間にわたって阿片(アヘン)戦争が行われる。清では既に1796年にアヘンの輸入を禁止していた。禁止令は19世紀に入ってからも何度となく発せられたが、アヘンの密輸入は止まず、また国内産アヘンの取り締まりも効果がなかったので、清国内にアヘン吸引の悪弊が広まっていき、健康を害する者が多くなり、風紀も退廃していった。

■1849年

 ロスチャイルド5兄弟の父マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドの妻グトレ・シュナッパーが亡くなる。死の前に彼女は、「もし私の息子が戦争を望まなければ、何もないでしょう」と述べた。


■1853年

 ナサニエル・ド・ロスチャイルドは、シャトー・ムートンブレーン(ムートンのボルドー・ブドウ畑)を購入し、それをシャトー・ムートン・ロートシルドと改名した。彼はロスチャイルド家が所有するフランスのワイン生産部門の創設者である。
 シャトー・ムートン・ロートシルトは、5大シャトーのひとつで、1945年以来、ラベルは毎年有名画家にデザインを依頼して描かれている。ラベルを描いた画家は下記の通りである。
1970年 シャガール
1973年 パブロ・ピカソ
1975年 アンディ・ウォーホル
1979年 堂本尚郎(どうもと ひさお)

■1861年

 アメリカ合衆国の内戦である南北戦争が起こり、1865年まで続く。奴隷制存続を主張するアメリカ南部諸州のうち11州が合衆国を脱退、アメリカ連合国を結成し、合衆国にとどまった北部23州との間で戦争となった。この戦争で南軍と北軍に融資したのはイルミナティのロスチャイルドであり、この戦争は金の陰謀であった。しかし市民は民主主義のために戦っていると思わせられている。これは貧しい者と弱い者を罠にかける賢者と悪人が利用する悪賢い言葉であり、すべての戦争を終わらせるための戦争だと思っている。この無知な市民を操作する権力者の構図は、あらゆる時代の戦争に当てはまり、現代においてもそうである。こういった戦争によって融資した富裕な権力者はさらに金を得ることとなった。

大統領に就任したエイブラハム・リンカーン(1809年~1865年)は、戦費の調達に苦労する中で、ロスチャイルド家は36パーセントもの貸付金利を要求した。リンカーン大統領はこの申し出を断り、連邦政府自らがアメリカ国家の信用のみに基づく紙幣を発給することにした。この法定通貨発給は画期的なことであった。つまり、ロスチャイルド家が支配する銀行が発給する通貨と違って、債務を負わずに発給された紙幣であったからである。ロンドン・タイムズは、この法定通貨が債務を負わずに発給されている点に噛みついた。債務を負わずに紙幣が発給されると政府の負債は完済されてしまう。そうなれば、世界の富と頭脳は北アメリカに向かってしまう。こんな政府は破壊しなくてはならない。さもなければ、地球上のすべての君主国が破壊されてしまうことになるだろうと。それから3年後、リンカーンはロンドン・タイムズの予言通り暗殺されることになる。


■1863年

 ロスチャイルド家のアメリカでの代理人の一人、ジョン・ロックフェラーがスタンダード・オイルを立ち上げる。ロックフェラー家は1723年にドイツからアメリカに渡ってきた。


 ■1865年

 南北戦争の最末期、リンカーン大統領暗殺事件が起こる。議会への声明で、アブラハム・リンカーン大統領は述べた。「私には2人の偉大な敵、私の前に南軍、後ろに金融機関(ロスチャイルド家)がいます。2つのうち、私の後ろにいるものは最も偉大な敵対者です。」その年の終わりに、リンカーン大統領は暗殺される。
 エイブラハム・リンカーン大統領はフォード劇場で、妻メアリー・トッド・リンカーンらと『われらのアメリカのいとこ(Our American Cousin)』の観劇中にジョン・ウィルクス・ブースに撃たれた。リンカーンは翌朝、ウィリアム・ピーターソン宅で逝去した。

 リンカーンを殺害したブースは俳優で南部連合の支持者であった。そして彼の同志であったルイス・パウエルに国務省長官ウィリアム・スワード暗殺も命じていた。ブースの狙いはリンカーン、スワード、副大統領アンドリュー・ジョンソンを暗殺することでワシントンを混乱させ、合衆国政府(北部連邦)の転覆を起こすことにあった。これらはロスチャイルド家が仕組んだ事件であった。