6章 縄文文明と環太平洋文明 : 地球人のルーツ

■紀元前1万400年頃
 
津保化族(ツボケゾク)-------------------------------------------------------------------------------------

 阿曽辺族(あそべぞく)が東日流(つがる)に渡来、住み着いてから数万年が過ぎ、津保化族(ツボケゾク)という種族が東の南米より太平洋を渡って来た。この一族が渡来して来た時代は、地球の温暖化によって海面が上昇、日本列島の大部分が大陸から分離していた。

 津保化族(ツボケゾク) が渡って来たのには理由があった。それは一族の間で、祖先が西方に渡って住み着いた国があるとの言い伝えが残っており、それがもとだった。
 ある時、その国を見届けようとする者が現れ、一族に呼びかけたところ、数十人の者がそれに応じた。その集団は島のような大きな筏(いかだ)を組み、馬も二十三頭積み、氷の張った海へ旅に出た。そして海に漂うこと85日が経過したが、全員が飢えることなく、また死者も出ず、無事漂着したところが東日流(つがる)のヌカンヌップ、またの名を都母(青森県上北郡方面)というところで、その地名からとって津保化族(ツボケゾク)と呼ばれるようになった。

 津保化族(ツボケゾク)の先祖は、氷の溶けなくなった国より移って来た阿曽辺族(あそべぞく)と同族であるが、阿曽辺族(あそべぞく)と違うところは、郷土へ帰ることを最終目的として探検の旅に出、その途中で立ち寄ったことだった。
 ところが東日流(つがる)へ立ち寄ってみると、山には獲物の幸が、海には魚貝の幸が無尽蔵にあるのをみて、郷土に帰ることをあきらめて、この地に定住することを決めたのだった。
 一族は渡り族といって居住に定まりがなく、人数が揃うと日高見国羽前(ひたかみのくにうぜん:宮城県)へ住み着き、狩猟をし、一族の人数が増えると居住する場所を移し、奥州(おうしゅう:岩手県の内陸南部)のいたるところへ行って、先住民の領地へ居住し、目的を達するとまた別の地へ移動するという習性があった。

 この移動についていけない者、主に老人はその地に残され、若者だけが新天地を求めて移って行った。その地に残された者は、そこで死に至るのを待たなければならないという親族無情の習性があった。
 しかし、世が移るにつれて渡り者は、幸が豊富な無人地をみつけると迎えに来る心情に変わっていった。
 この一族は何故か、どんなに飢えることがあっても馬だけは殺さなかった。それは一族の掟で、馬は狩や戦いに使う神としてあがめていたからだった。そして津保化族(ツボケゾク)は、祖国の平野を駆ける血筋の馬と犬は、男女のまぐわいの神の使者であるとし、大切に飼うのが当然のことと思っていた。後の東日流(つがる)に野生の馬が駆けていたのは、この一族の名残りである。

 もともと津保化族(ツボケゾク)は戦闘的な性格だった。東日流(つがる)に移住して来た時、狩猟して移動せず、おとなしい暮らしを続ける阿曽辺族(あそべぞく)の性格は知っていたが、戦を仕掛けなかったのは、一族の勢力が戦のできる域まで達していなかったからだった。しかし年月を経るとともに、津保化族(ツボケゾク)の人数は確実に増えていった。

 ある時、阿曽辺族(あそべぞく)が西浜に大勢の支那国人が漂着して居住しようとしているのを見ても、防御の戦を仕掛けることもなく、自らその領域を護るための争いをしない一族と知るや、津保化族(ツボケゾク)は、諸々に散らばっている同族に、阿曽辺族を襲うことを通達して数を集め、一挙に領地へ侵入し、集落に火をかけ、女を犯し、老人を殺して獲物を奪った。

 阿曽辺族(あそべぞく)は突然のことであり、応戦する備えもなく、津保化族(ツボケゾク)のなすがままとなり、東日流(つがる)は津保化族(ツボケゾク)によって占領されてしまった。
 阿曽辺族(あそべぞく)の生き残った者はいたし方なく青森県の阿闍羅山(あじゃらやま)に脱した。
 領地を奪った津保化族(ツボケゾク)は、東日流(つがる)全域に館を築いて居住し、阿曽辺族(あそべぞく)と領界を定めたが、その領域争奪の争いは続き、一族間で流血の絶えることがなかった。
 阿闍羅山(あじゃらやま)に脱した阿曽辺族(あそべぞく)だったが、津保化族(ツボケゾク)の権力化におさえられ、長い間、その使奴(つかいやっこ)となる時代が続く。

 しかし阿曽辺族(あそべぞく)としても、いつまでも黙しているわけにはいかなかった。阿曽辺族(あそべぞく)系の中に加無礼という族長がいたが、彼が阿闍羅山(あじゃらやま)に逃れていた一族を結集して挙兵、自分達の土地の奪回に津保化族(ツボケゾク)の集落に攻め入った。
 もとより飢えれば野生の馬でも狩るという一族だったので、この作戦は成功した。そしてひそかに迫って射る矢には毒が塗られており、津保化族(ツボケゾク)の中にはこの矢に当たって死亡する者が増え、また飢えにも窮するようになった。
 さすがの津保化族(ツボケゾク)もこれにおじけづき、しばらくの間応戦を避けたが、いつまでもこの状態を放置するわけにはいかず、津保化族(ツボケゾク)の中の阿佐津貴という族長が一族を結集し、阿曽辺族(あそべぞく)と交戦したが敗れた。敗れた原因は、あてにしていた中山からの援軍が来なかったからだった。こうして阿闍羅山(あじゃらやま)一帯の領土は阿曽辺族(あそべぞく)のもとに戻った。

 敗れた津保化族(ツボケゾク)の長・阿佐津貴は軍策を練り、再び一族を総挙して阿曽辺族(あそべぞく)の陣を遠巻きにして風向きをはかり、山に火を放つと、火は折からの風によって阿曽辺族(あそべぞく)の陣に燃え移った。阿曽辺族(あそべぞく)は風上に向かって逃れようとしたが、そこには津保化族(ツボケゾク)が待ち構えていてこれを討った。ここで阿曽辺族(あそべぞく)の半数が殉じた。

 生き残った阿曽辺族(あそべぞく)は、一族の酋長(しゅうちょう)の居住地の阿曽辺盛(あそべのもり:岩木山=いわきさん)に引き揚げた。阿曽辺族(あそべぞく)は山で生活し、津保化族(ツボケゾク)は海辺で生活していたが、この両族は常に暮らしの財を求めたので交流することなく、互いに領域を侵しての争いを続けた。

東日流外三郡誌

ニュージーランドのワイタハ族---------------------------------------------------------------------------

 南米のカ・インの子孫が広がったニュージーランドのワイタハ族は、ポリネシア人の一派をなすマオリ族が入ってくる以前から存在する環太平洋文明の部族である。今では後から入ってきたマオリ族と生活を共にし、同じ伝統を受け継いでいる。ワイタハ族は女性が中心の母系社会である。マリオ族は、それぞれの集落や身分によって異なる身体装飾としての刺青(いれずみ)を顔面や全身に施す。この刺青の文化は、琉球やアイヌなどにも見られる。




ツラン文明から縄文時代の始まり------------------------------------------------------------------------

 大洪水の後、半神半人ジウスドラ(ノア)などの生き延びた一団の一部は、アララト山から中央アジアのツラン平原に辿り着く。そしてそこから東北にある天山(テンシャン)山脈の西南麓に王都を築いた。しかし時が経ち、その土地が王都としてふさわしくなくなったので、日本列島の富士山麓へ遷都を決意し、一団は海を、一団は陸を東進して日本列島に渡来することになる。そして中央アジアのツラン平原からツラン文明がユーラシア大陸各地に、農業とともに宇宙観、世界観、そしてそれにもとづく学術と道徳、人道の秩序の体系が伝播されていく。この一団には、祭司王やシャーマンなどがいた。このツラン文明は、大洪水前から人々が存在していた文明ではあった。
 ジウスドラ(ノア)の子孫はやがてエンリルに指名され、メソポタミアで地球を統治する王(天皇)となるが、この大洪水の後に日本へやってきたのか、それともメソポタミアへ行ったのかは現在のところ不明。

 中央アジアの高原地帯にいた一団が東に向かい、日本列島に到着して、ここに文明を立てた。このツラン(天の子)民族がツラン平原から北回りで日本に移住して、縄文文明と混じり合った。そしてツラン平原から南下した仲間達が、インダス川やメソポタミアにシュメール住み着いていった。またその道中で分かれた集団が、後にアヌンナキと共に中国の黄河文明や長江文明を築いていく。


 縄文人は、荘厳(そうごん)なる宮殿をつくらず、美麗なる礼服で飾らず、外観の浮華を自慢しなかった。日本民族にとって歩むべき道とは、人間の営み(人工)が、自然を破壊してはならない、自然と調和し、人工がむしろ自然をより豊かに、より美しく繁栄させるものでなくてはならない。そのような方向に人間が進んでいく時、それを「道」と名づけるのである。人間の営為(人工)が、このように積み重ねられてゆくありさまを、「文明」と賞賛するのである。これこそ、ツラン文明→縄文日本人→日本民族、と受け継がれた根本概念である。こうしてツラン文明を正統に継承したのは縄文文明であった。

 2度目の大洪水の後、ツラン民族によるツラン文明の原型は成立しており、後のシュメール文明はこのツラン文明の南下した一分派である。「ツラン」とはシュメール語で「天の子、天の保持者、天の帯」を意味し、ツラン民族とはツラン平原で発祥し、ウラル・アルタイ語族に属し、北方アジア民族とも呼ばれ、言語はウラル・アルタイ系の膠着語(こうちゃくご:立語の中国語、屈折語のインド・ゲルマン語と文法が根本的に違う)を語り、ツランから発してユーラシア大陸全域に棲みついた民族で、北ツラン族と南ツラン族に分け、北ツラン族をウラル・アルタイ語族と称した。

北ツラン族 : ツングース、モンゴル、トルコ・タタール、フィン・ウゴール、サモエード
南ツラン族 : タマル(タミール語族)、ボオチア(チベット・ブータン語族)、タイ(シャム)、マライ

 縄文の日本で王朝を建国したのは、天山(テンシャン)山脈西南麓に王都を築いた大洪水の生き残りの人々であった。日本列島の富士山麓へ遷都を決意した彼らの話はこうである。なお、ここでは和名を用いているが、すべてアヌンナキの血を濃く受け継ぐ子孫達である。

 天地開闢(てんちかいびゃく=大洪水の後)のとき、天之峰火雄神(あめのほほおのかみ=ノア)が生まれた。この神の王朝は7代30万日(約820年)を経て、天の世と呼ばれた。次に天之御中主(あめのみなかぬし=アヌ王)神から15代67万5000日(約1850年)続いた王朝は、天之御中世(あめのみなかよ)と称された。その最後の神皇が高皇産霊神(たかみむすびのかみ=エンキ)で、国土が八方に広がったため、七人の皇子をそれぞれの地方に派遣することにした。第一皇子・有能氏は大陸の大中原にとどまり大アジア州の皇帝となり、第二皇子・朝天氏は大陸の東部を、第三皇子・南陽氏は大陸の南部を、第四皇子・清賢氏は大陸の西部を、第五皇子・農立氏(イナンナ)は東海の島を、第六皇子・農永氏は大陸の北部を、そして末子の第七皇子・農佐氏は父のもとにとどまった。
 ところが、派遣された皇子のうち第五皇子の農立氏(イナンナ)だけは、「日の本なる海原に世に二つなき蓬莱山(ほうらいさん:富士山)のある蓬萊国(ほうらいこく:日本)」に行ったまま、1万7500日(約48年)経っても帰ってこなかった。高皇産霊神(たかみむすびのかみ=エンキ)は「連絡がないのは、その土地が連絡することを忘れるほど素晴らしいからに違いない」と考え、第七皇子・農佐氏を指揮官に任じ、神后ともども3500余神を率いて、住み慣れた王都を捨て、蓬萊国(ほうらいこく:日本)に遷都することにした。
 高皇産霊神(たかみむすびのかみ=エンキ)の一行は、天山(テンシャン)山脈の麓を出発して、現在のシルクロードを陸路東進、朝鮮半島から日本の能登半島に上陸した。その後、瀬戸内海沿岸を経て、渥美(あつみ)半島に達すると、東に富士山が見えたので、再び船に乗って海路東進し、田子の浦に再上陸。富士山の麓に王朝を築いた。


 一方、先に蓬萊国(ほうらいこく:日本)を目指していた第五皇子・農立氏(のちの国常立尊”くにとこたちのみこと”=イナンナ)は、天山(テンシャン)山脈を出た後、南に向かいインドから南岸沿いに東進、海人と交流しながら島々を這うようにして海路沖縄にたどり着いた。そこから日本列島に渡り、瀬戸内海の淡路島にとどまり、蓬莱山(ほうらいさん:富士山)の所在を求めていた。そこへ父皇(エンキ)と弟たちが自分の後を追って日本列島へ渡ってきたことを知り、富士山の麓で弟と再会した。
 兄弟はともに協力して新しい国作りを誓い合った。そして最初に天降った兄の農立氏(イナンナ)は国常立尊(くにとこたちのみこと=イナンナ)と名前を改め、「高天ヶ原の世」の第一代神皇に即位するとともに、「東西分治の制」を定めて西を統治することにした。日本の本来の最高神はスサノオことイナンナである。弟の農佐氏は、国狭槌尊(くにさつちのみこと)と名前を改めて第二代神皇となり、富士山麓を拠点にして「高天ヶ原」を治めた。

 イナンナは日本の第一代神皇に即位し、つまり日本を統治する王となったが、イナンナと王権の象徴であるアヌンナキの王冠を表した縄文土偶が富士山周辺から出土している。この王冠は後の時代にも見られ、地球司令官エンリルがメソポタミアを一人の人間に統治させようと決めた時にサルゴン1世に与えた王権や、ゾロアスター教の最高神アフラマズダ(エンリル)がサーサーン朝ペルシア帝国の初代君主アルダシール1世とされる人物に渡した王権と笏(しゃく)のレリーフにも見る事ができる。
 この王冠は現代にも続き、天皇が皇位を継承したことを内外に示す即位の礼でも見る事ができる。平安時代までの纓(えい)は、左右の肩に垂れ下げるなど二枚だったが、平安末期からは、二枚を留めて一枚のようにして用いるようになった。


 最後の世界的洪水の後、最初に文明が開け、その文明を世界に広げたのが日本である。神の道とは、すなわち自然と調和して生きる術であり、自然の力を利用する術である。世界に派遣された日本の皇子たちは、自分達の都を「すがすがしい」という意味を込めてスガ、あるいはスカと名付けた。つまりスカ、スガに接頭語のアやナを付けて、アスカ(飛鳥)やナスカなどの地名になった。
 このスガという地名の由来については古事記の出雲神話にも記されている。スサノオがヤマタノオロチを退治した後、クシナダヒメとの新居の宮を造る土地を出雲の国に捜したとき、現在の島根県大原郡大東町(現在は雲南市に合併編入)須賀に気分がすがすがしくなる土地を見つけ、そこに新居の宮を造ったので須賀と呼ばれるようになったとしている。

 奈良県の明日香村には、爬虫類人の姿をしたアヌンナキの像が見られる。後のメソポタミアのシュメールでも、よく似た爬虫類の姿に変身したイナンナ像が発見されている。明日香村はアヌンナキの街である。

ツラン文明圏 / 今岡十一郎
世界各地の女神崇拝とイナンナの土偶------------------------------------------------------------------

 イナンナは世界中を飛び回って豊穣の女神として崇められた。それと共に広がったのが“聖なる結婚”であった。しかし後に、マルドゥクの改竄によって“神への人間の犠牲”を行うところも出てきてしまうことになる。
 この頃から世界中でイナンナの女神像が作られる。イナンナ像の姿は場所によって変わっているが、その理由は彼らは姿を変えられる能力があるからで、爬虫類人(レプティリアン)とも呼ばれる。世界各地で出土する像の多くは、女神像と言われることが多い。イナンナ像には共通点があり、地域によって共通する部分が異なっている。それは次のようなものである。

●肩幅が広い。
●脇の下に空洞がある。
●胸が出ている。もしくは胸を触っている。
●おへそが目立つ。
●三角形の下着を着ている。
●下半身が太い。特にお尻回りが太い。
●ポーズがよく似ている。
●黄金比の渦模様がある。渦模様はイナンナのシンボル。
●稀に赤子を抱いている。
●座っていることもある。
●服装が宇宙服に見えることもある。

 インド周辺のインダス文明のイナンナ像にも、同じ共通点が見られる。

 マヤ文明、バビロニア、エジプトでも同じ共通点の女神像が出土している。

 青森県の遮光器土偶にも、イナンナの黄金比の渦模様が描かれている。

 長野県の神像筒形土器にも、黄金比の渦模様が複数見られ、そこには王権の象徴の二枚の纓(えい)と丸のついた王冠もある。つまりイナンナが日本では王として支配していたことを表している。

 縄文のイナンナ像と、紀元前5700年頃のヴィンチャ文明のイナンナ像の比較。顔が三角形なこと、腕の形、胸が出ていること、おへそに印があること、下半身が太いことなど、部分的にそれぞれ共通点が見られる。




 秋田県と長野県の顔が三角のイナンナ像。ヴィンチャ文明のイナンナ像の中にある三角形の顔と同じで、耳らしき三角形の両角に穴が開いている共通点もある。

 下記の3つの縄文土偶も姿はそれぞれ異なるが、渦模様がある、肩幅が広い、胸が出ている、下半身が太い、などイナンナの共通点を満たしている。

  世界中から出土するほとんどの女神像は、このイナンナの共通点を満たしている。イナンナ像の出土場所を見ると、世界中にイナンナが姿を変えて現れていたことがわかる。また、出土場所によっては巨石建造物もある。


etc.

日本各地の巨人伝説とアヌンナキ------------------------------------------------------------------------

 日本各地からイナンナの女神像が出土しているが、日本各地の民話や歴史書ではダイダラボッチという巨人の伝承が残されている。ダイダラボッチは地域によって呼び方が違い、デエダラボウ、ダイダラボウなどと呼ばれている。ダイダラボッチは主に、「山や川、湖などを作った」「人間の暮らしを支えた」「足あとや手型を残した」という伝説で、全国各地にあり、とても大きな巨体で、富士山から筑波山まで36歩で歩いたり、山に腰掛けたりするぐらいの巨人だったとされている。こういった地形などの設計を行ったのはニンギシュジッダであることが多く、ピラミッドのような山も存在する。日本各地の巨人の呼び名は次のようになっている。



 奈良時代初期の721年に成立した茨城県の常陸国風土記(ひたちのくにふどき)には、次のように書かれている。
「平津(ひらつ)の駅家(うまや)の西12里(6.5km)に、大櫛(おおぐし)という岡がある。大昔、巨人がおり、岡の上にいながら手が海まで届き蜃(大ハマグリ)をさらうほどであった。巨人の食べた貝は、積もって岡になった(貝塚のこと)。当時は大朽(おおくち)といったが、今は大櫛の岡という。巨人の足跡は長さ40歩余、幅20歩余で、小便が穿(うが)った穴は直径20歩余であった。」

 同じく奈良時代初期に編纂(へんさん)された兵庫県南西部の播磨国風土記(はりまのくにふどき)では、次のような大人(おおひと)伝説が記されている。
「託賀郡(たかぐん)には昔、巨人がいて、いつも屈(かが)んで歩いていた。南の海、北の海、東を巡ってこの地にやって来て「他の地は(天が)低くていつも屈(かが)んで歩いていた。この地は高くてまっすぐ立って歩ける」と言った。だからこの地を託賀(たか=高)郡(ぐん)という。巨人の足跡は数々の沼になった。 」

 こういった伝説をアヌンナキと解釈するなら、巨人であるアヌンナキが宇宙船でやってきて、彼らのテクノロジーで山や湖を作ったとなる。この他にも各地の巨人伝承には、次のようなものがある。

「山を作る・運ぶ」
◯富士山を作るため、甲州(山梨県北東部)の土を取って土盛りした。そのため甲州は盆地になった。
 
◯富士山を作るため近江(滋賀県)の土を掘り、その掘った跡地が琵琶湖となった。(つまり富士山は、少なくとも琵琶湖と甲州"山梨県北東部"の土を盛って造られた。)

◯上州(じょうしゅう:群馬県)の榛名富士(はるなふじ)を土盛りして作り、掘った後は榛名湖(はるなこ)となった。榛名富士(標高1449m)が富士山(標高3776m)より低いのは、もう少し土を運ぼうとしたが夜が明け、途中でやめたためである。
 
◯(長野県の)浅間山が、自分より背の高い妹の富士山に嫉妬し、土を自分にわけろといった。富士山は了解し、だいだらぼっちが自分の前掛けで土を運んだ。しかし浅間山は土の量が足りないと怒り、彼を叩いた。その際にこぼれた土が前掛山(まえかけやま、標高2524m、浅間山の火口の西に位置する)となった。怒りだした浅間山はついに噴火してしまった。
 
◯西の富士、東の筑波(茨城県)と呼ばれる関東の名山の重さを量ろうとし天秤棒に2つの山を結(ゆ)わえつけ持ち上げると、筑波山(つくばさん)のほうは持ち上がったが富士山は持ち上がらない。そのうちに結(ゆ)わえていたつるが切れ、筑波山が地上に落ちてしまった。その衝撃でもともと1つの峰だった筑波山は、2峰になってしまったという。
 
◯信州(しんしゅう:長野県)佐久郡(さくぐん)で土を運んでいた時、もっこの綱が切れ、平尾山(ひらおやま)と糠塚山(ぬかづかやま)ができた。

◯信州(しんしゅう:長野県)安曇郡(あずみぐん)で西側の飛騨(ひだ)山脈から削り取った土を東側の山地に運んでいた時、もっこの綱が切れ、(長野県の)室山ができた。

「足あと・手のあとを残す」
◯上州(じょうしゅう:群馬県)の赤城山(あかぎさん)に腰掛けて踏ん張ったときに窪んで出来た足跡が水たまりになった。木部の赤沼(あかぬま。大沼のことか?)がそれである。

◯長野県大町市北部の青木湖、中綱湖(なかつなこ)、木崎湖(きざきこ)からなる仁科三湖(にしなさんこ)はいずれもダイダラボッチの足あとである。

◯茨城県水戸市中央部の千波湖(せんばこ)は、かなり大きいがダイダラボッチ(この地方ではダイダラボウと呼称)の足跡である。

◯遠州(えんしゅう:静岡県)の山奥に住んでいたダイダラボッチが子供たちを手にのせて歩いている時に、腰くらいの高さの山をまたいだ拍子に子供たちを手から投げ出してしまった。びっくりした子供たちとダイダラボッチは泣き出してしまい、手をついてできた窪みに涙が流れ込んで浜名湖となった。

◯現在、東京都世田谷区にある地名「代田(だいた)」や、さいたま市の「太田窪(だいたくぼ)はダイタラボッチの足跡である。

◯長野県戸隠山(とがくしやま)の大座法師(だいざほうし)池、三重県志摩郡の大王町(だいおうちょう)はダイダラボッチに由来する地名である。

◯静岡市のダイラボウ山頂には全長150mほどの窪みがあるが、ダイダラボッチが左足を置いた跡と伝えられている。琵琶湖から富士山へ土を運ぶ途中に遺(のこ)したものであるという。

◯神奈川県相模原市の伝説ではデイラボッチと呼ばれ、富士山を持ち上げ違う場所に運ぶ途中、疲れたので、富士山に乗っかり休んだところそこにまた根が生えてしまい、持ち上げようとするが持ち上がらず、そのときふんばった所が今の鹿沼公園であるという。

◯小便をしようと飯野山(いいのやま:香川県中部)に足をかけた際に山頂付近に足跡が付いた(現在もその跡であるという伝説の足跡が残っているが非常に小さい)。なお、その小便の際に出来たのが大束川(だいそくがわ)といわれる。

◯愛知県東海市の南側に加木屋町(かぎやまち)陀々法師(だだほうし)という地名があり、ダイダラボッチが歩いて移動する際に出来た足跡が池になったとして伝説が残っている。名古屋鉄道の八幡新田駅(やわたしんでんえき)西側にあったが2000年(平成12年)頃に埋め立てられており、現在その形跡はない。

「休む・洗う・食べる」
◯群馬県の赤城山(あかぎさん)に腰掛けて、利根川(とねがわ)で足を洗った。

◯栃木県の羽黒山(はぐろさん)には人間がまだ誕生しない大昔、でいだらぼっちが羽黒山(はぐろさん)に腰掛けて鬼怒川(きぬがわ)で足を洗ったという言い伝えがある。

◯長野県塩尻市の高(たか)ボッチ高原は、ダイダラボッチが腰を下ろして一休みした場所であるという。

◯碓氷峠(うすいとうげ:長野と群馬の間)で休んでいる時に、足が(群馬県の)妙義山(みょうぎさん)まで届き、その足の指を猪(いのしし)が芋と間違えかじったので、猪を握り潰して浅間山で猪鍋を煮た。なお、鍋をこぼした場所から塩気のある温泉が湧いたと言う。

「人間を助ける」
◯秋田県の横手盆地(よこてぼんち)が湖であったので干拓事業を行った際、ダイダラボッチが現れて水をかき、泥を掬(すく)ったため工事がはかどった(鳥の海の干拓伝説)。このダイダラボッチは秋田市の太平山三吉神社(たいへいざんみよしじんじゃ)の化身と考えられている。創建は673年とされる。太平山及び山麓の太平地区の名は現在「たいへい」と読まれるが、明治期までは「おいだら」と読まれており、由来を巨人「オイダラボッチ」であるとする説(秋田の今と昔)がある。

◯昔、(長野県の)東信濃(ひがししな)は湖の底だったが、デイランボウは「岩鼻」という山を砕き水を排出し、平地を作った。それから後、その土地を大佐久(南北佐久)と小佐久(小県)と言うようになった。

 秋田県、山形県、福島県、長野県、福井県などに伝わる伝説・昔話に登場する巨人は手長足長(てながあしなが)と呼ばれ、秋田では鳥海山(ちょうかいさん)に棲んでいたとされ、山から山に届くほど長い手足を持ち、旅人をさらって食べたり、日本海を行く船を襲うなどの悪事を働いていたとされる。



日本のピラミッド-------------------------------------------------------------------------------------------

 日本にはイナンナを表した多産のシンボルとされるヴィーナス像や、無数の巨石文化が存在している。またアヌンナキによって、日本全国にピラミッドも建設されていった。








 アララト山のノアの箱船のツラン民族がツラン平原から広がっていった後、紀元前9000年~前7000年前までの間に、

1.中国大陸の全域に拡散して漢族、苗族(ミャオぞく)となり
2.日本列島にも到達して縄文人と混血し
3.タイに入って東北部のパンチェン文化人となり
4.インド西北部から西部に入ってインダス人となり
5.メソポタミアに入ってシュメール人となり、
6.中央アジア、西方アジア、西方ヨーロッパ方面に向かって各種のウラル・アルタイ系、ツラン系の民族になる。

ツラン文明圏 / 今岡十一郎


熊本県のピラミッド、トンカラリン---------------------------------------------------------------------

 日本にも数多くの多角形の石積み、ピラミッド、そしてエンキを表す亀石が見られる。日本の巨石建造物は主に、ノアの大洪水の後の縄文時代に作られた。縄文時代はエンキとイナンナが主となり、特にイナンナが日本の最高神であった。
 日本の石積みは他にも綺麗な多角形ではないが、カミソリの刃一枚も通さないほど隙間なく密着した石積みも見られる。
 熊本県菊水町に、「トンカラリン」と呼ばれる古代の遺跡がある。地上ではなく地中に延々460mに渡ってつなげたトンネル型の遺構である。エジプトのピラミッドの大回廊8mとトンカラリンの高さも同じなど共通点もいくつかあり、石積みもエジプトの遺跡と同じものである。
 
 トンカラリンの周辺からは、変形頭蓋骨が出土している。おでこが平らで、顎(あご)が飛び出している。この形は南米で発掘されたシャーマンの頭蓋骨に見られる特徴で、日本で発見されたのは熊本だけだった。環太平洋文明が広がっていた縄文時代のこの時期、アヌンナキのニヌルタによっていかだ船の作り方を教えられていた南米人は、日本とも交流していた。エクアドルなどから縄文土器が発見されていることが物的証拠である。

 またトンカラリン周辺の前方後円墳の江田船山(えたふなやま)古墳からは、ペガサスの模様がはいった刀も出土し、合計92点もの出土品がある。前方後円墳は200年頃から作られるので、出土品もその時代のものと推測できる。


神籠石(こうごいし)とアヌンナキ------------------------------------------------------------------------

 日本には神籠石(こうごいし)や神籠石式山城(こうごいし しき やましろ)と呼ばれる、石垣で区画した列石遺跡がある。九州から兵庫県までの瀬戸内地方にみられる。日本書紀や続日本紀に記載がなく、建造時代も不明で、遺構でしか存在を確認できない山城を指している。それらの多くは多角形の石積みや隙間なく密着した巨石で構成されている。つまりアヌンナキが造った遺跡である。同様の巨石遺跡は、世界中に存在している。



佐賀県の巨石パークとバールベックの巨石-------------------------------------------------------------

 佐賀県の巨石パークにも綺麗な形とは言えないが、多角形の石積みがあり、またそこには巨石が数多く存在する。その中の巨石は、隙間なく積まれている。

 中東レバノンの東部のバールベックには、この巨石パークの御座石とよく似た「バールベックの巨石」が横たわっている。重さは最大2000トンと見積もられている。これもアヌンナキのテクノロジーである。


屋久島にもアヌンナキの巨石が存在する---------------------------------------------------------------

 屋久島の巨石は、石垣のように綺麗な多角形ではないが、それでも巨大な岩をレーザーでカットしたかのように切り、隣の岩と隙間なく密着させている。また巨石の多くが山頂にある。


茨城県の竪破山の巨石-------------------------------------------------------------------------------------

 竪破山にある巨石は隙間なく密着している。また太刀割石の大きさは7m×6m、周囲約20mで、レーザーで切られたようになっている。


オーストラリアのデヴィルズ・マーブルズの巨石-----------------------------------------------------

 オーストラリアのデヴィルズ・マーブルズには茨城県の竪破山と同じレーザーで切られたような巨石がある。他にも隙間なく密着した巨石群や、絶妙なバランスで立つ石球も存在する。これらの共通点から、オーストラリアでもアヌンナキが活動していたことがわかる。


宮島・弥山の巨石とアヌンナキ--------------------------------------------------------------------------

 宮島・弥山にも巨石群が数多く残っている。なかには1500トン前後と見積もられる巨石もあり、幾つかが隙間なく密着した共通点を持っている。



ニュージーランドのカイマナワ森林公園の巨石-------------------------------------------------------

  ニュージーランドのカイマナワ森林公園の木の下にも、隙間なく密着したアヌンナキの巨石が存在する。

沖ノ島の巨石-------------------------------------------------------------------------------------------------

 九州本土から約60キロ離れた玄界灘の真っ只中に浮かぶ周囲4キロの沖ノ島の沖ノ島神社の背後には、高さ20mを超える巨石がある。これは絶妙のバランスをとっているが、イギリスのストーンヘンジのような石の積み方である。
 この島には掟があり、立入、口外、持出、女人、肉食、漁獲、暴言、焚火となっている。


沖縄にある3つのピラミッド------------------------------------------------------------------------------

 沖縄県の北谷(ちゃたん)のピラミッド複合施設は南北600m、東西200mという規模で、ほぼエジプトのサッカラのピラミッド複合施設と同じ規模と構造のものを作った。その複合施設の外壁は、長さ100m、高さ10mである。その北谷(ちゃたん)の海底階段ピラミッドは幅40m、高さ10数mある。沖縄県もアヌンナキの文化と神殿が残る場所である。

 北谷(ちゃたん)のピラミッド複合施設には第2階段ピラミッドもあった。

 また北谷(ちゃたん)のピラミッド複合施設には、長さ20mの2体の蛇(ニンギシュジッダを表している)の石像もある。

 沖縄にも巨人伝説がある。沖縄へ来た背の高い人達が、そのような伝説になった。伝統芸能アマンチュは3mの巨人が五穀の種を人々に授ける物語である。伊江島のタッチューというピラミッドの山頂には巨人の力(ちから)タンナッパの足跡が残っている。この巨人もアヌンナキを指している。

  伊江島にもタッチューというピラミッドがあり、伊是名島(いぜなじま)にも高さ100mのピラミッドがある。

 そして、沖縄のピラミッドとエジプトのピラミッドは同じ並びである。これらはオリオン座とも同じである。

 
オリオン座の配置で並ぶ世界のピラミッド------------------------------------------------------------

 シリウス、プレアデス、アークチュールなどの生命体がニビルへやってきてアヌンナキとなったが、それらの前にオリオン座にいた者もいて、オリオン座はアヌンナキの故郷と言える。



ニュージーランドのザ・ピラミッド---------------------------------------------------------------------

 ニュージーランドのチャタム諸島から9kmほど南に、ザ・ピラミッドと呼ばれる島がある。名前の通りピラミッド型だが、これもアヌンナキが作ったピラミッドである。エジプトのギザのピラミッドとメキシコのテオティワカンの月のピラミッドとの線上にあり、テオティワカンの直線の出入りの角度は若干の誤差はあるが、ギザは同じ角度で直線が出入りしている。つまり、偶然ではなく意図して作られていることがわかる。これができるのは人間ではなく、宇宙から位置を確認できるアヌンナキである。ザ・ピラミッドのグーグルマップは(-44.4324824, -176.2404601)。


南極のピラミッド-------------------------------------------------------------------------------------------

 南極ピラミッドにも少なくとも2つのピラミッドが存在する。2つは比較的近い位置に立っている。グーグルマップ(81°57'41.15"W 79°58'38.32"S)


イタリア周辺のピラミッド--------------------------------------------------------------------------------

 ヨーロッパには大小さまざまなピラミッドが存在する。イタリアには、少なくとも4つのピラミッドがある。

1.モンテヴェッキア / グーグルマップ(45°43'40.19"N   9°22'12.21"E)(45°43'26.60"N  9°22'26.88"E)
2.ポンタッシエーヴェ / グーグルマップ(43°46'11.99"N  11°24'23.41"E)
3.ピエディルコ / グーグルマップ(42°31'48.47"N  12°45'32.59"E)(42°32'16.57"N  12°45'29.76"E)
4.サンタ·アガタ·デ·ゴチ / グーグルマップ(41° 5'50.32"N  14°31'22.16"E)

 フランス、ギリシャ、スロベニア、ボスニア・ヘルツェゴビナにも、ピラミッドが存在する。ギリシャのピラミッドには多角形の石積みが見られることから、アヌンナキが作ったと考えることができる。

1.フランスのファリコンピラミッド / グーグルマップ( 43°44'59.65"N   7°15'37.33"E)
2.ギリシャのピラミッド / グーグルマップ(37°35'14.15"N  22°40'16.97"E)
3.スロベニアのピラミッドヒル / グーグルマップ(46°34'5.34"N 15°39'8.51"E)
4.ボスニアンピラミッド / グーグルマップ(43°58'42.00"N 18°10'40.00"E)(43°58'21.20"N 18°12'2.15"E)


ヒーリングの効果があるボスニアンピラミッド複合体の地下トンネル---------------------------

 10年以上の調査で、ボスニアンピラミッドの驚くべき結果が明らかになっている。ボスニアンピラミッドがあるヴィソコの地下のラヴネのトンネルでは、健康上の利点があることを、サム・オスマナギッチ博士と他の調査チームが発見した。



 このトンネルでは、効果的な一定の電磁気の存在が測定されている。同様に28kHzの超音波と、7.83ヘルツのシューマン共振(りょうしん)もあった。
 シューマン共振(りょうしん)は、地球の地表と電離層との間で極極超長波(ELF)が反射をして、その波長がちょうど地球一周の距離の整数分の一に一致したものをいう。これは人間の物理的、精神的、精神的な能力において最高のエネルギーである。
 また異常に高い濃度のマイナスイオンが検出された。これは立法センチメートル当たり最高6万という数値で、例えるなら山の森の10倍であった。
 この環境では、人間の細胞は再生のための自己修復プロセスを開始すると、科学者たちは述べている。そして次のような効果がある。

1.肺活量の増加
2.血糖値の正常化
3.血圧の正常化
4.体全身の状態の改善
5.オーラの改善

●肺活量
 17歳のスロバキア人、ベロニカ・ブランコは、ニトラからピラミッドがあるボスニア・ヘルツェゴビナの町ヴィソコへやってきた。というのは、彼女は気道に問題があったからで、ピーター・ハイデュク博士の進めでやってきた。この博士はプラハの肺疾患のクリニックの専門家である。

 彼女の話は、2013年に始まる。乳腺が詰まって分泌物が溜まる嚢胞(のうほう)と息切れを起こし、肺機能の容量が47%に減少した。病気のために、ベロニカはすぐ後に、彼女の右肺の手術が必要と診断される。術後の回復のプログラムは、ハイデュク博士による天然物とビタミンCを使用するバイオ共鳴療法に基づいていた。そしてリハビリテーションプログラムには、ビソコへの旅行も含まれていた。それはラヴネ(Ravne)の地下トンネルで見つかった高濃度のマイナスイオンが目的だった。
 ビソコへの2回の旅行とラヴネのトンネルでの治療を受け、若いスロバキア人の彼女は、健康の改善を感じた。そして2年ぶりに、彼女は長い間苦しんでいた胸のズキズキする痛みを感じなくなった。先史時代のラヴネのトンネルへの2回の旅行での治療において、最終的に元の容量47%から現在の84%にまで、彼女の肺容量の増加をもたらした。

●血糖値
 チェコの出版物「WMマガジン」の協力である団体が、「人間の血糖値の測定を研究」をするために、2015年頭にビソコにやってきた。その中の一人、58才のプラハからやってきた実験参加者ユルキは、ラブネのトンネルに入る45分前に血糖値を測定した。その時点で、レベルは7.8mmol/L(危ない範囲)であった。そしてラブネのトンネルに入った後、彼の血糖値は5.1mmol/L(正常レベル: 危なくない範囲)に下がった。また別の参加者のカレルも同様の実験で、10.5mmol/Lから5.7mmol/Lに下がった。
 チェコのプラハに戻った参加者の報告で、彼らの血糖値は14日間効果を保ち続け、その後、血糖値はわずかに増加し始めた。

●血圧
 トルコのイスタンブールからの女性セヴィム・ムヘヴィアは、年齢が54歳で、2004年から2014年に常に高血圧の問題があった。彼女の血圧レベルは220/135mmHgだった。そして彼女が定期的にボスニアのピラミッド複合体の先史時代のトンネルを訪問し始めた後、血圧は140/90mmHgよりに上に行ったことがない。

●オーラ
 スロベニア人のエンジニアであるヤネス・ペルコは、人体の周りのバイオエネルギー層、または領域である人間のオーラを取り込むために、ロシアのウラジーミル・コロトコフ教授(サンクトペテルブルク大学)の画期的な機器を使用した。研究では、(男性と女性、老人、若者、観光客、ボランティア、正社員など)160人の参加者の代表的なサンプルが含まれていた。
 結果は、先史時代のラヴネのトンネルでの1時間の滞在後、82%の人物のエネルギーや免疫枯渇を保護するオーラの改善につながっていることを示した。


ボスニアンピラミッド複合体もアヌンナキが作った-------------------------------------------------

 ボスニアンピラミッドや、その近くのゴーンヤ・ブロトニカ(Gornja Vratnica)では、アヌンナキの多角形の石畳が見られる。


 また同じ地域から、丸い石球も出土している。これもアヌンナキによって作られたのである。

 
世界中で見られる石球-------------------------------------------------------------------------------------

 1930年代の初めから現在までに、コスタリカの密林で200個以上の石の球体が発見されている。最大級の石球は重量にして約25トンである。米ハーバード大学研究員のサミュエル・ロスラップ博士によって、様々な角度から円周や直径を測っても最大誤差が0.2パーセントのものや、直径が2.0066メートルとミリ以下の単位まで全く同じ大きさの2個の石球も見つかっているという研究報告がある。


 ボスニアンピラミッドのようにアヌンナキのテクノロジーによって築かれた遺跡に球体があったように、自然ではできない精度の球体もアヌンナキが作ったのである。すでに世界中で、アヌンナキが作った大小様々な石球が見つかっている。場所によっては絶妙のバランスで立っているものもある。


東南アジア、西ジャワ州、グヌン・パダン遺跡のアヌンナキ---------------------------------------

 ここからは東南アジアに建設された巨石建造物を見ていく。
 西ジャワ州のグヌン・パダン遺跡は、ヒンドゥー教や仏教が伝来するはるか以前に存在した。ここでの石積みも、アヌンナキのニンギシュジッダが作った各国の巨石建造物と共通している。
 またこの遺跡から少し東のガルトには、ピラミッドが存在する。グーグルマップは(7°10'45.36"S 108° 2'37.58"E)。調査団の検証により、このピラミッドは人工的に作られたことが明らかになっている。ただ少なくとも紀元前7500年以前のものとされている。

現代科学では説明できない自然の芸術とされる風景-------------------------------------------------

 次に巨石建造物の共通点を前提に、現在の理解では説明のつかない自然にできたとされる岩の芸術を見てみる。これらも、アヌンナキの神殿などがあった可能性が高い。現代の科学では、これらが自然にできたとしているが、そのプロセスを解明した説明は存在しない。それらのほとんどが隙間なく密着させて形成されている。


 北海道の根室車石(ねむろくるまいし)も、隙間なく岩を密着させている。この辺りの岸辺も同様の岩の作りが見られる。

 兵庫県豊岡市赤石の玄武洞公園の青龍洞

 カナダのブリティッシュコロンビア州の玄武岩の滝

 アメリカ・ワシントンのクラークストンの玄武岩の列柱

 アメリカ・カリフォルニアのデビルス・ポストパイル国定公園

 スコットランドのフィンガルの洞窟

 アイスランドのビークの玄武岩の崖

 ポルトガルのポルト・サント島の玄武岩の列柱

 オーストラリアのフィンガル・ヘッドの玄武岩

 台湾の澎湖県(ほうこけん)の玄武岩

 下記の写真は、アヌンナキが作った西ジャワ州のグヌン・パダン遺跡の多角形の石積みだが、上記の玄武岩で作られた岩の芸術と、作り方が似ていることに気づく。


レイラインに沿って配置された巨石建造物------------------------------------------------------------

 多くの巨石建造物が世界中に存在するが、それらは規則的に配置されている。イースター島から、赤道に30度の角度で進んで行くと、直線上に著名な遺跡が次々と現れる。これらは、この時代より後にアヌンナキが作ったものである。

・イースター島「モアイや多角形の石積み」
・ペルーの「ナスカの地上絵」
・ペルーの「マチュ・ピチュ」
・アルジェリアの「タッシリ・ナジュールの岩絵」
・エジプトの「シワ・オアシスのアメン神殿」
・ギザのピラミッド
・ヨルダンの「ペトラ遺跡」
・イラクの「ウル遺跡」
・イランの「ペルセポリス」
・パキスタンの「モヘンジョ・ダロ遺跡」人骨から放射能を検出
・インドの「ガジュラホ」
・ミャンマーの「ピイ」
・タイの「スコータイ」
・カンボジアの「アンコールワット」

 当然これらは偶然ではなく、アヌンナキのニンギシュジッダによって意図的に配置されている。これらを通過する幅100kmのベルトは、赤道と同じ長さである。またこの直線は、考古学者クラウス・ドナ氏がエクアドルで発見した石の地図に描かれた線と同じ位置を辿っている。

 他にも次のような一致が見られる。

・ナスカとギザ、テオティカンとギザは等距離(画像左)
・イースター島からギザまでの距離は黄金数の1万倍(画像右)
・極点からモヘンジョ・ダロとイースター島は等距離(画像右)
・ギザからナスカまでの距離(地球の回りの緑の点線)に黄金数をかけると、アンコールワットからナスカまでの距離と一致


 これらの遺跡には他にも共通点がある。

1.各地の古代遺跡は、巨石が隙間亡く積み上げられ
2.象形文字が発達し、死者をミイラにし、精巧な暦を作り
3.天文学や建築の知識が跡形もなく消え去り
4.赤道とほほ同じ長さの円周上に遺跡が並び
5.それぞれの距離が黄金律と関連している

 そして「古いほど巨大」「古いほど精密」「古いほど類似」なのである。つまり同じ人物が計画的に統一性を持って設計したからであり、それはニンギシュジッダが行ったのである。

 また、1980年代の終わりから建設が始まったアラスカのHaarp(ハープ)と呼ばれる人工地震や気象操作を行える設備の建設位置が、ちょうどこの新たな北極点の位置している。この道具はイルミナティが他国を攻撃するために使用している。


環太平洋文明の中心地は日本だった---------------------------------------------------------------------

 環太平洋文明圏の中心地は中南米でも良かったが、そこでは飲料水の確保が難しい。神々はそれまでに、地球の様々な気候変動を見てきた。それからすると、いずれ中南米では飲料水に困ることになると予見された。それ故、飲料水が豊富で気候も良く、将来的に人類が目覚めるまで隔離しておける場所として、日本が最適だった。
 更に、日本には金鉱脈も豊富だった。よって、“その時”が来るまでの封印の地として、日本が選ばれた。地震や台風の影響はあるとしても。つまり、レムリア文明の真相は、日本が中心となった環太平洋縄文文明圏のことである。
 アバエルは牧畜、カ・インは農耕を教えられたので、この文明圏では農耕が基本となった。よって、日本では農耕儀礼が神事の中心となった。かつて、日本の縄文時代は狩猟ばかりのように思われていたが、20世紀後半からの発掘調査で、かなり早い時期から農耕が行われていたことが証明された。

 大洪水によって、人々の生活は原始的なものへと戻った。その中で縄文土器の出現や竪穴式住居の普及、貝塚などが生まれた。北海道と沖縄では縄文人の系統が比較的純粋な形で残り、アイヌと沖縄の人々になった。元々日本列島にはすでに原住民が暮らしていたが、大洪水前の高度な知識をもったアヌンナキと移住者たちが主導権を握って、地球規模の大異変で原始時代に戻った文明を、再び発展させていった。


縄文時代の円形の生活空間--------------------------------------------------------------------------------

 日本列島では、非常に直感的なセンスを持った人々によって、現代人の想像をはるかに上回る、整然とした自然界との調和文明が完成されていた。彼らは宇宙の本質を直感によって把握しており、それを数百人規模の小都市がそれぞれ正円形になるような配置によって表し、それが集まった全体の配置も正円形になる完全な計画都市文明を開花させていた。それは、彼らがMUと呼んだ偉大なる大自然の母なる力を受容するために必要な構造であった。
 彼らの住居そのものも円形を基本に設計されており、その中央には、冬至の朝に東門の方から光が差し込むように聖なる中心が配置されていた。こうした円形構造の全体が、人間の本質である霊に影響力を持つことを彼らは知っていたからである。後の時代の縄文遺跡が円形であるのも、この高度な計画都市文明のあり方を踏襲(とうしゅう)していたからである。現代の日本人の大黒柱の神聖概念は、そのわずかな痕跡である。
 日本の縄文遺跡は村全体が円形に配置されており、その中央に祭りの場があったことが研究者の指摘でわかっている。それは整然とした美しい配置であり、一つずつの家がちょうどみんなで手を取り合って円を作った時のように、全体にも円形で配置されていた。そして質素な家の一つひとつも、すべて円形で美しく形作られていた。家も村も計画的に円形に作られているのは明らかであった。人々が集まる時も、円形に集まるビジョンが見え、同時にその周囲に漂う空気が現代の町とはまったく違う、やわらかで優しい気に満ちていた。

 現代人は初歩段階として、人々が円形に集まるとき、現代人のように直線状に対面する時とは違う、それとは異なった意識が形成されることを認識する必要がある。まだ理解されていないが、人間の潜在意識は他のどんなことよりも、空間によって決定されるのである。空間とは自分達の意識の母体である。すべての意識というものは、空間から生み出される。現代人は物を中心に物を作るが、太古の祖先は、空間に合わせて物を作り、村を作った。人間という存在の偉大な点は、その空間を変容させる力を持つことにある。空間の把握は意識の把握であり、空間を把握するものは意識をも把握する。

 空間と自分との関係をわかりやすく、意識レベルで説明する。人々が向かい合い、直線的な関係にある時、相手と自分という相対的な意識が形成されやすい。それは潜在意識に二元的認識構造を植えつけることになる。だが、人々が円的空間を形作る時、相対意識よりも人間の本質的な共鳴性をより増幅させやすくなる。人々が円形に集まり、すべての人が円形の中央に体を向けるとき、隣に座る人々はみな、同一の対象へと向かう共感する人として意識される。
 こうした形でのレベルが自分達に与える潜在意識への影響は、言葉による意識の形成よりもはるかに深く、潜在意識の根本の領域を形作るものである。なぜならそれは、人間の心の世界は宇宙と同質の構造を持ち、それによって成り立っているからである。
 現代人は、平面に描かれた図形などに神秘的な働きを求めたりしているが、空間の持つ力は、それとは桁違いに根本的なものであることを知る必要がある。人間の祖先たちはそれを実際の生活に用いていた。空間と一つになると、人々の魂も一つに結ばれ、その集合した霊の焦点はその中央で一つになる。その共感された意識を持ちながら人々は調和のあるつながりを実現し、深い魂の結びつきを実現させた。
 若者たちは、隣に並ぶ長老たちの所作から無意識のうちにすべてを学んだ。これらは教えることなく共感的に伝えられ、自分の隣に自分と同じように並ぶ何人もの人々を、彼らは自分とつながる連続する仲間として意識していた。人間の祖先のこの円形空間の場は、極めて高度な共感意識による社会を生み出すために、不可欠な基本的条件であった。
 ほんの1ミリの角度のずれが、1キロ先では何十メートルものずれをもたらすように、それが直線状か円形状かの違いが生み出すものは、現代人にはわずかな違いにしか思えなくても、人類文化の決定的な違いをもたらすことを、人間ははるかな太古に認識したのである。その違いは宇宙の陰陽性を象徴するもので、すべては場、つまり空間によって決まる。この叡智のルーツは、前文明における人間の祖先の叡智にある。

 この理解が進むほど、現代の社会はそれとは正反対の直線的な構造の社会であることがわかる。現代人は、直線意識のエネルギーの持つ象徴文化の中で育ち、生活している。そのために宇宙領域とは同調しにくいバリアー(壁、障害物)のような性質が、人々の中に形作られてしまっている。子供たちは学校で大半の時間、みんな同一方向に向いて座り、先生と対面して育つ。すべては直線ライン上に意識が向かい合っている。それは子供たちの育ち方だけではなく、大人になってからも同じである。劇場の公演でも、演技者と観客は直線的関係であるし、オフィスでもやはり机は対面する形で並べられ、一つのライン上で向かい合っている。住居の中もほとんどが直線的に作られており、街の構造も直線である。
 この直線空間か、円形空間かの決定的違いは、意識的、無意識的にかかわらず、中心を共有する意識を持てるかどうかである。すべてに中心が存在するこの宇宙の構造と同じ意識を、一人ずつが育てることができるかどうかにある。


北枕と宇宙の情報について--------------------------------------------------------------------------------

 寝るときに頭を北に向けると地球の磁力線と同じ方向になるので、縄文人は北枕が常識だった。気が多くあるから気多、すなわち北である。古代の日本人は、地球そのものが巨大な磁石であり、北枕で寝ると地球の磁力線によって乱れを正常に戻せることを知っていた。
 日本では北枕は死人の寝かせ方だとして不吉とするが、じつは釈迦(しゃか)が入滅した際の頭北面西(ずほくめんさい)をまねたもので、健康的な寝方である。日本には伝統的に北方を避ける習慣があり、北には寒冷・暗黒・冬・夜・死者などのイメージがつきまとう。同時に静寂の意味もあり、寝殿造の北の対屋には貴人の妻が住んだので、北の方・北の台・北の政所といった呼び名が生まれた。
 方位磁石は、人間が「北」と呼んでいる方角を指すが、なぜ北なのかというと、そのはるか先には、創造の湧き出す「泉」のようなものがあり、宇宙の情報は北からやってくる。頭を北の方角に向けて寝ると、夢を鮮明に覚えていられる。北枕にして寝ると、実は頭が冴えてスッキリし、多次元の情報に簡単にアクセスできる。夢の調査をするにあたっては、頭を北に向けて寝ることは非常に大切なことで、もし北枕で寝ることを禁止されたら、「夢の調査員」としてはまったく機能しなくなるほど重要なことなのである。それほどに、宇宙の情報がやってくる北に頭を向けることは重要なことなのである。「地球という惑星は、磁気を帯びた大きな磁石のようなもので、そこに存在するすべてのものは地球と同じように磁気化されている。それは人類も例外ではない。そのために南北のラインに沿って身体を横たえることで、地球の磁気の流れに逆らうことなく循環できるのである。


縄文時代の「夜這い」と女権社会------------------------------------------------------------------------

 縄文時代のころの日本の社会制度は、ヒメヒコ制という。女性をヒメといい、男はヒコという。そして、ヒメのほうが上である。ヒメが命令すると、ヒコは「はい、はい」といって、荒っぽい外の仕事をする。
 その時代の結婚はどうなっていたか。妻問い婚、つまり夜這いであった。男のほうが女のいるところへ行く。昭和になっても続いていた地方がある。「今夜、行ってもいいか」と男が聞き、女が嫌な場合は「だめ」と言い、オーケーの場合は、「じゃあ、鍵を外しておくからね」と言う。
 そして、もし子どもが出来たら、女のほうに指名権がある。「この子はあの人の子どもです」と女が言うと、結婚しなければいけない。昔はDNAなんて関係ないのである。「おれの子じゃない。あいつの子じゃないか」と言っても認められない。そういうバランスのとれた制度があった。男は、指名されたら結婚しなければいけない。それを覚悟で夜這いに行った。
 この制度だと、女権社会になる。女はずっと家にいる。そこで天気予報や村の人間関係に詳しくなる。予知能力の持ち主になる。そのころヒコは何をしていたかというと、軍事的・政治的に成功すると豪族の娘をどんどん愛人にしていた。そうやって父親の豪族を手なづけていた。


アヌンナキとシャーマン-----------------------------------------------------------------------------------

 ニビル人アヌンナキは地球を去る前に、湿地や沼で両生類、昆虫、爬虫類、鳥たちとともに太鼓を叩いたり、ガラガラ音をたてて、銀河の音を聴く方法を教えていった。この新しい教えは、シャーマンにとって非常に難題であった。なぜならこれは、さまざまな星とつながる作業であり、人間はみな、プレアデス以外にも地球に影響を及ぼしている恒星があることを認識させられたからである。


世界に散った神官達----------------------------------------------------------------------------------------

 大洪水が近づいた時、一部の「聖なる道」を歩んでいたアヌンナキの賢者たちは、シュメールや植民地の図書館から古代の知恵が記録された巻物を集めた。彼らは、世界中のさまざまな場所に分散して移り住むことで、古来の科学的、霊的知識を安全に保管し続け、またその知識を少数の進歩した生徒に教えるために、それぞれの場所で修院を設立することになった。
 しかしそれらの修院、つまり学校の存在は、何千年もの間、人類の一般の人々には秘密にしておくことが義務付けられていた。それらの学校が、今なおミステリー・スクールと呼ばれている所以(ゆえん)である。

 ノアの箱船にいた神官兼守護者は半地球人、半宇宙人の半神半人(ハイブリッド)で、ニンギシュジッダによって訓練されていた。彼らは人類と宇宙を忘れないための役割を担っていた。彼ら神官には、「カバラ」と呼ばれる自然哲学の知識を託した。カバラは自然に属するもろもろの対象を取り扱い、その法則性を明らかにした自然科学が体系化されたものであり、それが後に様々な哲学や宗教、日本では陰陽道などとして様々に解釈されていく。
 カバラでは世界の創造を、神エイン・ソフからの10段階にわたる聖性の流出の過程と考え、その聖性の最終的な形がこの物質世界であると解釈している。この過程は10個の「球」と22本の「小径」から構成される生命の樹(セフィロト)と呼ばれる象徴図で示され、各部分に神の属性が反映されている。したがってカバラは一神教でありながら、多神教や汎神論(はんしんろん)に近い世界観を持つ。別の解釈ではこの世界を一冊の書物とみなす。すべてが書き込まれているこの書を解読することは、この世界のすべてを理解することであるとされている。また生命の樹とはエデンの中央に生えている木の事で、命の木とも訳され、生命の樹の実を食べると、神に等しき永遠の命を得るとされる。

 多くの神官はとても長生きだった。しかし、やがて時とともに神官達も、宇宙との繋がりを忘れていくことになる。その結果、人間はさらに宇宙と離れていく。神官は世界中にいて、子供を作っていた。後の世界中の王族や神官の家系の系譜は、この時の神官や守護者の系譜から来ている。
 そのあと何百年も過ぎ去り、人類とアヌンナキの物語は神話へと変化していく。それはヒンドゥー教、シュメールの神話、ギリシャや日本の神話など、世界中の神話としてであり、それらの物語には多くの共通点がある。これらの内容は、実際に起きた出来事を元にしている。しかし、時間とともに彼らの知識は歪んでいき、内容は一部操作され、本来の出来事とは異なっていることも多くなっていく。やがてそれが宗教となり、支配的なものとなった。そうすると地球人にとっての神の概念も混乱していった。そして今では地球人はどこから来たのかわからなくなり、偶像崇拝も強まり、どの宗教の神が正しいのかということのために戦争が起こっている。

■紀元前1万年頃

イスラエルのシャーマンの墓-----------------------------------------------------------------------------
 この時期、現在の最古とされるシャーマンの墓が、イスラエル北部の地中海沿岸から14キロほど内陸に位置するヒラゾン・タクティット洞窟に残される。女性は身長150センチで45歳ほどであり、ナトゥフ文化に属する高齢の女性が、動物の部位や人間の足とともに埋葬されていた。


トルコのギョベクリ・テペとアヌンナキの共通点----------------------------------------------------

 トルコのギョベクリ・テペの遺跡は、紀元前1万年から紀元前8000年の期間に建てられた。ここにもアヌンナキの共通点を見ることができる。

 ギョベクリ・テペの遺跡には、巨大な丁字型(ていじがた)の石柱がいくつも円を描くように並べられている。石柱の総数は200本以上、それらの描き出す円が20確認されている。石柱によっては6メートル以上、重さは20トン。それらが基盤岩に開けられた穴にはめ込まれている。


 この遺跡から見つかった像は、イースター島のモアイ像と手の形と置き場所が似ている。後述しているが、イースター島には多角形の石積みがあり、モアイ像と共に巨石であることからアヌンナキが作った建造物という結論。つまりギョベクリ・テペのこの像も、アヌンナキが作ったと推察できる。


 その像の耳は、黄金比の曲線を描いている。耳に黄金比がある共通点は、エジプトのスフィンクスにも見られる。


 また、ギョベクリ・テペの別の像は胸を触るポーズをしている。これは世界中から出土しているイナンナ像と同じポーズとなっている。ただ少し違う部分は、下腹部に別の手があることと、太もも辺りに子供がいること。

 ギョベクリ・テペからは生殖器崇拝の像も出土しており、これもアヌンナキが関係する文明に見られる共通点。悪魔崇拝や、古代エジプト、古代ギリシア、古代ローマのファルス(男根)崇拝、インドやネパールなどに見られるリンガとヨーニなど。



■紀元前8000年頃

 現代のパレスチナ、ヨルダン川流域にあったエリコには石造りのモニュメントを伴う大規模集落跡があった。ただ定住という概念自体、広く根付いたのはこれから5000年後。すでに長期の外洋航海や難しい航海が世界中の至る所で行われていた。

■紀元前7200年頃

最初の古代地球大戦争-終戦協定の行方---------------------------------------------------------------

 マルドゥクの息子同士の戦い(エジプト神話の真相)である。このころ3600年の周期でやってくるニビルが地球へやってきた。
 大洪水後の最初のシャルの間、ニンフルサグは何とか皆を仲裁していた。ニビルへの金の供給は、野心と権力争いに影響を及ぼしたのである。地球はゆっくりと生命が戻り、増えていった。ところが、平和的な休戦は、マルドゥクとニヌルタでもなく、エンキとエンリル一族でもなく、イギギによって損なわれた。マルドゥクとサルパニト、そして息子たちがラーム(火星)で大洪水を回避していた時、2人の息子アサル(オシリス)とサツ(セト)が、イギギの指導者シャムガズの2人の娘に好意を寄せ、姉妹を娶(めと)り、地球に戻った。アサル(オシリス)の配偶者はアスタ(イシス)、サツ(セト)の配偶者はネバト(ネフティス)であった。
 アサル(オシリス)はマルドゥクと共にアフリカに住むことを選んだ。サツ(セト)はイギギが住む“着陸場所”の近くに、シャムガズと共に自分の家を構えた。かつてのラームの指導者シャムガズは、地球での領地について気にかけていた。イギギはどこの支配者になるのだ、アサル(オシリス)だけが肥沃な土地を継承するのではないか、と。彼は他のイギギを扇動し、そのことをネバトとサツ(セト)に毎日話した。継承権をサツ(セト)に握らせる方法を、彼とネバトは企んだ。

 ある日、彼らは祝宴を催し、イギギとアヌンナキを招待した。ネバトは着飾り、食事を用意し、アサル(オシリス)のために歌を歌った。サツ(セト)は焼いた肉を切り分けた。シャムガズはワインを勧めた。その後、アサル(オシリス)は酔いつぶれ、奥の部屋に運ばれた。そして、棺の中に入れられて密封され、その棺は海に投げ込まれた。その知らせがアスタ(イシス)に届くと、彼女はマルドゥクに泣き叫んで訴えた。「アサル(オシリス)は残忍に殺されました!棺をすぐに見つけなければなりません!」


 棺はアフリカの海岸の側で発見された。中には硬直したアサル(オシリス)が横たわり、生命の息吹が消えていた。マルドゥクは自分の服を引きちぎり、額に灰をつけた。特に、サルパニトの嘆きは大きかった。エンキは打ちひしがれ、涙を流した。「カ・インの呪いが繰り返されてしまった!」アスタ(イシス)は復讐と世継ぎをマルドゥクに訴えた。
「サツ(セト)は死ななければなりません!あなたの種子で、私に継承者を生ませてください!」しかし、エンキが制した。
「それはならぬ!兄弟が殺されたら、兄弟の兄弟が番人となるのだ。故に、サツ(セト)の命は救われ、お前は彼の種子によってアサル(オシリス)の世継ぎを生まなければならない!」
 彼女はひどく取り乱し、規則を無視することとした。アサル(オシリス)の遺体が包まれて、聖堂の墓に埋葬される前に、アスタ(イシス)は彼のペニスから精子を抽出した。そして、自分を妊娠させ、アサル(オシリス)の世継ぎを産んだ。
 サツ(セト)はエンキらの前で宣言した。「私はマルドゥクの唯一の後継者だ。私は“2つの峡谷の地”の主人となるのだ!」しかし、アスタ(イシス)が異議を申し立てた。「私には、アサル(オシリス)の世継ぎがいます!」
 サツ(セト)はこれに狼狽(ろうばい)したが、シャムガズは野望を捨てなかった。サツ(セト)の報復を避けるため、彼女は川のパピルスの茂みに子供と身を隠した。彼女はその子をホロン(ホルス)と名付けた。

 ホロンは大叔父ギビルに引き取られ、復讐のために必要なことを指導された。ギビルは彼に、鷹のように飛べる、舞い上がるサンダルを作った。ギビルは神々しい銛(もり)を作り、その矢は稲妻のようだった。ギビルは金属の技術と鍛冶を教えた。鉄と呼ばれる金属の秘密を、ギビルは教えた。ホロンはそれらで武器を作り、忠実な地球人の軍隊を招集した。
 サツ(セト)とイギギに挑むため、彼らは北に向かって進軍した。ティルムンの国境地方、“ミサイルの土地”に達すると、サツ(セト)がホロンに挑戦状を叩きつけた。軋轢(あつれき)は2人だけの問題なので、1対1での戦いとなった。

 ティルムン上空で、サツ(セト)は“つむじ風”で待ち受けた。ホロンが舞い上がってくると、サツ(セト)は毒を塗った短い矢を撃ち、ホロンはサソリに刺されたように倒れた。アスタ(イシス)が助けの叫び声を天に放つと、ニンギシュジッダ(トト)が“空の船”から降りて来た。魔法の力で、彼は毒を善の血に変えた。
 朝にはホロンは回復し、ヒレと燃える尾を持った天の魚のような“猛火(もうか)の柱”を、ニンギシュジッダ(トト)は授けた。その両目は青、赤、青と色を変えた。(追跡ミサイルか?)勝ち誇ったサツ(セト)に向かって、ホロンは“猛火の柱”を撃ちこみ、更に銛(もり)でサツ(セト)を打ち倒した。サツ(セト)は地面に激突し、ホロンによってロープで縛り上げられた。

 ホロンがサツ(セト)を議会の前に連れて来た時、サツ(セト)は失明し、睾丸(こうがん)が潰れていた。「サツ(セト)は失明し、もはや跡取りもできない。生かしておきましょう」とアスタ(イシス)は言った。そして、イギギの中で人として生涯を終えるよう、決定された。
 マルドゥクは自分の住居でその決定を聞いて喜んだが、起こったことについては悲しんだ。息子を2人とも失い、サルパニトと共に慰めあった。やがて、もう1人の息子が生まれた。2人はナブ、“預言を運ぶ者”と名付けた。

 サタンの根源はイギギである。またこの時代から鉄があった。
 エジプト神話ではオシリスの男根が見つからず、オクシリンコスという魚が飲み込んだことになっているが、それにはニビルのアラルとアヌの戦いの話が引用されていて、とても混乱している。

 アサル(オシリス)が殺害された時、マルドゥクが自分の服を引きちぎって額に灰をつけたのが、聖書における“衣を裂き、粗布(そふ)を纏(まと)い、頭から灰を被って祈った(悔い改めた)”ことの原型である。そして、アスタ(イシス)が川のパピルスの茂みにホロン(ホルス)を隠したことは、モーゼ誕生場面の原型でもあり、アダパとティティを、パピルスの茂みの中で葦の籠に入っていたことにさせたエンキの話が重なる。このように、1つの事象に対していくつもの象徴が重ねられていることは、カバラの本質でもある。


ナスカの新たなる“天と地球を結ぶ”施設----------------------------------------------------------------

 ホロンとサトゥがティルムン上空で闘った戦闘の後、エンリルが3人の息子を会議に呼んだ。彼は最近の出来事を心配し次のように言った
「最初我々は地球人を我々の形と姿に似せて創造した。今ではアヌンナキの子孫は地球人の形と姿に似るようになってしまった!それからカ・インが弟を殺した。今ではマルドゥクの息子がその兄弟の殺人者になっている!初めてアヌンナキの子孫が地球人の間に軍隊を起こした。アヌンナキの秘密である金属の兵器を彼は彼らの手に渡した!アラルとアンズにより我々の正当性が挑戦を受けた頃から、イギギによる混乱と規則破りが続いた。今ではマルドゥクの領土に信号灯の頂があり、着陸場はイギギにより占められている。今イギギは戦車場の辺りへ進出している。サトゥの名前で天と地の全ての設備を彼らは主張するようになるだろう。」
 対抗策を講じるように彼は提案した。
「天と地の設備をもう一つ我々は建設しなければならない、それは大洋の向こうの南米のニヌルタ(アラム・ムル)の地、信頼できる地球人の中に置かれるべきである。」
 このようにして秘密の使命がニヌルタ(アラム・ムル)の手に委ねられた。大洋の向こうの山間の地、大きい湖のそばに、新しい「天地の絆」が設立され、囲いの中にそれは置かれた。金塊が散らばっている山の麓(ふもと)、頑丈な基盤の平地を彼は選び、その上に上昇と下降の印を彼はつけた。
「設備は原始的ですが、目的は遂行できます」
 そうニヌルタは父エンリルに予定通り報告した。
「ニビルへの金の輸送をそこから継続できますし、必要なら我々もそこから出発できます。」

 こうして、ナスカ平原に“天と地球を結ぶ”施設が造られた。ナスカの地上絵は、空から見たときの目印となる絵であった。また長い直線の絵は、宇宙船の滑走路である。

 ペルーのイカ市の博物館には、後頭部が異常に大きい頭蓋骨が展示されている。イカ市はナスカの地上絵の近くで、この頭蓋骨が発見された。これは人間のものではなく、アヌンナキもしくは彼らとの半神半人の頭蓋骨である。
 エジプトのメンフィスの墓の壁画には、後頭部が大きい巨人の絵が描かれている。エジプトを支配していたのもアヌンナキであり、彼らは巨人だった。後頭部が大きい頭蓋骨は、アヌンナキもしくは彼らとの半神半人のものである。




 南米のエクアドルのチョレラ文明やトゥマコ地方からも、後頭部が大きい像が発掘されている。それはエジプトのファラオの正妃ネフェルティティの大きな後頭部とも同じである。つまり彼らはアヌンナキとのハイブリッド(半神半人)ということ。





 アヌンナキが作った世界中で見られる黄金比の渦模様----------------------------------------------

 ナスカの地上絵には渦巻きが3つほど見られる。例えばサルのシッポ部分など。渦巻きの模様は世界中で見られ、時には黄金比の曲線で描かれている。黄金比とは銀河や台風、植物、人間など、宇宙を構成するあらゆる部分に見られる比率である。アヌンナキが関係する場所には必ずと言っていいほど黄金比の渦模様が描かれている。




 ペルーのナスカ郊外にあるパレドネス遺跡の水路は、黄金比の渦巻きでできている。中には水が流れており、現在も農業用水として使用している。これも石積みでできており、つまりアヌンナキが作ったということ。


 コロンビアのシヌー地方の古代遺跡から発掘された黄金ジェットにも、黄金比が刻まれている。発掘地のコロンビアと、ナスカの地上絵のあるペルーは場所が近く、黄金ジェットとナスカの地上絵の造られた年代が一致することから、なんらかの関わりがあるのではないかとも言われている。つまり、ナスカの地上絵に描かれている滑走路から黄金ジェットが飛び立っていたと考えられる。この黄金ジェットが実際に飛ぶということを証明した実験動画を、下記より見ることができる。


 渦の模様は世界の各地で見られ、南アフリカのカラハリ砂漠のフェールヌークパンにも黄金比の渦の地上絵が描かれている。直径が175mもある黄金比の渦模様を描いたのは、人間でないのは明らかである。Google Map(-30° 0′ 21.64″, +21° 6′ 21.69)




 オーストラリアのアリススプリングにも渦の地上絵が見られる。これは黄金比ではない。Google Map(-23° 49' 17.71", +133° 49' 58.83")


 また、世界中の岩石や洞窟に描かれたペトログリフにも渦の模様が見られ、多くが黄金比となっている。下記のペトログリフの年代は不明だが、一般的にペトログリフは紀元前1万年くらいのものとされている。一般的には原始人が書いたとされているが、黄金比を正確に書くには人の手では無理であり、つまりアヌンナキが科学技術を用いて刻んだということ。(画像はrabbithole2.comより)












 オーストリア人の遺物調査人クラウス・ドナ氏が南米ボリビアのプマ・プンクで発見したお面やフルートにも、黄金比の渦が描かれている。このお面は身長が2.6mの巨人のものとなっていて、ちょうどアヌンナキかその半神半人と同じサイズのものである。




 渦の模様は後の時代にも引き継がれ、地中海のゴゾ島の巨石の渦模様も黄金比であり、ギリシャの南東沖のエーゲ海の出土品の渦模様も黄金比、メキシコのマヤ文明の出土品の蛇のナイフの渦模様も黄金比である。




 マヤ文明のチチェン・イッツァのククルカンの神殿の蛇の口元にも渦巻き模様が見られる。ここでは階段を挟んで2匹の蛇がいるが、2匹の蛇はアヌンナキのニンギシュジッダの象徴。 ニュージーランドのマオリの口元の刺青にも、渦模様が見られる。


 また、グアテマラ北部のマヤ文明の祭祀センターのサン・バルトロでは、黄金比の渦模様が描かれた壁画が発見されている。マヤ文明はアヌンナキが作った文明なので、サン・バルトロも壁画もアヌンナキが作ったということである。

 メキシコのテオティワカン文明のケツァルコアトル神殿のケツァルコアトルの耳も、黄金比の曲線となっている。ケツァルコアトルとはアヌンナキのニンギシュジッダのこと。


 日本の縄文土器や縄文土偶でも、黄金比の渦が見られる。縄文土偶はアヌンナキのイナンナを表している。古代の人々が綺麗な黄金比を手作業で作ることは不可能であり、縄文土器、縄文土偶は人間の手で作ったのではなく、アヌンナキが作ったものを人間に与えたということである。






 沖縄県立博物館・美術館にある沖縄県の北谷町(ちゃたんちょう)より出土の石板にも、黄金比が無数に描かれている。沖縄では明治の中頃まで若い女性が、ハジチと呼ばれる絵文字の入れ墨をする習慣があったが、その入れ墨と出土した石板の絵文字が同じだった。つまりハジチの入れ墨の文化もアヌンナキ由来である。


 710年の平城京の第一次大極殿にある天皇の即位式を行う高御座(たかみくら)にも、黄金比が見られる。
 
 現代においてはアヌンナキを悪魔崇拝したイルミナティ関係の企業にも渦巻きのデザインが見られ、黄金比をとりいれていることがある。例えば1ドル札の目の部分の渦巻きなどである。
 黄金比の渦巻き模様は素粒子の周波数1.6180の比率から来るもので、それは宇宙の誕生からある数値で、それを知っていたアヌンナキが地球上でもデザインに使用し、イナンナのシンボルとしても使用する。やがて各民族の伝統文化の中に渦巻きの模様が見られる様になり、それが現代社会ではイルミナティに関係する企業などに使用されている。


  
アンデス文明の始まり-------------------------------------------------------------------------------------

 この頃、人々はどこから来て、だれだったのかを忘れ始めた時期でもあった。しかし、平和な時代が続いたため、「偉大なるアヌンナキ評議会」において、人類に新たな技術を供与することが決定された。これにより、人類の新石器時代が開始した。人類は村を形成して生活するようになり、また土器や高度な石器を製作するようになった。そんな中、南米のペルーを中心とする太平洋沿岸地帯およびペルーからボリビアへつながるアンデス中央高地に、アマゾン帝国の叡智を受け継いだアンデス文明が始まり、後のインカ文明の祖先となる。