6章 縄文文明と環太平洋文明 : 地球人のルーツ

■紀元前1万400年頃〜前6000年頃

縄文文明と環太平洋文明-----------------------------------------------------------------------------------

 紀元前1万3000年以上前から、日本ではすでに縄文文化が始まっていた。これは中南米で文明を築いたカ・インの子孫が世界中に広がり、日本では縄文文化として発展していた。彼らは大洪水の時に船で助かったように、航海術には優れていたので、中南米から南北アメリカ大陸、ミクロネシアやポリネシア、そして、日本まで広がっていた。この一大文明圏が後にレムリア文明と呼ばれた。

 考古学者の発掘調査により南カリフォルニアのモハーベ砂漠辺りでは、紀元前11000年頃の9000個ほどの工芸品が発掘されている。また近くのサン・ミゲル島からも、紀元前10000年頃の工芸品が発掘されている。発掘物の形跡から人々はこの最終氷期の時期に、太平洋沿いを南からアラスカに向かって移住していったことがわかっている。


太平洋を挟んだ文化交流と縄文土器---------------------------------------------------------------------

 アヌンナキのニヌルタ(アラム・ムル)は、バルサム樹でいかだ舟を造る方法を南米人に教えていたので、彼らは大洋の航海の方法を知っていた。そして日本へもやってきており、この時代、太平洋を横断した文化交流が行われていた。いかだ船は海流に乗って移動し、黒潮の幅は日本近海では100km程度で、最大流速は最大で時速7.4kmほどにもなる。

 太平洋岸に面した宮崎市で縄文土器群が発見されているが、南米エクアドルのバルディビア土器は、太平洋岸に面した宮崎市の縄文土器群とそっくりの文様を持つ。しかしバルディビア土器の成分はエクアドルのものだった。この縄文土器が見つかったのは、宮崎市の中心部から車で15分ほどの跡江貝塚遺跡である。

 1990年に京都で行われた国際シンポジウムにハワイから招かれた太平洋考古学者の篠遠喜彦(しのとおよしひこ)氏は、南太平洋のバヌアツ共和国で縄文土器が発見されたと報告している。そのエファテ島のメレ村のヤムイモ畑から出てきた土器である。それは縄の模様をもった細長い独特の形をした土器であった。3年後にその土器を検討した考古学者で東北大学名誉教授の芹沢長介(せりざわちょうすけ)氏は、縄文の円筒下層C、D式に酷似していると発表した。円筒式土器の出土地域は日本列島のなかでも東北地方北部と北海道南部に限られており、当然ながら三内丸山遺跡からも出土している。
 更に、バヌアツ土器の成分分析をおこなった結果、青森県出土の縄文土器と一致したという研究も発表されている。


科学的に証明済みの南米沿岸部と日本に存在する同じ遺伝子--------------------------------------

 南米の太平洋側に位置するペルーには、インカ帝国を作ったのは日本人という伝説が存在する。そして科学的にも日本人など少数のアジア人だけが持つ遺伝子を、南米の沿岸部の人々が持っているという結果が出ている。 次の動画ではインカ帝国を作ったのは日本人かもしれないとしているが、これらの巨石を用いた都市を作ったのはアヌンナキである。そこへ日本人がやってきた。


津保化族(ツボケゾク)-------------------------------------------------------------------------------------

 阿曽辺族(あそべぞく)が東日流(つがる)に渡来、住み着いてから数万年が過ぎ、津保化族(ツボケゾク)という種族が東の南米より太平洋を渡って来た。この一族が渡来して来た時代は、地球の温暖化によって海面が上昇、日本列島の大部分が大陸から分離していた。

 津保化族(ツボケゾク) が渡って来たのには理由があった。それは一族の間で、祖先が西方に渡って住み着いた国があるとの言い伝えが残っており、それがもとだった。
 ある時、その国を見届けようとする者が現れ、一族に呼びかけたところ、数十人の者がそれに応じた。その集団は島のような大きな筏(いかだ)を組み、馬も二十三頭積み、氷の張った海へ旅に出た。そして海に漂うこと85日が経過したが、全員が飢えることなく、また死者も出ず、無事漂着したところが東日流(つがる)のヌカンヌップ、またの名を都母(青森県上北郡方面)というところで、その地名からとって津保化族(ツボケゾク)と呼ばれるようになった。

 津保化族(ツボケゾク)の先祖は、氷の溶けなくなった国より移って来た阿曽辺族(あそべぞく)と同族であるが、阿曽辺族(あそべぞく)と違うところは、郷土へ帰ることを最終目的として探検の旅に出、その途中で立ち寄ったことだった。
 ところが東日流(つがる)へ立ち寄ってみると、山には獲物の幸が、海には魚貝の幸が無尽蔵にあるのをみて、郷土に帰ることをあきらめて、この地に定住することを決めたのだった。
 一族は渡り族といって居住に定まりがなく、人数が揃うと日高見国羽前(ひたかみのくにうぜん:宮城県)へ住み着き、狩猟をし、一族の人数が増えると居住する場所を移し、奥州(おうしゅう:岩手県の内陸南部)のいたるところへ行って、先住民の領地へ居住し、目的を達するとまた別の地へ移動するという習性があった。

 この移動についていけない者、主に老人はその地に残され、若者だけが新天地を求めて移って行った。その地に残された者は、そこで死に至るのを待たなければならないという親族無情の習性があった。
 しかし、世が移るにつれて渡り者は、幸が豊富な無人地をみつけると迎えに来る心情に変わっていった。
 この一族は何故か、どんなに飢えることがあっても馬だけは殺さなかった。それは一族の掟で、馬は狩や戦いに使う神としてあがめていたからだった。そして津保化族(ツボケゾク)は、祖国の平野を駆ける血筋の馬と犬は、男女のまぐわいの神の使者であるとし、大切に飼うのが当然のことと思っていた。後の東日流(つがる)に野生の馬が駆けていたのは、この一族の名残りである。

 もともと津保化族(ツボケゾク)は戦闘的な性格だった。東日流(つがる)に移住して来た時、狩猟して移動せず、おとなしい暮らしを続ける阿曽辺族(あそべぞく)の性格は知っていたが、戦を仕掛けなかったのは、一族の勢力が戦のできる域まで達していなかったからだった。しかし年月を経るとともに、津保化族(ツボケゾク)の人数は確実に増えていった。

 ある時、阿曽辺族(あそべぞく)が西浜に大勢の支那国人が漂着して居住しようとしているのを見ても、防御の戦を仕掛けることもなく、自らその領域を護るための争いをしない一族と知るや、津保化族(ツボケゾク)は、諸々に散らばっている同族に、阿曽辺族を襲うことを通達して数を集め、一挙に領地へ侵入し、集落に火をかけ、女を犯し、老人を殺して獲物を奪った。

 阿曽辺族(あそべぞく)は突然のことであり、応戦する備えもなく、津保化族(ツボケゾク)のなすがままとなり、東日流(つがる)は津保化族(ツボケゾク)によって占領されてしまった。
 阿曽辺族(あそべぞく)の生き残った者はいたし方なく青森県の阿闍羅山(あじゃらやま)に脱した。
 領地を奪った津保化族(ツボケゾク)は、東日流(つがる)全域に館を築いて居住し、阿曽辺族(あそべぞく)と領界を定めたが、その領域争奪の争いは続き、一族間で流血の絶えることがなかった。
 阿闍羅山(あじゃらやま)に脱した阿曽辺族(あそべぞく)だったが、津保化族(ツボケゾク)の権力化におさえられ、長い間、その使奴(つかいやっこ)となる時代が続く。

 しかし阿曽辺族(あそべぞく)としても、いつまでも黙しているわけにはいかなかった。阿曽辺族(あそべぞく)系の中に加無礼という族長がいたが、彼が阿闍羅山(あじゃらやま)に逃れていた一族を結集して挙兵、自分達の土地の奪回に津保化族(ツボケゾク)の集落に攻め入った。
 もとより飢えれば野生の馬でも狩るという一族だったので、この作戦は成功した。そしてひそかに迫って射る矢には毒が塗られており、津保化族(ツボケゾク)の中にはこの矢に当たって死亡する者が増え、また飢えにも窮するようになった。
 さすがの津保化族(ツボケゾク)もこれにおじけづき、しばらくの間応戦を避けたが、いつまでもこの状態を放置するわけにはいかず、津保化族(ツボケゾク)の中の阿佐津貴という族長が一族を結集し、阿曽辺族(あそべぞく)と交戦したが敗れた。敗れた原因は、あてにしていた中山からの援軍が来なかったからだった。こうして阿闍羅山(あじゃらやま)一帯の領土は阿曽辺族(あそべぞく)のもとに戻った。

 敗れた津保化族(ツボケゾク)の長・阿佐津貴は軍策を練り、再び一族を総挙して阿曽辺族(あそべぞく)の陣を遠巻きにして風向きをはかり、山に火を放つと、火は折からの風によって阿曽辺族(あそべぞく)の陣に燃え移った。阿曽辺族(あそべぞく)は風上に向かって逃れようとしたが、そこには津保化族(ツボケゾク)が待ち構えていてこれを討った。ここで阿曽辺族(あそべぞく)の半数が殉じた。

 生き残った阿曽辺族(あそべぞく)は、一族の酋長(しゅうちょう)の居住地の阿曽辺盛(あそべのもり:岩木山=いわきさん)に引き揚げた。阿曽辺族(あそべぞく)は山で生活し、津保化族(ツボケゾク)は海辺で生活していたが、この両族は常に暮らしの財を求めたので交流することなく、互いに領域を侵しての争いを続けた。

東日流外三郡誌

ニュージーランドのワイタハ族---------------------------------------------------------------------------

 南米のカ・インの子孫が広がったニュージーランドのワイタハ族は、ポリネシア人の一派をなすマオリ族が入ってくる以前から存在する環太平洋文明の部族である。今では後から入ってきたマオリ族と生活を共にし、同じ伝統を受け継いでいる。ワイタハ族は女性が中心の母系社会である。マリオ族は、それぞれの集落や身分によって異なる身体装飾としての刺青(いれずみ)を顔面や全身に施す。この刺青の文化は、琉球やアイヌなどにも見られる。




ツラン文明から縄文時代の富士王朝の始まり----------------------------------------------------------

 大洪水の後、半神半人ジウスドラ(ノア)などの生き延びた一団の一部は、アララト山から中央アジアのツラン平原に辿り着く。そしてそこから東北にある天山(テンシャン)山脈の西南麓に王都を築いた。しかし時が経ち、その土地が王都としてふさわしくなくなったので、日本列島の富士山麓へ遷都を決意し、一団は海を、一団は陸を東進して日本列島に渡来することになる。そして中央アジアのツラン平原からツラン文明がユーラシア大陸各地に、農業とともに宇宙観、世界観、そしてそれにもとづく学術と道徳、人道の秩序の体系が伝播されていく。この一団には、祭司王の半神半人ジウスドラ(ノア)やシャーマンなどがいた。このツラン文明は、大洪水前から人々が存在していた文明ではあった。

 中央アジアの高原地帯にいた一団が東に向かい、日本列島に到着して、ここに文明を立てた。このツラン(天の子)民族がツラン平原から北回りで日本に移住して、縄文文明と混じり合った。そしてツラン平原から南下した仲間達が、インダス川やメソポタミアにシュメール住み着いていった。またその道中で分かれた集団が中国の黄河文明や長江文明を築いていく。


 縄文人は、荘厳(そうごん)なる宮殿をつくらず、美麗なる礼服で飾らず、外観の浮華を自慢しなかった。日本民族にとって歩むべき道とは、人間の営み(人工)が、自然を破壊してはならない、自然と調和し、人工がむしろ自然をより豊かに、より美しく繁栄させるものでなくてはならない。そのような方向に人間が進んでいく時、それを「道」と名づけるのである。人間の営為(人工)が、このように積み重ねられてゆくありさまを、「文明」と賞賛するのである。これこそ、ツラン文明→縄文日本人→日本民族、と受け継がれた根本概念である。こうしてツラン文明を正統に継承したのは縄文文明であった。

 2度目の大洪水の後、ツラン民族によるツラン文明の原型は成立しており、後のシュメール文明はこのツラン文明の南下した一分派である。「ツラン」とはシュメール語で「天の子、天の保持者、天の帯」を意味し、ツラン民族とはツラン平原で発祥し、ウラル・アルタイ語族に属し、北方アジア民族とも呼ばれ、言語はウラル・アルタイ系の膠着語(こうちゃくご:立語の中国語、屈折語のインド・ゲルマン語と文法が根本的に違う)を語り、ツランから発してユーラシア大陸全域に棲みついた民族で、北ツラン族と南ツラン族に分け、北ツラン族をウラル・アルタイ語族と称した。

北ツラン族 : ツングース、モンゴル、トルコ・タタール、フィン・ウゴール、サモエード
南ツラン族 : タマル(タミール語族)、ボオチア(チベット・ブータン語族)、タイ(シャム)、マライ

 縄文の日本で富士王朝を建国したのは、天山(テンシャン)山脈西南麓に王都を築いた大洪水の生き残りの人々であった。日本列島の富士山麓へ遷都を決意した彼らの話はこうである。なお、ここでは和名を用いているが、すべてアヌンナキの血を濃く受け継ぐ子孫達である。

 天地開闢(てんちかいびゃく=大洪水の後)のとき、天之峰火雄神(あめのほほおのかみ=ノア)が生まれた。この神の王朝は7代30万日(約820年)を経て、天の世と呼ばれた。次に天之御中主(あめのみなかぬし=アヌ王)神から15代67万5000日(約1850年)続いた王朝は、天之御中世(あめのみなかよ)と称された。その最後の神皇が高皇産霊神(たかみむすびのかみ=エンキ)で、国土が八方に広がったため、七人の皇子をそれぞれの地方に派遣することにした。第一皇子・有能氏は大陸の大中原にとどまり大アジア州の皇帝となり、第二皇子・朝天氏は大陸の東部を、第三皇子・南陽氏は大陸の南部を、第四皇子・清賢氏は大陸の西部を、第五皇子・農立氏(イナンナ)は東海の島を、第六皇子・農永氏は大陸の北部を、そして末子の第七皇子・農佐氏は父のもとにとどまった。
 ところが、派遣された皇子のうち第五皇子の農立氏(イナンナ)だけは、「日の本なる海原に世に二つなき蓬莱山(ほうらいさん:富士山)のある蓬萊国(ほうらいこく:日本)」に行ったまま、1万7500日(約48年)経っても帰ってこなかった。高皇産霊神(たかみむすびのかみ=エンキ)は「連絡がないのは、その土地が連絡することを忘れるほど素晴らしいからに違いない」と考え、第七皇子・農佐氏を指揮官に任じ、神后ともども3500余神を率いて、住み慣れた王都を捨て、蓬萊国(ほうらいこく:日本)に遷都することにした。
 高皇産霊神(たかみむすびのかみ=エンキ)の一行は、天山(テンシャン)山脈の麓を出発して、現在のシルクロードを陸路東進、朝鮮半島から日本の能登半島に上陸した。その後、瀬戸内海沿岸を経て、渥美(あつみ)半島に達すると、東に富士山が見えたので、再び船に乗って海路東進し、田子の浦に再上陸。富士山の麓に王朝を築いた。


 一方、先に蓬萊国(ほうらいこく:日本)を目指していた第五皇子・農立氏(のちの国常立尊”くにとこたちのみこと”=イナンナ)は、天山(テンシャン)山脈を出た後、南に向かいインドから南岸沿いに東進、海人と交流しながら島々を這うようにして海路沖縄にたどり着いた。そこから日本列島に渡り、瀬戸内海の淡路島にとどまり、蓬莱山(ほうらいさん:富士山)の所在を求めていた。そこへ父皇(エンキ)と弟たちが自分の後を追って日本列島へ渡ってきたことを知り、富士山の麓で弟と再会した。
 兄弟はともに協力して新しい国作りを誓い合った。そして最初に天降った兄の農立氏(イナンナ)は国常立尊(くにとこたちのみこと=イナンナ)と名前を改め、「高天ヶ原の世」の第一代神皇に即位するとともに、「東西分治の制」を定めて西を統治することにした。日本の本来の最高神はスサノオことイナンナである。弟の農佐氏は、国狭槌尊(くにさつちのみこと)と名前を改めて第二代神皇となり、富士山麓を拠点にして「高天ヶ原」を治めた。

 イナンナは日本の第一代神皇に即位し、つまり日本を統治する王となったが、イナンナと王権の象徴であるアヌンナキの王冠を表した縄文土偶が富士山周辺から出土している。この王冠は後の時代にも見られ、地球司令官エンリルがメソポタミアを一人の人間に統治させようと決めた時にサルゴン1世に与えた王権や、ゾロアスター教の最高神アフラマズダ(エンリル)がサーサーン朝ペルシア帝国の初代君主アルダシール1世とされる人物に渡した王権と笏(しゃく)のレリーフにも見る事ができる。
 この王冠は現代にも続き、天皇が皇位を継承したことを内外に示す即位の礼でも見る事ができる。平安時代までの纓(えい)は、左右の肩に垂れ下げるなど二枚だったが、平安末期からは、二枚を留めて一枚のようにして用いるようになった。


 最後の世界的洪水の後、最初に文明が開け、その文明を世界に広げたのが日本である。神の道とは、すなわち自然と調和して生きる術であり、自然の力を利用する術である。世界に派遣された日本の皇子たちは、自分達の都を「すがすがしい」という意味を込めてスガ、あるいはスカと名付けた。つまりスカ、スガに接頭語のアやナを付けて、アスカ(飛鳥)やナスカなどの地名になった。
 このスガという地名の由来については古事記の出雲神話にも記されている。スサノオがヤマタノオロチを退治した後、クシナダヒメとの新居の宮を造る土地を出雲の国に捜したとき、現在の島根県大原郡大東町(現在は雲南市に合併編入)須賀に気分がすがすがしくなる土地を見つけ、そこに新居の宮を造ったので須賀と呼ばれるようになったとしている。

 奈良県の明日香村には、爬虫類人の姿をしたアヌンナキの像が見られる。後のメソポタミアのシュメールでも、よく似た爬虫類の姿に変身したイナンナ像が発見されている。明日香村はアヌンナキの街である。

 またメソポタミアで発見される像と同じような手を組んで座る像も、明日香村より見つかっている。つまり文明の順序としては、日本の縄文時代の次にメソポタミアで文明が起こり、それがやがてイスラエルやフェニキアを経て、再び日本へ帰ってくるという流れである。

 明日香村には亀石が存在するが、それはアヌンナキのエンキのシンボルである。

 下記の地図のように、現在の日本にはイナンナを表した多産のシンボルとされるヴィーナス像や、無数の巨石文化が存在している。奈良県の石舞台古墳もその一つだが、これらの巨石建造物の多くには多角形の石積みや隙間なく密着した巨石が共通しており、この富士王朝時代のアヌンナキによって作られた。
 こういった巨石で紀元前900年頃のイギリスでは、悪魔崇拝を行うドルイド僧が儀式を行った。儀式の祭壇は石舞台と呼ばれるドルメンで、二つの石の上に横長の石をのせる形だった。同じ形のドルメンは世界各地に存在し、ドルメンで悪魔(アヌンナキ)への生贄を捧げた。

 

 またアヌンナキによって、日本全国にピラミッドも建設されていった。








 アララト山のノアの箱船のツラン民族がツラン平原から広がっていった後、紀元前9000年~前7000年前までの間に、

1.中国大陸の全域に拡散して漢族、苗族(ミャオぞく)となり
2.日本列島にも到達して縄文文化人となり
3.タイに入って東北部のパンチェン文化人となり
4.インド西北部から西部に入ってインダス人となり
5.メソポタミアに入ってシュメール人となり、
6.中央アジア、西方アジア、西方ヨーロッパ方面に向かって各種のウラル・アルタイ系、ツラン系の民族になる。

ツラン文明圏 / 今岡十一郎

環太平洋文明の中心地は日本だった---------------------------------------------------------------------

 環太平洋文明圏の中心地は中南米でも良かったが、そこでは飲料水の確保が難しい。神々はそれまでに、地球の様々な気候変動を見てきた。それからすると、いずれ中南米では飲料水に困ることになると予見された。それ故、飲料水が豊富で気候も良く、将来的に人類が目覚めるまで隔離しておける場所として、日本が最適だった。
 更に、日本には金鉱脈も豊富だった。よって、“その時”が来るまでの封印の地として、日本が選ばれた。地震や台風の影響はあるとしても。つまり、レムリア文明の真相は、日本が中心となった環太平洋縄文文明圏のことである。
 アバエルは牧畜、カ・インは農耕を教えられたので、この文明圏では農耕が基本となった。よって、日本では農耕儀礼が神事の中心となった。かつて、日本の縄文時代は狩猟ばかりのように思われていたが、20世紀後半からの発掘調査で、かなり早い時期から農耕が行われていたことが証明された。

 大洪水によって、人々の生活は原始的なものへと戻った。その中で縄文土器の出現や竪穴式住居の普及、貝塚などが生まれた。北海道と沖縄では縄文人の系統が比較的純粋な形で残り、アイヌと沖縄の人々になった。元々日本列島にはすでに原住民が暮らしていたが、大洪水前の高度の知識をもった移住者たちが主導権を握って、地球規模の大異変で原始時代に戻った文明を、再び発展させていった。


縄文時代の円形の生活空間--------------------------------------------------------------------------------

 日本列島では、非常に直感的なセンスを持った人々によって、現代人の想像をはるかに上回る、整然とした自然界との調和文明が完成されていた。彼らは宇宙の本質を直感によって把握しており、それを数百人規模の小都市がそれぞれ正円形になるような配置によって表し、それが集まった全体の配置も正円形になる完全な計画都市文明を開花させていた。それは、彼らがMUと呼んだ偉大なる大自然の母なる力を受容するために必要な構造であった。
 彼らの住居そのものも円形を基本に設計されており、その中央には、冬至の朝に東門の方から光が差し込むように聖なる中心が配置されていた。こうした円形構造の全体が、人間の本質である霊に影響力を持つことを彼らは知っていたからである。後の時代の縄文遺跡が円形であるのも、この高度な計画都市文明のあり方を踏襲(とうしゅう)していたからである。現代の日本人の大黒柱の神聖概念は、そのわずかな痕跡である。
 日本の縄文遺跡は村全体が円形に配置されており、その中央に祭りの場があったことが研究者の指摘でわかっている。それは整然とした美しい配置であり、一つずつの家がちょうどみんなで手を取り合って円を作った時のように、全体にも円形で配置されていた。そして質素な家の一つひとつも、すべて円形で美しく形作られていた。家も村も計画的に円形に作られているのは明らかであった。人々が集まる時も、円形に集まるビジョンが見え、同時にその周囲に漂う空気が現代の町とはまったく違う、やわらかで優しい気に満ちていた。

 現代人は初歩段階として、人々が円形に集まるとき、現代人のように直線状に対面する時とは違う、それとは異なった意識が形成されることを認識する必要がある。まだ理解されていないが、人間の潜在意識は他のどんなことよりも、空間によって決定されるのである。空間とは自分達の意識の母体である。すべての意識というものは、空間から生み出される。現代人は物を中心に物を作るが、太古の祖先は、空間に合わせて物を作り、村を作った。人間という存在の偉大な点は、その空間を変容させる力を持つことにある。空間の把握は意識の把握であり、空間を把握するものは意識をも把握する。

 空間と自分との関係をわかりやすく、意識レベルで説明する。人々が向かい合い、直線的な関係にある時、相手と自分という相対的な意識が形成されやすい。それは潜在意識に二元的認識構造を植えつけることになる。だが、人々が円的空間を形作る時、相対意識よりも人間の本質的な共鳴性をより増幅させやすくなる。人々が円形に集まり、すべての人が円形の中央に体を向けるとき、隣に座る人々はみな、同一の対象へと向かう共感する人として意識される。
 こうした形でのレベルが自分達に与える潜在意識への影響は、言葉による意識の形成よりもはるかに深く、潜在意識の根本の領域を形作るものである。なぜならそれは、人間の心の世界は宇宙と同質の構造を持ち、それによって成り立っているからである。
 現代人は、平面に描かれた図形などに神秘的な働きを求めたりしているが、空間の持つ力は、それとは桁違いに根本的なものであることを知る必要がある。人間の祖先たちはそれを実際の生活に用いていた。空間と一つになると、人々の魂も一つに結ばれ、その集合した霊の焦点はその中央で一つになる。その共感された意識を持ちながら人々は調和のあるつながりを実現し、深い魂の結びつきを実現させた。
 若者たちは、隣に並ぶ長老たちの所作から無意識のうちにすべてを学んだ。これらは教えることなく共感的に伝えられ、自分の隣に自分と同じように並ぶ何人もの人々を、彼らは自分とつながる連続する仲間として意識していた。人間の祖先のこの円形空間の場は、極めて高度な共感意識による社会を生み出すために、不可欠な基本的条件であった。
 ほんの1ミリの角度のずれが、1キロ先では何十メートルものずれをもたらすように、それが直線状か円形状かの違いが生み出すものは、現代人にはわずかな違いにしか思えなくても、人類文化の決定的な違いをもたらすことを、人間ははるかな太古に認識したのである。その違いは宇宙の陰陽性を象徴するもので、すべては場、つまり空間によって決まる。この叡智のルーツは、前文明における人間の祖先の叡智にある。

 この理解が進むほど、現代の社会はそれとは正反対の直線的な構造の社会であることがわかる。現代人は、直線意識のエネルギーの持つ象徴文化の中で育ち、生活している。そのために宇宙領域とは同調しにくいバリアー(壁、障害物)のような性質が、人々の中に形作られてしまっている。子供たちは学校で大半の時間、みんな同一方向に向いて座り、先生と対面して育つ。すべては直線ライン上に意識が向かい合っている。それは子供たちの育ち方だけではなく、大人になってからも同じである。劇場の公演でも、演技者と観客は直線的関係であるし、オフィスでもやはり机は対面する形で並べられ、一つのライン上で向かい合っている。住居の中もほとんどが直線的に作られており、街の構造も直線である。
 この直線空間か、円形空間かの決定的違いは、意識的、無意識的にかかわらず、中心を共有する意識を持てるかどうかである。すべてに中心が存在するこの宇宙の構造と同じ意識を、一人ずつが育てることができるかどうかにある。


北枕と宇宙の情報について--------------------------------------------------------------------------------

 寝るときに頭を北に向けると地球の磁力線と同じ方向になるので、縄文人は北枕が常識だった。気が多くあるから気多、すなわち北である。古代の日本人は、地球そのものが巨大な磁石であり、北枕で寝ると地球の磁力線によって乱れを正常に戻せることを知っていた。
 日本では北枕は死人の寝かせ方だとして不吉とするが、じつは釈迦(しゃか)が入滅した際の頭北面西(ずほくめんさい)をまねたもので、健康的な寝方である。日本には伝統的に北方を避ける習慣があり、北には寒冷・暗黒・冬・夜・死者などのイメージがつきまとう。同時に静寂の意味もあり、寝殿造の北の対屋には貴人の妻が住んだので、北の方・北の台・北の政所といった呼び名が生まれた。
 方位磁石は、人間が「北」と呼んでいる方角を指すが、なぜ北なのかというと、そのはるか先には、創造の湧き出す「泉」のようなものがあり、宇宙の情報は北からやってくる。頭を北の方角に向けて寝ると、夢を鮮明に覚えていられる。北枕にして寝ると、実は頭が冴えてスッキリし、多次元の情報に簡単にアクセスできる。夢の調査をするにあたっては、頭を北に向けて寝ることは非常に大切なことで、もし北枕で寝ることを禁止されたら、「夢の調査員」としてはまったく機能しなくなるほど重要なことなのである。それほどに、宇宙の情報がやってくる北に頭を向けることは重要なことなのである。「地球という惑星は、磁気を帯びた大きな磁石のようなもので、そこに存在するすべてのものは地球と同じように磁気化されている。それは人類も例外ではない。そのために南北のラインに沿って身体を横たえることで、地球の磁気の流れに逆らうことなく循環できるのである。


縄文時代の「夜這い」と女権社会------------------------------------------------------------------------

 縄文時代のころの日本の社会制度は、ヒメヒコ制という。女性をヒメといい、男はヒコという。そして、ヒメのほうが上である。ヒメが命令すると、ヒコは「はい、はい」といって、荒っぽい外の仕事をする。
 その時代の結婚はどうなっていたか。妻問い婚、つまり夜這いであった。男のほうが女のいるところへ行く。昭和になっても続いていた地方がある。「今夜、行ってもいいか」と男が聞き、女が嫌な場合は「だめ」と言い、オーケーの場合は、「じゃあ、鍵を外しておくからね」と言う。
 そして、もし子どもが出来たら、女のほうに指名権がある。「この子はあの人の子どもです」と女が言うと、結婚しなければいけない。昔はDNAなんて関係ないのである。「おれの子じゃない。あいつの子じゃないか」と言っても認められない。そういうバランスのとれた制度があった。男は、指名されたら結婚しなければいけない。それを覚悟で夜這いに行った。
 この制度だと、女権社会になる。女はずっと家にいる。そこで天気予報や村の人間関係に詳しくなる。予知能力の持ち主になる。そのころヒコは何をしていたかというと、軍事的・政治的に成功すると豪族の娘をどんどん愛人にしていた。そうやって父親の豪族を手なづけていた。


アヌンナキとシャーマン-----------------------------------------------------------------------------------

 ニビル人アヌンナキは地球を去る前に、湿地や沼で両生類、昆虫、爬虫類、鳥たちとともに太鼓を叩いたり、ガラガラ音をたてて、銀河の音を聴く方法を教えていった。この新しい教えは、シャーマンにとって非常に難題であった。なぜならこれは、さまざまな星とつながる作業であり、人間はみな、プレアデス以外にも地球に影響を及ぼしている恒星があることを認識させられたからである。


世界に散った神官達----------------------------------------------------------------------------------------

 大洪水が近づいた時、一部の「聖なる道」を歩んでいたアヌンナキの賢者たちは、シュメールや植民地の図書館から古代の知恵が記録された巻物を集めた。彼らは、世界中のさまざまな場所に分散して移り住むことで、古来の科学的、霊的知識を安全に保管し続け、またその知識を少数の進歩した生徒に教えるために、それぞれの場所で修院を設立することになった。
 しかしそれらの修院、つまり学校の存在は、何千年もの間、人類の一般の人々には秘密にしておくことが義務付けられていた。それらの学校が、今なおミステリー・スクールと呼ばれている所以(ゆえん)である。

 ノアの箱船にいた神官兼守護者は半地球人、半宇宙人の半神半人で、ニンギシュジッダによって訓練されていた。彼らは人類と宇宙を忘れないための役割を担っていた。彼ら神官には、「カバラ」と呼ばれる自然哲学の知識を託した。カバラは自然に属するもろもろの対象を取り扱い、その法則性を明らかにした自然科学が体系化されたものであり、それが後に様々な哲学や宗教、日本では陰陽道などとして様々に解釈されていく。日本にはこれらの知識を受け継いだ集団が、744年に八咫烏という名で結成される。
 カバラでは世界の創造を、神エイン・ソフからの10段階にわたる聖性の流出の過程と考え、その聖性の最終的な形がこの物質世界であると解釈している。この過程は10個の「球」と22本の「小径」から構成される生命の樹(セフィロト)と呼ばれる象徴図で示され、各部分に神の属性が反映されている。したがってカバラは一神教でありながら、多神教や汎神論(はんしんろん)に近い世界観を持つ。別の解釈ではこの世界を一冊の書物とみなす。すべてが書き込まれているこの書を解読することは、この世界のすべてを理解することであるとされている。また生命の樹とはエデンの中央に生えている木の事で、命の木とも訳され、生命の樹の実を食べると、神に等しき永遠の命を得るとされる。

 多くの神官はとても長生きだった。神官に神道の神主、巫女(みこ)、陰陽師、沖縄のノロや琉球王国の王、マヤ文明のパカル王などの神官、マヤ文明の末裔でアメリカ・インディアンの部族の一つのホピ族などが存在する。「ホピ」とは彼らの言葉で「平和の民」という意味である。また現在、マヤ民族の血を引く神官ア・クタは、聖なるシンボルのピラミッドに万物を見渡す目の装飾品を、先祖代々受け継いでいる。
 この時代、イルミナティや闇のカルトネットワークはすでに存在しており、それが現代まで続く。


 しかし、やがて時とともに神官達も、宇宙との繋がりを忘れていくことになる。その結果、人間はさらに宇宙と離れていく。神官は世界中にいて、子供を作っていた。後の世界中の王族や神官の家系の系譜は、この時の神官や守護者の系譜から来ている。
 そのあと何百年も過ぎ去り、人類とアヌンナキの物語は神話へと変化していく。それはヒンドゥー教、シュメールの神話、ギリシャや日本の神話など、世界中の神話としてであり、それらの物語には多くの共通点がある。これらの内容は、実際に起きた出来事を元にしている。しかし、時間とともに彼らの知識は歪んでいき、内容は一部操作され、本来の出来事とは異なっていることも多くなっていく。やがてそれが宗教となり、支配的なものとなった。そうすると地球人にとっての神の概念も混乱していった。そして今では地球人はどこから来たのかわからなくなり、偶像崇拝も強まり、どの宗教の神が正しいのかということのために戦争が起こっている。



天然の植物幻覚剤の事実と誤解-------------------------------------------------------------------------

 今日までドラッグ、つまり薬物とは、一般的にエンセオジェン、幻覚剤と呼ばれている。これは単に、「内なる神の発生(the generaition of God within)」を意味しており、「己自身の意識の内に神を悟る(the realizaition of God within one's own consciousness)」ことを意味している。そして実際に、意識を拡張し、自己認識を拡張させ、霊性の本質へ向かわせることで知られる植物はそのほかにもたくさん存在する。
 それぞれの民族では自分たちの指導者に洞察力と指導力を求めていった。それらの人々は、シャーマンやヒーラー、司祭、また魔術師や賢者、ヨギ、奇術師と言われる人々で、このような指導者たちはファーマコピアと言われる薬物類や植物の使用に通じており、彼らの能力や洞察力はそれらの薬物類によって得るところが大きかった。「ファーマコピア(pharmacopoeia)」は薬局、ファーマシーや、薬剤師、ファーマシストの語源であり、「魔法(witchcraft)」とも訳されてきた。
地元のシャーマンたちは薬物類やそのような植物に通じており、そのために人々から尊敬や畏敬、そして権威などの社会的権力を維持してきたが、そのことは今も昔も政府や宗教家にとっては、見過ごすことのできない大きな問題となった。それはそのような先住民族たちが握る権力と支配力という力に対する、彼らの理不尽な羨望(せんぼう)でもあった。そうして、彼らによってシャーマニズムやファーマコピアは悪魔のものとみなされ、それに対して不名誉なレッテルが貼られるようになった。
 後の時代にカトリック教会が支配するスペインを皮切りとして行なわれた、「異端審問」と「魔女狩り」はこの代表的なものである。それは19世紀に至るまで欧米において、神の名のもとに教会と政府により、800万人以上の人々が殺害され、土地や財産を収奪した。さらにキリスト教会の羨望(せんぼう)と強欲はこれに留まらず、アメリカ大陸の先住中央アメリカ人の推定2000万人以上の人々を殺害した。そしてアステカ、インカ、マヤの人々を絶滅寸前にまで追い詰め、北アメリカ先住民族のアメリカ・インディアンをも同じ運命に陥れた。
 そこに横たわる彼らの目標とは、幻覚性植物に関する知識の抑圧である。それが功を奏すれば、人々はほとんど自力で神を体験することができなくなる。そのゆえに、神に付随するすべての事柄、知識において、すでに確立されている宗教へと人々の忠誠心を確実に向けさせることができる。政府と宗教が世界の支配者であるためには、別の源から情報や知識を得ることのできる独立したシャーマンや司祭、魔術師、奇術師、そして預言者と言われる人々は彼らにとっては脅威でしかなかった。


■紀元前1万年頃

 この時期、現在の最古とされるシャーマンの墓が、イスラエル北部の地中海沿岸から14キロほど内陸に位置するヒラゾン・タクティット洞窟に残される。女性は身長150センチで45歳ほどであり、ナトゥフ文化に属する高齢の女性が、動物の部位や人間の足とともに埋葬されていた。

■紀元前8239年頃

第四の大周期(紀元前8239年 - 3114年)---------------------------------------------------------------

 この頃、太陽系がフォトン・ベルトの外に出て獅子座の時代の終わった。また同時に洪水はやっと引きはじめた時期でもあった。ここから蟹座の時代がスタートし、地球は第四の周期に入った。
 洪水が引いていった後、世界はまったく違う場所になっていた。地軸の逆転によって大型動物の多くは絶滅し、それまでかなり北方に住んでいた亜熱帯の動物たちも、死に絶えるか、南に移動していた。地球上の人間と生物種はすべて陣痛ともいえる大きな苦しみを味わい、フォトン・ベルトから出たときには、人間の潜在意識には深いコードが刻みつけられていた。
 また地球は、すべてが荘厳な魔法のように出現した新しい世界となり、まさしくエデンの園が広がっていた。人間は自己の意識とともにあたりを眺め、世界の美しさに驚嘆した。どこもかしこも生命を豊かにはらみ、新しい形態を産み落とそうとしていたのである。


■紀元前8000年頃

 現代のパレスチナ、ヨルダン川流域にあったエリコには石造りのモニュメントを伴う大規模集落跡があった。ただ定住という概念自体、広く根付いたのはこれから5000年後。すでに長期の外洋航海や難しい航海が世界中の至る所で行われていた。

■紀元前7200年頃

最初の古代地球大戦争-終戦協定の行方---------------------------------------------------------------

 マルドゥクの息子同士の戦い(エジプト神話の真相)である。このころ3600年の周期でやってくるニビルが地球へやってきた。
 大洪水後の最初のシャルの間、ニンフルサグは何とか皆を仲裁していた。ニビルへの金の供給は、野心と権力争いに影響を及ぼしたのである。地球はゆっくりと生命が戻り、増えていった。ところが、平和的な休戦は、マルドゥクとニヌルタでもなく、エンキとエンリル一族でもなく、イギギによって損なわれた。マルドゥクとサルパニト、そして息子たちがラーム(火星)で大洪水を回避していた時、2人の息子アサル(オシリス)とサツ(セト)が、イギギの指導者シャムガズの2人の娘に好意を寄せ、姉妹を娶(めと)り、地球に戻った。アサル(オシリス)の配偶者はアスタ(イシス)、サツ(セト)の配偶者はネバト(ネフティス)であった。
 アサル(オシリス)はマルドゥクと共にアフリカに住むことを選んだ。サツ(セト)はイギギが住む“着陸場所”の近くに、シャムガズと共に自分の家を構えた。かつてのラームの指導者シャムガズは、地球での領地について気にかけていた。イギギはどこの支配者になるのだ、アサル(オシリス)だけが肥沃な土地を継承するのではないか、と。彼は他のイギギを扇動し、そのことをネバトとサツ(セト)に毎日話した。継承権をサツ(セト)に握らせる方法を、彼とネバトは企んだ。

 ある日、彼らは祝宴を催し、イギギとアヌンナキを招待した。ネバトは着飾り、食事を用意し、アサル(オシリス)のために歌を歌った。サツ(セト)は焼いた肉を切り分けた。シャムガズはワインを勧めた。その後、アサル(オシリス)は酔いつぶれ、奥の部屋に運ばれた。そして、棺の中に入れられて密封され、その棺は海に投げ込まれた。その知らせがアスタ(イシス)に届くと、彼女はマルドゥクに泣き叫んで訴えた。「アサル(オシリス)は残忍に殺されました!棺をすぐに見つけなければなりません!」


 棺はアフリカの海岸の側で発見された。中には硬直したアサル(オシリス)が横たわり、生命の息吹が消えていた。マルドゥクは自分の服を引きちぎり、額に灰をつけた。特に、サルパニトの嘆きは大きかった。エンキは打ちひしがれ、涙を流した。「カ・インの呪いが繰り返されてしまった!」アスタ(イシス)は復讐と世継ぎをマルドゥクに訴えた。
「サツ(セト)は死ななければなりません!あなたの種子で、私に継承者を生ませてください!」しかし、エンキが制した。
「それはならぬ!兄弟が殺されたら、兄弟の兄弟が番人となるのだ。故に、サツ(セト)の命は救われ、お前は彼の種子によってアサル(オシリス)の世継ぎを生まなければならない!」
 彼女はひどく取り乱し、規則を無視することとした。アサル(オシリス)の遺体が包まれて、聖堂の墓に埋葬される前に、アスタ(イシス)は彼のペニスから精子を抽出した。そして、自分を妊娠させ、アサル(オシリス)の世継ぎを産んだ。
 サツ(セト)はエンキらの前で宣言した。「私はマルドゥクの唯一の後継者だ。私は“2つの峡谷の地”の主人となるのだ!」しかし、アスタ(イシス)が異議を申し立てた。「私には、アサル(オシリス)の世継ぎがいます!」
 サツ(セト)はこれに狼狽(ろうばい)したが、シャムガズは野望を捨てなかった。サツ(セト)の報復を避けるため、彼女は川のパピルスの茂みに子供と身を隠した。彼女はその子をホロン(ホルス)と名付けた。

 ホロンは大叔父ギビルに引き取られ、復讐のために必要なことを指導された。ギビルは彼に、鷹のように飛べる、舞い上がるサンダルを作った。ギビルは神々しい銛(もり)を作り、その矢は稲妻のようだった。ギビルは金属の技術と鍛冶を教えた。鉄と呼ばれる金属の秘密を、ギビルは教えた。ホロンはそれらで武器を作り、忠実な地球人の軍隊を招集した。
 サツ(セト)とイギギに挑むため、彼らは北に向かって進軍した。ティルムンの国境地方、“ミサイルの土地”に達すると、サツ(セト)がホロンに挑戦状を叩きつけた。軋轢(あつれき)は2人だけの問題なので、1対1での戦いとなった。

 ティルムン上空で、サツ(セト)は“つむじ風”で待ち受けた。ホロンが舞い上がってくると、サツ(セト)は毒を塗った短い矢を撃ち、ホロンはサソリに刺されたように倒れた。アスタ(イシス)が助けの叫び声を天に放つと、ニンギシュジッダ(トト)が“空の船”から降りて来た。魔法の力で、彼は毒を善の血に変えた。
 朝にはホロンは回復し、ヒレと燃える尾を持った天の魚のような“猛火(もうか)の柱”を、ニンギシュジッダ(トト)は授けた。その両目は青、赤、青と色を変えた。(追跡ミサイルか?)勝ち誇ったサツ(セト)に向かって、ホロンは“猛火の柱”を撃ちこみ、更に銛(もり)でサツ(セト)を打ち倒した。サツ(セト)は地面に激突し、ホロンによってロープで縛り上げられた。

 ホロンがサツ(セト)を議会の前に連れて来た時、サツ(セト)は失明し、睾丸(こうがん)が潰れていた。「サツ(セト)は失明し、もはや跡取りもできない。生かしておきましょう」とアスタ(イシス)は言った。そして、イギギの中で人として生涯を終えるよう、決定された。
 マルドゥクは自分の住居でその決定を聞いて喜んだが、起こったことについては悲しんだ。息子を2人とも失い、サルパニトと共に慰めあった。やがて、もう1人の息子が生まれた。2人はナブ、“預言を運ぶ者”と名付けた。

 サタンの根源はイギギである。またこの時代から鉄があった。
 エジプト神話ではオシリスの男根が見つからず、オクシリンコスという魚が飲み込んだことになっているが、それにはニビルのアラルとアヌの戦いの話が引用されていて、とても混乱している。

 アサル(オシリス)が殺害された時、マルドゥクが自分の服を引きちぎって額に灰をつけたのが、聖書における“衣を裂き、粗布(そふ)を纏(まと)い、頭から灰を被って祈った(悔い改めた)”ことの原型である。そして、アスタ(イシス)が川のパピルスの茂みにホロン(ホルス)を隠したことは、モーゼ誕生場面の原型でもあり、アダパとティティを、パピルスの茂みの中で葦の籠に入っていたことにさせたエンキの話が重なる。このように、1つの事象に対していくつもの象徴が重ねられていることは、カバラの本質でもある。


ナスカの新たなる“天と地球を結ぶ”施設----------------------------------------------------------------

 ホロンとサトゥがティルムン上空で闘った戦闘の後、エンリルが3人の息子を会議に呼んだ。彼は最近の出来事を心配し次のように言った
「最初我々は地球人を我々の形と姿に似せて創造した。今ではアヌンナキの子孫は地球人の形と姿に似るようになってしまった!それからカ・インが弟を殺した。今ではマルドゥクの息子がその兄弟の殺人者になっている!初めてアヌンナキの子孫が地球人の間に軍隊を起こした。アヌンナキの秘密である金属の兵器を彼は彼らの手に渡した!アラルとアンズにより我々の正当性が挑戦を受けた頃から、イギギによる混乱と規則破りが続いた。今ではマルドゥクの領土に信号灯の頂があり、着陸場はイギギにより占められている。今イギギは戦車場の辺りへ進出している。サトゥの名前で天と地の全ての設備を彼らは主張するようになるだろう。」
 対抗策を講じるように彼は提案した。
「天と地の設備をもう一つ我々は建設しなければならない、それは大洋の向こうの南米のニヌルタ(アラム・ムル)の地、信頼できる地球人の中に置かれるべきである。」
 このようにして秘密の使命がニヌルタ(アラム・ムル)の手に委ねられた。大洋の向こうの山間の地、大きい湖のそばに、新しい「天地の絆」が設立され、囲いの中にそれは置かれた。金塊が散らばっている山の麓(ふもと)、頑丈な基盤の平地を彼は選び、その上に上昇と下降の印を彼はつけた。
「設備は原始的ですが、目的は遂行できます」
 そうニヌルタは父エンリルに予定通り報告した。
「ニビルへの金の輸送をそこから継続できますし、必要なら我々もそこから出発できます。」

 こうして、ナスカ平原に“天と地球を結ぶ”施設が造られた。ナスカの地上絵は、空から見たときの目印となる絵であった。また長い直線の絵は、宇宙船の滑走路である。

 ペルーのイカ市の博物館には、後頭部が異常に大きい頭蓋骨が展示されている。イカ市はナスカの地上絵の近くで、この頭蓋骨が発見された。これは人間のものではなく、アヌンナキもしくは彼らとの半神半人の頭蓋骨である。
 エジプトのメンフィスの墓の壁画には、後頭部が大きい巨人の絵が描かれている。エジプトを支配していたのもアヌンナキであり、彼らは巨人だった。後頭部が大きい頭蓋骨は、アヌンナキもしくは彼らとの半神半人のものである。





 アヌンナキが作った世界中で見られる渦巻き模様----------------------------------------------------

 ナスカの地上絵には渦(スパイラル)の模様がいくつか見られる。例えばサルのシッポ部分の渦は黄金比になっている。黄金比とは銀河や台風、植物、人間など、宇宙を構成するあらゆる部分に見られる比率である。




 渦の模様は世界の各地で見られ、南アフリカのカラハリ砂漠のフェールヌークパンにも黄金比の渦の地上絵が描かれている。Google Map(-30° 0′ 21.64″, +21° 6′ 21.69)




 オーストラリアのアリススプリングにも渦の地上絵が見られる。Google Map(-23° 49' 17.71", +133° 49' 58.83")


 また、世界中の岩石や洞窟に描かれたペトログリフにも渦の模様が見られ、多くが黄金比となっている。下記のペトログリフの年代は不明だが、一般的にペトログリフは紀元前1万年くらいのものとされている。(画像はrabbithole2.comより)










 オーストリア人の遺物調査人クラウス・ドナ氏が南米ボリビアのプマ・プンクで発見したお面やフルートにも、黄金比の渦が描かれている。このお面は身長が2.6mの巨人のものとなっていて、ちょうどアヌンナキかその半神半人と同じサイズのものである。




 渦の模様は後の時代にも引き継がれ、地中海のゴゾ島の巨石の渦模様も黄金比であり、ギリシャの南東沖のエーゲ海の出土品の渦模様も黄金比、メキシコのマヤ文明の出土品の蛇のナイフの渦模様も黄金比である。同じくマヤ文明のチチェン・イッツァの蛇の口元に渦の彫刻が施され、ニュージーランドのマオリの刺青にも渦模様が見られる。





 日本の縄文土器や縄文土偶でも、黄金比の渦が見られる。縄文土偶はアヌンナキのイナンナを表している。






 沖縄県立博物館・美術館にある沖縄県の北谷町(ちゃたんちょう)より出土の石板にも、黄金比が無数に描かれている。沖縄では明治の中頃まで若い女性が、ハジチと呼ばれる絵文字の入れ墨をする習慣があったが、その入れ墨と出土した石板の絵文字が同じだった。つまりハジチの入れ墨の文化もアヌンナキ由来である。


 現代においてはアヌンナキを悪魔崇拝したイルミナティ関係の企業にも渦巻きのデザインが見られ、黄金比をとりいれていることがある。例えば1ドル札の目の部分の渦巻きなどである。
 黄金比の渦巻き模様は素粒子の周波数1.6180の比率から来るもので、それは宇宙の誕生からある数値で、それを知っていたアヌンナキが地球上でもデザインに使用し、イナンナのシンボルとしても使用する。やがて各民族の伝統文化の中に渦巻きの模様が見られる様になり、それが現代社会ではイルミナティに関係する企業などに使用されている。


  
アンデス文明の始まり-------------------------------------------------------------------------------------

 この頃、人々はどこから来て、だれだったのかを忘れ始めた時期でもあった。しかし、平和な時代が続いたため、「偉大なるアヌンナキ評議会」において、人類に新たな技術を供与することが決定された。これにより、人類の新石器時代が開始した。人類は村を形成して生活するようになり、また土器や高度な石器を製作するようになった。そんな中、南米のペルーを中心とする太平洋沿岸地帯およびペルーからボリビアへつながるアンデス中央高地に、アマゾン帝国の叡智を受け継いだアンデス文明が始まり、後のインカ文明の祖先となる。

■紀元前6087年頃

 ノアの大洪水で沈まなかったインドに、第二のサンガムがパーンディヤ朝の王によって築かれる。