8章 邪馬台国とイスラエル : 地球人のルーツ

■紀元前1500年頃

アフリカのドゴン族とアヌンナキ------------------------------------------------------------------------

 シリウスからやってきた人魚種族のシリウス人が、アフリカのマリ共和国のドゴン族に文明を伝えたとされている。このシリウス人とはアヌンナキのことであり、神とされるノンモはニンギシュジッダのことである。
 ドゴン族はマリ共和国のニジェール川流域に面したバンディアガラの断崖に居住する民族で、人口は約25万人。後にドゴン族の伝承には次のようなものがある。

●シリウスの周りには「ポ・トロ」と呼ばれる星が50年で一巡りしている。
●「ポ・トロ」の通り道は楕円で、母なる星(シリウスのこと)はその2焦点の一方に位置する。
●「ポ・トロ」は全天で最も小さくて、重く、色は白く、地上にない種類の非常に重い金属からできている。
●「母なる星」には、ポ・トロの4倍も重く、通り道もずっと大きい「エンメ・ヤ」(第3の星)が回っており、さらにそれを、ノンモ(両生人)の住むニャン・トロ(ノンモの故郷星)が回っている。
●遠い昔、ノンモが地上を訪れ、オゴ(人類)に文明を与えてくれた。
●太陽系の木星には4つの衛星があり、土星には輪が存在する。

 ニビルはそもそもシリウスBの軌道を廻っていた巨大惑星である。ドゴンに伝わる話はアヌンナキの話と通じる。例えばドゴン族では現在も男女問わず割礼が行われているが、これはアヌンナキが人間とアヌンナキを見分けるために始めたこと。
 さらにドゴン族の神話で「創造神アンマは不浄と化した大地から遠ざかり、粘土から人間の創造を始める。」とあるが、これもアヌンナキのニンマーが受精卵を入れた粘土(猿人の卵子)から人間を作り始めたことに似ている。
 他にも、ドゴン族に伝わる神ノンモは双子の精霊で、上半身は人で、下半身は蛇、手に関節が無く、舌は二股に分かれている姿をしているという。これは中国神話の蛇神で有名な伏義(ふっぎ)と女媧(じょか)に似ており、二匹の蛇はニンギシュジッダを意味する。
 ドゴン族の60年に一度行われるシギの祭りでは、レーベが転生した姿である蛇の仮面が使われるが、ここでも蛇が世界中の蛇信仰と同じくキーワードになっている。つまりドゴン族に文明を伝えたのはアヌンナキである。

etc. 

■紀元前1442年

イスラエルとアラビア半島西部のアシール地方-------------------------------------------------------

 ユダヤ教の起源を、古代のメソポタミアやシリアやエジプトの宗教に求めて説明しようという試みは、これまでのところ事実上成功していない。例外は神話の借用だけで、一例としては洪水神話である。


 アラビア半島西部のアシール地方は、古代、隊商たちの合流地点であった。ここには、一方ではインド洋沿岸、すなわちインド、アラビア半島南部、東アフリカから運ばれる荷と、もう一方では、ペルシャ-メソポタミアと東地中海沿岸地域、とりわけシリア、エジプト、エーゲ海から運ばれる荷が集まった。
 アラビア半島西部からパレスチナへの最初の入植者は、聖書に登場するペリシテ人が、この地にその名「パレスチナ」を与えたことを考えれば、彼らがユダヤ教徒より先に移住していたことは疑いない。
 同様に、アラビア半島西部のカナン人も、早い時期から「ひろがった」(創世記10章18節)。そして彼らは、ギリシャ人がフェニキア(アシールのファニーカー)と呼んだパレスチナ北部のシリア海岸沿いの土地に、自分たちの名カナンを与えたと考えられる。フェニキアを、そこの住民自身がカナンと呼んでいたことは、ベイルートで発掘されたヘレニズム期の硬貨に示されている。そこにはフェニキア文字で、この町が「カナンの」町であると書かれ、またギリシャ語では「フェニキアの」町だと記されている。
 ギリシャの歴史家ヘロドトスは、紀元前5世紀の「フェニキア人」と「パレスチナのシリア人」についての著述のなかで、なんのためらいもなく、彼らの起源をアラビア半島西部としている。ヘロドトスはこの両者について、次のように書き記している。「フェニキア人は、彼ら自ら伝えるところによれば、古くは「紅海」辺に住んでいたが、その地からシリアに移り、シリアの海岸地帯に住むようになったという」(『歴史』 7巻89節)

 次の二点については非常にはっきりしている。まず第一にメソポタミアにおけるヘブライ人の起源を示す跡、および彼らがそこから北シリア経由でパレスチナへ向かったと考えられる移動の跡が、一世紀以上にわたり念入りに探索されてきたにもかかわらず、未だにそこには見当たらないということである。
 第二には、エジプトにイスラエル人の捕囚がいたということ、すなわち古代のいつの時代かにイスラエル人による出エジプトがあったという明白な証拠になるものが、いまだに発見されていないということである。ついでにもうひとつ付け加えることができる。聖書学者たちのあいだではなおも、シナイを経てエジプトからパレスチナにいたったというイスラエル人の出国について議論されているが、これについてもいまだに学説として満足のいく体裁(ていさい)が整っていないのである。
 考えてみると、このことはさして驚くべきことではない。聖書学者たちは、見当ちがいなところにその証拠となるものを探しているからである。
 全歴史がパレスチナに起こったものとして、その見地から聖書の文章を調べてみると、多くの問題が答えられないまま残る。しかし、聖書の地理をパレスチナからアラビア半島西部へ移すと、ほとんどの問題点が解消してしまうのである。
 そしてエジプト、シリア、メソポタミアの記録をこの地理的設定のもとに読み直してみると、すべてつじつまが合うのである。
 イスラエル人の本来の故郷、そしてユダヤ教発祥の地は、パレスチナではなく、アラビア半島西部である。ヘブライ語聖書原典は、アラビア半島西部で書かれ、主としてその地方のイスラエル人たちについて述べたものであり、他郷(たきょう)のユダヤ教徒について書かれたものではない。


ヤハウェと地名----------------------------------------------------------------------------------------------

 数多くのアラビア半島西部の神々がヤハウェと同一視されており、それらの名がまたそれらの神々の故地に地名として残っている。それらをあげると、アール・サーディー、アール・ラフワ、アッサバヤートなどである。また、この地の二つのアラビア半島西部の神の名、アール・ジャッバールとアブー・アルイードは、イザヤ書9章6節中では、イスラエルのメシヤの名とみなされている。すなわち二つの神の名は、同じようにイスラエルの神ヤハウェのこととされてきた。
 ヤハウェという名それ自身も、アラビア半島西部にはいくつも残っている。それは北ヒジャーズの地名ばかりでなく、ひとつにはアシール沿岸地方にあるジャバル・タフワーという峰の名である。
 村の名には、以下のものがあげられる。メッカの近くでは、アルハーウ。ターイフ近辺ではアルハワー、アブー・ヒヤー、ヒヤ。ニマース地方ではアール・ヒヤ。
 さらに考えられるのは、ヤハウェは本来は山岳神であったということである。この神の名は、これまでさんざん学問上の議論の主題とされてきたが、この語を単純に動詞hwh(これまでしばしば想定されてきたhyh=「在る」ではない)に由来する古い形の実詞であると考えれば、その意味もヘブライ語、アラビア語の「落ちる」ではなく、アラビア語の「そびえる」「高められる」であると説明できる。

これまでの旧約聖書の解釈(エジプトのヨセフ)--------------------------------------------------------

 ここでの出来事もすべてエジプトで起こったものではなく、アラビア半島西部のアシールで起こった可能性がある。

 エンキの支配地域であるエジプトでは400年の間、首相となったヨセフとイスラエルの子孫とその子孫は繁栄して60万人に達し、新たな政権が生まれた。そしてヨセフはイスラエル人と同盟を結び、メソポタミアのエンリルテ(エンリル一族)に対し敵対して、彼らは権力を握った。




■紀元前1353年頃

アヌンナキと人間のハイブリッドのネフェルティティ-----------------------------------------------

 この頃、エジプトのファラオでアメンホテプ4世であるアクエンアテンが即位し、有翼円盤に象徴されるアテン神への信仰が起こる。


 ネフェルティティが、アクエンアテンとの間に6人の娘を生んだことは知られている。その中のネフェルネフェルアテン・タシェリト(紀元前1344年)、ネフェルネフェルレ(紀元前1341年)を描いた壁画が残っているが、二人の後頭部が現代人のものより大きく出ている。エジプトのメンフィスの壁画では、後頭部が大きい人物は身長約270cmと背も高く、アヌンナキと人間のハイブリッド(半神半人)である。またアヌンナキが描いたナスカの地上絵があるペルーのイカ市の博物館には、後頭部が異常に大きい頭蓋骨が展示されている。これもハイブリッドのものである。つまりネフェルティティもアヌンナキの血を濃く受け継ぐ存在と考えられる。



 
■紀元前1290年頃

約束の地はどこか-------------------------------------------------------------------------------------------

「約束の地」が、じつはこれまで一般に信じられてきた場所ではなかった。このような考えは、1948年のイスラエルの建国を宿年の夢の実現であったと信じている人びとには、受け入れ難いものだろう。
 従来の定説では、ヤハウェがヘブライ人アブラムに約束した土地(創世記15章18節)は、「エジプトの川から、かの大ユフラテまで」におよぶものとなっている。しかし、この定説に反して、約束の地が地理的には、北はリースの内陸部にあるワーディ・アダムから、南はジーザーン地方、つまりアシールにあたるものだった。この約束の言葉にある「エジプトの川」とは、明らかにナイル川のことではなく、アシール高地にある現在のミスラーマ村近くに源流をもち、ジーザーン地方とリジャール・アルマアの境界線になっているワーディ・イトゥワドのことである。あるいはそれは、ジーザーン地方とイエメンとの境界線をなすワーディ・リヤであったとも考えられる。そこには今日もマスラム(msrm)という村が残っているのである。


 このアブラムとその子孫の「ヘブルびと」に約束された地には、もちろん先住民がいた。ヤハウェの約束では、そこに住む人びととして、全部で10の部族名があげられている(創世記15章19〜21節)。そしてそのうちの5つの部族は、創世記10章15〜18節によると、「カナン」の人びとであったとされている。これらの10部族の名は、以下にあげるようにアシールのさまざまな地方、とりわけかつての「ユダ」地方に地名として数多く残っている。

1 ケニ人
2 ケニジ人
3 カドモニ人
4 ヘテ人
5 ペリジ人
6 レパイム人
7 アモリ人
8 カナン人
9 ギルガシ人
10 エブス人

 10の部族について以上の仮定が正しいとすると、今までの聖書による部族の研究は、完全に見当ちがいだったということになる。したがって、古文書や考古学の分野でこれらの部族の起源を立証する証拠がほとんどあげられなかったことも、驚くにはあたらない。というのも、この点に関するこれまでの調査研究すべてが、誤った地理的設定(すなわちアラビア半島西部ではなく、パレスチナと歴史的シリア)をもとにすすめられてきたからである。
 創世記によれば、ヤハウェがアブラムとその子孫に与えると約束した地は、本来これら古代のアラビア半島西部の部族が住んでいた地域のことであった。また、ヤハウェがモーゼに約束したという地(民数記34章1〜12節)もこの同じ地域にあったが、その土地はこれまで考えられていたように、アブラムに約束された地に比べて狭いわけではなく、むしろ実際にはそれ以上の広さをもっていた。それは「カナンの地で、その全域」(同34章2節)におよぶものであって、ヒジャーズのターイフ地方も含むアシール沿岸から内陸部にかけた地方、すなわち紅海沿岸からアラビア半島の内陸砂漠の辺縁(へんえん)にまでいたるものであった。


これまでの旧約聖書の解釈(モーゼ)----------------------------------------------------------------------

 ここでの出来事もすべてエジプトで起こったものではなく、アラビア半島西部のアシールで起こった可能性がある。

 ヤコブ一族は、ヨセフがエジプト首相であったことも手伝って、エジプトの地に移り住み、その地で栄えた。しかしヨセフの死後、ヨセフのことを知らない新しい王が現れ、イスラエル12支族への圧迫が始まった。そして彼らは約400年にわたって奴隷とされた。そして、いよいよ新エジプト王によるイスラエル12支族への苛酷な迫害がピークに達しようとする時期に、モーゼが誕生したのであった。モーゼはレビ族の血筋であった。

 彼は紀元前1290年に全イスラエル民族を率いてエジプトを脱出。以後3年半にも及ぶ集団放浪生活を送ったが、この間にアヌンナキ(神)はイスラエル民族に、十戒石板、マナの壷、アロンの杖という三種の神器と、それを入れる契約の箱(アーク)を授けた。これは神とされたニビル星のアヌンナキとイスラエル12支族との契約の証しで、古代ヘブライ教(原ユダヤ教)の成立を意味した。
 契約の箱はやがて日本の神輿の文化へとつながっていく。神輿をかついで街をねり歩くその光景は、ダビデが契約の箱をエルサレムに導き入れたときの光景である。神輿をかつぐ者たちの正式な服装は白の祭司服である。ダビデやレビ人たちも、白の祭司服を着ていた。この文化がイスラエル10支族とともに日本へやってきて、神輿(みこし)を担ぐ文化になった。つまり日本の伝統文化はユダヤの文化である。



■紀元前1250年頃

これまでの旧約聖書の解釈(ヨルダン川について)-----------------------------------------------------

 ここでの出来事もすべて、アラビア半島西部のアシールで起こった可能性がある。

 エジプトから脱出したイスラエル人であるユダヤ人を率いたモーゼは日本へ去った。そして彼の後継者ヨシュアに率いられたユダヤ人はヨルダン川を渡り、イェリコの町とその地域を征服する。大預言者モーゼの後を引き継いだヨシュアはイスラエル12支族を率いてヨルダン川を横断し、約束の地カナンへと侵入した。

 このヨルダン川は川ではなく、アラビア半島西部のアシールにある山脈の断崖の可能性がある。

イスラエル12支族は、神が約束した土地であるという大義のもとで先住民と戦い、瞬く間に征服し、支族ごとに12の領地に分割した。ここにイスラエル王国の基礎が築かれたわけだが、当初は戦争の英雄でサウルがイスラエル12支族を統治していた。


■紀元前1200年頃

 この頃建てられたエジプトの古代都市遺跡アビドスの、ラムセス2世の父親セティ1世の葬祭殿にある壁画には、ヘリコプターや飛行機の様な乗り物の絵が描かれている。

アッシリアの黄金の盃(さかずき)------------------------------------------------------------------------

 メソポタミア地域を支配したアッシリアの黄金の盃(さかずき)にも、天皇家の菊花紋に似た模様が盛り上がった中央部に刻まれている。これもイナンナの十六花弁ロゼッタで、中段と端にはイナンナのシンボルの渦模様が無数に見られる。この頃は小規模勢力に過ぎなかったアッシリアが、有力国として台頭する時代であった。

■紀元前1142年頃

ダビデの都ヘブロンはアラビア半島西部にあった----------------------------------------------------

 ダビデの最初の都ヘブロンは、アラビア半島西部のアシールのクンフザ内陸地方にあるマジャーリダ地方のヒルバーンにあった可能性がある。というのも、ヘブロンに関連する地名が、その一帯にいくつも見出せるからである。
 エルサレムが、パレスチナのエルサレムではなく、アシールのニマース地方に今日も残っているアール・シャリームという村にあった。
 ダビデの都は、ダビデの時代にその国土の南域を守るために築かれた城塞都市であった。このダビデの「エルサレム」すなわちアール・シャリームは、山の上にあっただけでなく、この王国の拡大によって、北はワーディ・アダムとターイフ地方、南はリジャール・アルマアにまたがる領土の中央に位置するようになった。またこの町がアシール断崖地帯の東側を走る主要山道に面しているので、いくつもの分岐点とつながっており、東は内陸の隊商路へ、西は海岸側へと通じていた。
 このエルサレムで自分の地位を築いた後、ダビデはもはやユダのみならず、「全イスラエル」を治めることになった(サムエル記下5章5節)。彼の後を継ぐ息子ソロモンもまた、同様であった。

これまでの旧約聖書の解釈(イスラエルの王サウル)--------------------------------------------------

 ここでの出来事もすべてエジプトで起こったものではなく、アラビア半島西部のアシールで起こった可能性がある。


 イスラエルの最初の王であったサウルは、アマレク人との戦いで主なる神の命令に背き、その寵(ちょう)を失った。神の命を受けたサムエルは新たな王を見出して油を注ぐべく、ベツレヘムのエッサイなる人物の元に向かった。そこでサムエルはエッサイの第八子で羊飼いの美しい少年ダビデに目をとめてこれに油を注いだ。主の霊がサウルを離れたため、サウルは悪霊にさいなまれるようになった。そこで家臣たちが竪琴の巧みな者を側に置くように進言し、戦士であり竪琴も巧みなダビデが王のもとに召し出された。ダビデが王のそばで竪琴を弾くとサウルの心は安まり気分がよくなった。

 その頃、サウルとイスラエル人たちはペリシテ人との戦いを繰り返していた。ペリシテ最強の戦士でガト出身のゴリアト(ゴリアテ)はしばしば単身イスラエル軍の前に現れて挑発を繰り返したが、イスラエル兵はこれを恐れた。従軍していた兄たちに食料を届けるために戦陣をおとずれたダビデは、ゴリアトの挑発を聞いて奮起し、その挑戦を受けることを決意した。サウルの前にでたダビデはサウルの鎧と武器を与えられて身にまとったが、すぐにこれを脱ぎ、羊飼いの杖と石投げだけを持って出て行った。

 ゴリアトはダビデを見ると「さあ来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう」と侮ったが、ダビデは、「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かってくるが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」と答えた。ダビデが石を投じるとゴリアトの額にめり込み、ゴリアトはうつぶせに倒れた。ダビデは剣を持っていなかったので、ゴリアトの剣を引き抜いてその首を落とした。ペリシテ軍はこれを見て総崩れになり、追撃したイスラエル軍は大いに勝利した。

 その後、ダビデは出陣の度に勝利をおさめ、人々の人気を博した。サウルはこれをねたみ、ダビデを憎むようになった。サウルはペリシテ軍の手によってダビデを亡き者にしようとたびたび戦場に送り込んだが、ダビデはことごとく勝利をおさめ、サウルの娘ミカルをめとった。ここにいたってサウルは家臣たちにダビデ殺害の命令を下したが、サウルの息子ヨナタンはダビデを愛していたので、ダビデにこれを告げ、ダビデは死地を逃れた。その後もサウルは幾度もダビデの命を狙ったが、すべて失敗した。

 サウルの手を逃れて各地を転々としたダビデであったが、あるとき、エン・ゲディの洞窟に隠れているときにサウルがそこに入ってきた。ダビデの周囲の者たちはサウルを仕留めるように勧めたが、ダビデはこれをせず、ひそかにサウルの上着の裾を切り取った。ダビデは何も気づかずに洞窟を出たサウルに裾を示し、害意のないことを告げた。また、別の機会にサウルがダビデを討つべく出陣したときに、ダビデがサウルの陣内に侵入するとサウルと従者が眠りこけていた。ダビデの従者は再びサウルを討つことを進めたが、ダビデはこれを拒み、王の槍と水差しをもって陣営を出た。ダビデは再びサウルに害意のないことを告げた。

 その後、神の寵愛(ちょうあい)を失っていたサウルはペリシテの軍勢の前に敗れ、息子たちとともにギルボア山に追い詰められた。ヨナタンを含む息子たちは戦死し、サウルは自ら剣の上に身を投じて死んだ。サウルの死を聞いたダビデは衣を引き裂いてこれを嘆いた。ダビデは神の託宣を受けてユダのヘブロンへ赴き、そこで油を注がれてユダの王となる。

 ユダの一族を率いたダビデは、サウルの後を継いだサウルの息子イシュ・ボシェト率いるイスラエルの軍勢と戦いを繰り返した。イシュ・ボシェトは昼寝中に家臣に殺害され、その首がダビデの元にもたらされた。ダビデはイシュ・ボシェトを殺害した2人を殺して木につるした。ここに至ってダビデは全イスラエルの王、指導者になり、エルサレムに進撃してそこを都とした。

 ダビデは混乱していた全イスラエル民族を完全に統一し、ここに歴史に名を残す「イスラエル統一王国」が誕生し、12部族がひとつにされる。


アラビア半島西部のアシールに定住したイスラエル12支族----------------------------------------

 ヘブライ語聖書によると、今日のアシール沿岸地方に定住していた12支族は紀元前1000年頃、そこに彼らの王国をうち建てたとしている。この王国の成立の背景には、当時アラビア半島西部の恵まれた政治的、経済的状況がある。紀元前1200年頃になると、メソポタミア、北シリア、エジプト方面からアラビア半島に向けての諸帝国の侵略もいったん緩んだ。それにともなってアラビア半島一帯には、いくつもの地方国家が出現したのである。紀元前1300〜紀元前1000年までのある時期、アラビア半島の内陸を横断する隊商貿易もまた、一大隆盛期を迎えることになる。このことは、従来のロバにかわり、ラクダがより便利な荷物運搬役として、大規模に使われはじめたという事実に反映されている。
 聖書にある「イスラエルの人々」とは、本来アラビア半島西部のアシールの高地に住む12支族たちの連合体を指すものである。12支族のうち二つの支族は、アラビア半島西部に歴史上存在した部族、ルアイイ(=レビ)とヤシュクル(=イッサカル)を指す。そしてその他の10支族の名は、実際、アラビア半島西部に住む部族名として今も残っている。ラワービーン(=ルベン)、サマーイナ(=シメオン)、ワハーディーン(単数形はワハーディー、すなわちユダ)、ザッバーラーまたはズバーラ(ともにゼブルンにあたる)、ドゥワーニヤ、ダナイウィーまたはダンダン(この三つともダン)、ファラーティーン(=ナフタリ)、ジューダーン、ジューダ、ジューディー、ジャーディー(この4つともガド)、ザウィー・シャーリー(=アセル)、バヌー・ユースフ(=ヨセフ)、ヤムナー、ヤマナ、ヤマーニー(この三つすべてがベニヤミン)。
 これら12のイスラエル支族のうち、ヨセフ一族は、さらに二つの支族、すなわちエフライムとマナセに分かれたが、驚くべきことに、今日アラビア半島西部に住むバヌー・ユースフという部族は、実際に「二つに分かれたもの(アラビア語でアルファルアイン)」と呼ばれている。またアラビア半島西部には、エフライムという名はフィーラーンとして、マナセという名はマンシーとして残っている。


イスラエル王国とユダ王国の場所------------------------------------------------------------------------

 エジプト王シシャク一世による数十年にわたるユダ王国への遠征は、パレスチナやシリアではなく、アラビア半島西部に向けられていた。このときに、イスラエル王国がアシールの海沿いの傾斜地にあらわれた。それはサウル王のもとにおこり、ダビデ王により領土の拡大を見て、ソロモン王の時代にはその栄華の絶頂を迎える。従来の説では、ダビデ王とソロモン王は、エジプトとメソポタミアの中間に広がる戦略地域を支配する、シリア帝国の首長であったとされている(列王記上4章21節)。しかしそれが事実であれば、エジプトやメソポタミアの記録には少なくともその名前があげられていてしかるべきなのに、そうした箇所は見当たらない。この頃にエジプト帝国の権力が復活したとき、この新しいエジプトはアラビア半島西部に介入し、その結果イスラエル王国は、互いに対立する王国「ユダ」と「イスラエル」に分裂した。このときにはじまったイスラエル人のあいだの内乱は、他の地方、とりわけパレスチナへの最初の大規模なユダヤ教徒の移住を誘発した。こうした移民は紀元前900年から300年間ほどの間にかけてさらに増加していったが、それもひとえにアラビア半島西部へのメソポタミア人による侵略があったからである。その侵略とは、まずアッシリア人、ついで新バビロニア人によるものであった。



これまでの旧約聖書の解釈(北イスラエル王国と南ユダ王国)---------------------------------------

 ここでの出来事もすべてエジプトで起こったものではなく、アラビア半島西部のアシールで起こった可能性がある。

 ヘブライの有名なダビデ王に関わる物は、実は何一つ発見されていない。旧約自体、後代の加筆や編集の跡が多く見られ、場合によっては一節毎に、いつの時代にどんな人たちが書いたのかを考えながら読む必要があり、さもなくば、話が重複したり矛盾したりして、理解できない。
 例えば、歴代誌にあるアダムからダビデに至る系図などは、ずっと後代に書かれたもので、すこぶる人為的なものである。ダビデはサムエル記にも“ベツレヘム(パンの家、の意)の人の息子”としか書かれておらず、ユダ族出身、などという根拠は何も無い。サムエル記には、ペリシテの武将たちがダビデとその兵を“このイブリーたち”と呼んでいる。イブリーとは、元来“ロバによる隊商の長”という説があり、奴隷の場合もあり、傭兵の場合もあり、ハビルと大変類似している。
 彼らの特徴は、公道上の略奪は名誉ある武勇談で、戦いの旗色(はたいろ)を見て、都合の良い者に味方した。ダビデはペリシテに属しながら、南部の遊牧民族を襲って略奪を行い、私有財産を増やした。そして、その一部をユダ部族(南のユダ王国)の長老たちに贈り、友好関係を結んだ。

 (北)イスラエルの諸部族は元々南部の諸部族(ユダ王国)と対立していたが、サウルの死後、ユダ部族はヘブロンに居たダビデを王とし、ダビデは南部ばかりではなく北部まで手中にした。そして、王都をアラビア半島西部にあったヘブロンからシオンへ移動し、ダビデはユダの家の王とイスラエルの王とを兼ねることになった。

 ダビデの特異性は即位にも現れている。サウルの即位は、神の人サムエルが神のお告げに基づいてサウルに油を注いで聖別した。しかし、その後のダビデの即位には聖職者は関わらず、ユダの人々もしくはイスラエルの長老たちが聖別した。その子のソロモンになると、ダビデ自らが即位を命じた。
 また、ダビデは契約の箱をダビデの町に戻す際、エフォド(エポデ)を身に着けていたが、これは本来、神官が神のお告げを伺う時に用いた祭具であり、俗人が用いることは許されなかった。このように、ダビデは自ら神官の役目まで行い、宗教的権威まで手中にした。

 忘れてならないのは、エルサレムの神殿も王宮も、すべてはフェニキアの都市テュロス(ティルス、ヘブライ語ではツォル)の王の援助が無ければできなかった、ということである。ダビデと同様に、モーゼは旧約の中ではっきりとした人物像として描かれているが、歴史学的・考古学的証拠は無い。史料というものは、そこに“書かれてある時代”よりも、“書かれた時代”そのものを反映している。例えば過越(すぎこし)の祭りの記事は、バビロニアから帰還した捕囚の民が記したものであり、バビロンの新年祭を思い起こし、それとモーゼのエジプト脱出に因んだ過越の祭りを結び付けたものである。

 つまりダビデが盗賊の首領で、ユダ族とは何の関係も無かった。ダビデとその兵は、先ほども出てきたハビルだった。ダビデはその棟梁ということだった。しかし、当時は悪い意味ではなく、英雄視されていた。よって様々な部族を束ねることができた。むしろ、それほどの統率力が無いと、様々な部族が乱立するあの地域を治めることはできなかった。シュメール語でサ・ガズ(破壊者、虐殺者、暴民などの意)などと呼ばれていたのは、ある部族から見た敵対意識やジェラシーの裏返しである。
 20世紀後半から21世紀初頭まで、中東から北アフリカにはいわゆる独裁者と決めつけられた人物たちがいたが、あのような強い人物がいなければ、あの地域は治まらないのである。その敵対心やジェラシーをイルミナティが利用して扇動し、“英雄”を暗殺させた。
 ソロモンが背教したためではなく、北と南は元々仲が悪かったので、ダビデというタガが外れると、即座に分裂した。そして、エルサレムの神殿や王宮がフェニキア(カナン)の援助無しには建造できなかったことは、北イスラエルの方が文化的・芸術的に優れていたことを伺わせる。特に、ダビデがフェニキアの南にある“海の民”のペリシテに属していたことは注目すべきで、ダビデがユダ族とは何の関係も無いことも合わせると、いわゆる“ダビデの星”とされる六芒星はユダ族のシンボルなどではなく、むしろ、北イスラエルの方に縁がある。その北イスラエルの地はサマリア=小さなシュメールなので、六芒星の根源は太陽神ウツのシンボル以外にあり得ない。
 一般的な歴史解釈では、アッシリアに捕囚された北イスラエルの人々を、南ユダ王国の人たちがサマリア人と呼んで、異端者扱いするようになった。アッシリアは、メソポタミア北部を占める地域で、北部にはミタンニやヒッタイトが控えていた。しかし、勢力を増したアッシリアが北イスラエル王国を滅ぼした時、占領地政策として支配階級の移動を行った。アッシリア領の各地からサマリア地方に来た人たちは、土地と地位を与えられ、上流階層として相当の権力を有した。また、それぞれの故郷の宗教も認められたので、サマリア地方は民族的にも文化的にも異国化した。これはある意味、大変意義深いことで、この当時、既に“宗教の自由”が認められていたわけである。

 アッシリアが滅んで新バビロニア王国となると、南ユダ王国は陥落し、ユダ地方はサマリア総督の支配下に置かれた。一般にこの時代以後、彼らは“ユダヤ人”という名称で呼ばれるようになった。ユダヤ教が成立したのは、第二神殿建造の際、エズラがエルサレムの民衆の前で律法の書を読んだ時である。律法第一主義となったものの、古い史料もあれば新しい史料もあり、そこに矛盾があり、更に口伝の掟や慣習もあるので、後のサドカイ派、パリサイ派などに繋がる分派行動が発生した。
 陥落した南ユダ王国もサマリア総督の支配下に置かれたことからすると、いわゆる“ユダヤ”の大王家は南ユダ王国のユダ族ではなく、サマリアの大王家、と言っても過言ではない。ユダ族の王とされているダビデも、実際にはユダ族とは無縁で、むしろ北イスラエルとの関係が深いことも、それを裏付ける。


アラビア半島西部のペリシテ人やカナン人がパレスチナに入植-----------------------------------

 ヘブライ語聖書中の幾つかの歴史書によれば、イスラエル人の王国は、紀元前11世紀後半から10世紀初めのあいだに、アラビア半島西部で主としてその土地のペリシテ人やカナン人の社会を犠牲にして成立された。相次ぐ戦争でイスラエル人に敗れ、混乱に陥ったペリシテ人とカナン人は、この時代にますます多く、シリア沿岸地方へ移住していった。
 パレスチナでは、ペリシテ人は(ガザやアシュケロンなど)数多くの入植地を、アラビア半島西部の自らの故郷の村にちなんで名づけた。ジャッファに近いベイト・ダジャン(ダゴンの神殿)というパレスチナの村は、今でもアラビア半島西部の神の名をとどめている。パレスチナの北部にも、カナン人が自分たちの入植地につけたアラビア半島西部の地名が残っている。たとえばスール(ツロ)、シドン、ゲバル(ギリシャ語のビブロス)、アルワド(ギリシャ語のアラドス)、レバノンといった具合である。


 アラビア半島西部のイスラエル人がパレスチナに入植するために北へ北へと移動しはじめたとき、その入植地のいくつかと、異郷(いきょう)の神殿を接収してアラビア半島西部のユダヤ教神殿へと変えた際に、それらの場所にアラビア半島西部の地名をつけた。なかでも最もわかりやすく有名なものは、エルサレム、ベツレヘム、ヘブロン、カルメル、そしておそらくガリラヤ、ヘルモン、ヨルダンなどである。移住者たちが郷愁(きょうしゅう)にかられて、町や地域や山、川、あるいは国や島に、自分の故郷で慣れ親しんできた名をつけて呼ぶ習慣は、いつの時代にも世界中のたいていの地域で見られてきたことである。そして聖書の時代に、アラビア半島とシリアで同じ言葉が話されていたことを考えると、その二つの地域の多くの場所が、同じ名前で呼ばれていた可能性が高くなってくる。
 パレスチナやシリアへのアラビア半島西部からの移住は、いつの時代でも外的要因によって増加した。アラビア半島西部は、天然資源に恵まれ、しかも古代の交易路の最重要合流点のひとつを擁している地域として、古くから諸帝国の征服目標となっていた。
聖書アラビア起源説 / カマール サリービー

ペリシテ人----------------------------------------------------------------------------------------------

 聖書にあるペリシテ人は、イスラエル人とともに住んでいた多数のアラビア半島西部の住人のなかの一部の人びとであり、彼らの居住地域は紅海沿岸に限らず、内陸部のワーディ・ビーシャ流域にもおよんでいた。
 つまりこれまで信じられてきた、ペリシテ人とは、かつては地中海のクレタ島に住み、後にパレスチナの西南部を制圧して、そこに住みついた謎の「海洋民族」であるという説は、誤った解釈であった。ヘブライ語聖書中には、これらの人びとが、「海洋民族」として他国から入植してきたなどと述べている箇所はどこにもないのである。

聖書アラビア起源説 / カマール サリービー

フェニックス-------------------------------------------------------------------------------------------------

 一般的なフェニックスの解釈としては、古代エジプトの想像上の鳥で、“不死鳥”と訳される。フェニックスはアラビアまたはフェニキアに住み、タキトゥスによれば、500年毎に太陽の都ヘリオポリスを訪れ、生命の終わりが近付くと香木を山のように重ねて火をつけ、自らを焼き、妙なる歌声とともに死に至ると言われている。そして、その灰の中から蘇るのが次代のフェニックスであり、同時に2羽のフェニックスはこの世に存在しない。
 あるいは、フェニックスのモデルは青鷺(あおさぎ)ベンヌだとも言われている。ベンヌはヘリオポリスで聖なる鳥とされており、太陽神ラーの象徴である。毎日生まれては(日の出)死ぬ(日没)太陽と同様、死後の復活を表す鳥である。世界各地の伝承では、その涙は癒しをもたらし、血を口にすると不老不死の命を授かると言われている。親鳥が死ぬと幼鳥(ようちょう)は没薬(もつやく)でその遺骸を包み、アラビアからエジプトへ運び、その周期は500年とされている。

 紀元前100年になると、親鳥の骸(むくろ)から虫が生まれ、それが成長して新たなフェニックスとなる説が誕生した。また、最も有名と思われる復活方法では、500年生きたフェニックスは香料を積み上げ薪の山を作り、その上に横たわり自ら火をつける。やがて、分解した身体の液状の部分が凝固すると、そこから再びフェニックスが誕生するという。(フェニックスが燃えた後の灰には、命を蘇らせる効果があるという。)灰の中から再び幼鳥(ようちょう)となって現れるという伝説は、ギリシャ・ローマの著述家によってしか伝えられていない。古代フェニキアの護国の鳥“フェニキアクス”が発祥とも言われている。


 フェニックスの食料は一風変わっており、乳香(にゅうこう)の木やバルサムの樹の樹液、太陽の熱、テティスの風、清らかな水蒸気とされている。生息地はアラビアで、エジプトにその遺骸を横たえるとされている。フェニックスの寿命は500~600年とされている。
 これは元々は、古代フェニキアの護国の鳥“フェニキアクス”で、フェニキアの主神はイナンナである。イナンナは“空の旅”が好きだったので鳥にも例えられ、最も有名なのは鳩である。これは、イナンナが変化したギリシャ神話の美の女神アフロディーテにも受け継がれ、イナンナが原型のイエスが天から祝福された時に舞い降りて来たのも鳩だった。イナンナはこのように鳥にも例えられるので、それをフェニキアでは国を護る“フェニキアクス”という鳥の名で暗示していた。当然、その名前の大元はナツメヤシ、“復活、不老不死”の意味も込められていた。“復活”の概念に興味を持って神話をいろいろでっち上げたマルドゥクはこの話を聞きつけ、自ら偶像として拝ませた“空のはしけ船”ベンベンを青鷺(あおさぎ)ベンヌという鳥にでっち上げ、親鳥が死ぬと幼鳥(ようちょう)は没薬(もつやく)でその遺骸を包んでアラビアからエジプトへ運んで来る、ということにした。

 そして、すべてをマルドゥクが乗っ取った後、イナンナの始めた“聖なる結婚”の儀式もマルドゥク流に変えられ、そして、イナンナが双子の太陽神ウツに対して火神とも考えられていたことが合わされた。イナンナが創造神だったペルシャではゾロアスター教(拝火教)が出現し、同じく創造神だったインダスではホーマ(護摩)が焚かれることが、イナンナと火の関係を示している例である。

 後にフェニキアは次のように定義されるようになった。

“フェニキア人とはアシュタルテに生贄として捧げられた聖王のことである。聖王の霊魂は鳥と見なされ、霊魂=鳥が火葬の炎から再生して天界へ飛翔する。”

 アシュタルテとは、フェニキアでのイナンナの名称である。ウル第3王朝時代からイシン第1王朝時代にかけ、イナンナは国家祭儀の聖婚儀式で祀られたものの、生贄などという考えは無かった。しかし、マルドゥク流に変えられてからは、1年の平和と豊饒(ほうじょう)を祈念するために、神に代わって国王が神殿の女祭司と交わったが、実際には、用意された奴隷がその期間だけ王位に就き、これが終わると王の身代わりとして殺害された。これが生贄の発祥である。それが、イナンナの火神としての性質と結び付けられてしまった。
 更に言うならば、マルドゥクのバビロニアでは性生活は重要な意味を持っていた。性的な節制は不幸の原因になるとして避けられ、性を拒む女性は悪魔の手先とされた。そのため、性的退廃が蔓延し、それが生贄の儀式と結びついていった。

 灰の中から再び幼鳥となって現れるという伝説は、ギリシャ・ローマの著述家によってしか伝えられていないが、ギリシャ文明の大元であるクレタ(ミノア)文明はイナンナが築いた。だから、イナンナに関わるフェニックス=不死鳥伝説がギリシャ・ローマの著述家によってしか伝えられていないということは、謎を解く1つの鍵でもある。
 また、フェニックスという言葉は他に“紫”の意味も持つ。これは、赤紫色の染料で染めた衣服は最も高貴な身分を象徴するが、この染料はフェニキア特産の貝紫(かいむらさき)から赤紫の色素を抽出したもので、フェニキア人はこの貴重な色素で財を築いたからである。皇室でも最も貴(とうと)い色は紫である。よって、フェニキアは重要なのである。

 フェニックスは乳香を食べ、遺骸は没薬(もつやく)に包まれるが、イエスが誕生した時に、東方の三博士が持って来た物と一致する。これに黄金が加われば、そのものである。
 イナンナがイエスの原型ということは、新約に登場するこの3品は、イナンナ由来のフェニックス伝説に関係がある。まず乳香は、フェニックスが食べていたということで、イナンナを暗示する。そのイナンナが愛したドゥムジの遺体には赤い経帷子(きょうかたびら)が着せられ、イエスは赤い外套(がいとう)を着せられたが、それは高貴な身分を表す赤紫の色素を意味する。それはさっきも言ったように、色素としてのフェニックスである。つまり、ドゥムジの“復活”を願い、「生命の樹」のナツメヤシが好きだったイナンナを象徴しており、イナンナ-ナツメヤシ-フェニックス-乳香-復活という繋がりが、また、ナツメヤシの赤紫-赤い経帷子(きょうかたびら)、赤い外套(がいとう)-ドゥムジ、イエスという繋がりが明確となる。乳香には、ドゥムジも暗示されていた。


 現代のイルミナティのグランドロッジで開かれる快楽集会の時にも、グランドオリエント(大監長)の衣装は緋色(ひいろ)のマントである。


 没薬(もつやく)については、ローマとギリシャの神話が鍵である。ローマには次のような言い伝えがある。
“アドニスの母、太陽神、素晴らしい仲裁の神、彼女は木の中へと変えられていき、その息子は神聖なものとされた。もし母が木だったら、息子はその木に掛けられなければならない。彼は神の枝となって、翌日生まれるかもしれないからである。”

“木に掛ける”というのは、イナンナがドゥムジの遺体を埋葬するために、姉エレシュキガルが管理している“下の方のアブズ(アフリカの中央より南)”に行った際、杭に吊されたが、エンキの密使により“死んだ”はずのイナンナが蘇ったことが原型になっていた。ここで重要なのはアドニスである。アドニス信仰の起源は西アジアだが、アドニス神話と言えばギリシャ神話の方が一般に知られており、そこでは次のように言われている。

“フェニキア王キニュラスの娘ミュラーはとても美しい娘だったが、父親に恋してしまった。禁断の恋をしたミュラーは、顔を隠して父の元に通うも、ついに正体がばれてしまった。激怒して娘を殺そうとする父から逃げ続け、疲れ果てたミュラーは没薬(もつやく)の木(ミルラ)に姿を変えた。そのお腹には赤子がいたので、美の女神アフロディーテは木となったミュラーから赤子アドニスを取り出した。
 アフロディーテは赤子のアドニスを箱に入れ、冥府の女神ペルセポネに託した。これは、他の女神から隠すためとも、単に子育てができないからとも言われている。しかし、美しく成長したアドニスにペルセポネは心奪われ、アフロディーテが彼を返すよう求めても、それに応じなかった。アフロディーテはゼウスの下で裁判を起こし、結局、アドニスは1年の1/3をアフロディーテと、他の1/3をペルセポネと過ごし、残りの1/3は自分の好きなように過ごすことと決定された。結局、アドニスは自分の自由に使える時間もアフロディーテと過ごすようになった。
 アドニスは狩が好きな青年で、ある日狩をしていると、獰猛(どうもう)な猪の牙にかかって死んでしまった。アフロディーテはアドニスの死をひどく悲しみ、彼の血からアネモネの花を咲かせた。そして、自らの涙は薔薇の花になった。”

 これは、“イナンナの冥界下り”の変形である。アフロディーテはイナンナ、アドニスはドゥムジ、冥府の女神ペルセポネはイナンナの姉エレシュキガルである。そして、獰猛なイノシシはマルドゥクで、アフロディーテの涙のバラの花はイナンナのシンボル、ロゼッタである。また、“アドニスの母、太陽神”もイナンナなので、イナンナは太陽女神でもある。
 そしてアドニスが没薬(もつやく)の木から生まれたので、没薬はドゥムジを暗示する。
 よってフェニックスの遺骸が没薬で包まれることは、イナンナとドゥムジが一体になること、すなわち、“聖なる結婚”を暗示している。2人はニビル人なので、ニビルの象徴である黄金とで、東方の三博士の贈り物が揃うわけである。

 また、アドニスという名の由来は、ヘブライ語の“アドーナイ”、フェニキア語の“アドーン”という“主”を表す言葉が固有名詞になったもので、ヘブライ語、フェニキア語はいずれも西セム語である。バアルと同じで、元々は神の名を直接呼ばず、“主”と呼ぶための名詞だった。アドニスに繋がる信仰があったのはレバノンの谷、イブラヒム川、その上流にあるイシュタル(イナンナ)神殿あたりではないかと言われている。この周辺で行われたのがフェニキアの主都市ビュブロスのアドニア祭(フェニキア、レバノンの春祭り)で、この祭りとギリシャで行われたアドニア祭は、共に青年神の“復活”を喜び、その死を悼(いた)むという性格に於いて一致している。そして、アフロディーテの“アドーン(我がいとしい人よ)”と呼ぶ声が、アドニスという青年の名になったともされている。つまり、アドニスはドゥムジのことで、ヘブライ語の“主”を意味する“アドーナイ”は、イナンナが愛するドゥムジを呼ぶ声だった。
 そして、主都市ビュブロスはセム族の女神が祀られていた最古の古代都市の港町で、旧約ではゲバルと呼ばれ、現在のジュバイル。それはパピルスを意味する古代ギリシャ語"Byblos"に由来し、聖書の英語"Bible"は、この都市に因んだものである。女神が祀られた港町、というのが重要である。つまり、イナンナを祀った“海の民”の町である。

 さらに、“アドーン”は“アドン、アド”に通じるが、皇室御用達のデパート髙島屋の創業者は、滋賀県の安曇(あど)川一帯の出身である。漢字で書くと“安曇”だとすると、諏訪の安曇(アズミ)氏に通じる。その諏訪で有名なのは海部(あまべ)一族と同族と諏訪大社の御柱祭である。イナンナの別名はアシェラで、アシラと変化し、そこに"h"が付いて“柱”の語源になった。

 御柱祭(おんばしらさい)では、柱を乗りこなした男が英雄とされるので、柱がイナンナの暗示なら、この祭りが行われる安曇(あずみ)はアド、つまりドゥムジの暗示で、イナンナとドゥムジの聖なる結婚である。御柱は神聖な柱だが、一旦清めた柱に人が乗り、祭りで死者が出ても、その柱を変えることはしない。これは、伊勢神宮の御木曳(おきひ)きなどからすると、考えられないことである。しかし、御柱祭では問題無い。柱が神殿へ捧げる柱ではなく、イナンナを暗示し、英雄とイナンナとの“聖なる結婚の儀式”では、朝には英雄はほとんど死んでいた。柱に男衆(おとこしゅう)が群がって乗っているのは、女神イナンナに乗っていることに他ならない。だからこそ、清めた後の柱に乗ることは問題無く、男たちは競って柱に乗りたがり、乗り切った男は英雄視されるのである。死んだところで、それは“聖なる結婚の儀式”の再現なので、祭りが中止になることもない。
 柱はヘブライ語で異教の神アシラだ、という説もあったが、ユダヤ教は異教の神を認めない。よって、この祭りはユダヤに関係するものではない。つまり、シュメール由来である。そして、このようにフェニキアとも関わりが深い。


フェニキアの都市-------------------------------------------------------------------------------------------

 フェニキア本土の四大都市はテュロス(ティルス)、シドン、ビュブロス、アルワドである。聖書に於けるシドン人とは、およそカナン人あるいはフェニキア人の総称である。ヒッタイト時代にはシミュラ、ビュブロス、アルワドといったフェニキア北部の商都が利益を得ていた。
 ビュブロスはフェニキア海岸の主要都市の中で、青銅器時代初期から紀元前1000年紀まで切れ目無く人が住んでいたことが解っている唯一の都市で、ウガリトと並んで地中海東岸最大の商都だった。ビュブロスは海岸の町トリポリスを経由して内陸への通路を使っており、紀元前2000年紀の初めには、エジプトを相手としたメソポタミア貿易の大きな玄関口となっていた。ビュブロスの王たちは、自分たちで統治できるようになるまでは、女神から命令を受けていた。王は自分に祝福が与えられることを、そして末永くビュブロスの王であることを、女神イナンナに祈願した。別名はマリであり、これが転じて“マリア”となった。
 マリはまた、ユーフラテス川中流の西岸にあった古代シュメール及びアムル人の都市国家で、マリの最高神は西セム系の穀物神で嵐の神ダゴン(イシュクル)で、ダゴンに捧げられた神殿があったほか、豊穣の女神イシュタル(イナンナ)に捧げられた神殿、太陽神シャマシュ(ウツ)に捧げられた神殿もあり、シャマシュはすべてを見通す全能の神として知られていた。

 聖書の語源となったビュブロスは重要な都市だった。その主神が女神イナンナで、“マリア”の語源だった。よってイエスにまつわる話には、マリアという女性が登場する。母マリア、イエスの復活を最初に見たマグダラのマリア。特に、マグダラのマリアは後にヴァチカンの仕業で娼婦に仕立て上げられてしまったが、聖書のどこにもそのような記述は無い。しかし、仕立て上げられるような下地があった、ということである。それは原型がイナンナだからで、そして、マリではやはりイナンナと共にイシュクルとウツが祀られていた。特に、すべてを見通す全能の神の大元はエンキだったはずだが、ここでウツがその役割を担ったことが良く解る。
 太陽神・天照大神が最高神だというのは、このシャマシュが原型の1つなのである。そして、言語学的にも。フェニキア語は北西セム語群カナン語グループの中では最も発達した言語で、後のアルファベットの発祥言語だが、フェニキア語は最初は縦書きにも横書きにもされた。しかし、やがて横書きが主流となり、読み書きの方向は右から左だった。現在のアラビア語も右から左へ書くのはこの流れだと言え、昔の日本語もそうである。さらに日本語には縦書きもあるので、日本語の根源の1つに、フェニキア語があってもおかしくない。


フェニキアの文化-------------------------------------------------------------------------------------------

 エジプトの外交文書であるアマルナ文書に依ると、テュロス(ティルス)、シドン、ベイルートといったフェニキア南部の都市はいずれも王家や議会、商船団を持ち、発達していた。フェニキア人は海のエンジニアとして古代から評判が高く、商業都市はすべて港が中心だった。

 そして、フェニキア人の軍隊と言えば海軍で、その軍船は速さと俊敏さで抜きん出ていた。フェニキア人はかなり南まで航海しており、エジプト王ネコ(紀元前610年〜紀元前595年)の命によるアフリカ周航に成功していた。当然、地中海沿岸地域はフェニキアの植民地とも言える状態で、リビア系フェニキア人(昔のカルタゴ=現在のリビアの土地を植民地支配したフェニキア人)をポエニ人と言い、ポエニの産業は造船、兵器、漁業である。これには、“海の民”が大いに関係している。
 紀元前13世紀から紀元前12世紀に掛けて、“海の民”と称される外国人の侵入があった。しかし、海岸沿いのどの都市についても、大きな破壊や崩壊の跡は示されていない。また、キュプロスと同様、アシュケロンからアッコに至るパレスチナ沿岸諸都市も、“海の民”の侵入の跡、紀元前12世紀後半に急速に発展している。キュプロス島の“キュプロス”とは、古代ギリシャ語で“銅”という意味である。

 エジプトが古くからビュブロスに関心を持っていたのは、レヴァントの木材(レバノン杉)が欲しかったからである。フェニキアは何よりも杉の取引を大事にしてきた。ヘブライの民が登場した時代、テュロス(ティルス)の神殿はソロモン王の興味をかきたて、フェニキアのエンジニアに目を付けた。旧約(列王記)では、フェニキア人は青銅で祭具を製作することや建物内部の装飾など、特定の仕事を請け負っている。ソロモンがフェニキア人に頼んだ2本の青銅の柱、ヤキンとボアズは、ヒラム王がテュロス(ティルス)のバアル・シャメム神殿に建てた記念碑的な一対が手本だった。

 ソロモンの神殿建設は、テュロス(ティルス)と新興のイスラエル連合王国との通商協定の産物だった。ソロモンはテュロス(ティルス)に木材と専門技術(大工仕事、石積み、青銅工芸など)の提供を頼み、その見返りに、毎年かなりの量の小麦とオリーブオイルを提供し、更に銀で支払いを補った。つまり、イスラエルはテュロス(ティルス)の商業経験と技術的ノウハウの恩恵を受けた。
 そして、テュロス(ティルス)とイスラエルの関係は王家同士の婚姻によって更新され、強化された。分裂後のイスラエル王国の新しい首都はサマリアだった。
 他にも、フェニキアから様々な国に渡った“渡りの職人”が古代社会に重要な役割を果たした。豪華な象牙細工は、フェニキアのお家芸とも言える特産品で、職人は同業組合ギルドのメンバーだった。フェニキアの金細工師の技術と名声は、旧約の中では不動のものだった。

 フェニキアの特徴として、装飾された金属鉢などの中央には必ず円形の部分、メダリオンがあり、ロゼッタか物語の一場面が描かれている。他にもフェニキアの特産品があり、アクキ貝という貝から抽出される紫の色素(テュリアンブルー、テュロス紫)、ガラスなどである。


 フェニキア人の航海術は凄かった。地中海やアフリカ周辺だけではなくアメリカ大陸など、世界中に広がっていた。そして日本へはエフライム族の大王がフェニキアの大船団と共に渡来した。
 フェニキアの特産品のガラスは、イタリアのヴェネチアに渡ってヴェネチアン・グラスとして門外不出の技とされた。フェニキアから渡っていたことに因んで、ヴェネチアなのである。その証拠に、ヴェネチアにはフェニーチェ劇場があり、これはフェニックス=フェニキアを意味する。ヴェニスの商人というのは、フェニキアが最大の商業国だったことに由来する。

 そして、イタリア人はパスタやピッツァの粉モノが好きで、会話好きで黙っていられない。人生楽しく陽気に生きることや、フェニキアは商業が盛んだったという点は大阪人に似ている。つまりイタリア人と大阪人は、祖先がフェニキア人であり、よって、大阪は商人の町になった。その決定的な証拠が大阪の住吉大社である。海神を祀り、本殿が西を向いてるのは、故郷のフェニキアが西だからである。


 また、ソロモンの神殿が、材料的にも人材的にもフェニキア人に依るものだが、日本の職人技の凄さも、フェニキアのエンジニアに由来するのである。そういった技術の根本は当然シュメールであり、フェニキアの金細工技術の凄さは、シュメールの影響を大きく受けている証拠である。


フェニキアの宗教-------------------------------------------------------------------------------------------

 フェニキアの宗教の世界に於いては、最高の社会的地位にある女性は最高の地位に就くことができ、神官長や神官会議の長にもなれた。都市の神殿は職業的神官によって運営されており、こうした地位が王家と深く結び付いていた。王自身か直近の親族(妃の母親も含む)がしばしば神官あるいは女性神官=巫女として、その都市の主神に仕えていた。このような神官職は、大体貴族社会で世襲されていた。

 フェニキア人の王の権力と威光は、その神聖なる役割、すなわち、神(アヌンナキ)と人との仲介者であったことと深く結び付いていた。王の名前の多くがバアル、エシュムン、メルカルト、アシュタルテといった神の名を冠しているのも、その結び付きの深さの象徴であり、神々(アヌンナキ)に対する敬意の表れでもある。
 神(アヌンナキ)の呼び名は大抵総称的で、例えばバアルは単に“主人”とか“かしら”という意味で、固有名詞ではない。バアル像を統合すると、嵐の最高神とフェニキア神界の首領という二面性が見られる。地方版のバアルは、神聖な山や岬と結び付いており、特にサポン山はその嵐の神の本拠地だった。ウガリトの神話では、そこに宮殿のような住まいがあったという。特に、天地創造はエル(とダゴン)によって行われたとされている。エルはセム語で“神”の意味だが“人類の父”と呼ばれ、ダゴンは“穀物”を意味した。

 女性の地位が確立されていたのは古代日本も同じで、卑弥呼とトヨが女王に立っていた。そこには、フェニキアの影響がある。
 バアルは元々は嵐(風)の神エンリルだった。その息子イシュクル(アダド)がトルコ~シリア、レバノン付近を治めていたので、雷神イシュクルも嵐の神となる。後に、マルドゥクが乗っ取りをしてから、バアルとはヘブライ語でマルドゥクを意味するようになった。よって、聖書ではバアルが忌み嫌われている。
 またエルはエンキ、ダゴンはニンギシュジッダである。ニンギシュジッダはニビルから帰還する際、小麦を持ち帰ったから“穀物”として象徴されている。

 ビュブロスではバアラト・ゲバル(=ビュブロスの女主人)への信仰が盛んで、その相方の男神バアル・シャメム(=天の主)への信仰もずっと行われていた。シドンの主神はアシュタルテとエシュムン、ウガリトの最高神はエル、キティオンでは“矢の王”と呼ばれたセム族の神シェドである。中でも、メルカルト、エシュムン、アシュタルテが最も崇拝された。

 バアラトは母性と豊饒性を持ち合わせ、後にギリシャのアフロディーテになった。アシュタルテの通称はシェム・バアル(=バアルの名前)という意味で、天界と海の神、多産や生殖力の神、戦いの神でもあった。アシュタルテは2頭のスフィンクスが支える玉座とも結び付いている。
 願掛けや念願成就の際には、神殿に様々な品が奉納され、青銅製やテラコッタの礼拝者か神の像が圧倒的に多く、特にアシュタルテに捧げられた。フェニキア領内では、天然の洞窟や岩屋にもアシュタルテが祀られ、中にはワスタの岩屋のように、女性器を表した落書きで飾られている所もあった。これらアシュタルテを祀った多くの洞窟が、後に聖母マリアの神殿に発展した。


 本来の最高神はエルでも、普段関わりの多い重要な神はイナンナだった。「生命の樹」で言えば、慈悲の柱である。世界中に残る女性器の図柄はイナンナ由来で、アシュタルテを祀った洞窟がマリア神殿に発展したことは、マリアの原型がイナンナであることを裏付ける。
 そして、アシュタルテは天界と海の神で、イナンナにも海の神の性質があり、2頭のスフィンクスが支える玉座とも結び付いているので、狛犬のある神社で祀られる神そのものである。シヴァの化身ドゥルガーそのものでもある。

 フェニキアでは各都市が“神々の3人家族”に支配されているとした。母なる神、父なる神、その息子であり、息子は植物の神で、その死と復活が農業の年周期と結び付いていた。どの神々のカップルに於いても、男神が“死と復活”の概念と結び付いている。テュロス(ティルス)では“メルカルトの目覚め”が、毎年の国民的祝祭として定着していたが、これは死と儀式的な火葬の後にメルカルトが復活することを再演する春の儀式である。メルカルトとは、ミルク・カルト(=都市の王)という意味である。
 また、同様な儀式がビュブロスにもあった。特にビュブロスでは、毎年アドニス祭が行われていた。これはギリシャ神話の影響だが、アドニスは獰猛な猪に殺され、1年の半分ずつを生の世界と死の世界で生きることを余儀なくされた。このアドニスという名前はセム語のアドン(=主人)もしくはアドーナイ(=私の主人)に由来する。また、シドンの神エシュムンも“死と復活”の神として信仰された。どの神の場合にも、復活には相手の女神が“聖婚”の儀式を通して一役買っていた。メソポタミアのアキツ祭にも類似の儀式がある。


 フェニキア人の1年は、農業の周期と連結した宴と祭りに支配されていた。特に、新年や収穫の祝いには、生贄が捧げられた。月日は新月の日から計算され、太陽と月への崇拝が暦に大きな役割を果たしていた。最大の年中行事が“春の目覚め”で、テュロス(ティルス)ではメルカルト、シドンではエシュムンの復活祭であった。メルカルト祭(2月か3月)では、メルカルトの人形が儀式用の薪で焼かれ、その後、相方のアシュタルテとの儀式的な結婚=聖婚を通じて復活祭が行われた。古くから神殿売春の習慣があったが、これはアシュタルテ信仰と結び付いていた。
 つまり、メルカルト=エシュムン=アドニス=ドゥムジである。そして、獰猛な猪はマルドゥクの象徴である。さきのアドニスの話では、アドニスは木となったミュラーから美の女神アフロディーテが取り出したことになっていた。それが“植物の神”として象徴され、農業の周期と関連した宴や祭りとなっている。
 この儀式的な火葬はマルドゥクの乗っ取りの影響である。羊と子羊が生贄にされ、豚は生贄としても食用としても忌み嫌われていた。また、香を供えたり焚いたりすることが、重要な生活習慣だった。信仰には、神の存在やその場所を示す種々のシンボルが使われたが、いずれも人間や動物の形をとらない非偶像的なものであった。シドンのエシュムンはバアルの地域版とも言えるが、“シュムン”は“油”を意味し、癒しの神としても崇められ、また、泉や聖水とも深い結び付きがあった。

 これは、聖書そのもので、ヘブライの民が歴史に登場する以前の話である。オリジナルはこれである。聖書ではカナンの地域は偶像崇拝の地とされているが、実際は違う。こういう点を良く理解せず、聖書に書いてあるから、と言って攻撃を仕掛けて正当化しようとしてきたのが、中東の混乱の原因である。
 泉や聖水とも深い結び付きがある癒しの神エシュムンは、その性質からすると、本来はエンキである。そしてそれが、息子のドゥムジへと変化した。そして、ニビルではアヌの前に出る際に、体を油で清めた。エンキは水瓶を持って洗礼する象徴でもあるが、この洗礼が“油”を掛けて聖別する風習へと変化した。
 日本では油で聖別しないが、本来は、清浄な水で行えば良いのである。日本には清浄な水が豊富にある。日本の神道には、滝や川でけがれを祓う禊ぎがある。神社の境内にある手水舎(ちょうずや)で行う、手洗いや口すすぎも禊ぎ・沐浴(もくよく)の一種と考えられる。

 男性神官は髭を奇麗に剃り、儀式的な剃髪(ていはつ)が重視されており、女神への信心の証として頭を剃った。裸足で、つばの無いぴったりした帽子を被り、足下まである長い亜麻布の神官服を纏(まと)っていた。前の方にはプリーツがたたまれ、袖はゆったりとして、左の肩には神官の印である薄い布を折りたたんだストールが掛かっていた。カディスという土地でのメルカルト神殿では、神官は白く緩やかなローブを纏い、頭髪を剃り、性的禁欲を守った。
 フェニキア人は死後の世界を信じており、死者をレパイムと呼んでいたが、これは神である祖先、あるいは神となった死者、を意味し、その語源は“癒す、回復する”という意味である。マルツェ(ポエニ語で“再会の場”の意)と呼ばれる宗教的な親睦会では、神格化された祖先(レパイム)を讃える儀式的な食事が行われた。その祝宴では、供物や生贄が捧げられ、大酒を飲んだ。この神官の格好は、日本の神職のものと類似している。

 ユダヤの神官由来、と言っていた人がほとんどだったが、そのユダヤの神官もフェニキアが根源である。ここでは神官が頭髪を剃っていたが、これはエジプトの影響で、フェニキアはエジプトとの交易が盛んだったことから、宗教的な影響も多大に受けている。フェニックス伝説もそうで、この頭髪を剃る大元の話は、アダパがニビルに連れて行かれる前に、ボサボサの髪が剃られたことである。これが仏教に受け継がれた。性的禁欲を守ることと共に。そして、マルツェは神道の直会と同じである。
 日本の神道以外にも、“神である祖先”“神となった死者”という考えがあったが、一神教では、死者が神になるというのは言語道断である。この点からも、神道の根源はフェニキアにある、と言える。


 神殿の形態には2つあり、1つは露天の聖域と、もう1つは屋根や壁のある神殿。露天の代表が旧約のバマー=“聖なる高台”で、大抵は舗装された吹きさらしの、一段高くなった方形の中庭“テメノス”で、そこにベテュルや祭壇などの礼拝設備があった。
 フェニキアでの最大の露天聖域は、シドン郊外のボスタン・エシュ・シェイクにあるエシュムン神殿である。そこには水路と溜池による精巧な給水設備があり、清めの儀式が行われる場所だった。水に関する儀式は、フェニキア人の治癒力信仰に於いて、重要な役割を果たしていた。

 アシェラと呼ばれる奉納用の小さな木製の柱は“聖なる森”の、ベテュル(セム語で“神の家”)と呼ばれる高さ1.5メートルほどの一本石柱は神の存在と座のシンボルだった。ベテュルは祭壇か供物台の前など、神殿の中心に据えられ、旧約ではマッセバ(仕上げをした石)と呼ばれている。
 方形は陰陽、すなわちカバラでは地を表し、陰である。そこに、神の依り代としてベテュルを立てた。この場合、ベテュルは陽となる。そのベテュルに神が天から降臨するならば、ベテュルは地と一体化した柱で陰であり、天から降臨する神は陽なので、神が降臨して陰陽の合一となる。すなわち、ベテュルは場合によって、あるいは見方によって陰にも陽にも成り得るということである。
 また、方形は陰なので、陰の象徴の水が関わる。この場合の、治癒力信仰に於いて重要な役割を果たす水とは、イナンナが“復活”する際に与えられた「生命の水」に他ならない。ここでも、やはり清浄な水が重要である。

 ここで登場した奉納用の小さな柱アシェラは、主にイナンナに捧げられた。よって、イナンナがアシェラとも呼ばれるようになり、神の数え方は柱で数える。その原型はイナンナである。その柱の原型は、イナンナが掛けられた木である。天神は男神・女神に関わらず陽の扱いとなる。よって、イナンナは陽、掛けられた木は陰となる。しかし、男神・女神という点だけ見れば、イナンナは女神なので陰となる。つまり、一柱の神が陰にも陽にも成り得るということである。
 そのような見方なら、根源神が陰にも陽にも成り得るという考え方は理解しやすい。そして、海部(あまべ)一族で極秘伝とされた、根源神は陰にも陽にも成り得る。そしてベテュルは心御柱(しんのみはしら)の原型である。海部(あまべ)一族のお社の下に打ち込まれている心御柱は八角柱で、時の天皇の背の高さと同じだったという。それが、伊勢神宮の心御柱の大元である。
 それは大王が神から寵愛を受け、王権を授かるということである。つまりフェニキアの宗教は、神道にそっくりである。ベテュルは旧約のベテルで、創世記の“ヤコブの夢”に登場するものである。その原型もこれである。

“ヤコブはベエル・シェバを発ってハランへ向かった。とある場所に来た時、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を1つ取って枕にし、その場所に横たわった。(中略)ヤコブは眠りから覚めて言った。
「真に主がこの場所におられるのに、私は知らなかった」
そして、恐れおののいて言った。
「ここは、何と畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」
 ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立てて先端に油を注ぎ、その場所をベテル(神の家)と名付けた。因みに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた。ヤコブはまた、誓願を立てて言った。
「神が私と共におられ、私が歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主が私の神となられるなら、私が記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたが私に与えられるものの1/10を捧げます。」”

 旧約のベテルの原型がベテュルであって、ベテルからベテュルが派生したのではない。そもそも、聖書はフェニキアのビュブロスで編纂された。しかも、ヤコブの別名はイスラエルなので、イスラエル王国となった十支族はベテルに関係が深い、つまり、心御柱に関係が深いと言える。
 また、この文章の中の“記念碑として立てて先端に油を注ぎ”の“立てる”の原語が“マッセバ”である。これは、ヒンズー教でリンガの先端にミルクやギー、胡麻油などを掛けることと同義で、その根源はシヴァ神=イナンナである。


 また硬貨などに刻まれたフクロウはギリシャの女神アテナのシンボルで、その影響を受けている。硬貨の図案としては他に、半人半魚の海神、翼のある女神ニケと四頭立て戦車、馬、ヤシの木などがある。この女神と馬、ヤシの木(ナツメヤシ)は三大モチーフとも言うべきものである。

 また、フェニキアにも印章があり、蓮の花やスカラベなど、再生や復活と結び付いたエジプト的要素が見受けられる。図象としては、4つの翼を持つ悪魔が多用された。
 アテナ=ニケ=イナンナで、半人半魚の海神はオアンネスことエンキである。よって、フェニキアでもエンキの影響は大きい。なぜなら“海の民”が深く関わっているからである。

 イナンナとナツメヤシに加えて馬が三大モチーフなら、イエスが降臨する際に乗って来るとされた白馬や神社の絵馬の原型はフェニキアである。
 伊勢神宮でも毎月1の付く日に神馬が参拝するのは、本当の最高神は誰なのかを暗示している。ちなみに、神宮で最も位が高いのは大宮司や祭主ではなく、神様が乗るとされるその神馬である。

 フェニキアの印章にはエジプトの影響が見られるわけだが、元々の再生や復活の概念はイナンナ由来なのを、マルドゥクが利用した。
 ポエニ人(カルタゴ)には母都市テュロス(ティルス)の信仰が持ち込まれ、初期の最高神はメルカルトだったが、後にアシュタルテ=イナンナが変化した翼のあるタニトが信仰された。4つの翼を持つ悪魔はカバラとしては神の戦車メルカバーだが、イナンナ=タニトがそれぞれ2つの翼のある姿ならば、その暗黒面を象徴したのが4つの翼のある姿とも言える。


火葬と生贄---------------------------------------------------------------------------------------------------

 動物の生贄(羊か子羊)は神官か執行人によってうやうやしく祭壇へと運ばれ、その後ろから生贄の提供者と祭具(斧、ナイフ)の運び人が付いて行く。生贄は血を抜かれ、切り落とされた頭部が祭壇に供えられる。生贄が焼かれる間、供犠の祈りが唱えられ、脂肪と内臓が焼き尽くされると肉が切り分けられ、執行人と提供者に分配される。執行人は胸と右の腿肉(ももにく)を取り、提供者は残りの肉と皮を取る。その後、生贄の灰が埋められ、そこに奉納の石柱が建てられる。
 紀元前1000年代のどこかの時点で、新しい埋葬法である火葬が、フェニキア本土と近隣のシリア、パレスチナを含んだレヴァント海岸に出現した。テュロス(ティルス)では紀元前900年代には既に火葬が行われていた。

 これはユダヤ教の生贄と同じである。またヒンズー教では、魂は焼かれることによって天に登り、遺灰を近くの川に流すことで自然に還り、新しく生まれ変わることができると信じられている。この考えは、フェニックスと同じで、フェニキアもインダスも創造神はイナンナなので、基本的に同じ考えとなる。また、暑い地域では遺体はすぐに腐敗して不衛生なので、火葬のような埋葬法が出現したとも言える。フェニキアとインダスのどちらがより古い起源なのかは、現状解らない。
 いずれが起源にしても、“アシュタルテに生贄として捧げられた聖王の霊魂=鳥が火葬の炎から再生して天界へ飛翔する”という発想は、火葬が出現した後である。

 フェニキアでは死者はネクロポリスという共同墓地に葬られ、子供の生贄を埋葬したとされるトペテが存在した。特に、ポエニには悪名高い生贄の儀式があった。

 トペテの埋葬地から発掘された骨壺からは、生贄は3歳未満の幼児で、未熟児が多かった。ボロボロの灰になるまで焼かれているので、性別は不明である。明らかに未熟児や新生児が多く、大人の墓地には赤子がほとんど埋葬されていないことなどから、死産児や病気で死んだ子供という可能性もある。しかし、様々な文書や、墓自体と添えられた墓標には“バアル・ハンモンとタニト(妻)にモルクを供える”と記されていることから、この儀式は実際にあったとされている。


 子供の人身御供(ごくう)については、現在、様々な偽情報や懐疑(かいぎ)主義が氾濫(はんらん)しているが、それはイルミナティが教育や情報を完全に支配しているからである。
 しかし、この悪魔主義の慣行は、今日だけではなく、歴史的に何千年にも渡って行われてきた。末期に使用された埋葬地からは、7000個以上の骨壷が発見されている。あらゆる階層の人々が、貧富を問わず神(特にモレクとして一般に知られている神)をなだめるために自分の子供を犠牲にした。また他所の国から子供を攫(さら)ってきて供犠したと言う説もある。
 今ではイルミナティと呼ばれている当時の神秘宗教の幹部の家系は、当時の平均的な人々よりも頻繁に子供の人身供犠を行った。トペテの埋葬地は千年以上も使われ、恐らく今日もひそかに使われている。

 “モルク”とは子羊の供物を指すが、修飾語の"b'l"が人間の埋葬を意味し、ポエニ語の“願掛け”や“誓願”に相当する"ndr"という語が頻繁に見られることから、普通の墓石とは明らかに性質の異なるものであることが伺われる。
 そして、他の墓地が何度か移転しているにもかかわらず、カルタゴのトペテだけは決められた場所から動かず、不可侵であることも、特別な意味を持っている。
 旧約では、預言者たちが幼児の生贄を激しく非難していることからも、実際にあったのだろう。このような生贄の儀式は、商人、神官、市の執政官など上流階級が行っていたが、ローマ帝国によって廃止されたものの、北アフリカでは1世紀になってからも密かに継続されていた。


 トペテに奉納された石柱の中で祈りが捧げられている神はタニトである。タニトであるイナンナがそのような子供の生贄を望んでいたわけではなく、これもマルドゥクに依る乗っ取りである。最初は病気の新生児や未熟児だったが、それが次第に誤解され、幼子が供されるようになった。
 そして、後の裏の世界支配者たちの間でも、このような生贄は継続された。人間の生贄を好むのは、悪い想念によって創り出されたエネルギー体、サタンである。フェニキアは偶像崇拝ではなかったが、後に一部でこのようなことが成されたので、聖書では批判されている。


メソポタミアからイスラエルまでの2つのパターン---------------------------------------------------

 このように、今まで日本に於いてユダヤ教由来だと見なされていたことが、かなりの部分、フェニキア由来だということが解った。特に、神道の根源に関わる部分は、フェニキアの影響が極めて大きい。言い換えれば、それはシュメールである。

 ここまでの流れをまとめると、2つのパターンが存在する。一つはアブラハムがメソポタミアのウルから北に行くパターン。もう一つは南のアラビア半島のアシールに行くパターン。現時点でどちらが正しいかという結論を出すことは情報不足で難しいので、さらなる調査が必要。

【パターン①】
 まず核戦争後に生き残ったシュメールの一族は、一方はウル(ウリム)からフルリ人、フル人が進出してミタンニとヒッタイトを建国し、一方の王家で神官の家系のイブル・ウム(アブラハム)の一族は“海の民”となって、ヒッタイトから侵入した“海の民”と共にフェニキアで合流した。そして、著しく発展し、“小さなシュメール”という意味の北イスラエル王国ショムロン(サマリア)がカナンの地(約束の地)に建国される。


 そこにはニブル・キ(シュメールのニップル)出身でウリムの王の血も引く神官で王族の末裔、イブル・ウム(アブラハム)の一族が居たので、その末裔が後のサマリアの大王家エフライム族となり、そこから分家した一族はいわゆるユダヤの十二支族だが、北と南は元々仲が悪く、盗賊の首領、ダビデが何とか取り持って統一王国ができたものの、息子のソロモンの時代には崩れ去った。そのサマリアでの主神はイナンナ、ウツ、そして主エンキであった。そこに、イナンナ、ウツと兄弟のように仲の良かったイシュクルも加わる。更に、天才科学者ニンギシュジッダがカバラを考案して様々なヒントを残した。
そして、神々との通信装置でもある“主との契約”を表す契約の箱、神々の依り代で王権の象徴でもあるアロンの杖、ニビルと豊穣を象徴する黄金のマナの壺が三種の神器として、いわゆるヘブライの民に授けられた。後に、アッシリアやバビロンに因る侵攻で十支族が散った時、アロンの杖は大王家のエフライム族が、マナの壺は神の数字をシンボルとするイスラエルの7番目の息子の系統ガド族が継承したが、契約の箱は南ユダ王国に置かれた。契約は正義と律法のウツのシンボルでもあり、エルサレムはウツが管轄していたからである。


【パターン②】
 こちらはカマール・サリービーの聖書アラビア起源説のパターン。ここでいう聖書は、ユダヤ教の聖典の旧約聖書のこと。この旧約聖書の舞台であるアブラハムが神から約束された地、モーゼがユダヤ民族に与えると約束された古代イスラエル王国の地は、現在のパレスチナ地方ではなく、アラビア半島のアシール地方にあるというのが、この説の根幹である。
 カマール・サリービーによれば、イラクのウルを出発したユダヤ民族最初の預言者アブラハムはアシール地方に到着し、この地を神から永遠に子孫に与えると約束された。その後一部はエジプトに移住したが、モーゼに率いられてアシール地方に戻ってきた。そして、このアシール地方で古代イスラエル王国が建国され、ソロモン王の神殿もアシール地方のエルサレムつまり、現在のアール・シャリームにあったという。古代イスラエル王国の遺跡とソロモン王の神殿は、今もアシール地方の地下に眠っているはずであるという。
 この後、バビロン捕囚で国が破壊されたことをきっかけに、地中海沿いにある現在のイスラエルへ人々が移住していった。
 
 どちらのパターンにも共通しているのは、最終的には現在のイスラエルに行き着くということ。その後、エフライム族はフェニキア人の大船団と共に日本の地へと渡来する。特に、フェニキア人は地中海沿岸を占拠していたので、エジプトとの関係は極めて深く、エジプト人の渡来かと間違えしまうこともある。


 また、沖縄の与那国島の崖からはクサビ型文字が発見されており、アメリカの言語学者J.ホータックがフェニキア文字と断定した。

 海底ピラミッドがある北谷(ちゃたん)周辺には、地中海のフェニキアとのつながりを示す石板が十数枚発見されている。この石板の渦巻きや円模様は黄金比でできており、つまりアヌンナキと関係する。


■紀元前1004年頃

 イスラエル統一王国は、ダビデの息子ソロモンの時代に頂点を極めた。ソロモン王はアヌンナキの勢力に影響された闇の勢力側にいた背教者であった。ソロモンはそれまでの移動式の幕屋を堅固な固定式の幕屋にするため、贅沢な材料を大量に使用して巨大な神殿を建設した。世に言う「ソロモン第一神殿」である。「イスラエル統一王国」が国家として隆盛を誇る反面、民は重税と強制労働に大きな不満を抱いていた。それがソロモン王の死後、ソロモンの息子レハベアムが即位すると、エラフイム族のヤラベアムが反乱を開始した。戦火は王国内に拡大し、内乱へと発展した。


■紀元前1000年頃

イタリアのサルデーニャ島のアヌンナキ----------------------------------------------------------------

 地中海で2番目に大きいサルデーニャ島(イタリア)では、紀元前1000年代にヌラーゲ文明が栄えた。そこではここまででてきたアヌンナキの文化が多く見られる。イナンナを表す胸の出た土偶、ニンギシュジッダが持つ巨石を精巧にカットする技術が使われたサンタ・クリスティーナの神聖なる井戸と、Fonte Sacra Su Tempiesu(日本語名不明)の多角形の石積みの井戸、そしてピラミッドやメソポタミアのアヌンナキのジッグラトに似たモンテ・ダッコッディの聖塔「ジッグラト」、そしてサルデーニャ島の先住民だったという巨人伝説とカブラスより出土した石像巨人である。ヌラーゲ文明が生まれる前に、アヌンナキはサルデーニャ島で巨石文化を作り出していた。


■紀元前958年

フリーメイソンの儀式とヒラム・アビフ----------------------------------------------------------------

 建築家の棟梁ヒラム・アビフが、ソロモン神殿(エルサレム神殿)の建設に着工する。彼は3306人からなる建築家集団を親方、職人、徒弟からなる集団に分け、それぞれに秘密の合言葉や符牒(ふちょう)を定めて仕事に当たらせた。さらにヒラム・アビフは神殿建築に際して、青銅工芸の技術においても貢献した。

 ヒラム・アビフと名前が同じで、旧約聖書に登場する港湾都市ティルス(現レバノン)の王ヒラム(在位紀元前969〜紀元前936年)は、ソロモンがエルサレム神殿建築を行ったときも、ソロモンの要請にこたえて大量のレバノン杉と糸杉を供給している。ヒラムは見返りにソロモンから小麦とオリーブ油を受け取った。ソロモンとヒラムは共同で海上交易も行っている。古代のエルサレム神殿は木造建築だった。

 ある時ヒラム・アビフの技の秘密を無理矢理聞き出そうと、3人の職人が彼に迫った。ヒラム・アビフは断ったので3人は彼を殺し、遺体を埋めてアカシアの葉で目印を付け逃亡した。ヒラム・アビフの行方不明を聞いたソロモン王が人をやって捜索させると、地面から出たアカシアの葉からヒラム・アビフの遺体が発見された。これが証拠となり3人の下手人は処刑された。

 現代のフリーメイソンの儀式では、親方階級に昇進する際、志願者をヒラム・アビフに見立て、その殺される顛末(てんまつ)を疑似体験させる。その後、志願者は親方として蘇生する。


■紀元前951年頃

(第一の)ソロモン神殿完成---------------------------------------------------------------------------------

 ソロモン神殿完成。着工から7年半を費やした。ソロモン神殿は、アブラハムが息子イサクを神に捧げようとしたアブラハムの岩の上に建設された。これらの伝承が後に日本の長野県の諏訪大社で行われる御頭祭(おんとうさい:イサク奉献伝承)と御柱祭(おんばしらさい:ソロモンによる神殿建設)となる。この第一のソロモン神殿の敷地には黄金比の比率が見られる。

 
 またソロモン神殿には、日本の神社などで見られる2体の獅子像もあった。旧約聖書には次のように描かれている。

(ソロモンが自分の宮殿を建てた内容について)
列王記上
7:36
そのささえの表面と鏡板には、それぞれの場所に、ケルビムと、雄獅子と、なつめやしの木を刻み、その周囲には花模様を刻んだ。

10:18
(ソロモン)王は大きな象牙の王座を作り、これに純粋な金をかぶせた。
10:19
その王座には六つの段があり、王座の背には子牛の頭があり、座席の両側にひじかけがあり、そのひじかけのわきには二頭の雄獅子が立っていた。


 ソロモン神殿においてフリーメイソンの象徴的階位や入社儀礼が誕生した。フリーメイソンの初代会長もイスラエル王国を築いたダビデ王の息子ソロモン王で、ソロモン神殿がフリーメイソンの象徴であり起源である。

 ソロモン王とフラム王が完成させたのは神殿や宮殿だけではない。神殿や宮殿は、中央政庁制度を導入するにあたっての象徴的な存在であった。それを完成させるためにソロモンは、周辺諸国を従属民として支配し、貢物だけでなく永続的な徴税組織を必要としたのである。
 ソロモン神殿の建設に際し、ヒラム王とソロモン王との間で最高会議が創られた。これが唯一のグランドマスターとマスターロッジの起源である。ソロモン王が不在の場合は神殿建設の最高責任者であるヒラム・アビフを代理グランド・マスターに指名し、不在でなくとも首席大首長として、2人の王と同等の権力と尊敬を付与された。彼らは中世にはキリスト教の大聖堂、修道院、宮殿などの建築、増築、修復などのプロジェクトを担い、教会をあらゆる偶像でまみれさせ、その偶像や建築の技術にまつわる秘密を伝達する集会所としてロッジに集まり、そこを活動拠点とした。


■紀元前950年頃

 契約の箱(アーク)は、エルサレムのソロモン王の神殿に置かれるようになった。ソロモン神殿は契約の箱(アーク)を保管するために建てられた。その後、聖書の物語からはそのアークは突然姿を消した。
 
■紀元前922年

ソロモン王や各宗教における六芒星という共通点----------------------------------------------------

 紀元前922年、ソロモン王はファラオの娘と結婚後、悪魔モレク(マルドゥク)やアシュトレト(イナンナ)の祭壇を創建。列王記上11:5には「ソロモンは、シドン人の女神アシュトレト、アンモン人の憎むべき神モレクに従った」とある。モレク崇拝では子供の生贄や乱交が行われた。モレクの像には六芒星が刻まれているものもあるが、イスラム教において六芒星はソロモンの紋章。伝承ではソロモンが厄払いに使ったとされている。



 六芒星の根源はアヌンナキの太陽神ウツで、それは粘土板では六芒星として描かれている。



 六芒星はイスラム教でも使用されている。




  六芒星はキリスト教の教会にもある。






 六芒星はインドの「ヴェーダ」でシャトコナと言い、ヒンズー教においても重要なシンボル。

 

六芒星は仏教でも使用されている。



 各宗教で六芒星が偶然使われるという可能性は低く、こういう共通点から見ても宗教のオリジナルは同じで、それはアヌンナキにつながるということが見えてくる。さらに各国のコインにも六芒星が見られる。


 六芒星は土星(サターン)崇拝にも関係する。


 六芒星はバアル崇拝でも見られる。バアルの原型はエンリルだったが、後にマルドゥクとなった。


 六芒星はマジック、魔術、魔法、オカルト、錬金術、占星術でも多用される。




 六芒星は1648年、ユダヤ人のシンボルとしてウィーンのイエズス会が提案したとされている。発端はドイツの帝王フェルディナン3世の要請で、30年戦争に貢献したプラハのユダヤ人を称えるものであった。
 プラハのユダヤ人に六芒星の旗が受容されるとユダヤ社会に伝染し、シナゴーグやお祭りで使用された。一方、多くのラビは異教徒のシンボルであったため反対した。それでも、マイアー・ロスチャイルドが自宅のシンボルにすると、ユダヤ人からの支持を獲得する。


 1897年、六芒星はシオニスト運動のシンボルに。イスラエルの地(パレスチナ)に故郷を再建しようシオニスト運動は、フリーメイソンと密接であるロスチャイルドが資金提供した。1948年に建国されたイスラエルの国旗も六芒星。




 フリーメイソンの本、「セカンド・マイル」ではこう述べられている。「六芒星は非常に古い古代のシンボルであり、最も強力なシンボルの一つ。」




 1700年代からイルミナティと関係する伝統的な家庭で育ったドック・マーキィーは、子供の頃から黒魔術や魔法を教え込まれる。その後、オカルトのエキスパートとしてFBIなどの調査機関に協力している。彼は六芒星について、次のように述べている。
「ルシファーを崇拝するイルミナティの秘密シンボルの六芒星を理解するには、ロスチャイルド家が欠かせない。丸に囲まれた六芒星は、オカルトの世界で最も悪質なシンボル。高等儀式で黒魔術や魔法を使うならば、このシンボルは必要不可欠となる。この次元に悪魔を召喚するには、絶対必要になる。」


 他にも元サタニストのビル・シュノウブレンは次の様に語っている。
「悪魔を呼ぶには、六芒星の存在が必要不可欠。サタンに祈る時には、絶大な力を発揮する。」


 ルシファーを「真の神」と書いたヘレナ・ブラヴァツキーは、神智学(しんちがく)の紋章に六芒星を取り入れた。ブラヴァツキーは著名なフリーメイソンのメンバーであった。ブラヴァツキーの影響は日本でも見られる。それは京都の鞍馬寺(くらまでら)で、ここの宗教は仏教ではなく鞍馬弘教(くらまこうきょう)という。鞍馬弘教とは、神智学の影響を受けた住職「信楽香雲(しがらきこううん)」が1947年に天台宗より独立して立てた新宗教教団。本堂の正面には巨大な六芒星がある。ニューエイジやスピリチュアルの世界では有名なパワースポットになっている。


 また奥の院への道にある不動堂にも六芒星がある。そして奥の院(魔王殿)には、650万年前に金星からやって来たサナト・クマーラが祀られている。サナト・クマーラはブラヴァツキーが最高神として拝む悪魔ルシファーとされ、可能性としてはイナンナも考えられる。


 そして日本各地にも六芒星は存在している。伊勢神宮の石灯籠には太陽神ウツのシンボル六芒星と菊の御紋が刻まれている。菊の御紋は外宮の豊受大神=イナンナ、六芒星は内宮の天照大神=太陽神ウツを暗示している。これがこの国の根源である。




 英語で六芒星を意味するhexagramのhexは「呪いをかける」という意味。この古代のオカルトシンボルはアメリカ合衆国の国章や1ドル札にもある。1ドル札のピラミッド部分に六芒星を描き、先端部分の字を組み合わせるMASON(メーソン)となる。


etc.

世界中で使用される卍(まんじ)---------------------------------------------------------------------------

 太陽十字から派生したものが卍(まんじ)となり、これも六芒星と同様に過去から現代まで世界中で使用されている。
 アヌンナキの王アヌはあん=阿吽で、阿(あ)は開いた形で丸、吽(ん)は閉じた形で十字がシンボルなので、「丸の中に十字」は大神アヌとニビルの象徴である。これが太陽十字とも呼ばれ、それが派生して卍(まんじ)となり、古い遺物として残っている物としてはインダス文明からも発見されている。



ソロモン王の死後、全イスラエル王国の大分裂-------------------------------------------------------

 ソロモンの死後、全イスラエル王国は「ユダ」と「イスラエル」に分裂し、彼の末裔によりそれぞれの国が継承されていった。

 イスラエルがアシールにあった場合、「ユダ」の王はアール・シャリームを支配下におき、もう一方の「イスラエル」を名乗る国の王はやがて都を「サマリヤ」においた。このサマリアは、サラートの山裾に広がるクンフザ地方の低地帯にあるシムラーンという村である。その都を拠点として、歴代の「イスラエル」の王たちは、北はターイフ地方にまでおよぶ、ちょうど「ユダ」の領土の北部一帯を支配した。

 政治的統一の面では、この「全イスラエル」の王国は長くは続かなかった。紀元前10世紀の後半になると、その領土はすでに二つの対立する王国に分裂しつつあった。すなわち、その首都をアール・シャリーム(聖書のエルサレムにあたる)とするユダ王国と、イスラエル王国の二つである。まずエジプト、次いでメソポタミア帝国による、アラビア半島西部を支配下におこうとする動きが、この分裂をもたらし、永久化させたことは間違いない。
 聖書学者たちは、伝統的にパレスチナに視点を据えてものを考え、二つの対立する王国「ユダ」と「イスラエル」は、それぞれパレスチナが南北に分かれたものであり、イスラエルの方は、その北パレスチナのナブルスを首都とする王国だったと説明したりしている。しかし「イスラエル」はアラビア半島西部にあり、その本来の勢力圏の中心を「ユダ」の北においていた。しかしこの二王国は、ひとつの明瞭な国境線を境に隣り合っていたわけではなかった。むしろこの二つの王朝は、宗教上の対立によって分かれた、同一国内における政治的分裂といえるものであった。ユダとイスラエルの王朝は、同じ地方の、しかもしばしば互いに近接する町や村を、それぞれ治めていた。明らかにその実例といえるのが、ユダの中心部、すなわちクンフザ内陸地方である。またさらに北部のリースおよびターイフ地方もその例である。
 ユダは後に正統派のユダヤ教として残り、彼らはヤハウェ神を崇拝した。イスラエル側はサマリア派を形成し、ユダヤ教は正統派とサマリア派に分かれた。そして様々な経路を経て、アラビア半島西部からパレスチナやその他の地方へと伝播していった。



■紀元前900年頃

トルコのカウノスの岩盤をくり抜いて作ったアヌンナキの遺跡------------------------------------

 トルコにある紀元前900年から栄えたカリア王国の古代都市カウノスにも、アヌンナキの多角形の石積みがある。さらにここには岩盤をくり抜いて作った遺跡があり、同様の遺跡はインドのエローラ石窟群でも見られ、そこにも多角形の石積みがある。つまり岩盤をくり抜くテクノロジーもアヌンナキということがわかる。




ドルイドとハロウィンの起源-----------------------------------------------------------------------------

 現代のイルミナティでは、ドルイドと呼ばれる司祭たちがルシファーを召喚し、ルシファーの命令をロスチャイルドなどに伝える役割を担っているが、この時代には、すでにドルイドたちの力は強大なものであった。1995年に発売されたイルミナティカードにも、ドルイドのカードがある。


 紀元前900年頃、非常に凶暴な遊牧民がブリテン諸島(イギリス)に侵入する。その地域は昔でいう「ゴール」「サクソニー」「ブリトニー」と呼ばれていた。後にはスコットランドやアイルランドなどの地域に分かれる。彼らはケルト人だった。ケルト人は非常に凶暴で野蛮だったため、後のローマ帝国の侵入を2度も防いだ。反対にローマ軍から略奪する。彼らはその地域において紀元前900年から紀元900年頃まで勢力を保つ。


 ケルトの死神「サーウィン」とは、ニムロッド(マルドゥク)の別名であった。神話でサーウィンとは、角神であったことがわかる。ケルト人の中で、ドルイド僧が多くの人々の尊敬を集めて強大な権限をふるっていた。ドルイドは古代エジプトやバビロニアで行われていた悪魔崇拝を受け継いでおり、それが現代のイルミナティにまで続いている。つまりハロウィンは、悪魔(マルドゥク)をお祝いする祝祭なのである。


 10月29日から31日、この3日間が「サーウィン」を形成する。現代人はハロウィンは一夜のみだと思っているが、オカルトの世界では、これは3日間に渡る火祭りである。ドルイド教がブリテン諸島(イギリス)を支配した時、ドルイドはすべての権力を保持。彼らの許可なしでは結婚さえできなかった。一族における正式称号をもらうにも、ドルイドの許可が必要だった。彼らの宗教儀式に参加するにも許諾(きょだく)が必要だった。彼らは「生と死」における全実権を握っていた。

 サーウィンの夜には、ドルイドは巨石のストーンサークルに集まる。イギリスのストーンヘンジはその代表例であり、3つの役割がある。第1に神殿、第2に天文台、第3が人身御供(ひとみごくう)の場だった。考古学者はすでにストーンヘンジの地中から4000人以上の人骨を発見している。



 ブリテン島には数百のサークルがあり、エイヴベリーのストーンサークルは周囲1.6kmで、サークルの中に街がある。

 ケルトの人々は非常にドルイドを恐れていた。サーウィンの時期、ストーンヘンジには巨大な黒い鍋が用意されてあった。その中には現代で例えると「アップルサイダー」のような液体が入っていた。鍋に火をつけるとドルイドの宣教師は田舎に行き、大邸宅からお城まで訪れ、貴族の家系を回る。伯爵(はくしゃく)、侯爵夫人(こうしゃくふじん)、公爵(こうしゃく)など。彼らは玄関の前に行き、「トリック・オア・トリート」と叫んだ。これは儀式の表現で、人々に恐怖とパニックを伝染させる。訪問された人がドルイドに従った場合は、自分の召使い、または自分の家族の誰かを、その晩に行われるドルイドの生贄に提供しなければならなかった。そしてドルイドはご褒美を置く。彼らは切り抜いたカボチャの中に人肉を詰め、玄関の前に置き、灯す。このジャック・オー・ランタンにより、その晩解放される悪魔から守られることになる。


 ここからが「トリック」である。ドルイドの要求に答えなかった場合、彼らは引きずり回していた死体の血を使用し、円の中に「六芒星」を描いた。これはラテン語の「6」からくるヘクサグラム(六芒星)で、オカルトの世界で最も悪質なシンボルである。この世界に悪を注入するには、このシンボルが必要不可欠である。ドルイドは人の血を使って玄関のドアに六芒星を描き、悪霊が召喚され、そして誰かが死んだ。

 4〜5時間後、ドルイドはストーンヘンジに戻り、捕らえた人間を檻(おり)に入れる。その中でも興味深い檻がある。ドルイドは「編み細工」を集めていた。この素材は非常に頑丈である。ドルイドはサーウィンが開始される一週間前にケルトの戦士を田舎に送る。彼らは何千もの編み細工を集める。それらを持ち帰ると巨大な「ウィッカーマン」を作る。ウィッカーマンの高さは約7〜9メートル、編み細工を用い、人間の形をした檻(おり)となる。ドルイドがトリック・オア・トリートで入手した人間を持ち帰ると、檻(おり)の中に入れて縛る。もしこのウィッカーマンが満員であれば、他にも普通の四角い檻(おり)もあった。それは念のための準備であった。


 そしてここでドルイド達の娯楽が始まる。彼らは約12名の生贄を連れてきて、鍋の前に一列に並ばせる。そしてリンゴを見せ、鍋に入れ、こう言う。「もし一度目にリンゴを歯で銜(くわ)えて鍋から取り出せれば、すぐその場で自由の身にしてやる」と。(Apple bobbing)


 しかし鍋はすでに4〜5時間も100度で沸騰し続けていた。生き残るために挑戦した者には恐ろしい結果が待っていた。頭を鍋に入れた後、沸騰した液体に、顔、首、腕、背中などは溶けてしまう。そして2度と見られない姿になる。多くは100度の液体により眼球が焼け、盲人となる。多くが耳を破壊され、聞こえなくなる。そしてリンゴを銜(くわ)えようとした際、沸騰した液体が体内に入り、呼吸器官もやられ、話すのも困難になる。これがハロウィンの「リンゴゲーム」の起源である。このゲームに挑戦しなければ、その場で斬首された。

 サーウィンはイルミナティ最大の生贄日である。その理由は、一年においてこの時期は「交差点」だからである。古い年が終わり、新しい年が始まる。オカルトの「交差点」はすべて神聖である。「交差点」には祖先の精霊が蘇ると信じられていた。3次元と4次元の境目には垂れ幕があり、その次元を交差し、一夜限り子孫に会いに来れる。これらの霊は必ずしも良いものとは限らず、よってドルイドは恐ろしいマスクを生み出す。着用するローブにオカルトシンボルを飾り付け、悪霊をコントロールしようとした。これがハロウィンの仮装の起源で、それは現代も同じである。



 現代でもイルミナティと悪魔崇拝者たちは、ハロウィンの夜に子供達を生贄として捧げ、ルシファーを召喚している。それは世界中で行われており、一般社会ではお祭りとして楽しんでいる裏で、罪のない人間の命が奪われている。



世界各地のドルメンとストーンサークルと生贄-------------------------------------------------------

 ストーンヘンジではドルイドによる生贄の儀式が行われていたが、先ほども述べたように、ストーンサークルの役割は第1に神殿、第2に天文台、第3が人身御供(ひとみごくう)の場だった。さらにドルイドが儀式を行う祭壇は石舞台と呼ばれるつくりで、ドルメン(支石墓:しせきぼ)のようなものであった。それは基礎となる支石を数個、埋葬地を囲うように並べ、その上に巨大な天井石を載せる形態をとったものである。ケルトの部落があったと思われるところには必ずドルメンがあり、ドルイドの儀式はある意味で、部族の信仰と習慣、生活の中心をなしていたといえる。
 石と生贄の儀式については、旧約聖書の列王記上(れつおうきじょう)の第1章9でも、次のように書かれている。
「アドニヤはエンロゲルのほとりにあるへびの石のかたわらで、羊と牛と肥えた家畜をほふって、王の子である自分の兄弟たち、および王の家来であるユダの人々をことごとく招いた。」 


 このドルメンとストーンサークルは、ヨーロッパ、アフリカ、アジア、アメリカ、南米、オーストラリアと世界各地で見られ、日本でも巨石があるところにドルメンがあるというほど、無数に見ることができる。つまりこのドルメンは、アヌンナキによって作られたもので、ドルメンのある巨石群には、アヌンナキの多角形の石積みや隙間のない組み方が存在する。
 アヌンナキで人間の生贄を行ったのはマルドゥクで、それを現代まで引き継いで行っているのがイルミナティに仕えるドルイドである。日本などでは動物などの生贄や食物の捧げものが行われていた。そして橋、堤防、城、港湾施設など大規模建造物が、自然災害や人災や敵襲によって破壊されないことを神に祈願する目的でも行われた。動物の生贄を捧げる行為は紀元前1万年頃の大洪水で生き残ったノアが、動物の生贄を神に捧げた頃から行われている。






etc.

■紀元前776年

古代ギリシャのオリュンピア祭(オリンピック)--------------------------------------------------------

 記録に残る最初のオリュンピア祭(オリンピック)が、古代ギリシャのエーリス領地内のオリュンピアで行われた。最初はエーリスとスパルタの2国のみの参加だったオリュンピア大祭は、正確に4年に一度開催され続け、しだいに参加国も増えてきた。やがて全ギリシア諸国が参加するようになった。

 オリュンピア大祭は、エーリス州のゼウスの神殿が建てられたオリュンピアの聖域にある競技場(スタディオン等)で開催された。大祭は初期にはスタディオン走のみで、1日で終了した。徐々に競技種目も増え、紀元前472年には5日間の大競技会となっていた。参加資格のあるのは、健康で成年のギリシア人の自由人男子のみで、女、子供、奴隷は参加できなかった。不正を防ぐため全裸で競技が行われた。勝者には勝利の枝と勝利を示すリボンのタイニアが両腕に巻かれ、ゼウス神官よりオリーブの冠が授与され、自身の像を神域に残す事が許された。審判はきわめて初期はエーリス王が当たったが、競技の数が多くなるとエーリス市民からくじで選ばれた。選ばれた審判たちはオリンピック期間中、神官として扱われた。競技は第1回からの伝統である192メートル(1スタディオン)のスタディオン走のほか、ディアウロス走(中距離走)、ドリコス走(長距離走)、五種競技、円盤投、やり投、レスリング、ボクシング(拳闘)、パンクラティオン、戦車競走などがあった。

 オリンピックという言葉は、古代ギリシャのオリンポス山と同時に、ギリシャ神話におけるオリュンポス十二神のことを指す。初めてのオリュンピア祭は紀元前776年に開催され、古代ギリシャの最高神ゼウス(エンリル)に捧げられた。つまりオリンピックもアヌンナキに捧げるためのものとして始まった。オリンピックにおいて選手たちはゼウスに宣誓し、彼に対して忠誠を誓う必要があった。古代人は4年に一度、オリンピアに集結し、スポーツ、生贄、賛歌を通してゼウス(エンリル)を祀る。5日間のフェスティバルで一つの神を拝み、結束した。


 そして古代の選手村では乱行が行われていたが、それは2016年リオデジャネイロ五輪で、選手1人当たり42個のコンドームが配られたことにも繋がっている。これも悪魔儀式の一部で、イルミナティの儀式が行われる場所では、常に性的な行為がつきまとう。開会式、閉会式、すべての催しがアヌンナキへの悪魔儀式であり、それは現代も同じで、国際オリンピック委員会(IOC)が取り仕切っている。1894年にこのIOCを設立したピエール・ド・クーベルタン男爵はフリーメイソンである。聖火リレーは近代になって始まったもので、考案したのはアドルフ・ヒトラーであり、彼もイルミナティと関係している。


■紀元前753年

古代ローマ帝国----------------------------------------------------------------------------------------------

 古代ローマ帝国の王政時代が始まる。ロームルスに始まる伝説上の七人の王が治めていた。

■紀元前727年

 支那東周平王44年(紀元前727年)の時、のちに邪馬台国五畿七道(ごきしちどう)の王となる安日彦命(あびひこ)が誕生する。

■紀元前721年

イスラエルが征服される-----------------------------------------------------------------------------------

 アラビア半島西部の王国「イスラエル」は、アッシリアの支配者サルゴン二世によって征服された。首都サマリア(現在もシムラーンとして存在する)が占領され、その主だった市民が捕囚(ほしゅう)としてペルシャに連れ去られた。


これまでの旧約聖書の解釈(アッシリアによる征服)--------------------------------------------------

 ここでの出来事もすべてパレスチナで起こったものではなく、アラビア半島西部のアシールで起こった可能性がある。
 
 メソポタミア地方に勢力を急速に拡大してきたアッシリア帝国が、パレスチナ地方に侵入し、北イスラエル王国に襲いかかった。必死に防戦したが、北イスラエル王国はあっけなく滅亡してしまった。しかもイスラエル10支族はそのままアッシリア帝国へ連行され、完全に捕囚(ニネベ捕囚)されてしまったのである。アッシリア王サルゴンの年代記によれば、「サマリア(北イスラエル王国の首都)の貴族階級27,290人をアッシリアに連行した……」とある。この時、アッシリアによって滅ぼされた北イスラエルのエフライムが日本へ向かう。


 北イスラエル王国滅亡を目の当たりにした南ユダ王国のイスラエル2支族は、改めて偶像崇拝はいけないことだと自戒し、「ダビデ王統」を守り続けていった。が、しばらくすると、南ユダ王国も同じ過ちを冒し、北朝滅亡から135年後の紀元前587年、新バビロニア王国によって滅亡してしまった。南朝のイスラエル2支族はバビロンへと捕囚(バビロン捕囚)され、不滅と言われた「ソロモン神殿」は破壊された。ユダ族の人々は国も神殿も王も失って、バビロンの地で涙することとなった。

■紀元前713年

イスラエル10支族の末裔----------------------------------------------------------------------------------

 アッシリアの捕囚を免れた10支族は、二手に分かれ日本へ向かう。海路で日本を目指したエフライム族は、インドネシアなど東南アジアを経て九州から大阪に上陸。彼らは海を渡って来たので海下(あまくだ)る、すなわち天下る(天降る)と言い換えられた。一般の歴史では下の図では第2のイスラエルの場所からやってきたとされている。しかしアラビア半島西部のアシールにあったイスラエルからやってきた可能性もある。


 エフライム族は海から、残りの9支族はシルクロードを渡って、アジア各地で様々な遊牧民と同化していく。初期に中国や日本へやってきた秦一族は騎馬民族であり、現地の遊牧民と同化していく。やがて10支族の末裔は次のようになる。

◯日本の天皇家
◯秦氏
◯チャンミン族 中国四川省・中国チベット自治区・中国河南省
◯カシミール族 インド北部カシミール州
◯クナン族 インド南部
◯シルシン族 インド ミゾラム・マニブル州・ミャンマー チン山地・ティディム地区
◯カレン族 ミャンマー 北東部
◯バタン族 カザフスタン・アフガニスタン・パキスタン・ネパール
◯ダン族 エチオピア
◯ブネイ・モシェ族 ペルー

 中国の史書では、ローマ帝国のことを大秦(だいしん)という国名で記載されている。秦氏(はたうじ)はローマに征服されたイスラエルからやってきたので、ローマを表す大秦(だいしん)という漢字から秦(はた)と名乗った。彼らはペルシャ、シルクロードを通って中国や日本へやってきたアヌンナキの直系血族であり、ユダヤ人である。

10支族の一部とスキタイと仏陀--------------------------------------------------------------------------

 紀元前800年〜前201年頃まで、ウクライナを中心に活動していたイラン系遊牧騎馬民族および遊牧国家のスキタイが存在した。このスキタイは、イスラエルの10支族の一部が逃れてきたもの。


 遊牧スキタイは純粋な遊牧民だが、王族スキタイは、スキタイの中で最も勇敢で数が多く、他のスキタイを自分の隷属民とみなしている。国家的な意味で「スキタイ」と呼ぶときはこの王族スキタイを指す。ゲッロス河以遠はコラクサイスを始祖とする王族パララタイ氏の領する王族スキタイ(スキタイ・バシレイオス)の領土である。1世紀のポンポニウス・メラは『世界地理』で、「バシリダイ族の始祖はヘラクレスとエキドナの子で、習俗は王族風、武器は弓矢だけである。」と記す。ヘラクレスもエキドナもギリシャ神話の神であり、つまりアヌンナキを指す。
 このスキタイの近くの東部コーカサス地方、特にダゲスタン共和国にはペルシア系のユダヤ・タート語を話すタットのユダヤ人(山岳ユダヤ人)がいる。彼らはイスラエルから追いやられてきた本物のユダヤ人、つまりスファラディ・ユダヤ人である。

 紀元前300年頃の後期スキタイ西部のスキタイ美術では、ギリシア文化の影響も見られる。特徴としては、パルメット(ナツメヤシの葉が広がったような文様)や唐草模様のような植物文様が施されたこと、動物表現がより写実的になったこと、人間や神々が表現されるようになったことが挙げられる。これらの作品は当時黒海北岸に住んでいたギリシア人職人がスキタイ王侯の注文に応じて作ったものと考えられているが、黄金比の渦模様などが見られることから結論的にはアヌンナキが作ったと考えられる。
 ナツメヤシは英語でPhoenix(フェニックス) dactyliferaと言う。フェニックスはイナンナのことであり、次の画像のスキタイの黄金の出土品にはナツメヤシの装飾と渦模様が見られる。

 紀元前300年代のスキタイの女神にはナツメヤシと渦巻き模様が装飾されており、これがイナンナを表す女神とわかる。その女神はギリシア神話に登場する海の怪物セイレーンと同じであることから、このスキタイの女神とイナンナとセイレーンが同一であることがわかる。


 スキタイのトヴスタ・モヒーラ古墳で発見された女性の胸飾りにも、黄金比の渦模様が施されている。

 紀元前600年代のスキタイ王国の黄金のベルトタイトルには、無数の渦模様が施されている。真ん中の動物の盛り上がった部分にも刻まれているが、これだけ渦模様が刻まれていれば、何か意味があるからと考えられる。渦模様は日本の縄文土偶にもあるようにイナンナのシンボルであり、スキタイにイナンナが関係していたことを表す。

 紀元前1世紀のギリシア史家ディオドロスも『歴史叢書(れきしそうしょ)』でスキタイの起源についてふれている。

●初め、アラクセス(ヴォルガ)河畔にわずかな部族が住みついただけであったが、あるとき戦好きで統帥力(とうすいりょく)のある王が現れ、南はカウカソス(コーカサス)山脈、東は大洋オケアノス沿岸、西はタナイス(ドン)川に至る範囲をその版図とした。
●スキュタイの中にひとりの処女が大地から生まれたが、彼女の上半身は人間、下半身は蛇の姿(おそらくスキタイの女神でイナンナ)であった。ある時、ゼウス(エンリル)が彼女と交わって男児をもうけ、スキュテスという名前をつけた。スキュテスはやがて名を挙げたため、彼の部族はスキュタイと呼ばれるようになった。後に彼の子孫からパロス、ナペス兄弟が現れ、王国を二分するほど強盛(きょうせい)となった。さらに彼等の子孫から優れた諸王が生まれ、タナイス対岸の地域を支配し、トラキア(バルカン半島南東部)、エジプトにまで遠征するようになった。その他、サカイ、マッサゲタイ、アリマスポイといった諸族が分岐していった。
 サカイとは、中央アジアのイラン系遊牧民族であるサカのギリシア語名。このサカ族から、後の仏教の開祖ガウタマ・シッダールタ(仏陀)が生まれる。ディオドロスの話にはゼウス(エンリル)なども出てくることから、スキタイはアヌンナキと関係しており、アヌンナキが関係するほどの一族ということはイスラエルの10支族の一部と考えられる。


ソロモン王、イスラエル12支族、天皇家の関係------------------------------------------------------

 ソロモン神殿の王座の脇には、二頭の獅子像があった。両脇に獅子像がある構図は、エジプトのピラミッドにも見られる。つまり、そのルーツはアヌンナキのエジプトにある。それが現代では神社に二匹の狛犬として見ることができる。京都御所の清涼殿の天皇の座の前にも、一角獣と獅子の像が見られる。


 古代イスラエルのユダ族は獅子で象徴され、エフライム族は角がある雄牛で象徴される。ユダ族を獅子で象徴するのは、旧約聖書の創世記49:9「ユダは獅子の子」から。エフライム族を雄牛で象徴するのは、旧約聖書の申命記33:17「彼(ヨセフ)の牛の初子には威厳があり、その角は野牛の角」から。エフライム族が北イスラエル王国の代表で、ユダ族が南ユダ王国の代表。支族の紋章は一つではなく、複数個ある。


 まとめると次のような分類になる。

●ユダ族の南ユダ王国(二支族)=獅子
●エフライム族の北イスラエル王国(十支族)=牛、ユニコーン(角が1本)、一角獣、狛犬(角が1本の方)、麒麟(角が2本)。

 つまり獅子と一角獣の2つで、南北イスラエルを象徴する。日本の神社は神道の祭祀施設で、そこにある狛犬もよく見ると片方に角が見られる場合がある。中国では麒麟(きりん)が立っていることもある。麒麟には牛の尾と馬の蹄(ひづめ)があり、基本的には一本角だが、二本角、三本角、もしくは角の無い姿で描かれる例もある。

 天皇の即位に用いられる高御座(たかみくら)の台座にも、左右に麒麟が描かれている。つまり南北イスラエル、中国、日本の間に繋がりが見え、天皇とエフライム族には関係があると推察される。

 ゼカリア・シッチン氏によれば、紀元前880年のエフライム族の北イスラエル6代目の王オムリにより新しい首都が建設され、ショムロン(サマリア)と名付けられたが、これは「小さなシュメール」を意味する。よって、エフライム族だからと言ってシュメールとの関わりが無い、あるいは少ないわけではなく、サマリア=小さなシュメールの大王家なので大変深い関係。日本の神社はシュメールの神々(アヌンナキ)を祀る神殿に他ならないので、後のユダヤ教や原始キリスト教の神殿ではない。北イスラエル王国は当初シェケムを都とし、後にシェケムからティルツァ、サマリアと移り変わった。
 南北イスラエルの各支族の紋章を見れば、ロスチャイルド家の紋章やイギリスの国章のルーツも、古代イスラエルにあることが見えてくる。ロスチャイルド家の黒い鷲(わし)は、ダン族の紋章である。

日本の真相7
神々との遭遇 上・下 / ゼカリア・シッチン
etc. 

久佐男彦が三輪山(奈良県桜井市)に立君----------------------------------------------------------------

 この当時、日本国全体を表す日の下の国は八州からなっていた。太古より日本の民は陽が昇る方向を崇拝する習わしを持っており、その方向を陽の国の東とし、陽が沈む方向を陰の国、西とした。北を日高見(ひたかみ)の国と呼んだのは、北ほど夜が明けるのが早い国ということから呼ばれたものである。
 この日の下の創国(そうこく)は、南米からカ・インの子孫が移住して来た民がそれぞれの地に分布して定住し、結集して国を造り、代々を経て強国は小国を併合して国勢を大きくし、十ヵ国から八ヵ国、或いは八ヵ国より三ヵ国にと、小国は威勢のある国に併合されていった。
 その手段は戦略、権謀、侵略、宗教による攻略などの術をもって併合する他は、小国は自らのぞんで寄らば大樹の陰と安住を求めたが、賦制(ふせい:税)に苦しみ逃げ出す者もあった。横暴な国主(こくしゅ)は、小国に復讐されて敗れたりと、様々な経過をたどり創国となった。
 創国時の日の下(もと)の国を大きく分けると、カラフト(流鬼国)、北海道(日高国)、奥州(日高見国)、関東(坂東)、北陸(越国)、山陰・山陽(出雲)、信州(信濃:しな)、近畿、四国(南海道)、九州(筑紫国)、沖縄(高砂国)、陸奥(むつ:東日流"つがる"国)の12国8州だった。この12国8州はさらに分かれ、国主150人が在位していた。


 現在の福井、富山、石川、新潟あたりを支配していた越の国は、ヒスイ文化圏の中心、あるいは東アジアの首都として栄えていた国である。
 古代において日本海側は、大陸との交易や文化的な交流など環日本海文化の中心地、それこそ日本の表の顔であった。つまり、きわめて重要な戦略拠点となりえる地であった。その中で、古くからヒスイ文化の中心として開けていたのが越の国で、ここを統治することが最優先事項であった。

 世が移り、日本国土に住民の数が増えてくると食糧に窮(きゅう)するようになった。そうなると強い者が弱い者を制し、国が貧しくなると豊かな国を侵略するという国土の争奪、また、食を求める集団も出没したりして、民間同士が生き抜くための闘争を続けた。
 そのため国主の在位が長く続かない状態の戦が長い間続き、その攻防はひどいものであった。
 この頃の暮らしには法律というものがなく、略奪や殺傷は日常茶飯事だった。それを防ぎ護るには一人より家族、家族が集まって集落を造り、集落がまとまって国となり、民は結集、結縁して人数を増やして国の勢力を強め、侵入してくる敵より安住を護る国を造っていった。
 その国造りが出来ていたのは南から高砂族、出雲族、邪馬台族、越族、東族(坂東)、東日流の6国だった。
 この6つの族を最初に統一した国主は、安日彦命(あびひこ)と長髄彦(ながすねひこ)の祖先、近畿・邪馬台国の国主・山大日之国彦命という王で、政所(まんどころ)を邪馬台国の三輪山(みわやま)においた。

 このカ・インの子孫である山大日之国彦命はもと伊勢国の山間部に住んでいた一族の長だった。この国主は山間部の民と海辺の民を併せた強力な国造りをし、国土を南に西に北にと広げて一族の国とし、その統括した民族は87国にも及んだ。


 日の下(もと)の国の政所(まんどころ)を大和の三輪山におき、大陸との間にある海を船で往来、交易した。
 この日の下(もと)の国主が君臨する時代が長い間続いた。その間の高殿(たかどの:政治を司る庁舎)が移ったところは、北はミヤサワ、坂東のセタ、越のアサヒ、信州のワタ、伊勢のトロ、出雲のヤマタ、邪馬台のミワ、紀のナチ、備のクレ、北筑紫のオカダで、乱れのない太平の世が続いていた。

東日流外三郡誌

日の下(もと)の国の五畿七道制---------------------------------------------------------------------------

 この時、日の下(もと)の国に君臨していた山戸彦命が、出雲の第二室・亜久耶媛を輿入(こしい)れさせた。
 山戸彦命は日の下(もと)の国を五畿七道に分け、五畿の国主に勾津輪足(まがつわたり)・麻坂津彦(まさかつひこ)・安日彦(あびひこ)・倶々木若竹(くくきわかたけ)・長髄彦(ながすねひこ)をそれぞれあて、日本中央の倭(大和)に高殿(たかどの:政治を司る庁舎)を築き、そこに君位(くんい)して、五王に国を治めさせた。
 さらに五畿の国を七道に分け、それぞれに王を配した。七道にワケグラ(県庁舎のようなもの)を築いて駐留させ、五畿七道へ献ずる税や貢ぎ物を司(つかさど)らせた。
 五畿の高殿(たかどの)を築いた所は熊野、哮(いかるが)、難波、明日香、泉で、また七道のワケグラを築いたところは、湯西州道日向、陰西州道出雲、陰陽州道桜井、陽内海州道福原、北陰州道越、東陽州道坂東、陰陽東北州道日高見だった。
 それ以外に、北辰州道日高、神足島(エトロフ)、カムチャッカの氷国があったが、これは本州の国果・日高見・東日流(つがる)にあるワケグラの王に司らせた。
 王制統合する政所(まんどころ)は本州中央に位置する邪馬台(大和)に置いた。これを高御座(たかみくら)五王と八方の郡主が国土を統治する。これを五畿七道制と言った。

 ワケグラの王の下に、アガタのベグラという239名のアガタ主が、十方の地位についてそれぞれの国を分け持った。

東日流外三郡誌

縄文人とイナンナ-------------------------------------------------------------------------------------------

 縄文人が交信していた高次の生命体として、女性的な生命体がいる。この生命体は世界各地で女神として認知されていて、それぞれの地域で別の名前で呼ばれている。
 シュメールではイナンナ、メソポタミアではイシュタル、ギリシャではアルテミス、ローマではディアナ、ペルシャのゾロアスター教ではアナーヒーター、ヒンドゥー教ではサラスヴアティーなどであり、水や月、豊穣と関連しているとみなされている場合が多い。
 縄文人もこの女性的な存在を認識していた。瀬織津姫(せおりつひめ)はその例である。瀬織津姫(せおりつひめ)は白山姫(しらやまひめ)ともアラハバキ(荒吐族の神)とも呼ばれているという。
 この女神は『記紀』には名前が記載されていない。元々縄文系の人々に祀られていた神で、後の渡来人の秦氏系の人々が日本各地に広がっていく過程で、封印された。

 白山姫、つまり白山比咩神(しらやまひめのかみ)はニビルのイナンナであり、別名イシュタルやメドゥーサ、アラハバキなど呼び名は様々で、ニビルのアヌンナキである。名前は違うがこの同一存在を祀る白山神社は日本各地に2700社余り鎮座する。特に石川・新潟・岐阜・静岡・愛知の各県に多く分布する。長野県から青森にかけて、宇宙人の姿をした縄文土偶が多数出土しているが、これらはほとんどがニビルのイナンナであり、つまり白山姫である。

 イナンナは定期的に地球を訪問し、様々な名前を用いながら姿を変えては世界各地に現れ、思うまま振る舞っていた。世界各地からは、様々な姿をしたイナンナの土偶が出土している。一見するとすべて別の土偶に見えてくるが、実はそれぞれ数個の同じ共通点を持っている。


 日本から出土しているイナンナの土偶は下記のようなものがある。

『ベールを脱いだ日本史』 坂本政道

エフライム族の渡来-----------------------------------------------------------------------------------------

 中東では、もはや神々アヌンナキはほとんど姿を見せなかった。その神々のエゴを人類は背負うことになったので、中東や大陸では様々な国が戦い、それぞれの領土を広げては奪われていた。イスラエルも例外ではなく、王国は分裂し、北イスラエル王国はエフライム族が、南ユダ王国はユダ族が中心となって治めていた。
 この頃の北イスラエル王国は本来のシュメール信仰に戻って多神教となり、サマリア“小さなシュメール”と呼ばれていた。しかし、度重なる侵略によってサマリア王国の十支族は捕囚された後に行方不明となり、戻って来なかった。
 その頃、古代日本は縄文時代末期で、環太平洋文明圏の中心地となって最高の栄華を極め、王ナガスネヒコが治めていた。そこにある時、イナンナとニンギシュジッダの御宣託によって導かれたフェニキアの大船団が渡来した。行方不明となっていたサマリア王国の十支族である。

 彼らはまず先発隊として、祭司氏族のレビを偵察隊として送り込んだ。導かれたとはいうものの、本当に神祭りに相応しい土地かどうか判断するためである。その到着地点は、後に京都北部の丹後半島と言われる日本海側の土地だった。黒潮から分かれた対馬暖流の流れるその土地は、冬場は荒れるものの、四季を通じて豊富な海の恵みをもたらした。また、海岸からすぐ傍に山が迫っていたが、それが海に豊富な栄養をもたらし、山中や頂には巨大な磐座(いわくら)の祭祀場があった。

 そして、対岸の半島とも盛んに交易が行われていたが、そこには鉄鉱石が豊富に埋蔵されていた。この日本海側の地域は、この列島の中心地だったのである。
 人々の顔は一見、警戒心のある厳しい様相のように見えたが、実は温和な性格で、海と山の恵みに感謝する信仰深い人たちだった。レビの長であるカグが彼らに話しかけると、それはサマリア王国の古い言葉、シュメール語と極めて類似したものだった。聞くと、彼らの実質の最高神は、何と偶然にも、豊穣の女神で航海の女神イナンナだった。そして、太陽神と蛇神を祀ると共に、海神で地球の主エンキも祀っていた。

 カグが大王ナガスネヒコから詳しい話を聞くと、彼らはアダパの子カ・インの子孫であり、自分たちの遠い祖先サティの兄の系統で、遠い兄弟支族ということが解った。祀っている神、そして祖先の共通性から、その場で協調関係が結ばれ、エフライム族の本体が渡来しても良いこととなった。
 この情報は直ちにエフライム族本体に伝わり、大船団は黒潮に乗って、まずは後に日向(ひゅうが)と呼ばれる地域に辿り着いた。そこには、ナガスネヒコの美しい妹、姶良依姫(アイラヨリヒメ)が待っていた。潮流の流れを見て到着地点を確信したナガスネヒコから、派遣されていたのである。彼女に先導され、エフライム族の本体は瀬戸内海を通り、現在の大阪・住之江付近に上陸し、陸路を経て、丹後で合流した。

 美しさと大船団を先導するたくましさを兼ね備えたアイラヨリヒメに、エフライム族の大王ムラクは心惹かれた。ムラクは王権の印として見事な鉄剣を帯同し、神の依り代としてのアロンの杖を持っていた。これを見たナガスネヒコは即座に悟った。自分たちもアダパの直系の子孫だが、神が望んでいるのは言わば弟分の彼らだと。当時、縄文王国では鉄の技術は発展途上にあり、メインは銅剣だった。もし戦えば、まったく勝ち目は無い。また、祖先のカ・インの罪滅ぼしはとっくの昔に終わっていたが、やはり神は罪の無い一族をお望みで、それ故に御神託によってこの土地まで彼らを導いて来たのだと。
 このように、宗教戦争をすること無く、ナガスネヒコとムラクは正式に和平を結び、その証としてムラクはアイラヨリヒメを娶り、渡来した一族の高度な製鉄技術は縄文王国に譲渡されることになった。そして、ムラクはこの列島の正式な大王として認められ、新たな時代が始まった。

 神々アヌンナキは一応、人類に介入しないことを決めていた。よって、どうしてもという時には、このように御神託という形をとって導いた。時には、天使などの姿として現れたりした。
 エフライム族の最初の到達地点は丹後だった。今でこそ“山陰”と呼ばれて裏のような印象だが、当時の半島や大陸との交易は、こちらが表玄関だった。
 日向のあたりから大分の宇佐にかけては、比売大神(ヒメノオオカミ)が土着の神として祀られていた。それは三柱の女神の宗像三神(むなかたさんしん)と同じだが、大神という尊称は、極めて重要な神であることを意味する。最高神がイナンナだったということは、宗像三神はイナンナの分身で、シヴァの分身が航海の女神ドゥルガーと暗黒の女神カーリーならば、すべてイナンナで同一、ということである。特に航海の女神という点で、ドゥルガーが反映されている。よって宗像系と海部(あまべ)系は広い意味では同族とも言え、婚姻関係も結んでいる。


 宗像三神(むなかたさんしん)の一柱、市杵嶋姫(イチキシマヒメ)は後に仏教の弁天様と習合され、水神にもなった。ということは、三神の中ではイチキシマヒメが最も重要ということである。この場合の「水」は「生命の水」のことである。そして、弁天は歌舞音曲の神でもあり、これはイナンナが原型の天鈿女命(アメノウズメノミコト)と同じである。その宗像三神を祀る宗像大社の神領である沖の島の海底神殿からは、興味深い一対の像が発見されている。銅製で、一対の片方は乳房と男性器を有した両性具有である。最初の人類は遺伝子が欠損していたため、生殖能力が無かった。つまり、アダムとイブのアダムに相当する。もう一方は明らかに女性なのでイブである。
 この像は42センチで1キロ。42はカバラ的に4+2=6で、神の数字は7なので、それに1足りない6は人間を表す。1は最初の数字なので、最初という意味。つまり、42センチと1キロで、最初の人類を暗示している。

 人類を創成した神はエンキと彼の息子ニンギシュジッダ、そしてエンキと腹違いの妹ニンフルサグで、エンキが中心となった。そのエンキの象徴は海神、水神、水鳥、水瓶、魚、蛇、亀なので、像の頭に乗った水鳥が、最初の人類を創成した神を暗示している。つまり主エンキである。すなわち一対の像は、地球の主エンキが人類を創成したことを暗示している。またエンキのあだ名は“銅の彼”でもあったので、銅製の像ということでもエンキを暗示している。
 それが宗像大社の海底神殿から発見されたということは、宗像の本来の最高神、すなわち、「生命の樹」に於ける均衡の柱はエンキで、最も関わりの深い慈悲の柱がイナンナだったと言える。よって、共にイナンナを実質の最高神として祀ることで、新たな時代が始まった。

 大阪住之江の住吉大社は、神功皇后と共に、イザナギの禊で生まれた底筒男命(ソコツツノオノミコト)、中筒男命(ナカツツノオノミコト)、表筒男命(ウワツツノオノミコト)が西向きに祀られていた。これは宗像大社の方を向いて、宗像三神と「合わせ鏡」になっている。宗像三神は女神でしかも西側なので陰、住吉三神は男神で東側により陽で、対になっている。つまり住吉三神は宗像三神よりも後から祀られた。住吉大社には神功皇后も祀られている。住吉大社の御紋は神宮の御紋とほぼ同じで、神功皇后が新羅に遠征した際に身に着けていた鎧にあった御紋、と説明されている。しかも神宮と同じく、20年毎に式年遷宮が行われる。そして、日本書紀の一書には、神功皇后は卑弥呼かもしれない、と記載されている。神功皇后と共にヒメノオオカミが祀られている宇佐神宮は豊国にあるので、トヨも関係ある。



新たな祭祀の神道が伝わる--------------------------------------------------------------------------------

 ムラクがこの列島の正式な大王として認められてからの時代は、後世では弥生時代と呼ばれることになった。実質の最高神がイナンナで共通していたので、当然、この時代の実質の最高神もそのままイナンナで、とりわけ不老不死の概念が重要視された。そして、太陽神ウツ、蛇神ニンギシュジッダ、地球の主エンキが共に祀られた。ニンギシュジッダは導きの蛇神で、蛇神のエンキは本来の最高神だが、同じ蛇がシンボルということで、蛇は神の使いと見なされることが多くなった。
 縄文人たちは、巨大な自然な磐座(いわくら)を神が降臨するジグラットと見立てて崇拝していた。中には、山自体がジグラット構造のピラミッドのものまで存在した。このような磐座や人工の山は、天才科学者ニンギシュジッダが地球のエネルギーグリッドを測定して配置・建造させたものである。これにより、人々の祈りの想念の波動エネルギーがガイア意識と共鳴し、自然の大災害を防いでいたのである。
 そして、ガイア意識も人々の想念に働きかけ、完璧な共生社会が出来上がっていた。無論、一部の者を除いて、縄文人たちはそんな科学的背景は知らなかった。現在も岐阜県の位山の山頂付近にかけては巨石群が点在しているが、そういった巨石は日本各地で見られる。



渡来したエフライム一族も、ジグラットへの信仰は共通することから、この信仰は大切にして自分たちも踏襲(とうしゅう)した。
 神道は八百万の神を見いだす多神教で、北イスラエル王国のエフライム族も本来のシュメール信仰に戻って多神教となっていた。つまり縄文時代から続いていた日本の信仰とエフライム族の信仰はアヌンナキを崇めるものであり、それが神道として一つとなった。
 後に仏教が伝来してからは須弥山(しゅみせん)や弥山(みせん)と呼ばれ、シュメールを暗示することになる巨大な磐座や山だが、この中の京都北部の丹後にある最も重要なものの1つが、大神アヌと祭司カグに因んでアヌとカグの山、天香語山(あめのかごやま)と名付けられ、祭祀の拠点とされた。それと同時に、天神を祀る一族ということで一族の部族名は天宮(アマミヤ)とされ、ムラクは“天宮のムラク”ということで天村雲(アメノムラクモ)、カグは天香語山(アメノカグヤマ)へと、名前もこの国に相応しいもので呼ばれるようになった。

 そこに、アロンの杖が神の降臨の依り代とされた。それまでは、磐座や山は大地から現れる神のシンボルだったが、そこに降臨の依り代が加わることにより、天から降臨する神(天神)と大地の神(地祇)の合一という陰陽の概念が出来上がったのである。
 このアロンの杖と共に、大王の持っていた王権の印としての鉄剣は、アロンの杖の分け御霊的存在として扱われるようになり、大王ムラクに因んで天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と呼ばれるようになった。

 また、シュメールでは王権のある土地の証拠として、光り輝く物が埋められていたが、この列島にはそれに相当する物が無かった。そのため、それに代わる物が必要とされた。
 1つは、アメノカゴヤマなど神山と見なされた山の土である。しかし、これだけでは、他の土地の土と区別ができない場合がある。そこで、神山の土の分け御霊的存在の物として、土から産出する鉱石類が選ばれた。それは、南米のカ・インの文明圏で不老不死と生命の再生をもたらす力を持つと信じられていた翡翠(ひすい)である。イナンナの影響は環太平洋地域全域に及んでおり、イナンナの不死鳥フェニックス由来のフェニキアの大船団で渡来した一族からすれば、これは願っても無いことだった。それを球ではなく、ヘブライ語の"YHWH"を意味するヤー、文字としては"Y"に相当するヨッド(’)の形に加工したヒスイ製勾玉(まがたま)である。これが、王権のある土地の象徴とされた。

 そして、地球の主エンキに実質の最高神イナンナと双子の太陽神ウツが重ねられ、新たに“ヤー”として祀られるようになった。そのため、いつしかこの国は不老不死の妙薬のある国と噂されるようになり、最高峰の山は不死の山、蓬莱山(ほうらいさん)と名付けられた。

 蛇神は一柱ではない。エンキとニンギシュジッダは勿論、邪悪な蛇マルドゥクに対する良い蛇イナンナ、ウツなどが重ねられている。
 日本にもピラミッドがあると以前から噂されていたが、それは神の宮で本当だった。アロンの杖は木の杖なので、それが神が降臨する神籬(ひもろぎ)の原型だった。アロンの杖は、聖書に於ける“族長の杖”に由来している。イスラエル十二支族の間で諍(いさか)いが起きた時、主は各支族の族長の杖を契約の箱の前に置かせた。そして、主が選んだ杖には若葉が芽吹き、その族長に従わなければならない、と言われた。選ばれたのはレビ族のアロンの杖だった。それ以降、アロンの杖は契約の箱、マナの壺と共に、ユダヤ三種の神器となった。このように、アロンの杖は主が自らが選んだからこそ、神が降臨するための依り代、神が降臨できる神籬(ひもろぎ)となり、芽吹いたアロンの杖の姿は、神に捧げる木=榊(サカキ)の原型で「生命の樹」である。

 縄文人とエフライム族は共に実質の最高神がイナンナだったので、降臨する神はイナンナで、木にイナンナが降臨すれば、「生命の樹」に掛けられたイナンナである。つまり「生命の樹」に掛けられた蛇神である。それはまた、イナンナが原型のイエスが、十字架に掛けられた状態と同じである。そのように、後に渡来する秦氏が仕掛けを施したのである。陰陽で言えば降臨する神は陽で、神が降臨する神籬(ひもろぎ)は陰なので、その神籬(ひもろぎ)たる柱のアロンの杖は陰である。そして、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)こと草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)はアロンの杖の分け御霊なので、剣は象徴として陰となる。陽の天神を祀る陰の神器ということである。
 つまり、この時から天神を祀るのに剣が必要とされた。大地に打ち込まれる心御柱(しんのみはしら)の原型はベテュルだが、そこに更にアロンの杖が重ねられたという見方もでき、サマリアではベテュルからアロンの杖へと変遷したという見方もできる。

 また神饌(しんせん)として必ず必要な水も、陰陽の陰で言えば陰である。天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)という名前の叢雲(くものつるぎ)も雨、つまり水に関わる。記紀に登場する重要な水の名称は、天照大神とスサノオの誓約が行われた天真名井(あまのまない)で、海部(あまべ)一族の奥宮(おくみや)の名称と一致する。真名井は古くは“魚井”と書かれていた。魚も水も水瓶も、エンキを象徴している。イナンナに「生命の水」を与えたのはエンキで、それを暗示する名称である。これが神饌(しんせん)としての水の根源である。

 そして、「丹後国(たんごのくに)一宮深秘」には、豊受大神が丹後(京都府北部)に祀られた際、天真名井(あまのまない)の水をアメノムラクモノミコトが汲み、それを神饌(しんせん)に使ったとある。アメノムラクモノミコトという御名(ぎょめい)は大王ムラクと天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の暗示で、それはアロンの杖。そして、真名井の水は「生命の水」で、豊受大神はイナンナなので、イナンナが木に掛けられて「生命の水」を与えられて“復活”したことを暗示している。よって最高神を祀るためには剣と水が欠かせないのである。
 そして、ムラクが丹波入りした経路は神武天皇の東征経路と同じである。つまり神武天皇の大元のモデルはアメノムラクモノミコトだった。神武天皇は後の神話に依る架空の人物だが、それに相当する大王は存在したのである。
 剣を持っていて、その剣が祭祀に不可欠なものだったので、神の祭祀と武器を象徴する剣ということで“神武”となった。名には、それなりの意味が込められている。


 アメノカゴヤマはシュメールの最高神アヌを祀る暗示なので、アヌから王権が認められた土地のシンボルと考えて良い。よって後に持統天皇が万葉集に詠んでいる。

“春過ぎて、夏来にけらし、白袴(しろたへ)の、衣ほすてふ、天香具山”



 この歌は、天香具山、つまりアメノカゴヤマの土を手に入れた者がヤマトの王になれたという意味である。その原型はシュメールで、王権のあった場所は聖別され、そこの土にエンリルが“天空のように明るい物体”を埋め込み、それが転じて“輝く玉”となり、玉が王権の象徴となった。それが勾玉であり、そう名付けられたのはもう少し後である。
 そして、インダスでの話でもあった、上向きの三角形プルシャと下向きの三角形プラクリティが変形されて巴(ともえ)になったが、この巴の形も"Y"に相当するヨッド(’)の形である。


 また「衣」が意味するのは、神聖な山に関わる“衣”は“天の羽衣”である。逸文(いつぶん)風土記(ふどき)の奈具(なぐ)社条文には、丹波郡(たんばぐん)の比治(ひじ)の真名井(まない)という泉に天女8人が天降った話がある。天女たちは水浴びをしていたが、和奈佐(わなさ)という老夫婦がやって来て、天女たちが脱いでいた衣の1つを取って隠してしまったがために、1人の天女は天に帰れなくなり、老夫婦の娘として共に十数年過ごし、その天女は万病に効く酒を醸(かも)していたという話。酒は水と共に神饌として供する。つまり、その衣=“天の羽衣”は天上界の力の象徴で、それを身に纏うことにより、神と直接対峙(たいじ)して神祭りすることが許されるということ。よってこの歌は、王権の象徴とも言える天香具山の土を手に入れ、神祭りが許される“天の羽衣”を纏うことにより、名実共に祭司王となる持統天皇の野望を詠っているのである。
 さらに、大嘗祭(だいじょうさい)に於いて天皇陛下(正確には皇太子殿下)がお召しになる湯帷子(ゆかたびら)も“天の羽衣”と言う。湯帷子(ゆかたびら)は浴衣の原型となる。大嘗宮(悠紀殿”ゆきでん”、主基殿”すきでん”)に入られる前に、天皇は沐浴を行う。沐浴用の建物である廻立殿(かいりゅうでん)に入られた天皇は、天の羽衣を身に付けたまま湯槽(ゆぶね)に入り、湯の中に衣を脱ぎ捨てて出る。生の明衣(みょうえ)を着用して水を拭い、斎服(さいふく)に着替えて大嘗宮(だいじょうきゅう)に向かう。これを、小忌御湯(おみのおゆ)と言う。悠紀殿(ゆきでん)と主基殿(すきでん)で二度儀式があるので、廻立殿(かいりゅうでん)での入浴も2回、天の羽衣、生の明衣も2着ずつ用意される。

 これは湯帷子(ゆかたびら)なので、天女の水浴を暗示していることは確かだが、天女は羽衣を脱いで水浴したがために、天上に帰れなくなった。しかし、大嘗祭(だいじょうさい)では“天の羽衣”を着て沐浴する。沐浴は神聖な禊(みそぎ)であり、その場で“天の羽衣”をわざわざ身に付けるということは、天上界の力を身に纏(まと)うということである。それにより、神と直接対峙(たいじ)して神祭りすることが許される。その後、天子(てんし)の威霊(いれい)を体得して正式な天皇陛下となるのである。このような昔の伝承から、皇室の儀式は引き継がれている。

etc.

 徐福の渡来---------------------------------------------------------------------------------------------------

 古代日本で弥生時代が始まった頃、大陸ではペルシャ系十支族が最初の統一王国を築いた。秦(紀元前778年 - 紀元前206年)である。この呼び名はイナンナの父神シン(ナンナル)に由来し、故にシンボルは月である。

 この国には、東の海に浮かぶ不老不死の国の伝説が既に伝わっていた。とうの昔に神殿には神々はおらず、不老不死を神に直接祈願することはできなかったので、秦の始皇帝は何としても不老不死の妙薬を手に入れたかった。そこで、レビの血を引く祭司、徐福(じょふく)を偵察隊の長として派遣した。そして、ある場合に備えて、皇帝の近親者も共に遣わした。


 徐福一団は海流を利用して、最初に丹後(京都北部)に辿り着いた。そこで、一大王国を目にしたのである。最初、大王たちがシュメール語で話していたので徐福は良く理解できなかったのだが、ヘブライ語で話しかけると話が通じ、同じ十支族であること、そして、エフライム族の大王がこの地の大王として君臨しているとは思ってもみない大きな収穫だった。
 早速、このことを皇帝に伝えなければならなかったが、このまま戻ってしまっては、縄文の血を引く一族から敵と見なされてしまう可能性もあった。この時、徐福は皇帝の機転を悟り、皇帝近親者の娘、伊加里姫(イカリヒメ)を大王ムラクへの和平の印として差し出し、彼女の側近や侍従らを残して、徐福は一旦秦に戻った。


 アメノムラクモノミコト(エフライム族の大王ムラクで日本の王となった:神武天皇のモデル)にはアイラヨリヒメという妻が居たので、イカリヒメとの関係をどうすべきか悩んだ。縄文王国との関係を優先すべきか、あるいは、十支族としての連帯を強くするべきか?また、アイラヨリヒメとの間には子を授かっていた。
 そこで、見かねたナガスネヒコが助け舟を出した。今後の大陸や半島との関わりを考慮すると、同族との繋がりを強くしてはいかがか?と。
 これによりアメノムラクモノミコト(大王ムラク)は決断し、イカリヒメを正妻とした。一方の徐福は、残念ながら不老不死の妙薬は無かったものの、エフライム族の大王が彼の国を治めていること、最高神が不老不死の大元だったイナンナ故に不老不死伝説が出来上がっていたこと、和平を結ぶためにイカリヒメを大王アメノムラクモノミコトの妻としたことなどを皇帝に報告した。
 事情を理解した皇帝は、技術者などを集めて大集団とし、改めて徐福を指導者としてその一大集団を率いさせた。それは、始皇帝の遺言でもあった。

 今度は彼らは半島経由で九州に上陸した。そこから次々と拠点を開き、瀬戸内海や四国、瀬戸内陸路を経て近畿へ、最終的に丹後へと合流した。そして、正式に和平が結ばれた。
 あの最初の出会いから十数年経っており、徐福はイカリヒメが正妻となっていることに安堵すると同時に、大王ムラクとイカリヒメの間にできた出石姫(イズシヒメ)に心惹かれた。大王ムラクは機転を利かし、徐福にイズシヒメを娶る意思があるかどうか尋ねた。徐福はその申し出を快く受け、イズシヒメを娶った。これにより、十支族の間の絆は深まった。


 しかし、中には快く思わない人たちも居た。そもそもエフライム族との和平に疑問を抱いていた縄文王国の一部の者たちや、強引に拠点を築いていた一部の徐福一団の行動に納得できなかった者たちである。また、徐福の一団はペルシャ系ユダヤ人とは言え、ユダヤ教よりも契約の神ミスラを太陽神とするミトラス教に傾き、当時台頭していたゾロアスター教に押し出される形で大陸にあのような王国を築いたので、彼らの中にはイナンナを最高神とする縄文-エフライム族連合に納得できない者たちがいた。

 このような状況故、各地で小競り合いが発生し始めていた。それを少しでも収めるために、徐福一団が持って来た銅鐸(どうたく)を太陽神祭祀の祭具とした。銅鐸は太陽のように黄金色に光り輝き、その穴の位置は、夏至・冬至、春分・秋分を観測することができたので、太陽神の分身のように見なされていた。


 このように支那(中国)の最初の統一王朝秦は、ペルシャ系十支族のユダヤ人国家だった。よってつい最近まで、始皇帝の墓を発掘することは許されていなかった。支那最初の王朝が漢民族ではなかった、というのは共産党の意向にそぐわない。
 秦由来の渡来一族は弓月君(ゆづきのきみ)に率いられて来たという伝承があったが、弓月君が徐福である。弓のような月とは三日月でナンナルのシンボルでもあり、それをカバラとして拝借した。そして、月に生えているとされる伝説の木の「桂の木」があるが、これが意味することは、葛城氏(かつらぎうじ)の祖は徐福である。徐福の妻となったイズシヒメの正式名は、カツラギイズシヒメである。よって、葛城氏と海部(あまべ)一族の分家の尾張氏との間には深い婚姻関係がある。


 しかし徐福がエフライム族である海部(あまべ)一族の大王に始皇帝縁者の娘を差し出したというのは、何処にも書いていない。これは日本の封印された最高の秘密の1つである。正確に言うならば、それは史記に記されている。そこには、徐福は蓬莱(ほうらい)の地で王となった、とある。大王アメノムラクモノミコト(エフライム族の大王ムラク)の義理の息子となったわけなので、王家の一員である。
 このイズシヒメ、アメノヒホコの出石(いずし:兵庫県豊岡市付近)と関係があり、アメノヒホコは妻を追ってヤマトにやって来たが、但馬国(たじまのくに:兵庫県北部)の出石(いずし:兵庫県豊岡市付近)に至り、そこで現地の娘、前津見(まえつみ)と結婚した。これは、アメノヒホコを徐福、出石(いずし)や現地の娘をカツラギイズシヒメと見なせばいい。

 そして、アメノヒホコは8種ほどの神宝を持参したとされているが、それらはいずれも海上の波風を鎮める呪具(じゅぐ)とされ、その中の奥津鏡(おきつかがみ)=息津鏡(おきつかがみ)と辺津鏡(へつかがみ)は海部(あまべ)氏(エフライム族)の御神宝なので、アメノヒホコは海部(あまべ)氏(エフライム族)に極めて関係の深い人物である。
 また、これらの神宝は物部氏(もののべうじ)の十種神宝(じっしゅしんぽう)を象徴するので、正史で物部氏の大王とされているニギハヤヒが持つべき物でもある。実は、ニギハヤヒも徐福である。このように、十種神宝という観点からも、アメノヒホコは徐福となる。


 ニギハヤヒはニニギよりも先に渡来していた正統血統で、ニギハヤヒは徐福でもあり、海部(あまべ)一族(エフライム族)の大王でもある。シュメールの正統血統で、縄文の大王ナガスネヒコの妹を娶ったニギハヤヒは海部(あまべ)一族(エフライム族)の大王を暗示し、ナガスネヒコを裏切って神武天皇側に寝返ったニギハヤヒは徐福系である。海部(あまべ)一族(エフライム族)の極秘伝はこうある。

“ヤマトに於いて、天神の降臨が相次いで二度あった。最初の降臨は天火明命(アメノホアカリ)、天香語山命(あめのかぐやまのみこと)、天村雲命(あまのむらくものみこと)であり、少々経ってからニギハヤヒが降臨した。”

 これは古代に於いて、両氏族が相当深い関係にあったことを暗示している。ここでは明らかに天神には二氏族あって、両者が“相当深い関係”、つまり、婚姻関係で結ばれていたことがわかる。

 またタジマモリも不老不死の妙薬を求めたが、タジマモリも徐福を暗示する。最初に渡来した時点の徐福が田道間守(タジマモリ)、再渡来した時点の徐福がアメノヒホコである。タジマモリは第11代・垂仁天皇の命で常世の国に不老不死の妙薬、非時香果(ときじくのかぐのこのみ)を求め、10年掛けて葉付きの枝と果実付きの枝を日本に持ち帰って来たが、垂仁天皇は既に崩御していた。


 常世の国をヤマトと見なし、垂仁天皇を始皇帝と見なせば、タジマモリは徐福に相当する。その非時香果(ときじくのかぐのこのみ)とは橘(タチバナ)のことで、日本に自生している植物である。これは秦とヤマトを「合わせ鏡」で逆に見れば良い。よってアメノヒホコ→タジマモリとされる渡来順も逆に見れば良い。
 また、タジマモリは垂仁天皇が崩御されていたことに、悲しみのあまり泣き叫びながら亡くなったというが、これはギルガメッシュが不老不死の妙薬を手に入れたものの、蛇に奪われたので泣いた、という次の話と似ている。

“ギルガメッシュとお供のエンキドゥが神々の地に辿り着く前、ギルガメッシュが水浴びしていると、その姿に欲情したイナンナがギルガメッシュを誘惑した。しかし、イナンナの浮名を知っていた彼は、早晩、彼女は自分を“足にまとわり付く靴(くつ)”のように脱ぎ捨てるだろう、と言って、彼女が浮名を流した男たちの名を列挙し、彼女を拒絶した。この屈辱的拒絶に激高したイナンナは天の牡牛(おうし)でギルガメッシュを打ち倒すよう、アヌに頼んだ。しかし、彼らはこの天の牡牛を打ち砕いたので、イナンナは彼女の住まいで嘆き悲しんだ。”

 つまり、ギルガメッシュの話にもイナンナが密接に関わっていた。そもそも不老不死の概念自体がイナンナが根源である。
 さらに、葉付きの枝は「生命の樹」、果実付きの枝は「生命の樹」に生る実なので、知恵を悟ることの象徴である。カバラに於ける不老不死とは、「生命の樹」の知恵を悟ることに他ならない。そして、「生命の樹」のセフィラは10個、隠されたダアトを含めると11個で、それがタジマモリの話の“10年”“第11代”で象徴されている。つまり、タジマモリの話は、「生命の樹」の知恵を悟ることを象徴したカバラでもある。
 また、尾張氏の末裔は田島姓や馬場姓を名乗り、かつては但馬(たじま)も丹波王国だった。つまり、タジマという言葉で海部(あまべ)一族を暗示している。


 またこの徐福一団の経路も、アメノムラクモノミコト=神武天皇の東征経路と似ている。それは、徐福がアメノムラクモノミコト(大王ムラク)の時代に渡来し、その娘を娶ったからである。徐福こそが神武天皇である、という説も、同じ理由だった。
 しかし、和平を結んだとは言え、快く思わない者たちが反逆していた。よってこの狭い国を統一する必要が生じた。この小さな島国で争っていては共倒れになるからである。そこで最も重要なことは、祭祀である。古代は何処の国でも政祭一致だった。そして徐福系の不満を減らすために、彼らが持って来た銅鐸が祭祀に使われるようになった。銅鐸については様々な議論があったが、太陽神の分身だった。こうして縄文時代からの日本の信仰とエフライム族の信仰が習合した神道と、徐福系秦氏の信仰がさらにここで習合した。


中国と日本の銅鏡もアヌンナキが作った---------------------------------------------------------------

 紀元前2000年頃からの中国の二里頭(にりとう)上層文化期の夏(か)王朝や殷(いん)で作られた青銅器には、アヌンナキの、特にイナンナの渦模様や黄金比やフクロウのシンボルがたくさん含まれていた。さらにタガネを使った人間の手作業では作れないような1mm単位の細い線の渦模様も表現されていた。そして紀元前200年頃の中国の銅鏡にも、それらの共通点を見ることができる。つまり銅鏡もアヌンナキのテクノロジーによって作られたということがわかる。さらに、銅鏡に描かれた八芒星はイナンナのシンボルであり、バビロンの円筒印章やアフリカのブードゥー教のシンボルにも描かれている。

 この銅鏡にもイナンナの渦模様が見られる。その装飾は繊細で、しかも黄金比である。また菱形の模様は、イナンナやウツのシンボルでもある。

 25〜220年までの中国の後漢の六乳四神禽獣鏡。ここにも黄金比が描かれ、細かな装飾もされている。また周囲には、三角形と縦線が規則的に円形に装飾されている。これは日本の銅鏡にも見られる。つまり中国と同様に日本の銅鏡も、アヌンナキが作ったということ。

 日本の丹後国(たんごのくに)からも、400年頃の銅鏡が出土している。そこにも三角形と縦線が規則的に円形に装飾されていることから、中国の銅鏡と同じくアヌンナキが作ったと考えることができる。
 また、銅鏡には四神が描かれている。四神は奈良県のキトラ古墳の石室などにも描かれているが、アヌンナキのことである。マヤ文明での羽を持つ蛇のククルカンがニンギシュジッダであるように、青龍もまた羽を持つ蛇であることからニンギシュジッダ。朱雀は鳳凰、不死鳥、フェニックスとも同一視されるのでイナンナ。玄武の亀と蛇はエンキのシンボル。残る白虎はエンリルと推測される。

 日本の銅鏡は東北地方から九州まで、各地から出土している。それらは前方後円墳から出土していることも多い。後述しているが、天皇陵とされる前方後円墳の石室の作りは、巨石の壁の上に何十トンもの巨石を置くドルメンの作りとなっている。それは世界各地の巨石建造物と同じ作り方で、隙間なく密着もしている。 つまりアヌンナキが作った前方後円墳から、アヌンナキが作った銅鏡が出土しているということである。日本のドルメンはアヌンナキへ動物の生贄や貢物を捧げるためのもの。

 天皇のシンボルは十六菊花紋(じゅうろくきっかもん)だが、中国の銅鏡からもイナンナの十六芒星と黄金比の装飾がされた銅鏡が出土している。世界中の遺跡や出土品に十六芒星が描かれており、そこにはアヌンナキのレリーフ、渦模様、黄金比、多角形の石積みなど、常にアヌンナキと関係したものが見られる。銅鏡にもアヌンナキと関係するシンボルが常に刻まれている。


中国と日本の銅鐸(どうたく)もアヌンナキが作った--------------------------------------------------

 銅鐸は中国や日本で、アヌンナキによって作られた。銅鐸の穴の位置は、夏至・冬至、春分・秋分を観測することができたので太陽神の分身のように見なされ、祭祀にも使用された。銅鐸も銅鏡と同じく青銅器で、渦模様が装飾され、その多くが黄金比でできている。また銅鏡と同じく銅鐸の周りには三角形や線の模様が細かく刻まれている。こういった共通点からこの時代、中国人や日本人のアヌンナキとの仲介者は、アヌンナキを神と崇め、知識や物を得ていたと考えられる。

 三重県鈴鹿市磯山町の銅鐸の片側には、中国の銅鏡と同じ三角形と線の装飾が、周りに施されている。
  
統一王国への道と新羅建国--------------------------------------------------------------------------------

 縄文人たちは海の漁や山の狩猟を主な生活源としており、海辺に近い地域に集合村落ができていた。山には磐座(いわくら)があり、神聖な地域だったので、祭司などの特定の者以外、入ることは許されていなかった。祭祀を行うには神が降臨するための磐座や山が必要となるが、新たな統一王国の中心地として丹後(京都府北部)は手狭だった。そのため、新たな開拓地が求められた。
 丹後地方の山を越えた南方には、広大な湿地帯が広がっており、それは紀伊半島の山岳地帯の麓まで続いていた。また、徐福一団は稲と呼ばれる穀物を持って来ており、これはニビル由来の小麦とは違って純地球種だった。そして、小麦と同様、一粒植えれば収穫時に何倍にもなる優れた穀物で、特に湿地帯に適した穀物だった。これを栽培することにより、多くの人口が賄(まかな)えるようになり、定住生活も可能となる。そこで、この列島の中心的位置でもあるこの湿地帯を開拓し、そこに新たな統一王国を造ることが決められた。

 ナガスネヒコが彼らを導くことによって、できる限り小競り合いが避けられた。丹後地方の山を越えると、徐福が率いてきた技術者集団が湿地帯の干拓を進めた。彼らは秦帝国を建造した一級の技術者集団だった。その一派は秦に残り、始皇帝の陵墓を建造したのである。
 最初彼らは、後に山城と言われるようになる地から、広隆寺(こうりゅうじ)が建てられる太秦一帯までを足掛かりの地とした。そして、すぐ傍にある列島最大の湖を遠い故郷のガリラヤ湖(竪琴の湖)に因んで“琵琶湖”と名付けた。この巨大な湖の水運を活用し、丹後の日本海側と太平洋に通じる東海地方との交易を盛んに行った。これにより、朝鮮半島から日本海を経て、太平洋までの経路が出来上がった。更に、木津川を上り、紆余曲折しながら、ようやく統一王国に相応しいと思われる土地に辿り着いた。
 これと並行して、朝鮮半島との鉄鉱石の貿易をより確実でスムーズなものにするため、天宮一族の瓠公(ココウ)が徐福系の一団を率いて半島に渡り、彼らが通って来た日本海側の経路に国を造った。後の新羅である。更に建国後には、天宮(あまみや)一族と婚姻関係を結んだ徐福系の脱解尼師今(だっかいにしきん)が渡って、国王となった。

 稲は徐福が持って来たが、よって海部(あまべ)一族(エフライム族)の近くには“伊根”という地名がある。お米は「八十八」と書くから、これに天神で豊穣神のヤーが加われば“888”となる。
 徐福のいた秦帝国で、ようやく漢字は統一された。方士(ほうし:中国古代の方術を行なった人)でカバラの使い手の徐福は、漢字の表意性、表音性に、更にカバラも付け加えた。つまり、今日に繋がる日本のカバラの大元は、この時代に始まる。よって、王権のある土地の象徴でヘブライ語の"YHWH"を意味するヨッド(’)の形に加工した玉を勾玉と名付けた。“勾”の“勹”は“包む、とらえる”という意味、“ム”は“わたくし(私)”という意味で、“勾”は“私は在る”ということである。

 つまり海部(あまべ)一族(エフライム族)は大王家で祭祀一族でカバラの使い手なので、“元八咫烏”のような存在で、八咫烏は秦氏である。広隆寺から太秦にかけてはその八咫烏の拠点だが、その前は海部(あまべ)一族(エフライム族)が治めていた。
 広隆寺では牛追い祭りという変わった祭りがあり、ただただ牛を追いやる。これは、物部氏(もののべうじ)の“物”という字が“牛に勿(な)かれ”と書くことが暗示しているが、物部氏は牛を使って燔祭(はんさい)を行っていた。本来は、エルサレムの神殿でのみ行うべき、ということで、秦氏によって禁じられたのである。つまり、広隆寺は元々物部氏縁の地で、しかも、神殿に相当するような施設があった。広隆寺(こうりゅうじ)の“広隆”は道教由来の“黄龍(こうりゅう)”に通じる。徐福は道教の方士(ほうし)とも言え、黄龍(こうりゅう)は地上の王を表す。そして有名な聖徳太子像がある。
 聖徳太子は基本的にイエスをモデルとした架空の人物だが、名前がイエスを暗示している蘇我馬子(”そがのうまこ”我、馬やどの子として蘇り)だとも言える。その蘇我氏は、実は徐福系の子孫である。蘇我氏は、葛城氏の子孫だと主張していたが、葛城氏の祖は徐福なので、それは本当だった。
 徐福は海部(あまべ)一族(エフライム族)となり、ニギハヤヒとされたので大王とも言える。そして、正史では、聖徳太子は皇統の皇子とされている。広隆寺には他に、国宝第1号と指定された弥勒菩薩半跏像があるが、それは、新羅様式である。それは、新羅は海部(あまべ)氏(エフライム族)が建国した国なので、聖徳太子像で大元の王族を暗示している。よって、天皇陛下が大嘗祭(だいじょうさい)後の即位式で召された黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)が、この聖徳太子像に着せられるわけである。

 それに、アメノヒホコやタジマモリが新羅国王の子孫とされたのは、新羅建国に海部(あまべ)一族と徐福系が関わっていたからである。それが神話では、高天原を追放されたスサノオが檀国(タングク)に降臨した逸話に変えられた。新羅は海部(あまべ)氏(エフライム族)・徐福系を暗示する重要なキーワードである。新羅となる以前は辰韓(しんかん)=秦韓(しんかん)だったが、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人の国とも言われている。ならば、一旦秦に帰国した後、朝鮮半島を経由して九州に再上陸した徐福一団を“秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人”と見なせば良いわけである。

 熱田神宮(あつたじんぐう)にある草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)がかつて新羅の僧に盗まれたという話があるが、それは神器は特定の氏族にしか扱えないという暗示である。新羅建国に関わったのは海部(あまべ)氏だからである。その盗まれたという話は、剣の写しを造るために一旦、秦氏によって没収されたということである。それを、新羅の僧が盗んだことにした。
 国史的には、新羅はあまり良い扱いを受けていないのは、海部(あまべ)一族の真相を封印するためである。海部(あまべ)一族が後に鬼や土蜘蛛(つちぐも)など、異形の者とされたのも同じ事である。



邪馬台国(前期邪馬台国)建国------------------------------------------------------------------------------

 統一王国に相応しいと思われる土地に辿り着いたものの、そこは山間地だった。そのため、平地のような田は作れないので、開墾して段々畑のような狭い田やどちらかの方向に長い田が作られた。
 また、建田勢命(タケダセノミコト)の時代、半島経由で大陸から銅鏡が伝えられた。その中の重要な鏡は、光を当てると反射した像に鏡面の模様が浮かび上がる魔鏡だった。特に重要だったのは一対の大きさの異なる鏡で、物質世界の基本原理である鏡像反転の原理を暗示し、カバラの根本原理とも言える「合わせ鏡」となっている息津鏡(おきつかがみ)・辺津鏡(へつかがみ)である。「合わせ鏡」の像は無限に続いているような錯覚を与えることから、“永遠”“不老不死”をも暗示する。銅鏡の中心部分には不老不死を表すイナンナの八角形が刻まれているものもある。

 祭祀としてはまだイナンナを最高神として祀っており、イナンナには太陽女神としての性質があったものの、男神を太陽神とする徐福系との争いがあちこちで発生していた。そのため、特に重要な一対の鏡を太陽神の分身として、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と共に二璽神宝(ふたつのみしるしのかんだから)とすることが検討され、新たな祭祀の準備が整いつつあった。


 そして、続く建諸隅命(タケモロズミノミコト)を経て、次の倭得魂命(ヤマトエタマノミコト)の時代に、ようやく統一連合国としての形態が整った。ここまでは地球の主エンキ、イナンナ、ウツを重ねて“ヤー”として祀っていたが、実質の最高神は女神イナンナだった。そのため、男王が祭祀王として仕えていた。

 しかし、その次の代、意富那比命(オオナビノミコト)が大王となるのと同時に、ヤーを三神に分離し、エンキを海神、イナンナを豊穣神、ウツを太陽神として祀り、最高神は太陽神と決められ、太陽神の分身が息津鏡(おきつかがみ)・辺津鏡(へつかがみ)、依り代が天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)とされ、それまでの祭具だった銅鐸は破棄された。
 そして、男神の太陽神を祀るため、神懸かり的な力を秘めた姉の卑弥呼が巫女女王として君臨することとなり、ようやく連合国家が誕生した。その国の名は、ヘブライ語で“神の民”を意味する“ヤマトゥ”の国である。これが支那の書では“邪馬壹国(やまいちこく)”と書かれた。
 その場所は、現在の宇多川に分岐した奈良県桜井市の泊瀬(”はせ”初瀬)、上の郷付近で、深めの笠のように整った円錐形の山である奈良県の大和高原の都介野(つげの)岳を神が降臨する山とし、その神山を祀るための場所が奈良県桜井市の小夫(おうぶ)である。しかし、連合国家とはいえ、それはこの付近に限定されたものであり、特に狗奴(くな)国との争いは絶えなかった。


 卑弥呼の邪馬台国は纏向(まきむく)ではなく、泊瀬(はせ)の上の郷(かみのごう)付近だった。纏向(まきむく)はその時、まだ湿地帯だった。だから、そこを干拓して開墾する前の土地として、ここが選ばれた。そして、当時はまだ争いが絶えなかったので、最初から一気に統一国家を造る予定ではなかった。
 日本書紀には、天照大神が天邑君(あめのむらのきみ:天上界に於ける村の長)を定め、天狭田(あめのさなだ)と長田(ながた)を作った、とある。このような山間地では平地のような田は作れないので、この天狭田(あめのさなだ)と長田は泊瀬(はせ)付近の山間部に最初の王国ができたことを暗示している。
 その“上の郷(かみのごう)”と同じ地名が他にもある。それは内宮別宮の伊雑宮(いざわのみや)で、本来の神宮は、封印された伊雑宮(いざわのみや)なので、“かみのごう(重県志摩市磯部町上之郷)”という地名で本来の場所を暗示している。

 泊瀬(はせ)の上の郷(かみのごう)には白木という地名があり、伊雑宮(いざわのみや)のある三重県の志摩にも白木という地名がある。さらに、日本地理志料に依ると、小夫(おうぶ)には斎宮山があり、天照大神を祀る天神社があって、これを笠縫邑(かさぬいむら)の伝承地と称して元伊勢と伝えている。これからも、都介野岳(つげのだけ)という神山を祀るための場所が小夫(おうぶ)だと言える。 更に、都介野岳(つげのだけ)の西側は小山戸(おやまと)という地区だが、かつては“おうやまと”と呼ばれていた。“大いなるヤマトゥ”の意味だが、“小”を“おう”と読ませているのは、この最初の統一国家の王であるオオナビノミコトに因み、それが後に美称の“おう”“おお”とされ、警蹕(けいひつ:御神体を遷"うつ"す遷御の際や天皇陛下が公式の席で着座・起座される際、行幸時に殿舎等の出入りされる際、天皇陛下に食膳を供える際などに、周りを戒め、先払をするために側近者の発する声)とされた。たった一言の“おう”にも、それだけの意味が隠されていた。

 他にも、小夫(おうぶ)の南に接した滝倉には神山の瀧蔵(たきくら)山があり、イザナギとイザナミを祀る瀧蔵権現社(たきくらごんげんしゃ)があり、上の郷(かみのごう)には古代祭祀にまつわる古社や伝承が多い。息津鏡(おきつかがみ)・辺津鏡(へつかがみ)こそ、卑弥呼が神事で使い始めた鏡だった。それに合わせ鏡にも深い意味がある。だからこそ、卑弥呼一族の子孫である海部(あまべ)一族(エフライム族)が、代々手渡しで継承してきた。そして八咫鏡のオリジナルでもある。今まで、誰も見破れなかったのは、ヘブライ語が書かれた鏡だとばかり思われていたからである。

 鏡が太陽神ウツの分身で、剣が依り代だが、剣はイナンナの依り代でもある。イナンナには太陽女神的性格があるので、いずれも太陽神の依り代と言える。それに、イナンナは戦いの女神でもある。
 残りの勾玉については、山幸彦(やまさちひこ)が海神ワダツミノカミの所に行った時、海神の娘トヨタマヒメの侍女が持っていた水の入っていた壺に、自分の首飾りに付いていた勾玉をとって口に含んで壺の中に吐き掛けたところ、勾玉は壺にくっついて離れなくなった。つまり、勾玉は海神縁ということである。

 また神山とされた都介野岳(つげのだけ)のある一帯の地名は都祁(つげ)で、新羅の都祁野と関係がある。新羅の延烏郎(ヨンオラン)と細烏女(セオニョ)の逸話が暗示している。

 “第8代・阿達羅(あだつら)王の即位4年(157年)の丁酉(ひのととり)の年のこと。東海の浜辺に延烏郎(ヨンオラン)と細烏女(セオニョ)がおり、夫婦で暮らしていた。ある日、延烏郎(ヨンオラン)が海中で海藻を採っていると、突然岩(魚の場合もあり)が出現し、延烏郎(ヨンオラン)を乗せて日本に帰った。日本の人は「これは並みの人ではない」と言い、王に擁立した。
 細烏女(セオニョ)は夫が帰って来ないのを不審に思い、夫を探し求めた。夫の脱いだ鞋(わらじ)を見つけると、彼女もまた岩に上った。岩はまた前のように細烏女(セオニョ)を乗せて日本に帰った。日本の人は驚き怪訝(けげん)に思い、謹(つつし)んで王(延烏郎”ヨンオラン”)に細烏女(セオニョ)を献上した。そして、夫婦が再会することとなり、細烏女(セオニョ)は后(きさき)とされた。
 この時、新羅の太陽と月は光を消してしまった。日官(イルクワン)という予言者が(新羅の)王に奏して言うには、「日月の精は、降臨して我が国に在った。しかし今、日本に去ったので、この不思議な現象に到った」と。新羅王は使者を派遣して2人を探した。延烏郎(ヨンオラン)が「私がこの国に到ったのは、天が然るべくさせたものである。今どうして帰ることができようか。だが、私の妃が織る薄絹(うすぎぬ)があるので、これを持ち帰って天を祀ると良いだろう」と言った。
 使者はその薄絹を持ち帰り、新羅王に事の仔細(しさい)を奏上し、延烏郎(ヨンオラン)から言われた通りに薄絹を奉じて天を祀った。すると間もなく、太陽と月は元に戻った。そして、その薄絹を国宝として国王の倉庫に収納し、その倉庫を貴妃庫と名付け、天を祀った場所を迎日(ヨンイル)県(朝鮮半島新羅付近)、または都祁(つげ)野と名付けた。”


 この場合の新羅とは、紀元前2世紀末から4世紀にかけて存在した辰韓(しんかん:秦韓とも書いた)のことだが、アメノヒホコの逸話とそっくりである。記紀では男が女を追って渡来したことになっていて、「合わせ鏡」である。そして、絹を持って帰る話は、日本書紀に登場する。ここでは新羅が任那(みまな)に変えられ、新羅が悪者扱いである。

“ツヌガアラシトは崇神天皇の御世に加羅(から)=任那(みまな)から渡来し、垂仁天皇に3年仕えた後、帰国した。その際、垂仁天皇から赤織の絹を賜って帰国し、自分の国の蔵に収めて大切に保管したが、新羅人がそれを聞いて兵を起こしてやって来て、その絹をすべて奪って行った。”

 いずれにしても、日本と朝鮮半島に同じ話が伝承されていた、ということで、アメノヒホコ伝承が基である。延烏郎(ヨンオラン)と細烏女(セオニョ)の話は年代的には、脱解(だっかい)王が新羅の第4代の王(在位は57年~80年)とされているので、この話はその4代後である。延烏郎(ヨンオラン)は日本の王になったわけなので、それは海部(あまべ)一族(エフライム族)の暗示で、新羅では太陽とされている。ならば、この延烏郎(ヨンオラン)に相当する人物こそ、銅鏡を伝えた人物である。大倭神社注進状裏状(オオヤマト ジンジャ チュウ シンジョウ ウラジョウ)に依ると、ヒホコとは鏡のこととあり、アメノヒホコの血統のタジマモリ、その兄弟とされている清日子(キヨヒコ)の別名を持つタケダセノミコトその人の可能性が高い。
 ツヌガアラシトの話に登場する“赤織の絹”の“赤”は古代に見られた瑞兆(ずいちょう:良い事が起こる前兆)の象徴で、火の鳥=フェニックス=不老不死に由来するもので、海部(あまべ)氏(エフライム族)の象徴である。また、海部(あまべ)氏一族(エフライム族)の大海人皇子(オオアマノオウジ:天武天皇)は壬申の乱の際、赤い色を旗印とし、天武15年には“朱鳥(あかみとり)”という元号が立てられたことから、“赤”は“新羅人”と合わせて海部(あまべ)氏を暗示している。後から渡来した原始キリスト教徒の秦氏は、イエスは白い鳩と関わりが深いので、“白”となる。

 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の真相は瀛津世襲命(オキツヨソノミコト)で、卑弥呼の時代の海部(あまべ)氏一族(エフライム族)。源氏は源義経(みなもとのよしつね)の鵯越(ひよどりごえ)が有名なので、騎馬系のようにも思われるが、実は海人系で、源頼朝(みなもとのよりとも)の母親は熱田神宮(あつたじんぐう)宮司の娘である。

 延烏郎(ヨンオラン)にも細烏女(セオニョ)にも“烏(からす)”という字があるが、これは八咫烏(やたがらす)を中核とする秦氏系ではない。八咫烏(やたがらす)の元の話は支那である。太陽には烏(からす)が住み、10個の太陽がそれぞれ天を駆け巡って1つの旬を形成すると考えられていたが、ある時、太陽が一度に天に現れて地上は灼熱と化し、天帝に命じられた弓の名手が9個の太陽を射落とすと、9羽の“金の烏(からす)”が落ちてきて、足が3本だったという話が、春秋戦国時代の「楚辞(そじ)」に書かれている。これは統一国家の秦帝国ができる以前の話である。そうすると、道教の方士(ほうし)たる徐福が持って来た話としても矛盾はしない。
 烏(からす)と太陽の関係はこれだけではない。シュメールのメソポタミアでは、聖書に於いて、大洪水後のノアの方舟から地上の偵察として初めて外に放たれた動物で、水が引いたことを知らせた。大洪水後に水が引いている状態は空が晴れ上がっている状態なので、大地に太陽光が降り注いでるわけで、太陽関係である。エジプトでは太陽の鳥とされ、ギリシャでは太陽神アポロンに仕える鳥だった。つまり、烏(からす)は太陽とは切っても切り離せない関係で、八咫烏のオリジナル、というわけではない。
 だから、延烏郎(ヨンオラン)と細烏女(セオニョ)の逸話を、新羅と邪馬台国建国の中枢にいた海部(あまべ)氏の暗示と見なしても問題無いわけである。秦氏の中核である原始キリスト教徒が、元々あった烏伝承に重ねて、自分たちを八咫烏と称した、ということである。ある意味、徐福系を含む海部(あまべ)氏一族は“元八咫烏”とでも言うべき存在なのである。


 そして話を戻すと、新羅で天を祀った場所を都祁(つげ)野と名付けたことは、実は新羅建国に関わった海部(あまべ)氏を暗示する。ヤマトでは邪馬台国、朝鮮半島では新羅を建国したので、逸話が新羅になっていても良い。言い換えれば、卑弥呼の邪馬台国は都祁(つげ)野と呼ばれる地域に存在した、ということを仄めかしている。
 都介野岳(つげのだけ)が深めの笠のように整った円錐形の山なのは何か偶然ではなく、この山の北の麓には柏峰という小山が、山頂には水平に均した方形の台地があり、北の麓には国津神社(くにつじんじゃ)があり、柏峰を御神体としている。周髀算経(しゅうひさんけい)には“笠を以って天の形を写す”とあり、“天は青く、地は黄色く赤い。そこで丸い笠型の表面を青黒に、裏面を丹黄にすれば、これによって天と地の位置を象徴する”とある。

 よって、笠型の都介野岳(つげのだけ)は天の祭壇、方形の柏峰の台地は地の祭壇となる。そして、“天は円に通じ、地は方に通じる”とされ、古代支那では“冬至には円丘(えんきゅう:都介野岳)に至りて天を拝み、夏至には方丘(ほうきゅう:柏峰)に於いて地を拝”み、これを“二至(にし)の祀”と呼んだが、都介野岳(つげのだけ)と柏峰はまさにこの関係になっている。つまり、両所で合せて天神地祇(テンジンチギ)を祀っていた。
 更に、柏の葉は新芽が出ないと古い葉が落ちないので、“子供が産まれるまで親は死なない=家系が途絶えない”という縁起に結び付け、子孫繁栄の象徴とされて、5月の節句は柏餅(かしわもち)で祝う。そうすると、都介野岳(つげのだけ)=天神と柏峯のセットで、“天神の未来永劫の繁栄”となり、“天神の子孫の未来永劫の繁栄=永遠、不老不死”をも象徴する。


 “柏木”という姓も、元々は“神聖なる柏の木”という意味から、皇居を守る兵衛、衛門の別称だった。つまり、皇居=天皇=天=天神=都介野岳(つげのだけ)を守るのが柏峰、ということである。
 “天は青く、地は黄色く赤い”ことからすると、“黄色く赤い”色は丹(に)色なので、他にも意味が隠されている。丹(に)色は不老不死の妙薬とされた丹生(にゅう=硫化水銀)のことである。よって、“青”は“天”、“丹”は“地”を象徴する。
 青と丹が合わさった青丹(あおに)よしは奈良に掛かる有名な枕詞(まくらことば)である。つまり、後の歌にも登場する“青丹(あおに)よし奈良”という真意は、“天と地が良く調和する素晴らしい奈良”という意味であって、無意味な枕詞(まくらことば)ではない。そして、俗説で言われる“奈良”が朝鮮語で“国”を意味する“ナラ”ならば、“天と地が良く調和する素晴らしい国”という意味にもなる。


 都介野岳(つげのだけ)の山頂中央には、円形の列石が置かれている。円形列石=ストーンサークルは古代祭祀の典型例。日本にもその足跡が残っており、都介野岳(つげのだけ)は人工の山でピラミッドである。ピラミッドの設計者はニンギシュジッダである。
 その都介野岳(つげのだけ)の中腹には、堂ヶ平(どうがたい)という祭祀遺跡の反対側の尾根に、約40メートルに亘って岩石を積み上げた遺跡がある。それは、高さ約8メートルの主丘の裾(すそ)に陪冢(ばいちょう)を控えた墳墓(ふんぼ)である。その上部は穴が開けられて盗掘されているが、弥生後期の巨大な墳墓であることはほぼ間違いない。しかも、聖なる山の中腹という位置からすると、この時代の特別な貴人の墓と言える。


太陽神を祀る巫女(みこ)としての卑弥呼----------------------------------------------------------------

 卑弥呼は海部(あまべ)氏(エフライム族)の出である。卑弥呼自身は出身地である天橋立(あまのはしだて:京都にある)のあたりと、大和の三輪山(みわやま)を行き来していた。三輪山の祭祀権が政治的に重要な意味を持っていたが、縄文系の子孫がそれを保っていた。この時の邪馬台国の長は三輪山の祭祀権を持っていなかった。

 ところが、卑弥呼が邪馬台国連合の女王になると、当初、三輪山の祭祀権を持っていなかったが、巫女として三輪山を祀るようになる。そのため、三輪山の龍神(大物主神:おおものぬしのかみ)を祀る縄文系の子孫の家は衰えて、細々と暮らすようになった。卑弥呼は女王になる前は、太陽神アマテルを祀る巫女(みこ)だった。そのため、女王に共立された後も、太陽神アマテルを三輪山の頂上で祀るようになった。
 纏向(まきむく)遺跡には破壊され捨てられた銅鐸が見つかっているが、これはそれまでの神の祀り方を捨てたことを意味する。銅鐸文化圏とでも呼べる出雲文化圏では銅鐸(どうたく)が神を祀るための道具だったが、それが廃棄されたのである。出雲族では元々銅鐸はその音によって神官が神とつながるための道具だったが、次第に銅鐸は神を祀るための道具とみなれるようになった。そのため出雲族の国々では数多くの銅鐸が祭祀の儀式で使われていた。
 邪馬台国は三輪山では龍神を祀る伝統に従ったので、銅鐸はそれほど使われなかった。祭祀の道具としての銅鐸を廃棄することに対する反発はなかった。長年続く干ばつなどの天候不順に銅鐸は効力がなかったからである。

『ベールを脱いだ日本史』 坂本政道

■紀元前700年頃

ローマのフリーメイソン-----------------------------------------------------------------------------------

 悪魔崇拝の王政ローマにおける第2代の王ヌマ・ポンピリウスが、ローマ人の職人たちをコレギウムと呼ばれる集団にわけ、軍隊の組織に編入させたが、その代表的なものが石工職人である。構成員が最低三人であること、指導者がマギステル(親方)と呼ばれ、相互扶助の精神を持っていたこと、秘密の集会が持たれていたことなど、フリーメーソンのルーツの一つとなっている。

■紀元前695年

卑弥呼亡き後-------------------------------------------------------------------------------------------------

 卑弥呼の死後、男の王が立ったが、皆が服せず、国内は大混乱になり、この混乱に乗じ、日向族は勢力を広げ、奴国(なこく)を併合し、さらに遠賀川(おんががわ)流域から現在の北九州にかけての領域も勢力下に置くようになる。

 さらに、その中の一派は河内(かわち:大阪府東部)へ進出する。それはニギハヤヒに率いられたグループである。彼らは河内の国に入植する。ニギハヤヒは『先代旧事本紀』に書かれているような大軍団を率いていたわけではない。


大邪馬台国(後期邪馬台国)建国---------------------------------------------------------------------------

 卑弥呼が女王となる前から、現在の纏向(まきむく)付近の開拓が開始され、また、オキツヨソノミコトが中心となって、伊勢や尾張地方などが統一国家へと組み込まれていった。国造りは順調に進んではいたが、卑弥呼亡き後、乎縫命(オヌイノミコト)が祭祀男王として就任し、最高神もイナンナへと戻された。それにより大混乱が発生し、多くの者が死傷した。あわや、国を二分しての大戦乱となる寸前、卑弥呼の宗女(そうじょ)で孫の世代にあたる13歳のトヨが新たな巫女女王として擁立(ようりつ)され、小登與命(オトヨノミコト)が彼女を補佐する大王となった。そして、最高神も太陽神ウツに戻され、先祖の卑弥呼も太陽女神として共に祀られることになった。

 また、その頃には纏向(まきむく)付近の開拓が終わり、現在の近畿~中部地方一帯まで組み込まれ、ここに於いて、ようやく統一国家と言えるものが誕生した。大邪馬台国である。奈良県桜井市(旧磯城郡"しきぐん"纏向村"まきむくむら")にある纏向(まきむく)遺跡がそれに当たる。

 新たな神山として奈良県桜井市の泊瀬山(はつせやま)が選ばれ、その遥拝所(ようはいじょ)はダンノダイラと決められた。
 そして、海部(あまべ)氏の兄弟分家である尾張氏と共に祭祀を営む徐福系の葛城氏の一族が出雲族と称し、それに因んでダンノダイラや纏向(まきむく)周辺には“イズモ=出雲”を冠する地名が付けられた。

 卑弥呼亡き後、国が乱れたというのは、最高神が変えられたからである。古代で最も重要なのは祭祀で、そこで、国が大混乱するほどのことが起きたのなら、それは祭祀に関わることである。女神は男王が祀り、男神は巫女女王が祀った。卑弥呼亡き後、男王が立って国が混乱したのなら、それは祀る神を女神に変えたからである。
 その時、偶然にも卑弥呼に匹敵する能力の持ち主が一族の少女トヨとして存在したので、子供ながら女王に擁立された。伊勢神宮の御遷宮(ごせんぐう)で重要な神事には、必ず物忌童男(ものいみおぐな)か童女(どうじょ)が携わっていたが、それはトヨの大邪馬台国の祭祀が大元である。神官の父が娘を補佐するという形態である。
 明治以前、神宮では物忌童男(ものいみおぐな)と童女(どうじょ)が御饌(ぎょせん)を奉り、特に重要なのは、童女(どうじょ)の大物忌(おおものいみ)が心御柱(しんのみはしら)に対して神饌を供え、御遷宮(ごせんぐう)での心御柱(しんのみはしら)の立て始めの役割を担ったことだった。つまり、伊勢神宮では邪馬台国の祭祀が連綿と受け継がれていたのである。

 そして卑弥呼も神宮で祀られている。伊勢神宮の御紋は、住吉大社のものとそっくりである。住吉大社では、祀っている神功皇后(じんぐうこうごう)が新羅遠征の際、身にまとっていた鎧に着けていた御紋、という伝承となっている。神功皇后(じんぐうこうごう)のモデルは、日本書紀の一書にも仄めかされているように卑弥呼なので、御紋で卑弥呼が祀られていることを暗示している。
 その御紋に秘められた意味はそれだけではない。御紋は花菱と言うが、菱形の楔形文字はウツとイナンナのシンボル。4枚の花弁は神の戦車メルカバーである。そして、良く見ると、中心が丸で、花弁を貫くように十字がある。十字はイエスの掛けられた十字架で、丸に十字は日本を暗示する。そして、丸を拡大すれば島津家の御紋だが、海神ポセイドン(エンキ)のシンボルでもあり、占星術では地球のシンボルでもあるから、地球の主で海神のエンキをも暗示している。このような様々なシンボルが重ねられている。


 オトヨノミコトはトヨを暗示した名前だが、別名が御間木入彦命(ミマキイリヒコノミコト)で、崇神天皇と同じ。その崇神天皇の諡号(しごう)は“ハツクニシラス”で神武天皇と同じである。つまりそれはオトヨノミコトの時代にトヨを女王として、ようやく日本国の大元が建国されたということを暗示している。

 第10代の崇神天皇の時代に、天照大神の祭祀が宮中以外の場所で行われるようになったが、ある意味、それまでは大物主神の祟りなどの話ばかりで、天照大神の神祭りはほとんど出てこない。言わば、ここで初めて、天照大神の神祭りが正史の表舞台に登場し、ここから本格的な祭祀が始まったとも見なせる。
 このオトヨノミコトは初恵比寿で有名な熱田神宮の上知我麻(かみちかま)神社で祀られている。恵比寿は蛭子=ヒルコで、イザナギとイザナミの国生みの際、最初に生まれたが骨が無い奇形なので流された神である。つまり、王権を奪われた一族という暗示である。その上知我麻(かみちかま)神社は東を向いており、熱田神宮の本宮と別宮は南を向いている。南北向きは秦氏が渡来してからだが、それ以前は東西向きだった。つまり、上知我麻(かみちかま)神社の祭神と向きで、大邪馬台国の真相を暗示していた。熱田の尾張氏は海部(あまべ)一族(エフライム族)の兄弟分家であり、偉大な先祖を祀るのは当然である。

 熱田の本殿では建稲種命(タケイナダネノミコト)と宮簀姫(ミヤズヒメ)を祀っている。いずれもオトヨノミコトの子だが、建稲種命(タケイナダネノミコト)は“稲の種=籾”で豊受大神を象徴し、ミヤズヒメの“ミヤズ”は豊受大神を主神とする海部(あまべ)一族(エフライム族)のお社が鎮座する“宮津”に通じる。つまり、いずれも豊受大神を暗示している。
 そして、神器は元々持つべき氏族以外には許されないので、草薙神剣は、オキツヨソノミコトこと日本武尊が倭姫から譲り受けたことにされた。その剣を依り代とし、鏡を分身とする祭祀が本格的に始まった。天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は陰で、象徴的には陰である水や雲、雨である。葛城も、月に生えるとされる想像上の木“桂木”なので、陽の太陽に対して陰である。
 しかし、何故、その一族が“出雲”なのか。出ずる雲は太陽を隠す。太陽神の真相は海部(あまべ)氏(エフライム族)にある。出雲一族には血の悲劇があり、それ故、丁重に祀られることとなり、本来の太陽が隠された。つまり“出雲”は後から付けられた名称である。
 現在、奈良県桜井市の出雲村がある一帯のダンノダイラ付近だが、ここには遥拝所(ようはいじょ)の印でもある巨大な磐座が存在する。その磐座を泊瀬山(はつせやま)に見立て、泊瀬山(はつせやま)を影向(えいこう)した。つまり、柏峰から都介野岳(つげのだけ)を拝する卑弥呼の邪馬台国と同じ構造である。


 大邪馬台国ではダンノダイラを遥拝所(ようはいじょ)として巻向山(まきむくやま)越に、見えない泊瀬山(はつせやま)を遥拝したが、それと同様な構造を取った。すなわち、元兵主(もとひょうず)神社を遥拝所(ようはいじょ)として斎槻岳(ゆつきだけ)越に、見えない卑弥呼の邪馬台国の神山である都介野岳(つげのだけ)を遥拝(ようはい)した。

 元兵主(もとひょうず)神社は、応仁の乱(1467年)で焼失した穴師坐兵主神社(あなしにいますひょうずじんじゃ、兵主神社、穴師上社)のことである。現在は、かつての穴師下社(あなししもしゃ)だった大兵主(だいひょうず)神社に、穴師兵主神(アナシヒョウズノカミ)、若御魂神(ワカミタマノカミ)、大兵主神(オオヒョウズノカミ)が祀られているが、正一位の宣旨(せんじ)を賜った最高の社格をもつ大和一の古社と言われている。アナシヒョウズノカミは、天祖降臨の際の三体の鏡の一体を御神体とする御食(ミケ)津神で、生産と平和の神、智慧の神でもあり、倭姫命(やまとひめのみこと)が創建されたとされる。それは豊受大神、イナンナそのものである。鏡を御神体とする豊受大神ならば、海部(あまべ)一族(エフライム族)の祀る社と同じ構造である。そして海部(あまべ)氏(エフライム族)の祖の倭姫である。
 そして、ワカミタマノカミは稲田姫命(イナダヒメノミコト)のことで、御神体は勾玉と鈴で、芸能の神として崇敬を受けられている。つまり“稲田”は御食津神で、鈴と芸能の根源はアメノウズメノミコトなので、これもイナンナである。
 この“若”は、シュメールにあった元初最高の神々の宮殿である天の少宮(わかみや)に由来する。そして、オオヒョウズノカミの御神体は剣(ほこ)で、武勇の神で相撲の祖神。そうすると、鏡、勾玉、剣で三種の神器が揃う。よって大邪馬台国の祭祀場に他ならない。
 ヒョウズノカミは支那の史記に登場する神である。山東地方で祀られていた天主、地主、兵主などの八神を始皇帝が祀ったのが初めで、漢の高祖が兵を挙げた時、兵主神の蚩尤(シユウ)を祀って勝利を祈った。支那では、蚩尤(シユウ)は魔を払う半人半獣の守護神で、両鬢は逆立って剣の切っ先のように鋭く、頭の真ん中には角が生えており、砂と石、一説には鉄鉱石を食べていたらしい。ならば、蚩尤(シユウ)は製鉄を暗示している。

 鉄を制したものが武力を制したので、まさに兵の神、兵主神となる。そして、邪馬台国時代の朝鮮半島に於ける製鉄の中心は辰韓(しんかん)=新羅と弁韓=伽耶(かや)で、海部(あまべ)氏が新羅を建国したので、日本海を挟んで新羅からヤマトへ鉄が流入し、ヤマトに於ける中心が兵主だった、と言える。始皇帝が関わっているのなら、その系統の葛城氏が祭祀に関わっていたのは当然である。
 剣を“ほこ”と読ませているのは、本来の金属製の剣ではなく、木でできたアロンの杖だからである。それに、アメノヒホコを暗示し、それは、大邪馬台国では海部(あまべ)氏だけではなく、徐福系=葛城氏も祭祀に加わることにより国が統一され、それを暗示している。そして、ヒョウズノカミにより、鉄剣をも暗示している。誰かが、三種の神器はユダヤの三種の神器と決めつけたが、そうではなく、鏡、剣、勾玉は神器として明らかに存在している。

 現在、穴師下社(あなししもしゃ)とされるのが大兵主(だいひょうず)神社だが、そこと箸墓(はしはか)古墳の中心線を延長すると、兵主(ひょうず)神社跡(元兵主神社、穴師上社”あなしかみやしろ”)と斎槻(いつき)岳に達する。このラインと東西ライン(箸墓-桧原神社-泊瀬山ライン)の角度は約22度だが、このライン上から太陽が昇るのは夏至の約1ケ月前後で稲の播種の時期で、故に、“夏至の大平”と言われる所以でもある。ここからも、奈良盆地を埋め立てたり干拓し、稲作を基盤とする国家体制を築いたことが伺える。現に、古墳は墳墓と思われているが、実は古墳の周囲に張り巡らされている周濠(しゅうごう)は広範囲の灌漑用水として利用されていたことが解っており、古墳造成期と平地での稲作普及の時期が一致している。つまり単なる墳墓ではなかった。

 また、下社から上社に昇る古道は天皇坂と呼ばれていた。“天皇”を当てているが、海部(あまべ)氏(エフライム族)由来なので、本来は“天王”である。そうすると、古代の大王は祭祀王なので、大王が歩いて行く坂道が天王坂で、元兵主神社のあった水平な方形(=天に対する地)の台地から、斎槻岳を通じて天神の都介野岳を遥拝していたという祭祀形態が浮かび上がる。

 すなわち、都介野岳を遥拝するのは元兵主(ひょうず)神社で、言わば、元桧原(ひばら)神社でもある。邪馬台国と大邪馬台国は別の国ではなく、邪馬台国の発展系が大邪馬台国なので、大邪馬台国での祭祀は邪馬台国での祭祀も直接受け継いでいるのは当然である。更に、笠縫邑(かさぬいむら)の伝承地と称して元伊勢と伝えられ、斎宮山があり、天照大神を祀る天神社がある都祁野(つげの)の小夫(おうぶ)が、これらの大元と言える。

 古代は祭祀が最も重要だったので、御祭神や神社の配置がとても深い意味を表している。出雲に関わる話として、日本書紀に登場する丹波の氷香戸辺(ヒカトベ)という巫女が皇太子・活目命(いくめのみこと:垂仁天皇)に次のように言った。

「私に子供が言います、出雲人の祈り祭る本物の見事な鏡、力強く活力を振るう立派な御神の鏡をもって祭れ、出雲人よ」

 これは、私の子に神が乗り移って言うのであろう。このことによって、出雲人は神祭りを許した。これは、出雲人=葛城氏が祭祀に加わっていたことの典型的な象徴である。つまり大邪馬台国では元兵主(ひょうず)神社での祭祀は海部(あまべ)氏直系のみが担当し、ダンノダイラでの新たな祭祀は秦氏に素直に従った徐福の系等の葛城氏(出雲氏)が加わり、葛城氏が中心となって祭祀を行っていた。



■紀元前689年

 アッシリア王国の王センナケリブは、アダドが彼に提供したロケットのようなミサイルを使って、バビロンがマルドゥクを失望させたという口実でバビロンを奪った。センナケリブはバビロニア人に70年間のアッシリアの占領と支配を宣告した。
 司令官のエンリルは、アッシリアのセンナケリブ派がフェニキア、ガザ、ユダも支配するのを目撃した。そしてセンナケリブがニビルの神の許可もなくエルサレムを攻撃した。エルサレムはエンリルが管理しており、化学兵器でセンケナリブのアッシリアの奴隷軍を襲い、18万5000人を殺した。センナケリブはシュメールのニネヴェに退散し、彼の息子エサルハドンを後継者として宣言した。しかしアヌンナキはエサルハドンを捕まえ行方不明にした。エンリルはイナンナをアッシリアに送った。彼女はニネヴェ軍を武装解除し、彼らの武器を破壊した。
■紀元前680年

 高砂(沖縄)の連合軍は大挙して東へ向かい、破竹の勢いで旅の道の諸族を味方に組み入れ、大和へ向かった。
 最初の駐留地、豊後国(ぶんごのくに)宇佐(うさ)に着くと、地族の宇佐津比売(うさつひめ)が足一騰宮(あしひとつあがりのみや)を造り、これを迎えた。
 それを察知した安日彦命(あびひこ)と長髄彦(ながすねひこ)は、時を置かず、諸国に配備していた軍にこの宮の攻撃を命じた。
 命を受けた諸軍は、豊後国(ぶんごのくに)に攻め寄せ、その宮を焼きはらった。高砂軍はこの交戦に敗れ、紀元前679年、筑紫前の岡田というところまで退いた。そしてそこにとどまり一年をかけて兵を募って安芸(あき)攻めを企て、筑前(ちくぜん)に到着した。1月9日だった。

東日流外三郡誌

■紀元前678年

 高砂軍はまた筑前(ちくぜん)を進発、筑紫の国崗水門というところに到着した。高砂軍はここにとどまって船を造り、兵糧(ひょうろう)を貯え、紀元前678年、日子稲飯(二男)と三毛渟麻(三男)は、船二百艇を率いて安芸(あき:広島県安芸郡)の国、埃という水門(みなと)にこぎ寄せた。
 なぜ近い周防(すおう:山口県)の上陸を避けて、全軍船を安芸(あき:広島県安芸郡)に上陸させたかは、この地に邪馬台軍の巨軍が駐留しており、その軍との衝突を避けるためだった。そして稚三毛渟麻(四男)と日子五瀬(長男)も周防(すおう:山口県)の邪馬台軍を避けて安芸(あき:広島県安芸郡)に上陸し、全軍が多祁理(たけり)というところで合軍した。
 それを知った邪馬台軍はところを変え、周防(すおう)に布陣していた二万の兵と以前より駐留している味方の軍と合軍、多祁理(たけり)の高砂軍に攻め寄せた。
 これに応戦したのが豊後国(ぶんごのくに)の地族宇佐津比売(うさつひめ)で、足一騰(あしひとつあがり)をあげて戦ったが、瞬く間に敗れて討ち死にした。

 高砂軍は進発してここまで、邪馬台軍との攻防は七年に及んでいた。高砂軍はこの地にとどまって筑紫の新手二万を組み入れて態勢を立て直し、まず南海道の邪馬台軍を攻め落とし、再び安芸(あき:広島県安芸郡)に攻め寄せた。
 安芸(あき:広島県安芸郡)を防御していたのは邪馬台国・出雲のワケグラ王耶馬陀彦(やばだひこ)の軍だった。ここでも両軍が激しい攻防戦を繰り返したがついには高砂軍は敗れ、吉備国・高島というところまで逃れ、そこに仮宮を造り、軍を移した。
 しかし、ここへも邪馬台軍が攻め寄せ仮宮を包囲した。またも激しい攻防戦となったが勝敗は決せず、その状態が三年間にも及んだ。
 そこで高砂族の皇子たちは謀って、邪馬台軍の将・出雲のワケグラ王・三毛稲(耶馬陀彦"やばだひこ"と同一名か)に、莫大な貢ぎ物を献(けん)じて和睦(わぼく)を申し出た。
 そこで三毛稲は、この莫大な貢物やその中にあった珍しい異国の品物に心を奪われ、独断でこの和睦を受け容れてしまった。
 三毛稲は、邪馬台国五王の西ワケグラ王の地位を捨てて邪馬台国を裏切り、高砂軍に加わった。
 三毛稲は邪馬台国ワケグラ王の地位にあり、邪馬台国のために尽くさなければならないのにもかかわらず、高砂軍に国を売った奸物(かんぶつ)となってしまった。三毛稲が邪馬台軍を裏切って高砂軍に加わったことによって高砂軍の戦力は強大となった。

 邪馬台軍の安日彦(あびひこ)と長髄彦(ながすねひこ)は、高砂軍の戦力が増大したことに、このままこの地で戦を続けることは不利だと判断した。そこで両王は謀り、決戦の場を自国領に移そうとの策を決め、大和に引き揚げ、高砂軍の来襲に備えた。

東日流外三郡誌

■紀元前672年

 高砂族の長・豊玉彦(とよたまひこ)は征服した国の一つ日向を都とし、一族を日向族(ひゅうがぞく)と名乗ると宣言した。豊玉彦(とよたまひこ)には娘があり、名は玉依姫(タマヨリヒメ)といい、夫のウガヤフキアエズとの間に男子4人があった。
 四人は成長して長男が日子五瀬(ひこいつせ)、二男が日子稲飯(ひこいなひ)、三男が三毛渟麻、四男が稚(わか)三毛渟麻と言った。

 その頃の支那は釐王(りおう)の世(紀元前681〜前677)となり、日本では倭の国・邪馬台国には五畿七道(ごきしちどう)の王、安日彦命(あびひこ)と長髄彦(ながすねひこ)の両王が君臨していた。
 大和と婚姻関係を結んだ日向族だったが、徐々に不穏な気配を感じさせるようになった。そこで大和のタカグラは、日向族の挙動に備え、諸国に兵の配備を命じた。
 勢力を増大した日向族は、筑紫9ヵ国の支配に満足せず、日向吾田村の高千穂(たかちほ)麓に集まり、どこを都とすれば天下統一ができるかと、日向族の王、葺合不王(ふきあえずおう)と子息4人の兄弟が老臣(ろうしん)にはかった。
 その時、「東方には美しい邪馬台国がある。邪馬台国は日本の中央に位置しており、あの国を征伐してわれらの王国に定めたらと思うがいかに!」と老臣(ろうしん)の塩土翁(シオツチノオジ)が提言した。「それは理にかなったことでわれらが常に思っていることである。今はわれらが勢力もそれが出来る域に達している」と一つにまとまった。邪馬台国と結んだ和睦(わぼく)の条件など意に介されなかった。
 日向族は、邪馬台軍によって征服され不満を持っている諸国の残党、または安日彦命(あびひこ)と長髄彦(ながすねひこ)によって追われた者たちを味方につけ、邪馬台国征服の軍に加えた。この連合軍を率いたのは豊玉姫(とよたまひめ)の末子、佐奴(さぬ:日本史書では神武天皇を称す)といい、この時の年齢は45歳であった。

東日流外三郡誌

■紀元前669年

 日向軍が吉備(きび)に移ってから8年が経過した。日向軍はこの8年の間に船を造り、武具、兵糧(ひょうろう)を貯え、紀元前669年、三万の陸兵と二万の水軍を集めて軍を結集、東征(とうせい)の軍備を整えると、陸兵は破竹の勢いで征途の諸族を味方に加え、邪馬台軍の本拠、大和へと迫った。


 長髄彦(ながすねひこ)は以前、反逆した出雲と南海道の説得に向かう折り、日向族との和睦(わぼく)の条件として娘を差し出して縁戚(えんせき)関係を結んでいたが、その娘が日向軍の将・饒速日(ニギハヤヒ)の妻となり子まで得ていることから、副王の長髄彦(ながすねひこ)は平和交渉を旨(むね)としていたので、独断で和睦(わぼく)することに決め、使者を日向軍の将・饒速日(ニギハヤヒ)のもとに送った。饒速日(ニギハヤヒ)は日子五瀬と三毛渟麻に謀(たばか)り、これを2人が受け容れ、和睦がなった。しかし日向軍の総帥(そうすい)・稚三毛渟麻は、この和睦に不満だった。

※注意
 先ほどの「黄金の夜明け」の文書の説明では、ニギハヤヒは長髄彦(ながすねひこ)の妹を娶ったとされ、この東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)では、ニギハヤヒは長髄彦(ながすねひこ)の娘を妻にしたとされている。この後、ニギハヤヒは長髄彦(ながすねひこ)を裏切ることになるが、先ほどの黄金の夜明けの文書では、「ナガスネヒコを裏切って神武天皇側に寝返ったニギハヤヒは徐福系である。」とされていることから、同じニギハヤヒでも違う人物ということになる。つまり整理すると次のようになる。
・一人目のニギハヤヒは徐福で、長髄彦(ながすねひこ)の妹を妻にした。
・二人目のニギハヤヒは徐福系の人物で、 長髄彦(ながすねひこ)の娘を妻にした。

  日向軍は新手三万を加え、出雲軍も加えた大軍であり、勝てる戦をなぜ続けなかったのかと饒速日(ニギハヤヒ)を責めた。
 一方の邪馬台国王・安日彦命(あびひこ)も肉親の情にほだされ、長髄彦(ながすねひこ)が独断で行った和睦に不満を持ち、大いに怒って長髄彦(ながすねひこ)を叱った。長髄彦(ながすねひこ)は安日彦命(あびひこ)より叱責を受けた疑念を晴らすため、饒速日(ニギハヤヒ)を殺害しようと呼び寄せた。
 しかし、今はわが娘との間に子まで得ていることもあって、呼び寄せたものの殺害することができず、ひそかに逃した。
 この両軍の王、総帥の不満から和睦は決裂した。和睦の決裂から日向軍は策を練り、二万の巨軍で、海上より難波(大阪市中央区)の崎(みさき)にある邪馬台軍の本営を攻めようとの策を立て難波に向かった。
 この日向軍の作戦に対して邪馬台軍の将・ 長髄彦(ながすねひこ)は、邪馬台軍の水軍、淡路水軍と南海道水軍に応戦を命じた。
 内海(瀬戸内海)において激戦となったが、遂に日向軍が敗れ、多くの軍船が海に沈んだ。この海戦で、邪馬台国を侵略しようとの提案者・日向族の老臣(ろうしん)・塩土翁(シオツチノオジ)が、邪馬台軍の放った矢を受けて死んだ。
 日向族は一時、これに怖れてひるんだが、同年二月十日、秘策をもって淀川(よどがわ:大阪にある)をさかのぼり、河内国草香村(大阪府東大阪市)の地に上陸した。
 日向軍の秘策は成功、上陸できたことを喜び、さらに陸路を取り、龍田から邪馬台国・タカグラのある大和へ攻め込むことにした。
 しかしその道は狭い上に険しく、並んで行軍ができず、一人ずつの行軍では時を浪費することから、生駒山(奈良県生駒市)を通って攻め込む道に変えた。
 しかしその始終が、邪馬台軍の長髄彦(ながすねひこ)の知るところとなり、地の利を知る邪馬台軍は、日向軍が通らなければならない道、孔舎衛坂(くさえざか:奈良県の生駒山地を越える坂)というところに兵を伏せ、日向軍と出雲の連合軍を迎え討つ作戦をとった。
 それとは知らず進軍してきた日向連合軍は、邪馬台軍の待ち伏せにあって大敗し、五瀬という将が討ち死にした。よって従兵(じゅうへい)はみな散々に敗走して紀伊(和歌山県)の名草村というところまで逃れたが、その地で地将の名草戸畔(なぐさとべ)の追討(ついとう)を受けてとどまれず、さらに逃れて熊野村(和歌山県)に至り、そこより東海に逃れた。
 この大敗によって日向軍は陸攻めをあきらめて水軍のみで攻める策に変え、東の熊野水門に漕ぎ入った。
 これに応戦したのが邪馬台軍の熊野水軍と尾崎水軍だったが、この両水軍の名は勇猛さで地域に知られていた。

 海戦が始まり、日向水軍の多くの軍船が沈没、稲飯(二男)と三毛渟麻(三男)の両将も熊野灘の怒濤(どとう)に討ち沈められ、ここでも日向軍の大敗となった。
 この勝利に邪馬台国王の安日彦命(あびひこ)と副王の長髄彦(ながすねひこ)は、邪馬台国の海神と、荒吐神(アラハバキ=イナンナ)が憤怒(ふんど)し、暴風を起こされたお陰であると、ここの海辺・熊野荒坂の地に鎮座されている荒吐神(アラハバキ=イナンナ)に祭礼した。

 陸に残っていた日向軍は、熊野荒坂の津(つ:三重県中部)で迎えの船が来るのを待っていたが、いくら待っても来ないことからあきらめ、引き揚げようと残った兵を集めて陣を立て直したが、そこへ邪馬台軍の地将・丹敷戸畔(にしきとべ)の軍が攻め寄せた。
 日向軍は退いて道のない険しい場所に陣を移し、必死に応戦した。この応戦によってなかなか勝負の決着がつかず戦いが長引いた。

 この時、日向軍の陣内に悪性の疫病が発生、この疫病にかかる兵が続出した。それでも日向軍は移動せず、長期にわたって立て篭(こも)り、病の癒えるのを待った。日向軍は、兵が亡くなるとその都度遺骸(いがい)を埋葬したが、その埋葬した塚に、カラスの群れが飛来してその屍(しかばね)をついばんだ。そのいまわしい様は、まるでこの世の地獄絵図(じごくえず)を見るようだった。
 その時、日向軍の将・道巨彦(みちひこ)は策を考え、陣内の兵全員に、武器を捨てて裸になるよう命じ、全員が裸になって邪馬台軍に降伏するように見せかけ、カラスの鳴いている荒坂より菟田(うた:奈良県宇陀市榛原)の下県(しもつあがた)に下り、その地の地将・兄猾(エウカシ)、弟猾(オトウカシ)を討ち取ってしまった。
 兄猾(エウカシ)、弟猾(オトウカシ)の将は、日向軍をあわれに思って救ったのが仇(あだ)となり、命を落とす羽目になった。
 このようにして日向族の作戦は成功し、菟田(うた:奈良県宇陀市榛原)の里を掌中(しょうちゅう)にした。これがもととなって日向軍の武運が開け、数多(あまた)の捕虜を得たことから地の利をさとり、国見が丘では邪馬台軍の八十梟(やそたける)を破り、三輪山(みわやま:奈良県桜井市)では兄磯城(エシキ)を討ち取り、続いて高座山(たかざす)にある邪馬台国の本拠、タカミクラを攻める作戦を立てた。
 この時の日向軍の兵の総数は、味方となった出雲軍を加えて六万に達していた。日向軍の将・饒速日(ニギハヤヒ)は、妻が邪馬台国副王の媛(ひめ)であることから、邪馬台国本拠の地利についてわずかながら知っていた。
 そこで日子五瀬(長男)と計画し、邪馬台国本拠を攻め寄せた。これに応戦する邪馬台軍の指揮は副王の長髄彦(ながすねひこ)が執(と)っていた。その指揮下の軍は強く、激戦となった。
 しかし日が経つにつれ、日向軍の形勢が不利となった。この合戦において日向軍の日子五瀬(長男)が、馬を移動させようとした時、邪馬台軍の放った流れ矢を受け、瀕死(ひんし)の重傷を負った。
 これを見た饒速日(ニギハヤヒ)は日子五瀬(長男)を助けて軍を退いた。日子五瀬(長男)が重傷を負ったことによって、日向族は「われらは太陽の神を崇拝する一族であるのに、その太陽に向かって矢を射るような戦をしては戦利はない。故に太陽を背にして戦える地を選び、そこより邪馬台国を討つべきだ」と、五月二十日、日向軍は、迂回して南の和泉国(大阪府和泉市"いずみし")、茅渟山(ちぬやま)の水門に到着した。

 この海辺で手を洗ったことから、この地を血沼(ちぬ)の海と呼ぶようになった。この地で日向軍の日子五瀬(長男)は、負った傷と過労のため七転八倒、「ああ悲しいかな、このような矢傷を受けながら、その恨みも晴らさず死ななければならないのか」と雄叫びをあげて亡くなった。
 そのことからこの水門を雄の水門と名づけ、遺骸は紀伊国のかめ山に埋葬された。これで日向軍の皇子四人のうち三人が亡くなり、残ったのは末子の稚三毛渟麻ただ一人となった。
 
 この敗戦に稚三毛渟麻(四男)は、兄三人を討たれたことを怒り、将の饒速日(ニギハヤヒ)を呼び寄せ責めた。
 饒速日(ニギハヤヒ)は、妻子が邪馬台国副王・長髄彦(ながすねひこ)と血縁関係にあり、そのことで攻撃に手心を加えているのではと思われるのを嫌い、「義父(ぎふ)は自分が必ず討つ、他の者は決して手出しをするな」と宣言して軍を立て直し、邪馬台国本拠を日中は正攻法で、夜は夜で夜襲(やしゅう)を繰り返したが、長髄彦(ながすねひこ)が指揮する軍の護りはかたく、勝負は決せず戦は長引いた。

東日流外三郡誌

■紀元前668年

人類の秘密の記録「シュメール文書」------------------------------------------------------------------

 紀元前668年、新アッシリア王国時代のアッシリアで、アッシュールバニパルが王となる。

 そして1850年、イギリスのオースティン・ヘンリー・レアードが、古代アッシリアの首都ニネヴェの跡地から何万枚もの粘土板を発見した。発掘場所は、イラクの首都バグダードから400キロ離れた、ティグリス川に臨む都市モスルの近くであった。はるか昔メソポタミアと呼ばれていたこの地域では、その後も多くのものが発掘されている。これらの粘土板は「シュメール文書」と呼ばれており、紀元前4000年~前2000年にかけて住んでいたシュメール人を起源とするものである。
 こういった粘土板が保管されていたアッシュールバニパルの図書館は、メソポタミア北部のニネヴェのクユンジクの丘に、紀元前700年から紀元前600年の間に設立された。王室の記録、年代記、神話、宗教文書、契約書、王室による許可書、法令、手紙、行政文書などが発見されている。最も残存率の高いギルガメシュ叙事詩の版本もこの図書館に保存されていた。粘土板の文書記録30943点の殆どは、大英博物館(ロンドン)に保管されている。

 この「シュメール文書」は人類にとって最大の歴史的発見の一つであった。しかし発見されてからも、世界中で公認とされている歴史教育にこれらが反映されることはなく、アカデミズムは頑なにこれを無視し続けている。なぜならシュメール文書を認めてしまうと、これを隠蔽することで築かれてきた公認の歴史的見解が、崩壊してしまうからである。
 シュメール文書のもっとも有名な解読者に、考古学者のゼカリア・シッチンがいる。彼はシュメール語、アラム語、ヘブライ語をはじめ、中近東の数々の言語を読むことができる。そしてシュメール文書を詳細に調査・解読した彼は、シュメール文書は地球外の「異星人」のことを述べているという驚くべき結論に達したのであった。

 彼と他の研究者の解釈によるとシュメール文書は、「シュメール文明は神々からの贈り物であった」と述べているという。このgods(神々)は神話上のことではなく、実体として存在し、古代シュメールの人々とともに生活していたという。シュメール文書によると、その神々は、「アヌンナキ(天から大地へ降りて来た者たち)」や、「ディンギル(火を噴くロケットに乗ってやって来た正しき者たち)」などと呼ばれていたという。またシュメール自体も、もとは「キエンギル(ロケットに乗った王の治める土地、監視者たちの土地)」と呼ばれていた。シッチンはそのように述べている。
 シュメール文書は、それよりもはるか以前から伝わる伝承を元に書かれたものであるゆえに、細部が付け加えられたり失われている可能性がある。しかしシュメール文書自体は、数多くの真実を語っている。特に天文学の知識がすばらしい。太陽系の惑星全体について、その配列、軌道、相対的サイズなどが驚くほど正確に述べられている。それらの知識は、地球の近代科学が150年ほどかかって、やっとの思いで証明してきたものと同じものであった。海王星や冥王星の性質や色についてまで、驚くほど正確に記述されている。シュメール人たちは、それを紀元前何千年もの昔にすでに知っていた。
 シュメール文書のなかでももっとも衝撃的なのは、ホモ・サピエンスの創造についての記述である。シッチンは、「アヌンナキは約45万年前、アフリカで金を採掘するために地球にやって来た」と言っている。「主要な金鉱は、現在ジンバブエとなっている場所にあった。その地域はシュメール人たちからはアブズ(深き鉱床)と呼ばれていた」と彼は言っているが、それは的外れとも言えない。アングロ・アメリカン・コーポレーションの調査によって、推定10万年前にアフリカで金採掘が行なわれていたという数々の証拠が出てきている。アヌンナキによって採掘された金は、中東にある基地へ集められ、そこから彼らの母星へと送られたという。シッチンのシュメール文書解釈は、そのように説明している。


■紀元前662年

邪馬台国の終焉----------------------------------------------------------------------------------------------

 饒速日(ニギハヤヒ)は亡くなった日子五瀬(長男)と計画した作戦を実行に移すことにした。それは饒速日(ニギハヤヒ)が長髄彦(ながすねひこ)に降伏すると言って陣を開かせ、陣が開くと同時に兵を攻撃に転じるという策だった。(いわゆる裏切りである)
 長髄彦(ながすねひこ)はこの申し出を、縁続きの饒速日(ニギハヤヒ)の申し出であり承諾、陣を開いた。饒速日(ニギハヤヒ)は陣が開くと一気に兵を攻撃に転じさせた。とまどう邪馬台軍を、饒速日(ニギハヤヒ)が指揮する日向軍が猛攻した。
 その時、邪馬台国副王の長髄彦(ながすねひこ)が、日向軍の放った矢を太ももと肩に受けるという重傷を負った。長髄彦(ながすねひこ)が重傷を負ったことから日向軍の士気はあがり、戦況は日向軍有利に傾いていった。
 長髄彦(ながすねひこ)の娘、可思耶岐媛は、饒速日(ニギハヤヒ)との間に生まれた宇麻島津命とともに、邪馬台国本拠のタカグラに人質となっていたが、妻子の愛情を絶った饒速日(ニギハヤヒ)の攻撃は止まなかった。
 邪馬台軍に戦利のないことをさとった長髄彦(ながすねひこ)は、安日彦命(あびひこ)と計画して軍を退くことを決断、寄せ来る日向軍の見える高台に立って叫んだ。
「わが豊かな里は、勇猛なる邪馬台の民が屍を楯に積んででも護り抜く。日向族がここを侵すなら必ず討ち果たす。狩に用いる弓矢、海で用いる銛(もり)を取ってでも必ず討ち果たす。そのことを忘れるな日向族よ。わが邪馬台の国が、たとえ敵の手に落ちようとも、わが体に血の流れがあるかぎり、日向族が生きているかぎり、勇猛な邪馬台の民は国を奪い返すことを決して忘れない」

 長髄彦(ながすねひこ)の叫び声は三輪山(みわやま:奈良県桜井市)に響き渡った。長髄彦(ながすねひこ)は叫んだ後、タカグラで人質となっていた娘の可思耶岐媛とその子の宇麻島津命を饒速日(ニギハヤヒ)のもとに送り返し、その後に軍を退いた。
 安日彦(あびひこ)王は、弟の長髄彦(ながすねひこ)の重傷に心を痛め、東方へ落ちることを決意した。それは東方へ落ち行く先々で、邪馬台国に心を寄せる諸族から新手の兵を募り、再挙しようとの思いもあったからだった。
 その時、「日本国北の国果に国がある。そこに住んで、大和に君臨する者に、末代まで忌まわしさを与える報復の地とすれば、汝ら一族に出世の道が開けるであろう」と、天の神よりお告げがあった。このお告げに従って2人の王は、北方にある会津(あいづ:福島県西部)の地で落ち合うことを約束して別れた。

 この年の大和地方は凶作に見舞われ、住民は飢えに苦しんでいた。安日彦(あびひこ)王が東方落ちを決断したのには、これ以上戦が長引けば、住民の多くに餓死者が出ると、心を痛めたのも一つだった。
 安日彦(あびひこ)王は一族の将士・那江山蜘蛛の江字加志、宇田の江志岐、奈賀須祢大呂等を呼び寄せて退陣することを告げ、多くの兵及び領民を連れて越国(こしのくに:福井県敦賀市から山形県庄内地方)に脱し、そこから北へと向かった。この落ち行く人数の総計は、十数万人にも及んだ。
 その時、邪馬台一族を無事に落とすため、邪馬台軍の矢楯(やたて)となったのは高尾張(たかおはり)の地将・土蜘蛛(つちぐも)の伊志久利彦の軍だった。
 日向軍は安日彦(あびひこ)と長髄彦(ながすねひこ)が撤退したことを知らず、土蜘蛛の陣を本陣と思い込み、全軍あげてここを攻めた。
 土蜘蛛一族は七日七夜に渡って応戦したが、奮戦及ばずことごとく討ち死にした。また葛城(かつらぎ:奈良盆地の南西部)の八十梟帥(やそたける)も奮戦したが、かいなく敗れ、この軍もことごとく討ち死にした。こうして邪馬台国はついに日向族によって侵略されてしまった。

 幾万年にわたる天運は日向族に開き、367代の王継邪馬台国の落日(らくじつ)だった。長髄彦(ながすねひこ)の受けた肩と太ももの矢傷は思ったよりも重く、死との境をさまようほどだったが、気力をふるい起こし、従者500人、女子供600人を引き連れ、兄の安日彦(あびひこ)と落ち合う約束の地、奥州会津(おうしゅうあいづ:福島県)の地に逃れ、地中より湧き出る温泉につかって、戦で負った傷を癒した。
 安日彦(あびひこ)は遅れて到着、2人は再会を喜び合ういとまも惜しみ、この地で再挙する兵を募ったが、敗者のみじめさ、邪馬台一族の治政下にあったこの地の一族も敗者を見限り、日向族に味方するのもあって思うように兵が集まらず、両王は再起をあきらめた。
 この時、地住民より北の陸奥へ行けば、騎馬で狩する津保化族(ツボケゾク)という族がいることを聞き、一旦は再挙をあきらめた両王だったが思い直し、これを戦に引き入れて再挙しようとさらに北の陸奥(むつ)に向かった。

 邪馬台国を追われた安日彦(あびひこ)と長髄彦(ながすねひこ)が多くの兵及び住民を引き連れて、東日流(つがる)に落ちて来た。落ちて来た邪馬台人は、葦(あし)の茂る東日流(つがる)の平原を見て、農耕するにはほどよく土が肥え、葦を刈って住居を建て、水を引いて田地(でんじ)を造り、高地を焼いて畑を開墾すれば、拓地(たくち)の稔(みの)りは豊かで、まさに安住できる新天地になると思った。
 稲はホコという種類で、遠く韓国より来た種で寒さにも強く、冷たい水にも強い稲だった。
 先住民の阿曽辺族(あそべぞく)と津保化族(つぼけぞく)は話し合って、この大勢の侵入者を追い払うことに決め、二族の連合軍は邪馬台人の駐留する仮陣営に攻め寄せた。
 激しい戦となり、阿曽辺族(あそべぞく)と津保化族(つぼけぞく)の連合軍は、日中は騎馬で戦い、夜は邪馬台族の宿泊地に忍び込み住民を襲った。
 この攻撃によって邪馬台側に多くの死者が出た。やむをえず安日彦(あびひこ)と長髄彦(ながすねひこ)は、宇濤前の飛鳥(ひちょう)山に逃れ、落着するとそこに仮陣を張った。


 邪馬台一族は飢えれば連れて来た馬を殺し、食糧にして命を保った。この殺した馬に悔いて祀った山を馬人山と呼び、馬を殺した山麓(さんろく)を馬喰い平と言って、今もその場所は残っている。
 安日彦(あびひこ)と長髄彦(ながすねひこ)は、いつまでもこの状況に黙しているわけにはいかず、60日間をかけて武具を整備して兵をまとめ、二族の連合軍と戦うべく挙兵した。
 そこで安日彦(あびひこ)と長髄彦(ながすねひこ)は話し合い、中国から漂着して住みついている支那民に支援を頼みこんだ。支那民の代表として君公子の家臣だった人物は、この頼みを受け容れ、邪馬台族に味方し、糧物(かてもの)や武具を与え支援した。
 邪馬台族は、はじめの頃は敗れることが多かったが、この支援によって態勢をもり返し、支那民より習った異国戦法で応戦した。
 まず津保化族(つぼけぞく)を安東浦で攻め破り、阿闍羅山(あじゃらやま)では阿曽辺族(あそべぞく)と津保化族(つぼけぞく)の連合軍を一気に攻めて降伏させ、和睦して邪馬台族の定住を認めさせた。よって東日流(つがる)に邪馬台族も同居することとなった。

 この邪馬台族を支援した支那漂流民の中に、君公子の大臣・里克(りく)という者がいたが、彼には2人の姫があった。その2人の姫は花のように美しく、みめうるわしい美女で姉を秀麗(しゅうれい)、妹を香蘭(こうらん)と言った。
 この2人の姫を、邪馬台国王だった安日彦(あびひこ)が姉の秀麗(しゅうれい)と、弟の長髄彦(ながすねひこ)が妹の香蘭(こうらん)を妃としたことによって、邪馬台人と支那漂流民との混血がなった。


 しかし津保化族(つぼけぞく)の中に、同居することを不服としてそむいた残党がいたが、両王は定住地に大きな柵を築き、邪馬台城を作って支那の漂流民、邪馬台人の全員を柵内に入れ、柵内で稲作をして米を収穫、冬期にも食糧に困ることなく安住の生活を続けた。

 邪馬台城(青森市三内丸山遺跡)の位置は、梵珠(はんじゅ)連峰が北に連なる山中に、飛鳥(ひちょう)山と言う山があり、その山の林の中に、石垣が延々と続いてる東日流邪馬台城(つがるやまたいじょう)が築かれた。城跡は五角形で、その周囲は空濠(からほり)をめぐらし、しっかりと守られてあった。邪馬台城の地底には多くの洞穴があった。

東日流外三郡誌

荒吐族(あらばきぞく)の始まり------------------------------------------------------------------------

 保食のできない狩漁(しゅぎょ)による生活を送っている津保化族(つぼけぞく)の残党にとっては、なす術がなく降伏、よって邪馬台人、支那からの漂流民、地族の阿曽辺族(あそべぞく)、津保化族(つぼけぞく)が同居することになり、年月を経て混血が進み、荒吐族(あらばきぞく)の始まりとなった。

東日流外三郡誌

日高見国建国-------------------------------------------------------------------------------------------------

 日高見国(ひたかみのくに)とは坂東、古志(こし:新潟辺り)、東北のことで、これらを合わせて奥州(おうしゅう)ともいった。安日彦(あびひこ)と長髄彦(ながすねひこ)は、東日流(つがる)に落着して足元をかためると故地(こち)である大和奪回を企て兵を募ったが、阿曽辺族(あそべぞく)と津保化族(つぼけぞく)との戦いが長引いたこともあって兵が集まらず再起不能となり、東日流(つがる)の地に永住することを決めた。
 そしてこの地日高見国(ひたかみのくに)・東日流(つがる)に高御座(政治の司所)を築いて君臨し、日高見国(ひたかみのくに)五十二郡を総統して治政下に置いた。
 そして支那の民より支那王朝の治政を習い、真似て安日彦(あびひこ)は東の領の王位に就き、安東浦の東方稲城村に住居を築き居住した。
 また弟の長髄彦(ながすねひこ)は、西方の領の王位に就き、安東浦の西方立丘村に住居を築き、居住した。

 こうして奥州東日流(つがる)に居を構えた両王はよく話し合い、末代まで一族の争いがないようにと国を東西に分け、五年ごとに国替えをすることを決め、互いに移り住む決まりを定めた。
 そして東日流(つがる)を六郡に分け、海浜(かいひん)も二郡に分け浜六郡とし、山野、海浜を開拓させた。
 時が経ち、混血が進んだことによって住民は、支那の進んだ技術を学んで船を造り、家を建てる技術を学んで家を建て、農耕、魚収、製鉄の技術も覚え、奥州の諸族を併合して勢力を拡大していった。
 落着以来6年で、支那(中国)及び奥州に伝わる全能の神、亜羅(アラとは支那国の陽の神)、ハバキ(ハバキとは東日流"つがる"の全能の神)、イシカカムイ(太陽の神)、これを併合して荒吐族(あらばきぞく)と名づけ、ここに堅固(けんご)な大国・日高見国(ひたかみのくに)を造り上げた。このアラハバキはニビルのイナンナ(イシュタル)である。

東日流外三郡誌
Hiloyuki Kubota / 久保田 啓敬 

■紀元前660年

大和王権の誕生----------------------------------------------------------------------------------------------

 日向族は、出雲族、南海道の地族とともに、邪馬台族が去った大和へ入り、武運を祝して畝傍山(うねびやま:奈良盆地南部)の東南、橿原(かしはら)の地に仮宮を造り、日向族長の豊玉彦(とよたまひこ)の娘、玉依媛(たまよりひめ)の生んだ生んだ男子四人の末子、稚三毛渟麻命が、出雲から事代主の娘イナダ姫を妃に迎え、紀元前660年正月一日、邪馬台族より戦利品として得た宝物を神器(じんぎ)とし、日本国天皇第一世として儀式を行った。これが神武天皇の誕生である。(※この神武天皇が正確な話かどうかは現時点では不明)

 邪馬台国橿原宮で稚三毛渟麻命が日本国天皇一世として即位した後、この邪馬台国の地に多くの日向族が移住してきた。
 住み残っていた邪馬台族は、奴隷のごとく重労働にこき使われ、その様はかつての邪馬台国五王の政治とはくらべものにならない過酷で地獄のようだった。また邪馬台族に反忠した地方の輩(やから)も、今になって悔やんだがあとの祭りだった。

東日流外三郡誌

 
■紀元前656年  

日高見国(ひたかみのくに)の統治方法-------------------------------------------------------------------

 安日彦(あびひこ)と長髄彦(ながすねひこ)はまず高倉王とワケグラ王の地位をつくって王を即位させ、その下にベグラオサ、すなわち民の長を決め、故地(こち)邪馬台国統治時代の五王制を復活させた。
 五王制とは奥州を五つに分けてそれぞれ王を配し、中央の司、西の司、北の司、南の司、東の司でもって、その国を太平にする国法で、安日彦(あびひこ)が中央に君臨し、西に長髄彦(ながすねひこ)、北に耶馬止志利、東に卒止志利、南に亜舎流部(あやるべ)等の王を配し、それぞれの王に道を開いて村を造り、農業を営ませる役務(えきむ)を与え、その総所は北上川の流域平泉に置いた。
 その要所は、菊多ー白河ー沼垂ー多賀ー玉野ー出羽ー桃生ー玉造ー雄勝ー河北ー厨川ー閉伊ー須賀ー糠部ー比内ー檜山ー能志呂ー都母ー安東ー有澗等で、その大司所を東日流(つがる)に置いた。
 しかし東日流(つがる)にはまだこの治政に伏しない少数民族も残っており、さらにその北方には大国があったので、タカグラの配所カムイ丘を北国のタカグラとして長髄彦(ながすねひこ)を配し、南のタカグラを日高見(ひたかみ)に築き、安日彦(あびひこ)が自ら王となって北方に備えた。
 国の制度づくりを終えた南北の荒吐王安日彦(あびひこ)と長髄彦(ながすねひこ)は、自ら先頭に立って軍を率い、東日流(つがる)を進発、兵馬を進めてニサッテイ、ニイ、カズノ、ヌタリ、ミツシマ、シラカワ、トヨタに侵領したが、この軍の進むところ敵なしで、奥州で伏しない少数民族を含めて征討(せいとう)に要した期間は、わずか三年にすぎなかった。

東日流外三郡誌

■紀元前618年

 奥州の遠征を終え、北王の長髄彦(ながすねひこ)が、夢だった故地(こち)邪馬台国奪回を果たすことなく、立里(たてり)の大沢田丘で、矢傷のあとを見ながら68歳を一期とした。

東日流外三郡誌

■紀元前616年

 エンリルはアッシリア帝国の権力を終わらせることに決めた。彼はバビロニア人にアッシリアを征服させた。そしてバビロンの王ネブカデネザル2世をアッシリア帝国が支配していたレバノンを奪うために送った。
  
バビロンの核兵器の円筒印章-----------------------------------------------------------------------------

 ネブカドネザル2世はイシュタル(イナンナ)と核兵器を使用して、他の国々を支配していった。この時代のバビロンからの青いラピスラズリで蓋がされた1つ目の円筒印章には、イシュタル(イナンナ)と彼女の頭の上にはイシュタル(イナンナ)を表す八芒星が描かれている。そしてイシュタル(イナンナ)の前には頭を下げる祭祀と女祭祀が彫られ、二人は性行為中のようにも見える。


 1つ目の円筒印章の中には、2つ目の円筒印章が入っている。そのクサビ型文字には次のように書かれている。右側は和訳。

sha DINGIR.AG-NIG2.DU-URU3 / ネブカドネザルの
LUGAL KA2.DINGIR.RA / バビロンの王
E2.GAL BURU14 / シュメールの宮殿
sha-pal IM.SHU.RIN / 炉の下


 2つ目の円筒印章の中に、3つ目の円筒印章が入っていた。そこにはネブカドネザル2世と核爆弾の絵、さらにキノコ雲の絵が描かれている。それらの絵の周辺には戦争の女神イシュタル(イナンナ)を表す八芒星も描かれ、彼女が関係していたこともわかる。つまりイシュタル(イナンナ)とネブカドネザル2世は核兵器を使用し、一つの町ではなく、国を滅ぼしていった。




■紀元前614年

 南王の安日彦(あびひこ)は、北王の長髄彦(ながすねひこ)が崩じたことから、南北を一王の支配に改め、タカグラをミヤサワに築いて治政の掟を修正した。
 それは貧富皆無(かいむ)制で、労働倶営、民族皆兵、牛馬飼育、毎戸配分、糧物(かてもの)配分、衣織倶労、治政衆議、刑罰衆決、国王長老選挙の八つの掟だった。

東日流外三郡誌


荒吐(あらばき)五王の掟------------------------------------------------------------------------------------

一、
 五王を選ぶのは、荒吐族(あらばきぞく)の長老がこれを決める。五王の座位に坐(ざ)する者は、安日彦(あびひこ)大祖の累計及び、長髄彦(ながすねひこ)大祖の直径にゆかる者を立君(りっくん)させる。

一、
 五王は領を治め、水利、田、道、橋を開く先導者であり、領民に税を課す。これは一族安住のためである。

一、
 五王は常に寄り合って、世の中の将来を見つめてことに当たり、一族に危難が及んだ時にはこれを護り、また、敵と交戦しても死をおそれぬ者がよい。五王たる者は、常に新しい業を見つけることを肝に命ずること。

一、
 五王とは人を抑えるのではなく、人を導く導師である。よって民よりこのことについて反すると長老に訴えがあった時は、罪をこうむることもある。

一、
 荒吐族(あらばきぞく)の和を乱すようなことをした者は死罪とする。

一、
 五王は◯◯◯(三字不詳)領を知って、その中央の治司及び敵の侵略に備えて、難攻不落の地を選び館を築くべし。

 この掟にもとづいて太平な世が続いていた紀元前614年、日高見国(ひたかみのくに)王の安日彦(あびひこ)が73歳を一期として崩じた。
 両王の滅後、荒吐一族(あらばきいちぞく)治領の司所を、東日流(つがる)より陸中(りくちゅう:岩手県)黒沢尻に移した。また荒吐(あらばき)五王の配所もここに属し、北司配を東日流(つがる)十三湊(とさみなと)に置き、東司配を陸前桃生(りくぜんものう)に置き、南司配を磐城白川(いわきしらかわ)に配所した。

 しかし、日向族との攻防は坂東になると考え、更に東海の勝田、魚津、糸魚川(いといがわ)、高浜磐城にポロチヤシ(大規模な城柵)を築き、ここに奥州全域(日高見国、奥州六国五十三郡、坂東八国七十二郡)を掌握し、強大な大国を造りあげた。
 押領には血を流すことなく先住民の賛従を得た。それは奥州いずれの地に行っても邪馬台国の故族だったため、荒吐(あらばき)五王制域に反対する者はいなかったからだった。
 さらに故地(こち)邪馬台国奪回の伏線(ふくせん)として南へ押領(おうりょう)し、さからう者は討ち取り、美濃(みの)の大垣、若狭(わかさ)の小浜に進んで、邪馬台族旧族の猾族、八十梟師(やそたける)族、磯城(しき)族、赤銅(あかがね)族、土蜘蛛(つちぐも)族、新城戸畔(とべ)族、祝族等を荒吐族に組入れて広げていった。
 そして邪馬台国奪回を悲願とし、軍を麁(あら)という騎馬軍と、熟(にぎ)という歩兵軍、津狩という水軍の三軍に分けて一族の軍事力を強化した。よって荒吐族(あらばきぞく)の故地、邪馬台国奪回を果たす準備は整った。

東日流外三郡誌

■紀元前613年

 日高見国(ひたかみのくに)王の安日彦(あびひこ)が、老齢のため73歳で亡くなる。安日彦(あびひこ)と長髄彦(ながすねひこ)の両王の死によって邪馬台国奪回の気運は止まっていた。

東日流外三郡誌


■紀元前612年

 安日彦(あびひこ)と長髄彦(ながすねひこ)の二王の没後、安日彦(あびひこ)王の長子・安貴彦が日高見国(ひたかみのくに)王を継承し、荒吐族(あらばきぞく)を総挙して、故地邪馬台国奪回に向けて進発した。
 一方の日向族は大和で倭朝を築き、出雲を副宮として和をかためていた。そこへ荒吐族(あらばきぞく)が攻め入り、交戦が三年に及んだことから倭帝の空位が長期にわたって続き、倭朝の皇位は63年間空位となった。
 荒吐族(あらばきぞく)の遠征は、歴代の帝が即位中には必ず故地奪回をはかることが義務のように伝えられていた。

東日流外三郡誌

■紀元前605年頃
 
バビロン(現在のイラク辺り)------------------------------------------------------------------------------

 バビロンでニムロド(マルドゥク)は、最初の大都市を建設した。彼は塔や橋や様々な建物を建設する人物としても有名であった。中でも最も有名なものは、彼が巨大な塔を立てさせたことである。中でもこの塔は占星術の神々、特に太陽神に捧げられたものだった。それは宇宙の創造主である神への反逆だった。
 
 バビロンには美しいアヌンナキがいた。その女性は金髪で青い目をしていて、王国中の人々を魅了した。最初の血の生贄と魔術の儀式を始めたのは彼女であった。ニムロド(マルドゥク)の死後、自らを女神としたセミラミス(イナンナ)は、ニムロド(マルドゥク)と同じように、彼女を拝むよう民衆を仕向けた。彼女を失脚させようと企む者から自分を守るために、彼女は宗教をおこした。彼女は全女性の母、また聖母崇拝の元祖となった。セミラミス(イナンナ)の時代以降、世界中に様々な神話や伝説が引き継がれ、彼女は様々な名で崇拝されてきた。
 セミラミス(イナンナ)には麗しい息子がいた。不倫の子であった。それがすべての淫(みだ)らな性的関係の元祖となり、セミラミス(イナンナ)は太陽神となったニムロド(マルドゥク)のパワーが体に入り、彼女は処女のまま身ごもったのだと民衆に説いた。これはニムロド(マルドゥク)の生まれ変わりに違いないと思った人々は、その子供を拝んだ。
 その子が青年になった頃、彼は野生のイノシシに殺されてしまった。以来イノシシは神々の破壊者の象徴となった。こうして民衆は失われた救世主のために、嘆き悲しんだ。
 セミラミス(イナンナ)はその救世主と太陽を拝むように民衆に教えた。彼女の子供は三日の内に甦って、天に昇ったのだと主張した。確かに古代バビロンの天体の神々は、元々彼らの他界した王や英雄達の霊魂であると考えられていた。そこからこの地に占星術なるものが生まれた。星が祭祀等の信仰の対象となった。彼らは天の動きを観察•研究した。彼らは地上で起こった様々な事件にあわせて星座を作成し、こうして自分達はこれら天の支配者達が地上の生活に及ぼす影響を占い事ができると考えた。選出された祭祀だけが秘密の知識を持つ事ができると考えられた。しかし星や太陽や月を拝んでいながら、実際には死者の霊魂を拝んでいた。つまりバビロンの宗教は死人崇拝であった。
 太陽は最高位の神であった。天空での太陽の動きは注意深く研究された。太陽がある一定の道を辿るのを彼らは発見し、その道を黄道帯(こうどうたい : ZODIAC)と呼んだ。

 昼間の太陽を良い神とし、夜の闇を悪い神と考えた。天地にまつわる様々な神の話が、たくさんの神話と多くの奇妙な生き物を生み出した。
 6という数字が、人間が生まれたか、あるいは創造された日を表し、蛇が作られた日と考えられていた。こうして6は男と女と蛇を象徴する数字となった。
 昼間、黄道帯を通過する太陽に6つの宮(きゅう)が与えられ、夜にもまた6つの宮が与えられた。各宮の中で太陽は3つの部屋を通過した。これが黄道帯の中で36部屋を構成し、古代人は太陽が与える36の啓示と考えた。黄道帯には36の神々がおり、それぞれがそれぞれの部屋に住み、天空の36星座を支配していたと考えた。1から36までの数字を足していくと、その合計は666という隠された神秘の神を表す数字になる。これらの迷信的な神秘主義者達は666という数字を太陽に捧げた。蛇のパワーが太陽に潜み、自然の中のこの力を彼らは拝み、7つの頭を持つ竜とした。それぞれの頭は惑星の神々である太陽、月、火星、水星、木星、金星、土星を表していた。このエネルギーは太陽から流れ出て、ありとあらゆる自然を潤していると考えられ、魔術に通じているものたちは、精神の修行と呪(まじな)い、そして魔法の数字によって、これらの力を操る事ができると考えられていた。

 バベルの塔において、神アヌンナキがこの制度や言葉を乱す事によって破壊を行った時、異なる言語を話す祭祀達が民衆と共に世界中に散って行った。この離散の結果、各時代に渡り、世界中至る所でバビロンの神秘宗教が祭祀等によって教えられることとなった。この古代の占星術と太陽の捧げられた宗教の生き残りが、世界のあちらこちらで巨大な塔やピラミッドに見られる。

 メソポタミアへやってきた遊牧民達は、肥沃な地に定着するようになった。紀元前7世紀の中頃にはアッシリアは充分な雨に恵まれる年が続いたので、ライオンは何処にでもいるという状態であった。アッシュールバニパルの記録によれば、民が住んでいる近くの丘でライオンが吠え、動物たちは震えていた。ライオンは家畜を襲い、人の血を撒き散らしていた。人や家畜、羊の死体が積み重なって、あたかも疫病が蔓延したようであった。羊飼いや牧夫はライオンのすることを嘆き、村は日夜悲嘆にくれていた。その猛獣達を草原から一掃することが必要であった。その仕事を引き受けたのが、ニムロド(マルドゥク)という人物で、彼は世の権力者となっていた。ニムロド(マルドゥク)は素手で牡牛(おうし)やライオンを殺した。巨人達の時代であってもこれは離れ業であり、これらの偉業は彼の権威と支配権の象徴となった。メソポタミアの円筒印章の中には、ニムロド(マルドゥク)の偉業と狩猟の腕前を誇示しているものもある。
 実際は森や原野で実際の狩りをするより、ライオンを捕らえておいて狩り場(アリーナ)に運んでライオン狩をする方が便利であった。ライオン狩と言ってもライオンだけではなく鹿やガゼル、馬なども狩猟の対象となっていた。

 彼はまた民族の神ともなり、強制的に自らを拝ませた。彼は自らの支配権の象徴としてライオンのマントを身に着けていた。また最初の冠として牡牛の角を頭にかぶった。やがてシナルというバビロンの地域は様々な小国に分離し、それぞれに王が君臨するようになった。これらの王達はライオンを殺すという伝統を維持した。

 数世紀にわたりバビロンは様々な王の支配下にあったが、キリストが生まれる600年ほど前にバビロン人達は立ち上がってアッシリア帝国の支配者達を倒したのであった。今やバビロンは他の国々を支配するようになった。ネブカドネザル2世(在位紀元前605年 - 紀元前562年)とその父親が他の国々を次々と制覇していった。他国の王達を捕らえて宦官(かんがん:去勢された召使い)にした。王子達もネブカドネザル2世の召使いにされた。


黄金の都バビロン-------------------------------------------------------------------------------------------

 ネブカドネザル2世の時代に築かれたジグラットの黒い基礎部分は、土星サトルヌスを象徴していた。その上が木星ジュピター、その上が火星マルス、その上が太陽、その上が金星ヴィーナス、その上が水星マーキュリー、そして月と続いた。このようにジグラットは黄道帯を通過する7つの占星術の神々を表していた。

 バビロンの様々な場所には金メッキが施され、黄金の都として知られていた。都の通りでは太陽の祭り、すなわち古代バビロンから伝えられたカルト(異端的宗教)が再び崇められ、ニムロド(マルドゥク)とセミラミス(イナンナ)は別の名で崇められていた。セミラミス(イナンナ)はイシュタールと呼ばれるようになり、牧羊の神のアヌンナキはタンムズ(ドゥムジ)と呼ばれるようになった。バビロンに通じる主要な入口はイシュタル門と呼ばれ、月の女神に捧げられていた。それは女性を象徴する青色をしていた。門には神々のシンボルが置かれていた。バビロンから約5000もの神々が生まれ、祭祀達が民を迷信で雁字搦(がんじがら)めにするために用いられた(つまりマルドゥクが歴史を改竄して広めた)。

 イシュタル門には、天皇家と同じ菊花紋がある。これはイナンナの十六花弁ロゼッタである。バビロンではイシュタル門をくぐって宮殿に入る。道路には「花模様と獅子」が彫刻され、門には牡牛とムシュフシュが浮き彫りされている。日本の神社の門に据えられている二頭の狛犬(こまいぬ)は、獅子と一角獣(牛)である。獅子はユダ族を、牛はエフライム族を表すシンボルである。バビロンとは神の門を意味し、これが中国では天安門となり、日本では神門(しんもん)や鳥居となる。天安門は「天神アヌの門」を意味している。

 宮殿とその周囲には体の一部が牡牛(おうし)、鷲(わし)、人間、ライオンでできている人面有翼牡牛像の巨大な守り神が置かれていた。この神は太陽を表している。

 バビロンの神の中で最も崇められた神の一つにシュロの木があり、生命の生まれ変わりを象徴していた。この木は生命の樹を表している。

etc.

「現代の国際銀行家」は古代バビロンの神殿の高利貸・両替商に遡る---------------------------

 アッシリアが撤退しメソポタミア文明も終盤の新バビロニア時代に入ると、民間の銀行活動が盛んになってくる。英国で発達した金融機関の起源ともいわれるのが、バビロニアのユダヤ人のエジビ家(The Egibi family)や、ユダヤ系のムラッシュ家(The Murashu family)などの大地主である。資金の貸付け、小切手、為替手形、さらには不動産ローンの買い取り、ベンチャー投資なども広く行われていた。しかし預かった資金を貸し出しに回すということは行っていなかったようで、その為に彼らは銀行の起源としては扱われていない。また奴隷自身がお金を借りて主人から自分自身を買い戻すローンもあった。

 ユダヤ人のエジビ家は5世代に渡り、ネブカドネザル2世の時代からアケメネス朝ペルシア王クセルクセスの支配まで続く。エジビ家の第一世代は、ナブ・ゼラ・ウキンの息子のスラジャである。彼らのほとんどの関心ごとは、バビロン周辺の農村地区での大麦などの商品の卸売業である。スラジャは数人のパートナーと、利益と損益を共有して、長期的なベンチャービジネスに取り組んでいる。そして資金と人脈も同時に構築している。後に彼の息子のナブ・アッヘ・イディンが、さらにそれを発展させていく。

 エジビ家の第二世代のナブ・アッヘ・イディンは文字の読み書きと法律を学び、裁判所の筆記の職を得ることになった。王ネブカドネザルの晩年、ナブ・アッヘ・イディンは時々、王室の行政の中心地のオピスで時間を過ごした。そこで彼は管理業に従事する傍ら、王室のプライベートな内容の文書も発行するようになった。彼のクライアントの中には皇太子の宮殿の管理者もいたので相当の立場である。そしてナブ・アッヘ・イディンは、新バビロニアの第4代王(前556-前560)ネリグリッサルの住居購入のための財政問題を、合法的に取り扱っていることで知られていた。言わば、第4代王ネリグリッサルの弁護士として働いていた。また彼は破産した借金者の権利など、複雑な問題も取り扱っていた。

 第4代王ネリグリッサルの死後、彼は次の王で新バビロニア最後の王でもあるナボニドスの下で、バビロンの王室裁判官として影響力のある立場につく。ナブ・アッヘ・イディンの多くの仕事は、彼の長男か実力があり最も信頼できる奴隷へと引き継がれた。

 紀元前542年、王ナボニドスの13年目の年、ナブ・アッヘ・イディンは亡くなった。エジビ家の第三世代のイッチ・マルドゥク・バラツは、紀元前522年のカンビュセス2世の王位が失われる時までエジビ家の事務的なことを取り扱う。この時、ペルシアによるバビロニアの征服が起こった。政治的移行は順調に行われた。しかしイッチ・マルドゥク・バラツは仕事を続けるために、多大な努力をしなければならなかった。なぜなら彼の商品取引の大部分は王室の管理者の協力に依存していたからであった。よって彼は何回もペルシャへ長距離の旅を行う。そしてイッチ・マルドゥク・バラツはバビロン地域の徴税(ちょうぜい)や軍用品の供給などを通して彼の立場を大きくし、維持し続けることに成功した。

 しかし紀元前522年にアケメネス朝ペルシア第3代の王ダレイオス1世が即位してまもなく、イッチ・マルドゥク・バラツは彼の長男のマルドゥク・ナシル・アプリと共に突然亡くなる。彼の長男は結婚もし、父の仕事を引き継いでいた。イッチ・マルドゥク・バラツの野望は、妻の父親イディン・マルドゥクによって達成される。妻の父親は商売上、近い関係にあった。
 マルドゥク・ナシル・アプリは14年間、家族の事業を受け持ったが、彼の2人の若い兄弟は分け前の受取を要求した。また、相続に関する記録には、エジビ家の富が次のように記されている。

 バビロンとボルシッパの都市にある16個の土地と、100人の奴隷を兄弟で分配する。
 利益および保留中の事業の損失は、それに応じて共有する。
 キシュ(Kish)の東にあった彼らの商売の本拠地フルサグカランマの土地、庭、家は、兄弟への分割の対象ではない。

などと言及していた。
 この相続と分配は事業の資本を減少させる問題となった。マルドゥク・ナシル・アプリはマルドゥク(アヌンナキ)を奉るエサギラ寺院に、所有していた価値のある土地を担保に入れていた。ある記録では、質に流れた資産は銀25kg分に達していたと証明されている。しかし、このようなトラブルにもかかわらず、家族の運命に衰退の兆候は見られなかった。

 紀元前486年、ダレイオス1世の36年目の年、マルドゥク・ナシル・アプリの息子ニディンチ・ベルは父親の死後、仕事を引き継いだ。アケメネス朝ペルシア王クセルクセス1世の初期の頃で政情が不安定な時である。よってニディンチ・ベルは仕事に必要な証書であるタブレットを守るため移動させておいた。それらを慎重に瓶(びん)に入れ、廃棄場に埋めたことによって、その記録が1000年以上保管され続けた。


エジビ家の商取引-------------------------------------------------------------------------------------------

 大麦、タマネギ、羊毛などの必需品の商取引は、バビロン周辺の農村地域で行われた。そして輸送、保管、販売はエジビ家の主要業務となっていった。数十年を通じて、組織の形態に変化は見られなかった。この頃、上位中産階級の人々は同じような活動に従事していた。それは生産者と消費者の仲介業の役目であった。彼らは民間の起業家として王室や神殿の関係者と様々な接点を持っていた。ネブカドネザルやナボニドゥスの下、バビロンでは大規模な建設プロジェクトに惹かれた人々によって人口が増大しており、商取引の事業は儲かった。
 スラジャと彼の息子は他のパートナーとともに、ハラム会社(Harranuは道"street"、キャラバン"caravan"の意味)で働き始める。一般的には、他のパートナーが田舎で働いていれば、別の一人が開業資金を出した。そして田舎の農家はトウモロコシの種と農業用の動物を与えられ、そして収穫期には現物で返済しなければならなかった。ちょうど収穫期の前、買い手は農場中を見回る。大麦、果実、玉ねぎを集め、そこから運河の船着き場に運ばなければならなかった。そしてそれら食物は船に積まれ、バビロンや運河沿いの船着き場へ運ばれた。そして事業資金の提供者とそのパートナーが、利益を分配し、同時にリスクも共有した。このパートナーは他の商売に手を出す事は許されず、他の取引に参加することもできなかった。またフルタイムで働かなければならなかった。
 しかしこういった業務形態は普通のローンが年間20%だったことと比べて決定的な違いを作った。ハラム会社はそのため、開業資金や富がない野心的な事業家にとっては非常に合っていた。こういったこともあり、バビロニア帝国の経済状況は上向きだった。そしていくつかの家族がとてつもない勢いで裕福になっていくのであった。しかし反対に、かなりの財産(家、庭、奴隷)を強制的に売らなければならなかった家族も記録として残っている。すべてが成功したわけではなかった。

 エジビ家のスラジャが彼のパートナーの資金と会社を管理し始めた時、ナブ・アッヘ・イディンは彼の潤沢な資金を他の事業へ貸した。彼の息子イッチ・マルドゥク・バラツは、かなり成功しているヌル・シン家のイディン・マルドゥクという事業家の娘と結婚した。そして24ミナスという持参金だけでなく、他の家族が持つボルシッパの運河に集中した商取引(特に玉ねぎ)にも関与することができるようになった。イディン・マルドゥクはそこで地元の生産者と役員との間に人脈を構築していた。
 イディン・マルドゥクもハラム会社で始めに小さな事業を始めた。その後、部下を通じて、そして最終的に何人かの奴隷を通じて行った。奴隷は娘の夫イッチ・マルドゥク・バラツのためにも働き、そして後にエジビ家の所有物となった。
 利益は特に奴隷、住居、不動産に対し、生産的に投資され、会社の資金で購入された。そして土地や庭の賃貸契約、バビロンやボルシッパの家賃の領収書、奴隷の負債、などすべての収入が記録された。エジビ家(と妻達)は、金、銀、貴重な石、豪華な織物や美しい獣に興味を持っていった。


エジビ家と王室の土地--------------------------------------------------------------------------------------

 エジビ家の第一世代のスラジャは王室が所有するバビロンの一部の土地を無期限に借り受け、ナツメヤシと土壌開発を義務づけられていた。スラジャはその土地からの収穫物の約半分ほどを手にしていた。土地は運河の正面に400mほど続き、1〜2km内陸まで栽培エリアが広がっていた。この王室の干拓事業はスラジャの商取引事業に、大きく役立っていた。エジビ家はバビロンの東と南東の城壁の外の土地を好んだ。しかし彼らが所有していた最も大きな土地は、エンリル門の外の北西であった。


エルサレムのエジビ家のタブレット---------------------------------------------------------------------

 イスラエル博物館が保持しているエジビ家のタブレットより、借金の返済についての記録である。バビロンでは約2000ものエジビ家の記録が記されたタブレットが発見されている。最も大きな記録は紀元前606〜前486年に記されたものである。今日、そのタブレットは世界中の博物館で展示されている。その多くがロンドンの大英博物館とベルリンの博物館(Vorderasiatisches Museum)である。エルサレムのイスラエル博物館はエジビ家のタブレットの一つを保持している。

「銀」
 エジビ家の子孫でイッチ・マルドゥク・バラツの息子のマルドゥク・ナシル・アプリより、サング・グラの子孫でニクブの息子ベル・イディンと彼の妻のナプタヤと娘のハッダヤに銀を貸す。マルドゥク・ナシル・アプリは10シェケルをベル・イディンの妻ナプタヤより受け取る。そしてそれぞれが(コピーした)証書を受け取った。
「承認」
ネルガル・ウサリム、ムセジブ・マルドゥクの息子、ナッパ・フ・イバヤの子孫、エア・ルムル、イスパル・ナブ・ウバリトの子孫、イディン・ナブの息子。
「筆記」
グザヌ、ナブ・バラッス・イクビの息子、サング・サマスの子孫。
(場所と日付)

 この文書は銀10シェケル(古代メソポタミアの通貨)を記録した受取書であり、エジビ家とベル・イディンの妻ナプタヤの、紀元前515年1月18日のバビロンでの記録である。この銀は未払い借金の一部で、ベル・イディンはエジビ家に支払わなければならなかった。やがて夫ベル・イディンは亡くなり、妻ナプタヤは彼の借金を返済しなければならなくなった。
 この時、受取書は2枚発行され、1枚は借りた側に支払いの証拠として渡され、もう一枚は貸した側が筆記上の理由で保持した。この文書が記されたタブレットは、貸した側が保管していたものである。


カルケミシュの戦い----------------------------------------------------------------------------------------

 紀元前605年には、エジプト人とバビロニア人が戦ったカルケミシュの戦いが起こる。カルケミシュは現在のトルコ・シリア国境付近だが、この戦いはアラビア半島西部のターイフの近く、南ヒジャーズで行われた可能性がある。この場所にはカッルとカマーシャという二つの村が今も隣接して残っている。これまでの旧約聖書の解釈で、この戦いはユーフラテス川にあるヒッタイトのカルガメサ、つまり現在のジェラブルスだと信じられてきた。

■紀元前591年

スーダンの都市メロエのピラミッド---------------------------------------------------------------------

 紀元前591年ごろ、クシュ王国がメロエに遷都して以降をメロエ王国と呼び、350年ごろ、アビシニア高原(エチオピア高原)に興ったアクスム王国の侵攻を受けて滅亡した。このメロエにも小型のピラミッドが数多く建造され、それらにもアヌンナキの多角形の石積みが見られる。

■紀元前586年頃

バビロン捕囚と現在のイスラエル------------------------------------------------------------------------

 聖書アラビア起源説のカマール・サリービーの説では、バビロン捕囚は次のように説明されている。
 
 バビロニアの支配者ネブカドネザルが、アラビア半島西部のユダ王国を滅ぼし、何千人というユダヤ教徒が捕虜としてバビロンに強制移送された。バビロニア人は、アラビア半島西部の支配を維持し、エジプト人がこの地に戻って再び占領することのないよう精力を傾けた。それゆえにネブカドネザルの後継者、ナボニドスが首都をバビロンから北ヒジャーズのタイマーに移し、そこを拠点に統治した。

 この頃には、すでにユダヤ教徒は、パレスチナの地にしっかりと根づいていた。アラビア半島西部でイスラエル人がこのような窮境(きゅうきょう)におかれたため、その地のユダヤ教徒は、新しい入植の地「シオンの娘」と「エルサレムの娘」(すなわち、アラビア半島西部にある旧来のシオンとエルサレムからすれば、それは新しい土地)への期待をいやがうえにもつのらせた。

 この出来事について、次のような詩句が記されている。

羊の群れの櫓(やぐら)、シオンの娘の山よ、
以前の主権はあなたに帰ってくる。
すなわちエルサレムの娘の国は
あなたに帰ってくる。
(ミカ書4章8節)

処女であるシオンの娘は
あなたを侮り、あなたをあざける。
エルサレムの娘は、あなたのうしろで頭を振る。
ユダの家の、のがれて残る者は
再び下に根を張り、上に実を結ぶ。
すなわち残る者はエルサレムから出、
のがれる者はシオンの山から出る。
万軍の主の熱心がこれをなし遂げられる。
(イザヤ書37章22節、31〜32節、列王記下19章21、30、31節)


■紀元前550年頃

 バビロンの666の神は、マルドゥクという名の像としても表されていた。マルドゥクの像を川に流している下記の画像の祭祀達は、バビロニアの宗教で最高位にある大祭祀を育てている。その大祭祀がポンティス•マキムスという王様であった。彼は神として国を治め、彼の言葉が法律となった。彼の数字もまた666であった。

 大祭祀ポンティス•マキムスの直属に、バビロンの神秘主義の祭祀や魔術師等がいた。こういった人々がすべての教育機関と経済、そして経営を牛耳っていた。彼らが当時世界中の師として君臨していた。民衆は彼らをあたかも神々のように崇めていた。巨大な城壁の砦を築き、事実上、国際的な連結を高めていた自分達がその権力を失うことになろうとは、全く考えられないことであった。
 ところが東方の山間部で、ペルシャの軍隊が破竹の勢いで強力になっていた。彼らにもまたメソポタミアの古代宗教に源をおく独自の祭祀制度があり、神々がいた。ペルシャの兵士達がバビロンの門の下を流れる川から侵入した時、都の門が開けっ放しになっていた。こうしてバビロンの都は一夜にして敵の手に落ちてしまった。
 ペルシャ人もバビロン人と非常によく似た神々を持ち込んできた。だいたいこの頃までにヘブルの宗教は全世界に広がっていた。ゾロアスターという男が、ヘブルの預言者に対抗するため、ある宗教を考え出した。彼は光と闇の間の神を作り上げた。人々はその神を日曜日に拝んだ。世界中の至る所で神々が作り上げられ、同じような形態の宗教が繁栄した。自然の神、作物の神、川の神、繁殖の神が次々と作られた。これらすべての神々はその裏に寓話(ぐうわ)的秘密の意味を持っていて、それを知っていたのはイニシエーションを受けた者達だけであった。
 エジプトにおけるこれらの秘密の教えは数々の異なるカルト(異端的宗教)の影響を受けた。ホルスのカルト、イシスのカルト、ヘルメスのカルトといったのがそれである。ヘルメスはすべてのカルトのうちで、最も知られるものとなった。ヘルメス(ニンギシュジッダ)は一時人間であったと考えられていた。心理の知識を探求し、彼は天空を治める大いなる竜から教えを受けたと言われていた。ヘルメス(ニンギシュジッダ)は42冊にも及ぶ神秘主義の書物を表し、それらはヘルメテッティクミステリーと呼ばれた。これらの書物はエジプトのアレキサンドリアにあった大図書館に保管されていた。プラトンやソクラテス、ピラゴラスといった偉大な哲学者達は近代教育体制の生みの親となったが、彼らはヘルメスの神秘へのイニシエーションを受けていた。

 バビロンの魔術師や祭祀達は自分達の支配力が挫(くじ)かれたことを悟り、その権力を再び取り戻すため自ら運動を起こそうと決めた。彼らはバビロンを逃れ、神聖な像も一緒に持ち出した。彼らは小アジア(アナトリア:現トルコ)の新しく急成長を遂げた帝国へ行った。

■紀元前546年頃

 メソポタミアから移住してきたユダヤ人の10支族は、この頃、華夏族(かかぞく)として中原(ちゅうげん)と呼ばれる中華文化の発祥地である黄河中下流域の平原にも移住していた。そして紀元前206年の漢王朝の時代から漢民族という名で今日まで至っている。その漢民族を構成する一支流に客家(ハッカ)があるが、それが古代ユダヤ人の末裔である。原則漢民族であり、客家語を話し、そのルーツを辿ると古代中国(周から春秋戦国時代)の中原や中国東北部の王族の末裔であることが多い。

 現在の主な居住地域は、中国広東省・福建省・江西省など山間部であり、梅州、恵州、汀州、贛州は客家四州と呼ばれる。在外華僑・華人としてタイ、マレーシア、シンガポールなどの東南アジア諸国に暮らす者も多く、華人の3分の1は客家人である。

 この時代からの客家の末裔は、現代において様々な地位に立っている。

1912年の中華民国初代臨時大総統である孫文(そんぶん)
1959年のシンガポール初代首相であるリー・クァンユー(李光耀)
1981年の元中華人民共和国中央軍事委員会主席で最高指導者である鄧小平(とうしょうへい)
1988年の中華民国(台湾)の第8-9代総統である李登輝(りとうき)
2010年のフィリピン共和国第15代大統領であるベニグノ・アキノ3世
2011年のタイ王国第36代首相インラック・シナワトラ

etc.

■紀元前525年

アケメネス朝ペルシャの統一-----------------------------------------------------------------------------

 ペルシャ人は紀元前537年にバビロンを、紀元前525年にはシリアを侵略し、エジプトを占領し、古代中近東の国々を強力な帝国権力のもとに初めて統一した。このペルシャ人も、アラビア半島全域ではないにせよ、その一部に支配領域を拡大した。しかし、ペルシャ人によるアラビア半島西部の征服は、それまでアラビア半島西部のイスラエル人と他の古代共同体が頼みの綱としていたアラビア半島縦断隊商貿易に痛烈な打撃を与えた。アケメネス朝によって、シリア経由でペルシャ、メソポタミアとエジプトを結ぶ巡視公路(パトロール・ハイウェイ)が作られたのだが、これによって主な隊商路がアラビア半島からはずされ、したがって半島とラクダの通行路が、経済的な不況に追い込まれることになった。またこの世紀の終わりには、ペルシャ人によって紅海とナイル川を結ぶ運河が建設され、海洋貿易が盛んになったが、そのためにアラビア半島の隊商貿易はいっそう沈滞した。これらすべての余波を受けて、アラビア半島西部はまさしく荒廃してしまった。

 ペルシャ人はユダヤ教徒を敵視してはいなかった。実際のところ彼らがユダヤ教徒を厚遇したことは周知のとおりである。それゆえ、ペルシャ、メソポタミアの捕囚であったイスラエル人の子孫たちおよそ4万人は、ペルシャ人に放免された後、その家族とともにアラビア半島西部に帰っていった。彼らはその地に自分たちの社会を再建するつもりだったのだ。しかし不幸なことに、これらのイスラエル人たちは、自分たちの故郷の現状を目のあたりにして茫然となった。そこには、もはや復興の見込みもないほどの貧困と破壊しか見出せなかったのだ。こうしてイスラエル人の社会は、ついにその起源の地アラビア半島西部では再建されなかった。これ以降、ユダヤ教徒の歴史の中心地はパレスチナ周辺となるが、それは紀元後70年にパレスチナのエルサレムがローマ人によって崩壊されるまで続く。そしてユダヤ教が本来アラビア半島西部に発祥したことは、忘れさられてしまったのである。
 この時を境に、古代イスラエルの歴史が衰微(すいび)し、滅び去り、ヘブライ語をはじめとするカナン語のさまざまな形態の語が、話し言葉、日常語として使われなくなった。紀元後6世紀から10世紀にかけて、ヘブライ語聖書の解釈を行ったユダヤ教の学者たちは、すでに話し言葉としてのヘブライ語を知らず、それまで信じ込まされてきた当て推量の知識に頼って聖書を再構成したため、旧約聖書の内容が誤って解釈されてきた。


消えた10支族------------------------------------------------------------------------------------------------

 アケメネス朝ペルシャはユダヤ人に平和をもたらし、バビロンに強制移住させられていたユダヤ人は帰還することが許され、彼らはパレスチナ地方のエルサレムに神殿を再建し、その後、唯一の神ヤハウェを信じるユダヤ教が成立し、彼らはユダヤ人と呼ばれるようになった。

 この時すでにアッシリア帝国は滅亡しており、そこへ捕囚されていたイスラエル10支族は、パレスチナ地方へ帰ってきてしかるべきであった。しかし、彼らは帰って来なかったのである。もちろん帰ってきた者もいたが、それはごくごく一部で、大部分が帰って来なかったのである。しかも捕囚されたアッシリア帝国の地にも、彼らの姿は無かった。ユダ2支族よりも神から多くの祝福を受けていたはずのイスラエル10支族は、日本へ向けて旅立ち、いつの間にか歴史の表舞台から消えてしまったのである。

アヌンナキとアケメネス朝の宗教------------------------------------------------------------------------

 アケメネス朝ペルシアが誕生した時すでにゾロアスター教は、王家と王国の中枢をなすペルシア人のほとんどが信奉する宗教であった。ゾロアスター教は善悪二元論的な宗教である。このゾロアスター教と、その最高神であるアフラ・マズダー(エンリル)は、宗教によってアケメネス朝の人々を洗脳していったのである。
 アフラ・マズダーは宗教画などでは、有翼光輪を背景にした王者の姿で表される。その名は「智恵ある神」を意味し、善と悪とを峻別する正義と法の神であり、最高神とされる。ゾロアスター教の神学では、この世界の歴史は、善神スプンタ・マンユと悪神アンラ・マンユらとの戦いの歴史そのものであるとされる。そして、世界の終末の日に最後の審判を下し、善なるものと悪しきものを再び分離するのがアフラ・マズダーの役目である。

■紀元前522年

バビロンからのブッダ--------------------------------------------------------------------------------------

 古代ペルシアの碑文により、バビロニアの王とブッダ(釈迦)がつながったと、研究家のハーベイ・クラフトが「バビロンからのブッダ(The Buddha from Babylon:The Lost History and Cosmic Vision of Siddhartha Gautama)」で述べている。要約すると次のようになる。

 遠く西のペルシャで、仏陀になったシッダルタ・ゴータマという男が存在した証拠が見つかった。一族の印章と記録がアケメネス朝ペルシャのペルセポリス(アヌンナキが作った都市)で見つかった。そしてアケメネス朝ペルシャの王ダレイオス1世が、シッダルタ・ゴータマ(=ブッダ)と、ブッダの父親のスドダナ・ゴータマと関連していることが認識された。
 ゴータマはサカ(釈迦)王国の王族の名前であった。ダレイオス1世のペルシャの首都ペルセポリスで見つかった印章の分析によって、それがゴータマ家のことであると、ラナジット・パル博士によって主張されている。
 一族の印章には王冠をかぶった王が刻まれ、その両側には二頭の鳥の頭と羽を持つライオンが刻まれている。

 ペルセポリスのスラマナのセッダ(Sedda:人物名)の記述がある印章は、「ライオン-太陽 祈祷師(きとうし、シャーマン)」についてであるが、このセッダ・アルタ(シッダルタ)という名は、シッダ(〜の解放者)とアルタ(宇宙もしくは普遍の真理)という意味である。つまりシッダルタとは「宇宙の真理の解放者」という意味である。これは集められた印章からの情報に基づいている。
 仏教画の同じような絵においても、ブッダは彼の側に立つ側近と共に、下に宝石をちりばめた「ライオンの玉座」に座っていることを見る事ができる。ブッダのその絵は、普遍なる神聖な木の下での彼の悟りを表している。

 流れはこうである。アケメネス朝ペルシャの王カムブジヤ王(Kambujiya)がエジプトへ行っている間に、ガウマタ(ゴータマ=ブッダ)はペルセポリスで王座を得た。その後、ダレイオス1世がガウマタ(ゴータマ=ブッダ)から王座を奪い、ペルセポリスで王となる。

つまりペルセポリスでの王の順は次の通りである。

1 カンブジヤ王(カンビュセス2世。後にカンボジアの祖)
2 ガウマタ王(ゴータマ=ブッダ。後にインドのルンビニでの仏教の祖)
3 ダレイオス1世(ダリウス王)

 こうしてガウマタであるシッダルタ・ゴータマ(=ブッダ)とその一族はルンビニへ行き、仏教が始まる。ガウマタ王の前のカムブジヤ王は東南アジアへ行き、カンボジア一帯で文明を開く。そして68年から550年にかけてメコン川下流域(現在のカンボジア、ベトナム南部)からチャオプラヤーデルタにかけてヒンドゥー教・仏教の古代国家である扶南国(ふなんこく)へと続いていく。

 やがてカンボジアがあるインドシナ半島では、次々と国ができては滅んでいき、現在に続いていく。

・扶南国(ふなんこく) (68–550)
・真臘(しんろう) (550–802)
・クメール王朝 (802–1431)
・カンボジア王国 (1431-1863)
・フランス領インドシナ (1863–1953)
・日本占領時期のカンボジア (1941–1945)
・カンボジア王国 (1953–1970)
・1970年クーデター
・クメール共和国 (1970–1975)
・民主カンプチア (1975–1979)
・カンボジア・ベトナム戦争 (1975–1989)
・カンプチア人民共和国/カンボジア国 (1979–1993)
・カンボジア暫定国民政府/UNTAC/SNC (1991–1993)
・カンボジア王国 (1993–現在)

 東南アジアには、アヌンナキのテクノロジーによって作られた巨石建造物が数多く存在している。

 釈迦(しゃか=ブッダ)はシャーキャ族王シュッドーダナの男子として、現在のネパールのルンビニにあたる場所で誕生したとされているが、アケメネス朝ペルシャから移住したのであった。そして29歳で出家し、35歳で覚りを開き仏陀(ブッダ)となった。
 釈迦(しゃか)もイスラエルの十支族の子孫であり、自らの覚りを人々に説いて伝道して廻った。それが仏教となる。釈迦は仏教の開祖である。
 多くの仏教の宗派では、仏陀(ブッダ)は釈迦だけを指す場合が多く、仏陀は悟りの最高の位「仏の悟り」を開いた人を指す。buddhaはサンスクリットで「目覚めた人」「体解した人」「悟った者」などの意味である。

バビロンからのブッダ(The Buddha from Babylon:The Lost History and Cosmic Vision of Siddhartha Gautama)
etc.


東南アジアのラオスのジャール平原---------------------------------------------------------------------

 ラオス中部のジャール平原では、紀元前500年頃のものとされる巨大な石壺が400個以上確認されている。これは多角形の石積みではないが、ラオスの伝説では、このエリアにかつて巨人の種族がいたとしている。巨石と巨人伝説、そして東南アジアに広がるアヌンナキの巨石建造物。これらの共通点から見て、ラオスの石壺もアヌンナキのテクノロジーによって生み出されたものと考えることができる。つまり、アケメネス朝ペルシャからカンブジヤ王がやってきて、アヌンナキとともに、この東南アジア一帯に文明を築いた。


ブッダ(仏陀)の系図-----------------------------------------------------------------------------------------

 イスラエルの失われた10支族がウクライナでスキタイとなり、その一部のサカ族の王子としてブッダは生まれアヌンナキが作ったアケメネス朝ペルシャのペルセポリスへやってきた。


ブッダ、ダレイオス1世、カンブジヤはアヌンナキと人間のハイブリッド(半神半人)----------

 結論から言えば、シッダルタ・ゴータマ(=ブッダ)、ダレイオス1世、カンブジヤはアヌンナキと人間とのハイブリッド(半神半人)である。その理由に、スリランカのポロンナルワの遺跡に見られる巨大なブッダの像は、アヌンナキの多角形の石積みで作られた遺跡にあることから、このブッダ像もアヌンナキのテクノロジーによって作られたと推察される。このブッダ像は岸壁をくり抜いた中にあるが、そのくり抜く科学技術もアヌンナキ建築の特徴となっている。
 血縁を重要視するアヌンナキがブッダ像を作るということは、ブッダがアヌンナキと何らかの関係があると考えられる。それは失われた10支族の一部がウクライナ周辺でスキタイとなり、その一部のサカ族の王としてブッダは生まれたのでブッダもユダヤ人であり、アヌンナキの直系血族という結論になる。
 また様々な仏画のブッダは周囲の人々よりも常に大きく描かれている。これはダレイオス1世も同じで、つまり彼らは巨人だった。カンブジヤが向かった東南アジアにも、巨人伝説が数多く残っている。つまり、彼らはアヌンナキの血を濃く受け継ぐ巨人であり、人間にとっては神であった。


 壁画から計算すると、仏陀の身長は250cmほど、ダレイオス1世も250cmほどだったと推測できる。



■紀元前520年頃

 現在のイランのファールス州に、アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世がペルセポリスの建設に着手する。ダレイオス1世は、アヌンナキの血を濃く受け継ぐ半神半人である。ここはアケメネス朝ペルシアの都で、宮殿が北北西に20度傾いていることなどが、後に聖徳太子(574年〜)が日本へやって来て建てた飛鳥寺と共通点が多い。北北西に20度は、古代ペルシャのシリウス信仰である。アヌンナキの惑星ニビルはシリウスBの軌道を廻っていた巨大惑星である。つまり自分たちの故郷の方角を指している。ペルセポリス宮殿には多角形の石積みがあるので、アヌンナキによって作られたこともわかる。この宮殿は紀元前331年のアレクサンドロス大王の攻撃によって破壊された。

 このペルセポリスでも多角形の石積みが見られることから、アヌンナキのテクノロジーによって作られたとわかる。また岩をくり抜いた遺跡やニビルを表すWinged sunも見られる。

etc.

■紀元前511年

 湯彦が崩じ、荒吐族(あらばきぞく)は東国(とうごく:関東地方)に居を移した。

東日流外三郡誌

荒吐族の馬具(ばぐ)-----------------------------------------------------------------------------------------

 現代の古墳からは、関東地方の荒吐族(あらばきぞく)のほうが近畿の大和の日向族よりも、王の馬具の出土数は圧倒的に多い。荒吐族(あらばきぞく)にとって軍馬は権力の象徴であり、軍力を示すものだった。また馬具出土古墳数や馬牧場数も、大和の日向族より関東の荒吐族(あらばきぞく)のほうが多かった。


東日流外三郡誌

■紀元前478年

 奥州(おうしゅう)日高見国(ひたかみのくに)において、大彦(おほひこ)が荒吐族(あらばきぞく)王六代を継承し、君臨していた。
 しかし、この国王・大彦(おほひこ)は安日彦(あびひこ)命の系ではなく長髄彦(ながすねひこ)命の系で、宇澗彦、流間彦、奥利彦、比羅架彦、そして東日流(つがる)丸と続く。この東日流丸が大彦のことである。

東日流外三郡誌

■紀元前477年

 大彦(おほひこ)王は倭国に使者を派遣し、故地邪馬台国の返還を要求した。この要求を倭は拒否した。この時の倭国は、前帝の懿徳天皇(いとくてんのう)滅後、皇位が二波の争いによって定まらず、空位の期間が長く続いていた。
 日高見国(ひたかみのくに)王の大彦(おほひこ)王は、この年、奥州(おうしゅう)六郡の荒吐族(あらばきぞく)に五王制を宣布し、一族の統制を改めて固め、武力による故地奪回を決意した。
 その勢力は祖来の仇、出雲の反忠一族と、日向の侵領一族を討って遺恨を晴らそうとの一念で兵を八方で訓練し、屈強な兵にするとの願いは、大彦王によってかなえられ、兵の数も六万余りに達していた。
 大彦王は、この大軍を率いて日高見国(ひたかみのくに)を進発、北陸、東海、木曽を長蛇のごとく進軍し、大和に迫った。
 大彦王に従うのは安倍臣、胆臣、阿閇(あべ)臣、伊賀臣、加茂臣の五王で、これは皆、大彦王の子息だった。

 皇位が二派に分かれて争っていた倭国だったが、この寄せ手に対しては力を合わせて戦った。倭朝の空位が長期にわたって続いたのは、日向族の中に王位に即位する各王があらわれなかったこともあった。
 攻防には刻(こく:時間の単位)を要したが、馬を使って戦う荒吐族(あらばきぞく)の戦法は無敵で、ついに日向族は敗れ、日向族系の皇子は皆、出雲、南海道、筑紫へと四散、逃げ散った。こうして荒吐族(あらばきぞく)の邪馬台国の奪回は、奪われてから百余年でなった。
 倭に残っていた邪馬台族は、この日高見国(ひたかみのくに)軍を喜んで迎え、逆に加勢する者が多かった。
 日向族の高御座(たかみくら)を護っていた日向兵は、ただ右往左往して逃げ回り、何とか脱しようとしたが、荒吐族(あらばきぞく)の囲みを逃れることができず、追いつめられて斬られた。その血は泉のように流れ、屍(しかばね)は山となって積まれた。討ち残された者は、恐怖におののいて尿をし、甲を捨て、糧材を捧げて降伏した。
 勝利を得た大彦王だったが、倭国と日高見国(ひたかみのくに)を統一せず、邪馬台国の司所を大和の生駒(奈良県生駒市)に置き、邪馬台川(大和川)の里・羽曳野(大阪府羽曳野市)で和睦した。
 その条件は、倭国統治は荒吐族(あらばきぞく)に一任すること、荒吐領は尾張(おわり:愛知県西部)村より東とし、その領地は賀川、信州を除いたところとするというものだった。
 大彦(おほひこ)王は、奪回した倭国の統治を大毘彦(荒吐族)と建沼名河別彦(たけぬなかわわけひこ:日向族)の二王にゆだね、自身は奥州日高見国(ひたかみのくに)へ引き揚げてしまった。
 しかしこの和睦は、大彦(おほひこ)王より邪馬台国統治を委ねられた二王が邪馬台国の統治から筑紫国を除くことを日向族が主張し、また帝の立君についても意見がまとまらず、倭に残って経緯を見守っていた荒吐族(あらばきぞく)の王らは、後を大毘彦と建沼名河別彦(たけぬなかわわけひこ)にゆだねて奥州に引き揚げてしまった。しかしこれによって兵乱はしばらくの間止んだ。

 時が移り、奥州(おうしゅう)の日高見国(ひたかみのくに)では大彦(おほひこ)王の係累(けいるい)東日流(つがる)丸二世が日高見国(ひたかみのくに)王・荒吐族(あらばきぞく)王を継いだが、安日彦(あびひこ)命系ではなかったことから、倭にいた安日彦(あびひこ)命系の者は怒り、奥州にあった長髄彦(ながすねひこ)命系の者は喜んだ。そうして、東西(倭国と日高見国)の荒吐族(あらばきぞく)の統治が大いに乱れた。
 一方、倭より追われた日向族王(天皇の係累)は、逃亡先の副宮出雲国において出雲族から帝を即位させたことによって倭朝の天皇空位は63年間に及んだ。このことで日向族内に内紛が起こり、筑紫に去って行く者も多く出た。倭では意見が対立して皇位に即位する者が定まらなかったが、どのような経過をたどったかは知れないが、副宮で即位した帝が、大和に移ることとなった。
 この時、日向族と共に大勢の出雲族も大和に移り、出雲族の帝が君臨する時代が長い間続いた。
 時が流れ、筑紫に去っていた日向族の皇子らは、大和に君臨する出雲族に、帝位の返還を迫った。しかし出雲族がその要求に応じず、日向族と出雲族の間で、皇位争奪の激戦が約300年にわたって続いた。

東日流外三郡誌

■紀元前427年頃

 古代ギリシャに哲学者のプラトン(〜紀元前347年)が生まれる。ソクラテスを師とし、国家公共に携わる政治家を目指していたが、三十人政権やその後の民主派政権の惨状を目の当たりにして現実政治に関わるのを避け、ソクラテス死後の30代からは、対話篇を執筆しつつ、哲学の追求と政治との統合を模索していくようになる。


■紀元前330年頃

古代の高度な計算機----------------------------------------------------------------------------------------

 イスラムとヨーロッパの天文学で使用されたアストロラーベの立体射影の概念は、紀元前330年にまでさかのぼる。用途は多岐にわたり、太陽、月、惑星、恒星の位置測定および予測、ある経度と現地時刻の変換、測量、三角測量に使われた。初期のものはとてもシンプルで簡単なつくりだが、後期のものは全く非対称的で法則性のない天空を正確に地図として表した。




■紀元前300年頃

アイヌの人々-------------------------------------------------------------------------------------------------

 日本は弥生時代に入っていた。そんな中、アジア大陸から東北アジア系の人々が渡来し、環太平洋文明の末裔の日本の原住民は次第に追い払われて南九州から琉球諸島へ、また一方は北の地へと移り住んでいった。南に下った一群の内の一つが熊襲(くまそ)と呼ばれる一族で、彼らはしばらくの間、南九州の地で留まっていた。古事記には古代九州の西南部にいた勇猛な豪族として登場している。一方、次第に北へと追いやられた一群は蝦夷(えみし)と呼ばれるようになり、彼らは東北から北海道へと移住し、アイヌの祖先となった。そうした時の流れを裏付けるように、マヤや沖縄、アイヌの人々はその顔形、彫りの深い目鼻立ちや体毛や髭の濃い点、頬骨の張り出し方が強い点、やや長頭型である点などがよく似ている。日本は琉球からアイヌまで同じ祖先を持つ一族であり、さらに様々な渡来人との混血が進んだ多民族国家である。

 アイヌにも部族ごとに特徴的な刺青をする習慣があった。刺青は精霊信仰に伴う神の象徴とされる大切なものであった。特に知られているのは、成人女性が口の周りに入れる刺青である。まず年ごろになった女性の口の周りを、ハンノキの皮を煎じた湯で拭い清めて消毒する。ここにマキリ(小刀)の先で細かく傷をつけ、シラカバの樹皮を焚いて取った煤(すす)を擦り込む。施術にはかなりの苦痛が伴うため、幾度かに分けて小刻みに刺青を入れる。女性の腕や指にかけての刺青は、7〜8歳になる頃から母親同伴で、彫師の元に通いながら婚礼までに少しずつ彫り進めてゆく習慣があった。

 また、男性の場合も部族ごとに様々な刺青の習慣があった。ある部族の男性は肩に、ある部族の男性は手の水かきの部分に刺青を入れると弓の腕があがって狩りが上手になるという言い伝えを持っていた。
 衣服に隠れる身体にも、美しく神聖な蛇の表皮の模様が施されていたが、他人には見せてはならぬものとされた。腕から指にかけての刺青は他人も見ることができた。
 また北海道の各地にアイヌ語の地名が数多く残されているが、九州や琉球諸島にもアイヌ表示の地名が残されている。アイヌ語は関西から四国、九州にかけても広範に残されているが、中でも九州が最も多く、その中でも北九州の福岡・佐賀・熊本にかけてが特に多くなっている。例えば福岡県では、米冠(シリカンベまたはシリカンゲ)はアイヌ語で「海際の山」または「水面に浮かぶ丘」の意である。下代久事(ケタイクジ)はアイヌ語で「川向こうの山の頂に密集した森のあるところ」の意である。
etc.

■紀元前254年

 奥州五王が大和へ入り、諸国の諸族を、討伐したことによって、皇位が40年間空位となった。

東日流外三郡誌

■紀元前250年頃

 ペルガモンの国においてバビロンの魔術師や祭祀達は、ペルガモンのアクロポリスと呼ばれる巨大都市を築いた。ここで彼らはそれぞれの偉大な神を祀る神殿を建立した。中でも最も重要なものはゼウスの神を祀った神殿であった。この神殿の前方の模型がドイツのベルリンのペルガモン博物館にある。

 その建物の表にはギリシャの神々の戦いが描かれている。祭祀達は神殿の中に巨大な蛇を置いた。アスキュラピウスと呼ばれるこの大蛇は、麻薬や催眠術、また魔術で人を虜にする薬物または魔術の神であった。

 これらの神殿で彼らは、学生たちに魔術的癒しの儀式を執り行う方法を伝授した。ペルガモンの神殿もアヌンナキのテクノロジーで作られた。ペルガモン博物館にある再建された神殿にも、多角形の石積みが見られる。

etc.

■紀元前221年頃

 中国では秦(しん)が中国を統一し、紀元前206年まで続く。始皇帝は中国統一を成し遂げると、中国史上初めて皇帝を称し、紀元前210年の49歳で亡くなるまで君臨した。約2000年に及ぶ中国皇帝の先駆者であり、統一後は経済活動や政治改革を実行した。万里の長城の建設、等身大の兵馬俑(へいばよう)で知られる秦始皇帝陵の建設、国家単位での貨幣や計量単位の統一、交通規則の制定などを行い、法による統治を敷いた。

■紀元前214年

 六代の考安天皇(こうあんてんのう)の時代、奥州の荒吐族(あらばきぞく)の王位にあった東日流(つがる)丸八世(大彦王)は、一族を大挙して大和の倭に侵駐、帝位を41年間空位にしたが、結果和睦することとなった。その条件は、倭に荒吐族(あらばきぞく)の帝を即位させ、政治は荒吐族(あらばきぞく)の長老諸氏がとることだった。
 このようにして荒吐族(あらばきぞく)のタカグラ王・安日彦(あびひこ)の入滅以来、二十代にして日向族に追われた故恨を晴らし、悲願だった故地邪馬台国を奪回、大和のワケグラ王に即位したのが大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと:孝元天皇:八代)である。

 即位は紀元前214年で、大彦王にゆかりのある系統だった。邪馬台国奪回で、タカグラ(日本国全域を統治する場所)を奥州から、奪回した大和に移すかどうかが、長老談議で話し合われたが難航した。
 談議が重ねられて得た結論は、タカグラは奥州(おうしゅう)日高見国(ひたかみのくに)・ミヤサワ(宮城県古川市)に置くこととし、大和はワケグラにすることに決定、そのワケグラに即位したのがすなわち孝元(こうげん)天皇である。
 大和のワケグラに荒吐族(あらばきぞく)の孝元帝を即位させたが、以前より倭に駐留していた荒吐族(あらばきぞく)の将士と民衆の間では、長い年月の間に、日向族の陽の神崇拝が不動のものとなって奥州の日高見国(ひたかみのくに)へ帰る者がなく、心身ともに日向族の習いに従うこととなっていた。
 この時、荒吐族(あらばきぞく)の人身を余多倭国に移して、その御族となって大宮に入った物部氏、大友氏、藤氏(藤原氏)がよくつとめ、血縁者を朝廷に入らしめた。
 こうして倭の孝元天皇即位は、荒吐族(あらばきぞく)、出雲族、日向族と併せた民族となり、日本国統一に寄与するはじめとなった。
 長い年月を経る間に大和に住みついた荒吐族(あらばきぞく)と日向族(ひゅうがぞく)では、混血がすすみ、邪馬台一族(荒吐族)の民との区別なく倭は栄える時代が続いた。

東日流外三郡誌

■紀元前209年

中国の西安のピラミッド----------------------------------------------------------------------------------

 西安は古くは中国古代の諸王朝の都となった長安で、長安とは紀元前206年から220年の漢代に命名され、前漢、北周、隋などの首都であった。618年から907年の唐代には、大帝国の首都として世界最大の都市に成長した。960年の宋(そう)以降は政治・経済の中心は東の開封に移り、長安が首都に戻ることはなかった。
 この西安には大小合わせて少なくとも29個のピラミッドが存在する。その多くは頂上が平らな中南米型のピラミッドである。現地には「火を吹く籠(かご)に乗って地球にやってきた天の子たちが、この地にピラミッドを建造した」という伝説が残っている。つまりアヌンナキが宇宙船でやってきた。グーグルマップ(34°22'28.75"N 108°41'12.21"E)