9章 倭国とローマ帝国 : 地球人のルーツ

■紀元前200年頃

バグダッド電池----------------------------------------------------------------------------------------------

 この頃、現在のイラクの首都バグダッドにあったパルティア遺跡では、バグダッド電池が使用されていた。高さ約10cm、直径約3cm程度で、粘土を焼いて作った素焼きの土器の中にアスファルトで固定された銅の筒が入っており、その中のアスファルトで塞がれたシリンダーの中に鉄製の棒が差し込まれている。また底に何らかの液体が入っていた痕跡が残っていた。

インドの叙事詩ラーマーヤナの元が編纂される-------------------------------------------------------

 ラーマーヤナ、マハーバーラタと古代核戦争インドの二大叙事詩「ラーマーヤナ」「マハーバーラタ」は世界的に有名である。ラーマーヤナの方が古く、シュローカと呼ばれる16音節2行(あるいは8音節4行)から成り、その数は2400にも及ぶ。BC2世紀頃、詩人アーディ・カヴィによって編纂されたものが元である。ラーマーヤナとは“ラーマ王伝”という意味である。ラーマーヤナは、英雄ラーマが妻シータを悪玉ラーヴァナから取り返す物語である。舞台は南インドで、現在のセイロン島と見なされている。主人公ラーマはコーサラ国の王子である。
 マハーバーラタの内容は戦争である。BC10世紀頃の北インドを舞台とした壮絶な戦いである。主人公は、クル族の王子アルジュナである。彼が同族の戦いに躊躇するが、英雄神クリシュナが現れ、進むべき道を示すバガヴァッド・ギーターの場面がよく知られている。また、英雄アスワタマンが空飛ぶ戦車ヴィマナで敵と戦う場面が有名であり、BC10世紀頃の北インドでの出来事を記したものとされている。マハーバーラタは聖仙ヴィヤーサによって編纂されたと言い、AD4世紀初頭に成立した。ラーマーヤナの内容を知っていることを前提とするが、その量はラーマーヤナの4倍以上にもなる。バーラタとは、インド人が自らの民族を指す呼称である。マハーバーラタとは“偉大なるバーラタ族”という意味である。
 しかし、そこには現在の核兵器を思わせるような、極めて写実的かつ具体的な兵器が数多く登場し、あたかも実際に目にしたような描写である。つまり、“主エンキの御言葉”に記されていたように、第3の地域も傷ついたのだから、メソポタミアだけではなく、インダス一帯でも核兵器が炸裂したことを裏付けることとなる。そこで、物語の概略を紹介し、これらの物語をシュメールとカッバーラの観点から見直す。


ラーマーヤナ-------------------------------------------------------------------------------------------------

 ある時、コーサラ国の都アヨーディヤーの名君ダシャラタは世継ぎを願い、祈りを捧げた。その頃、地上は流血を好む魔神ラーヴァナがのさばっていた。このような状況を「神々」は憂い、魔神を退治して欲しいとヴィシュヌに懇願した。その願いを聞き入れたヴィシュヌは、第1王妃スミトラーからラーマとして誕生した。やがて、成長したラーマの前に、聖仙ヴィシュヴァーミトラが現れた。ラーマの優れた武術を見込んで、魔神退治をお願いしに来たのである。ラーマは承諾し、見事に魔神を退治した。
 その後、ラーマは旅を続け、ヴィデーハ国のジャナカ王の宮廷に到着した。そこで、王の美しい娘シータと出会い、彼女を娶った。しかし、シータには秘密があった。彼女はジャナカ王の娘ではなく、大地母神ブーデーヴィーの娘だったのである。畑に鍬(くわ)を入れた時、大地から誕生した女神の化身である。

 ラーマがシータと共に祖国へ戻ると、第1王子として迎え入れられた。年老いた王はラーマに王位を譲ろうとしたが、継母カイケーイーの策略によって阻まれ、国外追放されてしまった。再び旅に出たラーマだが、こともあろうか、魔神ラーヴァナの妹シュールパナカーに気に入られてしまった。ラーマはシータのことを想い、当然拒絶した。怒ったシュールパナカーはシータを殺そうとしたが、ラーマの従兄弟で幼馴染のラクシュマナにより、耳と鼻を切り落とされてしまった。彼女は悲鳴を上げて退散し、兄である魔神に事の次第を話し、仇を打ってくれるよう頼んだ。魔神は空飛ぶ戦車プシュパカに乗り、ラーマたちを襲撃し、シータを略奪した。
 ラーマはシータを奪回すべく、立ち上がった。盟友ラクシュマナと猿王ハヌマーンを従え、シータの行く先を突き止め、攻撃した。しかし、魔神の息子で魔術師のインドラジッドにより、ラクシュマナは瀕死の重症を負ってしまった。それでも、聖仙ヴィシュヴァーミトラがラーマ王子に与えた武器ブラマダッタにより、何とか魔神を倒すことができた。

 シータを無事に救い出したものの、ラーマはシータの貞節(ていせつ)を疑ってしまった。身の潔白を証明するために、シータは燃える火の中に身を投げた。あわや、というところで、火の神アグニによってシータは助けられた。これにより、ラーマはシータの潔白を信じ、永遠の愛を誓い合った。こうして、2人はコーサラ国の王と王妃として、末永く統治していった。
 最終章では、シータは大地母神によって大地へ帰り、ラーマも2人の息子に王国を委ねると、天界へと帰っていった。この時、ラーマはヴィシュヌ、シータはラクシュミーへと回帰した。


マハーバーラタ----------------------------------------------------------------------------------------------

 バーラタ王の子孫で、クル族のシャーンタヌという王は、ガンジス川の女神ガンガーに恋をし、求婚した。ガンガーは、自分がどんなことをしてもそれを止めたり、訳を聞いたりしなければ、という条件で承諾した。ガンガーはシャーンタヌとの間に次々に7人の子を生んだが、生み落とすや否や皆、殺してしまった。シャーンタヌは約束に縛られて、ガンガーのなすがままだったが、8番目の子が生まれた時には耐え切れず、殺害を食い止めた。王の約束違反により、ガンガーはシャーンタヌの下を去った。この8番目の子がデーヴァヴラタ、後のビーシュマである。(クリシュナの話そのものである。ビーシュマはヴィシュヌと同じである。)
 ガンガーが去って数年後、シャーンタヌ王は漁師の娘サティヤヴァティーに一目惚れして求婚したが、サティヤヴァティーの父親に、私の娘の子が王位を継承できるなら、と条件をつけられ、苦悩した。成長したデーヴァヴラタは文武両道に秀で、理想的な王位継承者と期待していたからである。父の悩みを知ったデーヴァヴラタは、自らの王位継承権を放棄し、王国の将来に禍根を残さぬため、生涯の不婚を誓う。この困難な誓いの後、彼はビーシュマ(恐るべき者)という名で呼ばれるようになる。こうして、シャーンタヌはサティヤヴァティーを妻とし、2人の間には2人の王子が生まれた。
 間もなく、シャーンタヌ王は死去した。ビーシュマの、父と王国への献身も空しく、シャーンタヌのこの2人の王子も、共に後継ぎを残すことなく夭折(ようせつ)した。サティヤヴァティーはビーシュマに誓いを放棄し、王となり、王国に後継ぎを与えるよう懇願するが、ビーシュマはこれを受け入れなかった。そこで、サティヤヴァティーがシャーンタヌと結婚する前に、聖仙パラーパーヤナとの間にできた子ヴァイパーヤナを宮廷に招き、夭逝(ようせつ)した王子の未亡人と結婚させた。これにより、ドリタラーシュトラ、パーンドゥの2人の王子が誕生した。
 兄のドリタラーシュトラは盲目だったため、王位は継承しなかったが、100人の王子と1人の王女に恵まれた。王位を継承したパーンドゥは5人の王子(ユディシュティラ、ビーマ、アルジュナ、ナクラ、サハデーヴァ)を得たが、夭逝(ようせつ)した。その子たちはいずれも若すぎたので、ドリタラーシュトラが王として即位し、パーンドゥの5人の息子たちを引き取った。5人の王子たちは、いずれも100人の王子よりも優れており、誰もが認めるところであった。そのため、100人の王子は5人と反目し、対立し合うようになった。ついに、100人の王子の陰謀により、5人の王子は追放されてしまった。
 追放された5人の王子はバラモン僧に姿を変え、流浪の旅に出た。やがてパンチャーラ国に着いたところ、王女ドラウパディーの婿選びが行われていた。そこで、彼らも候補として挑戦し、三男アルジュナが結婚することとなった。と同時に、パンチャーラ国の習慣で、他の4人もまた、ドラウパディーの夫となった。こうして栄誉を勝ち取った5人の王子は、故郷へ戻った。ドリタラーシュトラ王は国を二分して、一方を彼らに与えた。
 しかし、100人の王子たちは面白くない。またしても彼らは陰謀をめぐらし、5人の王子を失脚させ、国外へ追放した。13年間、誰にも正体を知られなければ帰国しても良い、という約束をして。5人の王子とドラウパディーはマツヤ国のヴィラータ王の宮廷で家来や召使いとして働き、追放の13年をどうにか乗り切った。ヴィラータ王には彼らの正体を明かし、帰国した。そして、100人の王子の長男ドゥルヨーダナに領土の返還を要求したが、彼はこれを拒否したので、両陣営の対決は避けられないものとなった。5人の王子には十分な物資や兵士が無かったので、アルジュナがドヴァーラカー国のクリシュナ王の下へ、戦争の援助をしてくれるよう頼みに行った。しかし、そこには100人の王子の長男ドゥルヨーダナの姿もあった。彼もまた、援軍を要請しに来ていたのである。そこで、クリシュナは提案した。クリシュナ本人とその配下の軍、どちらかを援軍として差し出すから、好きな方を選ぶが良い、と。ドゥルヨーダナは軍、アルジュナはクリシュナを選んだ。
 そして決戦の日、ハースティナプラ近郊クルクシェートラの地(クル平原)に、両陣営の大群が集結した。(ハルマゲドンの原型。)まさに大戦が始まろうとする時、5人の王子最高の戦士アルジュナは、突如戦意を喪失した。敵方に、恩ある人々の姿を見かけたからである。5人の王子と100人の王子共通の大伯父ビーシュマ、同じく両者共通の武術の師ドローナなどである。この2人は、心はむしろ5人の王子側にありながら、誓いに縛られて100人の王子側に立って戦わなければならなくなっていた。アルジュナの御者を務めていたクリシュナは、アルジュナに戦士の義務などを説き、戦意を回復させた。
 いよいよ戦いは始まり、死闘が続いた。轟音が鳴り響き、大地が震え、血みどろの戦いが18日間続いた。あまりにもの壮絶さに、クル族が全滅してしまうと危惧したビーシュマは、自らの死を持って戦いを止めさせようとした。彼は、両陣営の大叔父である。しかし、100人の王子の長男ドゥルヨーダナは聞き入れず、戦いは激しさを増していった。そして、ついに最終兵器を持ち出してきた。英雄アスワタマンは空飛ぶ戦車ヴィマナに乗って、空から敵に攻撃した。兵士は散り散りになり、最終兵器アグネアを打ち込んだ。その威力は凄まじく、炸裂した瞬間、灼熱の炎によって、一瞬にして全軍が消滅してしまった。これにより、100人の王子は全滅し、5人の王子とクリシュナが勝利して、戦いは終わった。

 ドリタラーシュトラと妻は森で隠居生活を始め、5人の王子の母も2人に従ったが、山火事に巻き込まれてこの世を去った。5人の王子は「神々」が住まうヒマラヤへ旅立ち、この世の役目を終えて、天界へ回帰した。


武器に関する記述-------------------------------------------------------------------------------------------

 マハーバーラタで使用された武器はアグネアと言い、「神々」ですら抵抗できない究極兵器とされている。その部分の記述はこうである。

“すべての敵に狙いを付けた恐怖の火の矢は、ついに天空に放たれた。煙を伴わない火を噴く矢である。敵は恐怖に駆られ、四方に逃げようとしたが間に合わず、ついにアグネアは敵を捉えて落下し始めた。そして、炸裂した瞬間、太陽を1万個集めたほどの未曾有の光が敵軍を呑み込み、煙と火が絡み合った光り輝く柱がそそり立った。そして、凄まじい風が巻き起こってすべての敵を襲った。太陽が揺れ動く中を鳥が逃げまどうが、生き残ることはできない。戦場は巨大な炎に包まれ、象たちは焼け焦げ、必死に逃げ道を探すが見つからない。異常な熱は大地を舐め尽くし、業火は血の雨となって降り注ぎ、すべての敵を木々のように焼き滅ぼした。そして、濃い闇が太陽を覆い、恐ろしい血のような暗雲が立ち上り、天を覆った。…”

“地に残されたのは、焼け焦げた死体と残骸だけである。鳥は白くなって転がっている。木々は灰になり、器は変形し、溶けてしまっている。食料は毒で食べられず、死体の髪と爪は抜け落ち、遺体は損傷が激しく、男女の見分けはつかない。運良く炉心から逃げ延びた兵士は、水で装備を洗った。…”

 あたかも見てきたような、極めて写実的な描写である。この記述を現代的に解釈すると、まさに原爆や水爆の爆発そのものである。
 次にラーマーヤナでは、ラーマ王子がシータを魔神から取り返す部分である。戦いに使用された天界の武器ブラマダッタは1つではなく、兵器群である。これらは現代兵器に匹敵するものであり、()内は対応すると思われる現代兵器である。

・アラクシャ(高速ロケット)、ヴァルシャナ(気象兵器)、ショーシャナ(気象兵器)、ソウマンヴァ(神経ガス)、シャブダヴェディトヴァ(音波探知ロケット)、カマルチ(巡航ミサイル)、ムルチナダーナ(感覚遮断兵器)、パイシャ・アストラ(地対地ミサイル)、トヴァシュトラ・アストラ(創造神の兵器、核兵器)、サムヴァルタ(時を左右する兵器)。

 中でも、創造神の兵器であるトヴァシュトラ・アストラは金属を溶かすほどの超高熱と凄まじい光で、30万もの兵士を焼き殺すとある。そのような兵器は、現代に於いても、核兵器以外にあり得ない。アストラには2種類あり、1つはナラ・アストラで、もう1つはナリカ・アストラである。
 ナラ・アストラは巨大な金属の筒に覆われ、封印された最終兵器であり、軍人が毎日点検しなければならないとされている。ナリカ・アストラは、兵士が携帯する先の割れた小型の円筒型タイプと、車輪で移動する大型タイプがある。さしずめ、ナラ・アストラは核弾頭であり、ナリカ・アストラは移動式小型核である。
 ラーマ王子はこれらの兵器により、勝利を収めた。その様子をラーマーヤナでは、“河川を変え、星を天から落とし、大地を海中から持ち上げ、あらゆる生物を殺した”とある。

 アストラはマハーバーラタにも登場しており、人類最終兵器とでも言うべきものがブラフマー・アストラである。創造神の名を冠しているように、これは天界の兵器であり、ラーマーヤナのトヴァシュトラ・アストラに相当するものである。また、アグネアと同じものであると思われる。雷神インドラがアルジュナに与える時、人間に対しては決して使用してはならないとされた、禁断の兵器である。この場面は、エンリルがニヌルタに注意を促した場面そのものである。しかし、卑劣な攻撃に怒ったアルジュナは、敵が放ったブラシマシルを迎撃するため、ついにブラフマー・アストラを放った。両方の兵器が炸裂した瞬間、天空に巨大な火の玉が出現し、全世界が閃光に巻き込まれ、轟音が響き渡り、無数の流星が地上に降り注いだ。と同時に爆風が吹き荒れ、世界は破滅寸前となった。しかし、英雄神クリシュナが立ち上がり、灼熱の爆風を消滅させ、人類は救われたのである。

 この話はいずれも骨子(こっし:要点)に於いて、主人公が策略により追放されて放浪した後、戦いに勝利して話は終わる。似たようなアヌンナキの話があるので、内容を照らし合わせる。

・セトの策略によりオシリスを殺されたイシスは、子ホルスを連れて逃げた。しかし、ホルスまで毒殺されたが、トート神の魔術によって復活した。成長したホルスはセトと戦い、ホルスはオシリスの玉座に返り咲いた。(エジプト神話。)

・サツとシャムガズの策略によりアサルを殺されたアスタは、子ホロンを連れて逃げた。ホロンは大叔父ギビルに引き取られ、復讐のために必要なことを指導された。時が満ちると、サツがホロンに挑戦状を叩きつけた。2人の戦いは、ホロンが負けそうになったが、ニンギシュジッダの援護により“猛火の柱”を打ち込み、ホロンは勝利した。(エジプト神話の真相。)

・ドゥムジをマルドゥクの策略によって失ったイナンナは、マルドゥクに戦いを挑んだ。ニヌルタが援護し、“嵐の鳥(空中戦闘機)”から敵の要塞に破滅的なビームを照射した。イシュクルは、空から灼熱の稲妻と粉砕する嵐で攻撃した。ニヌルタは居住地に毒入りミサイルを雨嵐のように降らせた。彼の“引き裂く武器”は、人々の感覚を奪い、川の水を運ぶ運河は血に染まった。イシュクルの光輝が、夜の闇を燃え立つ昼に変えた。そして、マルドゥクはとうとう、エクルの中に逃げ込んだ。ギビルは目に見えないシールドを張り巡らし、ネルガルはすべてお見通しの目を空の方へ上げた。向きをつけた角によって、“光輝の武器”でイナンナは隠れ家を攻撃した。祖父を守ろうとしたホロンは、その光輝で右目を負傷した。最終的に、マルドゥクはピラミッドの中に生きたまま葬られ、ニンギシュジッダによって救い出された後、追放された。(エジプト神話の真相。)

・エンリル一族との戦いに敗れたマルドゥクが追放されて放浪した後、全アヌンナキに君臨する神であると宣言したことが原因となり、両者の間に核戦争が勃発した。ニヌルタとネルガルが、マルドゥクに煽動された5人の王が支配する5つの都市を核攻撃した。その“死の灰”はマルドゥクが支配権を主張した土地バビリを除くシュメール全土を覆い、最終的にマルドゥクが主神として君臨した。

 ラーマーヤナとマハーバーラタはこれらの話が基となって創られた。ラーマーヤナはエジプト神話と真相に、マハーバーラタは核戦争に似ているが、必ずしも完全一致しているわけではなく、部分的に混合している。つまり、大筋に於いてアヌンナキの戦いについて描写されているものの、改竄されていることが解る。


ヴィマナ------------------------------------------------------------------------------------------------------

 ヴィマナとは古代インドの言葉で、自由に空を飛ぶ乗り物であり、現代の航空機のようなものや、UFOのようなものまで様々な形があった。さらに大気圏または、大気圏外への航行が可能なヴィマナもあった。
 ヴィマナは空中を国から国へ、島から島へ、世界から世界へ飛行して移動できる飛行船であり、パイロットが操縦に精通していなければならない。機体は金属構造であり、熱吸収力の強い特別の金属のヒヒイロカネしか適さない。ヴィマナにはレーダー探知、ジグザグ飛行、翼の展開と収縮、敵機内透視、煙幕、カモフラージュ、太陽光線利用等の能力が備えられており、その用途によって三角形デルタ翼型、円盤型など、数十種類のヴィマナがあった。また通常は、アシュヴィンと呼ばれる二人のパイロットにより動かされていた。


■紀元前158年

 孝元帝滅後、子息の開化帝(九代天皇)が、大和のワケグラ王に即位するや倭朝は、開化帝の弟・大毘彦を奥州(おうしゅう)ミヤサワに派遣し、日高見国(ひたかみのくに)タカグラの王に即位させようとしたが、荒吐族(あらばきぞく)の長老会議がこれを否決し、道嶋のワケグラ王に配することに決めた。
 しかしこの処遇を不服とした倭に反感が起こり、また奥州の荒吐族(あらばきぞく)も大分裂して争うことになった。

東日流外三郡誌

■紀元前150年頃

 ギリシャでこの頃に沈んだ水深40mの難破船から、青銅製の歯車4個が発見された。これはアンティキティラの歯車と呼ばれ、大きな歯車は直径12.7cmで、一部に古代ギリシャ文字で暦に関する記述や星座名が刻まれている。自動回転式の天球儀の歯車で、X線で内部構造を調査すると幾重にも重なった32枚の歯車が内部で発見された。また1575年にドイツで作られた天文時計で初めて使用された差動歯車機構という技術も使われていた。その技術とは回転の組み合わせによって回転数や回転速度を変えられる仕組みだが、回転比を解析した結果、天動説における「地球を中心とした太陽と月の公転比」である「19:235」と一致した。またこの歯車は古代ギリシャのオリンピア競技の実施時期と場所を決める装置でもあった。他にも海底からは古代の英雄、哲学者、雄牛、楽器などを模した銅像や大理石の彫刻、陶器類、ガラス工芸品、装飾品、硬貨などが発見された。


 またこの頃、中国では劉邦(りゅうほう)の前漢(ぜんかん)が中国を統一していた。都は長安にあり、官制や法律のほとんどを秦制にならい、郡国制をとっていた。さらに中国の歴史書物には、日本を表す倭や倭人が登場し始めていた。この頃から倭人が定期的に漢の植民地の楽浪郡(らくろうぐん)を介して漢王朝へ貢ぎ物を捧げており、多数の政治集団を形成していた。

倭(わ)という言葉と円形心理------------------------------------------------------------------------------

 直線が表すものは相対的な世界であり、円形は絶対的な世界である。直線的なシンボルも本来、人には必要な要素であり、直線は理知的な意識や、分析的な意識を形成する。そしてそれは常に、円に取り込まれるときそれが創造性と結びつく。自然界には、人間が考えるような直線は存在しない。水平の代表のような地球の水平線でさえも、実際には巨大な円の一部であるように、そこにあるのは常にさまざまな高低であり、差異であり、究極的な違いである。そこには真の調和と創造があり、それが人間が「愛」と呼ぶ根本のエネルギーであり、尊敬である。現代人は自然界のすべてに存在するこの構造を無視しており、意識的に作り出した直線に固執することで、本質的に存在する人と人との関係を崩壊させている。
 現代人には理解しがたいことだが、さまざまな高低や差異がなければ真の愛はあり得ないという認識が、シュメールの神官たちの基本的概念の一つであった。現代人はこの点で大きな誤りを犯しており、つまりすべてを画一的に並べようとする現代人の平等感は、自然の法則に反する概念であることに気づいていない。現代人はそれによって、真の愛というものを見失っている。この問題を超えることができない限り、現在の不調和を解決することはできない。

 円に集まるとき、一人一人が向かう方向(角度)はすべて異なっている。それに対し直線的に集まるときには、人々はすべて同一方向を向く。こうした画一的な環境が生んだ価値観こそが、現代の個人主義的平等観である。それは共感の感覚から人と人を感じるのではなく、直線的に同一ラインの上に並べようとする平等感覚で、そこには不自然さがある。そしてその反動が、自我そのものである競争意識を生み出している。現代の平等感覚と競争心は、直線的概念が形成する裏表の関係にある。
 人間の祖先は遠い昔、封建主義とはまったく異質の、宇宙本来の原理に基づいた人間観を持っていた。現代人の持つ平等観は、人と人との間に摩擦を生み出す不自然な人間観といえる。たとえばスポーツのバドミントンを例にとると、まずお互いのコートの広さなどの条件がすべて平等であることが前提になる。だが日本の古来の文化がもつ「羽根つき」では、平等条件は設定されない。そしてこの違いが生み出す方向性は、前者は競争であり、後者は二人でいかに長くつけるかという調和と共同の動きである。

 太古の人間は、こうした実に理想的で宇宙的な人間観によって世界を形作っていたのであり、それゆえにその子孫でもあるシュメール人は、その本質を踏襲しようとしていた。
 たしかに日本には古来、師を尊び、目上の人を尊ぶ習慣があった。そして世界的にもまれに見る道徳心が養われていたが、今やそれは過去のものとなってしまった。家に鍵をかけることを必要としなかった長い歴史は、そうして養われた精神性の何よりも確かなしるしでもあった。日本にも平等思想が広まり、鍵の必要な社会になり、道徳的にも社会は荒廃した。日本に本来ある上下意識とは、現代人が考えるような封建的で権力的なものではなくて、本当は宇宙的な人間観に支えられたものであった。
 すべての人々の方向性が同じライン上に並ぶ直線的関係と比べると、すべての方向が異なる円の次元では、それぞれが独自の個性を有している。それゆえに、一人一人の役割がそのまま守られるために、人と同じになろうとする画一性はなく、その画一性が生み出す比較や競争や摩擦も発生しない。今日、学校では対面して物事を教わるが、縄文の人々は現代人がイメージするような、教えるという文化を持たなかった。直線的に同じ方向を向く人々に対して、一人の人間が何かを教えるという形は、教える内容にかかわらず、その形態が二元的な意識構造を潜在意識に形作る。それが生み出すものとは、権威者にへりくだることで関係を築こうとする意識であり、もう一つは、そこに疑問が生まれることで権威者に対抗しようとする意識である。これらが直線心理というもので、自然界には存在しない直線が生み出す心理なのである。
 日本人の祖先の中には、常に円形心理が形成されていた。たとえば祭りの場では、同じように円の中央を向く年長者たちの行動や儀礼のあり方は、それを見たり、感じたりする子供たちや若者たちに模倣され、学ばれた。そこでは人との共感性が高められ、人間を深くとらえる直感が育てられる。円形心理は、その本質的な絶対心理であるところからきており、それは他人への依存性を完全に超えるものであるがゆえに、他人に対する真の共感性を生み出す。現代人の「教える」という考えそのものが、直線的思考であり、概念なのである。
 現代の日本は、すべてが直線の世界になってしまっている。しかし日本の文化の中には、その潜在的な宇宙観が残っている。たとえば日本の国旗には、現代人の潜在心理と天性が象徴的に投影されている。現在の国々が選択しているほとんどの国旗には、その民族の潜在意識的なすべてが象徴的に表現されている。男性的極性の強い影響下にあるイギリスやアメリカの国旗は、すべてが直線でできている。イギリスの国旗が直線のデザインであることは一目瞭然であるが、アメリカの国旗もそうである。本来の星は円形であるのに、その星型さえが直線で描かれており、直線以外存在しない。

 国旗のデザインは近年になって行なわれたものであるが、こうしたものにも今の人間の中に、潜在的なシンボリズムが働いていることを示している。日本人の意識に円形の象徴が今も強く残っている要因は二つある。一つは、日本列島の大地が地球上でもっとも母性的なエネルギーを持つ領域であり、それが円的なエネルギーとして表出されているからである。そしてもう一つは、それによって歴史的に円的シンボルを尊重していた歴史が、他民族より色濃く長いことである。
 そうしたことのすべてが国旗に現れており、日本の国旗は日本人の天命を象徴している。それだけではなく、国旗と同じく、日本の国名にもそれは象徴的に刻まれている。日本の最古の国名を思い出すと、それはかつて、倭(わ)の国と呼ばれていた。やまと言葉の「わ」は円の概念そのものである。倭という漢字は当て字であるから、この漢字には意味はない。そのほかにも訓読みの「わ」に該当する漢字は輪・環があるが、いずれも円概念である。この言葉こそ、宇宙的象徴を示す聖なる言葉であった。この日本のやまと言葉の「わ」は、円形象徴を示す人類最古の音の一つであり、現在でも円形を意味する「輪(わ)」の概念はそこからきている。円という言葉は大陸から伝わった漢語であるが、日本では「円」という言葉が伝わる前から、円形や円形の次元を「わ」という聖なる音で表していた。太古の日本人の認識では、宇宙の原点は「あ」であり、それが形として現れたものが「わ」であった。そのゆえに、家も村々も円形に形作られて配置され、国全体が円形に配置されたのである。


■紀元前97年頃

 弟を奥州のタカグラ王に即位させることに失敗した開化帝は、責任をとって倭のワケグラ王の座を離れ、日向族、出雲族、南海道の狼族の離反を止めようと画策(かくさく)したが、その時カラクニ皇子(開化天皇の子息・御間城入彦五十瓊殖尊"みまきいりびこいにえのみこと")が出て来て開化帝を殺害し、自らが崇神帝(十代天皇)として即位した。

東日流外三郡誌

■紀元前96年

 東日流(つがる)の荒吐族(あらばきぞく)が、奥州(おうしゅう)の倭国領へ侵領、領地拡大をはかった。崇神帝は安倍川別命(あべかわわけのみこと)に日高見国(ひたかみのくに)遠征を命じた。その命に従って川別命(わけのみこと)は奥州に赴いたが、東北の護りは固く、遂に皇軍による侵攻はならなかった。
 しかし崇神帝は、これにこりることなくその後もしばしば日高見国(ひたかみのくに)に遣使して、倭朝を一朝に併合しようと勧誘した。
 時の荒吐族(あらばきぞく)王、津刈丸十六世は、この誘いを一度受け容れたが、長老会議がこれを否決した。
 紀元前96年、津刈丸十六世は大挙して倭国の大足彦(安倍川別命"あべかわわけのみこと")を攻めた。攻防は長引いたが勝負は決せず、またも和睦することとなった。和睦の条件は、荒吐族(あらばきぞく)の国の領界を大津の湖辺までとし、西界は若狭より近江湖まで、そこより東海の尾張以北を荒吐族(あらばきぞく)領とするというものだったが、この条件を倭が受け容れたので津刈丸は軍を退いた。
 こうして荒吐族(あらばきぞく)が倭国を攻めることはなくなったが、倭に残された駐兵は故郷の奥州を思うあまり、倭王に奥州も一統(いっとう)されるようにと懇願した。

東日流外三郡誌

■紀元前133年

 バビロニアの祭司らは自分たちの神々を拝み続けた。そして紀元前168年に、ローマが世界制覇を成し遂げた頃、ローマに侵入してそこから世界の支配権を奪い返すというのが、彼らの計画であった。紀元前133年に、ペルガモン最後の王が、ペルガモンすなわちカルデア人の祭司制をローマに譲り渡し、彼らはローマにその神々と祭壇の石を持ち込んだのであった。彼らの14神、サルトゥヌスはカルデアの象形文字表記法で数字を足してゆくと、「666」になる。

 ローマに於いてもこれらの祭司たちは、その数字をずっと身に着けてきた。下の図の魔よけの写真は、1910年にベルリンで撮られたものである。これらの魔よけの全面には、1~36までの数字が鏤(ちりば)められている。黄道帯の36神である。各列の数字を足すと、どれも「111」になる。これらを全て足してみると「666」。隠された神秘の神の数字である。バビロンの宗教があまりにも普及し、一般化してしまったので、ローマは新バビロンと呼ばれるようになった。ギボンズ枢機卿の著書、「父祖たちの信仰」に、「今ではバビロニアの祭司らの地へ、すなわち、太陽のカルトはローマから再び世界を支配した」と書かれているほどである。つまり悪魔崇拝を行うバビロニアのイルミナティが、ローマ帝国を支配していった。


■紀元前52年

ユリウス・カエサルのガリア戦記とドルイド----------------------------------------------------------

 ヨーロッパに紀元前1200年から発展してきたドルイドのケルト文化が、紀元前52年頃にローマのユリウス・カエサルによって征服され、ローマ属州となる。カエサル(紀元前100年 - 紀元前44年)はこのガリア戦争の一連の経緯を記した「ガリア戦記」に、現在のフランス・ベルギー・スイスおよびオランダとドイツの一部などにわたるガリア全土のケルト社会が、ドルイド僧(悪魔崇拝を行う)とどのような関係であったかを記している。ドルイドは現代においてもルシファーを召喚し、イルミナティのために働いている。


「ガリア人は、自分たちはみな父なる神ディスの子孫だと吹聴し、そのことは、ドルイド僧によって、代々言い伝えられてきたと主張する。だからこそ彼らは、時間の経過を、昼の数ではなく夜の数によって計算する・・・・・・。最初に夜がきて、その後に昼が続くという原則を守り通しているのだ」
ユリウス・カエサル著『ガリア戦記』題6章18節

 ユリウス・カエサルやローマの博物学者プリニウスといった人々の残した文献には、ドルイド僧がブリタニア(イギリス)やガリア地方(主に現在のフランスを指す)に住んでいたことや、ほかならぬ聖職者であったことなどが紹介されていた。


 ユリウス・カエサルは、人身御供(ひとみごくう)の風習について触れ、プリウスの著書では「彼らが森の中で聖なる儀式をつかさどり、ヤドリギを集めていた」ことなどが記されている。
 ユリウス・カエサルの記述によると、ガリア社会で「多少なりともその価値が認められて、尊重されているたった二つの階層」にあたるのが「エクイテス(騎士)」と「ドルイデス(ドルイド僧)」で、「それより下の階層に属す人々は、奴隷も同然のプレブス(一般庶民)とみなされて、その大半が自分の土地を持っていなかった。
 またカエサルは、ドルイド僧の主な役割として、宗教儀式を取りしきること、紛争が起こったときに裁定や調停を行うこと、そして教義を受け継ぎながら、人々を教え導いていくことの3つをあげている。
 カエサル以前の文献にも「バルド(吟遊詩人)」や「ウァテス(いけにえと占いの儀式をつかさどる予言者)」と呼ばれる聖職者が出てくる。カエサルの記述では、いけにえと占いの儀式もドルイド僧が管轄していたとなっており、動物や人間のいけにえに捧げて、その断末魔の様子や内臓の状態から未来を予言するいけにえと占いの儀式が、ドルイド僧の重要な役目になっていた。他にもカエサルの記述には次のようにある。

「ドルイド僧がとりわけ重要視しているのが、魂は決して滅びることなく、死後一つの肉体から次の肉体へ移るという教義である・・・・・・。さらに彼らは天体とその運行のしくみをはじめ、この世界と大地の大きさや、万物の本質、不滅の神々のもつ力と権能についても、長い時間をかけて解説している」『ガリア戦記』第6巻14節より

「ドルイドの社会的影響力はかなり大きかったようである。争い事の調停あるいは裁決をし、必要があれば当事者に賠償や罰金を課した。ドルイドの裁決を不服とした者は、社会的地位や信用を失った。このほか、ドルイドは兵役や納税を免除される特権的地位にあった。」
「ドルイド僧は最大の敬意を払われ、決定権はすべて彼らが握っていた。命令を下すのは彼らである。すばらしい宮殿に住み、黄金色の玉座に座っている王たちは、彼らの召使にすぎなかった。」ドルイド僧は言うなれば、ケルト人の“影の支配者”だったのである。
「彼らは読み書きができたにもかかわらず、自分たちの教えを書き留めることを禁じていた」その理由は「自分たちの教義が一般庶民にまで知られることを、ドルイド僧たちが嫌っていたせいではないか」と推測している。
  ただでさえ裁きの場で裁定者や調停者の役目を果たしているところへ、いけにえの儀式や祭儀を、ごく限られた人間にしか教えないようにすれば、ガリア社会に占める彼らの重要な地位も、揺るぎないものとなっただろう。ドルイド僧が森の中で動物をいけにえに捧げ、治療の儀式を行っていたことは、プリニウスやメラといった後代の著述家が、ドルイド僧に弾圧が加えられた後の西暦1世紀になってから著(あらわ)した書の中で紹介されている。

 マンリー・ホールの『古代の密儀』によると、ドルイド教の秘儀では、太陽神(おそらくアヌンナキのウツ)の死を象徴して実際に棺の中に埋葬されたり、また、最も難しい試練である屋根のない小船で海に流される儀式では、多くの人が命を失ったという。

 ガリアがローマの支配下に入ってから100年ほどたった時期、プリニウスは、
「ドルイドという名称が、カシの木を意味するギリシア語のドルスから派生したのではないか」と考えた。
「ガリアの魔術師ドルイド僧が管轄するものの中でも、ヤドリギとその宿主にあたるカシの木ほど神聖なものはない。彼らは、それらの木を集めるためにカシの森を選ぶと、あとは枝が手に入るまで、一切の儀式を行わずにいる。ヤドリギは月例の6日目に集めるのがよいとされる。樹木の下では宴席が用意され、2頭の白い牡牛(おうし)が連れてこられる。白衣をまとった司祭が黄金のかまどでヤドリギを切り落とすと、下にいる人々が白い厚手の布地でそれを受け止める。それから牡牛(おうし)が殺される。ヤドリギは万能薬として知られている。不妊の動物に子供をたくさん授けてくれると信じられ、あらゆる種類の毒物に効く解毒剤としても使われているのだ。」『博物誌』第16巻95節

『ドルイド僧 不可思議な聖職者たち』 A・P・フィッツパトリック 著/五十嵐洋子 訳
etc.

■紀元前44年頃

 イルミナティのローマの皇帝たちは、彼らの時世の間に始まった新しいニビルの運行周期のために、神殿を作っていた。共和政ローマ期の政治家、軍人であり、文筆家のユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)が権力の座にのし上がって行く過程には、ニビルの作用を表わす兆候が多く見られる。彼はジュピター(気象現象を司るエンリル)に仕えるイルミナティの司祭として神々の系統を継ぐ者と称し、ヘブライ暦はやがて終わり、新しい暦が始まると宣言した。(ヘブライ暦は紀元前3760年に始まったユダヤ暦のこと。ニビルが太陽系に進入してきた時期にあたる。)「こよみ」の法則は、時間との関連において天体の配列にアクセスするためのコードであり、ローマ人はそれを支配しようと決めた。
 ユリウス・カエサルはローマの統治権を手にするや、月の周期にもとづくエトルリアの暦を廃止し、太陽の周期にもとづくユリウス暦を創設した。ジュピター(エンリル)を祀る神殿の司祭長だった彼は、新しい太陽暦に自分の名前をつけ、新たな選民はローマ人であると発表した。こうしてローマの皇帝はヘブライ暦を廃し、ニビル人の地球支配を準備していた。
 しかし紀元前44年にマルクス・ブルトゥスやカッシウスらによって、カエサルが暗殺された。この頃、ニビルの軌道が再び地球から見える地点に達した。そしてカエサルの魂はニビルに昇っていったといわれた。
 それまでローマ人もユダヤ人も、ニビル人が物理的に地球に降り立つのを待ちうけ、到着する場所として土地や神殿、社交界などを用意していた。ニビルからやってくる神々を愛し、もてなすために古代パレスチナに実在した女性サロメ、クレオパトラ、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)の母アウレリアなど、とりどりの巫女たちまで用意されていた。これらすべてが、ニビルからの偉大な神々の惑星の太陽系到着にそなえて計画されたのである。


■紀元前29年頃

 垂仁天皇(すいにんてんのう)の時代、野見宿禰(のみのすくね)が初めて垂仁天皇の前で相撲をとった。場所は奈良県桜井市の相撲神社。つまり紀元前2600年頃にメソポタミアで天皇ヤコブが天使と行った相撲が、十支族の一団と共に日本へやってきて出雲族となり、その一族の野見宿禰が日本で相撲を初めて行った。

■紀元前24年

 狭穂彦(さほひこ)が奥州二王と謀り、大和を掌握しようとしたが敗れ、31年、再挙して大和へ侵領、それによって天皇空位が39年間に及んだ。

東日流外三郡誌

■紀元前20年頃

 イルミナティのローマ帝国が台頭し、ローマ帝国から派遣されたエドム人(非ユダヤ人)のヘロデがユダヤの王として君臨すると、選民としての誇り高いユダヤ人たちの多くは、統治者であるローマ帝国に従おうとしなかった。ユダヤ人の間でもローマ支持者と不支持者との争いが絶えず、「スカイリ(短剣党員)」という過激な集団もはびこった。
 また現代まで続く世界統一政府による地球レベルでの全体主義体制を目指すNEW WORLD ORDER(新世界秩序)が計画されたのも、初代ローマ帝国の時代であった。

 共和政ローマ末期からローマ帝国初期に、ユダヤ地区をヘロデ朝として統治したユダヤ人のヘロデ王によって、イルミナティのソロモン王の建設したソロモン神殿があった場所に完全改築に近い形で、第二のエルサレム神殿が建てられる。ユダヤ教の礼拝の中心地で、その神殿にあるヘロデ門に天皇家の菊花紋がある。この大元はアヌンナキのイナンナの十六花弁ロゼッタである。

 


■紀元前17年頃

 紀元前44年にユリウス・カエサルが暗殺されてまもなく、3600年周期で地球に接近するニビルが夜空に出現したので、カエサルの魂はニビルに昇っていったのだといわれたが、紀元前17年にニビルの軌道が再び地球から見える地点に達したときは、アウグストゥス(オクタヴィアヌス)が王座にあり、人々は、「カエサルの魂がもどってきた」と聞かされた。カエサルが暗殺されたのは紀元前44年3月15日で、大彗星がローマで観察されたのは5月12日であった。
 ローマ人はニビルを象徴する8角星を刻んだ硬貨を鋳造し、そこにはニビルの帰還を讃える言葉「DIVVS IVLIVS」(神聖なるジュリアス)が記されている。3600年前のシュメール人と同じように、ローマ人はこのとき地球の支配権を主張したが、その事実はイルミナティのローマカトリック教会によって注意深く隠されてきた。


 ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)はアヌンナキの血を濃く受け継ぐ人間だが、カエサルの末裔の一派が、中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇ったドイツ系の貴族のハプスブルク家となっていく。1918年にそのハプスブルク帝国は崩壊し、1996年には子孫のカール・ハプスブルク=ロートリンゲンがオーストリアで欧州議会議員に選ばれる。

■紀元前12年頃

イエスの誕生-------------------------------------------------------------------------------------------------

 十支族が中東から消え、バビロニア帝国が崩壊し、ペルシャ、シリアの支配を受けた後、古代ローマ帝国領となっていた時代のこと。神々アヌンナキは滅多に姿を現すこと無く、人心は腐敗し、エルサレムの神殿では男娼や神殿売春、金貸しが横行していた。ちょうどその頃、長楕円軌道を運行するニビルが、地球に接近していた。それにより太陽と地球の波動が乱れ、人々の心に大きな影響を及ぼしていたのである。この時の接近は、大洪水を引き起こすほどのものではないと予測計算されていたが、かなりの影響があることは確かだった。

 これに備えさせたのは、大洪水の時と同様、エンキである。アダパとティティの誕生は、エンキが直接地球人の女性と交わった。また、大洪水前には、エンキが地球人女性と交わってジウスドラが生まれ、彼が新たな人類の祖となった。つまり、人類にとって最も重要な局面に関わる人物は、エンキが地球人女性と直接交わることよって誕生したので、それと同様な方法が採られた。今回、太陽神ウツと地球人女性の間に生まれた女性マリアとエンキは交わった。

 ある時、沐浴していたマリアに近付いたエンキはマリアを誘った。神に仕える高位の神官として。言葉巧みなエンキにマリアは惹かれ、エンキは彼女の腰を抱き寄せ、子宮に精液を注いだ。
 エンキは高官のイシムドに命じ、マリアの様子を伺わせた。懐妊したことが解ると、エンキに報告した。それを知ったエンキはマリアの家に行き、ヨセフのいない時を見計らって、壁越しに伝えた。
「私は大天使ガブリエルである。お前はヨセフの子ではなく、神の子を身籠った。しかし、お前はその子をヨセフの子として育てるのだ!生まれた子には、インマヌエルと名付けよ!“神は我らと共に”という意味である。今後、如何なる困難があろうと、必ず神がお護りするだろう」

 マリアがこの状況をヨセフに伝えると、ヨセフは一旦激怒したものの、神の意志には逆らえないので、2人で神の子を育てることとした。
 しばらくして男児が誕生した。その時、天空にニビルが輝き、後にベツレヘムの星と言われた。エンキ、ウツ、イナンナが祝福し、その祝いの品物(黄金、乳香、没薬)を3人の使者がマリアの下へ届けた。


 歴史は繰り返し、ここでも、“起こったことは、また発生した”のである。よって、本来の教えが曲解され、神殿がカネや性的退廃で腐敗され、それが最高点に達した時、またもやエンキが地球人女性と交わって、危機を打開する人物を生み出した。それが、イエスである。故に、“父なる神”はエンキである。確かに、ジウスドラ以来、エンキは姿を見せなかったので、御父の姿は見えないというカバラの説も納得できる。イエスの霊体がヤハウェで、受肉した存在がイエスなどではない。
 また、イエスは自らを“人の子”と言っており、父については“父なる神”と言っている。確かに、父がエンキならば、エンキは“父なる神”である。では、母親も神々の誰かだとすると“神の子”となり、“人の子”にはならない。よって、マリアは明らかに地球人女性である。
 エンキが父親なら、エンキの息子マルドゥクはアバエルに牧羊を教え、初物の祝祭の際、エンキはアバエルの育てた子羊を両手に掲げ、マルドゥクとアバエルを祝福した。それに、マルドゥクの腹違いの弟ドゥムジは、ニビルから羊を持ち帰って来た。だから、イエスは“神の子羊”なのである。
 そして、イエスは復活後40日で昇天した。40はエンキを象徴する数字なので、エンキが直接関わっていることを暗示する。

 マリアの処女懐胎について、マタイ福音書では“胎の子は聖霊によって宿った”とあり、ルカ福音書では“聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる”とある。聖霊や天使というのも、アヌンナキを象徴したものである。
 そうすると、マリアの子はアヌンナキによって宿ったので、エンキがマリアと直接交わることにより、イエスが宿ったことを象徴していることになる。ル・マクの妻バタナシュがエンキによってジウスドラを身籠ったように。バタナシュはル・マクに真相は告げなかったが、マリアの場合、“聖霊によるお告げ”の形式を採っている。つまり、マリアはヨセフと交わらずしてイエスを懐胎したのだから、処女懐胎という概念も納得できる。俗説で言われているような、体外受精でイエスが誕生したことは明らかな間違いである。その聖霊は大天使ガブリエルである、というのが通説となっている。

 ルカ福音書では洗礼者ヨハネの誕生を予告し、イエスが誕生した時に羊飼いに知らせたのもガブリエルで、マタイ福音書ではヘロデが嬰児(えいじ)殺害を命じた時、ヨセフに警告してエジプトに逃避させたのもガブリエルなので、ガブリエルは言わば“お告げの天使”である。ガブリエルは智天使(ちてんし)の長、第一天の支配者、月の天使、水瓶座の天使などの肩書きを持つ。智の根源はエンキで、エンキは智天使の長で“地球の主”なので第一天の支配者と見なすことができる。そして、エンキは月の不思議に魅せられ、マルドゥクと共に月に滞在して動きを観測したから、月の天使と見なすことができる。それに、水の神エアでもあり、水を吹き出している水瓶と共にある姿が描かれているので、水瓶座の天使と見なすことができる。つまり、ガブリエルはエンキの象徴ということである。

 イエスの母マリアがウツの子だということについてまずは名前だが、マリ、マリアというのはイナンナの象徴だった。聖書の語源“ビュブロス”の話で述べた。もう1つは血統である。イエスは人類の贖罪(しょくざい)を背負って十字架に掛けられたので、言わば人類にとっての光。光の要素は太陽神由来で、この場合は中南米ではなく中東なので、光り輝く蛇のニンギシュジッダではなく、太陽神ウツの要素である。ウツと地球人女性との間にできた子メシュキアガシェルはウヌグ・キで最初の王となり、以下、エンメルカル→バンダ→ギルガメッシュと王位が続いた。つまり、ウツの血統はエンキ以外の王の血統であり、エンキが直接交わる地球人女性として適している。ウツの血統も王の血統だった。

 他に手掛かりとなるのは、十二支族の祖ユダである。旧約では、ヘブライの王はユダの末裔であると言われている。“ユダは獅子の子。彼は雄獅子のようにうずくまり、雌獅子のように身を伏せる。王笏(おうしゃく)はユダから離れず、統治の杖は足の間から離れない。”
 ウツは、シュメールの楔形文字で "UD"と書ける。これは“輝く”とか“白い”という意味だが、“ユダ”とも読める。つまり、ユダ族の王イエスは太陽神ウツが大きく関わっていることを暗示する。
 そして、ウツはのこぎりを持って山を切り開く神としても描写されている。のこぎりは大工道具なので、それがヨセフを大工にすることによって反映されている。
 また、ユダは獅子に関わるが、イナンナは獅子を従えているので、ここでもイエスにイナンナが投影されている。イナンナとウツは双子なので、象徴的に同一と見なせる。

 イエスは慈悲の存在だが、偶像崇拝は徹底的に禁止し、正義=律法を守らせた。カバラではヤハウェ=イエスで、ヤハウェが律法を遵守させた。シッパールから正義の法を人類に授けて遵守させたのはウツなので、ここにもウツの象徴が色濃くイエスに投影されている。そして、聖書で最も重要な聖地は神殿があったエルサレムで、ウツはシッパール、“天の二輪戦車の場所”と“地球の臍(へそ)”で“宇宙飛行管制センター”のエルサレム司令官だったので、ウツは聖地エルサレムを直接象徴できる神である。
 更に、いと高き神の祭司であったサレム=エルサレムの王メルキゼデクは、パンとワインを持って来てアブラムを祝福したが、彼は太陽神ウツ自身あるいはウツが任命した王で、“パンとワインによる祝福”がイエスの象徴そのものになっている。様々な所に、カバラの鍵が隠されていた。

 さらにイナンナはウツと双子で、両者の法的血縁関係は二親等だが、象徴的には同一である。しかし、二卵性の双子なので完全に同一というわけではなく、同一よりは血縁が薄く、普通の兄弟よりは血縁が濃いと見なせ、一親等的扱いが可能である。そうすると、ウツに娘がいたとした場合、その娘はウツから見て一親等なので、血縁的にウツから見たイナンナとほぼ同じ扱いができるということである。そういった様々な面から、イナンナが原型の“マリア”という名前にすることで、ウツの娘であることを暗示している。
 イエスは、エンキ系とエンリル系の統一の証でもあるので、イエスは光と平和の象徴である。2つの言葉、インマヌ(Immanu:我らと共にいる)とエル(El:神)を組み合わせた名前である。この統一は本来、イナンナとドゥムジで果たされるはずだった。それを、マルドゥクが邪魔をし、よってエンキはマルドゥクのしでかした人類への罪滅ぼしとして、また神々が核戦争を引き起こした罪滅ぼしとして、もう1人の息子イエスに犠牲となってもらった。深いカルマである。
 イエス誕生の時には天空に輝くほどベツレヘムの星(ニビル)が接近し、エンキが遣わした使者が東方の三博士とされた。

 つまりイエス・キリストは存在したが、一般的に伝わっている話は、部分的に創作されたもの、もしくは改竄(かいざん)されたものである。


東方の三博士-------------------------------------------------------------------------------------------------

 東方の三博士とは、ドゥムジを祝福するイナンナ、エンキ、ニンギシュジッダの象徴である。イエス誕生時、東方の三博士が祝福のために黄金、没薬、乳香を持ってきた。黄金はニビルの象徴であり、大神アヌの象徴でもある。没薬はアドニスに象徴されるドゥムジを表す。乳香はフェニックスとナツメヤシに象徴されるイナンナを表す。


■紀元前4年頃

 ヘロデ王の石棺には、天皇家の菊花紋があった。つまりイナンナの十六花弁ロゼッタである。

■西暦0年頃

キリスト教に入り込んだ者--------------------------------------------------------------------------------

 使徒たちの時代、サマリアに於いてシモン・マグスが登場する。彼がキリスト教に改宗することはなかった。彼はオカルト宗教の達人、またヘルメスの神秘主義の継承者で、街全体を支配していた。

 彼はローマに向かい、そこで人々から神と信じられた。ところが彼は民衆に自分はイエス・キリストであると説いていたのである。その地で彼を祀る巨大な宮が建てられた。彼は分けられた蛇を意味するバチカンという場所に礼拝本部を設立した。シモン・マグスは死去した後、ローマにあるそのバチカンの丘に埋葬された。この背教したキリスト教運動から分離していった他の人々は、自分たちのカルトを設立した。この大運動に加わった人々はグノーシス派と呼ばれ、オカルト界をリードするあるグループは、クリスチャンと名乗りながら、占星術から来た異教の神々を反映する紋章を持っていた。

 1945年、エジプトの高地にあるナグハマディーという小さな町で、洞窟の中からたくさんの書物が発見された。これらは神聖な書物で、多くの使徒の名が示されているようであった。しかし、本当に誰がこれらの書物を書いたのか。使徒たちが決して説かなかったオカルトの教えや心霊術の教えがキリスト教福音の中に織り込まれていて、あたかもそれらが本当に神の霊感を受けているかのようにふれ込んでいることが、研究により明らかになった。このグノーシス運動、すなわち、キリスト教運動の偽物は、使徒たちから受け継いだ多くの根本的な教理を低下させ、破壊する結果となった。

 中でも著名なのは、人が自分たちの知的哲学的見解に合うよう聖句を寓話(ぐうわ)化し、神話化したことであった。これらの人々は人間の心の期待部分、あるいは人間の霊魂だけが贖罪(しょくざい)可能であると考えた。これは純粋な異教の贖(あがな)いに関する原則である。彼らは終末論の概念などを不要なものとし、実存主義と経験に重きを置いた。悟りの声や恍惚(こうこつ)説法や異言といった異教の概念を教会に持ち込んだのはこういった人々であった。彼らは人が律法に服従するのは不可能である故に、旧約の律法は悪法であり、破壊されねばならないと主張して、服従という概念を弱めた。こうして彼らはキリスト教会に、反律法主義、道徳律不要論を生み出した。神の奇跡が何か特別なものであるとは、彼らは信じなかった。誰でも奇跡を行うことができると、彼らは説いた。彼らは堕落した悪天使の概念を弱めた。神学は哲学の体系となり、聖書の重要な言葉は、ただ霊的に解釈され片づけられた。唯一の純粋の光は神であるから、イエスは単に光であった。そして肉体を有する者は何であれそれだけで悪であると彼らは主張した。従って悪である人間が律法に服従することはできず、人はただ光を知るだけで救われるのだと。イエスは人間のとは異なった肉体を持っていたというグノーシス派的誤りが全キリスト教会の様相を変えてしまった。ヨハネはそれを反キリストの精神と呼んだ。


キリスト教と異教の結合-----------------------------------------------------------------------------------

 このような働きの代表的人物がジェロームやアウグスティヌス(354年-430年)であった。アウグスティヌスは10年間グノーシス派の一員であった。

 彼は人間の肉体は、神の律法に服従できないと考えた。こうして彼は原罪の教えを発展させることによって、自らのグノーシス派的概念をキリスト教の教えと結合させたのであった。この見解によると、アダムは罪責(ざいせき)と罪の汚れをその子孫に受け継がせ、そのため生まれてくる子は全て罪人であり、故に、神の助けをもってしても、神の律法に服従することはできないということになるのである。この教えが発展して、マリヤの無原罪懐妊といった概念ができ上がった。またプロテスタント教会では、イエスが服従できたのは、奇跡的誕生によって、原罪を免れたからであるということになった。


■18年頃

イエスの磔刑と復活----------------------------------------------------------------------------------------

 イエスは若い頃、エンキの指示によってニンギシュジッダから知恵を授けられた。そして、時が熟すと、エンキはイエスに語った。「お前はこれから苦難を背負う。しかし、人々にあるべき姿を説かなければならない。最終的には裏切りにあい、十字架に掛けられることになろう。それでも、お前は役目を果たさなければならない!人類の将来のために…。十字架に掛けられた後は、私の使者が救いに行くであろう」
 イエスは哀しくなったが、それでも神であり、父であるエンキの言葉は絶対だった。

 30歳を過ぎたころエルサレムでイエスは人々の前に姿を現し、人としてあるべき姿を説いた。
 その時すでに彼は、自分の民族に教え始める準備ができていた。彼には12人の弟子たちがいた。彼らはその性格や、イエスとのカルマ的なつながりや、そしてそれぞれが自分の人生で果たすことになる役割によって選ばれていた。イエスはそのうちの一人が彼を裏切り、もう一人が彼を否定するであろうことも知っていた。彼はまた自分の亡き後は、シモンがその仕事を引き継ぐであろうことも分かっていた。イエスは彼ら弟子たちに会った際に、内なる英知によってこれらのことを示していた。彼はとても霊的な人物で、精神的な法則について多くのことを知っていた。
 また、イルミナティのローマとユダヤの指導者たちは、いくつかの古代のテクノロジー装置を、自分たちの権力とその行使のために隠し持っていたのである。彼らはキリストがいかに彼らにとって危険な存在になりつつあるかが分かっていた。なぜならキリストは過去の歴史を曝露し、彼らがある計画のもとに組織立てた「教会」に対して、人々に背を向けさせつつあったからである。

 アヌンナキは紀元前3600年頃に、シュメールの都市の法律にもとづいて、神殿や都市システムを確立した。その法典が多くの文化に広がり、その先々でゼロ時点(西暦0年)におけるアヌンナキの帰還が待たれるようになっていた。すでにローマ皇帝はジュピター(エンリル)の神殿を通して支配権を握っていた。アヌンナキは軍隊を利用することができた。すでにユダヤ人や他の文化なども「選民」にするという餌で手中におさめていたので、これは簡単であった。時間が本当に停止し、ゼロ時点からシュメールの「シャー体制」が始まるという手はずだったのである。
 しかし、その渦中に別の「もくろみ」が放り込まれた。それは、ユダヤの律法学者(イエス)がエジプトのイシス神殿の巫女(マグダラのマリア)と結婚し、東方に多次元意識を誘発しつつあった。ゼロ時点のあとニビルがもっとも太陽に近づいたとき、キリストは東エルサレムにある「岩のドーム」神殿から両替商たちを一掃した。


 またヘロデ朝とユダヤ人の分裂は政治的分裂にとどまらなかった。イエスが登場して、新しい神の法を説き始めると、今度はイエスをメシア(救世主)として認めるか認めないかで宗教的大分裂を起こしてしまった。当時のユダヤ教には祭司を頂点とした「サドカイ派」や「ファリサイ派」、「エッセネ派」といった宗派が存在していたが、イエスの登場ほどユダヤ人の宗教的分裂を決定的にしたものはなかった。
 神殿からは、利権を貪(むさぼ)っていた連中が追放された。また、自分たちの教義を批難された連中は、徹底的にイエスを非難した。そしてキリストは十字架で磷付にされ、処刑されることになる。

 イエスによって神殿から追放された者たち、特に、金貸しや神殿売春を行っていた者たちはフェニキアに逃れ、いつかイエスと彼らの信者に復讐してやることを誓った。そのために、彼らが目を付けたのは地中海対岸のヨーロッパだった。そこに加担したのが、イスラエルの支族の中のダン族である。彼らはフェニキアの商人に紛れて渡航し、最初の寄港地をフェニキアに因んでラテン語風にフェニーチェ=ヴェネチアと名付け、彼らの拠点とした。のちにヴェネチアからオランダを経てイギリスへと渡る一団が、現代のイルミナティの王侯貴族になっていく。


 そして、エンキが語ったとおり、仲間のユダが裏切り、ローマ帝国総督ピラトに引き渡され、イエスは十字架に掛けられた。この時の様子を、イエスに従っていたレビ一族やその仲間が見守っていた。助けなかったのは、預言されていた事象だったからである。
  裏切りのユダはイスカリオテのユダと言われている。彼は、銀貨30枚のためにイエスを裏切った。彼は金(かね)入れを預かっていたので、“金(かね)”に操られていたことになる。カネに関わる偶像崇拝の神はマモン・ラーで、マルドゥクの暗示だった。つまりイスカリオテのユダの原型はマルドゥクである。
 また、銀貨30枚の“30”という数字に着目すると、王位継承数字が30なのはナンナルで、エンリルの息子。アヌはエンキとニンフルサグを結婚させて王位を継承させようとしたが、ニンフルサグはエンリルとの間に長男ニヌルタをもうけてしまい、血統からも正統継承権はエンリル系になってしまった。そのため、マルドゥクは正統継承権を常に主張し、それがすべての争いの元となってしまった。よって、正統継承者がニビルにとって重要な“金(きん)”として象徴されるなら、傍系(ぼうけい)は“銀”として象徴され、それはマルドゥクとなる。エンリルとエンキはアヌの息子で、ナンナルはエンリルの、マルドゥクはエンキの長男なので、王位継承数字的にはマルドゥクも“30”として象徴される可能性があった。アヌの長男はエンキなので、マルドゥクにとって見れば、自分こそが正統継承者=“金”として相応しいと思っていた。だから、“銀貨30枚”という象徴がマルドゥクを暗示していた。

 ユダの裏切りによってイエスは捕らえられ、十字架に掛けられた。マルドゥクはドゥムジを罠に掛け、ドゥムジは死んだ。イエスの原型はドゥムジなので、この事からも、ユダの原型はマルドゥクと言える。更に、イスカリオテとは“カリオテの人”という意味のヘブライ語。カリオテ=ケリヨトはモアブにあった町の名で、モアブは死海のすぐ東側にあり、死海は核攻撃によって形成された。ニヌルタとネルガルによって核攻撃されたのは、マルドゥク(と息子のナブ)が自らの“神聖”を主張して人類を扇動した場所なので、“イスカリオテ”という地名もまた、マルドゥクに関係することを暗示している。
  十字架に掛けられたのは午前9時頃だったが、ニビルの最接近によって12時になると真っ暗になり、それが15時まで続いた。その時、イエスは叫び、息絶えて仮死状態となると同時に、世界中で大地震が発生し、多くの場所が海底に沈んだ。

 この処刑の日は金曜日で、翌日はユダヤの安息日だった。また、処刑地のゴルゴタの丘は神殿のすぐそばにあったので、イエスの遺体は即刻降ろされ、養父ヨセフがイエスの体を奇麗な亜麻布で包み、岩に掘った横穴に納め、その入り口に大きな石を転がして立ち去った。安息日が終わる前に、約束通り、エンキの使者とイナンナがイエスの母マリアを伴って現れた。イナンナが木に掛けられた時と同様、仮死状態のイエスに「生命の水」と薬を与え、イエスは“復活”した。

 その後、イエスは自分が復活したことを使徒たちに示し、40日間彼らの前に現れ、様々な真相について話した。その最後の日、イエスは11人の使徒をベタニアのオリーブ山に連れて行き、手を上げて祝福した。そして、祝福しながら彼らを離れ、エンキが遣わした“空の船”に吸い込まれていった。イエス33歳の時であった。その後、イエスに従っていたレビ一族やその仲間は、イエスが掛けられた十字架を密かに持ち出した。

 イエスの若い頃はニンギシュジッダの下で学習していたが、それはアダパとティティの時のようにである。年齢の33歳というのはカバラである。「生命の樹」で隠されたダアトも含めたセフィラの数とパスの合計数で、つまり、イエスは知恵を授けられて真相を知り、自らが「生命の樹」に掛けられることによって人類の贖罪を背負った。

 イエスが十字架に掛けられた時の天変地異は、ニビルの最接近だった。壊滅的にはならなかったが、多くの土地が海に没した。日本の近海、例えば沖縄周辺、熊野沖、丹後半島沖、青森沖など、海底神殿遺跡が見つかっているが、それらはすべて、この時に沈んだ。

 金曜日というのもラテン語系では“金星の日”である。つまり、木に掛けられて“死んで復活した”イナンナを暗示している。イエスを葬(ほうむ)ったのも、当然、近親者で養父のヨセフに決まっている。イエスの“復活”劇も、まったくイナンナと同じだったわけである。そして、今回はイナンナがイエスの前に姿を現した。よって娼婦(しょうふ)とされてしまったマグダラのマリアが聖書では登場するのである。

 また、イエスに限らず、ムハンマドの昇天劇も、宇宙船に引き込まれたと考えれば納得でき、天使などもそうである。ムハンマドのイスラム教は、マルドゥクである。ユダヤ教はシュメールの神々の寄せ集め。キリスト教はイナンナ、ドゥムジ、ウツの象徴で、エンキは隠れている。最終的に、バビロンはマルドゥクのものとなった。それまでに登場していないので、やはり最後に登場した。イスラム教は旧約をベースとし、イエスを救世主として認めている。これは、イエスがエンキの息子で、マルドゥクとは腹違いの弟になるからである。日に5回も礼拝させるのは、マルドゥクらしいのである。

 
与那国島海底都市-------------------------------------------------------------------------------------------

 日本最西端の島の与那国島海底都市も、この18年頃の大洪水により海の底へ沈んだ。沖縄では明治の中頃まで若い女性が入れ墨をする習慣があった。沖縄本島では14歳くらいから施し始め、少しずつ文様を増やしていく。文様には地方によって微妙な違いがあり、両手に23の文様を彫りこんで完成とし、その頃が結婚適齢期とされていた。明治生まれで現代まで生きていた老婆の入れ墨には環太平洋文明の文字が刻まれていた。ハジチは魔除けの意味を持っていて、左手の甲には環太平洋文明の文字が並び、右の肘には沖縄各地から出土した線刻石板に書かれた環太平洋文明の絵文字そのものであった。石版を解読すると琉球列島の水没を表しているストーリーが表されており、琉球はかつて広大な陸地であり、それが水没して島々になったと読み取れた。琉球王朝の王は太陽の子=テダコと呼ばれていた。石版の「キ」や「カ」に見える文字は聞得大君(きこえおおきみ)と呼ばれる琉球王朝最高の女神官を意味し、安泰な政治が行われ、平和な生活があったことを意味している。
 また福岡県沖ノ島で、国宝や重要文化財が12万点も見つかっている。また周辺には沖ノ島神殿という海底遺跡があり、直径8メートルの柱に螺旋階段が作られている。また海底遺跡からは神像が見つかっており、一つは乳房や男性性器を持つ両性具有で、もう一体は女性。頭には鳥のデザインが施されている。

その他の日本の海底遺跡-----------------------------------------------------------------------------------

 北九州沖、和歌山沖、熱海沖、青森沖、日御碕(ひのみさき)沖などの日本各地にあった都市も、大洪水によって海底へ沈む。これらの海底遺跡には、亀の形(エンキのシンボル)をした巨石が沈んでいることが多い。現在、その地域に残る祭りの伝統文化は、この頃の伝統が言い伝えとして残っている事も多々ある。

エジプトの海底遺跡----------------------------------------------------------------------------------------

 またこの頃、古代エジプトの都市ヘラクレイオンまたはトーニスも、大洪水によってアレクサンドリア近くのアブキール湾沖6.5kmに沈む。紀元前12世紀には古代ギリシャの歴史家によって言及されており、エジプト新王国の末期には王国の中心的な港としてその重要性を増していった。ヘラクレイオンはもともとナイルデルタの島々の上に建てられた町で多くの波止場を有していた。
 ヘラクレイオンにはギリシャ人に「ヘラクレス神殿」として知られていたアメン神の大神殿があった。アメン信仰は年々盛行していった。
 ヘラクレイオンは紀元前6~4世紀に栄えたことが考古学的発見によって明らかになっている。紀元前4世紀には時のファラオ、ネクタネボ1世によって多数の神殿が建立された。

 ヘラクレイオンについては、古代の歴史家ディオドロスとストラボンが言及している他、ナウクラティスの石碑にも登場する。そこにはサイスのネイトの神殿があり、入港税の10分の1が特権として与えられていたと記されている。またプトレマイオス3世を称える「カノープス勅令」にもその名が現れる。



アヌンナキを表すマリア、ペトロ、ユダ、ヨハネ-----------------------------------------------------

・マグダラのマリア
 マグダラのマリアの原型はイナンナである。マグダラのマリアは通説では“性”に関係し、性的象徴の女神はイナンナである。イエスは“復活”してから、まずマグダラのマリアの前に姿を現した。“復活”に関しての原型は、イナンナ自身の“復活”と彼女はドゥムジが“復活”すると思い込んでいたことである。ドゥムジはイエスの原型の1人であり、ドゥムジの“復活”を望んでいたイナンナの幻想が、このような話の原型となっている。象徴的にはイエスの“復活”した姿にドゥムジが、マグダラのマリアにイナンナが重ねられ、新約に於いて見事、イナンナは“復活”したドゥムジと再会できたと見なせる。
 ドゥムジとイナンナは結婚するはずだった。そして、王位継承数字的にドゥムジと太陽神ウツは同一と見なすことができ、ウツとイナンナの王位継承数字的な関係は正式な夫婦である。そのため、イエスとマグダラのマリアが結婚していた、などという伝承が生まれたのである。

・ペトロ
 ペトロの理解力は低かった。それが、後の離反の原因となった。離反とは、イエスの預言通り、鶏が3度鳴く前に3度イエスのことを知らないと言ったこと、そして男性優位の思想で、救済者の弟子たるには男性でなければならないとするペトロの考えが教団の分裂を引き起こし、それがパウロへと受け継がれ、現在のキリスト教として普及したことである。そのため、教会は男性優位の権力を守るための組織と化し、マグダラのマリアを娼婦として陥れることにより、絶対的な権力を握ることとなった。まさに教会こそ、イエスが注意を喚起したそのものの存在となったのである。
 このようなペトロには、いつまで経っても自分の立場が理解できず、己の野望ばかりを追い求め、アヌに赦されたにもかかわらず、最終的には核戦争を引き起こす原因となったマルドゥクの姿が投影されている。

・裏切りのユダ
 イスカリオテのユダは、銀貨30枚のためにイエスを裏切った。そして、ユダは金入れを預かっていたから、“金(かね)”に操られていたことになる。“金(かね)”に関わる偶像崇拝の神はマモン・ラーであり、マルドゥクの象徴でもある。よって、イスカリオテのユダの原型はマルドゥクである。
 “30”という数字に着目すると、王位継承数字が30なのはナンナルで、エンリルの息子である。アヌはエンキとニンフルサグを結婚させて王位を継承させようとしたが、ニンフルサグはエンリルとの間に長男ニヌルタをもうけてしまい、正統継承権はエンリル系になってしまった。そのため、マルドゥクは正統継承権を常に主張していた。正統継承者がニビルにとって重要な“金(きん)”として象徴されるなら、傍系は“銀”として象徴され、それはマルドゥクとなる。
 エンリルとエンキはアヌの息子で、ナンナルはエンリルの、マルドゥクはエンキの長男で、王位継承数字的にはマルドゥクも“30”として象徴される可能性があった。アヌの長男はエンキなので、マルドゥクにとって見れば、自分こそが正統継承者=“金”として相応しいと思っていた。よって、“銀貨30枚”という象徴でマルドゥクを示唆しているのである。
 また、ユダの裏切りによりイエスは捕らえられ、十字架に掛けられた。マルドゥクはドゥムジを罠に掛け、ドゥムジは死んだ。イエスの原型はドゥムジであるから、この事からも、ユダの原型はマルドゥクである。
 更に、イスカリオテとは“カリオテの人”という意味のヘブライ語である。カリオテ=ケリヨトはモアブにあった町の名である。モアブは死海のすぐ東側にあり、死海は核攻撃によって形成された可能性が高い。ニヌルタとネルガルによって核攻撃されたのは、マルドゥク(と息子ナブ)が自らの“神聖”を主張して人類を扇動した場所なので、“イスカリオテ”という地名でマルドゥクに関係することを暗示している。
 他の解釈として、イエスの原型を蛇神=エンキと見た場合、エンキの息子であるにもかかわらず、“恐怖の武器”を使用することを提案し、エンリルの息子ニヌルタと組んで、兄弟であるマルドゥクを核攻撃したネルガルもユダの候補になり得る。ただし、その場合、“銀貨30枚”という象徴が当てはまらない。
 また、弟子たちはみんなイエスを見捨てたが、これもイエスの原型を蛇神=エンキと見た場合、核攻撃に反対したのは唯一エンキだけだった、ということの象徴である。

・イエスの弟子ヨハネ
 イエスの弟子ヨハネはイエスから最も愛された。これは、エンキから知恵のすべてを授けられ、人類に生殖能力を与えることに尽力したニンギシュジッダが原型である。マルドゥクもエンキから知恵を与えられたが、完全には信頼されておらず、“死者を蘇らせる”知恵は与えられなかったので、彼はヨハネの原型ではない。
 ヨハネ黙示録はカッバーラの象徴に溢れ、知恵の使い手の象徴でもあるから、これもニンギシュジッダに相応しい。

・洗礼者ヨハネ
 もう1人のヨハネが、イエスを洗礼したヨハネである。イエスがエンキの息子ならば、イエスに知恵を授けたのは、当然、エンキである。それが“洗礼”として象徴されている。
 ヨハネは元々オアンネスと言い、地上に最初に降りた半神半魚の神であった。これは、魚としても象徴され、アラルを除いて最初に地球に降り立ったアヌンナキ、すなわちエンキに他ならない。(アラルは直接人類に関わりが無く、エンキが後に“地球の主”となったので、除外する。)地球での最初の到着地点は海だったので、魚として象徴される。それはまた、“魚のスーツ”を着ていたことにも因る。
 そして、エンキは水に関係する神でもあり、水を吹き出している水瓶と共にある姿が描かれている様子は、まさに洗礼を施す様子に他ならない。よって新約には、いたるところに魚が象徴として登場する。4人の漁師(ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ)を弟子にしたこと、パンと魚を大群衆に分け与えた奇蹟、復活後に弟子たちと魚を食べたことなど。(旧約では、巨大な魚に飲み込まれたが3日後に吐き出された預言者ヨナなど。魚はエンキの象徴であり、この現象はイエスの“復活”の予型であり、ヨナという名はヨハネにも繋がる。)


 以上のような関係は、他の「神々」が地球人女性と直接交わった場合、成立しえず、イエスはアダパやジウスドラのように、人類にとって重要な局面に於いて、エンキが地球人女性と直接交わって産ませた子であると言える。だからこそ、イエス=天照大神は実父エンキの象徴である蛇神として祀られている。そして、エンキが交わった地球人女性の名はマリアである。
 つまりイエス・キリストはエンキから生まれたが、その生涯の話はアヌンナキの出来事などと結びつけられて作られたものが、聖書となり現代に伝わっている。キリストもブッダもアヌンナキの血を濃く受け継いでいたのである。


■20年頃

 この頃、現在のパレスチナ北部のガリラヤ地方に、ティベリアという首都が建設される。ローマ皇帝ティベリウスに因んでティベリアと名付けられた。この街はヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパスにより破壊された村の跡地に建設され、後にサンヘドリンの移転先となる。

■57年頃

 九州北部の博多湾沿岸にあった倭奴国(わどこく)の首長が、後漢(ごかん)の光武帝(こうぶてい)から金印(倭奴国王印)の賜与(しよ)を受けている。

■70年〜73年

 70年にユダヤ属州のユダヤ人とローマ帝国の間にエルサレムを巡って攻城戦が起こる。これはユダヤ戦争(第一次ユダヤ戦争)と呼ばれている。この戦いでティトゥス率いるローマ軍は、ユダヤ人の反乱軍が66年以来立て篭もっていたエルサレムを陥落させた。エルサレム市街のみならず、エルサレム神殿(ヘロデ大王が築いた第二神殿)もこのときに破壊され、「嘆きの壁」を残し、徹底的に破壊された。


 73年には967名のユダヤ人が7ヶ月も籠城し続けていた難攻不落の要塞「マサダ」を、8000ものローマ帝国軍が総攻撃。追いつめられたユダヤ人は、2人の老婆と5人の子供を残し、全員自害した。

 こうしてローマ帝国がエルサレムを徹底的に破壊した。現代の歴史は、この時ユダヤ人は世界へ散らされたとされているがそれは誤りで、連れて行っても価値のない貧しい人々は、イスラエルに置かれた。知識階級や貴族や政治家はアレキサンドリアに連れて行かれて、奴隷市場から全世界に散らされた。これがユダヤの離散である。
 貧しかった人々は、この二番目に作られたイスラエルで農業をしていた。これが血縁的に本当のユダヤ人で、パレスチナ地方にいたスファラディ系ユダヤ人である。

etc.

■76年

 竹内宿禰(たけうちのすくね)、烏賊(いか)建連、三和大友主君(みわおおともぬしのきみ)、物部胆咋連(もののべのいくいのむらじ)らが船で、一朝併合の話し合いに奥州に向かったが、南海で暴風に遭遇して東日流(つがる)羽北に漂着したところ、奥州の地が栄えているのに驚き、荒吐族(あらばきぞく)王に会った竹内宿禰(たけうちのすくね)は、日本係累の民として和交することを約束して倭国に帰り、奥州の国を王化のもとに服従させるのは、どのような軍をもって攻めてもむずかしいと報告した。これを聞いた倭王の諸臣は、これに怖れて以後征軍を送ることはなくなった。
 この頃、日向族の故地筑紫において、熊襲族(くまそぞく)が起こって朝廷にそむいた。熊襲族(くまそぞく)とは古代、邪馬台国筑紫のワケグラ王・猿田彦に係累する一族だった。
 猿田一族は日向族に、不惜身命(ふしゃくしんみょう)で忠節を尽くし、共に東征に及び、日本国中央の邪馬台国を長年にわたって日向族とともに統治していたが、後世になって、無智ゆえに日向族にだまされ、侵領されたと知ってそむいたものだった。
 日向族は年を経るとともに猿田族の協力を得て邪馬台国遠征でできた恩を忘れ、熊襲と叫んでさげすんだ。それがもととなって戦うことになった。

東日流外三郡誌

■90年頃

 ヤムニア(別名ヤブネ)でイルミナティのサンヘドリンは再興され、旧約聖書が現在の36の書物として正式に決定された。

 
■93年

 武内宿禰(たけのうちのすくね)が奥州へ攻め寄せたが、奥州の二王が自ら出向いて大和軍を追討(ついとう)。95年、出羽国(でわのくに)に於(お)いて討ち滅んだ。

東日流外三郡誌

■100年

バビロンの黒魔術を実践するハザール国の誕生-------------------------------------------------------

 古代バビロンの黒魔術オカルトを実践していた取り巻き(オリガルキー)が仕える非常に邪悪な王の下で、ハザール国が誕生した。ハザール国では、日常的に盗賊行為、窃盗、殺人が繰り返され、周辺国を脅かす非常に野蛮な国であった。ハザール国の子孫として、やがて現代のロスチャイルド家が誕生する。
 このハザール人はイスラエルに住んだことがないが、彼らの子孫である偽ユダヤ人たち(シオニスト) が「約束の地」と歴史的な大嘘をついて1948年にイスラエルを建国し、本物のユダヤ人であったパレスチナ人の土地を侵略した。
■110年

 帝は坂東(関東)に逃れていった熊襲族(くまそぞく)とこれを救った荒吐族(あらばきぞく)の征討を企て、それを子息の武彦(日本武尊"やまとたけるのみこと")に命じた。
 武彦は、父の景行帝より荒吐族(あらばきぞく)の戦術について聞かされた。
 荒吐族(あらばきぞく)が護り戦う戦術は、山に入れば飛禽(ひきん)の如く、草の上を走れば獣の如く、忍べば木陰に隠れ、土や水、火の中へでも逃げ、背は高く、容貌は端正、力はかなえをひねりつぶし、その猛(たけ)きことは雷の如く、彼らの行くところ敵なく、戦っても敗れたことがないと。
 これを聞いた武彦は精兵をえりすぐり、坂東(関東)に向けて進発した。この軍勢が、荒吐族(あらばきぞく)領との境界、駿河に至り、冬枯れの草原を進んでいた時、荒吐族(あらばきぞく)と熊襲族の連合軍は、この征軍の進路を事前に察知し、草原に兵を伏せて待ち構えていた。

 この作戦は、征軍の進行を見はからって草原に火を放ち、焼き討ちにするというものだった。そうとはしらず武彦は、軍を粛々と進めて来た。
 頃を見計らった荒吐族(あらばきぞく)連合軍が草原に火を放つと、火は寒風にあおられてたちまち燃え広がった。
 征軍は火中で逃げ場を失い、多くの兵が殉じ、武彦は軍勢の半数を失った。九死に一生を得た武彦は、新手の援軍を伊勢の地豪に頼み込んで征軍に加え、豪族の船で坂東(関東)の荒吐族(あらばきぞく)の拠点を突こうとの作戦を立て、兵を船に乗せ走った。
 しかし冬の東海は荒れて波が高く、多くの軍船が難破して沈み、多くの兵も殉じた。武彦は荒れる海を鎮めるために、神よりのお告げであるとして、同行していた愛妾(あいしょう)・乙橘媛(おとたちばなひめ)をいけにえとして海に投げ込んだ。しかし、海の荒れは止まず、風も止まなかった。
 船は波に翻弄されながら漂い、ようやく着いたところは上総(かずさ)だったが、無事に着いた兵の数はわずかだった。
 武彦は生き残った兵共々、忍んで倭に引き揚げようと山や谷を越え、碓氷峠(うすいとうげ:群馬県)まで逃げのびたが遂に糧物も精根も尽き果てて、この地で征軍のことごとくが殉じた。

東日流外三郡誌

群馬県にある荒吐族王の拠点-----------------------------------------------------------------------------

 この頃群馬県の高崎市に存在した荒吐族(あらばきぞく)王の館は、政治、祭祀、経済、軍事、流通の機能を持つものだった。


 東日流外三郡誌

■115年〜132年

ユダヤ人のディアスポラ-----------------------------------------------------------------------------------

 115年からはローマ帝国とユダヤ属州の間でキトス戦争が起き、132年にはバル・コクバに率いられた反乱(バル・コクバの乱)がおきた。バル・コクバはユダヤの独立を達成し、キリスト教徒を除く全ユダヤ人からメシアであると承認された。彼はエルサレムで二年半の間イスラエルの大公(ナーシー)として統治した。彼の公国は135年にローマ帝国によって征服された。

 大きな反乱が続発し、ユダヤ人の統治の困難さに手を焼いたローマ人はユダヤ地方からユダヤ色を一掃しようと考え、ユダヤ人が忌み嫌っていたペリシテ人の名前をとり、この地方をパレスチナと名づけた。ユダヤ人たちはこれ以前にもすでに広くローマ帝国内や各地に離散していたが、ここに再び多くのユダヤ人が離散を余儀なくされ、長いディアスポラの時代が始まった。これは1948年にイスラエル共和国が建国されるまでの約1800年間続く。
 ディアスポラとは「撒き散らされたもの」という意味の言葉で、元の国家や民族の居住地を離れて暮らす国民や民族の集団ないしコミュニティ、またはそのように離散すること自体を指す。

 こうしてユダヤ人はローマ帝国によって滅ぼされた後、政治家や貴族階級のユダヤ人はイスラエルから追放され、全世界に離散を余儀なくされ、ユダヤの戒律を守りながら、故国なき民として生きるための知恵を体得していった。しかし貧しく、社会的影響力の少なかったユダヤ人はイスラエルにとどまり続け、その子孫が本当のユダヤ人として現代までパレスチナ地方に住み続ける。
 古代地中海世界の諸都市にはユダヤ人共同体が多く存在し、古代世界最大のユダヤ人コミュニティーはエジプトの大都市アレクサンドリアにあった。16世紀頃にはユダヤ人がドイツのフランクフルトに大量に移住し始める。
  
 この乱以降、サンへドリンはガリラヤのティベリアに移転している。ガリラヤはパレスチナの地名で、ガリラヤ湖を含む現在のイスラエル北部の地域とヨルダンの一部を指す。ガリラヤの名はヘブライ語でガーリール(周辺)に由来し、エルサレムを中心として発達したユダヤ教にとっては辺縁(へんえん)であった。ナザレのイエスが宣教を始めた場所として聖書に記述されている。


■181年

諸葛孔明の誕生と道教-------------------------------------------------------------------------------------

 この頃、中国に諸葛孔明が生まれる。儒教、仏教と並ぶ中国三大宗教の道教は、中国で大きな影響力を持つ宗教の1つである。儒教は孔子の教えであるが、道教とは関係無い。道教と言えば、風水や仙人など、呪術的なものが思い浮かぶが、その通りである。風水では、川の流れ、地の流れなどを見る。これはすなわち、地球の「気」の流れを見ている。地球も生命体であるから、当然、人間の経絡(けいらく)・経穴(けいけつ)に相当する電磁場の流れがある。その流れ、吹き出し口を見極め、流れを妨げてはいけない。いわゆる鬼門・裏鬼門とは、裏鬼門から鬼門に向かって流れがあるので、それを妨げてはならない、ということである。
 他には、「木火土金水(もっかどごんすい)」の五行説がある。この5つがすべての基本と見なす。諸葛孔明(しょかつこうめい)は奇問遁甲(きもんとんこう)を自在に操ったので、呪術師と見なされた。
 日本の陰陽道(おんみょうどう)の元は道教であり、「天皇」という言葉も「天皇(てんこう)、人皇(じんこう)、地皇(ちこう)」から採ったものである。道教の奥義は仙人になることである。仙人術の奥義とは、気=クンダリーニを上昇・周回させて不老不死を得ることにあり、ヒンズー教、チベット密教とまったく同じである。達磨大師(だるまだいし)が考案した少林寺拳法も、その1つである。(達磨もインドで修行した。なお、ヒンズー教のカーマ・スートラに相当するものが、「房中術」である。)

 道教での天地創造は、上半身が人間、下半身が蛇の体である二柱の神々、伏犧(フッキ)と女媧(ジョカ)が大木の周りをそれぞれ反対方向に回って交わり、行われたという。これは、ヒンズー教のナーガ、ナーギと同じである。この二柱の神々はアヌンナキのニンギシュジッダである。伏犧は直角定規、女媧は手にコンパスを持っていた。ユダヤ教のヤハウェも、コンパスと直角定規で天地創造する絵が描かれている。また、イエスは大工だったので、コンパスと直角定規は手慣れたものだった。聖徳太子は大工の神様として崇められている。フリーメーソンの象徴はコンパスと直角定規である。

 日本の神話では、イザナミとイザナギが天御柱(あめのみはしら)の周りをそれぞれ反対方向に回って交わり、天地創造した。雛型はインドのナーガとナーギ、中国の伏犧と女媧である。アダムとイブの話では、アダムはイシュ、イブはイシャーだった。これが転じて“イザ”となる。また、ナーガとナーギが転じて“ナギ”と“ナミ”であり、合わせて“イザナギ”と“イザナミ”である。そして、イザナギとイザナミがコンパスと直角定規を持っているわけではないが、日本にも、コンパスと直角定規で描くものがある。「日の丸」である。


■200年頃

サクサイワマンの製錬所の閉鎖--------------------------------------------------------------------------

 アヌンナキのナンナールは父親とアヌ王から、ナンナールの息子ウツにサクサイワマンの製錬所を閉鎖とナスカ地区の滑走路の運行停止を伝え、ペルー南東部のアルティプラーノに帰るように指示された。南ペルーの製錬所では遠く離れたトルコから遠隔管理で金、銀、錫(すず)を処理し続けたが、6世紀には、サクサイワマンはもはや使用されておらず、ペルー北部からチリ北部のアタカマ砂漠北部を守るために残された。サクサイワマンにはアヌンナキが作った多角形の石積みが存在する。


アフリカへ帰還した人々-----------------------------------------------------------------------------------

 アフリカ南部のコイサン族の一部が、アフリカを出た後に帰還した人々であることが明らかになった。約20万年前、最初の人類はアフリカを後にし、世界各地へと広がっていった。しかしその旅は「行ったきり」ではなかった。アフリカに戻ってきた人々がいたことが遺伝学的に裏付けられた。その人々は、欧州人によるアフリカ植民地化のはるか以前に、行った道を2段階で引き返し、アフリカ南部にアフリカ外の世界の遺伝子を持ち帰ったと推測される。



■206年

 時が経ち、荒吐族(あらばきぞく)に救われた熊襲一族だったが、奥州において恩を仇で返すような所業(しょぎょう)を働いたので、荒吐族(あらばきぞく)がこれに怒り、遂に戦いとなったが、この戦いは長引いた。
 しかし、荒吐族(あらばきぞく)五王が一致団結してこれにあたると、熊襲一族は206年に門津というところまで追い払われて降伏した。

東日流外三郡誌

■240年

秦氏の渡来 / イエスの使徒の一団-----------------------------------------------------------------------

 十字架と契約の箱を密かに持ち出した一団の中核はレビ、ユダ、ベニヤミンの支族だった。彼らは争いを回避するため、支那(中国)の周辺部を通り、大陸へと移動して遊牧民と同化していた十支族の末裔と合流した。その中には、釈迦を生み出したサカ族もおり、マナの壺を持っていたガド族も居た。宗教的に寛容だった十支族の末裔は、降臨したイエスの姿を見て改宗したが、神器は重要なため、ガド族が大王家となり、彼らは秦氏と名乗るようになった。
 そして、導きによって極東の朝鮮半島まで達し、南下して、半島先端まで達した。半島の東海岸は、ペルシャ系ユダヤ人の影響が大きく、更に海を隔てた向こうの島から、大王家縁の人物がやって来て、1つの王国を築きかけていた。そこは鉄鉱石が豊富で、そこと向こうの島国では製鉄が盛んに行われていた。南下した一団は、東海岸と友好関係を保ちながら、土着民や各支族の自治を守るため、半島にいくつもの小国を建国した。そして、彼らは交易を通して、徐々に日本列島に移動して行った。

 北のエフライム系は大船団で渡来したが、他にも大陸に移動していた十支族系も居た。人数は非常に多かった。天山山脈の麓の弓月王(ゆんず)国=新月王国=三日月王国=弓月城(くるじゃ)=亀慈(くちゃ)などは、シュメール縁の製鉄の火が消えないハイテク国で、神の国と見なされていた。そのため、“ヤマトゥ”と呼ばれていた。これも、彼ら十支族の末裔である。月も亀も、主エンキのシンボルである。つまり大陸にもヤマトがあった。さらに、サカ族も十支族系だった。蓮に坐す釈迦などはエジプトの蓮とパピルスの陰陽と同じで、エジプトでも仏教でも香を焚き、神官は剃髪(ていはつ)しているので、エジプトの影響の強い十支族系である。
 南の系統は大陸経由である。失われた十支族の後を追って、シルクロードを東征した。彼らが支那(中国)へやって来た時、支那式の名前、すなわち、漢字で姓と名が必要とされた。ヘブライの民は姓が無かったので、何か姓を付けなければならなかった。そこで、支那人は彼らの姓を“秦氏”と命名した。当時、支那ではローマ帝国のことを大秦(だいしん)と書いた。この頃のエルサレムは、ローマ帝国領だった。よって、大秦(だいしん)から字を採って“秦氏”とした。
 また、“秦人(はたびと)”は“流浪の民”の意味で、遊牧民と同化した彼らにはぴったりの名前だった。つまり“秦の始皇帝”の“秦”ではない。そして、彼らは自分たちのことをアラム語で“イエフダー(ユダヤ)”と言っており、この“フダー”から“はた”と読むことにした。半島の東海岸は、後の新羅である。


中央アジアの「ヤマト」(雅馬図)------------------------------------------------------------------------

 秦氏は、もともと中央アジアにいた人々で、シルクロードを経て中国、朝鮮半島に入り、やがて日本に渡来した人々である。
 カザフスタンに近い中国・新疆ウイグル自治区北西部の「弓月城”ゆづきじょう”」(グルジャ/クルジャ/中国名・伊寧市)の地に、イリ川という川が流れている。秦氏はかつてそのあたりに住んでいた。
 これは古代中国人が「弓月」(中国読みでクンユエ Kung-Yueh 弓月城)と呼んでいた地域であった。「弓月」は中国の史書『資治通鑑(しじつがん)』にも記されていて、そこにあった。

 秦氏の王は日本書紀で「弓月の君」と呼ばれている。これは彼らが元々そこの人々だったからだ。
 この地方には早くから東方基督(キリスト)教が伝わり、2世紀頃までにはかなりの地域が、すでに基督(キリスト)教国になっていた。東京文理大学の学長だった佐伯好郎博士によれば、秦氏のいた「弓月(ゆづき)」も基督(キリスト)教国だった。
 その弓月=弓月城の地方に、今も「ヤマト」と呼ばれるところがある。中国語で「雅馬図」(図と書いている部分は、くにがまえの中に冬と書く字。この字は日本では図に相当する)と表記され、「ヤマト」と発音される。

 雅馬図=ヤマトは、弓月城遺跡から南へ、でこぼこ道を車で20分くらい行った所である。雅馬図は、今は村だが、そこもかつて秦氏の居住地だった。
 この「日本とユダヤ 聖徳太子の謎」の著者の久保有政氏は、この原稿を執筆中に、「シルクロードを今5回目の旅行中です」という堀井俊男氏からメールが入った。彼は弓月城、およびヤマト=雅馬図に到着したという。こう書いてきた。

「弓月城と、『雅馬図』の場所が見つかり、4台のバス、タクシー2台、リヤカー電動タクシーを駆して、5時間かかってこれらの場所へゆく事ができました。・・・
 この場所はほとんど中国の西域開発によって歴史が無くなりそうです。それでもこの地は、奈良盆地(大和)を思い出させます。・・・
 この弓月国は初代キリスト国だったようですが、漢民族の多くと違って、非常に和やかな人たちでした。人柄、容姿とも、とてもキルギス人に似ていますし、日本人はほとんど来ることがなく、大歓迎されました。
 私は、キリスト教を信じた秦一族(イスラエル人との混血、月氏)、並びに弓月の人々がここに居り、何かの理由で東方へ、そして日本へ向かったと実感しました。・・・
 現地の方々は『雅馬図』をはっきりヤマトと呼んでいて、びっくりしました。この地にある博物館には、初代キリスト教の十字架が展示されてます。
 国境を越えたカザフスタンのアルマリク市、アルマトイ市、ウズベキスタンのタシュケント市、キルギスタンのビシュケク市でも沢山みられるキリストの十字架等を合わせて考えると、紀元1~2世紀の早い時期にイリ地方(グルジャとも言われる)は国を上げてキリスト教国であった事は、間違いないようです」

■280年頃

はるばる日本に渡来した秦氏-----------------------------------------------------------------------------

 堀井氏は、このような大変貴重な情報をもたらしてくれた。秦氏はこの弓月、また雅馬図=ヤマトにいたのである。そこは紀元1~2世紀の早い時期に国をあげて基督(キリスト)教国になっていて、秦氏も基督(キリスト)教徒になっていた。
 しかし秦氏はそののち、万里の長城の建設・増設の苦役に駆り出される。それはかつて秦の始皇帝の時代に始まったものだが、その後も何百年もの間続いていた。中国は周辺諸民族をその苦役に使っていたのである。
 秦氏は苦役に耐えかね、のちに朝鮮半島にのがれた。そのことは朝鮮半島の古代石碑(好太王の碑文 5世紀)や、中国の史書(五漢書の東夷伝 5世紀)に記されている。朝鮮半島にのがれた人々は「秦人」と呼ばれた。
 彼らはそこで「秦韓」という国をつくった。そこはのちの「新羅」である。彼らの言語や風俗風習は周囲と全く違っていたという(魏志倭人伝、魏志韓伝等)。
 朝鮮半島でも彼らは苦境に追い込まれるが、そののち彼らを快く迎え入れてくれたのが日本の天皇だった。こうして秦氏は、大集団を率いて応神天皇14年(283年)に日本に渡来した。
 秦氏は日本に渡来すると、住み着いた各地に「ヤマト」の名をつけた。これはもともと彼らがいた中央アジアのヤマト(雅馬図)にちなんだもの。ヤマト王権発祥の地、また聖徳太子と共に住んだ奈良の地域も、「ヤマト」と呼ばれた。

 秦氏は中央アジアのヤマトに住んでいた記憶から、日本各地にヤマトの名をつけたのである。ヤマトは彼らにとって非常に愛着のある名だった。ヤマトはのちに日本を表す別称ともなった。
 ヨセフ・アイデルバーグによれば、ヤマトはヘブル語の「ヤー・ウマト」(Yah umoto)、すなわち「ヤハウェの民」の意味である。ヤーはヤハウェの短縮形、ウマトは彼の民の意味だ。ユダヤ人に言っても通じる。
 ちなみにヤマトの地=奈良は川が多く、川の流域に発達した都だった。ヘブル語で「ナラ」は川の意味である。また天皇のご住居のあった「アスカ」(飛鳥)は、ヘブル語の「ハ・スカ」から来たとすれば、ご住居の意味だ。
 さらに、よく「ヤマトは国のマホロバ」という。国語辞典によれば「マホロバ」は日本の古い言葉「マホラ」から来ていて、優れて良い所を意味するとある。ところがヘブル語で「マフラ」といったら、優れて良いとか、名誉ある、の意味である。


イスラエル人キリスト教徒だった秦氏------------------------------------------------------------------

 秦氏がヘブル語を話したのは、彼らがもともとイスラエル人であり、東方キリスト教に改宗したイスラエル人だったからである。
 大陸では、失われたイスラエル10支族の人々も、東方キリスト教に改宗することが少なくなかった。東方キリスト教は、ユダヤ色を排した西洋的キリスト教とは違い、ユダヤ色を色濃く残したキリスト教だったからである。だから彼らにとっても改宗しやすかった。
 秦氏について詳細な研究を行った文化勲章受章者、著名な哲学者でもある梅原猛(うめはら たけし)氏は、その著書「うつぼ舟Ⅰ 翁と河勝」の中で、こう書いている。

「秦河勝は‥キリスト教信者であり、聖徳太子もそれに影響されたのではないか」

 また秦氏が多く住んだ奈良県の三輪山付近において、巻向(まきむく)山の一峰は、万葉集で「弓月ケ嶽」と書かれている。
 秦氏の故郷「弓月」を偲(しの)ばせる名称である。しかもこのへん一帯には、「父なる神が処女の元に寄り来て聖なる子が誕生した」という伝説も伝わっている(玉依姫”たまよりひめ”の伝説)。これは「処女が神の霊によってみごもり、聖なる子イエスを生んだ」という聖書の話に、なんともよく似ている。古代東方キリスト教徒だった秦氏を思わせる伝説である。

 また中国の史書(「三国志」「魏志東夷伝”ぎしとういでん”」3世紀)は秦氏について、「王は馬に乗り、高い文化を持つ人々」「背が高く、衣服を清潔にし、特別な言語や風俗を持つ人々」だったと記している。これは彼らがイスラエル人だったことを思わせる特徴だ。
 とくに「衣服の清潔」は古代イスラエル人が大切にしていた。当時、一生に一度も風呂に入らないような民族が多い中、イスラエル人は風呂に入り、身を清め、手を洗い、衣服を清潔に保った。これは「聖書」に命じられていたことだからである。
 今日、神道の禊ぎの風習が伝わり、日本人が清潔好き、風呂好きであるのも、そうしたイスラエル人から受け継いだ風習である。
 秦氏がかつて住んでいた中央アジアは、アラビア半島西部のアシールの「失われたイスラエル10支族」の離散地のひとつだった。
 例えば秦氏がいた弓月の近く、その少し西に「ウズベキスタン」という国がある。そこに「ウズベク・ユダヤ人」と呼ばれる人々がいる。
 彼らは、生活がユダヤ教的だから「ユダヤ人」と呼ばれているが、伝承によれば、彼らは古代イスラエルの失われた10支族の末裔である。とりわけ10支族に属するナフタリ族、およびイッサカル族の末裔であるといわれている。
 また、「ウズベク・ユダヤ人」の遺伝子(ミトコンドリアDNA)は、同じく10支族のひとつマナセ族の末裔といわれる「シンルン族」(インド北東部やミャンマー)のものとも近縁である。

 ウズベキスタンのユダヤ人は2007年時点においては5,000人以下にまで減少している (多くの者はタシュケントに居住している)。ウズベキスタンには現在12のシナゴーグ(ユダヤ教の集会所)がある。


中央アジアのマナセ族とエフライム族------------------------------------------------------------------

 さらに、秦氏がいた弓月に隣接するところに、「キルギス共和国」(キルギスタン)がある。キルギスにも、自分たちの先祖は古代イスラエル人である、という伝説がある。このイスラエルとは本来、アシールのイスラエルのことである。

 キルギスに古くから「マナス叙事詩」というものが伝わっている。これは日本でいえば、「古事記」や「日本書紀」のような書物である。
「マナス叙事詩」によれば、昔「ヤキブ」(ヤクィブ)という人から生まれた「マナス」という息子が、キルギス人の主要な先祖だという。
 キルギスに長年住みマナス叙事詩を研究したリズベクの著「Lost and Found」によると、キルギス人の父祖ヤキブには12人の息子がいた。だからヤキブは、「聖書」でいうイスラエル人の父祖ヤコブのことだろう。

「聖書」のヤコブもキルギスのヤキブも、裕福な羊飼いであり、ふたりの妻がいて多くの羊を持っていた。ふたりとも外国で辛酸(しんさん)をなめた経験を持ち、そこで賢く振る舞うことによって羊の数を増やした。
 彼らはそののち父祖の地に帰り、神に祈ると、子孫に関しすばらしい約束を得た。他にも多数の共通点がある。
 キルギスのヤキブが「聖書」のヤコブなら、ヤキブの子「マナス」はイスラエル10支族のひとつマナセ族の先祖マナセのことである。その子孫マナセ族が、キルギス人の主要な先祖となった。
 キルギス人は「もものつがいの上にある腰の筋を食べない」。これはイスラエル人の風習だ(「創世記」第32章32節)。キルギス人は羊の骨を折ることもしない。これもイスラエルの風習である(「出エジプト記」第12章46節)。
 キルギス人は割礼(かつれい)の風習、清い動物と穢(けが)れた動物の観念、過越の風習なども持っている。
 多くの国では長男が家督(かとく)を継ぐことが多いが、キルギスでは家督を継ぐのは末子である。「聖書」でも、長子の祝福を得たのは兄エサウではなく弟ヤコブだったし、またヨセフの息子の場合も、兄マナセではなく弟エフライムが長子の祝福を得た。
 日本の天皇家でも、ニニギー山幸彦ーウガヤフキアエズー神武天皇に至る系図において、つねに末子に皇統が受け継がれている。神武天皇も末子だった。
 このように、キルギスの先祖ヤキブは「聖書」のヤコブであり、マナスはマナセである。
 キルギスにはさらに、「昔、エニセイ川上流に住んでいた民族が移動した。魚の好きな人たちは東の海へ行って日本人となり、肉の好きな人たちは西の草原へ行ってキルギス人となった」といういい伝えがある。これはまた、「大昔、キルギス人と日本人が兄弟で、肉が好きな者はキルギス人となり、魚を好きな者は東に渡って日本人となった」という形で語られることもある。日本の「海幸彦・山幸彦」の話にも似ているが、これも「マナス叙事詩」から来たものである。

 エニセイ川は、キルギスや弓月の少し東、モンゴルに発して北に向かい、北極海へと流れ込む大河である。そこから西に行った人々はキルギス人となり、東に行った人々は日本人になったという。だからキルギスに行くと、「日本人とキルギス人は兄弟です」と多くのキルギス人から聞かされる。それはキルギスでは常識のようになっているから、キルギス人はびっくりするほど親日的である。「マナス叙事詩」には、次のように書かれている。

「民の他の者たちはより大いなるものとなり、旅を続け、満州に達した。チベット方面に行った者たちもいる。」

 キルギス人の主要先祖となったマナセ族から分かれた人々は「満州」(今日の中国東北部)方面に行ったという。一方チベット方面に行った人々もいる。
 満州方面に行った人々とはだれだろうか。「マナス叙事詩」のアシム・ヤキベク版によれば、彼らは満州から進んで日本に達した。叙事詩にはこう書かれている。

「街が破壊され、悩みの時が来たとき、多くの旅団が契丹(きったん:満州)の地からのがれ、日本人になった。移り住んだ地は良く、彼らの長はコトルシュ(Kotorush)と呼ばれ、その島はシムン(Syimun)と呼ばれた」
 
 彼らは満州を去り、「島」国へ行き、「日本人」になった。
 ここで、海の方面へ行った長コトルシュとは、海幸彦の別名「ホデリ」のなまりかもしれない。一方「その島はシムンと呼ばれた」のシムンは、シマ(島)のことであろう。
 キルギス人となる人々と別れた人々は、東へ向かい、海を渡って日本列島に移り住んだ。その最初の移動は紀元前の時代に起こった。
 筆者の久保有政氏は、キルギス人となった人々はマナセ族であり、また日本に行った人々とは、とくにマナセ族の兄弟=エフライム族であろうと考えている。
「聖書」によれば、マナセとエフライムは兄弟であった。マナセが兄、エフライムは弟で、彼らはそれぞれマナセ族とエフライム族になった。彼らは兄弟だから、長い間一緒に行動してきた。しかし別れることもあった。
 このとき日本へ行った人々がエフライム族と考えるのは、後述するように日本の神武天皇の系図が、「聖書」のエフライム族の系図とまったく同じだからである。
 さらに、エフライム族は単独でやってきたのではなく、イスラエル10支族の他の支族も引き連れて、一緒に日本に渡来してきたと考えられる。彼らは、イスラエルの「神の道」を日本に伝えた物部(もののべ)氏、中臣(なかとみ)氏、忌部(いんべ)氏らの先祖であったのだろう。
 一方、先に述べたように「マナス叙事詩」によると、東へ向かって満州、日本へ行った人々の他に、「チベット方面」に行った人々もいるという。彼らはだれだろうか。
 彼らもエフライム族であると考えることもできるが、キルギス人になったマナセ族と同族であるとも考えられる。その人々は、次に見るように秦氏とも深く関係している。


チャン族らと別れた秦氏-----------------------------------------------------------------------------------

 中国の開封(かいほう)では、紀元前231年建立のヘブル語の碑が発見されている。これはそれ以前に開封にイスラエル人がやってきたということだ。
 今日もそこには「開封のユダヤ人」と呼ばれる人々が住んでいる。彼らはユダヤ人的な生活をしているので、「ユダヤ人」と呼ばれているが、「南王国ユダ」の末裔というよりは、「北王国イスラエル10支族」の末裔である。

 また、今日イスラエル10支族の末裔として、チベット北側の中国南西部に「チャン族」(チャン・ミン/羌族”きょうぞく”)が住んでいる。チベットの南側にも「シンルン族」「カレン族」などが住んでいる。彼らがみな10支族の末裔であることは、10支族調査団体「アミシャーブ」などが明らかにしている。
 アミシャーブのラビ・エリヤフ・アビハイルによれば、彼らチャン族、シンルン族、カレン族は、もとは同族であった。彼らはマナセ族が中心である。とくにシンルン族は「ブネイ・メナシェ」(マナセ族)と呼ばれている(「失われたイスラエル10支族」学研パブリッシング)。
 彼らはチベット方面に来る前に、中国北部や中部などにいた。つまり、もとは開封のあたりにいた。しかしそこで中国人から迫害され、抑圧され、戦乱に巻きこまれ、奴隷扱いされたりしたために、散り散りになりながらチベット方面へ逃げてきたのだった。
 このように中国・開封あたりで、イスラエル10支族の分散が起こった。
 このとき南のチベット方面に逃げた人々は、チャン族、シンルン族、カレン族などになった。また何とか開封のあたりに残った人々は「開封のユダヤ人」となった。
 しかしさらに東へ移動し、満州、朝鮮半島に逃げた人々もいたであろう。彼らが日本で「秦氏」と呼ばれた人々である。
 というのは、チャン族(羌族”きょうぞく”)は中国の五胡(ごこ)十六国時代(304〜439年)に「前秦”ぜんしん”」から独立して「後秦”こうしん”」を建国している(384年)。彼らの国は「秦」と呼ばれた。つまり秦氏は、イスラエル10支族の末裔であるチャン族(羌族”きょうぞく”)らと同族と考えられる。
 彼らのうち、ある者たちは前秦にいて、のちに後秦を建国したが、その戦国時代に中国にとどまるのではなく、中国を去って朝鮮半島へのがれ、さらに日本へ渡った人々もいた。それが秦氏なのである。
 実際、後秦を建国したチャン族は、日本人と同じくY染色体のD系統を高率で持っている。彼らは遺伝子的に日本人と同じである。秦氏は、彼らとつながりを持った人々だっただろう。

 明代(1368年-1644年)には、中国のユダヤ人は皇帝から艾(がい)、石(せき)、高(こう)、金(きん、キム)、李(り)、張(ちょう、チャン)、趙(ちょう)の7つの姓を授けられ、これらは今日でも見識することができ る。これらの姓は本来のユダヤ人の氏族の姓Ezra、Shimon、Cohen、Gilbert、Levy、Joshua、Jonathanをそれぞれ中国風にしたものであるという。面白いことに、これらの姓の内の2つ石と金は、西欧のユダヤ人の姓に多く見られるStone(Stein)やGoldと一致している。

秦氏渡来と王権委譲(出雲の悲劇)---------------------------------------------------------------------

 渡来した秦氏は、大王家(海部氏・エフライム族)の招きによって、新たに列島の中枢となったヤマトに入って行ったものの、大王家は彼らの裏に潜む計画には気付いていなかった。半島の動乱に乗じて次第に渡来秦氏は増え、いつしかその中枢部が契約の箱と十字架を持って二手に分かれて渡来した。

 契約の箱は九州、十字架は丹後半島に到着した。両方から包囲していこうとする作戦だった。そして、契約の箱があることを理由に、王権の移譲を迫ったものの、当然のことながら、最初は拒否された。しかし、彼らは買収工作を展開し、大王家に不満を持つように仕向けて行った。

 そんなある時、大事件が起きた。天宮一族と共に祭祀を行っていた出雲族での出来事である。出雲族は海部(あまべ)氏(エフライム族)の徐福系の葛城氏の一族である。

 出雲族の伊理泥王(イリネノミコ)が兄の留守の間に、管理していた御神宝の剣を秦氏に渡してしまったのである。帰って来てそれを知った兄は激怒し、イリネノミコを水浴びに誘い出し、だまし討ちして切り殺してしまった。兄弟間での血の惨劇は、カ・インとアバエルの惨劇の記憶を呼び覚ました。
 しかし、御神宝を手にした秦氏は、増々勢いづいてきた。このままでは、この小さな列島で秦氏と大戦争が発生してしまう可能性があった。そこで、大王家(海部氏・エフライム族)は一族と出雲族の代表、縄文の大王家を招集して議論した。出雲族は王権委譲に賛成していたが、大王家(海部氏・エフライム族)は最後まで抵抗の意志を示していたものの、ようやく結論を下そうとしていた。それは、卑弥呼亡き後、国が乱れた時と同様、無益な争いは避けるということだった。
 まさにその時、天から秦氏の神、イエスがニンギシュジッダに導かれて降臨した。そこには、エンキとウツ、イナンナ、イシュクルも随行していた。これにより、天宮一族は秦氏に王権を委譲することを正式に決定し、国が大混乱に陥ることが免れた。秦氏の大王フルは、その和平の印として天宮一族に婿(むこ)入りし、持っていたマナの壺を手渡した。しかし、天宮一族にとっては、最大の屈辱となった瞬間だった。

 半島での秦氏の動向は、BC2世紀頃に、東北アジアにツングース系騎馬民族の扶余(ふよ:夫余)が出現した。その大王の名が解夫婁(ヘブル)で、当然ヘブライのことである。彼らは朝鮮半島に達し、高句麗を建国した。更に南下し、元々あった馬韓(ばかん)に加え、辰韓(しんかん,)、弁韓(べんかん)を建国した。ただし、辰韓(しんかん)は海部(あまべ)氏(エフライム族)の一族が渡来し、彼らと友好を結んで建国した。
 百済の建国神話には、解夫婁(ヘブル)の息子の朱蒙(シュモウ)の2人の息子、沸流(フル:兄)、温祚(オンソ:弟)が登場する。フルは海側に、オンソは内陸に国を造り、オンソの国は百済へと発展したが、フルの方は土地がやせて衰退し、これを恥じてフルは自殺した、と。死んだことになっているのは、他の国へ行ってしまったということで、つまり、そのフルこそが、契約の箱を持って渡来した秦氏の大王だった。「百済本記」に依ると、百済王家の姓は解氏と真氏で、出自は扶余(ふよ)族とある。解氏は繁栄したが、真氏は滅びた。つまり、解氏=オンソで解夫婁(ヘブル)の“解”であって、真氏=フルである。
「新選姓氏録」には“真人は是、皇別の上氏なり”とあり、真氏の筆頭は息長真人(オキナガノマヒト)で、“誉田(ホムダ)天皇より出づ”とある。つまり誉田(ホムダ)天皇は応神天皇のことで、真氏が百済王家のフルならば、フルこそ応神天皇である。秦氏の中枢部として渡来した大王で、秦氏の初代天皇である。よって、応神の東征は神武の東征にそっくりで、応神縁の宇佐神宮(うさじんぐう)は“皇室第二の祖廟(そびょう)”とも言われている。宇佐は縄文以来の聖地である。

 秦氏がヤマトの中枢部に入って来たのは、AD240年~300年頃の、志理都彦命(シリツヒコノミコト)の時代である。その時代に海部(あまべ)氏と尾張氏に兄弟分家し、次の川上真稚命(カワカミマワカノミコト)の時代(AD315年頃)に海部(あまべ)氏本体がヤマトから丹波へと戻り、その後の丹波大矢田彦命(タンバオオヤタヒコノミコト)の時代には祭祀もヤマトから丹波へと遷され、同族の尾張氏は尾綱志理都岐根命(オヅナシリツキネノミコト)の時代(AD353年よりもやや後)に尾張に移動させられた。

 出雲族は純粋な海部(あまべ)氏の血統ではない。徐福は秦の始皇帝の命を受けて渡来した。秦帝国は失われた十支族、あるいはバビロン捕囚後にペルシャに残って移動した南ユダ王国の末裔、あるいはその両者の混合で、同じ“秦”を名乗る秦氏の正体を知ったことにより、容易に改宗した。それに、彼らの中には、海部(あまべ)一族や縄文王家に対して最初から好意を抱いていなかった者たちもいた。出雲族の悲劇は、出雲振根(イズモノフルネ)の話で日本書紀に書かれていた。

“崇神天皇は出雲大神の宮に納められている神宝を確かめさせるため、武諸隅命(タケモロズミノミコト)を出雲に派遣した。神宝は出雲振根(いずものふるね)が管理していたが、ちょうどこの時は筑紫(つくし)に行っていたので、弟の飯入根(イイイリネ)が対応し、弟の甘美韓日狭(ウマシカラヒサ)と子の鸕濡渟(ウカヅクヌ)に神宝を持たせて献上してしまった。帰って来た振根(ふるね)は怒り、いつか弟を殺そうと考えた。振根(ふるね)は密かに刀とそっくりな木刀を作り、腰に掛け、水浴びに誘った。振根(ふるね)は先に上がり、弟の刀を身に付けると、弟は驚いて兄の木刀を取ったが、振根(ふるね)に切り殺されてしまった。”

 時代的には崇神天皇=オトヨノミコトよりも後になるが、これは事実だった。場所としては現在の出雲地方ではなく、奈良県桜井市の纏向(まきむく)周辺の出雲である。また古事記の倭建命=ヤマトタケルの出雲征伐の話も似ている。

“景行天皇(けいこうてんのう)の命により、倭建命(ヤマトタケル)は出雲建(イズモタケル)を征伐しに行った。倭建命(ヤマトタケル)は木刀を作って身に付け、一緒に川に入り、倭建命(ヤマトタケル)が先に上がって出雲建の刀を取った。驚いた出雲建は上がって来て倭建命(ヤマトタケル)の刀を取ったが、抜くことができず、倭建命(ヤマトタケル)に切り殺されてしまった。”

 古事記ではヤマトタケルに変えられ、乱暴者として描かれているが、海部(あまべ)一族を陥れるためである。かつて、出雲は投馬国(とうまこく)と呼ばれる大丹波国の一部で、容易に国譲りした功績により、イリネノミコの子孫は後に出雲を与えられた。その子孫の一血統が蘇我氏である。これを、記紀では「合わせ鏡」により、最後まで抵抗していた出雲、という構図に書き換えた。むしろ、海部(あまべ)一族を出雲と重ねることにより隠した、と言う方がよい。蘇我氏は葛城氏の子孫だ、と主張しているが、そういう意味である。
 出雲大社では、本殿北側のスサノオを祀る社は素鵞社(そがのやしろ)で祀られているが、この“素鵞(そが)”も蘇我氏を暗示している。

 この事件をきっかけとして、秦氏の大王フル(応神天皇)が王権委譲されたのが、建振熊宿祢(タケフルクマノスクネ)の時代である。つまり、海部(あまべ)氏最後の大王がタケフルクマノスクネということである。兄弟分家の尾張氏は、その前の時代に尾張へと移動した。

 “フル”が名前に含まれているということは、応神の“フル”を暗示している。この大王の時代という暗示であり、かつ、御神宝=王権の象徴を渡した出雲“振”根(ふるね)も暗示している。つまり、御神宝と王権の委譲の両方の意味合いがある。古事記には気比(けひ)大神について記述があり、御食津神(みけつのかみ)である気比大神(けひのおおかみ)がホンダワケ(幼少の応神天皇)と名を取り換えるという話があり、これなどは王権を取り換えたという暗示である。
 第15代天皇の応神というと、第16代天皇の仁徳と並んで巨大な古墳が有名だが、仁徳は応神の子とされているが、事績(じせき)の一部が父の応神と重複・類似することから、元来は1人の天皇の事績を2人に分けたという説があり、日本書紀仁徳の条と古事記応神の条では矛盾が見られたりする。
 実は、タケフルクマノスクネこそ、第16代の仁徳天皇である。古事記では、仁徳は大変徳の高い天皇とされ、大阪の難波には世界最大の墳墓が造営された。これは、王権委譲に対して、最大級の賛辞と敬意が表されていることを暗示している。この大王だけは“ミコト”ではなく“スクネ”である。皇位継承権を奪われて、臣籍降下させられたことを暗示しているのである。

 ナンバは現在は大阪だが、本来の難波はその字が示す如く、日本海側だった。大阪湾では、波は凪(なぎ)なので“難”ではない。京都の日本海側の天橋立(あまのはしだて)の近くにも難波野(なんばの)という地名がある。本来は、丹後半島全体か日本海側が難波野だった。その難波を冠する大王が、タケフルクマノスクネ(仁徳天皇)の3世代前の難波根子建振熊命(ナンバネコタケフルクマノミコト、別名:丹波大矢田彦命)で、その1世代前が川上真稚命(かわかみまわかのみこと)で別名が大難波宿祢(おおなにわのすくね)で、海部(あまべ)氏本体がヤマトから丹波へと戻った時代である。よって、この大難波宿祢(おおなにわのすくね)の“スクネ”はヤマトの地から移動させられたことを暗示し、丹波大矢田彦命の難波根子建振熊命(ナンバネコタケフルクマノミコト)という別名は、難波野での祭祀が本格化したことを暗示すると同時に、実際に王権を譲らされた悲劇の大王の名を暗示している。
 タケフルクマノスクネ(仁徳天皇)は若狭の木津高向宮(こづたかむくのみや)で海部の姓を賜った。それが気比神宮(けひじんぐう)での逸話に変えられ、アマミヤ一族も“天宮”から“海宮(海部)”へと変えさせられた。
 導きのニンギシュジッダは猿田彦だが、エンキとウツ、イナンナ、イシュクルも随行したということは、海部(あまべ)一族(エフライム族)や出雲氏、縄文系は当然、イエスのことなど知らない。よって、イエス以前の彼らが祀っていた神々が降臨しなければ、王権の委譲はできない。エンキ、ウツ、イナンナ、イシュクルでメルカバー(神の戦車、天の車)を形成し、その中心がイエス。
 つまり、伊勢神宮の御紋はそれを暗示している。そして、神宮は太陽神を祀る。その原型はウツとイナンナなので、両者に共通の菱形をシンボルとした。そして、中心は十字なのでイエスだが、丸に十字で、イエスの父で地球の主エンキをも暗示する。そうなると、ニンギシュジッダも花弁の1つに入るというわけである。あるいは、十字をイエスの原型のイナンナと見なしても良く、そもそもの最高神アヌやニビルのシンボルと見なしても良い。


 また海部(あまべ)氏の奥宮、真名井神社はマナの壺に由来する。海部(あまべ)氏が代々宮司を継承する際、少々削って飲んだらしい。それは、外宮の多賀宮(たかのみや)に持って行かれ、その地下に安置された。

 また、神社は、崇神から応神までの間=応神の時代が建設ラッシュである。よって、秦氏が関与している。秦氏は、それまでの物部系神社を次々と封印していった。ヤハウェ信仰から絶対三神信仰へと変更するために。


応神天皇とキリスト----------------------------------------------------------------------------------------

 失われた十支族の流れを汲む騎馬民族の大王フル(真沸流)が、東シナ海を渡って九州物部王朝に渡来した。そこで、真沸流は婿入りし、物部王朝の大王となった。すなわち、絶対神ヤハウェ=天之御中主神信仰となったのである。この時、何故、すんなり婿入りして大王になれたのか?それは、同族ということもあるが、ユダヤの三種の神器の1つを持っていたからである。
 古代物部王朝で、海部氏と尾張氏の勢力が強かったのは、彼らが「マナの壺」と「アロンの杖」のどちらか、あるいは両方を持っていたためである。そこへ、フル(真沸流)がもう1つの三種の神器を持ってきた。アークだとしたら、エルサレム教団の秦氏から譲り受けなければならず、原始キリスト教徒に改宗する必要がある。しかし、物部氏に婿入りするとなると、また改宗しなければならない。もともと、失われた十支族の流れを汲む騎馬民族は信仰心が薄く、宗教にはこだわらなかった。そもそも、背教が原因で北朝は滅びたのである。よって、渡来する前は異教崇拝だった、もしくは特定の信仰は無かった。しかし、自らの出自であるヤハウェ信仰のことだけは忘れていなかったと考えると、原始キリスト教徒に改宗することなく、ヤハウェ信仰の物部氏にそのまま婿入りできる。
 よって、尾張氏が「アロンの杖」を持っており、そこにフル(真沸流)が「マナの壺」を持ってきたと考えるのが自然である。そして、婿入りの印として、もう1つの尾張氏である海部氏に「マナの壺」を託した。また、「マナの壺」は失われた十支族の中のガド族が継承した、という言い伝えがある。ガド族に、ヘブライ語で~出身という意味である「ミ」を付けると、「ミガド」すなわち「ミカド=帝」であり、天皇のことである。
 よって、フル(真沸流)はガド族出身であり、「マナの壺」を持っていたので騎馬民族の大王たることができた。つまり天皇というのはイスラエルからやってきたユダヤ人でもある。そして、古代物部王朝に婿入りし、最初の天皇“応神天皇”となったである。それ故、応神に続く天皇陵は、巨大な「マナの壺」の形をしているのである。日本の氏族の出自を記した「新選姓氏録」の序文には、“真人は是、皇別の上氏なり”とあり、天皇の姓は“真氏”であるとしている。天皇家にも姓があったのである。
 また、真氏の筆頭は息長真人(オキナガノマヒト)であり、“誉田(ホムダ)天皇より出づ”とある。誉田天皇とは、第15代応神天皇のことである。

 では、何故、フル(真沸流)が天皇となり得たのか。婿入りしてヤハウェ信仰となった真沸流大王は、アークを持っていた秦氏を呼び寄せた。ヤハウェ信仰とあらば、アークが必要だからである。秦氏の渡来は一度だけではなく、数回にわたった。フル(真沸流)は現在の大分県、宇佐にあたる地方に「豊国」という秦氏の王国を造り、そこに宇佐八幡宮を建立した。“八幡”とは“やはた”とも読み、やはた=イヤハダ=イエフダー=ユダヤであり、ヤハウェなのである。そして、そこから東征して行った。その途中(か最初かは未確定であるが)、フル(真沸流)の前に、イエスが降臨し、「私は在りて在る者」と言われた。ヤハウェが降臨する際に言っていたのと同じ、あの言葉である。
 真沸流は、ヤハウェとエルサレム教団の秦氏が信仰していたイエスが同一神であることが解ったのである。そして、イエスがこの大王の前に降臨して王権を授けた。それ以来、大王は秦氏から洗礼(バプテスマ)を受けて原始キリスト教徒となり、応神天皇となった。応神とは、神=イエスに応じる、ということである。天皇とは、正式には“天皇陛下”であり、天の皇帝=神の預言を梯子の下で聴く預言者、という意味である。

 こうしてイエスから王権を授かり、洗礼を受けた時点で、応神天皇は秦氏の携えているアークを手中に収めた。そして、婿入り先の物部氏は応神天皇に従った。イエスが各地に現れ、応神天皇に聖霊が降るのを見たからである。
 しかし、畿内の物部氏(海部氏=尾張氏支配下)は“自分たちは裏切られた”と思い込み、信仰を捨てた応神天皇に対して反乱を企てた。三種の神器の内の2つを保持する畿内では、旧約の神ヤハウェを唯一の神とする強い信仰があったからである。
 しかし、戦闘の最中に、天からイエス=ヤハウェが光り輝きながら降臨した為、古い旧約の神は新しい新約の神に全権を譲ることになった。すなわち、神武東征伝説に於ける「八咫烏」の導きとは、フル(真沸流)を原始キリスト教に改宗させたエルサレム教団の秦氏のことであり、勝利をもたらした、光り輝く「金鵄」とは、光り輝きながら降臨したイエス=ヤハウェのことである。
 こうして応神天皇は「契約の箱アークと十戒石板」「マナの壺」「アロンの杖」を手中に収め、イスラエル十二支族を象徴するヘブライ語“ヤマトゥ”に因んで、大和朝廷を開いたのである。よって、応神以前は架空の天皇であり、応神天皇=天皇家は祭司一族ではないから、三種の神器を直接扱うことはできないのである。
 これで、ヤハウェ=イエス=天之御中主神=天照大神となった。つまり、神道とは、天照大神=イエス・キリストを唯一神とする絶対神崇拝なのである。

 以後、天皇家は代々天孫降臨の奥義を伝えるために大嘗(だいじょう)祭を行ってきた。大嘗祭とは、新しく天皇となる儀式であり、即位の礼が表向きの儀式に対して、大嘗祭は天皇家秘伝の裏の儀式である。毎年、勤労感謝の日に行われているのが新嘗(にいなめ)祭であり、その年の収穫に感謝する儀式であるが、大嘗祭は、その特別なものである。

 大嘗祭では、まず天皇となる前の皇太子が禊ぎ=バプテスマを行う。その後、麁服(あらたえ)という白装束、すなわち“死に装束”を着用して儀式を進行する。(麁服は、代々、阿波の忌部氏が制作することになっている。阿波忌部氏の家系で有名なのが、三木元総理である。)そして、天照大神と共に食事をし、御襖(おふすま)と言われる寝床に横になり、また起き上がる。
 すなわち、大嘗祭とは“最後の晩餐”“死”“復活”を再現することによりイエス・キリストの霊と一体となり、正式に王権を継承する儀式である。
 そして、天照大神は男神であるから、天皇は男性でなければならないのであり、これこそが“男系万世一系”の真相である。
 しかし、イエスの国仕掛けの命により、日本の存在を世界の目から隠すため、すべてを封印したのである。秦氏によって。(以後、秦氏とは、純系エルサレム教団の事を指す。)

 そのカッバーラを含めた日本の陰陽道の創設者が聖徳太子である。聖徳太子の補佐をしたのが、秦河勝、秦氏であり、聖徳太子が秦氏により陰陽師を形成し、万世一系の天皇主義の根幹を樹立した。それは、次のようなものである。
 基本となる陰陽師(漢波羅)は12人であり、十二支族、イエスの12人の使徒に由来する。当然、エルサレム教団=秦氏である。この組織を「八咫烏」と言う。“烏(からす)”は鳥(とり)なので、“鳥(とり)”が象徴である。
 八咫烏こそ、応神天皇を改宗させ、祭祀を一手に担ってきた秦氏の中の祭司一族、“秦氏の中の秦氏”である。よって、鳥は秦氏の象徴でもある。
 その中の中核の3人を「大烏(おおがらす)」と言う。3人とは、いつもイエスが特別に扱ったペトロ、ヤコブ、ヨハネであり、且つ「生命の樹」の3本の柱を表す。そして、3人の大烏で「金鵄(きんし)」を構成する。天照大神と高御産巣日神(たかみむすびのかみ)が遣わした3本足の大きな烏が「八咫烏」であった。高御産巣日神(たかみむすびのかみ)は「慈悲の柱」であり、天照大神=イエスであるから天照大神も「慈悲の柱」となり、イエス=天照大神=高御産巣日神なのである。

「金鵄(きんし)」こそ、宮中祭祀の奥義を知り尽くし、すべての神社を裏から取り仕切っている裏神道の天皇、裏天皇である。神武東征伝説に於いて八咫烏と金鵄(きんし)が勝利をもたらしたのは、このことを意味し、天皇と裏天皇が表裏一体ということを表している。そもそも大嘗祭では、奥義を伝えるべき天皇は“お隠れになって”存在しないので、誰が皇太子にその奥義を伝えるのか、考えてみればその矛盾にすぐ気づく。
 表向きの神道(=八百万の神々、陰陽道)に対する裏の神道(=唯一絶対神、カッバーラ)の総本山は下鴨神社である。下鴨神社の主祭神は賀茂氏の祖、賀茂建角身命=八咫烏命である。よって、京都市左京区の下鴨神社にバプテスマ(洗礼)用の糺(ただす)の森があり、賀茂氏こそ、八咫烏である。

以下、具体例を示す。

<数字>
・意味:根幹はユダヤのカッバーラ数秘術。
1:唯一絶対神。天之御中主神。一つ巴紋。唯一絶対神とは、人間に関わる神=イエス=ヤハウェを表す。
2:「合わせ鏡」の同一神を表す。二つ巴紋。
3:「生命の樹」。三柱の神=絶対三神で唯一絶対神を構成する。三つ巴紋。
4:神の戦車メルカバー。流出世界、創造世界、形成世界、活動世界の四界。4本の柱。YHWHのテトラグラマトン。
5:五芒星(セーマン、ソロモンの星)。悪魔封じ、魔除け。
6:六芒星(ダビデの星)。2つの三角形が天と地を向き、調和していることを表す。7が神の数字であるから、それより1少ない6は人間を表す。
7:神の数字。三柱の神がメルカバーで囲まれている。7日間で天地創造。オリオン座。(三ツ星が4つの星で囲まれている。)
8:7の裏となり救世主。元々は太古の地球に君臨したシュメールの大神アヌの象徴。
9:「生命の樹」の三柱(神)三界。
10:イエスが磔刑に処せられた十字架。10個のセフィロト。
11:ダアトも含めたセフィロトの数。
12:十二支族、12人の使徒。
13:ダアト=知識の門=神界の前に達する7個のセフィロトと6個のパスを合わせて13で、完全数。12人の使徒とイエス。

・七五三
 神世七代での三柱、五柱、七代で「七五三」を形成する。「七五三」とは、神による国造りを人間の成長段階に当てはめたもの。また、「生命の樹」の配列である縦3列、横3列から成る魔法陣(ゲマトリア)が形成される。

4 9 2
3 5 7
8 1 6

 縦、横、斜め、いずれの和も15となり、15は1+5=6、すなわち、人間を表す。この升目(ますめ)を線で区切ると、漢字の「囲」となり、閉じた宇宙を表す。中心は5なので、表の神道では5が最も重要となる。(鯉のぼりの吹き流し、五色の短冊、五色の旗など。また、手足の指は5本、五体満足。人間の遺伝子は5個の塩基で構成される。)
 ゲマトリア内の奇数=陽数を結ぶと“十字”となり、聖十字架の象徴である。そして、9→7→5→3→1のZ型のジグザグはヤハウェの象徴である雷を、Zはイエス自身を指す最後の文字(オメガ)を表す。

<漢字>
 日本の漢字は中国のものと異なるものが多い。これは、漢字の表意性にカッバーラで意味を封じ込めたため。「漢字破字法」で解読する。

・天皇陛下
天皇は天+皇。(下上)賀茂神社では、「天」は下の棒を長く書き、書き順も工→人である。そして、更に分解して工+人+白+王。大工(石工)である人は、白く光り輝く王である、という意味。すなわち、イエス・キリストのこと。陛下とは、神とを繋ぐ梯子(ヤコブの梯子、天橋立)の下で、神に仕える預言者のこと。

・天照大神
天照大神とは、工+人+日+召+火+一+人+神。太陽の輝き(火)を持つ唯一の神に召された、光り輝く大工。すなわち、イエス・キリストのこと。

・山
三柱、すなわち、絶対三神と「生命の樹」を表す。原型はピラミッド。

・秦
秦は三+人+ノ+木。つまり、三柱の「生命の樹」である。

・大酒(おおさけ)神社
大酒の元字は大辟(だいびゃく)で、意味は“死刑”で、イエスの磔刑。同音で別の字では大闢(だいびゃく)。この字は、中国ではダビデの意味。

<言葉の音、読み>
・秦氏、八幡、機物
はた=イヤハダ=イエフダー=ユダヤ。それとは別に、大阪に機物(はたもの)神社がある。機物とは、織物などではなく、“磔刑用の木材”のことで、つまり十字架のこと。“生贄”という意味まである。秦氏の“はた”には、十字架の意味まで込められている。

・イエス
イエス・キリストをヘブライ語ではヨシュア・メシアッハ、アラム語ではイシュ・マシャ、メソポタミア東部やインドではイズ・マシと言う。イズは日本語ではウズとなる。太秦はヘブライ語で“ウズ=光”“マサ=賜”と同時に、イエスのことも指す。元々、イエスは光り輝く日の神なのである。弓月君は大酒(おおさけ)神社では“ゆんずのきみ”と読まれているが、“光の君=光の王=イエス”ということ。

・天宇受売命(アメノウズメノミコト)
“ウズメ”に注目する。ウズ=イエス、メ=女なので、イエスの女=妻。また、天宇受売命(アメノウズメノミコト)は猿田彦(さるたひこ)の妻となった。「多次元同時存在の法則」から猿田彦=天照大神=イエスであり、猿田彦は天宇受売命(アメノウズメノミコト)と結婚後、宇豆彦(ウズヒコ)とも呼ばれるようになった。ここからも、宇豆=ウズ=イエスであり、天宇受売命(アメノウズメノミコト)はイエスの妻だったのである。
 そして、天宇受売命(アメノウズメノミコト)のモデルはマグダラのマリアだったので、イエスとマグダラのマリアは結婚していたことになる。天宇受売命(アメノウズメノミコト)と猿田彦(さるたひこ)は猿女君(さるめのきみ)の祖となり、猿女君(さるめのきみ)は神楽(かぐら)→猿楽(さるがく)→能楽(のうがく)の祖である。神楽を舞うのは神に仕える女性、巫女であり、男神と一体となる女性である。よって、イエスは神殿の巫女であるマグダラのマリアと結婚した、と日本の神話に書かれているのである。


漢字を作ったのはアヌンナキで、聖書の内容も表している-----------------------------------------

 普段使っている漢字の多くは、聖書的な真理を表している。その一つに「義」という漢字がある。

「義」
「義」という字は、義=羊+我となっている。聖書でキリストは象徴的に「犠牲の小羊(羔”こひつじ”)」と呼ばれているので、「義」とは"小羊なるキリストが我の上にあること"。「義」とは自分(我)の上にキリストを置き、自分の救い主として王座にお迎えすること。この「義」の字は、中国で伝道したイギリス人宣教師ハドソン・テーラーが、よく用いたことでも有名。

「船」
 ノアとその家族は、彼の時代に起きた大洪水のとき、「箱船」に乗って救われた。このときノアとその妻、また彼らの息子セム、ハム、ヤペテとその妻たち、計八人が箱船によって救われた(ペテロの第一の手紙3:20)。「船」という字は、中国人テモテ・ザオ宣教師や、C・H・カング宣教師によると、もともと"ノアの箱船"のこと。「船」は船=舟+八+口となっている。このうち「口」は、「人口」という言葉にも見られるように、人のこと。中国では人を数えるのに「口」を用いた。つまり「船」は"八人の乗った舟"ということ。つまりノアの箱船のこととなる。「船」に限らず、漢字の中には、創世記の内容を表した漢字が多くある。

「造」
 聖書・創世記二・七に「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は生きものとなった」と書かれている。土から形造られた肉体に、いのちの息=霊が吹き込まれて、人が「創造」された。創造の「造」の字は、造=土+ノ+口+辶(しんにょう)となっている。このうち「土」は、アダムの肉体を形成した「土」を思い起こさせる。また「ノ(のかんむり)は生命を表す。たとえば「鳥」「牛」「血」「生」の字に見られるように、「ノ」は生命に関係している。「口」は、いのちの息をアダムに吹き入れる神の口を想起させる。
 また「辶(しんにょう)」は、歩行を表す。たとえば「送」「退」「迎」「追」「逃」「迷」「進」「道」などの字に見られるように。よって「造」の字は"土に、神の口からいのちの息(ノ)が吹き込まれ、歩く(辶"しんにょう")ようになったこと"を表すもので、まさにアダム創造の出来事を想起させる字である。


「先」
 アダムは人類最初の人だった。彼が人類で一番「先」の人だった。この「先」という字は、先=土+ノ+儿(にんにょう)となっている。「儿(にんにょう)」は、「亻(にんべん)」と同じように「人」を表す。つまり「先」は"土で形造られ、生きる(ノ)ようになった人(儿"にんにょう")のことでアダムのこと。アダムが「先」となる。

「元」
 神(アヌンナキ)はアダムを造ったのち、アダムのわきから取って、女エバを造った。彼らアダムとエバが全人類の両親。彼らが全人類の「元」となった。この「元」という字は、元=二+儿(にんにょう)となっている。先に見たように「儿(にんにょう)」は人を意味するので、これは"二人"ということで、アダムとエバの二人を思い起こさせる。彼ら二人が、全人類の「元」となった。

「完」
 アダムはエバを妻とし、一つの住まいをかまえた。こうして家庭が「完全」になった。この「完」という字は、先の"二人"を意味する「元」に「宀(うかんむり)」をかぶせたもの。「宀(うかんむり)」は屋根を意味する。つまり「完」は、"一つ屋根(宀"うかんむり")のもとにアダムとエバの二人(元)が暮らすようになった"ことを表し、こうして家庭が「完全」になった。

「田」
 アダムとエバは、「エデンの園」に暮らしていた。聖書によるとエデンの園からは、地下水がわき出ていて、四つの川となっていた。「一つの川が、エデンから流れ出て園を潤し、そこから分かれて四つの川となった(創世記2:10)」と書かれている。「田」という漢字を見ると、田=口+十で、境界線を表す「口」の中に、中心から四方向に線「十」が出ている(古代漢字の「田」は角がなく、もっと丸い形をしていた)。
 日本語で「田」というと「田んぼ」のイメージだが、中国で「田」は「田んぼ」だけでなく、「園」や「畑」のようなところも意味した。つまり「田」の字は、まさに四つの川が流れ出ていたエデンの園を思わせる字である。

「果」
 エデンの園の中央には、「いのちの木」と「善悪を知る木」が生えていた。それらの木は、それぞれ「果実」をならせていた。果実の「果」は、果=田+木となっている。「果」とは、もともとエデンの園の木の果実を表した。

「裸」
 アダムとエバは、罪を犯す前は裸だった。また、裸を恥ずかしいとは思わなかった。「そのとき人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいとは思わなかった(創世記2:25)」しかし彼らが神の命令に背き、「善悪を知る木」の果実を取って食べたとき、不思議にも彼らは自分たちが「裸である」と思うようになった。そして以後「衣」を着るようになった。「裸」という字は、裸=衣(ころもへん)+果。つまり「裸」とは、"果実を食べ、衣を着るようになった以前の状態"を意味する。

「福」
 アダムはエデンの園で創造されたのち、神(アヌンナキ)の「祝福」のもとにあった。この「福」という字は、福=ネ(示)+一+口+田となっている。このうち「ネ(しめすへん)は単に「示す」ということでなく、「神」も意味する。たとえば「禊(みそぎ)」=清め、「祠官(しかん)」=神官、「祠祀(しし)」=やしろを建てて祭ること、というように、「示(しめすへん)」はそれだけで神を表す。
 また「一」は、数字の「一」。「口」は「くち」の意味もあるが、中国では「人」の意味もある。日本でも、「人口」という言葉があるように、昔の人々は口の数をもって人を数えた。また「田」をエデンの園と解すれば、結局「福」の意味は、"一人の人(口)がエデンの園(田)で、神(示)と共にいる"こととなる。神(アヌンナキ)はエデンでアダムと共にいて、彼を祝福された。

「禁」
 神(アヌンナキ)はエデンの園の中央に、二本の木「いのちの木」と「善悪を知る木」を生えさせた。そしてそれら二本の木を示して人に命じた。「善悪を知る木からは、取って食べてはならない(創世記2:17)」。神(アヌンナキ)は一つの禁止事項を示した。この「禁」という字は、禁=木+木+示で、"二本の木を示す"ということ。神(アヌンナキ)は二本の木を示し、そこで禁止事項を語った。

「魔」
 そののち、アダムとエバのもとにサタン=悪魔が、「へび」の姿をして近づいてきた。そしてふたりを誘惑した。悪魔の「魔」という字は、魔=广(まだれ)+木+木+鬼というふうになっている。この「广(まだれ)」は、"おおい"を表す。また二本の「木」は、エデンの二本の木を思い起こさせる。つまり悪魔は、"二本の木の陰に隠れていた(广"まだれ")鬼"であった。
 この「鬼」だが、鬼=田+ノ+ム+儿(にんにょう)となっている。「田」はエデンの園、「ノ」は生きていること、また「ム」は、漢字辞典によると「ぼう」と読み、「某」の意味。「儿(にんにょう)」は人。つまり「鬼」とは、"エデンの園にいたある霊的存在"を意味する。

「世」
 ノアの大洪水以前の地球の上空には、「大空の上の水(創世記1:7)」と呼ばれる水蒸気層があったので、それが宇宙から飛んでくる有害な宇宙線や紫外線を遮断し、地上の人々の寿命を長く保っていた。
 しかし大洪水後、その水蒸気層がなくなると、地上の人々の寿命は激減し、長くても「120歳」程度となった。「わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ。しかし、彼の年は百二十年であろう(創世記6:3)」
 また人が親になる年齢も早くなり、「一世代」は約三〇年程度になった。創世記11章を見ると、大洪水後の人々は、だいたい30歳前後で第一子を生んでいる。昔は「三十」を「卅(そう)」と書いた。この「卅(そう)」から「世」の字が生まれた。実際漢字辞典を見ると、「世」には"三十年"の意味もある、と書いてある。このようにノアの大洪水以後、一世代は約三〇年になった。

「乱」
 大洪水後、人々は再び地上に増えていった。数百年たって、地上に最初の帝国主義があらわれた。人々は、その帝国主義の象徴として、「バベルの塔」と呼ばれる巨大な塔を建設しようとした。しかし神(アヌンナキ)は、その試みを喜ばなかった。
 神(アヌンナキ)は人々の言葉を「乱す」ことによって、塔の建設を中断させ、人々を全地に散らした。
 「それゆえ、その町の名はバベル(混乱の意)と呼ばれた。主(神=アヌンナキ)が、全地の言葉をそこで混乱させたから、すなわち主が人々をそこから地の全面に散らしたからである(創世記11:9)」。
「乱」という字は、乱=舌+乚(おつにょう)となっている。「舌」は言葉を話す舌、「乚(おつにょう)」は人を意味する「兀(こつ)」の右足部分。つまり「乱」は、"人々が舌をみだされ、全地に散って歩いて(乚"おつにょう")いった"という、バベルの塔の出来事を象徴している。

「架」
 バベルの塔から二千数百年の歳月が過ぎ、ついに紀元前4年、ユダヤのベツレヘム村にイエス・キリストが降誕する。彼は旧約聖書によって何百年も前から予言されていた通り、人間を罪と滅びから贖(あが)ない出すために十字架にかけられたとされる。
 十字架の「架」の字は、架=力+口+木となっている。「口」は、先に見たように人の意味なので、これは"力ある方(口)が木の上におられる"という意味。

「木」
「木」の字をよく見ると、"十"(十字架を表す)と"人"から成っている。木=十+人。"人"が"十字架"につけられている。"木"はキリストの十字架を思わせる。

「来」
 イエス・キリストは、「わたしは、世をさばくために来たのではなく、世を救うために来た(ヨハネによる福音書12:47)」と言った。「来」は古くは「來」と書き、「來」の字を見ると、"十(十字架)"と、ふたりの小さな"人"、およびひとりの大きな"人(キリスト)"から構成されている。來=十+人+人+人、これは、聖書の次の記述を思わせる。「ほかにも、ふたりの犯罪人が、イエスと共に死刑にされるために、引かれていった。・・・・人々は、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に(ルカによる福音書23:32〜33)」
 イエスは、ふたりの犯罪人らと共に、十字架にかけられた。十字架は、イエスがこの世に「来た」目的だった。キリスト来臨の目的である十字架の光景が、「來」の一字の中に示されている。

「計」
 キリストが世に来て、人々の贖(あがな)いのために十字架にかけられることは、神(アヌンナキ)の計画によるものだった。聖書に、「イエスが(十字架に)渡されたのは、神の定めた計画と予知とによる(使徒行伝2:23)」と記されている。この「計画」の「計」の字は、"言"と"十"(十字架)から成っている。計=言+十、"言"から思い起こされることは、聖書でキリストは「神の言」と呼ばれていること。「言は人となって、私たちの間に住まわれた(ヨハネによる福音書1:14)」
 つまり「計」の字は、神(アヌンナキ)の"言"なるキリストが"十字架"にかけられることを示している。神の"言"が"十字架"にかかることが、神(アヌンナキ)の「計画」だった。

「滅」
「滅」は、"水(さんずい)"、また"火"と"成"からできている。滅=水+火+成、聖書にはこう書かれている。「当時の世界(ノアの大洪水の時の世界)は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし今の天と地は・・・・火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔(ふけいけん)な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです(ペテロの第二の手紙3:7)」  聖書によれば、かつて地の人々は、"大洪水"によって滅ぼされた。いわゆるノアの大洪水である。また来たるべき日には、今度は"火"によって滅ぼされることが、警告されている。天地は世の終わりに、火のうちに過ぎ去る。すなわち神(アヌンナキ)による滅びは、「滅」の字自体に示されるとおり、水と火によって成就するわけである。

「道」
 イエス・キリストは言った。「私が道です(ヨハネによる福音書14:6)」。この「道」という字は、"首"と"辶(しんにょう)"から成っている。道=首+辶(しんにょう)"首"について、聖書にはこう書かれている。「キリストは教会の首"かしら"(エペソ人への手紙5:23)」。「かしら」は今は「頭」と書くが、昔は「首」とも書いた。キリストが"首"ということ。
 一方"辶(しんにょう)"は、「行く」や「歩く」の意味を持っている。それは「迎」「追」「迷」「速」「通」の字に見られるように、歩行を表す。つまり「道」は、"かしら(首)"なるキリストの"歩いた"道。「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を示されました(ペテロの第一の手紙2:21)」。
“The Discovery of Genesis" C.H.Kang and Ethel R. Nelson, Concordia Publishing House, U.S.A.
レムナント三六号「漢字で聖書を語る」(福原秀憲)

ヘブライ語からひらがな・カタカナ---------------------------------------------------------------------

 古代イスラエルからの末裔が日本へやってきて、ヘブライ語からひらがなとカタカナを生み出す。ヘブライ語は古代イスラエルにおいて神代文字が流用されて作られた。

イスラエル10支族より伝わった日本の歌--------------------------------------------------------------

 正確な年代は不明だが、イスラエルより日本へやって来た10支族が、現代の日本人にも馴染みのある伝統的な歌をもたらす。君が代、さくらさくら、かごめかごめ、ソーラン節(カタカナ部分の歌詞)は、ヘブライ語でも意味が理解できる。日本語とヘブライ語では、発音が似ている単語が多い。

●君が代
君が代は ⇒ クムガヨワ(立ち上がれ!)
千代に 八千代に ⇒ テヨニ ヤ・チヨニ(神の選民 シオンの民!)
細石の ⇒ サッ・サリード(喜べ・人類を救う、残りの民として)
巌となりて ⇒ イワ・オト・ナリァタ(神の予言が成就する!)
苔の生すまで ⇒ コ(ル)カノ・ムーシュマッテ(全地あまねく 宣べ伝えよ!)

●さくらさくら
さくら さくら ⇒ SKR SKR(隠れた 隠れた)
やよいの空は ⇒ YYH YN SRH(唯一の神が迫害され、耐えて)
見わたす限り ⇒ MWT KGR(犠牲として死に、)
かすみか雲か ⇒ KSM KMK(くじ引きにされ、取り上げられた)
匂いぞ出ずる ⇒ NOH YZR(素晴らしい神の計画)
いざや いざや ⇒ YZY YZY(神の救い 神の救い)
見にゆかん ⇒ MN YK(捧げ物を決めた)

●かごめかごめ
かごめかごめ ⇒ カゴ・メー カゴ・メー(誰が守る? 誰が守る?)
籠の中の鳥は ⇒ カグ・ノェ・ナカノ・トリー(硬く安置された物を取り出せ)
いついつでやる ⇒ イツィ・イツィ・ディ・ユゥー(契約の箱に納められた)
夜明けの晩に ⇒ ヤー・アカ・バユティー(神譜を取り、代わるお守りを作った)
鶴と亀がすべった ⇒ ツル・カメ・スーベシダ(未開の地に水を沢山引いて)
後ろの正面だあれ? ⇒ ウシラツ・ショーメン・ダラー(水を貯め、その地を統治せよ!)

●ソーラン節
 ソーラン節(ぶし)は、北海道の日本海沿岸の民謡である。ニシン漁の歌として有名である。歌詞のハイハイ・チョイは手拍子である。

ヤーレンソーランソーラン ヤレン ソーランソーラン ハイハイ
男度胸は五尺のからだぁドンと乗り出せぇ波の上チョイ
ヤサエンエンヤーーーァサーァのドッコイショ ハードッコイショドッコイショ

ヤーレンソーランソーラン ヤレン ソーランソーラン ハイハイ
舟も新らし乗り手も若い 一丈五尺のろもしなるチョイ
ヤサエンエンヤーーーァサーァのドッコイショ ハードッコイショドッコイショ

ヤーレンソーランソーラン ヤレン ソーランソーラン ハイハイ
沖の暗いのは北海あらし おやじ帆を曲げぇかじをとれチョイ
ヤサエンエンヤーーーァサーァのドッコイショ ハードッコイショドッコイショ

ヤーレンソーランソーラン ヤレン ソーランソーラン ハイハイ
おやじ大漁だ昔と違う 獲れた魚はおらがものチョイ
ヤサエンエンヤーーーァサーァのドッコイショ ハードッコイショドッコイショ

意味
ヤー     IHWI   ヤハウェは在る
レン     IkhNN   憐れみ深く
ソール    SWR    注目せよ
ラン     IkhNN   憐れみ深く
ソーラン
ソーラン
ソーラン
(ハイハイ) HIH HIH 居ます、居ます

チョイ    TQY    投げる
ヤ      IH     ヤハウェは
サエ     SWR    敵を
エン     AN     私は
ヤン     YAHLL   賛美する
サー     IH     ヤーウェを
ノ      NA     願う
ドッ     DKA    粉砕せよ
コイ     khWI    カイ(?)
ショ     SWR    敵を
(ハ ドッコイショドッコイショ)

日本語とヘブライ語の単語の発音と意味---------------------------------------------------------------

ミカド (帝)    - ミガドル (高貴なお方)
ミコト (尊)    - マクト  (王、王国)
ネギ  (神職)   - ナギット (長、司)
ミササギ(陵、墳墓) - ムトウサガ(死者を閉ざす) 
アスカ (飛鳥)   - ハスカ  (ご住所)
ミソギ (禊ぎ)   - ミソグ  (分別・性別) 
ヌシ  (主)    - ヌシ   (長)
サムライ(サムライ)  - シャムライ(守る者)
ヤリ  (槍)    - ヤリ   (射る)
ホロブ (滅ぶ)   - ホレブ  (滅ぶ) 
イム  (忌む)   - イム   (ひどい)
ダメ  (駄目)   - タメ   (ダメ・汚れている) 
ハズカシメル(辱める)- ハデカシェム(名を踏みにじる)
ニクム (憎む)   - ニクム  (憎む)  
カバウ (庇う)   - カバア  (隠す)
ユルス (許す)   - ユルス  (取らせる)
コマル (困る)   - コマル  (困る)
スム  (住む)   - スム   (住む)
ツモル (積もる)  - ツモル  (積もる)
コオル (凍る)   - コ-ル  (寒さ、冷たさ) 
スワル (座る)   - スワル  (座る)  
アルク (歩く)   - ハラク  (歩く)
ハカル (測る)   - ハカル  (測る)
トル  (取る)   - トル   (取る)
カク  (書く)   - カク   (書く)
ナマル (訛る)   - ナマル  (訛る)
アキナウ(商う)   - アキナフ (買う) 
アリガトウ(有難う)  - アリ・ガド(私にとって幸福です)
ヤッホー(※山で叫ぶ)  - ヤッホー  (神様、栄光の神)

レビ族の秦氏によって日本にお盆が伝わる------------------------------------------------------------
 
 お盆は、もともと仏教の行事のように思われているが、実はそうではない。沖縄では、旧暦の7月15日がお盆である。日本全国を見れば、8月15日に行なう地域もある。実は、日本に仏教が入るよりずっと前から(日本書紀では522年)、「祖霊祭(たままつり)」という神道の祭りが日本にあった。この祖霊祭が仏教行事に取り込まれて、今のお盆になった。この祖霊祭のルーツが、古代イスラエルの仮庵(かりいお)の祭りである。聖書には、仮庵の祭りの日程について、次のように記されている。

「なお第七の月の十五日、あなたたちが農作物を収穫する時には、七日の間主の祭りを祝いなさい。・・・・・・あなたたちは七日の間、仮庵に住まねばならない。」(レビ23:39-42)


 日本には早い時期からシルクロードを通って、原始キリスト教徒(景教徒)の秦氏が来ていた。彼らはユダヤの祭りを守るクリスチャンだった。その原始キリスト教は、中国に入ると景教と呼ばれた。そして原始キリスト教と同じように、景教も多くのユダヤの風習と文化を継承していた。
 景教には、先祖の霊魂のために祈る風習があり、大秦景教流行中国碑(だいしんけいきょうりゅうこうちゅうごくひ)には、彼らは「日に七度、生者と死者のために祈っていた」と記されている。そしてユダヤの仮庵の祭りのときにも、「イズコル」と呼ばれる、死者のための特別な追悼の祈りがささげられた。

 今日のユダヤ教においても「イズコル」は続いており、旧暦の7月15日の「仮庵の祭り」のときをはじめ、年に数回、先祖の霊のために祈る時がもたれる。ユダヤ人は、昔から死者の慰安のために祈る風習があった。実は中国には、ソグド人(ペルシャ系アッシリア人:祖霊のために祈る風習を持つ)や景教徒たちがやって来るまで、死者のために祈る盛大な行事としてのお盆はなかった。そしてインド仏教にも、中国仏教にも、当初、お盆や死者のための供養の行事はなかったのである
 古代イスラエルでは神殿があった時代、仮庵の祭りの時には、ともし火をともす風習があり、神殿の庭に巨大なともし火が設置され、他にもかがり火や大きな燭台などで照らされた。沖縄のお盆でも祖霊を案内するために、迎え火(提灯)や送り火(ウチカビを焼いて送る)があるが、火を祈りに用いる風習は、ユダヤ教でもキリスト教でも古くからあったのである。

 またユダヤには「仮庵(かりいお)の祭り」と同じくらい盛大に祝う「過越しの祭り」があるが、その時には、先祖を代表して、預言者エリヤを迎えるということをする。つまりエリヤの席(空席)をもうけ、ぶどう酒をついだグラスをその席に置き、扉を開けっ放しにしておく。
 この先祖を招いて、共に食事をするという感覚は、沖縄(日本)も同じである。ただここではエリヤが神とされるのではなく、エリヤは先祖の代表であり、先祖と共に聖書の神ヤハウェ(アヌンナキのエンリル)を礼拝しているのである。預言者エリヤの名前も「ヤハウェは神である」という意味で、名前そのものが信仰告白になっている。
 沖縄の祖先崇拝において「先祖の神」とは、亡くなった先祖が神になったかのように、理解されているが、本来はそうではない。なぜなら聖書の神ヤハウェ(エンリル)も「先祖の神」と呼ばれ、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と言われる(アブラハム、イサク、ヤコブはイスラエルの3大父祖)。この「先祖の神」とは、先祖が神になったのではなく、先祖が信仰し礼拝していたおおもとの神のこと、つまりアヌンナキのことである。つまりお盆と盆踊りは、アヌンナキを崇める祭りなのである。

「日本・ユダヤ封印の古代史2」久保有政、ケン・ジョセフ共著
「驚くほど似ている日本人とユダヤ人」エリ・コーヘン著

レビ族の秦氏によって日本に盆踊りも伝わる----------------------------------------------------------

 エルサレムに神殿があった時代、ユダヤ暦7月15日の仮庵(かりいお)祭の時には、神殿の庭に巨大な灯火が設置され、高い位置に掲げられた。そこに来るヘブライの民も、篝火(かがりび)や松明(たいまつ)を持って集まった。そして、神殿自体も大きな燭台(しょくだい)で照らされた。これらの光は、夜のエルサレムとその近郊を明々と照らし出し、その光景は遠くからも見ることができたという。人々はその灯火の下で踊った。これが盆踊りの起源となる。現代において盆踊りは、盆の時期に死者を供養するための行事、またその行事内で行なわれる踊りとされている。つまり盆踊りも秦氏が、日本にもたらした。また、イスゴルという死者のための特別な追悼の祈りが捧げられた。

 古代から日本人は神を一人二人ではなく一柱二柱と数えた。これは古代の日本人の世界観を表しており、柱に神が宿るということは、すべての中心の軸に神が宿るということである。宇宙はスピンから生まれ、黄金螺旋トーラスの形で成り立っている。スピンの中心には軸が生まれ、すべての中心には軸が生まれる。一つの軸によってすべての存在はひとつに統合できる。この世界観はこの時代から存在するもので、縄文時代には、円形に家を建てて村が形成されていた痕跡が残っている。さらに盆踊りが広場中央のやぐらの周囲を回りながら音頭にあわせて踊る形式は、アヌンナキのイナンナを表す渦のデザインとも合致する。
 縄文人は住む場所を神聖な場所にするため、どこに住居を構えれば良いか計算していた。それはご神木と言って、木を神と認識していた。木の年輪とは最初の細胞は死んで、生きた細胞がまわりを取り巻き形成されていく。新しい細胞が古い細胞のまわりを取り巻いていく。年輪と同じように最も古い祖先は、常に一番の中心に存在していた。それを継承したのが日本の各地に見られる盆踊りであり、円の中心に祖先を祀っている。


正月も餅の文化もイスラエルより伝わる---------------------------------------------------------------

 神道の神棚に供える餅、酒、初物などはイスラエル人の供え物と同じで、秦氏がイスラエルから中国を経て、日本へ伝えた。イスラエル人が正月に種なしパンのマッツァーを食べるように、日本人も餅(種なしパン)を食べ、正月を過ごす。
「正月の十四日の夕は主の過越の祭りである。…あなたがたは七日の間は種入れぬパンを食べなければならない。その初めの日に聖会を開かねばならない。どんな労働もしてはならない。…第七日には、また聖会を開き、どのような労働もしてはならない。」レビ記23章5-8
 また、イスラエルの供え物には、必ず塩が付されたように、神道にも付される。
「あなたの素祭に、あなたの神の契約を欠いてはならない。すべての、あなたの供物には、塩を添えてささげなければならない。」レビ記2章13


 中国でも旧正月(2月19日ごろ)に「餅(もち)」を食べる文化があり、これは年糕(ニェンガオ)と呼ばれる。中国語の餅(ビン)という食べものは、日本の餅(もち)と漢字が同じだが実体は異なり、小麦粉を用いて火を通した平たく丸い食べ物を言う。この形がイスラエルのマッツァーと同じで、中国で餅(ビン)、日本で餅(もち)となった。つまり秦氏がイスラエルより中国へ持ち込み、それが日本へも伝わった。

 中国の北方では、大晦日の24時になる前に餃子(ギョーザ)を作り終え、23時から午前1時の間に食べる。餃子はこの紀元前6世紀頃の中国の春秋時代の遺跡からすでに食べられていた痕跡が見つかっており、餅(ビン)が発展した物である。餃子の丸い生地も、イスラエルのマッツァーと同じである。


 餃子とよく似た文化はヨーロッパ周辺にも存在し、ウクライナの民族料理の「ヴァレーヌィク」はほぼ中国式の水餃子と同じもの、ポーランドやスロバキアでは「ピエルク」、リトアニアでは「ヴィルティニャイ」、ベラルーシでは「カルドゥーニ」、グルジアでは「ヒンカリ」、ロシアでは「ペリメニ」、モルドバでの名称は中国のマントゥーから派生した「マンティーヤ」、北アメリカではピエルクの複数形の「ピエロギ」として知られるようになり、ポーランド系移民やその子孫によって広められた。

 そもそも種なしパンは、メソポタミア文明での麦栽培の発展とともに、加工した麦を保存できるように工夫している過程で生まれたのが無発酵パン。つまりアヌンナキ由来の食べ物で、それがイスラエルなどに伝わった。現代でも「肥沃な三日月地帯」を中心に無発酵パンが作られるエリアが世界に数多く存在する。
 アメリカやメキシコなどの伝統的な薄焼きパンであるトルティーヤは、タコスを作るのにも使われる。インドやパキスタン、アフリカ諸国等で食べられているロティも無発酵パンの一種。タイ、マレーシア、シンガポール等インド亜大陸の周辺諸国ではクレープに近く、菓子、軽食として食べられている。



 種無しパンはイエス・キリストの最後の晩餐に由来するキリスト教の儀式、聖餐(せいさん)の際にも用いられる。これの由来となった最後の晩餐では、イエス・キリストが弟子とともにパンを食べた。
 カトリック教会の教会法では、ミサ(祭儀)の聖体(ホスチア)には種無しパンや種無しウエハースを用いられるように定められている。ミサ(祭儀)はユダヤ教の集会所で行われていた聖書の朗読、説教、祈りに、キリスト教徒がイエス・キリストの最後の晩餐を記念して行っていた聖体(ホスチア)の祭儀と会食が組み合わされて出来たもの。

 日本の餅、中国の餅(ビン)、各国の種なしパン、キリスト教のホスチアも、すべて丸い形の種なしの無発酵パンであり、メソポミアのアヌンナキから広がっていった。また、神道とキリスト教も由来は同じである。

etc. 

前方後円墳の誕生-------------------------------------------------------------------------------------------

 250年から600年頃の古墳時代、倭朝の全く太陽を意識しない特別の方位を持つ前方後円墳が現れ始めた。前方部の真北から20度西に傾けた前方後円墳である。聖なる方位という意味でそれを聖方位(せいほうい)と呼ぶ。その聖方位は、邪馬台国の冬至線、夏至線のネットワークに侵入し、自分達の新たな価値観の存在を主張した。

 後述しているが、奈良県の斑鳩宮(いかるがのみや)と飛鳥京(あすかきょう)を結ぶ太子道や法隆寺近くの道も、北から北北西に20度傾いている。これは2500年前にアヌンナキによって作られた古代ペルシャのペルセポリス宮殿と同じ傾きで、古代ペルシャのシリウス信仰からきている。ペルセポリス宮殿はアヌンナキによって作られ、アヌンナキの惑星ニビルはシリウスBの軌道を廻っていた巨大惑星である。つまり自分たちの故郷の方角を指している。

 前方後円墳は日本列島に広く分布し、約4800基が存在する。古墳内部には巨石の石室があるが、この石室の作りは世界各地にあるドルメンなど巨石遺跡と同じ作りとなっている。つまり前方後円墳もアヌンナキのテクノロジーで作られたことがわかる。
 宮内庁が陵墓に指定している古墳のうち天皇陵は41基で、9代の開化陵から30代の敏達陵(びたつりょう)が前方後円墳である。これが本当に天皇陵であるなら、これら天皇の墓はアヌンナキが作ったか、すでに存在した前方後円墳を天皇陵と呼んだかのどちらかである。天皇というのは地球総司令官エンリルが地球統治の役割を任せた存在で、アブラハムやサルゴン1世から続くアヌンナキの直系血族であり、本当のユダヤ人である。










etc. 

日本でのイエス・キリスト--------------------------------------------------------------------------------

  キリストは復活した後、日本に来た。キリストは、日本では五十鈴(いすず)彦、もしくは伊勢津彦(いせつひこ)と言い、伊勢の国司に当たる存在だった。出雲族と仲が良かった。キリストは事代主(ことしろぬし)のもとで古神道を学び、大和で修行した。そのとき事代主(ことしろぬし)の養子となったので、神武の皇后となったヒメタタライスズヒメの義理の兄となる。
 そしてキリストは聖地・伊勢の港の管理人となった。そうして磯部家(のちの度会家”わたらいけ”)を管理していた。度会氏(わたらいうじ)は日本の氏族で、多くは明治初期まで伊勢豊受大神宮(伊勢神宮外宮)の祠官(しかん)を世襲した。
 キリストの弟の石切彦(いしきりひこ:伊須気由理彦”いすきゆりひこ”)も来日、石切りや測量などをする技術集団の長として日本を測量した。石切彦も出雲系の物部一族と仲が良かった。石切彦は大阪府東大阪市の石切劔箭(いしきりつるぎや)神社の祀神となっている。
 2人は海の一族であった。その証拠にキリストの十二使徒の多くは漁師出身であった。
 キリストの紋章は三角形を逆さに二つ重ねたダビデの星であり、それぞれの三角形は物体と精神を象徴している。伊勢神宮にダビデの星があるのはそのため。石切彦は石切りの組合、すなわちフリーメイソン(石工組合)と関係している。五十鈴彦(キリスト)にも石切彦にも子供がおり、青森の沢口家は石切彦の子孫で、家紋にダビデの星を持つ。

イエス・キリストから天皇への王権---------------------------------------------------------------------

 太陽神ウツは、シュメールの楔形文字では“UD”である。これは“輝く”や“白い”という意味である。また、ウツは肩から太陽光線を照射し、しばしばノコギリを手にして描かれている。太陽光線は太陽神の、ノコギリは大工の象徴であり、漢字破字法では“大工(工人)は白く輝く王=天皇”である。天皇陛下はイエスから王権を授かり、ハンムラビはウツから法を授かった。そして、UD は“ユダ”とも読める。つまり、ユダ族の王イエスは太陽神ウツに関わりが深いことを暗示している。また“ウヅ”とも読める。

 ヘブライ語で“ウズ=光”“マサ=賜”と同時にイエスのことも指し、ヘブライ語のヨシュア・メシアッハがアラム語ではイシュ・マシャ、メソポタミア東部やインドではイズ・マシで、それが更に変化して“ウズ・マサ”となったと見なした。しかし、大元はこの“UD”だったのである。また、ウヅ=ウズ=ウジであるが、ウジというのは“ウジ・エル”というシュメール語があり、これは“神の力”という意味であるから、ウジ=力である。そして、地上の生命に生きる力を与えているのは太陽であるから、ウツ=ウジという解釈ができる。大洪水の後に太陽神ウツが現れ、ジウスドラ(ノア)が舟の窓を開けるとウツはその光で舟を照らした、という伝承もあるが、これなども太陽神が人類の光であることの象徴。


イエス・キリストと十六紋菊-----------------------------------------------------------------------------

 日本に於いて、イエス=天照大神(伊勢神宮内宮の祭神)は蛇神で、唯一絶対神である。1 匹の蛇で“最初であり最後、アルファでありオメガである”ことを表すならば、蛇が自身の尾を咬んでいる様子として象徴される。これは円である。“8”の中にもカドゥケウスの杖の中にも複数の円が見られる。つまり、円は終わりなき“永遠”を象徴するもう1つのシンボルである。

 神社の拝殿に安置されている鏡は丸いが、“永遠”と“復活、再生”を象徴するのである。そして、同じ丸い「日の丸」については、「日の丸」の「○」には、更にこのような意味も含まれているのである。
 このように、十六紋菊の原型は蓮の花で“再生”を象徴しており、日本の奥義は天照大神=イエスなので、まさに“復活、再生”を象徴する皇室の御紋として十六紋菊は相応しい。(皇室の十六紋菊は、正式には「十六弁八重表菊紋」と言う。)日本では蓮の花はあまりお目に掛かれないので、身近で花弁が十六花弁紋の形に似ている菊に変えた、と単純に考えてしまうところであるが、そうではない。

 そこで、もう1つの重要なカッバーラ、漢字を考える。“艸(そう)”は「合わせ鏡」の絶対三神を象徴するが、問題はその下のつくりである。

・匊:キク、コク(音)。むす(ぶ)、すく(う)、たなごころ(訓)。

 このつくりだけで、音読みでは「キク」となる。訓読みでは基本が「勹」で、「手で包む」という意味から、手の平を表す「掌(たなごころ)」となり、英語では“handful”である。そこから派生し、掌(たなごころ)で握手して人と人、神と人を結ぶに通じる「むす(ぶ)」、また、手に一杯(水などを)すくうという意味の「すく(う)」となる。この「すく(う)」という読みは「救う」にも繋がり、救世主=イエスを象徴する。そうすると、「むす(ぶ)」は高御産巣日神(タカミムスビノカミ)=イエスの「ムスビ」でもある。
 更に、「勹」の中には何故か、「米」がある。「米」は大切な食糧なので、手に「すく」えば命の糧となり、ヤハウェが与えた白いウェハースのようなマナの象徴となる。
 また、上下左右のいずれから見ても、十字架が天使ケルビム(点)の間にあり、反対方向と「合わせ鏡」になっている。更に、「米」は分解すると「八十八」となり“88”、そして「匊」の画数は8画なので、合わせて“888”となる。ギリシャ語で“キリスト”と書くと数秘的な数値は“888”となるので、「匊」という字でイエスの象徴となる。
 つまり、「菊」という字の草冠で「生命の樹」に於ける絶対三神と「合わせ鏡」の奥義、そして下のつくりで、ヤハウェ=イエスを象徴しているのである。だからこそ、日本では“再生”を意味する蓮の花の象徴に、更に漢字のカッバーラを合わせて「菊の御紋」としたのである。以上、皇室の「十六弁八重表菊紋」は、菊の御紋にして菊の花に非ず。

 八角形で象徴されるニビルと金星、そしてイナンナが十六花弁ロゼッタの原型であり、それが皇室の十六弁八重表菊紋の基になっているのである。


太陽神ウツ=イエス=天照大神---------------------------------------------------------------------------

 日本神話とシュメールの真相から、イエス=天照大神には象徴として太陽神ウツが重ねられる。天照大神=猿田彦で、猿田彦の妻は天宇受売命(アメノウズメノミコト)であった。“ウズメ”に注目すれば、ウズ=イエス、メ=女で、猿田彦は天宇受売命(アメノウズメノミコト)と結婚後、宇豆彦(ウズヒコ)とも呼ばれるようになり、宇豆=ウズ=イエスなので、天宇受売命(アメノウズメノミコト)はイエスの妻となる。そして、天宇受売命のモデルはマグダラのマリアなので、イエスとマグダラのマリアは結婚していたことになる。


 しかし、これもシュメールの真相が原型である。王位継承順位数に着目すると、ウツが20であり、イナンナがそれに継ぐ15である。アヌンナキの夫婦関係に於ける王位継承順位数は、例えばアヌが60で正妻のアンツが55、エンリルが50で正妻のニンリルが45、エンキが40で正妻のニンキが35というように、正妻の王位継承順位数は夫よりも5小さい。
 そうすると、ウツとイナンナの王位継承順位数の関係は、夫と正妻の関係そのものである。つまり、ウツとイナンナは象徴的に夫婦と見なせる。だから、天宇受売命(アメノウズメノミコト)=猿田彦(サルタヒコ)の妻は、象徴的に猿田彦=天照大神=イエス=ウツに対するイナンナであると言える。天宇受売命(アメノウズメノミコト)は神楽(かぐら)の祖であり、神楽(かぐら)を舞うのは神に仕える女性、巫女であるが、イナンナは大神アヌの前で歌い踊ったので、神楽(かぐら)の祖と見なすことができる。

 また、巫女は男神と一体となる女性であるが、イナンナは美貌でアヌと関係し、ドゥムジ亡き後は“聖なる結婚”の儀式などを行うようになったので、裸の女神として描かれていることが多く、天宇受売命(アメノウズメノミコト)、そしてマグダラのマリアの原型であると言える。
 なお、太陽=光に関わる日本語で重要なのがウズ=ウジであるが、ウジというのはウジ・エルというシュメール語があり、これは“神の力”という意味であるから、ウジ=力である。そして、地上の生命に生きる力を与えているのは太陽であるから、ウツ=ウジという解釈ができる。大洪水の後に太陽神ウツが現れ、ジウスドラ(ノア)が舟の窓を開けるとウツはその光で舟を照らした、という伝承もあるが、これなども太陽神が人類の光ということの象徴である。
 また、ウツの別名は“バブバル=光り輝く者”であり、光を注ぎ、“天と地球を照らす者”であり、これは名称的に天照大神そのものである。よって、太陽神ウツはイエスの象徴として適切である。


イエス・キリストの日本での死---------------------------------------------------------------------------

 イエスは55歳の時、日本人女性と結婚して3人の娘をもうけた。そしてそこで暮らし、118歳で青森県の新郷で亡くなった。イエスは青森県の新郷村(しんごうむら)に埋められたが、その墓の側にはオウリキの1房の髪を納めた、小さな箱を埋めたもう1つの墓がある。そこでは、弟のイスキリの墓とされている。
 青森県新郷村、この村は実在する。十和田湖の東に位置している。木立に囲まれたほの暗い中にキリストの墓といわれる十字架が立っている。この村には昔から赤ちゃんの額に十字架を書く風習や古代ヘブライの動きに近い踊りまでもが行われている。
 第11代垂仁天皇の時、一人目のキリストは、日本の青森県の戸来村(へらいむら:現在は新郷村)に住み,この地で亡くなった。「へらい」の名は「ヘブライ」が訛ったものといわれている。

 戸来村(現新郷村)の近くにある十和田湖(とわだこ)でキリストは没したが、その十和田湖からキリスト像が発見されている。

 同地の盆踊りの唄にヘブライ語ナニャドヤラ→ナギッドヤラー(主なる神は見給う)、ナニャドナサレノ→ナギッド ナツェレット (ナザレの主よ)とある。後にやってくるテンプル騎士団は、イエス・キリストをナザレの主と呼んでいた。
 またこの村には、ユダヤの紋章(ダビデの星)と似た家紋を持つ旧家沢口家があり、生まれた子供を初めて屋外に出す時、額に消し炭で十字を書いたり、足が痺れた時は人差し指につばをたっぷり付けて足に十字を三回書いた。


大和朝廷------------------------------------------------------------------------------------------------------

 秦氏への王権委譲によって、新たな統一王国が建国された。大和朝廷である。祭祀の中心はイエスへと変えられたが、それ以前の祭祀を無くすことはしなかった。無くしてしまえば、いつ宗教戦争が勃発してもおかしくなく、結局、イエスと共にシュメールの神々も降臨した以上、無くすことはできなかったのである。
 そのため、以前の祭祀の上に新たな祭祀を重ねるというカバラ的手法が採られた。すなわち、シュメールの神々信仰の上にユダヤ教、その上に原始キリスト教という祭祀構造である。
 そのために、三輪山が新たな神山と決められた。卑弥呼の邪馬台国の都介野岳(つげのだけ)での祭祀を、大邪馬台国が引き継いで新たな神山を泊瀬山(はつせやま)としたように、この両方の祭祀を、三輪山を神山として引き継いだ。都介野岳(つげのだけ)も泊瀬山(はつせやま)も人工の山だが、新たに三輪山も造成したのである。そして、奈良県橿原市白橿町の益田岩船(ますだのいわふね)を起点、日葉酢姫(ヒバスヒメ)陵を終点として盆地全体に陰陽の仕掛けを施し、時が満ちれば邪馬台国や大邪馬台国の真相を繙(ひもと)くことができるようにされた。これは、後の平城京遷都まで考慮された仕掛けだった。岩船は磐座と同義で、大地の神を表す。

 都介野岳も泊瀬山も、そして三輪山も人工の山だったが、卑弥呼の邪馬台国の都介野岳(つげのだけ)を影向する斎槻岳と、トヨの大邪馬台国の泊瀬山(はつせやま)を影向する巻向山(まきむくやま)は最初からあった自然の山だった。それを基準に、都介野岳、泊瀬山、三輪山を造った。巻向山と三輪山(と耳成山)の山頂が見事に直線上に並ぶのは、自然ではあり得ない。
 そして、三輪山の西から見て、春分・秋分や夏至、冬至の日の出の方向に、都介野岳や泊瀬山のような見えない隠国(こもりく)の神山が無いのは、三輪山信仰は都介野岳や泊瀬山信仰の氏族とは異なる氏族=秦氏のものである、という暗示なのである。

 仕掛けについては、すべてを説明するのは大変だが、要点だけ掻い摘むと、まずは位置決め。最も重要な都介野岳を通る完全な東西ラインを中心軸とする。このラインよりも南側が陽、北側が陰という陰陽の祭祀構造となる。神器で言えば、陽は鏡、陰は剣と勾玉である。南北ラインとしては、後の平城京の神山となる春日御蓋山(かすがみかさやま:三笠山)を通り、三輪山の麓がその南北ライン(B線)になるように三輪山の東西の位置は決める。そして、泊瀬山を通る南北ライン(A線)との幅(A線-B線間距離)とほぼ同等の幅でもう1つの南北ライン(C線)を決める。

 次に、東西ラインに対して泊瀬山と点対称の位置を長谷とし、長谷と都介野岳を結んだラインを直角に折り曲げてC線と交差した点が益田岩船となる。岩船は磐座と同義で、大地の神を表す。その岩船の上部には2つの穴があり、かつてはそこに天神が降臨する依り代である神籬(ひもろぎ)が立てられており、天地の陰陽合一を表す祭祀施設だった。その名残が、大和地方の農家で旧暦4月8日に行われていたテントバナ(天道花)というお祭りで、2本の高い棹(さお)を立てて天からの穀霊を迎え、山から神を迎えた。この日は、大兵主神社(だいひょうずじんじゃ)の例祭日でもある。

 また、同様に泊瀬山と都介野岳を結んだラインを直角に折り曲げてC線と交差した点が日葉酢姫陵(ひばすひめのみことりょう:佐紀陵山古墳)で、益田岩船と点対称の位置にある。日葉酢姫(ひばすひめ)は卑弥呼が投影された海部(あまべ)氏の巫女(みこ)であることを暗示しており、“氷羽州比売(ひばすひめ)”とも書くが、これは日輪の霊と海の霊を併せ持つ大変な意味を持った巫女王という意味である。
 その陵には他の古墳には見られない特徴がある。殉死を廃止して形象埴輪を陵に立てるようになった最初の陵である。

 その埴輪の中に蓋(きぬがさ)形のものが中央に1個、その東側と西側に各々4個、計9個が置かれていて、それぞれが高さ約1.5メートル、幅約2メートルという巨大なものである。蓋は“オオガサ”と言い、朝儀や祭会の時に貴人の頭上を高く覆う笠(かさ)、天蓋のことで、これを“キヌガサ”と読むのは、表と裏を絹で覆うからである。
 このような笠(かさ)は天と地を象徴する大きな笠なので、日葉酢姫陵(ひばすひめのみことりょう)は天と地の合一を象徴するものである。9個の“9”は最大の陽数で太陽神を象徴し、八角形の“8”は横向きにすると“∞”で“不老不死”を象徴するので、天を象徴する蓋がほぼ八角形に配置されていることは、太陽神の不老不死を暗示する。

 あるいは、ウツとイナンナでも良い。そうすると、その南端の岩船は大地の神が出現する磐座で、天神の依り代である神籬(ひもろぎ)を立てたとされるので、万物の生成発展を象徴化したものとして、日葉酢姫陵(ひばすひめりょう)と対応する。
 これが奈良盆地に展開する様々な古墳群や神社群の要となっている。そして、後には神籬(ひもろぎ)として「生命の樹」をシンボル化した十一面観音が天のラインであるA線に集中して置かれ、それは天神の依り代を象徴しているからに他ならない。まさに、奈良盆地に展開された巨大な地上絵である。
 このような基本構造だが、これでは三輪山が都介野岳(つげのだけ)や泊瀬山(はせやま)と関わっていない。そこで重要なのは、天照国照尊(あまてるくにてるのみこと)の分身としての鏡を祀り、草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を奉じて太陽神を祀っていたことを暗示している正一位という最高社格の八尾鏡作(やおかがみつくり)神社である。八尾鏡作(やおかがみつくり)神社の位置は重要で、仁徳・応神天皇陵などとも深い関わりを持っているが、ここは泊瀬山と斎槻岳を結んだライン上にある。

 ここから三輪山を望むと立春の日の出を拝め、二上山を望むと立春・立冬の落日を拝むことができ、かつ、雨乞いの竜王山はほぼ真東に位置する特異的な位置にある。
 泊瀬山と斎槻岳を結んだライン上で、三輪山を望むと立春の日の出を拝める場所として選ばれたのが八尾鏡作神社なのである。そして、八尾鏡作神社から泊瀬山-斎槻岳-八尾鏡作神社のラインを90度曲げ、三輪山から真西に伸ばしたラインとの交点を多(おお)神社とした。この多神社は、八尾鏡作神社に直結しているライン上にあるから、御神体としては鏡、祭神としては太陽神の天照国照尊(あまてるくにてるのみこと)となる。

 これは山立てという手法で位置関係を決定し、そのライン上の神を降ろしてくるというものである。山立てとは、海上の船から陸地に重なって見える2つの山頂(あるいは目印となるような木や構築物)などを適宜(てきぎ)選択し、これを真っ直ぐに見通すと、海上に1本のラインを設定したことになる。
 次に、このライン上の船から別の目標を定め、このラインとその目標との角度を記憶しておけば、いつでもその場所に船を進めることができる。これを山立てと言う。
 このようにして、近海の漁師たちは豊富な魚場を発見した時、山を立てて位置を記憶し、それが航海にも応用され、航海長のことも“山立て”と呼んだ。古墳群や神社群の配置は、この手法で行われている。その主な目的は、山の神をヤマトの平野に降ろすということである。つまり、古墳や神社の造営者は、海人族ということである。


 その多神社は(1つ上の地図では)C線からわずかにずれており、太陽神を祀るための剣が無い。そこで、C線と三輪山から真西に伸ばしたラインとの交点に姫皇子(ひめみこ)神社を置き、今度は(下の地図で)箸墓-斎槻岳-八王山のラインに着目すると、斎槻岳も八王山も雨乞いや水神に関係し、剣の象徴でもある。その八王山と姫皇子(ひめみこ)神社を結べば、姫皇子神社は八王山に直結しているライン上にあることになるので、御神体としては剣、祭神としては天照国照尊(あまてるくにてるのみこと)の陰の側面、豊受大神(天照大日孁尊之分身と表現)となり、神社名も“姫”を冠して陰であることを象徴している。
 そして、これら一直線に並ぶ2つの神社、多神社と姫皇子神社から真東に三輪山を遥拝すると、三輪山に太陽神を迎え、剣を奉じて祀る形態が完成する。三輪山は、このようにかなり間接的にしか泊瀬山と関連していないので、卑弥呼の邪馬台国、トヨの大邪馬台国とは血統的に異なる王統であることを暗示している。複雑な仕掛けである。

 多神社は正式には多坐弥志理都比古(おおにいますしりつひこ)神社で、延喜式(えんぎしき)では名神大社(みょうじんたいしゃ)という最高の社格であって、弥生前期以来の遺跡の中心にある最古級の社。この志理都比古(しりつひこ)とはシリツヒコノミコトで、この時代に高尾張(タカオハリベ)氏が分家し、イリネノキミが裏切った。
 この時代は、正史では景行天皇であるが、その景行天皇陵は(上の地図では)八王山-姫皇子神社のライン上に位置し、泊瀬山-斎槻岳-八尾鏡作神社のライン上にも位置しているが、これは三輪山と泊瀬山、都介野岳とを関係付けている。その印として、八王山-姫皇子神社のライン上に配置した古墳と、新たな遥拝(ようはい)の地である多坐弥志理都比古(おおにいますしりつひこ)神社がほぼ同時期に建造されたことと、その祭司の血統が徐福の系統の葛城氏=伊理泥王(いりねのみこ)の血統であることを暗示している。言い換えれば、シリツヒコノミコトに相当する天皇が景行天皇であって、この時代にイリネノキミが裏切ったことを暗示している。

 この配置に、そこまでの意味が隠されていた。更に、このラインは陰である剣を象徴するラインであると同時に、この陵の陽の部分である後円部が陽のラインである泊瀬山-鏡作神社のライン上にある。よって、景行天皇陵は陰陽・天神地祇の合一を象徴しているとても重要な陵である。秦氏にとって王権委譲の礎が成された時代の大王なので、とても重要なわけである。
 景行天皇は日葉酢姫(ひばすひめ)と垂仁天皇(すいにんてんのう) の子で、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の父とされ、妹に倭姫命(やまとひめのみこと)がいる。記紀でも、それほど重要な扱いである。そして、景行天皇陵が箸墓と泊瀬山の両方に結ばれていることにより、統一国家としての大邪馬台国に於いてトヨが祭祀を始めたことが、神宮の起源であることを暗示している。

 三輪山の神は、大物主神(おおものぬしのかみ)の子孫とされる大田田根子(おおたたねこ)に祀らせよ、という逸話があった。御神宝をめぐってイリネノキミの一族、つまり、出雲族の間で血の悲劇が起きたが、今までに、こんなことは起きなかった。よって神話で出雲系の神は、その子孫の一族が祖先の御霊を丁重にお祭りしなければならないのである。大田田根子(おおたたねこ)はその象徴的人物であって、名にも“大=多”が入っている。つまりそれが、暗示だった。

 また、(上の地図で)箸墓の後円部-泊瀬山という正確な東西ライン(太陽の道)を基準とした場合の、30度折れ曲がって泊瀬山から東殿塚古墳を経て八王子神社の東の春日社(別名・石上神社)に至るラインと、箸墓(はしはか)の前方部-桧原(ひばら)神社-泊瀬山のラインを基準とした場合の、30度折れ曲がって泊瀬山から西殿塚古墳を経て八王子神社に至るラインの角度差はわずか1 度だが、そこまで計算して配置されている。
 広大な地上図では、土地の起伏状態などを考慮すれば、1度という角度は誤差範囲である。だからこそ、わざわざ東殿塚・西殿塚両古墳を並べ、しかも、箸墓の前方部、後円部と分けて通過している点は相当意図的と言える。
 方角として象徴的に西は陰、箸墓の前方部は陰、八王子神社は陰なので、箸墓の前方部-桧原(ひばら)神社-泊瀬山-西殿塚古墳-八王子神社のラインはすべて陰の象徴となる。対して、方角として象徴的に東は陽、箸墓の後円部は陽、春日社は陽なので、箸墓の後円部-泊瀬山-東殿塚古墳-春日社のラインはすべて陽の象徴となり、それは更に春日社で90度曲げられて三笠山に達している。つまり、陰陽の区別が明確で、それぞれに展開する陰陽を、後の平城京となる所まで遷している意図が明らかなのである。
 そうなると、桧原(ひばら)神社は意図的に泊瀬山からの正確な東西線上に乗せなかった、ということになる。それは桧原(ひばら)神社が“陰”であることを暗示させるためでもある。

 桧原(ひばら)神社は陰のライン上にある。桧原(ひばら)神社は女神の天照大神とされている天照大神若御魂神(わかみたまのかみ)を祀り、太陽崇拝のはずなので陽だ、と思われている。しかし、大邪馬台国の時代には、箸墓から泊瀬山を遥拝するのはダンノダイラで、その手前に更に遥拝所がある必要は無いので、桧原(ひばら)神社は大和朝廷が泊瀬山から三輪山崇拝へと祭祀を変更した際に、謎を解く鍵として後から建造されたものである。
 その鍵とは、女神としての天照大神。ここで“天照大神とされている天照大神(あまてらすおおみかみ)若御魂神(わかみたまのかみ)”とは、秦氏の創作した女神の天照大神であることに注意しなければならず、そのモデルは卑弥呼。それが、“若御魂”として暗示されている。そして、秦氏の最も重要な神はイエスである。イエスは自らを“神の子”ではなく“人の子”と言っているので、神を天神と見なせば陽で、それに対して人は地で生まれるからイエスは陰となる。また、シンボルの十字架もカバラでは陰である。つまり、桧原(ひばら)神社は、初めて卑弥呼とイエスを重ねて祀った場所なのである。よって、元伊勢と言われるのである。

 そして、この時から正式に天神と地祇(ちぎ)が分祀されるようになった。それが、天照大神と倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)を宮中の外に移し、両大神を分祀した、という話に創り替えられた。ただし、この神社の場所が“笠縫宮”ではなく“笠縫邑(かさぬいむら)”となっているのは、完全な祭祀が行われたのではないことを暗示している。秦氏にとって元伊勢(内宮)が“宮”となっていないことは、イエスの御神体(十字架)が無かったからである。この時点では、まだ十字架は最初の到着地点である海部(あまべ)一族(エフライム族)のお社にあった。
 分祀(ぶんし)したとなると、三輪山の神は地祇(ちぎ)の大物主神(おおものぬし)で出雲族が祀り、秦氏は天神・天照大神を祀り始めたわけではない。本来の天神を祀ることができる一族は海部(あまべ)一族(エフライム族)に限られた。秦氏の祀るイエスは陰なので、天神に対する地祇(ちぎ)である。それを端的に表しているのが内宮の千木(ちぎ・鰹木"かつおぎ")で、あの内削(うちそ)ぎは地祇(ちぎ)を暗示する。そして対する外削(そとそ)ぎの外宮は天神である。だからこそ、外宮先祭とされ、太陽神祭祀の中心地は伊勢へと移動させられた。

 古代に於ける神祭りは、特定の血統の者にしか許されないので、卑弥呼亡き後に大混乱が生じたことからも明らかなように、祭神を変えたりすることは容易ではなかった。よって、以前の祭祀を踏襲(とうしゅう)しつつ、見かけは新たな祭祀へと変えていったわけである。
  つまり一見、太陽神の天照大神祭祀は秦氏が始めたように見えても、実は、秦氏は太陽神を祀れなかったということである。よって、ヤマトの地から伊勢の地に祀る場所を変え、太陽神の祭祀は海部(あまべ)一族(エフライム族)の中の度会氏(わたらいうじ)が引き受けた。
 そして、イエスも重ねられているので、そちらの祭祀は秦氏が受け持った。後に、神宮の祭司が度会氏(わたらいうじ)から秦氏の荒木田氏(あらきだうじ)へ変えられたのは、祭祀の中心を本来の太陽神から“彼らの太陽神”イエスへと変えるためだった。これは重み付けの違い、という点でだけである。
 イエスは地祇(ちぎ)なので、いくら人類の贖罪(しょくざい)を背負って十字架に掛けられて人類に対する光になったとは言え、完全な太陽神には成り得ない。よって、蛇神の要素を持って来た。光り輝く蛇神で太陽神的なのはケツァルコアトルことニンギシュジッダである。このような地上絵を仕掛けることのできる知恵の神も彼以外にいない。

 大神(おおみわ)神社もそうだが、桧原(ひばら)神社も三ツ鳥居で有名である。大神神社(おおみわ)拝殿奥の三ツ鳥居は、桧原(ひばら)神社の三ツ鳥居を暗示している。

 この三ツ鳥居を、(下の図の)三輪山の真南に位置する春日神社の位置に置くと、三輪山山頂は春分・秋分の、斎槻岳(大兵主神社)は夏至の、玉列(たまつら)神社は冬至の日の出を拝することができる。三輪山山頂を中心として、兵主(ひょうず)神社と玉列(たまつら)神社、春日神社と秉田(ひきた)神社は綺麗な菱形を形成する。
 兵主(ひょうず)神社は鏡を祀り、玉列(たまつら)神社は玉を祀り、三輪山の神は蛇神で剣に関係するので、三種の神器が揃う。また、春日神社付近はかつては岩田村と言い、“岩田”は大神(おおみわ)神社の“祝田(いわいた)=斎田”に由来し、これは大嘗祭(だいじょうさい)の主基田(すきでん)に相当する。この対称の位置にある秉田(ひきた)神社は、秉(へい)は禾束(かそく:稲の束)のこと故に神に奉げる稲束を作る地の社を意味し、悠紀田(ゆきでん)に相当する。“ひきた”は“ゆきた”が転訛したものである。

 三輪山山頂は、新帝(しんてい)が天神地祇(てんじんちぎ)と一夜を過ごして現人神となる大嘗宮(だいじょうきゅう)だった。よって、禁足地だった。そして、これらの配置は、次のように作図することができる。

1)斎槻岳aの南北ラインと八王子神社からの45度ラインとの交点を三輪山bとする。
2)斎槻岳の南北ラインを三輪山から南に延長する。
3)斎槻岳-三輪山の長さを半径とし、三輪山にコンパスの軸足を置いて円を描き、斎槻岳の南北ラインとの交点を玉列(たまつら)神社cとする。
4)斎槻岳a-玉列(たまつら)神社cの長さを半径とし、斎槻岳aにコンパスの軸足を置いて円を描く。
5)同様に、玉列神社c にコンパスの軸足を置いて円を描く。
6)4)と5)の2つの交点のうち、西側を春日神社d、東側を秉田(ひきた)神社eとする。

 この方法により、三輪山を囲う各神社は配置できる。すなわち、3つの円によって配置できるので“三輪”という字を充てられている。海部(あまべ)氏(エフライム族)、物部氏、秦氏の輪=和ということではなかったのである。
 他にも大和三山の配置などいろいろあるが、いずれも今言った配置が基本となっている。


三種の神器の制定と新たな歴史創り---------------------------------------------------------------------

 新たな国造りに於いて、三種の神器もまた新たに制定された。海部(あまべ)一族が持っていたアロンの杖、秦氏のフル(応神天皇)が持って来た十戒石板の入った契約の箱とマナの壺、そしてイエスの十字架である。
 これらをカモフラージュするものとして、息津鏡(おきつかがみ)・辺津鏡(へつかがみ)が八咫鏡、エフライム族の鉄剣が天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、糸魚川(いといがわ)産翡翠(ひすい)の勾玉が勾玉のオリジナルとされ、それぞれの写しが作られた。
 また、海部(あまべ)一族は王権委譲以前の段階から各地に移動し始めたが、丹後、東海地方の尾張、四国が彼らの三大拠点とされた。しかし、その歴史と真相は、物部氏の歴史と合わせて、時が来るまで封印されることとなり、新たな秦氏の神話と歴史創作が始まった。

 アロンの杖は元々あったが、ここに契約の箱とマナの壺が揃ったので、ユダヤの三種の神器が新たな三種の神器とされたわけである。アロンの杖は太陽神の依り代、勾玉は王権のある土地の象徴とされた。

 内宮では御神体は御船代(みふなしろ)に収められているが、船はラテン語でアーク。つまり、十戒石板が契約の箱アークに収められているという暗示である。これらは、元々同じ神殿の本殿にあるべきだが、時が来るまで分けられることとなった。
 最初の伊勢の地は預言者イザヤに因んだ伊雑宮(いざわのみや)。そこには、十字架も含めてすべてがあった。


 その後、新制伊勢神宮を建立するにあたり、神宮を内宮と外宮、伊雑宮に分祀し、内宮には十字架本体と契約の箱、外宮・多賀宮(たかのみや)にはマナの壺、伊雑宮(いざわのみや)には十字架上の罪状板が安置された。
 そして、勾玉は王権のある御所に、息津鏡(おきつかがみ)・辺津鏡(へつかがみ)は海部(あまべ)氏の手元に、アロンの杖と天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は海部(あまべ)一族(エフライム族)の兄弟分家である尾張氏の熱田神宮に預けられた。来るべき時に、アロンの杖は伊雑宮の心御柱(しんのみはしら)となるべく。

 神宮で最も重要なのは、御神体の鏡ではなく、心御柱(しんのみはしら)である。神宮の神職ですら、口にすることが憚(はばか)れるほど神聖なものである。別名が忌柱(いむはしら)、天御柱(アメノミハシラ)、天御量柱(あまのみはかりのはしら)で、地上に打ち込まれる心御柱はその代わりである。その大元はフェニキアのベテュルである。
 イザナギとイザナミの国生みでは、天御柱(アメノミハシラ)の周りを回って国造りが行われたので、それは、心御柱を中心として新たな国造りが行われたということである。

 天御柱(アメノミハシラ)はT字型十字架の縦の柱、忌柱(いむはしら)は横の柱。天御量柱(あまのみはかりのはしら)は青銅の蛇が掛けられたモーゼの旗竿である。すなわち、十字架を中心として、秦氏に依る新たな国造りが始まったという暗示である。
 十字架のシンボルはそのまま十字型。これは閉じた“吽(うん)”でもある。ならば、開いた“阿(あ)”は丸がシンボル。つまり、十字と丸で“阿吽(あうん)”となり、陰陽の合一も暗示する。これが、海神と地球、島津家のシンボルである。そして、十字は定規、丸はコンパスで描ける。つまりそれはフリーメイソンのシンボルである。四角も定規で描けることからすると、日の丸は大洪水のノアの息子セム、ハム、ヤフェとのうち、正統セム系フリーメイソンのシンボルそのものである。

 それを隠しながら堂々と示しているのが日の丸の国旗で、典型的なカバラの仕掛けである。
 更に、神宮では、正殿の西北に正中を外して心御柱が打ち込まれている。正中は最も重要な場所なので、そこをわざわざ外してある。外宮では東南方向の内宮を、内宮では東南方向の伊雑宮を暗示しているということである。

 最も重要な伊雑宮には罪状板がある。それはラテン語、ギリシャ語、アラム語の3言語でイエスの名が書かれている。イエスは秦氏にとって神の名である。
 宇宙の歴史からすると、生命体が物質を認識したり、自らと他を区別するためには、名が必要となった。それは単に、識別のためだけのものだった。
 しかし、ある時から、その名によって自我が芽生えた。私とあなたは違う、という。それが更に進んで、自らが大元の生命エネルギーの分身であることを忘れ、我己(がこ)となってしまった。いわゆるエゴの発生である。これはとりわけ、神を自らの外に求めることによって促進された。本来は、自己の中にも他の中にも等しく存在するはずなのにである。それを忘れ、単なる“万物の創造主”という観念に陥り、エゴを発達させてしまったのが、人類型生命体のなれの果て、つまり、人類である。
 イナンナのインダス文明では梵我一如(ぼんがいちにょ)、ギリシャではヘルメス思想があったので、本来は解っていたはずだが、アヌンナキはいつの間にか遺伝子操作して人類を創り上げ、自らを人類に対する神として振る舞うことにより、人類に大きなくびきを負わせた。むしろ、全宇宙的な宿命により、地球と人類を最終的な学びの場とさせられた。よって、地球=知球=知宮と命名されている。他の言語では、決してこの真理は解らない。
 つまり真相を知る者が、神の名をみだりに唱えないために、名を外した。よって神の名“在りて在る者”も同じことである。アヌンナキの中で、それに気付いた知恵者がいた。“在りて在る者”の象形文字が勾玉である。その勾玉と神器的に同等なのがマナの壺。海神の所で、勾玉が壺にくっついて離れなくなった話があったが、それは壺と勾玉が同一物扱いという暗示である。日本語では、“眞名”と言う字が充てられた。この“眞”の字は、人が首を下向きにしている状態を象ったもので、“顛(てん:逆さま)”の原字である。
 つまり、この世の物質世界では「生命の樹」を下降することになり、更に名を唱えることによってエゴが発生し、嫌がおうにも「生命の樹」を鏡像反転した「死の樹」を下降してしまうことになる。
 現在はこの真意が封じられている壺=井戸のような状態なので“眞名井”であり、故に、名が外された伊雑宮と表裏一体となり、神宮の鳥居は額束(がくづか)の無い名が外された神明(=神名)鳥居となる。言い換えれば、“名”とは両刃の剣のようなもので、よって、剣も神器とされた。エゴを断ち切るという意味も込められて。

 そして、「生命の樹」の3本柱はシンボル化されて三つ巴となった。二つ巴では陰陽のバランスが取れているだけで、上昇も下降もしない。三つ巴となって、ようやく螺旋状に上昇(進化)・下降(退化)する。本来は上昇すべきだが、下降してしまっているので、それを食い止めるためにもう1つ必要となる。それがメルカバーで、神宮の御紋である。つまり、降臨に依ってようやく覚醒=完成するということである。


 “鏡=かがみ”も“かみ”の中に“我”があるので、自分自身を見つめて気付きなさい、ということ。反物質はCP対称性の破れにより消滅してこの世界は物質で満たされ、鏡の鏡像反転は放射性物質のベータ崩壊などを除く物質世界の基本原理。よって、鏡像反転した「合わせ鏡」の“自分”は“神”そのものということである。
 そういったことを暗示できるように、日本語は創られた。狭い国土の中で争いが起きないよう、シュメールの文法をベースとして日本語が創られたが、他の言語とは違って、主語を前面に出さない。これは、“個”を中心とすると必然的にエゴが強くなってしまうので、それを抑制するためである。
 また、日本語は創造のエネルギーの波動に最も共鳴しやすい言語で、故に、言霊という信仰が古代から発展した。悪いことを口にすると、それが現実化するから、できる限りそのような言葉は避けられるようになったわけである。

 そして、海部(あまべ)一族(エフライム族)の中で最初に四国へ渡ったのは、オヌイノミコトの時代の安波夜別命(アワヨワケノミコト)である。“阿波”という地名は、このミコト由来である。当然、阿波忌部氏(あわいんべうじ)はこの系統である。大嘗祭(だいじょうさい)の麁服(あらたえ)を紡(つむ)ぐ三木一族である。
 この一族が栽培した麻から作られた麻布でしか、この麁服(あらたえ)を作ることは許されていない。麻はニビル由来なので、神事で使う大麻(たいま、おおぬさ)は特定の氏族しか触れない。
 つまり王権委譲後の海部(あまべ)一族(エフライム族)の本体は丹後、兄弟分家の尾張氏は尾張、そして、アワヨワケノミコトの末裔は四国ということになる。尾張は熱田神宮だが、四国は大山祇(おおやまづみ)神社である。山の神でもあり海の神でもあるから、いわば地祇(ちぎ)の中の地祇で、娘のコノハナサクヤヒメは不老不死の霊峰、富士山の守護神である。よって、丹後では豊受大神=イナンナ、伊勢では天照大神=ウツ、四国では大山祇神=エンキという構造となる。
 邪馬台国では神殿はすべて東西向きだったが、秦氏がすべて南北に変えた。南から見ると、真中がイナンナ、向かって右がウツ、左がエンキとなるので、イザナギの顔がこちらに向いているなら、左目が天照大神=ウツ、鼻がスサノオ=イナンナ、右目が月読尊=エンキとなって、ぴったりである。つまりイザナギの顔から生まれた三貴神とは、この事を暗示していたのである。つまり、このように分けさせたのは、新制日本神話を創り出した秦氏ということの暗示でもある。

 本来の皇統である海部(あまべ)一族(エフライム族)は位を下げられ、神話では反抗者や鬼などの異形の者として描かれるようになってしまった。しかし、完全に封印されることは無かった。完全に封印すれば、“その時”になっても何も解らなくなってしまう。
 しかしながら、その扱いはすんなり従った出雲族と比べても酷いものであった。最高神はウシトラノコンジンとして封印され、系図は相当改竄された。系図は訳が分からなくなった。元の系図に物部各氏の系図を入れ込むだけではなく、ある大王の時代は省いたり、移動させたりして大混乱した。それが初代~第15代・応神天皇までの系図である。
 いろいろな変遷過程がゴチャ混ぜにされ、それぞれが伝承されてしまったので、例えばある天皇の御名(ぎょめい)で見た場合、それがA大王でもありC大王でもあって、よってA=Cなどという事態が発生してしまった。いわゆる“多次元同時”なのだが、これはこのような系図改竄が最も影響している。
 そして、これだけではなく、天照国照尊(あまてるくにてるのみこと)にニギハヤヒ=徐福、彦火明尊(ヒコホアカリノミコト)、櫛玉神(くしたまのかみ)をまとめてしまったことも影響している。
 基本は海部(あまべ)一族(エフライム族)の系図である。それを軸とすれば間違うことは無い。あと、系図の操作では年代操作のカラクリがある。
 記紀には卑弥呼もトヨも登場しない。唯一、日本書紀の一書で“神功皇后が卑弥呼かもしれない”とは言っているものの。それは暗に、卑弥呼がれっきとした皇統の祖だが、直系ではないということを示している。神話を創作している秦氏自身の直接の先祖ではないので、堂々と神話に盛り込むことはできなかった。そこで、初代天皇を自らの出自に合うように合わせ込み、それ以前の系図に於ける人物を移動させることにより、国家の総氏神(そううじがみ)たる内宮の創祀を古くしたというわけである。

 本当の神宮の創祀について、注目すべきは、いずれも丁巳(ひのとみ)の年に遷宮や豊受大神(とようけのおおみかみ)御遷座(ごせんざ)のお告げが成されていることである。特にAD297年は、トヨが還暦を迎えた年でもある。還暦とは、60年を一巡りとする考えで、60年を1つの年の単位とする1元と同じ。そして、AD297年丁巳(ひのとみ)から5元=300年遡(さかのぼ)らせると垂仁26年(BC4年)丁巳(ひのとみ)の年となり、内宮(ないぐう)御鎮座(ごちんざ)の年となる。“60”はシュメールの基本数で、大神アヌの象徴でもある。そして、“5”は知恵の象徴なので、まさしくシュメールの真相を知る知恵が無ければ、このような謎を解くことはできない。
 神武即位をBC660年に遡らせることに合わせて、トヨが祭祀を司っていた時代も繰り上げられた。そして、トヨが神祭りする姿は倭姫命(やまとひめのみこと)に投影された。実際に神宮が建立されたのは、本来の最高神である豊受大神と、秦氏が創り上げた女神の天照大神を同時に祀ることにより、新たな国家の神祭りが始まった時期で、それは、倭姫命(やまとひめのみこと)世紀に記載されている外宮遷宮の宣託(せんたく)があった雄略21年丁巳(ひのとみ)の年(AD477年)である。
 そして、この年から8元=480年遡らせたBC4年の丁巳(ひのとみ)の年を、内宮遷座の年とされた。“8”の意味は、これまで述べてきた通りである。
 系図のカラクリが神宮創祀まで関わっていたので、表にはなかなか出されなかったわけである。このように、秦氏は海部(あまべ)一族(エフライム族)の歴史を封印しながら、自らの歴史を創り上げていった。そして、本来の天神族である神族=カム族=賀茂族=海部(あまべ)一族(エフライム族)を乗っ取って鴨族と名乗った。
 また、徐福一団=物部氏は容易に改宗して秦氏となった。そして、原始キリスト教徒の秦氏が徐福縁の地に赴き、同じ“秦”を冠する始皇帝に縁を関連付け、徐福が求めた“不老不死”をイエスの“復活”と重ねた。こういったことがあり、秦氏の話になると様々な混乱が発生する。
 その徐福系、特に中枢に居た葛城氏は蘇我氏に姿を変え、外戚として天皇家を守ってきた。蘇我氏は物部氏と対決していたわけではなく、最後まで抵抗していた海部(あまべ)一族(エフライム族)を隠している。
 しかし、やはり一族の中には反発する者も多く、最大の争いに発展したのが、秦氏系の天智天皇と海部(あまべ)一族(エフライム族)の天武天皇の間で繰り広げられた壬申の乱である。この2人は兄弟ではなかった。

 不比等が命じて作らせた日本書紀には、大海人皇子(おおあまのおうじ)が天武天皇となるきっかけとなった壬申の乱に於ける尾張氏の活躍を黙殺していて、海部(あまべ)一族(エフライム族)の真相を隠している。それに、天武系天皇は皇室の京都市東山の菩提寺(ぼだいじ)・泉湧寺(せんにゅうじ)で祀られておらず、平安時代、天武系の天皇陵に対しては奉幣(ほうへい)の儀も行われていない。これなども、海部(あまべ)一族(エフライム族)の血を引く天武系天皇と、天武系と婚姻関係を結んでいた天皇が無視されていることの一例なのである。

 天武系(エフライム族)男系の最後の天皇、聖武天皇は藤原氏に抵抗し、東大寺に行幸して大仏に北面して頭を垂れた。これは、不比等らが創作した新生・中臣神道を否定したことを象徴している。単に、仏教を認めたということではなかったのである。仏教は真相を隠すための隠れ蓑である。エジプトでは蓮華、中東ではロゼッタでいずれもイナンナのシンボルだが、それが日本では菊となった。その理由は、草冠=“艸”は「合わせ鏡」の絶対三神を象徴する。その下は勾玉でも登場した「勹」と「米」。「米」は日本で最も重要な物で、分解すると「八十八」、そして「匊(きく)」の画数は8画なので、合わせて“888”となる。ギリシャ語で“キリスト”のゲマトリアとしては“888”なので、「匊(きく)」という字でイエスの象徴となり、これは当然、イナンナをも暗示している。つまり、漢字のカバラから“菊”としたわけである。
 皇室の十六弁八重表菊紋は、菊の御紋にして菊の花に非ず。後の歴史も同様である。海部(あまべ)一族(エフライム族)系が台頭してくると潰された。頼朝、信長、秀吉、島津氏などなど。以後、預言されし降臨があるまでは、秦氏が取り仕切ることとなったのである。その秦氏の中核は、名も無く戸籍も無い状態で、歴史の闇に隠れた。その組織は八咫烏と命名され、その使いなどは烏天狗(からすてんぐ)などと言われた。そして、山の祭祀には山の民が必要なので、縄文系のサンカと共に、山の修験者となった者達も多い。他に、忍者や虚無僧(こむそう)、渡りの旅芸人なども秦氏の諜報活動家である。


■282年頃

秦氏(はたうじ)、忌部(いんべ)、漢波羅(かんぱら)----------------------------------------------------

 忌部(いんべ)は秦氏であり、秦氏には色々な職業、家系がある。例えば、政治関係を担当する秦氏は藤原家、経済担当は三井家、武家担当には源平等がある。彼らはイスラエルからやってきたユダヤ人の子孫である。三井家は神宮遷宮時の費用を捻出していた。


 秦氏はやがて改名して歴史から姿を消す。役割分担をはっきりさせると共に国体の護持の為に秦氏は改名した。忌部は秦氏の中でも祭祀を専門に担ってきた。忌部は秦氏の中で祭祀を職に持つ者で、忌部は秦氏と同族である。しかし忌部は物部に祖がある。物部氏の中でも祭祀を担当する祖先が、後に神武天皇と共に渡来した秦氏と婚姻を結び、秦氏としての忌部がある。秦氏系忌部は神宮、熱田、諏訪、宇佐、高良等の大社の祭祀をしている。しかし物部系忌部は出雲、伊雑(いざわ)、籠、石上、大神神社等の古社の祭祀をしている。祭祀支族の太祖に、天細女命(あまのうずめのみこと)、天児屋命(あめのこやねのみこと)、天太玉命(あめのふとだまのみこと)などがある。天細女命は猿女氏(さるめうじ)、天児屋命は中臣氏、天太玉命は忌部の太祖である。

 記紀の奥義の一つに、全ての神道祭祀が開始されたのは、天岩戸開き神話からとある。天岩戸開き神話において、祭祀の中心は天児屋命、天太玉命である。天児屋命が太祝詞言(ふとのりとごと)を奏上(そうじょう)し、天太玉命が五百津真賢木(イオツマサカキ)に鏡、勾玉(まがたま)を飾り付けた。この時の祭祀が神道祭祀の始まりである。

 天児屋命の子孫、中臣氏の「中臣」は、神と人の間という意味がある。中臣氏の中でも政治に必要な行事の亀ト(きぼく)を専門に行うものをト部氏(うらべうじ)という。現在、広く知られている神宮、宮廷祭祀を担当するのはこの中臣氏である。後に中臣氏の中で政治を担当する者は藤原と名乗った。この藤原氏の中で一般向けの祭祀を行う者は斎藤と名乗る。天太玉命の子孫である忌部は、神器を直接扱う事が赦された者である。天太玉命の太祖は高皇産霊神(タカミムスヒノカミ)であり、その娘である万幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)が生んだ子である。天太玉命には5人の配下が存在し、それぞれが天太玉命とは別に忌部の祖となった。阿波忌部(あわいんべ)の祖「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」、讃岐忌部(さぬきいんべ)の祖「手置帆負命(たおきほおひのみこと)」、紀伊忌部の祖「彦狭知命(ひこさしりのみこと)」、出雲忌部の祖「櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)」、筑紫・伊勢忌部の祖「天目一筒命(あめのまひとつのかみ)」、安房忌部(あわいんべ)の祖は「天富命(あめのとみのみこと)」である。

 賀茂氏は忌部の中でも最高の祭祀支族である。大祭司は賀茂氏であり、忌部の中の忌部である。よって、賀茂氏も秦氏である。神宮の祭祀は中臣氏であるが、それは表の儀式で、陰陽道は裏表がある。裏の祭祀で神宮の心御柱(しんのみはしら)を直接奉斎(ほうさい)するのは賀茂氏。賀茂氏の中でも天皇陛下直属の賀茂氏は、戸籍と姓名が無い。戸籍の無き賀茂氏は「漢波羅(カンパラ)」や「八咫烏(やたがらす)」と呼ぶ。表の陰陽師(おんみょうじ)を陰陽師、裏の陰陽師を漢波羅と申す。この漢波羅が神道奥義を握っている。

 賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)の祭神の、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は八咫烏の化身であり、神武東征に際し、太陽神天照大神と高木神(たかぎのかみ)の令をうけ、金鵄(きんし/金色のトビ。八咫烏とも)に化身して神武天皇を先導した。その八咫烏を祖とするのが賀茂氏、すなわち鴨氏である。

 表神道の頂点は伊勢神宮で、裏神道の頂点は賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)であり、ここは漢波羅の活動拠点となっている。


■310年

 奥州の荒吐族(あらばきぞく)が大挙して大和へ迫ったので、天皇空位が2年間に及んだ。

東日流外三郡誌

■312年

ローマの司教が全キリスト教会を支配するようになる-----------------------------------------------

 312年にローマの将軍コンスタンティンは、この異教化されたキリスト教に改宗したと宣言した。戦場への途上、彼は天に十字架を見たと主張した。この十字架に従い彼は戦闘に勝ち、イエス・キリストの為に勝利したと主張したのであった。コンスタンティンが権力を手中に収めると、彼はアポロ神を崇拝していたのにも係わらず、自分はクリスチャンであると宣言した。その後に造られた貨幣にも彼の周囲には太陽神の象徴が描かれている。バチカンにある下記の絵にはコンスタンティンが当時のローマ司教に帝国の政治権力を表わしている法令書を手渡している様子が描かれている。

 この出来事と関連しているかどうかは別にして、この頃からローマの司教が、全キリスト教会を支配するようになった。ローマ・カトリック教会がローマの国に政治権力も持つようになった。その頃実際に何が起こったのか。それは貴族の目に、キリスト教を極めて権力的なものに見せつけるため、祭司たちは異教のカルトで用いられた衣服や飾りを身に着けるようになった。そういうわけで、キリスト教徒は第一に、キリスト教のものではない祭司制度を取り入れ、これらの祭司らの衣服を取り入れた。今日人々が見かける司祭たちの衣服は、まぎれもなく異教の祭司服なのである。


異教とはアヌンナキに対する悪魔崇拝------------------------------------------------------------------

 ここからは、キリスト教に見られる悪魔崇拝のシンボルを取り上げて見ていく。これらはアヌンナキに対する悪魔崇拝であり、イルミナティやフリーメイソンも同様の悪魔崇拝を行っている。全世界の人口73億人のうち、キリスト教徒は21億人を超えている。実に世界の35%の人が、知らないうちに悪魔崇拝の儀式に参加し、騙されている。


キリスト教に見る異教礼拝-------------------------------------------------------------------------------

 キリスト教に見る異教礼拝教会はこのような異教の儀式を覆い隠すためには何でも行ったが、これらの儀式をあるクリスチャン聖徒たちの名にすり替えて、続けさせるのを許していた。こうして教会は異教の神々を取り入れ、それらにキリスト教徒の名を付けたのであった。今日キリスト教会に於いて、人々が目にする像の多くは、もともと異教徒たちが伏し拝み、犠牲を捧げていた異教の神々であった。

「教会の指導者たちは、初期の頃から悪の感染に抵抗し、悪魔崇拝に用いられていた器具や付属物を伝道に使用する為、キリスト教の力に託し、必要が起れば大衆の儀式や習慣を取り入れる真似をする、または是認する準備ができていた」
(キリスト教教義の発展372頁)。

 つまり、今日のキリスト教会の儀式はもともと異教のものであり、そのことは教会自身が認めている。

 前述の例は、より重要な太陽の祭りを挙げているだけだったが、これら異教の産物は現在でも同様の力を振っていることは明らかである。そしてキリスト教を表面に出しながら多くの場合、実際には異教の儀式を取り入れて行っている。これらの儀式が始まった起源に注意が向けられない為、これら異教の趣旨は単に見失われているだけにすぎない。この異教の浸透はあまりにも大きい為、キリスト教はミトラ教(古代ペルシャの宗教)の宗派と化してしまった。ミトラ教はローマでキリスト教が設立された当時、ローマの国教であった。明らかに日曜礼拝やミサで聖餅を食べると言ったミトラ教の名残がその頃キリスト教に取り入れられたと言える。ミトラ崇拝は占星術の一種であり、太陽神と自然の神々を拝む神秘宗教であった。
 要するに太陽礼拝は象徴的に、今日キリスト教会が祝っている大きな祭典の真髄そのものを信徒に語っており、これら異教の名残は、その神聖な儀式という媒体を通して、興味深いことに、それらの霊とは完全に対立するはずの習慣や信条と非常にうまく混ざり合ってしまったのである。



ローマ教会内に見る性的シンボル------------------------------------------------------------------------

 世の学者や歴史家たち、また教会の指導者らが自らローマのキリスト教は事実上キリスト教を装った異教の偶像礼拝であるのを認めている。異教世界の象徴がキリスト教会に取り入れられ、連盟によって是認されたと主張している。各時代の密教という本の中に「それでも、十字架そのものが男根崇拝の象徴の最も古いものであり、大聖堂の菱形(ひしがた)の窓はヨーニ(女性器)の象徴が異教神秘の破壊の中で生き残ったことの証拠である。

 教会組織自体に性的シンボル、または男根崇拝が浸透している。キリスト教会から全ての男根の、または性的起源から来る象徴を取り除いたら何も残らないとある。今日キリスト教会を見てみると、床やアーチやドームばかりであり、それらは生々しい性的シンボルを拝む異教に他ならない。教会の尖塔(せんとう)や中庭などは全て性的シンボルを崇拝する概念を反映している。

 原始キリスト教会の狂信者らが、異教をキリスト教化しようと試みた時、異教の創始者らはキリスト教を異教化する為、ただならぬ力の入れようでそれに応えた。キリスト教は敗れ、異教が成功を収めた。異教の衰退と共に、異教の創始者らは、彼らの運動の土台を原始キリスト教という新しい乗り物に乗り換え、常に賢者の計り知れない所有物であった永遠の真理を覆い隠すために、新しいカルトのシンボルを取り入れた。こうしてキリスト教はまさしく当時異教の指導者であった者たちの希望となったのであった。今やキリスト教徒を名のる異教徒たちが主導権を握った。

 キリスト教が全くの悪魔崇拝となってしまった。異教世界の犠牲制度や礼拝を見廻してみると、この礼拝はサタンとその手下どもに捧げられているのが分かる。キリスト教が同じ礼拝形式を取り入れるということは、事実上同様の権威に服していることなのである。太陽崇拝と一般キリスト教を比較してみると、今日全く類似していることが分かる。太陽の出生は(アヌンナキの)タンムズの誕生日である12月25日となっており、今日クリスマスと呼ばれている。6月24日に行われた夏至の祭りは、今日聖ヨハネ祭と呼ばれていて、異教の女神となったセミラミス(イナンナ)の被昇天は、今日聖母マリヤ被昇天の祝日となっている。聖母である女神が崇拝され、天の女王という称号が付けられた。そして今日、処女マリヤにも同じ称号が与えられている。女神に捧げられ、装飾された薄くて平たいパンには、T型の十字が刻まれている。今日教会では熱い十字の丸いパンと呼ばれている。タンムズの為になされた40日間の断食と嘆きは、今日キリスト教会で四旬節(しじゅんせつ)と呼ばれているものである。イースターの祭りは今でもイースターと呼ばれているが、もともとはタンムズの復活を祝っていたものであった。聖週間になされた刻んだ像の行列は、今日イエスやマリヤやペテロ、またその他の聖徒たちを刻んだ像の行列となっている。寺院における、イシュタール(イナンナ)やタンムズの崇敬は、今日イエス、マリヤ、またその他の聖徒たちを刻んだ像の崇敬となっている。

 霊魂不滅と地獄の信条は、何千年もの間異教徒に引き継がれてきた。煉獄(れんごく)の教理はギリシャ哲学で言う、浄化の概念から拝借したものであった。死者が生きている人に現れると言う信条もあった。11月に行われたこの祭りは、今日キリスト教でも霊魂の日として祀られている。それがハロウィンなのである。祭壇の前で線香を焚くという概念は異教からのものであった。チャント(詠唱歌)や反復の祈り、数珠(じゅず)は現在教会でロザリオと呼ばれている。十字架のシンボルはもともと太陽そしてサタンの象徴であったが、今日キリスト教会に於いて、礼拝の対象となっている。お守りは異教徒が霊を追い払う為、身に着けていたものであった。今日クリスチャンは十字架をお守りとして身に着けている。

 聖餅(せいへい)の周りの I H S は、イシスとホラス、セブを象徴しており、エジプトに於いて霊魂をなだめるために食べていた。現在教会で聖餐(せいさん)のパンとなっている。頭の周囲にある太陽の輝きを描いた子供と母親の絵は、現在東方のカトリック教会に於いて、イコンと呼ばれている。幼児洗礼、滴礼(てきれい)などは全て異教からであった。口寄せ、死者に語りかけるという概念が神秘キリスト教や、今日のキリスト教会に於いては、奇跡のひとつとされている。主の第一日目である日曜日は、全ての文化に於いて太陽神を崇めるために守られていた。今日、キリスト教会もその日を遵守している。


異教とカトリック教の共通点-----------------------------------------------------------------------------

 異教に於いて最高位の神の名称であった、ポンティフェス・マキシムスという言葉が、現在ローマ法王の名として、キリスト教会に於いても用いられている。ヤヌスとシビルはかつて小アジア(アナトリア:現トルコ)に於いて、天地の鍵を持つ者として崇められていたが、現在ローマ法王は、同様の鍵を持っていると主張している。王なる大祭司が、王座に担がれて神々の宮殿へ行くという概念は、ローマ法王が、聖ペテロ寺院(サン・ピエトロ大聖堂)に行く時に携帯王座に担がれて行くのに変わっている。異教の王なる大祭司は、太陽神の生まれ変わり、天の神の代表者とされていた。法王は自らを神の代弁者であると主張している。神々をなだめる為に捧げ物がなされていた。これらの概念が教会に於いて難行苦行や免罪符という形で引き継がれた。

 古くから売春婦や女祭司の宿が存在していた。今日教会は修道院を設けてその概念を引き継いでいる。そして、太陽崇拝が行われた各時代を通じて、太陽神の敵が生贄・人身御供として捧げられた。宗教裁判に於いて、5000万人以上の人々が殺害されたと言われている。多くの生命が奪われたのであった。

 ローマに於けるこのようなキリスト教の形をとったカルトと、ヒンズー教を比較してみると、ここでも多くの類似点が見られる。

①ローマ教に於いて聖書は、一般信徒から遠のけられ、分かりにくい言葉遣いで記されていた。そして、司祭だけが聖書を理解できると考えられていた。ヒンズー教に於いて、祭司だけがベーダ(インド最古の宗教文献)を理解できると考えられ、ベーダは一般民衆から遠のけられた。

 ②ロザリオ・数珠の使用はヒンズー教で見られる。

③贖罪(しょくざい)の苦行の概念もヒンズー教にある。

④死人の為に捧げる祈りもヒンズー教にある。

⑤全聖徒の日に灯される蝋燭(ろうそく)は、ヒンズーに於いてディマリの祭に見られる。

⑥キリスト教会で重んじられている聖徒の亡なきがら骸は、2000年前ヒンズー教に於いて、礼拝の対象として重んじられていた。

⑦ローマ教もヒンズー同様、夜通し起きて死体の番をする。

⑧死人、または墓の周りで、蝋燭(ろうそく)を燃やすこともヒンズー教は行う。

⑨聖堂の灯はヒンズーの寺院でも、カトリック教会でも見られる。教会に於いて聖徒の前で灯される蝋燭(ろうそく)は、ヒンズーで何千年もの間守られてきたものであった。

⑩ヨーロッパや今日カトリック世界で見られる宮参りの巡礼は、ヒンズーの世界でも同様に見られる。

⑪キリスト教会で棺の中にシュロの葉を聖なる葉として置くしきたりは、ヒンズー教に於いても聖なる草が同様の目的を果たしている。

⑫ローマ・カトリック教に於いて、マドンナ、聖母とその幼児が天の女王、そして神の子として崇拝されている。ヒンズー教ではナンクリヤとリバ、女神であり天の女王、そしてその長男インカ、天の王が崇拝されていた。

⑬キリスト教の修道女と、ヒンズー教の尼僧を比較してみると、あらゆる点に於いて、酷似しているのが分かる。

 キリスト教はヒンズー教と同じなのか?ローマのキリスト教がヒンズー教なのである。ローマのキリスト教は太陽崇拝である。そして異教の儀式は、今日でも続けられているのである。大聖堂で行われる礼拝に行ってみると、様々な祝典を目の当たりにする。そこで行われている礼拝式は、まさしく古代シナルの平野で始まった、バビロン形式の礼拝なのである。


性器崇拝------------------------------------------------------------------------------------------------------

 教会は、異教の偶像礼拝にどれほどはまり込んでしまっているのか。イギリス生まれのリチャード・ペインナイト(1750年 – 1824年)の「性的シンボリズム」という本によると、南イタリアの教会では、18世紀になっても、聖コスモの偶像に捧げる為の、性的シンボルを教会に持って来るよう、信徒に勧めていたそうである。南フランスでは、性器の彫刻が人々に見えるよう教会のドアの上に置かれていたのが発見された。この礼拝の驚くべき部分は、南フランスに於けるプリアプスの礼拝、すなわち男性生殖器の神の礼拝であった。そこでは性の神が礼拝堂に聖徒の名で像として置かれ、若い女性たちはその像に純潔を捧げさせられたのであった。

 こういった男根崇拝、性器崇拝が現在も引き継がれており、イルミナティがマスメディアを使って、人々にミュージックビデオや映画などから気づかぬうちに刷り込みを行っている。



666のシンボル----------------------------------------------------------------------------------------------

 異教ローマの崩壊後、登場した権力はローマ教会であった。これは過去の異教の特徴を取り入れたローマ・カトリック教会なのである。バビロンの教えと、「666」のシステムが教会中にはびこっていることを証明する方法は沢山ある。古代バビロンは今日、荒廃しきっている。メソポタミア地方は荒野と化した。
 大英博物館にあるメソポタミアからの巨大な境界石には、五つの太陽の象徴が描かれている。事実、中東近辺で発見される全ての境界石には、太陽、月、星の神々のシンボルが描かれている。明らかにこれらのシンボルの意味合いは、今日でも変わっていない。しかし、一般民衆に伝えられる意味合いは、時代を通じて変化していった。

 下記の画像の「6」という数字は、神、グノーシス、繁殖、幾何学、そして山羊(Goat)の頭文字である「G」によって、また多くの異なる方法で表わすことができる。「S・O・V・U」はどれも蛇の象徴であった。「3・4・7・8・10」は宇宙パワーを代表する数字として用いられた。「↑」(矢)、「✚」(十字)、「十字の中の円」、「聖痕」(十字架にかけられたキリストの傷に似た傷跡)、また「1」は、どれも自然の性の神が持つ繁殖力を象徴していた。次の列は、巨大な七つの頭を持つ龍、大いなる「666」のパワーを象徴していた。そして次の列で、ヘブル語の「S(エス)」は三位一体を象徴する三叉の矛(ほこ)を意味していた。「☆(ペンタグラム)」は自然の力を表わしていた。一方の角を上に向けるとそれは黄道帯の上の部屋を表わした。下に向けると、黄道帯の下の部屋を表わしていた。正三角形が二つ重なって、「六角の星形(✡)」になると、それは自然の繁殖力を象徴し、また魔術では悪の星となった。

 これらは皆同じものを象徴していた。オカルト(神秘教)の祭司等は、彼らの周囲や自然にみなぎる一神教的なある力を信じていたが、彼らは民衆に迷信的恐怖を植え付ける為、多神教を説いていた。祭司等はこれら憐れな民衆の生活を様々な神話や、神々のシンボルでもって、がんじがらめにしたのであった。神々の象徴の中で、最高位にあったのが太陽だった。太陽は全ての生命と健康の源として表わされている。金は黄泉の国において太陽神を反映するものと信じられていたので、神聖視されていた。この神聖な金が異教の寺院建築に用いられ、神々の像にメッキされたのであった。教会が異教に取って代わって支配権を握った時、教会もまた金を取り入れた。今日大聖堂や様々な教会を見てみると、金がいたるところに見られる。教会はまさに金の宝庫である。像や建造物も金である。カトリック教会は世界で他のどの機関よりも多くの金を所有している。


カルバリを示してはいない十字架------------------------------------------------------------------------

 古代人が目を細めて太陽を眺めてみると、瞼(まぶた)の中で太陽は十字の形に見えた。こうして「十字形」が最初の太陽の記号、あるいはシンボルとなった(十字はアヌンナキにとってはニビルの象徴)。大英博物館にあるメソポタミア時代の境界石にもそれが見られる。紀元前3000年頃の円筒印章や異教世界で使用された貨幣にも世界中で十字形が見られた。この封印には円と十字形の結合が見られる。この男女の結合を表わすシンボルはアフリカで多産の象徴として取り入れられた。
 エジプトでは「アンク十字」が不死身のシンボルであった。エジプトのコプト文化においては、背教した教会がその教理の象徴として異教のシンボルを取り入れた。それが初めて教会に取り入れられた時、もともとカルバリの十字架との関連は全くなかった。

 異教の神の十字形はあらゆる形で教会に取り入れられた。そして今日、これらの十字形や様々な異教のシンボルは教会の祭壇、建築物にも見られ、十字形は教会に於いて、礼拝の主要な対象となっている。お守りとして首にもかけられている。司祭たちはイニシエーション(秘伝の伝授、入団式)に於いて、十字の形をとって床に横たわる。他には二重の十字形がある。古代バビロニアの太陽神シャマシュ(アヌンナキのウツ。別の意味ではイナンナの象徴)の象徴である。


 メソポタミアのいたるところで、それが象徴として用いられていた。ギリシャの貨幣にも描かれている。そしてそれがローマの聖ペテロ寺院(バチカンのサン・ピエトロ大聖堂)の床にも描かれている。この二重十字は教会のいたる所で見られる。


太陽神の象徴である車輪-----------------------------------------------------------------------------------

 他には太陽神の象徴として、車輪、または車輪の中の車輪がある。それはアポロの戦車やアッシリアの太陽神に描かれている。

 オシリスの目であるエジプトの神ハトホルは、ちょうどインドのコナーラクの車輪のようである。そこの寺院でもいたる所に車輪がある。この仏教の太陽を表わす車輪は、タイでも見つかっている。

 ペルシャの太陽車輪、ギリシャの太陽車輪、そしてローマ司祭の神酒杯(みきはい)にもローマ神の太陽車輪が描かれている。

 1963年テカルでも神酒杯(みきはい)は発見された。車輪の中に車輪がある。二重の十字架に気付くことができる。真ん中には単一の十字があり、それは世界最大の輪である、ちょうど聖ペテロ寺院にある車輪のような完全な形を留めた太陽の輪である。

 太陽の輪は今日、教会中至るところで見られる。天井にも、床にも。ここには輪を持っている司祭と、輪を持っているマリヤの絵がある。

 東洋には生命の輪というのがあり、仏教から来たものである。宇宙の三局面の力を表わしている。仏教の広告や彼らの作品に於いてそれが見られる。


太陽のシンボル----------------------------------------------------------------------------------------------

 ロンドンにあるこの神道神社では、「6」が三つ合わさった形からなっている太陽の絵がある。神社からほんの少し歩くと、ウェストミンスター大聖堂がある。チャペルの床には同じ東洋から来た太陽の輪がある。「6」が三つ合わさっている。ソルあるいは太陽神は世界中で拝まれていた。

 ローマだけでなくギリシャも太陽の霊を象徴する顔の絵がある。ギリシャの寺院ではアポロ神が祀られている。曲線と波線が男女の結合を表わしている。

 これと全く同じ象徴物がカトリックの祭壇に見られる。スカンジナビアとイエズス会チャペルの講壇にも見られる。

 ブルゴ寺院では祭壇上で太陽がイエスの後ろから見つめている絵がある。また、ローマの聖ペテロ寺院の天井では、太陽の顔が天井から見下ろしている。他の教会ではドームの頂上と床に太陽が描かれている。今日キリスト教会に於いて、太陽はいたる所に見られる。

 下記の画像の心臓からは、性のシンボルを表わす光が出ている。かつて、異教徒は心臓を拝んだ。肉体から心臓をえぐり取って、それが動いている間に太陽に捧げたのであった。心臓を拝む様子は、世界中いたるところの彫像に見られる。

 下記の画像はケツァルコアトル(古代メキシコの神話中に見られる翼を持つ蛇神)の像で、その胸の空間にはちょうどイエス・キリストの彫像のように、生きた心臓だけが描かれている。このような心臓崇拝が、キリスト教礼拝で重要な一端を担うこととなったのであった。

 下記の画像の窓には雲の上にある太陽として描かれたり、または七つの剣が刺さっているマリヤの心臓として描かれている。これは七つの星の神々を礼拝していた古代の宗教を反映している。エジプトで太陽は赤いディスクとしても描かれていた。これは「ラー」という神である。

 下記の画像では、オシリスが太陽を掲げている。ホルスの頭上にも描かれている。これらの赤い円は、教会の床や祭壇にも同様に見られる。
 この墓に入っている王様の頭上には、エジプトの三位一体神のシンボルである二匹の蛇が、赤い太陽の周囲にいる。ラ神とオマン、そしてオシリスの象徴である。

 ウェストミンスター大聖堂のチャペルには、赤いディスクの周囲に絡み合っている二匹の蛇が見られる。
 金のディスクもまた太陽を表わす。エジプトばかりでなく、スカンジナビアでも見られる。明らかにこのディスクは神格を示すため、神々の頭の後ろに置かれている。

 東洋のいたる所にもあり、それが聖ペテロの頭の後ろにもある。かつてオリオレスと呼ばれたこれらのディスクは、現在ヘイロまたは後光と呼ばれている。それが太陽礼拝の名残りとして教会に溢れている。

 クリシュナの周囲にある光り輝くディスクは、明らかに後光であり、ヒンズー神の周囲にある輪も、まさしく後光である。そして、マリヤの頭の後ろにも同じような後光が射している。

 他にはニンブスという後光がある。それは生殖、繁殖力を拝む秘教から来ている。女性性器の崇拝である。古代人はこのシンボルの中に神々を置いて、それらが繁殖力、または生命を表わした。そして、教会は同じシンボルの中に、聖徒たち、マリヤ、またキリストを置いたのであった。


異教に共通する「666」と球体--------------------------------------------------------------------------

 宇宙を支配する太陽の象徴のひとつに、巨大な球体があった。メソポタミアの境界石に王様が球体を持っている様子が描かれている。またインドではヒンズーの神が太陽を手に持っている様子がある。エジプトではタマオシ黄金虫(こがねむし)が天空で天球を支えているものとして崇拝された。

 球体を持つというこの思想は、ギリシャの礼拝にも見られる。黄道帯の12の部屋をめぐる戦いでは、ヘラクレスが球体を手に持っている。ペルシャのミトラも黄道帯の支配者を表わす神として同じ球体を持っている。

 エジプトのイシスも同様である。ローマのマキシムス、またはカエサルも天球を手に持っている。教会はこの「666」のシンボルを取り入れ、自ら祀っている神格、すなわちマリヤやイエスの手に持たせたのであった。ギリシャ神話の神アトラスも宇宙を担いでいるが、ローマ・カトリックの祭壇にそれが反映されている。


 また、バチカンにある三重冠の天辺には大きな天球が置かれていて、巨大な球体が聖ペテロ寺院の頂上に据えられている。


三角形のシンボル-------------------------------------------------------------------------------------------

 次の画像の南米で見つかった石には、太陽のもう一つのシンボルである三角形を見ることができる。北アイルランドで古代アイルランドの異教徒たちが、巨大な一枚岩の上に、太陽のシンボルとして、三角形を刻んだ。アメリカインディアン達は神格を象徴するものとしてテラコッタ硬貨(赤土焼き)に三角形を刻んだ。

 エジプトに於いても、三角形は太陽神の象徴であった。全ての神秘的、神のパワーを表わすため、ピタゴラスは三角形のシンボルを用いた。

 異教の地ではどこでも三角形が見られる。サンノゼッシュの博物館にも同じシンボルがある。教会を見渡すと、彼らがこの異教に源を置くシンボルを、キリスト教の神のシンボルとして取り入れたことが分かる。正三角形は「666」の神を表わす。教会とは全く縁のないものである。

 他には目を拝むという風習があった。それは神の目を表わし、ピラミッドの蓋石(がいせき)に見られる。ここでは、蓋石の中心部にオシリスの目を表わす円と点が見られる。エジプトの異教徒はオシリス(ニビルのアヌンナキ)を非常に恐れて拝んでいた。

 彼らは魔除けの為、目をポケットに入れて持ち歩いていた。ローマでもこのような形態の礼拝が取り入れられ、この異教ローマの墓の上には、神のシンボルとして、巨大な目が刻まれた。

 このフリーメイソンの徽章(きしょう)では、神の目が正三角形の中に置かれているという概念を表わしている。三角形内のこの目は、大聖堂の巨大なドームから見下ろしているというのである。またイタリア・トリノにある懺悔(ざんげ)箱、フランスの教会の講壇、どこに行っても教会は、目を用いている。

 他には、重なり合った三角形のシンボルがある。それは自然の繁殖の法則を表わし、中心部には神の全てを見通すと言われる目がある。その周囲には黄道帯の36区が描かれている。その数を全て足すと「666」になる。アレイスター・クロウリーがこの六角の星形をデザインした。その中心には、数字の「6」と太陽が見られる。

 これらのシンボルが同様にキリスト教会でも見られる。カトリックの祭壇上には、サタンのシンボルがある。

 英国にある大聖堂の床にも、ロンドンにあるウエストミンスター大聖堂の天井にも、どこの教会へ行っても、オカルトから由来しているこれらのシンボルが見られるのである。サンフランシスコ大学にあるイエズス会のチャペルにも同じシンボルがある。

 この六角の星形は中心に六つの辺を持つ物体を形作っている。花に受粉した蜂が蜜蝋(みつろう)の中で六角形を形作ったのは、蜂が神の象徴だからと考えられていた。蜂は教会中の芸術作品に、しばしば見られる。

 五角の星形、ペンタグラムは宇宙の力を象徴していた。上向きであろうと、下向きであろうと、それはサタン礼拝で用いられていた。ところが、ここカトリックの祭壇や床にも同じシンボルが見られるのである。


帆立貝のシンボル-------------------------------------------------------------------------------------------

 帆立貝は宇宙、または宇宙のパワーの象徴であった。それは多くの場で見られる。海の神ネプチューンの頭の上に、またアトラスやカトリコスも担いでいる。

 ローマにある墓の上には、宇宙を象徴する帆立貝があり、階段は天国への階段を象徴している。この帆立貝の中でビーナス(イナンナ)が生まれ、この帆立貝の中で彼女が裸になるところを描いている。

 ギリシャの貨幣にも帆立貝が描かれている。ここでは異教のビーナスが多産のシンボルである開いた帆立貝の中にいる。教会は性的シンボルをコスミックフォース(宇宙の力)のシンボルとして取り入れた。今日教会のいたる所でそれが見られる。

 聖ペテロ寺院の中にも帆立貝によって洗礼を受けるイエスの絵がある。この聖堂には帆立貝が、イエスの兄弟を表わす、聖ヤコブとして描かれており、これらの貝柱が聖水盤として使用されている。

 ウエストミンスター大聖堂には、教会の床下に葬式を行う為のチャペルがある。よく注意してみると、神格のシンボルが置かれているべきアーチの頂上に巨大な金の帆立貝が置かれている。

 ローマのバチカンには教会の最も著名なシンボルのひとつに、占星術パワーのシンボルの巨大な帆立貝がある。本来キリスト教徒は何の係わりあいのないものである。イエズス会の教会の床には、帆立貝に繫がった太陽が描かれている。


魚冠------------------------------------------------------------------------------------------------------------

 太陽が海の中に沈むと、それが魚の神になると古代人は考えた。インドには沈む太陽を意味する魚の神がいる。海の神ネプチューンも半魚人である。

 エジプトでは女神イシスが死んだ夫の亡骸を探す為、魚に変身したと言われている。アッシリアでは神が魚になるという概念の下、魚が礼拝の対象となった。異教寺院の前に置かれた洗盤に祭司の彫刻が見られる。これらの祭司らは興味深い服装をしている。彼らは頭に魚を被っているのである。レアードという考古学者は、それを魚の司教冠と呼んだ。


 カナンで発見されたレリーフは、ダゴンの祭司たちが太陽の魚神ダゴンを拝むシンボルとして、魚の帽子を被っている様子が描かれている。小アジア(現トルコ)では、シビルのミステリーの中に、彼女がこの魚冠を被っている様子を描いた。確かに、異教世界のあちらこちらで、祭司たちがこの魚冠を被っている様子が見られるが、それが教会にも取り入れられた。今日でもなお、彼らは魚が口を開いているようなその魚冠を被っている。


三重冠と三日月----------------------------------------------------------------------------------------------

 他に太陽を表わすシンボルに三重の冠がある。それは天と地と地獄を治める太陽の象徴であった。異教世界の芸術品にそれが反映されている。ここでは頭に三重冠(さんじゅうかん)を被ったメソポタミアの王と、同じく三重冠を被ったインドの神クリシュナが見られ、背教したへブルの宗教ガバラは、彼らの大いなる太陽神「666」が三重冠を被っている姿を描いている。


 教会も法王が地上における神であることを異教徒に示すために、この三重冠・ティアラを取り入れたのであった。今日でもバチカンには、ある特定の儀式に法王が被る為の豪華な三重冠がある。

 真ん中に横たわっている三日月形は、女性の性的パワーを表わしている。そしてこれが天の子宮として拝まれていた。

 この円筒形の紋章には、天空の神(エンキ)として描かれている。

 バチカン博物館にあるビーナス像の頭には、三日月形の角のようなものがある。三日月形の崇拝は牝牛(めうし)の角を拝む風習から来たものであった。雄牛(おうし)の母である牝牛(めうし)は、生命の源と考えられていた。ローマの月の女神の頭上にも三日月がある。ミトラを表わしているこの女神の頭の上にも角がある。

 死の世界の女神であるバビロンのリリス(バビロニア神話-荒野に住んで子供を襲う女性の夜の鬼神)が三日月形の中に立っている。教会でもあの性的シンボルの中に立っている女神を見ることができる。それが表しているのは、かつての異教偶像崇拝と全く同じものなのである。それは女性の生殖パワーのシンボルである。


太陽を抱くマリア像----------------------------------------------------------------------------------------

 生殖器を崇拝する概念、また聖母崇拝が異教徒を虜にし、ローマは人々の官能に訴えるこの方式を取り入れた。

 シストルムと呼ばれたこの楽器は、異教女祭司のダンスに於いて使用された。エジプトのカルトに於いて天の女神イシスが、そのシストルムを持っている。

 イシスはこう述べている。
「われイシスは、いにしえの昔から存在し、これからも永遠に存在する者である。死すべき人間がかつてわがベールを剥いだことはない。われは太陽という子を産んだ」。
 イシスの子はホラス(ホルス)と呼ばれている。このイシスとホラス(ホルス)の絵には、彼女が後光の真ん中に立っており、その周囲には黄道帯が見られる。彼女の子は太陽神である。バチカンへ行くと、巨大なマドンナの象徴が聖ペテロ寺院の中に見られ、彼女は赤ん坊を腕に抱いている。キリスト教の描いたマドンナ像の赤ん坊もまた、太陽なのである。

 母と子が神であるというこの寓話(ぐうわ)的概念は、エジプトにも、インドにも、東洋にも見られる。日本も中国もそれぞれ独自のマドンナ、聖母と、子の象徴を持っていた。

 イシスの概念はローマ帝国のいたる所で見られた。教会に於いては、この概念が、マリヤと赤ん坊イエスとして取り入れられた。今日の教会で、マリヤとイエスの像を見ると、キリスト教に先立つ古代の偶像礼拝の反映であることが分かる。


 子供だけの像も異教に見られるが、教会にも幼子イエスの像が、それ自体神として拝まれている。

 メソポタミア時代のこの境界石には、太陽神シャマッシュ(アッカド人の太陽神)が刻まれている。シャマッシュは天の子宮である三日月から生まれたと言われている。紀元前2500年頃の円筒印章にそれが見られる。三日月の中に太陽が、または女性の中に男性が、という概念を表わしている。

 このミトラの祭壇や、このエジプトの宝石には、三日月形の中に置かれた太陽のディスクが見られる。

 インドでも三日月の中に入ったディスクをいたる所で見ることができる。星印・アステリスクは、ギリシャに於いて太陽のシンボルであった。ここでは三つの三日月の中に、三つのアステリスクが見られる。

 このメソポタミアのレリーフには、三日月の中に太陽神が描かれている。ローマ・カトリックの聖体顕示台(せいたいけんじだい)も、三日月の中にディスクがある。聖体顕示台の多くは三日月の中に聖餐のパンが置かれる。多くの聖体顕示台には、聖餅を入れる為の三日月形がある。それは男性と女性の性的結合を表わしており、こうして生殖の法則が礼拝の対象となっていながら、人々はそのことに気が付いていないのである。

 礼拝堂のこの小さな扉の上には、秘跡(サクラメント)の道具が置かれている。杯の周りに麦と葡萄(ぶどう)があるが、これは自然の神を崇拝するものである。その神の名はディオニュソスという酒の神、バッカス(ニビルのエンキ)とも言う。


 ローマに於いて自然の神々は、しばしば葡萄(ぶどう)やシュロの葉を持った、山羊のような人間として描かれた。太陽神礼拝には葡萄酒(ぶどうしゅ)を飲む儀式もある。それは神の血であると考えられていた。

 メキシコでは太陽神への供え物として、メースという香料が作られ、人々がそれを食べた。エジプトに於いては神への献身の表明として、人々が聖餅(せいへい)を食べた。またギリシャでは生殖の法則を祀り、神々の聖餐に於いてこれらの聖餅が食された。ギリシャのアクロポリスでは、大祭司が三人の剛健な男たちに雄牛(おうし)を持って来させた。大祭司は聖餅(せいへい)を焼き、それを祭壇の上に置いた。雄牛にそれを食べさせてから、雄牛を屠(はふ)り、それから皮を剥いだ。人々はおのおの雄牛の肉と血を食するよう促された。それから皮に穀物を詰め込み、人々は再び雄牛の身体を裂いて、その穀物を食べた。それは彼らの体内に繁殖力を取り入れることを表わしていた。


カトリックに見る異教の礼拝形態------------------------------------------------------------------------

 同様の礼拝形態は、ペルシャの神ミトラ崇拝にも見られた。それがかつてローマの国教でもあった。

 ローマの修行僧らは、聖餅(せいへい:聖餐"せいさん"のパン)を取って食べた。彼らはイニシエーションと儀式に於いて、以前からあった異教の聖餐を真似た。その食事には神が招かれ、その聖体が兵士らに配られた。おそらくミトラ崇拝は、今日のローマ・カトリック教に最も近いものと言える。驚くべきことに、ヨーロッパの大寺院の地下には、異教の寺院の遺跡があり、そこに於いて初期のクリスチャンたちは、司祭や指導者らの勧めで、礼拝していたのであった。

 聖ペテロ寺院(サン・ピエトロ大聖堂)には、ミサで使われている壮大な燭台(しょくだい)がいくつも見られる。蝋燭(ろうそく)立てを一本ずつ注意深く見ると、それぞれそこには顔が描かれている。その顔はミサで祀られている神を表わしていると推測することができる。ところがこれらの顔をよく見ると、人と山羊の交ざり合った生き物であることが分かる。それはまさしくサタンのシンボルなのである。ミサに参加する人々の多くはそのことを知らない。彼らは何千年もの昔から行われていたサタンを祀る儀式を引き継いだにすぎない。

 サンフランシスコにある聖マリヤ教会には、聖体顕示台に聖餅が展示されていて、扉の傍には六つのパンが置かれている。葡萄(ぶどう)は酒の神バッカスの血と考えられていて、それを飲んで酔った者は神の霊を宿したと考えられた。これは神秘宗教の重要なイニシエーションのひとつで、今日ローマ・カトリック教会でも、実際に神の血を飲む儀式として、重要な役割を果たしている。

 昔、異教偶像崇拝に於いて、蛇のシンボルはバビロンからパレスチナ、ペルシャに至るまで、太陽を拝む者のシンボルであった。後に蛇は神のシンボルとなった。
 アジアに於いては、自然のエネルギーを象徴していた。インドでは神の様々な局面を表わし、エジプトでは混沌をあわらし、生命はその混沌から生まれたと考えた。それは聖なる蛇、ウリヤを表わした。ネフェルティティの帽子に聖なる蛇ウリヤが見られる。翼を持ったケルビムがファラオを守り、ツタンカーメンの傍には翼を持った二匹の蛇がいた。それは魂の門、または死後の霊そのものを表わした。それはすなわち、太陽の霊の象徴であった。墓の上にある蛇の放線状の身体は魂の生まれ変わりを表わした。

 エジプト北部にあるハトシェプスト女王葬祭殿(古代エジプト第18王朝の第5代女王1495‐1475BC)にも、礼拝堂に至るまで、身体をねじられた翼を持つ蛇があり、神と交わる為の媒介とされていた。

 中米のメキシコや南米では、蛇がケツァルコアトル、またはククルカンという名で原住民によって拝まれ、どちらも太陽を表わす翼を持った蛇であった。チェチェンイッツアでは、大寺院に頂上まで続く階段があり、その入り口には翼を持つ二匹の蛇が置かれていた。

 ギリシャに於いて、蛇の神はアスクレーピオスと呼ばれた。アスクレーピオスには、癒しの力があると考えられ、ギリシャ帝国中で拝まれた。アポロ神も戦争と知恵の女神アテナでさえ、蛇と同等にされていた。ローマに於いて蛇は癒しと死後の魂を天に運ぶ霊力のシンボルとなった。スカンジナビアでは蛇のシンボルが全ての中心であった。船は蛇や龍の形に造られ、人々が礼拝した国教会には、いたる所に蛇の彫刻があった。

 この国教会には蛇の形をした格子作りがあり、両側には大きな翼が広がっていた。礼拝堂に入るにはその扉を通らなければならない。チャイナタウンには、仕事場に入るのに、蛇のハンドルを掴まねばならない。またタイでは寺の入り口の傍に、巨大な蛇が置かれている場所が、数多く見られる。この寺院には大きな羽のある龍の鷲や、翼のある龍のライオンや、龍の山羊のハンドル、極めつけは龍そのものの形をしたものもある。扉を開けるにはまず、これらのハンドルを押さなくてはならない。

 ところが奥殿から戻る時に、これは異教の寺ではなく、サンフランシスコにある聖マリヤ大聖堂であることに気付かれる。中庭には六つの十字模様が三列に置かれている。礼拝堂の祭壇に登る階段は六段である。何故これら異教のシンボルが未だに教会で用いられているのか。教会にこれらのシンボルを用いて来た為、他になす術を知らないのである。

 蛇は長年の間教会に於いても見られた。墓や床の上に、あるいは、ウエストミンスター大聖堂では、イエスの頭の上に置かれている。一か所で最も多くの龍の形をした蛇が見られたのは、バチカンであった。ここでは龍が墓の上から、床から、また数々の芸術品の中から人々を見つめている。天蓋(てんがい)でさえ、蛇の形をした古代の柱を模倣したものである。これらの巨大な螺旋状の柱は、杖に巻きついた蛇を表わしていた。蛇は善と悪と両方のエネルギーを象徴していた。そしてここでは二匹の蛇が宇宙の卵を持っている。その卵はベルニーニの天蓋にも見られる。異教に於いてロープは蛇の象徴として用いられ、それは法王の冠にも見られる。バチカンにあるベルニーニの大広間では、教会が巨大な金の龍によって象徴されている。

 聖ペテロ寺院の床下には、自らを「6」と称した法王の冠があり、それには六匹の蛇が見られる。

 稲妻は蛇のパワーのシンボルであった。古代の神々は稲妻を起こすことができると考えられていた。古代ギルガメシュまでさかのぼると、この稲妻がメソポタミアのこれら異教の神々の手の中にあった。祭司も王もこれら神通力のある杖を持ち歩いた。大英博物館にあるこのシリア王は、雷の轟きと稲妻を表わすシンボルを手に持っている。オシリスは蛇を掴んでおり、ツタンカーメンでさえ、蛇の杖を持っていた。

 このエトルリアの神はその手に蛇を持っている。またギリシャの宗教に於いてさえ、アテナ(知恵と戦いの女神)が手に司教杖を持っているのが見られる。アクロポリスからその杖が、蛇であったことは明らかである。

 マヤの宗教に於いては、儀式中祭司たちはこれら蛇の杖を持った。また日本に於いても、神格を表わすこれらの杖を、高位聖職者らが持っていた。

 スカンジナビアでも祭司たちが同様に、蛇の杖を持っていた。このエトルリア人は螺旋状の司教杖を手に持っている。メソポタミアでも祭司たちが同様の杖を持った。ベルリンのシナル地方からの杖の柄も同様である。その先には蛇がおり、明らかに教会が主張しているような羊飼いの杖とは、何の関係もないものである。

 高位聖職者たちは、今日でもその杖を持っている。ちょうど昔の古代魔術師たちのように、多くの場合、杖には蛇の頭が付いている。ある者は象牙を彫刻したもので、時にはそれをより神聖なものにするために、聖徒の骨で彫刻したものもある。

 東方のカトリック世界に於いては、二つの蛇の頭が付いた杖も見られる。これはパトモス島で発見されたものである。

 あるものは、今日法王の王座にあるこの杖のように、生殖力を表わす花のデザインがなされている。司祭や他の高位聖職者たちも、自分たちが自然のエネルギーフォースを支配しているシンボルとして、これらの杖を持つ。

 彼らの主張に関係なく、これには元々の意味があり、聖ニコラスでさえ、蛇の杖を持っている。しかもイエズス会師の杖には、二つの頭が付いている。


三叉みつまた)の矛(ほこ)と祝福の手--------------------------------------------------------------------

 他には、アダト神が持っているような、三叉(みつまた)の稲妻がある。稲妻は様々な異なる形で見られる。

 ここではネプチューンが巨大なピッチフォークとして持っている。

 ネプチューンのピッチフォークは、ミトラやヒンズー神、あるいはギリシャの祭壇でも見られる。ここではギリシャの神が、カトリックの墓で三叉の矛を持っている。ここではイエスの頭から三叉の矛が出ており、聖ペテロ寺院ではこの十字架の角(かど)から矛が出てきている。

 三叉(みつまた)の矛の別の形は、紀元前3000年から存在した円筒印章の祝福の手である。ヒンズーの神にもそれがある。

 また仏教も宇宙の神聖なシンボルを取り入れた。これらエジプトの祭司たちは、手をその肩に組み、宇宙のフォースに対抗することで自らを守った。

 このスパルタ神は、このローマの牧神のような手の形をしている。また、ローマのユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)は、「666」のシンボルであるこのような手の形を作っている。

 ロンドンでは同様の手の形をした太陽神アポロが見つかっている。人々を角と尻尾の生えたピッチフォークを持つ悪魔から守るため、指はポケットに入れるか首のところに置いた。ゼウス神の祭壇には、この聖なる手が宇宙のフォースのシンボルとして置かれた。

 これら奉納された手は、ヨーロッパの大きな博物館に於いても見られ、異教礼拝の名残りを示している。

 学者のリチャード・ペインナイトは、自分の性的シンボルのコレクションを大英博物館に寄贈(きぞう)したが、中でも重要なのがこの宇宙を象徴する手である。男性と女性の指が一緒に挙げられ、生殖を表わす親指の先には、松ぼっくりが付いている。その周りにはエネルギーを表わす蛇、多産のシンボルである山羊の頭、三つの聖餅が置かれている祭壇がある。その下には聖母マドンナと子供がいる。手の甲にはあらゆる占星術の神々のシンボルがある。これらの手はイニシエーションを受ける人達に伸べられた。これの手からエネルギーがほとばしり、彼らに宇宙的生まれ変わりを与えると考えられていた。これらの手がキリスト教会でも見られるというのは、驚くべきことである。それは黄道帯を支配する「666」の神を表わしている。そして今日でも、司祭や法王たちが悪魔のサインを送り続けているのである。


フラドリの紋章----------------------------------------------------------------------------------------------

 他には男性生殖器のシンボルがある。メソポタミアの祭壇、あるいはこのバビロニアの魔神の頭に、今日人々がフラドリと呼んでいる紋章がある。

 イシスの頭やバッカスのシンボルにもフラドリがある。自然の性的フォースを表わしている。ところが今日ローマ教会にも見られる。


稲妻と矢じり-------------------------------------------------------------------------------------------------

 稲妻を掴む動作は、ゼウス(エンリル)が火を投げる動作として表現されることもあるが、イエズス会の教会でも同様に稲妻を掴む様子が描かれている。

 このミトラ教の稲妻は矢で表わされている。矢は世界的に自然のフォースである性的エネルギーのシンボルである。ここではクリシュナが矢を手で持ち、アスキュラピウス寺院では、ギリシャの医者が自然治癒力のシンボルとして、矢を手に持っている。

 このメソポタミアからの境界石は、矢じりを神自身として示している。ローマ人たちは鉄で矢じりを作り、それで生贄を屠(ほふ)って太陽神に捧げたのであった。イエスはその悪魔的シンボルでもって、十字架に付けられた。ところが自らも実質的に異教である教会はそのシンボルを取り入れ、今日ではそれが教会に於いて、神格のシンボルとして用いられ、祭壇や床で拝まれている。

 ここでは三つの矢がコップを支えている。イエズス会の教会には、自らの王を加えた蛇と共に、女性子宮のシンボルに矢が刺さっているのが見られる。このカトリックの聖体顕示台には聖餅から発するエネルギーを象徴するものとして、矢が刺さっている。

 古代人たちは神格のシンボルとして、常緑樹を拝んだ。メソポタミアでは生命の生まれ変わりのシンボルとして、シュロの木を拝んでいた。その象徴はギリシャやローマの宗教にも取り入れられ、現在ではそれがローマ・カトリック教会の床や祭壇、墓などに見られる。


松ぼっくりのシンボル-------------------------------------------------------------------------------------

 この生まれ変わりを表わすものとして、他には松ぼっくりのシンボルがある。この松ぼっくりはメソポタミアの中のレリーフで、魔神たちが手に持っている。

 エジプトではオシリスを象徴している。ここではオシリスが、先が松ぼっくりの形をした杖を持っている。カイロ博物館では、ツタンカーメンが自らの支配力のシンボルとして、松ぼっくりの枝を持っている。


 ヒンズーの神も手に松ぼっくりを持ち、ケツァルコアトルも一方に常緑樹を、もう一方に松ぼっくりを持っている。このギリシャの多産の女神も同様である。

 松ぼっくりは、ローマ人によって取り入れられ、このミトラ教の祭壇には、正三角形の真ん中に松ぼっくりが、また墓にも同様のものが見られる。

 バッカスは男性生殖器のシンボルである松ぼっくりの枝を手にも持っており、これらのレリーフでも、ディオニソスが松ぼっくりの杖を持っている様子が描かれている。

 パンテオンからは巨大な松ぼっくりを手に持っている巨大なディオニソスの像が見つかり、ローマに置かれている。

 初期のキリスト教史に於いて、生命の象徴として、松ぼっくりが取り入れられ、今では教会のいたる所にそれが見られる。

 この古代の性的シンボルは、教会の芸術品にだけでなく、最も大きなものは、バチカンの宮殿にある。それは世界一大きなもので、二階建ての高さになる。古代異教の神格のように、法王も松ぼっくりの杖を持っており、世界中どこへ行くにもその杖を持ち歩く。


生殖器崇拝---------------------------------------------------------------------------------------------------

 ローマに於いて生殖器は、プリアーポスという名の下で、エジプトにおいてはミンという名の下で、崇拝された。生殖器崇拝は、オシリスの男根崇拝に見られる。

 それはエジプトの寺院の前に置かれ、太陽が昇ると、その影が寺院の中に入った。地球という子宮に生命を注ぎ込む太陽の力を象徴していた。

 イスラム教ではこの概念と、これらの塔が取り入れられ、今日のバチカンでも、これらのオシリスのシンボルのひとつが、聖ペトロ寺院前の中庭に置かれた。異教世界にあるものと同じ状態で置かれたのであった。

 異教寺院の柱は、天と地の結合を表わしている。同様に生殖のシンボルでもあった。これがバチカンにあるベルニーニの柱廊で再現されている。

 尖塔(せんとう)はいろいろな教会で見られるが、それらは古代の生殖器崇拝であるプリアプスの再現なのである。


白と黒のシンボル-------------------------------------------------------------------------------------------

 東洋に於いてエネルギーは、陰と陽で表わされている。バッカスの頭もそれを表わしている。二つの頭、一つの神の二面性などである。このマヤの神は、頭に白と黒の羽毛を付けている。善と悪、陽極と陰極、男と女のシンボルである。

 またこのヒンズー経典にもある。このローマの床は、同様に神の二面性を反映している。

 フリーメイソンもそれを取り入れ、彼らがイニシエーションを行うところに、白黒の床を用いている。神は善であり、悪であることを表わしている。サンノゼ市にあるバラ十字会の寺院でも、この白黒の床の上で、イニシエーションが行われる。

 古代バビロンの寺の中庭にも、交互に置かれた白と黒のタイルがあり、そこで善と悪の両面を持つ神を拝んでいた。ヨーロッパの比較的古い大聖堂の多くにも、この白と黒の床が用いられている。


黒人の神々---------------------------------------------------------------------------------------------------

 闇と神秘、悪の神をサトルヌスと言った。バビロンの最初の神はニムロド(マルドゥク)で、彼は黒人であった。彼の名はエチオプス、クシの子とも言った。エジプトで同じ伝説を持つ、オシリスも黒人であった。異教世界では多くの神々が黒人である。ヒンズー教のビシュヌも、最高神格のリシもそうである。

 バチカンでは、ペテロが黒人になっている。古代バビロニアの創立者が黒人であったと言っているように、現代のカトリック教会も創立者ペテロが黒人であったと言っている。


足に接吻(せっぷん)-----------------------------------------------------------------------------------------

 異教偶像礼拝に於いて、足に接吻(せっぷん)するという行為は、神を礼拝することの象徴であった。ヒンズー教の信者は、彼らの霊的師匠の足に接吻し、絵や彫刻からフォースやエネルギーが流れ出ると考えられていた。ヒンズーの寺で人々が足に接吻しており、そこからエネルギーを受けるとされている。ところが聖ペテロ寺院に於いても、人々が列をなして、ペテロ像の足に接吻している。このような行為でさえ、ローマ・カトリックは取り入れてしまった。


鍵---------------------------------------------------------------------------------------------------------------

 鍵を持つ行為も、元々異教のものであった。光を開き、闇の世界を閉じることを表わしていた。今日法王は自らその力を持っていると主張している。4世紀に異教の神である、ヤヌスとシビルが夢で法王に現れ、その鍵を渡したと言われている。法王が自ら持っていると主張するこの無限の力は、地獄の権威をも彼に与えてしまう。これは人々を恐怖と不安に縛り付ける為に、取り入れられた教えである。元々キリスト教にはない教えである。


地獄-----------------------------------------------------------------------------------------------------------

 法王は意のままに、地獄の縄目から解放する力を持つと考えられているが、異教偶像礼拝の制度を見廻すと、東洋からバビロンに至るまで、どの文化にも永遠の灼熱地獄という概念が存在する。カトリック独自の思想ではない。


鷲、ペリカン、孔雀-----------------------------------------------------------------------------------------

 異教徒はしばしば、死者から離れた霊を鳥に例えた。天空を舞う鷲(わし:アヌンナキが地球へやってくる際の鷲のマスク)は彼らにとって恰好のシンボルで、墓などに刻まれている。大いなる不死鳥-フェニックス(ニビルのイナンナの象徴)は昇って来る太陽を表わし、二つの頭を持つ不死鳥は、神の究極の局面である、善と悪を表わす。羽のある霊は、死者を離れて天に昇る人の霊魂を表わし、教会でもこれらの鳥が、いたるところに見られる。

 しばしば背中に聖書を乗せている不死鳥も描かれている。これら教会の教えとは、縁もゆかりもない鳥があちらこちらに置かれている。

 ペリカンは、マンレーホールの著書によると、秘密結社などの神秘的教えで、その子らに食物を与える太陽を表わしているそうである。

 インドに於いて孔雀(くじゃく)は太陽神、または神々の生みの親を象徴している。ある時にはサタンの象徴となる。ウエストミンスター大聖堂にも孔雀がいる。

 古代人たちは死者を拝んだ。彼らは生ける神を知らなかった。彼らの神々がかつてこの地上で生き、天に昇って行ったと考えた。ローマのパンテオン(万神殿)は、占星術の神々を拝むために、人々が集まった所であった。これらの神々は、世界で最大の異教古物のコレクションを有するバチカンへと移行した。

 この死者を拝む概念は、聖人崇拝として教会に取り入れられた。エジプトには365もの神々がいた。各々は年内の一日を占めていた。ローマ・カトリックにも、1年365日中、どの日にも異なる聖人が定められている。聖人たちはそれぞれ、ある異教の神々を反映している。教会に入ってみると、いたる所に死者の棺(ひつぎ)が置かれているのが分かる。まさに教会自体が、死者の世界と化している。

 バルゴス大聖堂にあるこの巨大な祭壇は壮大で、高さは4階の建物にも匹敵するが、其処ら中に聖人たちが祀られていて、これは死者の礼拝以外の何ものでもない。法王たちの死体には防腐処理が施されて、三重の棺(ひつぎ)に納められ、聖ペテロ寺院の床下に保管される。人々はそこにやって来て死者を祀り上げ、ロザリオの祈りを捧げ、棺(ひつぎ)に接吻する。比較的小さな教会でも床下に死者を納める場所がある。


数珠(じゅず)--------------------------------------------------------------------------------------------------

 紀元前2500年頃のこの円筒印章で、祭司が何か小さなボールのようなものを持っている。バビロンやメソポタミアのレリーフでは、祭司や守り神が数珠(じゅず)を手に持っている。数珠玉はバビロンに於て礼拝の一部を占めていた。これらの数珠(じゅず)はバビロニアの雄牛崇拝から取られた。

 またファラオの数珠(じゅず)は、彼と共に墓に納められた。数珠(じゅず)は祈りに用いられ、エジプトでも礼拝の重要な部分を占めていた。ヒンズー教も仏教も皆、祈りに数珠を用いる。イスラム教世界でも祈祷(きとう)用の数珠(じゅず)がアラーの礼拝に用いられた。教会で目にする数珠玉は、まさしく異教に源を置くものなのである。キリスト教徒には縁もゆかりもないものである。


ローソク------------------------------------------------------------------------------------------------------

 ローソクは霊魂不滅を象徴している。火は太陽を象徴している。異教の寺院では常に火を絶やさず灯し続ける。ところが今日、カトリックの祭壇を見ると、そこでは異教が完璧に再現されている。何も見ることも聞くこともできない聖徒たちの祭壇に、ローソクを灯す為に、人々は多額のお金を費やすのである。


線香と人間司祭の崇敬-------------------------------------------------------------------------------------

 ミサや他の儀式の間、祭壇の周りで香が焚かれる。何世紀も前から東洋のヒンズー教でも線香が焚かれてきた。しかし、カトリック教で最も奇妙なのは、人間司祭の崇敬である。「司祭の威厳と務め」という本の中に、聖アルフォンス・リグオーリが、司祭の教理的見解と立場を述べている所がある。

「神は司祭の言葉に従って、彼らが呼べばどこの祭壇にでも降りてくる。そしてその後は、彼らが敵であろうと彼らの意のままになる。場所から場所へ好きなだけ、神を動かせる。望むならば、神殿の中に閉じ込めておくことも、祭壇上に晒(さら)しておくことも、教会の外に持ち出すこともできる。選ぶならば、彼の肉を食べ、他の人にそれを与えることもできる。彼らの力は何と大きいことだろう。民衆はキリストの犠牲を受ける為、祭司の下に来なければならない。司祭の権力は、すなわち、神の権力である。パンの実体変化(聖餐"せいさん"のパンとぶどう酒がキリストの肉と血に変わること)は、天地創造と同じ力を要するからである。こうして、司祭は創造主を創造する者と呼ばれるに相応しい者となるのである」。

「司祭は全ての作られた権威のうち、最上の者であり、また無限の威厳と驚くべき奇跡、偉大で広大、かつ無限、天よりも高く上げられた威厳、彼は神にのみ劣るものである」。

 この立場に於いて司祭は、古代異教の祭司らと全く同じ立場を取っている。決してキリストは、地上でこのような祭司制を起こさなかった。罪人を赦免することに於いて、司祭は聖霊の務めそのものと、魂の清めをなすその務めの故、人々は清めか許しを司祭から受けられると感じて、俗人の下に罪を告白しに集まっているのは、最も悲しむべきことのひとつである。イノセント3世はこう書いた。「彼らの務めの高貴さを見ると、司祭達は、まさしく神々である」と。

 祭司が神の礼拝の為に選ばれたように、古代の寺院では、女たちがベスタの処女、あるいは女祭司として選別された。今日、女祭司の形を引き継いでいるのが、修道女である。開かれた修道院の尼僧たちは、多くの素晴らしい働きをしているように見える。ところが、閉じられた修道院では、彼女たちは司祭らにこき使われている。そこで彼女らは苦労を強いられ、そこで死んで逝く。彼女たちは二度と再び、家族や友人たちに会うことができない。



法王の称号は足すと「666」--------------------------------------------------------------------------

 塔を身に着けることは、天と地の支配権を象徴した。大いなる塔の建造者であるポンティフェクス・マクシムス(最高司祭の意)、そしてこれが法王の名前なのである。バチカン中で建物の入り口や墓にそれが見られる。

 法王の称号は、足すと数字の「666」になるよう選ばれている。神の代弁者という意味の「ヴィカリウス・フィリィ・デイ(Vicarius Filii Dei)」そうである。ラテン数字として足すと、「666」になる。

 この神聖な扉を見ると、各法王が「666」の神であったことが分かる。この扉には各法王の兜(かぶと)が刻まれている。それぞれが「666」を表わしている。三つのブイ、三つのフラドリ、六つの六角星が、何故兜に描かれているのか。

 ラテン語を話す人を意味する、「ラティノス(LATEINOS)」という言葉が、ギリシャ語では、足して「666」になる。

 聖職者の長という意味の、「デュクス・クレリ(DUX CLERI)」も、法廷の代弁者を意味する、「ルドヴィクス(LUDOVICUS)」も、足すと「666」になる。

 ゼウス(エンリル)は黄道帯の円を統括したと言われている。アトラスは黄道帯を担っていた。どちらも666の神のシンボルである。
 1527年に、ローマで出版された出版物に、法王クレメンテスが、黄道帯に座している絵がある。宇宙の一部を悪魔が動かし、他の一部を天使が動かしている。星座表の本には、法王が「666」の神、黄道帯の支配者、善と悪の神として描かれている。

 イタリアの国教会という意味の、「イタリカ・エクレシア(ITALIKAEKKLESIA)」という語も、足すと「666」になる。

 その教会の中心が今日ローマにある聖ペテロ寺院(サン・ピエトロ大聖堂)である。その上に登って柱廊(ちゅうろう)を見下ろすと、そこは太陽神のシンボルだらけなのが分かる。ラテン王国を意味する、「エ・ラティネバシレア(H E LATINEBASILEIA)」という語も、足して行くと、「666」になる。その王国は、この1825年の貨幣で、周りに環のある地球に座っている女として象徴されている。教会自体が、「666」の神なのである。

 ローマ・カトリックの神とは何者なのか。一見、イエスのように見えるが、それは偽者である。サンフランシスコにあるイエズス会教会の祭壇には、ミサの神を表わしている六つのオカルト的太陽のシンボルがある。ローマのバチカンでは、ケースの下にある聖体顕示台に小さく、「S F S」と書かれている。象形文字では三つとも「6」を表わしている。

 人々はこの組織にひれ伏し、その頭である人間にひれ伏すとき、実は、「666」の神を拝んでいることに気付いていない。「サタンを表わすギリシャ語(TEITAN)」は足すと、「666」になる。

■313年頃

 イエス・キリストの死後、キリスト教は西欧で急速に広まっていった。イルミナティのローマ帝国時代、キリスト教徒達は様々な差別、迫害、虐殺にさらされたが、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世(当時は西方正帝)とリキニウス(同・東方正帝)が連名で発布したミラノ勅令が公布されると、キリスト教が公認されただけでなく、教会がそれまでの迫害で受けた損害の賠償まで保証された。これは一般に、全帝国民の信教の自由を保障した内容とされ、これによりキリスト教徒の立場は逆転したが、ユダヤ人に対する差別と迫害が始まった。イルミナティのコンスタンティヌス1世は、この1年前にキリスト教を信仰し始めた。

 キリスト教徒は8角星のニビルマークを「ベツレヘムの星」と呼び、ニビルの星の象徴をみごとに横取りした。そしてアヌンナキは、自分が地球を支配するための装置として神聖ローマカトリック教会を選んだ。人間は宗教を使って操作するのが一番簡単だからである。
 ローマカトリック教会は、次なる公式のアヌンナキ体制になる予定だった。それを達成するためには男性支配体制が必要なので、キリストが独身という捏造にもとづいて、司祭はすべて独身(禁欲)と定めた。多次元性を持つ女性の力を弱める必要があり、女性の権利は剥奪された。
 また人々に死に対する恐怖を植え付けるために、輪廻転生の知識を抹消した。そうすれば、死への恐れが多次元との接触を制限するからである。かくしてアヌンナキは地球の完全支配を手にし、宇宙からの多次元存在が人間にアクセスするのを防ぐという計画であった。


■325年頃

 これまでアヌンナキは地球人に、彼らの種を受胎させる場所として神殿を建てさせてきた。太陽の王女や巫女が、未来の王や女王を生むためにアヌンナキと交わるという昔話は実話である。太陽を巡るニビルの運行周期は3600年で、アヌンナキは実際に地球を訪れると200年以上も神殿で暮らす。7世代にわたるその期間に人間の女神を遺伝系列によって選び、子供を生んでもらう。地球を離れてアヌンナキと旅することを選ぶ子供もいれば、留まって新しい高貴な遺伝系統の種子を蒔く子供もいる。これは公平な遺伝子交換である。しかし、この体験が人間の非常に深い傷の源にもなっている。アヌンナキとの体験が人間たちに出産を促す刺激を生み出しており、それが人間の深層心理に設定されているので、それが人間の無秩序な繁殖・セックスを招いている。
 西暦0年から始まった今回のサイクルでは、旧約聖書の族長制をもとに伝統を築いたすべての神殿が、特にイルミナティのバチカンがこの無秩序に侵されている。なぜ教会は女性の肉体における主権を否定するのか、なぜ女神たちは子を産む器としてのみ有用なのか、はニビルの文化が関係している。
 惑星ニビルでは何千年も昔から、地球の神殿で行なわれる神聖な儀式で集めた受精卵を聖杯に置いて、妊娠期間を過ごさせていた。アヌンナキにとっては女神1人ひとりが出産のための「聖杯」である。人間の女性は豊かな受胎能力を持ち、彼女たちとのセックスはすばらしいものであった。しかし、アヌンナキが人間の女性の全面的な合意を得ないなかで、あまりにもパワフルな形で人間たちを利用したために、人間は心の奥底で、もっとも基本的な権利である受胎能力を自分ではコントロールできないと考えるようになった。つまり、子供をつくるという行為に責任が持てなくなったのである。
 ニビルのアヌンナキは西暦0年から西暦325年に至る大計画を考案し、「キリスト教会を設立してローマ、ギリシャ、東方、エジプトで多様な宗教運動を支配する」という方針のもとに世界へ繰り出し、こうした方法で徐々に人類を操作することに決めた。
 西暦325年には、彼らはローマカトリック教会が「聖体の秘跡(ひせき)」の正式な施行者であるとして定めた。聖体の秘跡とは、イエス・キリストの最後の晩餐に由来するキリスト教の儀式である。パンとぶどう酒は、キリスト教儀式の中で最も飲食されるもので、パンはキリストの肉体であり、ぶどう酒はキリストの血であると認識され、この考え方は一般的に聖餐論(せいさんろん)と呼ばれ、この時に口にするパンとぶどう酒を「聖体」と呼ぶ。アヌンナキの皇帝たちは、キリストがぶどう酒を血に変換させながら本当は何をしているのかに気づき、即座に秘跡を完全に支配して、その力を封じ込めることにした。
 カトリック教会が伝統的に認めてきた七つの秘跡には、洗礼(せんれい)、堅信(けんしん)、聖体、ゆるし、病者の塗油(びょうしゃのとゆ)、叙階(じょかい)があるが、この創造にセックスが介在しないという思いつきは、アヌンナキが考えたものである。このおかしな陽動作戦の目的は、マグダラのマリアとイエスが子供をつくったという事実から人々の目を逸らせるためであり、アヌンナキのバチカンが捏造した話である。そして事実は、その出産によって、キリストのコードが地球の血に埋め込まれたのである。

 イエス・キリストとマグダラのマリアの間にはサ・ラーという娘が生まれ、これまで百代にもわたる子孫を作っており、キリストは人間すべての体内のDNAに生きている。
 やがて聖体拝領(せいたいはいりょう)はまんまとローマカトリック教会に取り込まれ、バチカンは世界を改宗させていくための燃料として聖体拝領を利用した。聖体拝領とはおもにカトリック教会用語で,ミサ聖餐においてキリストのからだとなったとされるパンとぶどう酒を食することである。他にも聖餐(せいさん)と呼ばれることもある。
 彼らは情報を操作するために、まずマグダラのマリアの記録を抹消した。その後、カタリ派を虐殺したのち、司祭はすべて独身と定めたのは、それによってキリストも独身だったと人々が信じるように仕向けるためであった。そうすれば彼の血統が発見される可能性は排除され、たとえDNAが存続してもそれを本物と信じる者はいなくなるからである。バチカンは聖体拝領を自分たちの中心的秘跡とし、それを利用してカトリック信者を操作、支配することで、完全にキリストから盗みおおせたと考えた。


 死を怖れるのをやめないかぎり破滅は避けられないが、人間が死を怖れるように仕向けたのもアヌンナキである。地球に滞在するあいだは非常に老化が早いために、アヌンナキは人間の1年あたりに3600歳も年をとる。ニビル王アヌは45万年にわたる数多くの訪問で年老いて、疲れてしまった。アヌンナキは恐怖に駆られた存在であり、どんな悪事も好き放題できてしまうので、彼らは自分の感情を人間に投影し過ぎてしまった。悪意を帯びた冗談と同じで、最初は面白いが、やりすぎると面白いどころではなくなる。人間もそろそろ目を覚まし、アヌンナキが地球を訪れるときだけでなく、軌道のどこにいても人間に影響を与えていることに気づくべきなのである。アヌンナキは人間のマインドに埋め込まれた思考形態を通じて影響力を及ぼしている。アヌンナキは人間を刺激して、太陽がもう二度と昇らないかのように、買いだめと備蓄に走らせてきた。しかしもともと人間は、持ち物が少ないほうが活動しやすく、ものを分かち合う共同体で暮らしたほうが幸せなのである。


聖書は意図的に書き換えられたもの---------------------------------------------------------------------

  聖書には数多くの真実があったが、イルミナティのローマ・カトリック教会によるさまざまな会議において、聖書はかなりの部分が書き換えられた。その理由は、彼らがつくり上げたキリスト教に合致するように、その要求に応える必要があったからである。聖職者たちは、宗教会議によって聖書の多くの部分を抹消し、かつ書き換えたのである。多くの場合、”天使”であるとか、”主の御使い”などの描写はアヌンナキだった。意図的に事実が歪められたのは数回ある。それは325年のニケア公会議、381年のコンスタンチノープル公会議、431年のエフェソス公会議、そして451年のカルケドン公会議の時に、ローマ・カトリック教会によってそれが行なわれた。そのほかにもあるが、それは特別重要な変更ではなかった。聖書は、地球の多くの人々が信じているような「神の本」ではなく、それはただ本来の律法学者とは違う書き手によって多くの修正が加えられ、かつ美化された単なる古代史の文献なのである。
 キリスト教徒を除く、世界の多くの人々が輪廻を信じている。生まれ変わるという概念は、キリスト教の教義に本来あったものだが、325年のニケア公会議において削除された。こうして初期のキリスト教において、ニビルに関する情報は聖書からはすっかり削除された。そしてキリスト教やユダヤ教は、ニビルに関する情報を常に隠していく。


■326年頃

 バチカンの地はイルミナティのローマ帝国の皇帝コンスタンティヌス1世によって、イエス・キリストの使徒ペトロの墓所とされ、この地に最初の教会堂が建てられた。やがてこの地に住んだローマ司教が教皇として全カトリック教会に対して強い影響力をおよぼすようになると、バチカンはカトリック教会の本拠地として発展した。そして755年から19世紀まで存在した教皇領の拡大にともなって栄えるようになった。
 1506年には2代目である現サン・ピエトロ大聖堂が着工し、1626年に完成した。イルミナティのバチカンでは、小さな子供達を生贄に捧げる儀式が行われており、すべての法王がそれに関わっている。それは2000年代の現代も続けられている。

 またこの頃、イルミナティのローマ皇帝コンスタンティヌス1世が、ニケアで公会議(第1ニカイア公会議)を開いた。この議会の政治的背景によってキリスト教理は創作された。続く1600年間はイルミナティのバチカンがヨーロッパ全体の政治主権を握り、十字軍や宗教裁判などで悪政を率先してきた。キリスト教は神話を使って社会を巧みに操って支配する権力者に力を与え、それは現在も続いている。

 ニケア公会議の際に、女性排除がどこまで進んでいたかをこれから読み取ることができる。この頃から、イエスの教えと称して紹介された教義の中で、「女性の概念」の悪用が急速に進んでいったのである。一番悲劇的なのは、こうして紹介された教えがキリスト本人の教えとははるかにかけ離れたものでありながら、二千年もの間、地上の権力者によって支配と操作を正当化する道具として使われてきたことである。今、宇宙におけ時空間の新しいサイクルに入ろうとしているこのとき、この過ちは修正され、人間の精神に植えつけられた歪みは正されなければならない。


女性差別の根源----------------------------------------------------------------------------------------------

 ローマ・カトリック教会は教義上、女性聖職者を認めていない。宗教的な儀式においては、出血中の女性は絶対にその場にいてはならないと強調されてきた。これは、反復される儀式そのものが、4次元にいる「アヌンナキ司祭制度の儀礼」だからである。なぜ出血中の女性の参加が禁じられるかというと、出血中の女性はコントロールの力学が演じられているのを即座に見抜いてしまうからである。しかも彼女たちの血の力は、儀式における操作の影響力を弱めることができる。アヌンナキによって地球に持ち込まれたあらゆる宗教の形態が、出血する女性を穢れ(けがれ)たものとして忌み嫌うようにさせて、女性を拒否してきたのにはわけがあった。このようにしてさまざまな宗教が女性を排除し、女性を貶め(おとしめ)てきたのである。


キリスト教の誤りは正されなければならない----------------------------------------------------------

  聖書に記されている出来事の背景には、偉大な真実があるが、その多くは意図的に書き換えられており、しかもわざと翻訳せずに残されている。それは現在の地球の社会体制を作り上げて機能させている一握りの者たちが、人類のコントロールを維持するために行なってきたことなのである。

 イエスの本来のメッセージは、後世において多くの書き換え、付け加えが行なわれて、本来のものは歪められてしまったが、それを見分けるにはごく単純に、「魂の法則」に反する信念はどれも、イエスの教えたものではないということである。イエスはこうした宇宙の法則を熟知していたので、それを聞く耳を持つ者に伝えようとした。次はその中のいくつかの例である。

①すべての人間は人種や性別、宗教にかかわらず、同じ本質を持つ存在である。つまり、すべての者が進化途上の魂であり、それゆえに兄弟姉妹である。(マタイによる福音12章50節、18章12~14節)

②魂の生命は永遠であり、死は存在しない。(マタイによる福音10章28節、3章13節)

③ 地球上の人間の務めは、無条件に愛することを学び、エゴから解放されることだ。魂がどれだけ成長したかの印は、愛の力量だけで量られる。愛だけが我々を進化させるのであり、自らの内なる神へと近づける。(マタイによる福音5章43~48節)(ヨハネによる福音15章12節)

④霊的成長進歩は、自分自身の努力にかかっている。人間の肉体的死後の運命は、生きていた時の「愛の法則」に基づいた行為、あるいは反した行為によってのみ決定される。(ヨハネによる福音3章21節)(マタイによる福音18章18節)

⑤各人はそれぞれ神との独自の繋がりがあるので、仲介者に依存して霊界と交信する必要はない。(マルコによる福音11章24~25節)(ヨハネの第一の手紙5章14節)(ルカによる福音11章9~13節)

⑥魂の成長進化はただ1度の肉体的転生では成し遂げられず、より高度な霊性を獲得する進歩のためには数多くの転生が必要である。(ヨハネによる福音3章3節~13節)

⑦「霊的裁きの法則」あるいは「原因―結果」の「因果応報の法則がある。その意味は、自分が蒔いたものは自分が収穫しなければならないということ。(マタイによる福音7章1~2節、12節)



 次に霊的な観点から、イエスの死後に付け加えられた、真実でないキリスト教の信念の例である。挙げればたくさんあるが、中でも霊的な進歩にとって一番悪い影響を及ぼしている最も重要な例を挙げる。

①宗教的儀式の執行に精神的な何らかの価値があり、死後に天国において特別な賜物の確保に役立つという信念。

②聖書やその他の聖典が神のみ言葉であるという信念。

③教会や聖職者が、地上における人と神の仲介者であるとする信念。

④自らの悪い行為を清算するためには「告白・告解」が必要であり、司祭から許されることで解消されるとする信念。

⑤臨終において悔改めれば、すべてが許されるという信念。

⑥イエスが十字架上で死ぬことで、人類の罪を贖(あがな)ったとする信念。

⑦原罪があるとする信念。

⑧性を何か罪深いものだとする信念。

⑨人生は1度きりであり、ただ1度の人生で魂の行く末が永遠に決められるとする信念。
 (救われる者は永遠の天国と栄光が約束され、罪人には永遠の地獄と罰が待ち受けるとする信念)

⑩キリスト教信者だけが救われるとする信念。

⑪肉体の蘇えりを信じる信念。

 霊性進歩の道には近道などはなく、自分を霊的に進化させる、つまり「救済する」唯一のものとは自己の改善であり、エゴを手放して愛の能力を成長させること以外にはない。救済には宗教的儀式が不可欠とする信念は、さまざまな教会の指導者たちが人々の霊性を監督指導し、コントロールするために利用してきたものである。
 また人々の霊性を操作したり逸脱させるために、儀式を利用するのは良くないことである。儀式など必要ないのに、どうしてその儀式を行ない続けねばならないのか。人間の歴史を見ると、儀式や象徴は、メッセージの代わりに別に用意されたあるメッセージにすり替えられてしまうことが多い。その結果、そうした儀式や象徴を盾に取り、結果的に従うべき信仰にことごとく反するという大きな過ちを犯すことになる。そのいい例が十字軍と宗教裁判である。それは胸元に大きな十字の印を付けた人々による大量虐殺と殺人であった。彼らは毎日、聖体を受けており、手に聖書を握って、死の宣告を行なった。隣人に対する愛の教えは一体どこにあるのか。

 また聖餐式(ミサ)は、イエス自身によって伝えられたのではない。イエスが自分の処刑までもう時間が残されていないと悟り、別れの晩餐に弟子たちを集めたことは本当である。だが彼は聖体を与えるような儀式だけでなく、その他のいかなる儀式や式典なども確立させようと考えたことはなかった。さらに言えば、たとえそれが象徴的なものであろうと、キリストの肉を食べ、血を飲むとする行為は、まさにカニバリズム(人肉食習慣)を連想させるものであり、イエスはそうしたものと何の関係もない。

 こうした儀式には、それ以前からある他の宗教儀式がキリスト教に取り入れられたのである。そのようにしてイエスの使徒たちの名称や十字の印などとともに、後世に導入されたのである。十字の印もイエスに由来してはいない。十字架というものはイエスの時代には、現在の電気椅子と同じように、人を処刑するために用いられていた。
 もし人々に正常な判断力があれば、自分の信仰の象徴に十字を使おうと思いつく者は誰もいなかったことがわかるだろう。イエスが現代に生まれて電気椅子で処刑されていたなら、あなた方は電気椅子をペンダントとして胸に下げようとするのだろうか。
 こうした話はかなりショッキングなものなので、キリスト信者、特にカトリック信者にとってはなかなか受け入れ難いことである。この時代の宗教組織のしてきたことは、多くの迷信と戒律で人々を怖れさせ、聖職者が自らの富と権力を手にするために神の名を利用し、長い間人々の真の霊的成長を阻害してきたのである。複雑な儀式を利用して人々からお金を巻き上げ、人々の犠牲の上に裕福な暮らしをしていた。そしてイエスがその事実を曝露したので、彼を殺した。当時のイルミナティのユダヤ教会は、イエスの人物像を利用して彼の教えを操作し、人類の霊的な成長を押さえ込んで生きながらえてきた今日のイルミナティのキリスト教会の姿と、非常に良く似ていた。こうしたことはきちんと正されるべきである。


キリスト教会の十字架の尖塔はアンテナ---------------------------------------------------------------

 古代に限らず現代でも、宗教的な建造物などの多くには富を表す秘密のシンボルが置かれて崇拝されている。キリスト教会の楕円形の窓や屋根の尖塔は、人間の性器を模(かたど)るものである。西洋の教会建築の一番上の十字架は、古代のシンボルであり、ある伝統においては「十」はエネルギーが交差する交差点を表す。
 その時代、魔女とされた人々はエネルギーを操ることのできる人々だったが、彼女たちはそうした道が交差している場所はエネルギーが何倍にも増すことを知っており、そのために互いの力を交換するためにそうした場所で集会を開いた。
 また十字架はアンテナの役目もしている。つまりその時代、人々を磔(はりつけ)の刑で罰する時、その苦痛と恐怖のエネルギーが、エーテル次元に直接放射されるアンテナとなることを、当時の政治と宗教の支配者たちは知っていたからである。そして現在でもそれはエネルギーを集めて送るアンテナの働きをしている。これは人間のエネルギーを食料としているアヌンナキたちがいるからである。
 この世界は両極化の世界である。アヌンナキはこの世界を毒や苦難、苦しみだけしか選択できない場所であると、人々に信じ込ませようとする。そしてこうしたものを選択してしまうことによって、無意識的ではありながらその周波数をエーテル次元に放ち続けてきた。もし人々が、平和的で目的を持ち、責任ある生き方に焦点を合わせることを選択するならば、人間は常にその生き方とともに存在することができる。


■366年

 東国(とうごく:関東から静岡辺り)は天下泰平の世が続いていた。しかし倭朝はまたも日高見国(ひたかみのくに)を己の王領にしようと、上毛野(かみつけの)君祖・竹葉世(たかはせ)に荒吐族(あらばきぞく)討伐を勅(ちょく)した。
 この時の荒吐族(あらばきぞく)領大津(滋賀県大津市)は凶作が続き、大津に駐留していた荒吐族(あらばきぞく)五王が大津より奥州に引き揚げることにした。
 それを聞いた竹葉世(たかはせ)と弟の田道は、時を得たとばかりに荒吐族(あらばきぞく)王が引き揚げる際に三万の兵を率いて迫った。
 そして東日流(つがる)行丘に陣を張り、荒吐族(あらばきぞく)と戦ったが敗れて中山に追われ飯積(いいずみ:千葉県印旛郡酒々井町)、山田というところで荒吐族(あらばきぞく)五王の達磨(だるま)が奇襲して田道軍を攻め破り、上毛野(かみつけの)田道はついに右肩をとりかぶとの毒矢で射抜かれ討ち死にし、兵の半数が殉じた。
 その時、田道軍の副将倭毛津禰という忠臣(ちゅうしん:家来)がいて、残る官軍を率いて魔神山に脱して田道将軍の遺骸を常棣樹の煙で干し、一年の歳月をかけて墓をつくり埋葬した。
 帰朝した上毛野(かみつけの)竹葉世(たかはせ)より報告を聞いた倭朝は、しばらくの間征夷を中断していた。

東日流外三郡誌

トマス(キリスト教)、達磨(だるま:禅宗)、縁起ダルマのつながり----------------------------------

 荒吐族(あらばきぞく)の達磨大師(だるまだいし)は、インドからやってきた僧侶で、禅宗の開祖でもあり、中国や日本で禅を広めた。昔からダルマは七転び八起きの縁起物とされてきた。キリスト教の聖書にも、「正しい者は七たび倒れても、また起き上がる」と書かれている。

 達磨大師(だるまだいし)は南インドから来たが、そこはキリストの弟子であるトマスが宣教していた場所であった。達磨大師の話にはトマスの伝説がかなり取り込まれ共通点が多い。見た目の部分で言えば、髭(ひげ)や赤い服などである。また達磨大使の命日は10月6日、そしてこの日はギリシア正教会がトマスの召天日(しょうてんび:命日)と定めている。
 京都府にある金戒光明寺に所蔵されている五百羅漢図(ごひゃくらかんず)という絵画には、キリストの昇天、弟子達の復活への祈り、それを人々に宣教するトマス(達磨)の姿が描かれている。つまり達磨(だるま)は、キリストの十二使徒の一人トマスと同一人物であった。
 その達磨(トマス)が荒吐族(あらばきぞく)五王の一人だった。キリスト教も仏教もアヌンナキとその闇の子孫たちが、宗教操作によって中身を作り替えられたものであり、名前や場所が宗教ごとに異なって作られている。それらはエジプト神話、そしてアヌンナキの物語に起源がある。

 荒吐族(あらばきぞく)の領地だった群馬県高崎市は、現在、縁起ダルマの生産量日本一を誇っている。縁起ダルマは、達磨の坐禅姿を模した置物で玩具である。


埼玉古墳群---------------------------------------------------------------------------------------------------

 この時代、関東地区にある荒吐族(あらばきぞく)の古墳数は約3万8000基であり、大和王権の2万9900基よりも多かった。この埼玉古墳群は、関東地区にある荒吐族(あらばきぞく)の古墳である。

 古墳より埴輪や黄金の装飾品も多数出土している。埴輪は垂れ目のものが多い。


■368年

 田道将軍が荒吐族(あらばきぞく)追討(ついとう)に来たが、東日流(つがる)国において敗死、伊津水門というところに埋葬された。

東日流外三郡誌

■381年頃

 コンスタンチノープル公会議で、イルミナティのローマ・カトリック教会によって聖書の一部が書き換えられる。

■392年頃

 イルミナティのローマは、キリスト教を認め国教とした。この時キリスト教以外の宗教は禁じられたことにより、オリュンピア大祭(オリンピック)も禁じられることになった。最後の第293回オリュンピア祭は翌393年に開催され、これが古代オリンピックの最後の年となった。