6章 縄文文明と環太平洋文明 : 地球人のルーツ

■紀元前1万400年頃
 
東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)という文献について---------------------------------------

 ここからは東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)という文献からの話が多くなっている。これは古史古伝の一つで、古代における日本の東北地方の知られざる歴史が書かれている。この文献の始めには、ケモト、女はタキという若い2人が凍り付いているはるか彼方の地より数千キロメートルの陸路をたどり、東日流(つがる)にたどり着いた、とあり、アヌンナキのアフリカから追放されたカ・インとアワンの出来事と年代に共通点が見られる。また古代日本の大和王権以外にも関東に王国があったことが古墳数の多さなどから主張されているが、それと合致する内容でもある。一般的には偽書(ぎしょ)とされている文献だが、事実を知られたくない勢力が広めたレッテルとも考えられる。様々な共通点から、東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)は事実が多分に含まれた可能性が高い文献として取り入れている。


津保化族(つぼけぞく)-------------------------------------------------------------------------------------

 阿曽辺族(あそべぞく)が東日流(つがる)に渡来して住み着いてから数万年が過ぎ、津保化族(つぼけぞく)という種族が東の南米より太平洋を渡って来た。この一族が渡来して来た時代は、地球の温暖化によって海面が上昇、日本列島の大部分が大陸から分離していた。

 津保化族(つぼけぞく) が渡って来たのには理由があった。それは一族の間で、祖先が西方に渡って住み着いた国があるとの言い伝えが残っており、それがもとだった。
 ある時、その国を見届けようとする者が現れ、一族に呼びかけたところ、数十人の者がそれに応じた。その集団は島のような大きな筏(いかだ)を組み、馬も二十三頭積み、氷の張った海へ旅に出た。そして海に漂うこと85日が経過したが、全員が飢えることなく、また死者も出ず、無事漂着したところが東日流(つがる)のヌカンヌップ、またの名を都母(つぼ、青森県上北郡方面)というところで、その地名からとって津保化族(つぼけぞく)と呼ばれるようになった。

 津保化族(つぼけぞく)の先祖は、氷の溶けなくなった国より移って来た阿曽辺族(あそべぞく)と同族であるが、阿曽辺族(あそべぞく)と違うところは、郷土へ帰ることを最終目的として探検の旅に出、その途中で立ち寄ったことだった。
 ところが東日流(つがる)へ立ち寄ってみると、山には獲物の幸が、海には魚貝の幸が無尽蔵にあるのをみて、郷土に帰ることをあきらめて、この地に定住することを決めたのだった。
 一族は渡り族といって居住に定まりがなく、人数が揃うと日高見国羽前(ひたかみのくにうぜん:宮城県)へ住み着き、狩猟をし、一族の人数が増えると居住する場所を移し、奥州(おうしゅう:岩手県の内陸南部)のいたるところへ行って、先住民の領地へ居住し、目的を達するとまた別の地へ移動するという習性があった。

 この移動についていけない者、主に老人はその地に残され、若者だけが新天地を求めて移って行った。その地に残された者は、そこで死に至るのを待たなければならないという親族無情の習性があった。
 しかし、世が移るにつれて渡り者は、幸が豊富な無人地をみつけると迎えに来る心情に変わっていった。
 この一族は何故か、どんなに飢えることがあっても馬だけは殺さなかった。それは一族の掟で、馬は狩や戦いに使う神としてあがめていたからだった。そして津保化族(つぼけぞく)は、祖国の平野を駆ける血筋の馬と犬は、男女のまぐわいの神の使者であるとし、大切に飼うのが当然のことと思っていた。後の東日流(つがる)に野生の馬が駆けていたのは、この一族の名残りである。

 もともと津保化族(つぼけぞく)は戦闘的な性格だった。東日流(つがる)に移住して来た時、狩猟して移動せず、おとなしい暮らしを続ける阿曽辺族(あそべぞく)の性格は知っていたが、戦を仕掛けなかったのは、一族の勢力が戦のできる域まで達していなかったからだった。しかし年月を経るとともに、津保化族(つぼけぞく)の人数は確実に増えていった。

 ある時、阿曽辺族(あそべぞく)が西浜に大勢の支那国人が漂着して居住しようとしているのを見ても、防御の戦を仕掛けることもなく、自らその領域を護るための争いをしない一族と知るや、津保化族(つぼけぞく)は、諸々に散らばっている同族に、阿曽辺族を襲うことを通達して数を集め、一挙に領地へ侵入し、集落に火をかけ、女を犯し、老人を殺して獲物を奪った。

 阿曽辺族(あそべぞく)は突然のことであり、応戦する備えもなく、津保化族(つぼけぞく)のなすがままとなり、東日流(つがる)は津保化族(つぼけぞく)によって占領されてしまった。
 阿曽辺族(あそべぞく)の生き残った者はいたし方なく青森県の阿闍羅山(あじゃらやま)に脱した。
 領地を奪った津保化族(つぼけぞく)は、東日流(つがる)全域に館を築いて居住し、阿曽辺族(あそべぞく)と領界を定めたが、その領域争奪の争いは続き、一族間で流血の絶えることがなかった。
 阿闍羅山(あじゃらやま)に脱した阿曽辺族(あそべぞく)だったが、津保化族(つぼけぞく)の権力化におさえられ、長い間、その使奴(つかいやっこ)となる時代が続く。

 しかし阿曽辺族(あそべぞく)としても、いつまでも黙しているわけにはいかなかった。阿曽辺族(あそべぞく)系の中に加無礼という族長がいたが、彼が阿闍羅山(あじゃらやま)に逃れていた一族を結集して挙兵、自分達の土地の奪回に津保化族(つぼけぞく)の集落に攻め入った。
 もとより飢えれば野生の馬でも狩るという一族だったので、この作戦は成功した。そしてひそかに迫って射る矢には毒が塗られており、津保化族(つぼけぞく)の中にはこの矢に当たって死亡する者が増え、また飢えにも窮するようになった。
 さすがの津保化族(つぼけぞく)もこれにおじけづき、しばらくの間応戦を避けたが、いつまでもこの状態を放置するわけにはいかず、津保化族(つぼけぞく)の中の阿佐津貴という族長が一族を結集し、阿曽辺族(あそべぞく)と交戦したが敗れた。敗れた原因は、あてにしていた中山からの援軍が来なかったからだった。こうして阿闍羅山(あじゃらやま)一帯の領土は阿曽辺族(あそべぞく)のもとに戻った。

 敗れた津保化族(つぼけぞく)の長・阿佐津貴は軍策を練り、再び一族を総挙して阿曽辺族(あそべぞく)の陣を遠巻きにして風向きをはかり、山に火を放つと、火は折からの風によって阿曽辺族(あそべぞく)の陣に燃え移った。阿曽辺族(あそべぞく)は風上に向かって逃れようとしたが、そこには津保化族(つぼけぞく)が待ち構えていてこれを討った。ここで阿曽辺族(あそべぞく)の半数が殉じた。

 生き残った阿曽辺族(あそべぞく)は、一族の酋長(しゅうちょう)の居住地の阿曽辺盛(あそべのもり:岩木山=いわきさん)に引き揚げた。阿曽辺族(あそべぞく)は山で生活し、津保化族(つぼけぞく)は海辺で生活していたが、この両族は常に暮らしの財を求めたので交流することなく、互いに領域を侵しての争いを続けた。

東日流外三郡誌

環太平洋文明の中心地は日本だった---------------------------------------------------------------------

 環太平洋文明圏の中心地は中南米でも良かったが、そこでは飲料水の確保が難しい。神々はそれまでに、地球の様々な気候変動を見てきた。それからすると、いずれ中南米では飲料水に困ることになると予見された。それ故、飲料水が豊富で気候も良く、将来的に人類が目覚めるまで隔離しておける場所として、日本が最適だった。
 更に、日本には金鉱脈も豊富だった。よって、“その時”が来るまでの封印の地として、日本が選ばれた。地震や台風の影響はあるとしても。つまり、レムリア文明の真相は、日本が中心となった環太平洋縄文文明圏のことである。
 アバエルは牧畜、カ・インは農耕を教えられたので、この文明圏では農耕が基本となった。よって、日本では農耕儀礼が神事の中心となった。かつて、日本の縄文時代は狩猟ばかりのように思われていたが、20世紀後半からの発掘調査で、かなり早い時期から農耕が行われていたことが証明された。

 大洪水によって、人々の生活は原始的なものへと戻った。その中で縄文土器の出現や竪穴式住居の普及、貝塚などが生まれた。北海道と沖縄では縄文人の系統が比較的純粋な形で残り、アイヌと沖縄の人々になった。。


縄文時代の円形の生活空間--------------------------------------------------------------------------------

 日本列島では、非常に直感的なセンスを持った人々によって、現代人の想像をはるかに上回る、整然とした自然界との調和文明が完成されていた。彼らは宇宙の本質を直感によって把握しており、それを数百人規模の小都市がそれぞれ正円形になるような配置によって表し、それが集まった全体の配置も正円形になる完全な計画都市文明を開花させていた。それは、彼らがMUと呼んだ偉大なる大自然の母なる力を受容するために必要な構造であった。
 彼らの住居そのものも円形を基本に設計されており、その中央には、冬至の朝に東門の方から光が差し込むように聖なる中心が配置されていた。こうした円形構造の全体が、人間の本質である霊に影響力を持つことを彼らは知っていたからである。後の時代の縄文遺跡が円形であるのも、この高度な計画都市文明のあり方を踏襲(とうしゅう)していたからである。現代の日本人の大黒柱の神聖概念は、そのわずかな痕跡である。
 日本の縄文遺跡は村全体が円形に配置されており、その中央に祭りの場があったことが研究者の指摘でわかっている。それは整然とした美しい配置であり、一つずつの家がちょうどみんなで手を取り合って円を作った時のように、全体も円形で配置されていた。そして質素な家の一つひとつも、すべて円形で美しく形作られていた。家も村も計画的に円形に作られているのは明らかであった。人々が集まる時も、円形に集まるビジョンが見え、同時にその周囲に漂う空気が現代の町とはまったく違う、やわらかで優しい気に満ちていた。

 現代人は初歩段階として、人々が円形に集まるとき、現代人のように直線状に対面する時とは違う、それとは異なった意識が形成されることを認識する必要がある。まだ理解されていないが、人間の潜在意識は他のどんなことよりも、空間によって決定されるのである。空間とは自分達の意識の母体である。すべての意識というものは、空間から生み出される。現代人は物を中心に物を作るが、太古の祖先は、空間に合わせて物を作り、村を作った。人間という存在の偉大な点は、その空間を変容させる力を持つことにある。空間の把握は意識の把握であり、空間を把握するものは意識をも把握する。

 空間と自分との関係をわかりやすく、意識レベルで説明する。人々が向かい合い、直線的な関係にある時、相手と自分という相対的な意識が形成されやすい。それは潜在意識に二元的認識構造を植えつけることになる。だが、人々が円的空間を形作る時、相対意識よりも人間の本質的な共鳴性をより増幅させやすくなる。人々が円形に集まり、すべての人が円形の中央に体を向けるとき、隣に座る人々はみな、同一の対象へと向かう共感する人として意識される。
 こうした形でのレベルが自分達に与える潜在意識への影響は、言葉による意識の形成よりもはるかに深く、潜在意識の根本の領域を形作るものである。なぜならそれは、人間の心の世界は宇宙と同質の構造を持ち、それによって成り立っているからである。
 現代人は、平面に描かれた図形などに神秘的な働きを求めたりしているが、空間の持つ力は、それとは桁違いに根本的なものであることを知る必要がある。人間の祖先たちはそれを実際の生活に用いていた。空間と一つになると、人々の魂も一つに結ばれ、その集合した霊の焦点はその中央で一つになる。その共感された意識を持ちながら人々は調和のあるつながりを実現し、深い魂の結びつきを実現させた。
 若者たちは、隣に並ぶ長老たちの所作から無意識のうちにすべてを学んだ。これらは教えることなく共感的に伝えられ、自分の隣に自分と同じように並ぶ何人もの人々を、彼らは自分とつながる連続する仲間として意識していた。人間の祖先のこの円形空間の場は、極めて高度な共感意識による社会を生み出すために、不可欠な基本的条件であった。
 ほんの1ミリの角度のずれが、1キロ先では何十メートルものずれをもたらすように、それが直線状か円形状かの違いが生み出すものは、現代人にはわずかな違いにしか思えなくても、人類文化の決定的な違いをもたらすことを、人間ははるかな太古に認識したのである。その違いは宇宙の陰陽性を象徴するもので、すべては場、つまり空間によって決まる。この叡智のルーツは、前文明における人間の祖先の叡智にある。

 この理解が進むほど、現代の社会はそれとは正反対の直線的な構造の社会であることがわかる。現代人は、直線意識のエネルギーの持つ象徴文化の中で育ち、生活している。そのために宇宙領域とは同調しにくいバリアー(壁、障害物)のような性質が、人々の中に形作られてしまっている。子供たちは学校で大半の時間、みんな同一方向に向いて座り、先生と対面して育つ。すべては直線ライン上に意識が向かい合っている。それは子供たちの育ち方だけではなく、大人になってからも同じである。劇場の公演でも、演技者と観客は直線的関係であるし、オフィスでもやはり机は対面する形で並べられ、一つのライン上で向かい合っている。住居の中もほとんどが直線的に作られており、街の構造も直線である。
 
 この直線空間か、円形空間かの決定的違いは、意識的、無意識的にかかわらず、中心を共有する意識を持てるかどうかである。すべてに中心が存在するこの宇宙の構造と同じ意識を、一人ずつが育てることができるかどうかにある。

「ガイアの法則 Ⅱ」/ 千賀一生 ヒカルランド

北枕と宇宙の情報について--------------------------------------------------------------------------------

 寝るときに頭を北に向けると地球の磁力線と同じ方向になるので、縄文人は北枕が常識だった。気が多くあるから気多、すなわち北である。古代の日本人は、地球そのものが巨大な磁石であり、北枕で寝ると地球の磁力線によって乱れを正常に戻せることを知っていた。
 日本では北枕は死人の寝かせ方だとして不吉とするが、じつは釈迦(しゃか)が入滅した際の頭北面西(ずほくめんさい)をまねたもので、健康的な寝方である。日本には伝統的に北方を避ける習慣があり、北には寒冷・暗黒・冬・夜・死者などのイメージがつきまとう。同時に静寂の意味もあり、寝殿造の北の対屋には貴人の妻が住んだので、北の方・北の台・北の政所といった呼び名が生まれた。
 方位磁石は、人間が「北」と呼んでいる方角を指すが、なぜ北なのかというと、そのはるか先には、創造の湧き出す「泉」のようなものがあり、宇宙の情報は北からやってくる。頭を北の方角に向けて寝ると、夢を鮮明に覚えていられる。北枕にして寝ると、実は頭が冴えてスッキリし、多次元の情報に簡単にアクセスできる。夢の調査をするにあたっては、頭を北に向けて寝ることは非常に大切なことで、もし北枕で寝ることを禁止されたら、「夢の調査員」としてはまったく機能しなくなるほど重要なことなのである。それほどに、宇宙の情報がやってくる北に頭を向けることは重要なことなのである。「地球という惑星は、磁気を帯びた大きな磁石のようなもので、そこに存在するすべてのものは地球と同じように磁気化されている。それは人類も例外ではない。そのために南北のラインに沿って身体を横たえることで、地球の磁気の流れに逆らうことなく循環できるのである。


縄文土器の違いに見るアヌンナキと日本の関係-------------------------------------------------------

 縄文時代は紀元前13000年頃から紀元前800年頃まで続くが、大きく分けて2つの時代が存在する。それはアヌンナキが日本で都市を築き始める紀元前4000年頃の縄文前期後半が境目となる。そこからは一般的に知られている縄文土偶や火焔(かえん)土器が見られるようになり、これらには黄金比の渦模様や複雑で細かなデザインが見られ始める。それまでの縄文土器はデザイン性も技術レベルも人間が作ったというレベルのもので、つまり縄文土器のレベル差にアヌンナキが日本に関係し始める時期の境を見ることができる。縄文時代の時期区分は次のようになっている。

草創期(紀元前1万3000〜前1万年)、
早期(紀元前1万年〜前5000年)
前期(紀元前5000〜前3500年) 前期後半からアヌンナキが日本で都市を作り始める。
中期(紀元前3500〜前2500年)
後期(紀元前2500〜前1300年)
晩期(紀元前1300〜前800年)

アヌンナキの縄文土偶や火焔(かえん)土器は、紀元前3000年頃から多く見られ始める。
紀元前3500年頃 火焔土器
紀元前3000年頃 十字形土偶(青森県)
紀元前3000年頃 縄文のビーナス(長野県)
紀元前3000年頃 立像土偶(山形県)
紀元前2000年頃 中空土偶(北海道)
紀元前2000年頃 合掌土偶(青森県)
紀元前2000年頃 仮面の女神(長野県)
紀元前2000年頃 ハート形土偶(群馬県)
紀元前1000年頃 遮光器土偶(青森県)

 次の画像は縄文時代早期(紀元前1万年〜前5000年)の縄文土器。人間の手作業の技術レベル。

 次は縄文時代前期(紀元前5000〜前3500年)の縄文土器。まだ人間の手作業レベルという感じだが、前期の土器の一部からは渦模様なども見られ始めるので、アヌンナキが関係し始めるのが前期後半からと推測される。

 次は縄文時代中期(紀元前3500年〜前2500年)の縄文土器。 渦模様が見られ始め、中には黄金比の渦模様もあり、縄文人ではなくアヌンナキが作った土器という結論。渦はイナンナのシンボルで、世界中の古代の出土品に見られる模様。つまり縄文人が急に思いついてデザインしたのではない。


■紀元前1万年頃

世界に散った神官達----------------------------------------------------------------------------------------


 ノアの箱船にいた神官兼守護者は半地球人、半宇宙人の半神半人(ハイブリッド)で、ニンギシュジッダによって訓練されていた。彼らは人類と宇宙を忘れないための役割を担っていた。彼ら神官には、「カバラ」と呼ばれる自然哲学の知識を託した。カバラは自然に属するもろもろの対象を取り扱い、その法則性を明らかにした自然科学が体系化されたものであり、それが後に様々な哲学や宗教、日本では陰陽道などとして様々に解釈されていく。
 カバラでは世界の創造を、神エイン・ソフからの10段階にわたる聖性の流出の過程と考え、その聖性の最終的な形がこの物質世界であると解釈している。この過程は10個の「球」と22本の「小径」から構成される生命の樹(セフィロト)と呼ばれる象徴図で示され、各部分に神の属性が反映されている。したがってカバラは一神教でありながら、多神教や汎神論(はんしんろん)に近い世界観を持つ。別の解釈ではこの世界を一冊の書物とみなす。すべてが書き込まれているこの書を解読することは、この世界のすべてを理解することであるとされている。また生命の樹とはエデンの中央に生えている木の事で、命の木とも訳され、生命の樹の実を食べると、神に等しき永遠の命を得るとされる。

 多くの神官はとても長生きだった。しかし、やがて時とともに神官達も、宇宙との繋がりを忘れていくことになる。その結果、人間はさらに宇宙と離れていく。神官は世界中にいて、子供を作っていた。後の世界中の王族や神官の家系の系譜は、この時の神官や守護者の系譜から来ている。
 そのあと何百年も過ぎ去り、人類とアヌンナキの物語は神話へと変化していく。それはヒンドゥー教、シュメールの神話、ギリシャや日本の神話など、世界中の神話としてであり、それらの物語には多くの共通点がある。これらの内容は、実際に起きた出来事を元にしている。しかし、時間とともに彼らの知識は歪んでいき、内容は一部操作され、本来の出来事とは異なっていることも多くなっていく。やがてそれが宗教となり、支配的なものとなった。そうすると地球人にとっての神の概念も混乱していった。そして今では地球人はどこから来たのかわからなくなり、偶像崇拝も強まり、どの宗教の神が正しいのかということのために戦争が起こっている。

etc. 

イスラエルのシャーマンの墓-----------------------------------------------------------------------------

 現在の最古とされる紀元前1万年頃のシャーマンの墓が、イスラエル北部の地中海沿岸から14キロほど内陸に位置するヒラゾン・タクティット洞窟に残される。シャーマンとは神を祀り、神に仕え、神意を世俗の人々に伝えることを役割とする人々。この女性は身長150センチで45歳ほどであり、ナトゥフ文化に属する高齢の女性が、動物の部位や人間の足とともに埋葬されていた。

アヌンナキとシャーマン-----------------------------------------------------------------------------------

 アヌンナキはシャーマンに湿地や沼で両生類、昆虫、爬虫類、鳥たちとともに太鼓を叩いたり、ガラガラ音をたてて、銀河の音を聴く方法を教えていった。この新しい教えは、シャーマンにとって非常に難題であった。なぜならこれは、さまざまな星とつながる作業であり、人間はみな、プレアデス以外にも地球に影響を及ぼしている恒星があることを認識させられたからである。


トルコのギョベクリ・テペとアヌンナキの共通点----------------------------------------------------

 トルコのギョベクリ・テペの遺跡は、紀元前1万年から紀元前8000年の期間に建てられた。ここにもアヌンナキの共通点を見ることができる。

 ギョベクリ・テペの遺跡には、巨大な丁字型(ていじがた)の石柱がいくつも円を描くように並べられている。石柱の総数は200本以上、それらの描き出す円が20確認されている。石柱によっては6メートル以上、重さは20トン。それらが基盤岩に開けられた穴にはめ込まれている。


 この遺跡から見つかった像は、イースター島のモアイ像と手の形と置き場所が似ている。後述しているが、イースター島には多角形の石積みがあり、モアイ像の胸の部分にも黄金比の渦模様があり、共に巨石であることからアヌンナキが作ったという結論。つまりギョベクリ・テペのこの像も、アヌンナキが作ったと推察できる。


 その像の耳は、黄金比の曲線を描いている。耳に黄金比がある共通点は、エジプトのスフィンクスにも見られる。


 また、ギョベクリ・テペの別の像は胸を触るポーズをしている。これは世界中から出土しているイナンナ像と同じポーズとなっている。ただ少し違う部分は、下腹部に別の手があることと、太もも辺りに子供がいること。

 ギョベクリ・テペからは生殖器崇拝の像も出土しており、これもアヌンナキが関係する文明に見られる共通点。悪魔崇拝や、古代エジプト、古代ギリシア、古代ローマのファルス(男根)崇拝、インドやネパールなどに見られるリンガとヨーニなど。


■紀元前7500年頃

南米の洞窟に住む人々-------------------------------------------------------------------------------------

 南米では洞窟の開口部や岩陰を利用して生活をする人々が現れ、ペルーのトケパラ洞窟やアルゼンチンのラス・マノス洞窟には洞窟壁画が描かれている。

 
■紀元前7200年頃

最初の古代地球大戦争と終戦協定の行方---------------------------------------------------------------

 マルドゥクの息子同士の戦い(エジプト神話の真相)である。このころ3600年の周期でやってくるニビルが地球へやってきた。
 大洪水後の最初のシャルの間、ニンフルサグは何とか皆を仲裁していた。ニビルへの金の供給は、野心と権力争いに影響を及ぼしたのである。地球はゆっくりと生命が戻り、増えていった。ところが、平和的な休戦は、マルドゥクとニヌルタでもなく、エンキとエンリル一族でもなく、イギギによって損なわれた。マルドゥクとサルパニト、そして息子たちが火星(ラーム)で大洪水を回避していた時、2人の息子アサル(オシリス)とサツ(セト)が、イギギの指導者シャムガズの2人の娘に好意を寄せ、姉妹を娶(めと)り、地球に戻った。アサル(オシリス)の配偶者はアスタ(イシス)、サツ(セト)の配偶者はネバト(ネフティス)であった。
 アサル(オシリス)はマルドゥクと共にアフリカに住むことを選んだ。サツ(セト)はイギギが住む“着陸場所”の近くに、シャムガズと共に自分の家を構えた。かつての火星(ラーム)の指導者シャムガズは、地球での領地について気にかけていた。イギギはどこの支配者になるのだ、アサル(オシリス)だけが肥沃な土地を継承するのではないか、と。彼は他のイギギを扇動し、そのことをネバト(ネフティス)とサツ(セト)に毎日話した。継承権をサツ(セト)に握らせる方法を、彼とネバト(ネフティス)は企んだ。


 ある日、彼らは祝宴を催し、イギギとアヌンナキを招待した。ネバト(ネフティス)は着飾り、食事を用意し、アサル(オシリス)のために歌を歌った。サツ(セト)は焼いた肉を切り分けた。シャムガズはワインを勧めた。その後、アサル(オシリス)は酔いつぶれ、奥の部屋に運ばれた。そして、棺の中に入れられて密封され、その棺は海に投げ込まれた。その知らせがアスタ(イシス)に届くと、彼女はマルドゥクに泣き叫んで訴えた。「アサル(オシリス)は残忍に殺されました!棺をすぐに見つけなければなりません!」


 棺はアフリカの海岸の側で発見された。中には硬直したアサル(オシリス)が横たわり、生命の息吹が消えていた。マルドゥクは自分の服を引きちぎり、額に灰をつけた。特に、サルパニトの嘆きは大きかった。エンキは打ちひしがれ、涙を流した。「カ・インの呪いが繰り返されてしまった!」アスタ(イシス)は復讐と世継ぎをマルドゥクに訴えた。
「サツ(セト)は死ななければなりません!あなたの種子で、私に継承者を生ませてください!」しかし、エンキが制した。
「それはならぬ!兄弟が殺されたら、兄弟の兄弟が番人となるのだ。故に、サツ(セト)の命は救われ、お前は彼の種子によってアサル(オシリス)の世継ぎを生まなければならない!」
 彼女はひどく取り乱し、規則を無視することとした。アサル(オシリス)の遺体が包まれて、聖堂の墓に埋葬される前に、アスタ(イシス)は彼のペニスから精子を抽出した。そして、自分を妊娠させ、アサル(オシリス)の世継ぎを産んだ。
 サツ(セト)はエンキらの前で宣言した。「私はマルドゥクの唯一の後継者だ。私は“2つの峡谷の地”の主人となるのだ!」しかし、アスタ(イシス)が異議を申し立てた。「私には、アサル(オシリス)の世継ぎがいます!」
 サツ(セト)はこれに狼狽(ろうばい)したが、シャムガズは野望を捨てなかった。サツ(セト)の報復を避けるため、彼女は川のパピルスの茂みに子供と身を隠した。彼女はその子をホロン(ホルス)と名付けた。

 ホロン(ホルス)は大叔父ギビルに引き取られ、復讐のために必要なことを指導された。ギビルは彼に、鷹のように飛べる、舞い上がるサンダルを作った。ギビルは神々しい銛(もり)を作り、その矢は稲妻のようだった。ギビルは金属の技術と鍛冶を教えた。鉄と呼ばれる金属の秘密を、ギビルは教えた。ホロン(ホルス)はそれらで武器を作り、忠実な地球人の軍隊を招集した。
 サツ(セト)とイギギに挑むため、彼らは北に向かって進軍した。ティルムンの国境地方、“ミサイルの土地”に達すると、サツ(セト)がホロン(ホルス)に挑戦状を叩きつけた。軋轢(あつれき)は2人だけの問題なので、1対1での戦いとなった。

 ティルムン上空で、サツ(セト)は“つむじ風”で待ち受けた。ホロン(ホルス)が舞い上がってくると、サツ(セト)は毒を塗った短い矢を撃ち、ホロン(ホルス)はサソリに刺されたように倒れた。アスタ(イシス)が助けの叫び声を天に放つと、ニンギシュジッダ(トト)が“空の船”から降りて来た。魔法の力で、彼は毒を善の血に変えた。
 朝にはホロン(ホルス)は回復し、ヒレと燃える尾を持った天の魚のような“猛火(もうか)の柱”を、ニンギシュジッダ(トト)は授けた。その両目は青、赤、青と色を変えた(追跡ミサイル?)。勝ち誇ったサツ(セト)に向かって、ホロン(ホルス)は“猛火の柱”を撃ちこみ、更に銛(もり)でサツ(セト)を打ち倒した。サツ(セト)は地面に激突し、ホロン(ホルス)によってロープで縛り上げられた。

 ホロン(ホルス)がサツ(セト)を議会の前に連れて来た時、サツ(セト)は失明し、睾丸(こうがん)が潰れていた。「サツ(セト)は失明し、もはや跡取りもできない。生かしておきましょう」とアスタ(イシス)は言った。そして、イギギの中で人として生涯を終えるよう、決定された。
 マルドゥクは自分の住居でその決定を聞いて喜んだが、起こったことについては悲しんだ。息子を2人とも失い、サルパニトと共に慰めあった。やがて、もう1人の息子が生まれた。2人はナブ、“預言を運ぶ者”と名付けた。

 サタンの根源はイギギである。またこの時代から鉄があった。
 エジプト神話ではオシリスの男根が見つからず、オクシリンコスという魚が飲み込んだことになっているが、それにはニビルのアラルとアヌの戦いの話が引用されていて、とても混乱している。

 アサル(オシリス)が殺害された時、マルドゥクが自分の服を引きちぎって額に灰をつけたのが、聖書における“衣を裂き、粗布(そふ)を纏(まと)い、頭から灰を被って祈った(悔い改めた)”ことの原型である。そして、アスタ(イシス)が川のパピルスの茂みにホロン(ホルス)を隠したことは、モーゼ誕生場面の原型でもあり、アダパとティティを、パピルスの茂みの中で葦の籠に入っていたことにさせたエンキの話が重なる。このように、1つの事象に対していくつもの象徴が重ねられていることは、カバラの本質でもある。


ホルスの目とイルミナティ--------------------------------------------------------------------------------

 ホルスはエジプト神話に登場する天空と太陽の神。エジプトの神々の中で最も古く、最も偉大で、最も多様化した神の一つ。ホルス・ベフデティと呼ばれたホルスは、まだ太陽神ではなかった上下エジプト王のラーの元で戦い、セトに勝利した。ラーが各神殿に翼のある太陽円盤を置かせたことから、ホルス・ベフデティはその太陽円盤の姿で表現されることになり、さらに戦場のファラオの戦車の上を飛ぶ王権の殻竿(からざお)などをもつ隼(はやぶさ)としても表現された。そしてホルスとラーは同一視され、習合したラー・ホルアクティとなった。
 有名なシンボルである「ウジャトの目」とは、ホルスの目のこと。古代エジプトでは非常に古くから、太陽と月は、ハヤブサの姿あるいは頭部を持つ天空神ホルスの両目(ホルスの目)と考えられてきた。やがて二つの目は区別され、左目はウジャトの目で月の象徴、右目はラーの目で太陽の象徴とされた。

 古代エジプトのシンボル「ホルスの目」のペンダントには渦模様が装飾され、その曲線も黄金比となっている。ホルスはマルドゥクと地球人サルパニットとの間に生まれたハイブリッド(半神半人)。マルドゥクはイルミナティやフリーメイソンで悪魔崇拝され、ホルスの目も悪魔崇拝のシンボルの一つ。それは現代の服のデザインやミュージックビデオの中など、イルミナティやフリーメイソンに関係するものに見ることができる。

 また、片目を覆(おお)うポーズもホルスの目を意味しており、イルミナティに支配されているアメリカなどのエンターテイメント業界で働くアーティストの多くは、片目を覆うポーズで写真を撮っている。

 666は獣の数字を表す悪魔崇拝のシンボルだが、それはOKサインの手の形となる。その手を片目に重ねると、ホルスの目と666を意味するポーズとなる。こういったポーズを行うアーティストが全て悪い人物というわけではない。一度交わしてしまった悪魔との契約、一度得た名声と財産を失う恐怖、秘密を暴露すれば自分も家族も殺される危険性など、抜け出せない状況がある。イルミナティやフリーメイソンはアヌンナキを悪魔崇拝する悪魔教であり、アヌンナキが作った古代エジプトにもルーツがある。
 

ナスカの新たなる“天と地球を結ぶ”施設----------------------------------------------------------------

 ホロン(ホルス)とサトゥがティルムン上空で闘った戦闘の後、エンリルが3人の息子を会議に呼んだ。彼は最近の出来事を心配し次のように言った
「最初我々は地球人を我々の形と姿に似せて創造した。今ではアヌンナキの子孫は地球人の形と姿に似るようになってしまった!それからカ・インが弟を殺した。今ではマルドゥクの息子がその兄弟の殺人者になっている!初めてアヌンナキの子孫が地球人の間に軍隊を起こした。アヌンナキの秘密である金属の兵器を彼は彼らの手に渡した!アラルとアンズにより我々の正当性が挑戦を受けた頃から、イギギによる混乱と規則破りが続いた。今ではマルドゥクの領土に信号灯の頂があり、着陸場はイギギにより占められている。今イギギは戦車場の辺りへ進出している。サトゥの名前で天と地の全ての設備を彼らは主張するようになるだろう。」
 対抗策を講じるように彼は提案した。
「天と地の設備をもう一つ我々は建設しなければならない、それは大洋の向こうの南米のニヌルタの地、信頼できる地球人の中に置かれるべきである。」
 このようにして秘密の使命がニヌルタの手に委ねられた。大洋の向こうの山間の地、大きい湖のそばに、新しい「天地の絆」が設立され、囲いの中にそれは置かれた。金塊が散らばっている山の麓(ふもと)、頑丈な基盤の平地を彼は選び、その上に上昇と下降の印を彼はつけた。
「設備は原始的ですが、目的は遂行できます」
 そうニヌルタは父エンリルに予定通り報告した。
「ニビルへの金の輸送をそこから継続できますし、必要なら我々もそこから出発できます。」

 こうして、ナスカ平原に“天と地球を結ぶ”施設が造られた。ナスカの地上絵は、空から見たときの目印となる絵であった。また長い直線の絵は、宇宙船の滑走路である。


 ペルーのイカ市の博物館には、後頭部が異常に大きい頭蓋骨が展示されている。イカ市はナスカの地上絵の近くで、この頭蓋骨が発見された。これは人間のものではなく、アヌンナキもしくは彼らとの半神半人の頭蓋骨である。
 エジプトのメンフィスの墓の壁画には、後頭部が大きい巨人の絵が描かれている。エジプトを支配していたのもアヌンナキであり、彼らは巨人だった。後頭部が大きい頭蓋骨は、アヌンナキもしくは彼らとの半神半人のものである。




 南米のエクアドルのチョレラ文明やトゥマコ地方からも、後頭部が大きい像が発掘されている。それはエジプトのファラオの正妃ネフェルティティの大きな後頭部とも同じである。つまり彼らはアヌンナキとのハイブリッド(半神半人)ということ。




 アヌンナキが作った世界中で見られる黄金比の渦模様----------------------------------------------

 ナスカの地上絵には渦巻きが3つほど見られる。例えばサルのシッポ部分など。渦巻きの模様は世界中で見られ、時には黄金比の曲線で描かれている。黄金比とは銀河や台風、植物、人間など、宇宙を構成するあらゆる部分に見られる比率である。アヌンナキが関係する場所には必ずと言っていいほど黄金比の渦模様が描かれているが、渦模様はイナンナのシンボルである。




 ペルーのナスカ郊外にあるパレドネス遺跡の水路は、黄金比の渦巻きでできている。中には水が流れており、現在も農業用水として使用している。これも石積みでできており、つまりアヌンナキが作ったということ。


 コロンビアのシヌー地方の古代遺跡から発掘された黄金ジェットにも、黄金比が刻まれている。発掘地のコロンビアとナスカの地上絵のあるペルーは場所が近い。つまり、ナスカの地上絵に描かれている滑走路から黄金ジェットが飛び立っていたと考えられる。この黄金ジェットが実際に飛ぶということを証明した実験動画を、下記より見ることができる。


 渦の模様は世界の各地で見られ、南アフリカのカラハリ砂漠のフェールヌークパンにも黄金比の渦の地上絵が描かれている。直径が約175mもある黄金比の渦模様を描いたのは、人間でないのは明らかである。大洪水によってアフリカ大陸は津波に飲み込まれたので、地上絵が残っているということは大洪水の後にアヌンナキに描かれたということである。Google Map(-30° 0′ 21.64″, +21° 6′ 21.69)


 オーストラリアのアリススプリングにも渦の地上絵が見られる。これは黄金比ではない。Google Map(-23° 49' 17.71", +133° 49' 58.83)

 また、世界中の岩石や洞窟に描かれたペトログリフにも渦の模様が見られ、多くが黄金比となっている。下記のペトログリフの年代は不明だが、一般的にペトログリフは紀元前1万年くらいのものとされている。一般的には原始人が書いたとされているが、黄金比を正確に書くには人の手では無理であり、つまりアヌンナキが科学技術を用いて刻んだということ。(画像はrabbithole2.comより)










 考古学者クラウス・ドナ氏がボリビアのチチカカ湖周辺で発見した巨人用の面にも、渦模様が描かれている。


 渦の模様は後の時代にも見られ、地中海のゴゾ島の巨石の渦模様も黄金比であり、ギリシャの南東沖のエーゲ海の出土品の渦模様も黄金比、メキシコのマヤ文明の出土品の蛇のナイフの渦模様も黄金比である。



 マヤ文明のチチェン・イッツァのククルカンの神殿の蛇の口元にも渦巻き模様が見られる。ここでは階段を挟んで2匹の蛇がいるが、2匹の蛇はアヌンナキのニンギシュジッダの象徴。 ニュージーランドのマオリの口元の刺青にも、渦模様が見られる。


 また、グアテマラ北部のマヤ文明の祭祀センターのサン・バルトロでは、黄金比の渦模様が描かれた壁画が発見されている。マヤ文明はアヌンナキが作った文明なので、サン・バルトロも壁画もアヌンナキが作ったということである。

 メキシコのテオティワカン文明のケツァルコアトル神殿のケツァルコアトルの耳も、黄金比の曲線となっている。ケツァルコアトルとはアヌンナキのニンギシュジッダのこと。


 日本の縄文土器や縄文土偶でも、黄金比の渦が見られる。縄文土偶はアヌンナキのイナンナを表している。古代の人々が綺麗な黄金比を手作業で作ることは不可能であり、縄文土器、縄文土偶は人間の手で作ったのではなく、アヌンナキが作ったものを人間に与えたということである。




 沖縄県立博物館・美術館にある沖縄県の北谷町(ちゃたんちょう)より出土の石板にも、黄金比が無数に描かれている。沖縄では明治の中頃まで若い女性が、ハジチと呼ばれる絵文字の入れ墨をする習慣があったが、その入れ墨と出土した石板の絵文字が同じだった。つまりハジチの入れ墨の文化もアヌンナキ由来である。


 710年の平城京の第一次大極殿にある天皇の即位式を行う高御座(たかみくら)にも、黄金比が見られる。
 
 現代においてはアヌンナキを悪魔崇拝したイルミナティ関係の企業にも渦巻きのデザインが見られ、黄金比をとりいれていることがある。例えば1ドル札の目の部分の渦巻きなどである。
 黄金比の渦巻き模様は素粒子の周波数1.6180の比率から来るもので、それは宇宙の誕生からある数値で、それを知っていたアヌンナキが地球上でもデザインに使用し、イナンナのシンボルとしても使用する。やがて各民族の伝統文化の中に渦巻きの模様が見られる様になり、それが現代社会ではイルミナティに関係する企業などに使用されている。