9章 倭国とローマ帝国 : 地球人のルーツ

■紀元前200年頃

バグダッド電池----------------------------------------------------------------------------------------------

 この頃、現在のイラクの首都バグダッドにあったパルティア遺跡では、バグダッド電池が使用されていた。高さ約10cm、直径約3cm程度で、粘土を焼いて作った素焼きの土器の中にアスファルトで固定された銅の筒が入っており、その中のアスファルトで塞がれたシリンダーの中に鉄製の棒が差し込まれている。また底に何らかの液体が入っていた痕跡が残っていた。

インドの叙事詩ラーマーヤナの元が編纂される-------------------------------------------------------

 ラーマーヤナ、マハーバーラタと古代核戦争インドの二大叙事詩「ラーマーヤナ」「マハーバーラタ」は世界的に有名である。ラーマーヤナの方が古く、シュローカと呼ばれる16音節2行(あるいは8音節4行)から成り、その数は2400にも及ぶ。BC2世紀頃、詩人アーディ・カヴィによって編纂されたものが元である。ラーマーヤナとは“ラーマ王伝”という意味である。ラーマーヤナは、英雄ラーマが妻シータを悪玉ラーヴァナから取り返す物語である。舞台は南インドで、現在のセイロン島と見なされている。主人公ラーマはコーサラ国の王子である。
 マハーバーラタの内容は戦争である。BC10世紀頃の北インドを舞台とした壮絶な戦いである。主人公は、クル族の王子アルジュナである。彼が同族の戦いに躊躇するが、英雄神クリシュナが現れ、進むべき道を示すバガヴァッド・ギーターの場面がよく知られている。また、英雄アスワタマンが空飛ぶ戦車ヴィマナで敵と戦う場面が有名であり、BC10世紀頃の北インドでの出来事を記したものとされている。マハーバーラタは聖仙ヴィヤーサによって編纂されたと言い、AD4世紀初頭に成立した。ラーマーヤナの内容を知っていることを前提とするが、その量はラーマーヤナの4倍以上にもなる。バーラタとは、インド人が自らの民族を指す呼称である。マハーバーラタとは“偉大なるバーラタ族”という意味である。
 しかし、そこには現在の核兵器を思わせるような、極めて写実的かつ具体的な兵器が数多く登場し、あたかも実際に目にしたような描写である。つまり、“主エンキの御言葉”に記されていたように、第3の地域も傷ついたのだから、メソポタミアだけではなく、インダス一帯でも核兵器が炸裂したことを裏付けることとなる。そこで、物語の概略を紹介し、これらの物語をシュメールとカッバーラの観点から見直す。


ラーマーヤナ-------------------------------------------------------------------------------------------------

 ある時、コーサラ国の都アヨーディヤーの名君ダシャラタは世継ぎを願い、祈りを捧げた。その頃、地上は流血を好む魔神ラーヴァナがのさばっていた。このような状況を「神々」は憂い、魔神を退治して欲しいとヴィシュヌに懇願した。その願いを聞き入れたヴィシュヌは、第1王妃スミトラーからラーマとして誕生した。やがて、成長したラーマの前に、聖仙ヴィシュヴァーミトラが現れた。ラーマの優れた武術を見込んで、魔神退治をお願いしに来たのである。ラーマは承諾し、見事に魔神を退治した。
 その後、ラーマは旅を続け、ヴィデーハ国のジャナカ王の宮廷に到着した。そこで、王の美しい娘シータと出会い、彼女を娶った。しかし、シータには秘密があった。彼女はジャナカ王の娘ではなく、大地母神ブーデーヴィーの娘だったのである。畑に鍬(くわ)を入れた時、大地から誕生した女神の化身である。

 ラーマがシータと共に祖国へ戻ると、第1王子として迎え入れられた。年老いた王はラーマに王位を譲ろうとしたが、継母カイケーイーの策略によって阻まれ、国外追放されてしまった。再び旅に出たラーマだが、こともあろうか、魔神ラーヴァナの妹シュールパナカーに気に入られてしまった。ラーマはシータのことを想い、当然拒絶した。怒ったシュールパナカーはシータを殺そうとしたが、ラーマの従兄弟で幼馴染のラクシュマナにより、耳と鼻を切り落とされてしまった。彼女は悲鳴を上げて退散し、兄である魔神に事の次第を話し、仇を打ってくれるよう頼んだ。魔神は空飛ぶ戦車プシュパカに乗り、ラーマたちを襲撃し、シータを略奪した。
 ラーマはシータを奪回すべく、立ち上がった。盟友ラクシュマナと猿王ハヌマーンを従え、シータの行く先を突き止め、攻撃した。しかし、魔神の息子で魔術師のインドラジッドにより、ラクシュマナは瀕死の重症を負ってしまった。それでも、聖仙ヴィシュヴァーミトラがラーマ王子に与えた武器ブラマダッタにより、何とか魔神を倒すことができた。

 シータを無事に救い出したものの、ラーマはシータの貞節(ていせつ)を疑ってしまった。身の潔白を証明するために、シータは燃える火の中に身を投げた。あわや、というところで、火の神アグニによってシータは助けられた。これにより、ラーマはシータの潔白を信じ、永遠の愛を誓い合った。こうして、2人はコーサラ国の王と王妃として、末永く統治していった。
 最終章では、シータは大地母神によって大地へ帰り、ラーマも2人の息子に王国を委ねると、天界へと帰っていった。この時、ラーマはヴィシュヌ、シータはラクシュミーへと回帰した。


マハーバーラタ----------------------------------------------------------------------------------------------

 バーラタ王の子孫で、クル族のシャーンタヌという王は、ガンジス川の女神ガンガーに恋をし、求婚した。ガンガーは、自分がどんなことをしてもそれを止めたり、訳を聞いたりしなければ、という条件で承諾した。ガンガーはシャーンタヌとの間に次々に7人の子を生んだが、生み落とすや否や皆、殺してしまった。シャーンタヌは約束に縛られて、ガンガーのなすがままだったが、8番目の子が生まれた時には耐え切れず、殺害を食い止めた。王の約束違反により、ガンガーはシャーンタヌの下を去った。この8番目の子がデーヴァヴラタ、後のビーシュマである。(クリシュナの話そのものである。ビーシュマはヴィシュヌと同じである。)
 ガンガーが去って数年後、シャーンタヌ王は漁師の娘サティヤヴァティーに一目惚れして求婚したが、サティヤヴァティーの父親に、私の娘の子が王位を継承できるなら、と条件をつけられ、苦悩した。成長したデーヴァヴラタは文武両道に秀で、理想的な王位継承者と期待していたからである。父の悩みを知ったデーヴァヴラタは、自らの王位継承権を放棄し、王国の将来に禍根を残さぬため、生涯の不婚を誓う。この困難な誓いの後、彼はビーシュマ(恐るべき者)という名で呼ばれるようになる。こうして、シャーンタヌはサティヤヴァティーを妻とし、2人の間には2人の王子が生まれた。
 間もなく、シャーンタヌ王は死去した。ビーシュマの、父と王国への献身も空しく、シャーンタヌのこの2人の王子も、共に後継ぎを残すことなく夭折(ようせつ)した。サティヤヴァティーはビーシュマに誓いを放棄し、王となり、王国に後継ぎを与えるよう懇願するが、ビーシュマはこれを受け入れなかった。そこで、サティヤヴァティーがシャーンタヌと結婚する前に、聖仙パラーパーヤナとの間にできた子ヴァイパーヤナを宮廷に招き、夭逝(ようせつ)した王子の未亡人と結婚させた。これにより、ドリタラーシュトラ、パーンドゥの2人の王子が誕生した。
 兄のドリタラーシュトラは盲目だったため、王位は継承しなかったが、100人の王子と1人の王女に恵まれた。王位を継承したパーンドゥは5人の王子(ユディシュティラ、ビーマ、アルジュナ、ナクラ、サハデーヴァ)を得たが、夭逝(ようせつ)した。その子たちはいずれも若すぎたので、ドリタラーシュトラが王として即位し、パーンドゥの5人の息子たちを引き取った。5人の王子たちは、いずれも100人の王子よりも優れており、誰もが認めるところであった。そのため、100人の王子は5人と反目し、対立し合うようになった。ついに、100人の王子の陰謀により、5人の王子は追放されてしまった。
 追放された5人の王子はバラモン僧に姿を変え、流浪の旅に出た。やがてパンチャーラ国に着いたところ、王女ドラウパディーの婿選びが行われていた。そこで、彼らも候補として挑戦し、三男アルジュナが結婚することとなった。と同時に、パンチャーラ国の習慣で、他の4人もまた、ドラウパディーの夫となった。こうして栄誉を勝ち取った5人の王子は、故郷へ戻った。ドリタラーシュトラ王は国を二分して、一方を彼らに与えた。
 しかし、100人の王子たちは面白くない。またしても彼らは陰謀をめぐらし、5人の王子を失脚させ、国外へ追放した。13年間、誰にも正体を知られなければ帰国しても良い、という約束をして。5人の王子とドラウパディーはマツヤ国のヴィラータ王の宮廷で家来や召使いとして働き、追放の13年をどうにか乗り切った。ヴィラータ王には彼らの正体を明かし、帰国した。そして、100人の王子の長男ドゥルヨーダナに領土の返還を要求したが、彼はこれを拒否したので、両陣営の対決は避けられないものとなった。5人の王子には十分な物資や兵士が無かったので、アルジュナがドヴァーラカー国のクリシュナ王の下へ、戦争の援助をしてくれるよう頼みに行った。しかし、そこには100人の王子の長男ドゥルヨーダナの姿もあった。彼もまた、援軍を要請しに来ていたのである。そこで、クリシュナは提案した。クリシュナ本人とその配下の軍、どちらかを援軍として差し出すから、好きな方を選ぶが良い、と。ドゥルヨーダナは軍、アルジュナはクリシュナを選んだ。
 そして決戦の日、ハースティナプラ近郊クルクシェートラの地(クル平原)に、両陣営の大群が集結した。(ハルマゲドンの原型。)まさに大戦が始まろうとする時、5人の王子最高の戦士アルジュナは、突如戦意を喪失した。敵方に、恩ある人々の姿を見かけたからである。5人の王子と100人の王子共通の大伯父ビーシュマ、同じく両者共通の武術の師ドローナなどである。この2人は、心はむしろ5人の王子側にありながら、誓いに縛られて100人の王子側に立って戦わなければならなくなっていた。アルジュナの御者を務めていたクリシュナは、アルジュナに戦士の義務などを説き、戦意を回復させた。
 いよいよ戦いは始まり、死闘が続いた。轟音が鳴り響き、大地が震え、血みどろの戦いが18日間続いた。あまりにもの壮絶さに、クル族が全滅してしまうと危惧したビーシュマは、自らの死を持って戦いを止めさせようとした。彼は、両陣営の大叔父である。しかし、100人の王子の長男ドゥルヨーダナは聞き入れず、戦いは激しさを増していった。そして、ついに最終兵器を持ち出してきた。英雄アスワタマンは空飛ぶ戦車ヴィマナに乗って、空から敵に攻撃した。兵士は散り散りになり、最終兵器アグネアを打ち込んだ。その威力は凄まじく、炸裂した瞬間、灼熱の炎によって、一瞬にして全軍が消滅してしまった。これにより、100人の王子は全滅し、5人の王子とクリシュナが勝利して、戦いは終わった。

 ドリタラーシュトラと妻は森で隠居生活を始め、5人の王子の母も2人に従ったが、山火事に巻き込まれてこの世を去った。5人の王子は「神々」が住まうヒマラヤへ旅立ち、この世の役目を終えて、天界へ回帰した。


武器に関する記述-------------------------------------------------------------------------------------------

 マハーバーラタで使用された武器はアグネアと言い、「神々」ですら抵抗できない究極兵器とされている。その部分の記述はこうである。

“すべての敵に狙いを付けた恐怖の火の矢は、ついに天空に放たれた。煙を伴わない火を噴く矢である。敵は恐怖に駆られ、四方に逃げようとしたが間に合わず、ついにアグネアは敵を捉えて落下し始めた。そして、炸裂した瞬間、太陽を1万個集めたほどの未曾有の光が敵軍を呑み込み、煙と火が絡み合った光り輝く柱がそそり立った。そして、凄まじい風が巻き起こってすべての敵を襲った。太陽が揺れ動く中を鳥が逃げまどうが、生き残ることはできない。戦場は巨大な炎に包まれ、象たちは焼け焦げ、必死に逃げ道を探すが見つからない。異常な熱は大地を舐め尽くし、業火は血の雨となって降り注ぎ、すべての敵を木々のように焼き滅ぼした。そして、濃い闇が太陽を覆い、恐ろしい血のような暗雲が立ち上り、天を覆った。…”

“地に残されたのは、焼け焦げた死体と残骸だけである。鳥は白くなって転がっている。木々は灰になり、器は変形し、溶けてしまっている。食料は毒で食べられず、死体の髪と爪は抜け落ち、遺体は損傷が激しく、男女の見分けはつかない。運良く炉心から逃げ延びた兵士は、水で装備を洗った。…”

 あたかも見てきたような、極めて写実的な描写である。この記述を現代的に解釈すると、まさに原爆や水爆の爆発そのものである。
 次にラーマーヤナでは、ラーマ王子がシータを魔神から取り返す部分である。戦いに使用された天界の武器ブラマダッタは1つではなく、兵器群である。これらは現代兵器に匹敵するものであり、()内は対応すると思われる現代兵器である。

・アラクシャ(高速ロケット)、ヴァルシャナ(気象兵器)、ショーシャナ(気象兵器)、ソウマンヴァ(神経ガス)、シャブダヴェディトヴァ(音波探知ロケット)、カマルチ(巡航ミサイル)、ムルチナダーナ(感覚遮断兵器)、パイシャ・アストラ(地対地ミサイル)、トヴァシュトラ・アストラ(創造神の兵器、核兵器)、サムヴァルタ(時を左右する兵器)。

 中でも、創造神の兵器であるトヴァシュトラ・アストラは金属を溶かすほどの超高熱と凄まじい光で、30万もの兵士を焼き殺すとある。そのような兵器は、現代に於いても、核兵器以外にあり得ない。アストラには2種類あり、1つはナラ・アストラで、もう1つはナリカ・アストラである。
 ナラ・アストラは巨大な金属の筒に覆われ、封印された最終兵器であり、軍人が毎日点検しなければならないとされている。ナリカ・アストラは、兵士が携帯する先の割れた小型の円筒型タイプと、車輪で移動する大型タイプがある。さしずめ、ナラ・アストラは核弾頭であり、ナリカ・アストラは移動式小型核である。
 ラーマ王子はこれらの兵器により、勝利を収めた。その様子をラーマーヤナでは、“河川を変え、星を天から落とし、大地を海中から持ち上げ、あらゆる生物を殺した”とある。

 アストラはマハーバーラタにも登場しており、人類最終兵器とでも言うべきものがブラフマー・アストラである。創造神の名を冠しているように、これは天界の兵器であり、ラーマーヤナのトヴァシュトラ・アストラに相当するものである。また、アグネアと同じものであると思われる。雷神インドラがアルジュナに与える時、人間に対しては決して使用してはならないとされた、禁断の兵器である。この場面は、エンリルがニヌルタに注意を促した場面そのものである。しかし、卑劣な攻撃に怒ったアルジュナは、敵が放ったブラシマシルを迎撃するため、ついにブラフマー・アストラを放った。両方の兵器が炸裂した瞬間、天空に巨大な火の玉が出現し、全世界が閃光に巻き込まれ、轟音が響き渡り、無数の流星が地上に降り注いだ。と同時に爆風が吹き荒れ、世界は破滅寸前となった。しかし、英雄神クリシュナが立ち上がり、灼熱の爆風を消滅させ、人類は救われたのである。

 この話はいずれも骨子(こっし:要点)に於いて、主人公が策略により追放されて放浪した後、戦いに勝利して話は終わる。似たようなアヌンナキの話があるので、内容を照らし合わせる。

・セトの策略によりオシリスを殺されたイシスは、子ホルスを連れて逃げた。しかし、ホルスまで毒殺されたが、トート神の魔術によって復活した。成長したホルスはセトと戦い、ホルスはオシリスの玉座に返り咲いた。(エジプト神話。)

・サツとシャムガズの策略によりアサルを殺されたアスタは、子ホロンを連れて逃げた。ホロンは大叔父ギビルに引き取られ、復讐のために必要なことを指導された。時が満ちると、サツがホロンに挑戦状を叩きつけた。2人の戦いは、ホロンが負けそうになったが、ニンギシュジッダの援護により“猛火の柱”を打ち込み、ホロンは勝利した。(エジプト神話の真相。)

・ドゥムジをマルドゥクの策略によって失ったイナンナは、マルドゥクに戦いを挑んだ。ニヌルタが援護し、“嵐の鳥(空中戦闘機)”から敵の要塞に破滅的なビームを照射した。イシュクルは、空から灼熱の稲妻と粉砕する嵐で攻撃した。ニヌルタは居住地に毒入りミサイルを雨嵐のように降らせた。彼の“引き裂く武器”は、人々の感覚を奪い、川の水を運ぶ運河は血に染まった。イシュクルの光輝が、夜の闇を燃え立つ昼に変えた。そして、マルドゥクはとうとう、エクルの中に逃げ込んだ。ギビルは目に見えないシールドを張り巡らし、ネルガルはすべてお見通しの目を空の方へ上げた。向きをつけた角によって、“光輝の武器”でイナンナは隠れ家を攻撃した。祖父を守ろうとしたホロンは、その光輝で右目を負傷した。最終的に、マルドゥクはピラミッドの中に生きたまま葬られ、ニンギシュジッダによって救い出された後、追放された。(エジプト神話の真相。)

・エンリル一族との戦いに敗れたマルドゥクが追放されて放浪した後、全アヌンナキに君臨する神であると宣言したことが原因となり、両者の間に核戦争が勃発した。ニヌルタとネルガルが、マルドゥクに煽動された5人の王が支配する5つの都市を核攻撃した。その“死の灰”はマルドゥクが支配権を主張した土地バビリを除くシュメール全土を覆い、最終的にマルドゥクが主神として君臨した。

 ラーマーヤナとマハーバーラタはこれらの話が基となって創られた。ラーマーヤナはエジプト神話と真相に、マハーバーラタは核戦争に似ているが、必ずしも完全一致しているわけではなく、部分的に混合している。つまり、大筋に於いてアヌンナキの戦いについて描写されているものの、改竄されていることが解る。


ヴィマナ------------------------------------------------------------------------------------------------------

 ヴィマナとは古代インドの言葉で、自由に空を飛ぶ乗り物であり、現代の航空機のようなものや、UFOのようなものまで様々な形があった。さらに大気圏または、大気圏外への航行が可能なヴィマナもあった。
 ヴィマナは空中を国から国へ、島から島へ、世界から世界へ飛行して移動できる飛行船であり、パイロットが操縦に精通していなければならない。機体は金属構造であり、熱吸収力の強い特別の金属のヒヒイロカネしか適さない。ヴィマナにはレーダー探知、ジグザグ飛行、翼の展開と収縮、敵機内透視、煙幕、カモフラージュ、太陽光線利用等の能力が備えられており、その用途によって三角形デルタ翼型、円盤型など、数十種類のヴィマナがあった。また通常は、アシュヴィンと呼ばれる二人のパイロットにより動かされていた。


■紀元前158年

 孝元帝滅後、子息の開化帝(九代天皇)が、大和のワケグラ王に即位するや倭朝は、開化帝の弟・大毘彦を奥州(おうしゅう)ミヤサワに派遣し、日高見国(ひたかみのくに)タカグラの王に即位させようとしたが、荒吐族(あらばきぞく)の長老会議がこれを否決し、道嶋のワケグラ王に配することに決めた。
 しかしこの処遇を不服とした倭に反感が起こり、また奥州の荒吐族(あらばきぞく)も大分裂して争うことになった。

東日流外三郡誌

■紀元前150年頃

 ギリシャでこの頃に沈んだ水深40mの難破船から、青銅製の歯車4個が発見された。これはアンティキティラの歯車と呼ばれ、大きな歯車は直径12.7cmで、一部に古代ギリシャ文字で暦に関する記述や星座名が刻まれている。自動回転式の天球儀の歯車で、X線で内部構造を調査すると幾重にも重なった32枚の歯車が内部で発見された。また1575年にドイツで作られた天文時計で初めて使用された差動歯車機構という技術も使われていた。その技術とは回転の組み合わせによって回転数や回転速度を変えられる仕組みだが、回転比を解析した結果、天動説における「地球を中心とした太陽と月の公転比」である「19:235」と一致した。またこの歯車は古代ギリシャのオリンピア競技の実施時期と場所を決める装置でもあった。他にも海底からは古代の英雄、哲学者、雄牛、楽器などを模した銅像や大理石の彫刻、陶器類、ガラス工芸品、装飾品、硬貨などが発見された。


 またこの頃、中国では劉邦(りゅうほう)の前漢(ぜんかん)が中国を統一していた。都は長安にあり、官制や法律のほとんどを秦制にならい、郡国制をとっていた。さらに中国の歴史書物には、日本を表す倭や倭人が登場し始めていた。この頃から倭人が定期的に漢の植民地の楽浪郡(らくろうぐん)を介して漢王朝へ貢ぎ物を捧げており、多数の政治集団を形成していた。

倭(わ)という言葉と円形心理------------------------------------------------------------------------------

 直線が表すものは相対的な世界であり、円形は絶対的な世界である。直線的なシンボルも本来、人には必要な要素であり、直線は理知的な意識や、分析的な意識を形成する。そしてそれは常に、円に取り込まれるときそれが創造性と結びつく。自然界には、人間が考えるような直線は存在しない。水平の代表のような地球の水平線でさえも、実際には巨大な円の一部であるように、そこにあるのは常にさまざまな高低であり、差異であり、究極的な違いである。そこには真の調和と創造があり、それが人間が「愛」と呼ぶ根本のエネルギーであり、尊敬である。現代人は自然界のすべてに存在するこの構造を無視しており、意識的に作り出した直線に固執することで、本質的に存在する人と人との関係を崩壊させている。
 現代人には理解しがたいことだが、さまざまな高低や差異がなければ真の愛はあり得ないという認識が、シュメールの神官たちの基本的概念の一つであった。現代人はこの点で大きな誤りを犯しており、つまりすべてを画一的に並べようとする現代人の平等感は、自然の法則に反する概念であることに気づいていない。現代人はそれによって、真の愛というものを見失っている。この問題を超えることができない限り、現在の不調和を解決することはできない。

 円に集まるとき、一人一人が向かう方向(角度)はすべて異なっている。それに対し直線的に集まるときには、人々はすべて同一方向を向く。こうした画一的な環境が生んだ価値観こそが、現代の個人主義的平等観である。それは共感の感覚から人と人を感じるのではなく、直線的に同一ラインの上に並べようとする平等感覚で、そこには不自然さがある。そしてその反動が、自我そのものである競争意識を生み出している。現代の平等感覚と競争心は、直線的概念が形成する裏表の関係にある。
 人間の祖先は遠い昔、封建主義とはまったく異質の、宇宙本来の原理に基づいた人間観を持っていた。現代人の持つ平等観は、人と人との間に摩擦を生み出す不自然な人間観といえる。たとえばスポーツのバドミントンを例にとると、まずお互いのコートの広さなどの条件がすべて平等であることが前提になる。だが日本の古来の文化がもつ「羽根つき」では、平等条件は設定されない。そしてこの違いが生み出す方向性は、前者は競争であり、後者は二人でいかに長くつけるかという調和と共同の動きである。

 太古の人間は、こうした実に理想的で宇宙的な人間観によって世界を形作っていたのであり、それゆえにその子孫でもあるシュメール人は、その本質を踏襲しようとしていた。
 たしかに日本には古来、師を尊び、目上の人を尊ぶ習慣があった。そして世界的にもまれに見る道徳心が養われていたが、今やそれは過去のものとなってしまった。家に鍵をかけることを必要としなかった長い歴史は、そうして養われた精神性の何よりも確かなしるしでもあった。日本にも平等思想が広まり、鍵の必要な社会になり、道徳的にも社会は荒廃した。日本に本来ある上下意識とは、現代人が考えるような封建的で権力的なものではなくて、本当は宇宙的な人間観に支えられたものであった。
 すべての人々の方向性が同じライン上に並ぶ直線的関係と比べると、すべての方向が異なる円の次元では、それぞれが独自の個性を有している。それゆえに、一人一人の役割がそのまま守られるために、人と同じになろうとする画一性はなく、その画一性が生み出す比較や競争や摩擦も発生しない。今日、学校では対面して物事を教わるが、縄文の人々は現代人がイメージするような、教えるという文化を持たなかった。直線的に同じ方向を向く人々に対して、一人の人間が何かを教えるという形は、教える内容にかかわらず、その形態が二元的な意識構造を潜在意識に形作る。それが生み出すものとは、権威者にへりくだることで関係を築こうとする意識であり、もう一つは、そこに疑問が生まれることで権威者に対抗しようとする意識である。これらが直線心理というもので、自然界には存在しない直線が生み出す心理なのである。
 日本人の祖先の中には、常に円形心理が形成されていた。たとえば祭りの場では、同じように円の中央を向く年長者たちの行動や儀礼のあり方は、それを見たり、感じたりする子供たちや若者たちに模倣され、学ばれた。そこでは人との共感性が高められ、人間を深くとらえる直感が育てられる。円形心理は、その本質的な絶対心理であるところからきており、それは他人への依存性を完全に超えるものであるがゆえに、他人に対する真の共感性を生み出す。現代人の「教える」という考えそのものが、直線的思考であり、概念なのである。
 現代の日本は、すべてが直線の世界になってしまっている。しかし日本の文化の中には、その潜在的な宇宙観が残っている。たとえば日本の国旗には、現代人の潜在心理と天性が象徴的に投影されている。現在の国々が選択しているほとんどの国旗には、その民族の潜在意識的なすべてが象徴的に表現されている。男性的極性の強い影響下にあるイギリスやアメリカの国旗は、すべてが直線でできている。イギリスの国旗が直線のデザインであることは一目瞭然であるが、アメリカの国旗もそうである。本来の星は円形であるのに、その星型さえが直線で描かれており、直線以外存在しない。

 国旗のデザインは近年になって行なわれたものであるが、こうしたものにも今の人間の中に、潜在的なシンボリズムが働いていることを示している。日本人の意識に円形の象徴が今も強く残っている要因は二つある。一つは、日本列島の大地が地球上でもっとも母性的なエネルギーを持つ領域であり、それが円的なエネルギーとして表出されているからである。そしてもう一つは、それによって歴史的に円的シンボルを尊重していた歴史が、他民族より色濃く長いことである。
 そうしたことのすべてが国旗に現れており、日本の国旗は日本人の天命を象徴している。それだけではなく、国旗と同じく、日本の国名にもそれは象徴的に刻まれている。日本の最古の国名を思い出すと、それはかつて、倭(わ)の国と呼ばれていた。やまと言葉の「わ」は円の概念そのものである。倭という漢字は当て字であるから、この漢字には意味はない。そのほかにも訓読みの「わ」に該当する漢字は輪・環があるが、いずれも円概念である。この言葉こそ、宇宙的象徴を示す聖なる言葉であった。この日本のやまと言葉の「わ」は、円形象徴を示す人類最古の音の一つであり、現在でも円形を意味する「輪(わ)」の概念はそこからきている。円という言葉は大陸から伝わった漢語であるが、日本では「円」という言葉が伝わる前から、円形や円形の次元を「わ」という聖なる音で表していた。太古の日本人の認識では、宇宙の原点は「あ」であり、それが形として現れたものが「わ」であった。そのゆえに、家も村々も円形に形作られて配置され、国全体が円形に配置されたのである。


■紀元前97年頃

 弟を奥州のタカグラ王に即位させることに失敗した開化帝は、責任をとって倭のワケグラ王の座を離れ、日向族、出雲族、南海道の狼族の離反を止めようと画策(かくさく)したが、その時カラクニ皇子(開化天皇の子息・御間城入彦五十瓊殖尊"みまきいりびこいにえのみこと")が出て来て開化帝を殺害し、自らが崇神帝(十代天皇)として即位した。

東日流外三郡誌

■紀元前96年

 東日流(つがる)の荒吐族(あらばきぞく)が、奥州(おうしゅう)の倭国領へ侵領、領地拡大をはかった。崇神帝は安倍川別命(あべかわわけのみこと)に日高見国(ひたかみのくに)遠征を命じた。その命に従って川別命(わけのみこと)は奥州に赴いたが、東北の護りは固く、遂に皇軍による侵攻はならなかった。
 しかし崇神帝は、これにこりることなくその後もしばしば日高見国(ひたかみのくに)に遣使して、倭朝を一朝に併合しようと勧誘した。
 時の荒吐族(あらばきぞく)王、津刈丸十六世は、この誘いを一度受け容れたが、長老会議がこれを否決した。
 紀元前96年、津刈丸十六世は大挙して倭国の大足彦(安倍川別命"あべかわわけのみこと")を攻めた。攻防は長引いたが勝負は決せず、またも和睦することとなった。和睦の条件は、荒吐族(あらばきぞく)の国の領界を大津の湖辺までとし、西界は若狭より近江湖まで、そこより東海の尾張以北を荒吐族(あらばきぞく)領とするというものだったが、この条件を倭が受け容れたので津刈丸は軍を退いた。
 こうして荒吐族(あらばきぞく)が倭国を攻めることはなくなったが、倭に残された駐兵は故郷の奥州を思うあまり、倭王に奥州も一統(いっとう)されるようにと懇願した。

東日流外三郡誌

■紀元前133年

 バビロニアの祭司らは自分たちの神々を拝み続けた。そして紀元前168年に、ローマが世界制覇を成し遂げた頃、ローマに侵入してそこから世界の支配権を奪い返すというのが、彼らの計画であった。紀元前133年に、ペルガモン最後の王が、ペルガモンすなわちカルデア人の祭司制をローマに譲り渡し、彼らはローマにその神々と祭壇の石を持ち込んだのであった。彼らの14神、サルトゥヌスはカルデアの象形文字表記法で数字を足してゆくと、「666」になる。

 ローマに於いてもこれらの祭司たちは、その数字をずっと身に着けてきた。下の図の魔よけの写真は、1910年にベルリンで撮られたものである。これらの魔よけの全面には、1~36までの数字が鏤(ちりば)められている。黄道帯の36神である。各列の数字を足すと、どれも「111」になる。これらを全て足してみると「666」。隠された神秘の神の数字である。バビロンの宗教があまりにも普及し、一般化してしまったので、ローマは新バビロンと呼ばれるようになった。ギボンズ枢機卿の著書、「父祖たちの信仰」に、「今ではバビロニアの祭司らの地へ、すなわち、太陽のカルトはローマから再び世界を支配した」と書かれているほどである。つまり悪魔崇拝を行うバビロニアのイルミナティが、ローマ帝国を支配していった。


■紀元前52年

ユリウス・カエサルのガリア戦記とドルイド----------------------------------------------------------

 ヨーロッパに紀元前1200年から発展してきたドルイドのケルト文化が、紀元前52年頃にローマのユリウス・カエサルによって征服され、ローマ属州となる。カエサル(紀元前100年 - 紀元前44年)はこのガリア戦争の一連の経緯を記した「ガリア戦記」に、現在のフランス・ベルギー・スイスおよびオランダとドイツの一部などにわたるガリア全土のケルト社会が、ドルイド僧(悪魔崇拝を行う)とどのような関係であったかを記している。ドルイドは現代においてもルシファーを召喚し、イルミナティのために働いている。


「ガリア人は、自分たちはみな父なる神ディスの子孫だと吹聴し、そのことは、ドルイド僧によって、代々言い伝えられてきたと主張する。だからこそ彼らは、時間の経過を、昼の数ではなく夜の数によって計算する・・・・・・。最初に夜がきて、その後に昼が続くという原則を守り通しているのだ」
ユリウス・カエサル著『ガリア戦記』題6章18節

 ユリウス・カエサルやローマの博物学者プリニウスといった人々の残した文献には、ドルイド僧がブリタニア(イギリス)やガリア地方(主に現在のフランスを指す)に住んでいたことや、ほかならぬ聖職者であったことなどが紹介されていた。


 ユリウス・カエサルは、人身御供(ひとみごくう)の風習について触れ、プリウスの著書では「彼らが森の中で聖なる儀式をつかさどり、ヤドリギを集めていた」ことなどが記されている。
 ユリウス・カエサルの記述によると、ガリア社会で「多少なりともその価値が認められて、尊重されているたった二つの階層」にあたるのが「エクイテス(騎士)」と「ドルイデス(ドルイド僧)」で、「それより下の階層に属す人々は、奴隷も同然のプレブス(一般庶民)とみなされて、その大半が自分の土地を持っていなかった。
 またカエサルは、ドルイド僧の主な役割として、宗教儀式を取りしきること、紛争が起こったときに裁定や調停を行うこと、そして教義を受け継ぎながら、人々を教え導いていくことの3つをあげている。
 カエサル以前の文献にも「バルド(吟遊詩人)」や「ウァテス(いけにえと占いの儀式をつかさどる予言者)」と呼ばれる聖職者が出てくる。カエサルの記述では、いけにえと占いの儀式もドルイド僧が管轄していたとなっており、動物や人間のいけにえに捧げて、その断末魔の様子や内臓の状態から未来を予言するいけにえと占いの儀式が、ドルイド僧の重要な役目になっていた。他にもカエサルの記述には次のようにある。

「ドルイド僧がとりわけ重要視しているのが、魂は決して滅びることなく、死後一つの肉体から次の肉体へ移るという教義である・・・・・・。さらに彼らは天体とその運行のしくみをはじめ、この世界と大地の大きさや、万物の本質、不滅の神々のもつ力と権能についても、長い時間をかけて解説している」『ガリア戦記』第6巻14節より

「ドルイドの社会的影響力はかなり大きかったようである。争い事の調停あるいは裁決をし、必要があれば当事者に賠償や罰金を課した。ドルイドの裁決を不服とした者は、社会的地位や信用を失った。 このほか、ドルイドは兵役や納税を免除される特権的地位にあった。」
「ドルイド僧は最大の敬意を払われ、決定権はすべて彼らが握っていた。命令を下すのは彼らである。すばらしい宮殿に住み、黄金色の玉座に座っている王たちは、彼らの召使にすぎなかった。」 ドルイド僧は言うなれば、ケルト人の“影の支配者”だったのである。
「彼らは読み書きができたにもかかわらず、自分たちの教えを書き留めることを禁じていた」その理由は「自分たちの教義が一般庶民にまで知られることを、ドルイド僧たちが嫌っていたせいではないか」と推測している。
  ただでさえ裁きの場で裁定者や調停者の役目を果たしているところへ、いけにえの儀式や祭儀を、ごく限られた人間にしか教えないようにすれば、ガリア社会に占める彼らの重要な地位も、揺るぎないものとなっただろう。ドルイド僧が森の中で動物をいけにえに捧げ、治療の儀式を行っていたことは、プリニウスやメラといった後代の著述家が、ドルイド僧に弾圧が加えられた後の西暦1世紀になってから著(あらわ)した書の中で紹介されている。

 マンリー・ホールの『古代の密儀』によると、ドルイド教の秘儀では、太陽神(おそらくアヌンナキのウツ)の死を象徴して実際に棺の中に埋葬されたり、また、最も難しい試練である屋根のない小船で海に流される儀式では、多くの人が命を失ったという。

 ガリアがローマの支配下に入ってから100年ほどたった時期、プリニウスは、
「ドルイドという名称が、カシの木を意味するギリシア語のドルスから派生したのではないか」と考えた。
「ガリアの魔術師ドルイド僧が管轄するものの中でも、ヤドリギとその宿主にあたるカシの木ほど神聖なものはない。彼らは、それらの木を集めるためにカシの森を選ぶと、あとは枝が手に入るまで、一切の儀式を行わずにいる。ヤドリギは月例の6日目に集めるのがよいとされる。樹木の下では宴席が用意され、2頭の白い牡牛(おうし)が連れてこられる。白衣をまとった司祭が黄金のかまどでヤドリギを切り落とすと、下にいる人々が白い厚手の布地でそれを受け止める。それから牡牛(おうし)が殺される。ヤドリギは万能薬として知られている。不妊の動物に子供をたくさん授けてくれると信じられ、あらゆる種類の毒物に効く解毒剤としても使われているのだ。」『博物誌』第16巻95節

『ドルイド僧 不可思議な聖職者たち』 A・P・フィッツパトリック 著/五十嵐洋子 訳
etc.

■紀元前44年頃

 イルミナティのローマの皇帝たちは、彼らの時世の間に始まった新しいニビルの運行周期のために、神殿を作っていた。共和政ローマ期の政治家、軍人であり、文筆家のユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)が権力の座にのし上がって行く過程には、ニビルの作用を表わす兆候が多く見られる。彼はジュピター(気象現象を司るエンリル)に仕えるイルミナティの司祭として神々の系統を継ぐ者と称し、ヘブライ暦はやがて終わり、新しい暦が始まると宣言した。(ヘブライ暦は紀元前3760年に始まったユダヤ暦のこと。ニビルが太陽系に進入してきた時期にあたる。)「こよみ」の法則は、時間との関連において天体の配列にアクセスするためのコードであり、ローマ人はそれを支配しようと決めた。
 ユリウス・カエサルはローマの統治権を手にするや、月の周期にもとづくエトルリアの暦を廃止し、太陽の周期にもとづくユリウス暦を創設した。ジュピター(エンリル)を祀る神殿の司祭長だった彼は、新しい太陽暦に自分の名前をつけ、新たな選民はローマ人であると発表した。こうしてローマの皇帝はヘブライ暦を廃し、ニビル人の地球支配を準備していた。
 しかし紀元前44年にマルクス・ブルトゥスやカッシウスらによって、カエサルが暗殺された。この頃、ニビルの軌道が再び地球から見える地点に達した。そしてカエサルの魂はニビルに昇っていったといわれた。
 それまでローマ人もユダヤ人も、ニビル人が物理的に地球に降り立つのを待ちうけ、到着する場所として土地や神殿、社交界などを用意していた。ニビルからやってくる神々を愛し、もてなすために古代パレスチナに実在した女性サロメ、クレオパトラ、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)の母アウレリアなど、とりどりの巫女たちまで用意されていた。これらすべてが、ニビルからの偉大な神々の惑星の太陽系到着にそなえて計画されたのである。


■紀元前29年頃

 垂仁天皇(すいにんてんのう)の時代、野見宿禰(のみのすくね)が初めて垂仁天皇の前で相撲をとった。場所は奈良県桜井市の相撲神社。つまり紀元前2600年頃にメソポタミアで天皇ヤコブが天使と行った相撲が、十支族の一団と共に日本へやってきて出雲族となり、その一族の野見宿禰が日本で相撲を初めて行った。

■紀元前24年

 狭穂彦(さほひこ)が奥州二王と謀り、大和を掌握しようとしたが敗れ、31年、再挙して大和へ侵領、それによって天皇空位が39年間に及んだ。

東日流外三郡誌

■紀元前20年頃

 イルミナティのローマ帝国が台頭し、ローマ帝国から派遣されたエドム人(非ユダヤ人)のヘロデがユダヤの王として君臨すると、選民としての誇り高いユダヤ人たちの多くは、統治者であるローマ帝国に従おうとしなかった。ユダヤ人の間でもローマ支持者と不支持者との争いが絶えず、「スカイリ(短剣党員)」という過激な集団もはびこった。
 また現代まで続く世界統一政府による地球レベルでの全体主義体制を目指すNEW WORLD ORDER(新世界秩序)が計画されたのも、初代ローマ帝国の時代であった。

 共和政ローマ末期からローマ帝国初期に、ユダヤ地区をヘロデ朝として統治したユダヤ人のヘロデ王によって、イルミナティのソロモン王の建設したソロモン神殿があった場所に完全改築に近い形で、第二のエルサレム神殿が建てられる。ユダヤ教の礼拝の中心地で、その神殿にあるヘロデ門に天皇家の菊花紋がある。この大元はアヌンナキのイナンナの十六花弁ロゼッタである。

 


■紀元前17年頃

 紀元前44年にユリウス・カエサルが暗殺されてまもなく、3600年周期で地球に接近するニビルが夜空に出現したので、カエサルの魂はニビルに昇っていったのだといわれたが、紀元前17年にニビルの軌道が再び地球から見える地点に達したときは、アウグストゥス(オクタヴィアヌス)が王座にあり、人々は、「カエサルの魂がもどってきた」と聞かされた。カエサルが暗殺されたのは紀元前44年3月15日で、大彗星がローマで観察されたのは5月12日であった。
 ローマ人はニビルを象徴する8角星を刻んだ硬貨を鋳造し、そこにはニビルの帰還を讃える言葉「DIVVS IVLIVS」(神聖なるジュリアス)が記されている。3600年前のシュメール人と同じように、ローマ人はこのとき地球の支配権を主張したが、その事実はイルミナティのローマカトリック教会によって注意深く隠されてきた。


 ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)はアヌンナキの血を濃く受け継ぐ人間だが、カエサルの末裔の一派が、中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇ったドイツ系の貴族のハプスブルク家となっていく。1918年にそのハプスブルク帝国は崩壊し、1996年には子孫のカール・ハプスブルク=ロートリンゲンがオーストリアで欧州議会議員に選ばれる。

■紀元前12年頃

イエスの誕生-------------------------------------------------------------------------------------------------

 十支族が中東から消え、バビロニア帝国が崩壊し、ペルシャ、シリアの支配を受けた後、古代ローマ帝国領となっていた時代のこと。神々アヌンナキは滅多に姿を現すこと無く、人心は腐敗し、エルサレムの神殿では男娼や神殿売春、金貸しが横行していた。ちょうどその頃、長楕円軌道を運行するニビルが、地球に接近していた。それにより太陽と地球の波動が乱れ、人々の心に大きな影響を及ぼしていたのである。この時の接近は、大洪水を引き起こすほどのものではないと予測計算されていたが、かなりの影響があることは確かだった。

 これに備えさせたのは、大洪水の時と同様、エンキである。アダパとティティの誕生は、エンキが直接地球人の女性と交わった。また、大洪水前には、エンキが地球人女性と交わってジウスドラが生まれ、彼が新たな人類の祖となった。つまり、人類にとって最も重要な局面に関わる人物は、エンキが地球人女性と直接交わることよって誕生したので、それと同様な方法が採られた。今回、太陽神ウツと地球人女性の間に生まれた女性マリアとエンキは交わった。

 ある時、沐浴していたマリアに近付いたエンキはマリアを誘った。神に仕える高位の神官として。言葉巧みなエンキにマリアは惹かれ、エンキは彼女の腰を抱き寄せ、子宮に精液を注いだ。
 エンキは高官のイシムドに命じ、マリアの様子を伺わせた。懐妊したことが解ると、エンキに報告した。それを知ったエンキはマリアの家に行き、ヨセフのいない時を見計らって、壁越しに伝えた。
「私は大天使ガブリエルである。お前はヨセフの子ではなく、神の子を身籠った。しかし、お前はその子をヨセフの子として育てるのだ!生まれた子には、インマヌエルと名付けよ!“神は我らと共に”という意味である。今後、如何なる困難があろうと、必ず神がお護りするだろう」

 マリアがこの状況をヨセフに伝えると、ヨセフは一旦激怒したものの、神の意志には逆らえないので、2人で神の子を育てることとした。
 しばらくして男児が誕生した。その時、天空にニビルが輝き、後にベツレヘムの星と言われた。エンキ、ウツ、イナンナが祝福し、その祝いの品物(黄金、乳香、没薬)を3人の使者がマリアの下へ届けた。


 歴史は繰り返し、ここでも、“起こったことは、また発生した”のである。よって、本来の教えが曲解され、神殿がカネや性的退廃で腐敗され、それが最高点に達した時、またもやエンキが地球人女性と交わって、危機を打開する人物を生み出した。それが、イエスである。故に、“父なる神”はエンキである。確かに、ジウスドラ以来、エンキは姿を見せなかったので、御父の姿は見えないというカバラの説も納得できる。イエスの霊体がヤハウェで、受肉した存在がイエスなどではない。
 また、イエスは自らを“人の子”と言っており、父については“父なる神”と言っている。確かに、父がエンキならば、エンキは“父なる神”である。では、母親も神々の誰かだとすると“神の子”となり、“人の子”にはならない。よって、マリアは明らかに地球人女性である。
 エンキが父親なら、エンキの息子マルドゥクはアバエルに牧羊を教え、初物の祝祭の際、エンキはアバエルの育てた子羊を両手に掲げ、マルドゥクとアバエルを祝福した。それに、マルドゥクの腹違いの弟ドゥムジは、ニビルから羊を持ち帰って来た。だから、イエスは“神の子羊”なのである。
 そして、イエスは復活後40日で昇天した。40はエンキを象徴する数字なので、エンキが直接関わっていることを暗示する。

 マリアの処女懐胎について、マタイ福音書では“胎の子は聖霊によって宿った”とあり、ルカ福音書では“聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる”とある。聖霊や天使というのも、アヌンナキを象徴したものである。
 そうすると、マリアの子はアヌンナキによって宿ったので、エンキがマリアと直接交わることにより、イエスが宿ったことを象徴していることになる。ル・マクの妻バタナシュがエンキによってジウスドラを身籠ったように。バタナシュはル・マクに真相は告げなかったが、マリアの場合、“聖霊によるお告げ”の形式を採っている。つまり、マリアはヨセフと交わらずしてイエスを懐胎したのだから、処女懐胎という概念も納得できる。俗説で言われているような、体外受精でイエスが誕生したことは明らかな間違いである。その聖霊は大天使ガブリエルである、というのが通説となっている。

 ルカ福音書では洗礼者ヨハネの誕生を予告し、イエスが誕生した時に羊飼いに知らせたのもガブリエルで、マタイ福音書ではヘロデが嬰児(えいじ)殺害を命じた時、ヨセフに警告してエジプトに逃避させたのもガブリエルなので、ガブリエルは言わば“お告げの天使”である。ガブリエルは智天使(ちてんし)の長、第一天の支配者、月の天使、水瓶座の天使などの肩書きを持つ。智の根源はエンキで、エンキは智天使の長で“地球の主”なので第一天の支配者と見なすことができる。そして、エンキは月の不思議に魅せられ、マルドゥクと共に月に滞在して動きを観測したから、月の天使と見なすことができる。それに、水の神エアでもあり、水を吹き出している水瓶と共にある姿が描かれているので、水瓶座の天使と見なすことができる。つまり、ガブリエルはエンキの象徴ということである。

 イエスの母マリアがウツの子だということについてまずは名前だが、マリ、マリアというのはイナンナの象徴だった。聖書の語源“ビュブロス”の話で述べた。もう1つは血統である。イエスは人類の贖罪(しょくざい)を背負って十字架に掛けられたので、言わば人類にとっての光。光の要素は太陽神由来で、この場合は中南米ではなく中東なので、光り輝く蛇のニンギシュジッダではなく、太陽神ウツの要素である。ウツと地球人女性との間にできた子メシュキアガシェルはウヌグ・キで最初の王となり、以下、エンメルカル→バンダ→ギルガメッシュと王位が続いた。つまり、ウツの血統はエンキ以外の王の血統であり、エンキが直接交わる地球人女性として適している。ウツの血統も王の血統だった。

 他に手掛かりとなるのは、十二支族の祖ユダである。旧約では、ヘブライの王はユダの末裔であると言われている。“ユダは獅子の子。彼は雄獅子のようにうずくまり、雌獅子のように身を伏せる。王笏(おうしゃく)はユダから離れず、統治の杖は足の間から離れない。”
 ウツは、シュメールの楔形文字で "UD"と書ける。これは“輝く”とか“白い”という意味だが、“ユダ”とも読める。つまり、ユダ族の王イエスは太陽神ウツが大きく関わっていることを暗示する。
 そして、ウツはのこぎりを持って山を切り開く神としても描写されている。のこぎりは大工道具なので、それがヨセフを大工にすることによって反映されている。
 また、ユダは獅子に関わるが、イナンナは獅子を従えているので、ここでもイエスにイナンナが投影されている。イナンナとウツは双子なので、象徴的に同一と見なせる。

 イエスは慈悲の存在だが、偶像崇拝は徹底的に禁止し、正義=律法を守らせた。カバラではヤハウェ=イエスで、ヤハウェが律法を遵守させた。シッパールから正義の法を人類に授けて遵守させたのはウツなので、ここにもウツの象徴が色濃くイエスに投影されている。そして、聖書で最も重要な聖地は神殿があったエルサレムで、ウツはシッパール、“天の二輪戦車の場所”と“地球の臍(へそ)”で“宇宙飛行管制センター”のエルサレム司令官だったので、ウツは聖地エルサレムを直接象徴できる神である。
 更に、いと高き神の祭司であったサレム=エルサレムの王メルキゼデクは、パンとワインを持って来てアブラムを祝福したが、彼は太陽神ウツ自身あるいはウツが任命した王で、“パンとワインによる祝福”がイエスの象徴そのものになっている。様々な所に、カバラの鍵が隠されていた。

 さらにイナンナはウツと双子で、両者の法的血縁関係は二親等だが、象徴的には同一である。しかし、二卵性の双子なので完全に同一というわけではなく、同一よりは血縁が薄く、普通の兄弟よりは血縁が濃いと見なせ、一親等的扱いが可能である。そうすると、ウツに娘がいたとした場合、その娘はウツから見て一親等なので、血縁的にウツから見たイナンナとほぼ同じ扱いができるということである。そういった様々な面から、イナンナが原型の“マリア”という名前にすることで、ウツの娘であることを暗示している。
 イエスは、エンキ系とエンリル系の統一の証でもあるので、イエスは光と平和の象徴である。2つの言葉、インマヌ(Immanu:我らと共にいる)とエル(El:神)を組み合わせた名前である。この統一は本来、イナンナとドゥムジで果たされるはずだった。それを、マルドゥクが邪魔をし、よってエンキはマルドゥクのしでかした人類への罪滅ぼしとして、また神々が核戦争を引き起こした罪滅ぼしとして、もう1人の息子イエスに犠牲となってもらった。深いカルマである。
 イエス誕生の時には天空に輝くほどベツレヘムの星(ニビル)が接近し、エンキが遣わした使者が東方の三博士とされた。

 つまりイエス・キリストは存在したが、一般的に伝わっている話は、部分的に創作されたもの、もしくは改竄(かいざん)されたものである。


東方の三博士-------------------------------------------------------------------------------------------------

 東方の三博士とは、ドゥムジを祝福するイナンナ、エンキ、ニンギシュジッダの象徴である。イエス誕生時、東方の三博士が祝福のために黄金、没薬、乳香を持ってきた。黄金はニビルの象徴であり、大神アヌの象徴でもある。没薬はアドニスに象徴されるドゥムジを表す。乳香はフェニックスとナツメヤシに象徴されるイナンナを表す。


■紀元前4年頃

 ヘロデ王の石棺には、天皇家の菊花紋があった。つまりイナンナの十六花弁ロゼッタである。

伊勢の内宮(ないぐう)御鎮座(ごちんざ)の年-----------------------------------------------------------

 垂仁天皇が、内宮を伊勢に創建。太陽を神格化した天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀る皇大神宮(こうたいじんぐう)と、衣食住の守り神である豊受大御神(トヨウケオオミカミ)を祀る豊受大神宮(とようけだいじんぐう)の二つの正宮があり、一般に皇大神宮は内宮(ないくう)、豊受大神宮は外宮(げくう)と呼ばれる。

 伊勢神宮の灯籠にはユダヤ人の印である六芒星が刻まれているが、伊勢神宮とエルサレム神殿には類似点が多く、伊勢神宮は日本に建てられたエルサレム神殿である。
 伊勢神宮とエルサレム神殿の類似点の一例としては、日本の神社の構造とイスラエルの幕屋の構造が似ている点が挙げられる。幕屋とはモーゼが神の教えに従って、いつ、どこでも神を礼拝できるよう移動式の神殿を旅の途中で設置したことが始まりで、簡易礼拝所であった。伊勢神宮は日本のすべての神社の頂点に立つものである。

etc.

■西暦0年頃

キリスト教に入り込んだ者--------------------------------------------------------------------------------

 使徒たちの時代、サマリアに於いてシモン・マグスが登場する。彼がキリスト教に改宗することはなかった。彼はオカルト宗教の達人、またヘルメスの神秘主義の継承者で、街全体を支配していた。

 彼はローマに向かい、そこで人々から神と信じられた。ところが彼は民衆に自分はイエス・キリストであると説いていたのである。その地で彼を祀る巨大な宮が建てられた。彼は分けられた蛇を意味するバチカンという場所に礼拝本部を設立した。シモン・マグスは死去した後、ローマにあるそのバチカンの丘に埋葬された。この背教したキリスト教運動から分離していった他の人々は、自分たちのカルトを設立した。この大運動に加わった人々はグノーシス派と呼ばれ、オカルト界をリードするあるグループは、クリスチャンと名乗りながら、占星術から来た異教の神々を反映する紋章を持っていた。

 1945年、エジプトの高地にあるナグハマディーという小さな町で、洞窟の中からたくさんの書物が発見された。これらは神聖な書物で、多くの使徒の名が示されているようであった。しかし、本当に誰がこれらの書物を書いたのか。使徒たちが決して説かなかったオカルトの教えや心霊術の教えがキリスト教福音の中に織り込まれていて、あたかもそれらが本当に神の霊感を受けているかのようにふれ込んでいることが、研究により明らかになった。このグノーシス運動、すなわち、キリスト教運動の偽物は、使徒たちから受け継いだ多くの根本的な教理を低下させ、破壊する結果となった。

 中でも著名なのは、人が自分たちの知的哲学的見解に合うよう聖句を寓話(ぐうわ)化し、神話化したことであった。これらの人々は人間の心の期待部分、あるいは人間の霊魂だけが贖罪(しょくざい)可能であると考えた。これは純粋な異教の贖(あがな)いに関する原則である。彼らは終末論の概念などを不要なものとし、実存主義と経験に重きを置いた。悟りの声や恍惚(こうこつ)説法や異言といった異教の概念を教会に持ち込んだのはこういった人々であった。彼らは人が律法に服従するのは不可能である故に、旧約の律法は悪法であり、破壊されねばならないと主張して、服従という概念を弱めた。こうして彼らはキリスト教会に、反律法主義、道徳律不要論を生み出した。神の奇跡が何か特別なものであるとは、彼らは信じなかった。誰でも奇跡を行うことが出来ると、彼らは説いた。彼らは堕落した悪天使の概念を弱めた。神学は哲学の体系となり、聖書の重要な言葉は、ただ霊的に解釈され片づけられた。唯一の純粋の光は神であるから、イエスは単に光であった。そして肉体を有する者は何であれそれだけで悪であると彼らは主張した。従って悪である人間が律法に服従することは出来ず、人はただ光を知るだけで救われるのだと。イエスは人間のとは異なった肉体を持っていたというグノーシス派的誤りが全キリスト教会の様相を変えてしまった。ヨハネはそれを反キリストの精神と呼んだ。


キリスト教と異教の結合-----------------------------------------------------------------------------------

 このような働きの代表的人物がジェロームやアウグスティヌス(354年-430年)であった。アウグスティヌスは10年間グノーシス派の一員であった。

 彼は人間の肉体は、神の律法に服従できないと考えた。こうして彼は原罪の教えを発展させることによって、自らのグノーシス派的概念をキリスト教の教えと結合させたのであった。この見解によると、アダムは罪責(ざいせき)と罪の汚れをその子孫に受け継がせ、そのため生まれてくる子は全て罪人であり、故に、神の助けをもってしても、神の律法に服従することは出来ないということになるのである。この教えが発展して、マリヤの無原罪懐妊といった概念が出来上がった。またプロテスタント教会では、イエスが服従できたのは、奇跡的誕生によって、原罪を免れたからであるということになった。


■18年頃

イエスの磔刑と復活----------------------------------------------------------------------------------------

 イエスは若い頃、エンキの指示によってニンギシュジッダから知恵を授けられた。そして、時が熟すと、エンキはイエスに語った。「お前はこれから苦難を背負う。しかし、人々にあるべき姿を説かなければならない。最終的には裏切りにあい、十字架に掛けられることになろう。それでも、お前は役目を果たさなければならない!人類の将来のために…。十字架に掛けられた後は、私の使者が救いに行くであろう」
 イエスは哀しくなったが、それでも神であり、父であるエンキの言葉は絶対だった。

 30歳を過ぎたころエルサレムでイエスは人々の前に姿を現し、人としてあるべき姿を説いた。
 その時すでに彼は、自分の民族に教え始める準備ができていた。彼には12人の弟子たちがいた。彼らはその性格や、イエスとのカルマ的なつながりや、そしてそれぞれが自分の人生で果たすことになる役割によって選ばれていた。イエスはそのうちの一人が彼を裏切り、もう一人が彼を否定するであろうことも知っていた。彼はまた自分の亡き後は、シモンがその仕事を引き継ぐであろうことも分かっていた。イエスは彼ら弟子たちに会った際に、内なる英知によってこれらのことを示していた。彼はとても霊的な人物で、精神的な法則について多くのことを知っていた。
 また、イルミナティのローマとユダヤの指導者たちは、いくつかの古代のテクノロジー装置を、自分たちの権力とその行使のために隠し持っていたのである。彼らはキリストがいかに彼らにとって危険な存在になりつつあるかが分かっていた。なぜならキリストは過去の歴史を曝露し、彼らがある計画のもとに組織立てた「教会」に対して、人々に背を向けさせつつあったからである。

 アヌンナキは紀元前3600年頃に、シュメールの都市の法律にもとづいて、神殿や都市システムを確立した。その法典が多くの文化に広がり、その先々でゼロ時点(西暦0年)におけるアヌンナキの帰還が待たれるようになっていた。すでにローマ皇帝はジュピター(エンリル)の神殿を通して支配権を握っていた。アヌンナキは軍隊を利用することができた。すでにユダヤ人や他の文化なども「選民」にするという餌で手中におさめていたので、これは簡単であった。時間が本当に停止し、ゼロ時点からシュメールの「シャー体制」が始まるという手はずだったのである。
 しかし、その渦中に別の「もくろみ」が放り込まれた。それは、ユダヤの律法学者(イエス)がエジプトのイシス神殿の巫女(マグダラのマリア)と結婚し、東方に多次元意識を誘発しつつあった。ゼロ時点のあとニビルがもっとも太陽に近づいたとき、キリストは東エルサレムにある「岩のドーム」神殿から両替商たちを一掃した。


 またヘロデ朝とユダヤ人の分裂は政治的分裂にとどまらなかった。イエスが登場して、新しい神の法を説き始めると、今度はイエスをメシア(救世主)として認めるか認めないかで宗教的大分裂を起こしてしまった。当時のユダヤ教には祭司を頂点とした「サドカイ派」や「ファリサイ派」、「エッセネ派」といった宗派が存在していたが、イエスの登場ほどユダヤ人の宗教的分裂を決定的にしたものはなかった。
 神殿からは、利権を貪(むさぼ)っていた連中が追放された。また、自分たちの教義を批難された連中は、徹底的にイエスを非難した。そしてキリストは十字架で磷付にされ、処刑されることになる。

 イエスによって神殿から追放された者たち、特に、金貸しや神殿売春を行っていた者たちはフェニキアに逃れ、いつかイエスと彼らの信者に復讐してやることを誓った。そのために、彼らが目を付けたのは地中海対岸のヨーロッパだった。そこに加担したのが、イスラエルの支族の中のダン族である。彼らはフェニキアの商人に紛れて渡航し、最初の寄港地をフェニキアに因んでラテン語風にフェニーチェ=ヴェネチアと名付け、彼らの拠点とした。のちにヴェネチアからオランダを経てイギリスへと渡る一団が、現代のイルミナティの王侯貴族になっていく。


 そして、エンキが語ったとおり、仲間のユダが裏切り、ローマ帝国総督ピラトに引き渡され、イエスは十字架に掛けられた。この時の様子を、イエスに従っていたレビ一族やその仲間が見守っていた。助けなかったのは、預言されていた事象だったからである。
  裏切りのユダはイスカリオテのユダと言われている。彼は、銀貨30枚のためにイエスを裏切った。彼は金(かね)入れを預かっていたので、“金(かね)”に操られていたことになる。カネに関わる偶像崇拝の神はマモン・ラーで、マルドゥクの暗示だった。つまりイスカリオテのユダの原型はマルドゥクである。
 また、銀貨30枚の“30”という数字に着目すると、王位継承数字が30なのはナンナルで、エンリルの息子。アヌはエンキとニンフルサグを結婚させて王位を継承させようとしたが、ニンフルサグはエンリルとの間に長男ニヌルタをもうけてしまい、血統からも正統継承権はエンリル系になってしまった。そのため、マルドゥクは正統継承権を常に主張し、それがすべての争いの元となってしまった。よって、正統継承者がニビルにとって重要な“金(きん)”として象徴されるなら、傍系(ぼうけい)は“銀”として象徴され、それはマルドゥクとなる。エンリルとエンキはアヌの息子で、ナンナルはエンリルの、マルドゥクはエンキの長男なので、王位継承数字的にはマルドゥクも“30”として象徴される可能性があった。アヌの長男はエンキなので、マルドゥクにとって見れば、自分こそが正統継承者=“金”として相応しいと思っていた。だから、“銀貨30枚”という象徴がマルドゥクを暗示していた。

 ユダの裏切りによってイエスは捕らえられ、十字架に掛けられた。マルドゥクはドゥムジを罠に掛け、ドゥムジは死んだ。イエスの原型はドゥムジなので、この事からも、ユダの原型はマルドゥクと言える。更に、イスカリオテとは“カリオテの人”という意味のヘブライ語。カリオテ=ケリヨトはモアブにあった町の名で、モアブは死海のすぐ東側にあり、死海は核攻撃によって形成された。ニヌルタとネルガルによって核攻撃されたのは、マルドゥク(と息子のナブ)が自らの“神聖”を主張して人類を扇動した場所なので、“イスカリオテ”という地名もまた、マルドゥクに関係することを暗示している。
  十字架に掛けられたのは午前9時頃だったが、ニビルの最接近によって12時になると真っ暗になり、それが15時まで続いた。その時、イエスは叫び、息絶えて仮死状態となると同時に、世界中で大地震が発生し、多くの場所が海底に沈んだ。

 この処刑の日は金曜日で、翌日はユダヤの安息日だった。また、処刑地のゴルゴタの丘は神殿のすぐそばにあったので、イエスの遺体は即刻降ろされ、養父ヨセフがイエスの体を奇麗な亜麻布で包み、岩に掘った横穴に納め、その入り口に大きな石を転がして立ち去った。安息日が終わる前に、約束通り、エンキの使者とイナンナがイエスの母マリアを伴って現れた。イナンナが木に掛けられた時と同様、仮死状態のイエスに「生命の水」と薬を与え、イエスは“復活”した。

 その後、イエスは自分が復活したことを使徒たちに示し、40日間彼らの前に現れ、様々な真相について話した。その最後の日、イエスは11人の使徒をベタニアのオリーブ山に連れて行き、手を上げて祝福した。そして、祝福しながら彼らを離れ、エンキが遣わした“空の船”に吸い込まれていった。イエス33歳の時であった。その後、イエスに従っていたレビ一族やその仲間は、イエスが掛けられた十字架を密かに持ち出した。

 イエスの若い頃はニンギシュジッダの下で学習していたが、それはアダパとティティの時のようにである。年齢の33歳というのはカバラである。「生命の樹」で隠されたダアトも含めたセフィラの数とパスの合計数で、つまり、イエスは知恵を授けられて真相を知り、自らが「生命の樹」に掛けられることによって人類の贖罪を背負った。

 イエスが十字架に掛けられた時の天変地異は、ニビルの最接近だった。壊滅的にはならなかったが、多くの土地が海に没した。日本の近海、例えば沖縄周辺、熊野沖、丹後半島沖、青森沖など、海底神殿遺跡が見つかっているが、それらはすべて、この時に沈んだ。

 金曜日というのもラテン語系では“金星の日”である。つまり、木に掛けられて“死んで復活した”イナンナを暗示している。イエスを葬(ほうむ)ったのも、当然、近親者で養父のヨセフに決まっている。イエスの“復活”劇も、まったくイナンナと同じだったわけである。そして、今回はイナンナがイエスの前に姿を現した。よって娼婦(しょうふ)とされてしまったマグダラのマリアが聖書では登場するのである。

 また、イエスに限らず、ムハンマドの昇天劇も、宇宙船に引き込まれたと考えれば納得でき、天使などもそうである。ムハンマドのイスラム教は、マルドゥクである。ユダヤ教はシュメールの神々の寄せ集め。キリスト教はイナンナ、ドゥムジ、ウツの象徴で、エンキは隠れている。最終的に、バビロンはマルドゥクのものとなった。それまでに登場していないので、やはり最後に登場した。イスラム教は旧約をベースとし、イエスを救世主として認めている。これは、イエスがエンキの息子で、マルドゥクとは腹違いの弟になるからである。日に5回も礼拝させるのは、マルドゥクらしいのである。

 
与那国島海底都市-------------------------------------------------------------------------------------------

 日本最西端の島の与那国島海底都市も、この18年頃の大洪水により海の底へ沈んだ。沖縄では明治の中頃まで若い女性が入れ墨をする習慣があった。沖縄本島では14歳くらいから施し始め、少しずつ文様を増やしていく。文様には地方によって微妙な違いがあり、両手に23の文様を彫りこんで完成とし、その頃が結婚適齢期とされていた。明治生まれで現代まで生きていた老婆の入れ墨には環太平洋文明の文字が刻まれていた。ハジチは魔除けの意味を持っていて、左手の甲には環太平洋文明の文字が並び、右の肘には沖縄各地から出土した線刻石板に書かれた環太平洋文明の絵文字そのものであった。石版を解読すると琉球列島の水没を表しているストーリーが表されており、琉球はかつて広大な陸地であり、それが水没して島々になったと読み取れた。琉球王朝の王は太陽の子=テダコと呼ばれていた。石版の「キ」や「カ」に見える文字は聞得大君(きこえおおきみ)と呼ばれる琉球王朝最高の女神官を意味し、安泰な政治が行われ、平和な生活があったことを意味している。
 また福岡県沖ノ島で、国宝や重要文化財が12万点も見つかっている。また周辺には沖ノ島神殿という海底遺跡があり、直径8メートルの柱に螺旋階段が作られている。また海底遺跡からは神像が見つかっており、一つは乳房や男性性器を持つ両性具有で、もう一体は女性。頭には鳥のデザインが施されている。

その他の日本の海底遺跡-----------------------------------------------------------------------------------

 北九州沖、和歌山沖、熱海沖、青森沖、日御碕(ひのみさき)沖などの日本各地にあった都市も、大洪水によって海底へ沈む。これらの海底遺跡には、亀の形(エンキのシンボル)をした巨石が沈んでいることが多い。現在、その地域に残る祭りの伝統文化は、この頃の伝統が言い伝えとして残っている事も多々ある。

エジプトの海底遺跡----------------------------------------------------------------------------------------

 またこの頃、古代エジプトの都市ヘラクレイオンまたはトーニスも、大洪水によってアレクサンドリア近くのアブキール湾沖6.5kmに沈む。紀元前12世紀には古代ギリシャの歴史家によって言及されており、エジプト新王国の末期には王国の中心的な港としてその重要性を増していった。ヘラクレイオンはもともとナイルデルタの島々の上に建てられた町で多くの波止場を有していた。
 ヘラクレイオンにはギリシャ人に「ヘラクレス神殿」として知られていたアメン神の大神殿があった。アメン信仰は年々盛行していった。
 ヘラクレイオンは紀元前6~4世紀に栄えたことが考古学的発見によって明らかになっている。紀元前4世紀には時のファラオ、ネクタネボ1世によって多数の神殿が建立された。

 ヘラクレイオンについては、古代の歴史家ディオドロスとストラボンが言及している他、ナウクラティスの石碑にも登場する。そこにはサイスのネイトの神殿があり、入港税の10分の1が特権として与えられていたと記されている。またプトレマイオス3世を称える「カノープス勅令」にもその名が現れる。



アヌンナキを表すマリア、ペトロ、ユダ、ヨハネ-----------------------------------------------------

・マグダラのマリア
 マグダラのマリアの原型はイナンナである。マグダラのマリアは通説では“性”に関係し、性的象徴の女神はイナンナである。イエスは“復活”してから、まずマグダラのマリアの前に姿を現した。“復活”に関しての原型は、イナンナ自身の“復活”と彼女はドゥムジが“復活”すると思い込んでいたことである。ドゥムジはイエスの原型の1人であり、ドゥムジの“復活”を望んでいたイナンナの幻想が、このような話の原型となっている。象徴的にはイエスの“復活”した姿にドゥムジが、マグダラのマリアにイナンナが重ねられ、新約に於いて見事、イナンナは“復活”したドゥムジと再会できたと見なせる。
 ドゥムジとイナンナは結婚するはずだった。そして、王位継承数字的にドゥムジと太陽神ウツは同一と見なすことができ、ウツとイナンナの王位継承数字的な関係は正式な夫婦である。そのため、イエスとマグダラのマリアが結婚していた、などという伝承が生まれたのである。

・ペトロ
 ペトロの理解力は低かった。それが、後の離反の原因となった。離反とは、イエスの預言通り、鶏が3度鳴く前に3度イエスのことを知らないと言ったこと、そして男性優位の思想で、救済者の弟子たるには男性でなければならないとするペトロの考えが教団の分裂を引き起こし、それがパウロへと受け継がれ、現在のキリスト教として普及したことである。そのため、教会は男性優位の権力を守るための組織と化し、マグダラのマリアを娼婦として陥れることにより、絶対的な権力を握ることとなった。まさに教会こそ、イエスが注意を喚起したそのものの存在となったのである。
 このようなペトロには、いつまで経っても自分の立場が理解できず、己の野望ばかりを追い求め、アヌに赦されたにもかかわらず、最終的には核戦争を引き起こす原因となったマルドゥクの姿が投影されている。

・裏切りのユダ
 イスカリオテのユダは、銀貨30枚のためにイエスを裏切った。そして、ユダは金入れを預かっていたから、“金(かね)”に操られていたことになる。“金(かね)”に関わる偶像崇拝の神はマモン・ラーであり、マルドゥクの象徴でもある。よって、イスカリオテのユダの原型はマルドゥクである。
 “30”という数字に着目すると、王位継承数字が30なのはナンナルで、エンリルの息子である。アヌはエンキとニンフルサグを結婚させて王位を継承させようとしたが、ニンフルサグはエンリルとの間に長男ニヌルタをもうけてしまい、正統継承権はエンリル系になってしまった。そのため、マルドゥクは正統継承権を常に主張していた。正統継承者がニビルにとって重要な“金(きん)”として象徴されるなら、傍系は“銀”として象徴され、それはマルドゥクとなる。
 エンリルとエンキはアヌの息子で、ナンナルはエンリルの、マルドゥクはエンキの長男で、王位継承数字的にはマルドゥクも“30”として象徴される可能性があった。アヌの長男はエンキなので、マルドゥクにとって見れば、自分こそが正統継承者=“金”として相応しいと思っていた。よって、“銀貨30枚”という象徴でマルドゥクを示唆しているのである。
 また、ユダの裏切りによりイエスは捕らえられ、十字架に掛けられた。マルドゥクはドゥムジを罠に掛け、ドゥムジは死んだ。イエスの原型はドゥムジであるから、この事からも、ユダの原型はマルドゥクである。
 更に、イスカリオテとは“カリオテの人”という意味のヘブライ語である。カリオテ=ケリヨトはモアブにあった町の名である。モアブは死海のすぐ東側にあり、死海は核攻撃によって形成された可能性が高い。ニヌルタとネルガルによって核攻撃されたのは、マルドゥク(と息子ナブ)が自らの“神聖”を主張して人類を扇動した場所なので、“イスカリオテ”という地名でマルドゥクに関係することを暗示している。
 他の解釈として、イエスの原型を蛇神=エンキと見た場合、エンキの息子であるにもかかわらず、“恐怖の武器”を使用することを提案し、エンリルの息子ニヌルタと組んで、兄弟であるマルドゥクを核攻撃したネルガルもユダの候補になり得る。ただし、その場合、“銀貨30枚”という象徴が当てはまらない。
 また、弟子たちはみんなイエスを見捨てたが、これもイエスの原型を蛇神=エンキと見た場合、核攻撃に反対したのは唯一エンキだけだった、ということの象徴である。

・イエスの弟子ヨハネ
 イエスの弟子ヨハネはイエスから最も愛された。これは、エンキから知恵のすべてを授けられ、人類に生殖能力を与えることに尽力したニンギシュジッダが原型である。マルドゥクもエンキから知恵を与えられたが、完全には信頼されておらず、“死者を蘇らせる”知恵は与えられなかったので、彼はヨハネの原型ではない。
 ヨハネ黙示録はカッバーラの象徴に溢れ、知恵の使い手の象徴でもあるから、これもニンギシュジッダに相応しい。

・洗礼者ヨハネ
 もう1人のヨハネが、イエスを洗礼したヨハネである。イエスがエンキの息子ならば、イエスに知恵を授けたのは、当然、エンキである。それが“洗礼”として象徴されている。
 ヨハネは元々オアンネスと言い、地上に最初に降りた半神半魚の神であった。これは、魚としても象徴され、アラルを除いて最初に地球に降り立ったアヌンナキ、すなわちエンキに他ならない。(アラルは直接人類に関わりが無く、エンキが後に“地球の主”となったので、除外する。)地球での最初の到着地点は海だったので、魚として象徴される。それはまた、“魚のスーツ”を着ていたことにも因る。
 そして、エンキは水に関係する神でもあり、水を吹き出している水瓶と共にある姿が描かれている様子は、まさに洗礼を施す様子に他ならない。よって新約には、いたるところに魚が象徴として登場する。4人の漁師(ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ)を弟子にしたこと、パンと魚を大群衆に分け与えた奇蹟、復活後に弟子たちと魚を食べたことなど。(旧約では、巨大な魚に飲み込まれたが3日後に吐き出された預言者ヨナなど。魚はエンキの象徴であり、この現象はイエスの“復活”の予型であり、ヨナという名はヨハネにも繋がる。)


 以上のような関係は、他の「神々」が地球人女性と直接交わった場合、成立しえず、イエスはアダパやジウスドラのように、人類にとって重要な局面に於いて、エンキが地球人女性と直接交わって産ませた子であると言える。だからこそ、イエス=天照大神は実父エンキの象徴である蛇神として祀られている。そして、エンキが交わった地球人女性の名はマリアである。
 つまりイエス・キリストはエンキから生まれたが、その生涯の話はアヌンナキの出来事などと結びつけられて作られたものが、聖書となり現代に伝わっている。キリストもブッダもアヌンナキの血を濃く受け継いでいたのである。


■20年頃

 この頃、現在のパレスチナ北部のガリラヤ地方に、ティベリアという首都が建設される。ローマ皇帝ティベリウスに因んでティベリアと名付けられた。この街はヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパスにより破壊された村の跡地に建設され、後にサンヘドリンの移転先となる。

■57年頃

 九州北部の博多湾沿岸にあった倭奴国(わどこく)の首長が、後漢(ごかん)の光武帝(こうぶてい)から金印(倭奴国王印)の賜与(しよ)を受けている。

■70年〜73年

 70年にユダヤ属州のユダヤ人とローマ帝国の間にエルサレムを巡って攻城戦が起こる。これはユダヤ戦争(第一次ユダヤ戦争)と呼ばれている。この戦いでティトゥス率いるローマ軍は、ユダヤ人の反乱軍が66年以来立て篭もっていたエルサレムを陥落させた。エルサレム市街のみならず、エルサレム神殿(ヘロデ大王が築いた第二神殿)もこのときに破壊され、「嘆きの壁」を残し、徹底的に破壊された。


 73年には967名のユダヤ人が7ヶ月も籠城し続けていた難攻不落の要塞「マサダ」を、8000ものローマ帝国軍が総攻撃。追いつめられたユダヤ人は、2人の老婆と5人の子供を残し、全員自害した。

 こうしてローマ帝国がエルサレムを徹底的に破壊した。現代の歴史は、この時ユダヤ人は世界へ散らされたとされているがそれは誤りで、連れて行っても価値のない貧しい人々は、イスラエルに置かれた。知識階級や貴族や政治家はアレキサンドリアに連れて行かれて、奴隷市場から全世界に散らされた。これがユダヤの離散である。
 貧しかった人々は、この二番目に作られたイスラエルで農業をしていた。これが血縁的に本当のユダヤ人で、パレスチナ地方にいたスファラディ系ユダヤ人である。

etc.

■76年

 竹内宿禰(たけうちのすくね)、烏賊(いか)建連、三和大友主君(みわおおともぬしのきみ)、物部胆咋連(もののべのいくいのむらじ)らが船で、一朝併合の話し合いに奥州に向かったが、南海で暴風に遭遇して東日流(つがる)羽北に漂着したところ、奥州の地が栄えているのに驚き、荒吐族(あらばきぞく)王に会った竹内宿禰(たけうちのすくね)は、日本係累の民として和交することを約束して倭国に帰り、奥州の国を王化のもとに服従させるのは、どのような軍をもって攻めてもむずかしいと報告した。これを聞いた倭王の諸臣は、これに怖れて以後征軍を送ることはなくなった。
 この頃、日向族の故地筑紫において、熊襲族(くまそぞく)が起こって朝廷にそむいた。熊襲族(くまそぞく)とは古代、邪馬台国筑紫のワケグラ王・猿田彦に係累する一族だった。
 猿田一族は日向族に、不惜身命(ふしゃくしんみょう)で忠節を尽くし、共に東征に及び、日本国中央の邪馬台国を長年にわたって日向族とともに統治していたが、後世になって、無智ゆえに日向族にだまされ、侵領されたと知ってそむいたものだった。
 日向族は年を経るとともに猿田族の協力を得て邪馬台国遠征でできた恩を忘れ、熊襲と叫んでさげすんだ。それがもととなって戦うことになった。

東日流外三郡誌

■90年頃

 ヤムニア(別名ヤブネ)でイルミナティのサンヘドリンは再興され、旧約聖書が現在の36の書物として正式に決定された。

 
■93年

 武内宿禰(たけのうちのすくね)が奥州へ攻め寄せたが、奥州の二王が自ら出向いて大和軍を追討(ついとう)。95年、出羽国(でわのくに)に於(お)いて討ち滅んだ。

東日流外三郡誌

■100年

バビロンの黒魔術を実践するハザール国の誕生-------------------------------------------------------

 古代バビロンの黒魔術オカルトを実践していた取り巻き(オリガルキー)が仕える非常に邪悪な王の下で、ハザール国が誕生した。ハザール国では、日常的に盗賊行為、窃盗、殺人が繰り返され、周辺国を脅かす非常に野蛮な国であった。ハザール国の子孫として、やがて現代のロスチャイルド家が誕生する。
 このハザール人はイスラエルに住んだことがないが、彼らの子孫である偽ユダヤ人たち(シオニスト) が「約束の地」と歴史的な大嘘をついて1948年にイスラエルを建国し、本物のユダヤ人であったパレスチナ人の土地を侵略した。
■110年

 帝は坂東(関東)に逃れていった熊襲族(くまそぞく)とこれを救った荒吐族(あらばきぞく)の征討を企て、それを子息の武彦(日本武尊"やまとたけるのみこと")に命じた。
 武彦は、父の景行帝より荒吐族(あらばきぞく)の戦術について聞かされた。
 荒吐族(あらばきぞく)が護り戦う戦術は、山に入れば飛禽(ひきん)の如く、草の上を走れば獣の如く、忍べば木陰に隠れ、土や水、火の中へでも逃げ、背は高く、容貌は端正、力はかなえをひねりつぶし、その猛(たけ)きことは雷の如く、彼らの行くところ敵なく、戦っても敗れたことがないと。
 これを聞いた武彦は精兵をえりすぐり、坂東(関東)に向けて進発した。この軍勢が、荒吐族(あらばきぞく)領との境界、駿河に至り、冬枯れの草原を進んでいた時、荒吐族(あらばきぞく)と熊襲族の連合軍は、この征軍の進路を事前に察知し、草原に兵を伏せて待ち構えていた。

 この作戦は、征軍の進行を見はからって草原に火を放ち、焼き討ちにするというものだった。そうとはしらず武彦は、軍を粛々と進めて来た。
 頃を見計らった荒吐族(あらばきぞく)連合軍が草原に火を放つと、火は寒風にあおられてたちまち燃え広がった。
 征軍は火中で逃げ場を失い、多くの兵が殉じ、武彦は軍勢の半数を失った。九死に一生を得た武彦は、新手の援軍を伊勢の地豪に頼み込んで征軍に加え、豪族の船で坂東(関東)の荒吐族(あらばきぞく)の拠点を突こうとの作戦を立て、兵を船に乗せ走った。
 しかし冬の東海は荒れて波が高く、多くの軍船が難破して沈み、多くの兵も殉じた。武彦は荒れる海を鎮めるために、神よりのお告げであるとして、同行していた愛妾(あいしょう)・乙橘媛(おとたちばなひめ)をいけにえとして海に投げ込んだ。しかし、海の荒れは止まず、風も止まなかった。
 船は波に翻弄されながら漂い、ようやく着いたところは上総(かずさ)だったが、無事に着いた兵の数はわずかだった。
 武彦は生き残った兵共々、忍んで倭に引き揚げようと山や谷を越え、碓氷峠(うすいとうげ:群馬県)まで逃げのびたが遂に糧物も精根も尽き果てて、この地で征軍のことごとくが殉じた。

東日流外三郡誌

群馬県にある荒吐族王の拠点-----------------------------------------------------------------------------

 この頃群馬県の高崎市に存在した荒吐族(あらばきぞく)王の館は、政治、祭祀、経済、軍事、流通の機能を持つものだった。


 東日流外三郡誌

■115年〜132年

ユダヤ人のディアスポラ-----------------------------------------------------------------------------------

 115年からはローマ帝国とユダヤ属州の間でキトス戦争が起き、132年にはバル・コクバに率いられた反乱(バル・コクバの乱)がおきた。バル・コクバはユダヤの独立を達成し、キリスト教徒を除く全ユダヤ人からメシアであると承認された。彼はエルサレムで二年半の間イスラエルの大公(ナーシー)として統治した。彼の公国は135年にローマ帝国によって征服された。

 大きな反乱が続発し、ユダヤ人の統治の困難さに手を焼いたローマ人はユダヤ地方からユダヤ色を一掃しようと考え、ユダヤ人が忌み嫌っていたペリシテ人の名前をとり、この地方をパレスチナと名づけた。ユダヤ人たちはこれ以前にもすでに広くローマ帝国内や各地に離散していたが、ここに再び多くのユダヤ人が離散を余儀なくされ、長いディアスポラの時代が始まった。これは1948年にイスラエル共和国が建国されるまでの約1800年間続く。
 ディアスポラとは「撒き散らされたもの」という意味の言葉で、元の国家や民族の居住地を離れて暮らす国民や民族の集団ないしコミュニティ、またはそのように離散すること自体を指す。

 こうしてユダヤ人はローマ帝国によって滅ぼされた後、政治家や貴族階級のユダヤ人はイスラエルから追放され、全世界に離散を余儀なくされ、ユダヤの戒律を守りながら、故国なき民として生きるための知恵を体得していった。しかし貧しく、社会的影響力の少なかったユダヤ人はイスラエルにとどまり続け、その子孫が本当のユダヤ人として現代までパレスチナ地方に住み続ける。
 古代地中海世界の諸都市にはユダヤ人共同体が多く存在し、古代世界最大のユダヤ人コミュニティーはエジプトの大都市アレクサンドリアにあった。16世紀頃にはユダヤ人がドイツのフランクフルトに大量に移住し始める。
  
 この乱以降、サンへドリンはガリラヤのティベリアに移転している。ガリラヤはパレスチナの地名で、ガリラヤ湖を含む現在のイスラエル北部の地域とヨルダンの一部を指す。ガリラヤの名はヘブライ語でガーリール(周辺)に由来し、エルサレムを中心として発達したユダヤ教にとっては辺縁(へんえん)であった。ナザレのイエスが宣教を始めた場所として聖書に記述されている。


■181年

諸葛孔明の誕生と道教-------------------------------------------------------------------------------------

 この頃、中国に諸葛孔明が生まれる。儒教、仏教と並ぶ中国三大宗教の道教は、中国で大きな影響力を持つ宗教の1つである。儒教は孔子の教えであるが、道教とは関係無い。道教と言えば、風水や仙人など、呪術的なものが思い浮かぶが、その通りである。風水では、川の流れ、地の流れなどを見る。これはすなわち、地球の「気」の流れを見ている。地球も生命体であるから、当然、人間の経絡(けいらく)・経穴(けいけつ)に相当する電磁場の流れがある。その流れ、吹き出し口を見極め、流れを妨げてはいけない。いわゆる鬼門・裏鬼門とは、裏鬼門から鬼門に向かって流れがあるので、それを妨げてはならない、ということである。
 他には、「木火土金水(もっかどごんすい)」の五行説がある。この5つがすべての基本と見なす。諸葛孔明(しょかつこうめい)は奇問遁甲(きもんとんこう)を自在に操ったので、呪術師と見なされた。
 日本の陰陽道(おんみょうどう)の元は道教であり、「天皇」という言葉も「天皇(てんこう)、人皇(じんこう)、地皇(ちこう)」から採ったものである。道教の奥義は仙人になることである。仙人術の奥義とは、気=クンダリーニを上昇・周回させて不老不死を得ることにあり、ヒンズー教、チベット密教とまったく同じである。達磨大師(だるまだいし)が考案した少林寺拳法も、その1つである。(達磨もインドで修行した。なお、ヒンズー教のカーマ・スートラに相当するものが、「房中術」である。)

 道教での天地創造は、上半身が人間、下半身が蛇の体である二柱の神々、伏犧(フッキ)と女媧(ジョカ)が大木の周りをそれぞれ反対方向に回って交わり、行われたという。これは、ヒンズー教のナーガ、ナーギと同じである。この二柱の神々はアヌンナキのニンギシュジッダである。伏犧は直角定規、女媧は手にコンパスを持っていた。ユダヤ教のヤハウェも、コンパスと直角定規で天地創造する絵が描かれている。また、イエスは大工だったので、コンパスと直角定規は手慣れたものだった。聖徳太子は大工の神様として崇められている。フリーメーソンの象徴はコンパスと直角定規である。

 日本の神話では、イザナミとイザナギが天御柱(あめのみはしら)の周りをそれぞれ反対方向に回って交わり、天地創造した。雛型はインドのナーガとナーギ、中国の伏犧と女媧である。アダムとイブの話では、アダムはイシュ、イブはイシャーだった。これが転じて“イザ”となる。また、ナーガとナーギが転じて“ナギ”と“ナミ”であり、合わせて“イザナギ”と“イザナミ”である。そして、イザナギとイザナミがコンパスと直角定規を持っているわけではないが、日本にも、コンパスと直角定規で描くものがある。「日の丸」である。


■200年頃

サクサイワマンの製錬所の閉鎖--------------------------------------------------------------------------

 アヌンナキのナンナールは父親とアヌ王から、ナンナールの息子ウツにサクサイワマンの製錬所を閉鎖とナスカ地区の滑走路の運行を停止を伝え、ペルー南東部のアルティプラーノに帰るように指示された。南ペルーの製錬所では遠く離れたトルコから遠隔管理で金、銀、錫(すず)を処理し続けたが、6世紀には、サクサイワマンはもはや使用されておらず、ペルー北部からチリ北部のアタカマ砂漠北部を守るために残された。サクサイワマンにはアヌンナキが作った多角形の石積みが存在する。


アフリカへ帰還した人々-----------------------------------------------------------------------------------

 アフリカ南部のコイサン族の一部が、アフリカを出た後に帰還した人々であることが明らかになった。約20万年前、最初の人類はアフリカを後にし、世界各地へと広がっていった。しかしその旅は「行ったきり」ではなかった。アフリカに戻ってきた人々がいたことが遺伝学的に裏付けられた。その人々は、欧州人によるアフリカ植民地化のはるか以前に、行った道を2段階で引き返し、アフリカ南部にアフリカ外の世界の遺伝子を持ち帰ったと推測される。



■206年

 時が経ち、荒吐族(あらばきぞく)に救われた熊襲一族だったが、奥州において恩を仇で返すような所業(しょぎょう)を働いたので、荒吐族(あらばきぞく)がこれに怒り、遂に戦いとなったが、この戦いは長引いた。
 しかし、荒吐族(あらばきぞく)五王が一致団結してこれにあたると、熊襲一族は206年に門津というところまで追い払われて降伏した。

東日流外三郡誌

■240年

秦氏の渡来 / イエスの使徒の一団-----------------------------------------------------------------------

 十字架と契約の箱を密かに持ち出した一団の中核はレビ、ユダ、ベニヤミンの支族だった。彼らは争いを回避するため、支那(中国)の周辺部を通り、大陸へと移動して遊牧民と同化していた十支族の末裔と合流した。その中には、釈迦を生み出したサカ族もおり、マナの壺を持っていたガド族も居た。宗教的に寛容だった十支族の末裔は、降臨したイエスの姿を見て改宗したが、神器は重要なため、ガド族が大王家となり、彼らは秦氏と名乗るようになった。
 そして、導きによって極東の朝鮮半島まで達し、南下して、半島先端まで達した。半島の東海岸は、ペルシャ系ユダヤ人の影響が大きく、更に海を隔てた向こうの島から、大王家縁の人物がやって来て、1つの王国を築きかけていた。そこは鉄鉱石が豊富で、そこと向こうの島国では製鉄が盛んに行われていた。南下した一団は、東海岸と友好関係を保ちながら、土着民や各支族の自治を守るため、半島にいくつもの小国を建国した。そして、彼らは交易を通して、徐々に日本列島に移動して行った。

 北のエフライム系は大船団で渡来したが、他にも大陸に移動していた十支族系も居た。人数は非常に多かった。天山山脈の麓の弓月王(ゆんず)国=新月王国=三日月王国=弓月城(くるじゃ)=亀慈(くちゃ)などは、シュメール縁の製鉄の火が消えないハイテク国で、神の国と見なされていた。そのため、“ヤマトゥ”と呼ばれていた。これも、彼ら十支族の末裔である。月も亀も、主エンキのシンボルである。つまり大陸にもヤマトがあった。さらに、サカ族も十支族系だった。蓮に坐す釈迦などはエジプトの蓮とパピルスの陰陽と同じで、エジプトでも仏教でも香を焚き、神官は剃髪(ていはつ)しているので、エジプトの影響の強い十支族系である。
 南の系統は大陸経由である。失われた十支族の後を追って、シルクロードを東征した。彼らが支那(中国)へやって来た時、支那式の名前、すなわち、漢字で姓と名が必要とされた。ヘブライの民は姓が無かったので、何か姓を付けなければならなかった。そこで、支那人は彼らの姓を“秦氏”と命名した。当時、支那ではローマ帝国のことを大秦(だいしん)と書いた。この頃のエルサレムは、ローマ帝国領だった。よって、大秦(だいしん)から字を採って“秦氏”とした。
 また、“秦人(はたびと)”は“流浪の民”の意味で、遊牧民と同化した彼らにはぴったりの名前だった。つまり“秦の始皇帝”の“秦”ではない。そして、彼らは自分たちのことをアラム語で“イエフダー(ユダヤ)”と言っており、この“フダー”から“はた”と読むことにした。半島の東海岸は、後の新羅である。


中央アジアの「ヤマト」(雅馬図)------------------------------------------------------------------------

 秦氏は、もともと中央アジアにいた人々で、シルクロードを経て中国、朝鮮半島に入り、やがて日本に渡来した人々である。
 カザフスタンに近い中国・新疆ウイグル自治区北西部の「弓月城”ゆづきじょう”」(グルジャ/クルジャ/中国名・伊寧市)の地に、イリ川という川が流れている。秦氏はかつてそのあたりに住んでいた。
 これは古代中国人が「弓月」(中国読みでクンユエ Kung-Yueh 弓月城)と呼んでいた地域であった。「弓月」は中国の史書『資治通鑑(しじつがん)』にも記されていて、そこにあった。

 秦氏の王は日本書紀で「弓月の君」と呼ばれている。これは彼らが元々そこの人々だったからだ。
 この地方には早くから東方基督(キリスト)教が伝わり、2世紀頃までにはかなりの地域が、すでに基督(キリスト)教国になっていた。東京文理大学の学長だった佐伯好郎博士によれば、秦氏のいた「弓月(ゆづき)」も基督(キリスト)教国だった。
 その弓月=弓月城の地方に、今も「ヤマト」と呼ばれるところがある。中国語で「雅馬図」(図と書いている部分は、くにがまえの中に冬と書く字。この字は日本では図に相当する)と表記され、「ヤマト」と発音される。

 雅馬図=ヤマトは、弓月城遺跡から南へ、でこぼこ道を車で20分くらい行った所である。雅馬図は、今は村だが、そこもかつて秦氏の居住地だった。
 この「日本とユダヤ 聖徳太子の謎」の著者の久保有政氏は、この原稿を執筆中に、「シルクロードを今5回目の旅行中です」という堀井俊男氏からメールが入った。彼は弓月城、およびヤマト=雅馬図に到着したという。こう書いてきた。

「弓月城と、『雅馬図』の場所が見つかり、4台のバス、タクシー2台、リヤカー電動タクシーを駆して、5時間かかってこれらの場所へゆく事が出来ました。・・・
 この場所はほとんど中国の西域開発によって歴史が無くなりそうです。それでもこの地は、奈良盆地(大和)を思い出させます。・・・
 この弓月国は初代キリスト国だったようですが、漢民族の多くと違って、非常に和やかな人たちでした。人柄、容姿とも、とてもキルギス人に似ていますし、日本人はほとんど来ることがなく、大歓迎されました。
 私は、キリスト教を信じた秦一族(イスラエル人との混血、月氏)、並びに弓月の人々がここに居り、何かの理由で東方へ、そして日本へ向かったと実感しました。・・・
 現地の方々は『雅馬図』をはっきりヤマトと呼んでいて、びっくりしました。この地にある博物館には、初代キリスト教の十字架が展示されてます。
 国境を越えたカザフスタンのアルマリク市、アルマトイ市、 ウズベキスタンのタシュケント市、キルギスタンのビシュケク市でも沢山みられるキリストの十字架等を合わせて考えると、紀元1~2世紀の早い時期にイリ地方(グルジャとも言われる)は国を上げてキリスト教国であった事は、間違いないようです」

■280年頃

はるばる日本に渡来した秦氏-----------------------------------------------------------------------------

 堀井氏は、このような大変貴重な情報をもたらしてくれた。秦氏はこの弓月、また雅馬図=ヤマトにいたのである。そこは紀元1~2世紀の早い時期に国をあげて基督(キリスト)教国になっていて、秦氏も基督(キリスト)教徒になっていた。
 しかし秦氏はそののち、万里の長城の建設・増設の苦役に駆り出される。それはかつて秦の始皇帝の時代に始まったものだが、その後も何百年もの間続いていた。中国は周辺諸民族をその苦役に使っていたのである。
 秦氏は苦役に耐えかね、のちに朝鮮半島にのがれた。そのことは朝鮮半島の古代石碑(好太王の碑文 5世紀)や、中国の史書(五漢書の東夷伝 5世紀)に記されている。朝鮮半島にのがれた人々は「秦人」と呼ばれた。
 彼らはそこで「秦韓」という国をつくった。そこはのちの「新羅」である。彼らの言語や風俗風習は周囲と全く違っていたという(魏志倭人伝、魏志韓伝等)。
 朝鮮半島でも彼らは苦境に追い込まれるが、そののち彼らを快く迎え入れてくれたのが日本の天皇だった。こうして秦氏は、大集団を率いて応神天皇14年(283年)に日本に渡来した。
 秦氏は日本に渡来すると、住み着いた各地に「ヤマト」の名をつけた。これはもともと彼らがいた中央アジアのヤマト(雅馬図)にちなんだもの。ヤマト王権発祥の地、また聖徳太子と共に住んだ奈良の地域も、「ヤマト」と呼ばれた。

 秦氏は中央アジアのヤマトに住んでいた記憶から、日本各地にヤマトの名をつけたのである。ヤマトは彼らにとって非常に愛着のある名だった。ヤマトはのちに日本を表す別称ともなった。
 ヨセフ・アイデルバーグによれば、ヤマトはヘブル語の「ヤー・ウマト」(Yah umoto)、すなわち「ヤハウェの民」の意味である。ヤーはヤハウェの短縮形、ウマトは彼の民の意味だ。ユダヤ人に言っても通じる。
 ちなみにヤマトの地=奈良は川が多く、川の流域に発達した都だった。ヘブル語で「ナラ」は川の意味である。また天皇のご住居のあった「アスカ」(飛鳥)は、ヘブル語の「ハ・スカ」から来たとすれば、ご住居の意味だ。
 さらに、よく「ヤマトは国のマホロバ」という。国語辞典によれば「マホロバ」は日本の古い言葉「マホラ」から来ていて、優れて良い所を意味するとある。ところがヘブル語で「マフラ」といったら、優れて良いとか、名誉あるの意味である。


イスラエル人キリスト教徒だった秦氏------------------------------------------------------------------

 秦氏がヘブル語を話したのは、彼らがもともとイスラエル人であり、東方キリスト教に改宗したイスラエル人だったからである。
 大陸では、失われたイスラエル10支族の人々も、東方キリスト教に改宗することが少なくなかった。東方キリスト教は、ユダヤ色を排した西洋的キリスト教とは違い、ユダヤ色を色濃く残したキリスト教だったからである。だから彼らにとっても改宗しやすかった。
 秦氏について詳細な研究を行った文化勲章受章者、著名な哲学者でもある梅原猛(うめはら たけし)氏は、その著書「うつぼ舟Ⅰ 翁と河勝」の中で、こう書いている。

「秦河勝は‥キリスト教信者であり、聖徳太子もそれに影響されたのではないか」

 また秦氏が多く住んだ奈良県の三輪山付近において、巻向(まきむく)山の一峰は、万葉集で「弓月ケ嶽」と書かれている。
 秦氏の故郷「弓月」を偲(しの)ばせる名称である。しかもこのへん一帯には、「父なる神が処女の元に寄り来て聖なる子が誕生した」という伝説も伝わっている(玉依姫”たまよりひめ”の伝説)。これは「処女が神の霊によってみごもり、聖なる子イエスを生んだ」という聖書の話に、なんともよく似ている。古代東方キリスト教徒だった秦氏を思わせる伝説である。

 また中国の史書(「三国志」「魏志東夷伝”ぎしとういでん”」3世紀)は秦氏について、「王は馬に乗り、高い文化を持つ人々」「背が高く、衣服を清潔にし、特別な言語や風俗を持つ人々」だったと記している。これは彼らがイスラエル人だったことを思わせる特徴だ。
 とくに「衣服の清潔」は古代イスラエル人が大切にしていた。当時、一生に一度も風呂に入らないような民族が多い中、イスラエル人は風呂に入り、身を清め、手を洗い、衣服を清潔に保った。これは「聖書」に命じられていたことだからである。
 今日、神道の禊ぎの風習が伝わり、日本人が清潔好き、風呂好きであるのも、そうしたイスラエル人から受け継いだ風習である。
 秦氏がかつて住んでいた中央アジアは、アラビア半島西部のアシールの「失われたイスラエル10支族」の離散地のひとつだった。
 例えば秦氏がいた弓月の近く、その少し西に「ウズベキスタン」という国がある。そこに「ウズベク・ユダヤ人」と呼ばれる人々がいる。
 彼らは、生活がユダヤ教的だから「ユダヤ人」と呼ばれているが、伝承によれば、彼らは古代イスラエルの失われた10支族の末裔である。とりわけ10支族に属するナフタリ族、およびイッサカル族の末裔であるといわれている。
 また、「ウズベク・ユダヤ人」の遺伝子(ミトコンドリアDNA)は、同じく10支族のひとつマナセ族の末裔といわれる「シンルン族」(インド北東部やミャンマー)のものとも近縁である。

 ウズベキスタンのユダヤ人は2007年時点においては5,000人以下にまで減少している (多くの者はタシュケントに居住している)。ウズベキスタンには現在12のシナゴーグ(ユダヤ教の集会所)がある。


中央アジアのマナセ族とエフライム族------------------------------------------------------------------

 さらに、秦氏がいた弓月に隣接するところに、「キルギス共和国」(キルギスタン)がある。キルギスにも、自分たちの先祖は古代イスラエル人である、という伝説がある。このイスラエルとは本来、アシールのイスラエルのことである。

 キルギスに古くから「マナス叙事詩」というものが伝わっている。これは日本でいえば、「古事記」や「日本書紀」のような書物である。
「マナス叙事詩」によれば、昔「ヤキブ」(ヤクィブ)という人から生まれた「マナス」という息子が、キルギス人の主要な先祖だという。
 キルギスに長年住みマナス叙事詩を研究したリズベクの著「Lost and Found」によると、キルギス人の父祖ヤキブには12人の息子がいた。だからヤキブは、「聖書」でいうイスラエル人の父祖ヤコブのことだろう。

「聖書」のヤコブもキルギスのヤキブも、裕福な羊飼いであり、ふたりの妻がいて多くの羊を持っていた。ふたりとも外国で辛酸(しんさん)をなめた経験を持ち、そこで賢く振る舞うことによって羊の数を増やした。
 彼らはそののち父祖の地に帰り、神に祈ると、子孫に関しすばらしい約束を得た。他にも多数の共通点がある。
 キルギスのヤキブが「聖書」のヤコブなら、ヤキブの子「マナス」はイスラエル10支族のひとつマナセ族の先祖マナセのことである。その子孫マナセ族が、キルギス人の主要な先祖となった。
 キルギス人は「もものつがいの上にある腰の筋を食べない」。これはイスラエル人の風習だ(「創世記」第32章32節)。キルギス人は羊の骨を折ることもしない。これもイスラエルの風習である(「出エジプト記」第12章46節)。
 キルギス人は割礼(かつれい)の風習、清い動物と穢(けが)れた動物の観念、過越の風習なども持っている。
 多くの国では長男が家督(かとく)を継ぐことが多いが、キルギスでは家督を継ぐのは末子である。「聖書」でも、長子の祝福を得たのは兄エサウではなく弟ヤコブだったし、またヨセフの息子の場合も、兄マナセではなく弟エフライムが長子の祝福を得た。
 日本の天皇家でも、ニニギー山幸彦ーウガヤフキアエズー神武天皇に至る系図において、つねに末子に皇統が受け継がれている。神武天皇も末子だった。
 このように、キルギスの先祖ヤキブは「聖書」のヤコブであり、マナスはマナセである。
 キルギスにはさらに、「昔、エニセイ川上流に住んでいた民族が移動した。魚の好きな人たちは東の海へ行って日本人となり、肉の好きな人たちは西の草原へ行ってキルギス人となった」といういい伝えがある。これはまた、「大昔、キルギス人と日本人が兄弟で、肉が好きな者はキルギス人となり、魚を好きな者は東に渡って日本人となった」という形で語られることもある。日本の「海幸彦・山幸彦」の話にも似ているが、これも「マナス叙事詩」から来たものである。

 エニセイ川は、キルギスや弓月の少し東、モンゴルに発して北に向かい、北極海へと流れ込む大河である。そこから西に行った人々はキルギス人となり、東に行った人々は日本人になったという。だからキルギスに行くと、「日本人とキルギス人は兄弟です」と多くのキルギス人から聞かされる。それはキルギスでは常識のようになっているから、キルギス人はびっくりするほど親日的である。「マナス叙事詩」には、次のように書かれている。

「民の他の者たちはより大いなるものとなり、旅を続け、満州に達した。チベット方面に行った者たちもいる。」

 キルギス人の主要先祖となったマナセ族から分かれた人々は「満州」(今日の中国東北部)方面に行ったという。一方チベット方面に行った人々もいる。
 満州方面に行った人々とはだれだろうか。「マナス叙事詩」のアシム・ヤキベク版によれば、彼らは満州から進んで日本に達した。叙事詩にはこう書かれている。

「街が破壊され、悩みの時が来たとき、多くの旅団が契丹(きったん:満州)の地からのがれ、日本人になった。移り住んだ地は良く、彼らの長はコトルシュ(Kotorush)と呼ばれ、その島はシムン(Syimun)と呼ばれた」
 
 彼らは満州を去り、「島」国へ行き、「日本人」になった。
 ここで、海の方面へ行った長コトルシュとは、海幸彦の別名「ホデリ」のなまりかもしれない。一方「その島はシムンと呼ばれた」のシムンは、シマ(島)のことであろう。
 キルギス人となる人々と別れた人々は、東へ向かい、海を渡って日本列島に移り住んだ。その最初の移動は紀元前の時代に起こった。
 筆者の久保有政氏は、キルギス人となった人々はマナセ族であり、また日本に行った人々とは、とくにマナセ族の兄弟=エフライム族であろうと考えている。
「聖書」によれば、マナセとエフライムは兄弟であった。マナセが兄、エフライムは弟で、彼らはそれぞれマナセ族とエフライム族になった。彼らは兄弟だから、長い間一緒に行動してきた。しかし別れることもあった。
 このとき日本へ行った人々がエフライム族と考えるのは、後述するように日本の神武天皇の系図が、「聖書」のエフライム族の系図とまったく同じだからである。
 さらに、エフライム族は単独でやってきたのではなく、イスラエル10支族の他の支族も引き連れて、一緒に日本に渡来してきたと考えられる。彼らは、イスラエルの「神の道」を日本に伝えた物部(もののべ)氏、中臣(なかとみ)氏、忌部(いんべ)氏らの先祖であったのだろう。
 一方、先に述べたように「マナス叙事詩」によると、東へ向かって満州、日本へ行った人々の他に、「チベット方面」に行った人々もいるという。彼らはだれだろうか。
 彼らもエフライム族であると考えることもできるが、キルギス人になったマナセ族と同族であるとも考えられる。その人々は、次に見るように秦氏とも深く関係している。


チャン族らと別れた秦氏-----------------------------------------------------------------------------------

 中国の開封(かいほう)では、紀元前231年建立のヘブル語の碑が発見されている。これはそれ以前に開封にイスラエル人がやってきたということだ。
 今日もそこには「開封のユダヤ人」と呼ばれる人々が住んでいる。彼らはユダヤ人的な生活をしているので、「ユダヤ人」と呼ばれているが、「南王国ユダ」の末裔というよりは、「北王国イスラエル10支族」の末裔である。

 また、今日イスラエル10支族の末裔として、チベット北側の中国南西部に「チャン族」(チャン・ミン/羌族”きょうぞく”)が住んでいる。チベットの南側にも「シンルン族」「カレン族」などが住んでいる。彼らがみな10支族の末裔であることは、10支族調査団体「アミシャーブ」などが明らかにしている。
 アミシャーブのラビ・エリヤフ・アビハイルによれば、彼らチャン族、シンルン族、カレン族は、もとは同族であった。彼らはマナセ族が中心である。とくにシンルン族は「ブネイ・メナシェ」(マナセ族)と呼ばれている(「失われたイスラエル10支族」学研パブリッシング)。
 彼らはチベット方面に来る前に、中国北部や中部などにいた。つまり、もとは開封のあたりにいた。しかしそこで中国人から迫害され、抑圧され、戦乱に巻きこまれ、奴隷扱いされたりしたために、散り散りになりながらチベット方面へ逃げてきたのだった。
 このように中国・開封あたりで、イスラエル10支族の分散が起こった。
 このとき南のチベット方面に逃げた人々は、チャン族、シンルン族、カレン族などになった。また何とか開封のあたりに残った人々は「開封のユダヤ人」となった。
 しかしさらに東へ移動し、満州、朝鮮半島に逃げた人々もいたであろう。彼らが日本で「秦氏」と呼ばれた人々である。
 というのは、チャン族(羌族”きょうぞく”)は中国の五胡(ごこ)十六国時代(304〜439年)に「前秦”ぜんしん”」から独立して「後秦”こうしん”」を建国している(384年)。彼らの国は「秦」と呼ばれた。つまり秦氏は、イスラエル10支族の末裔であるチャン族(羌族”きょうぞく”)らと同族と考えられる。
 彼らのうち、ある者たちは前秦にいて、のちに後秦を建国したが、その戦国時代に中国にとどまるのではなく、中国を去って朝鮮半島へのがれ、さらに日本へ渡った人々もいた。それが秦氏なのである。
 実際、後秦を建国したチャン族は、日本人と同じくY染色体のD系統を高率で持っている。彼らは遺伝子的に日本人と同じである。秦氏は、彼らとつながりを持った人々だっただろう。

 明代(1368年-1644年)には、中国のユダヤ人は皇帝から艾(がい)、石(せき)、高(こう)、金(きん、キム)、李(り)、張(ちょう、チャン)、趙(ちょう)の7つの姓を授けられ、これらは今日でも見識することが出来る。これらの姓は本来のユダヤ人の氏族の姓Ezra、Shimon、Cohen、Gilbert、Levy、Joshua、Jonathanをそれぞれ中国風にしたものであるという。面白いことに、これらの姓の内の2つ石と金は、西欧のユダヤ人の姓に多く見られるStone(Stein)やGoldと一致している。

秦氏渡来と王権委譲(出雲の悲劇)---------------------------------------------------------------------

 渡来した秦氏は、大王家(海部氏・エフライム族)の招きによって、新たに列島の中枢となったヤマトに入って行ったものの、大王家は彼らの裏に潜む計画には気付いていなかった。半島の動乱に乗じて次第に渡来秦氏は増え、いつしかその中枢部が契約の箱と十字架を持って二手に分かれて渡来した。

 契約の箱は九州、十字架は丹後半島に到着した。両方から包囲していこうとする作戦だった。そして、契約の箱があることを理由に、王権の移譲を迫ったものの、当然のことながら、最初は拒否された。しかし、彼らは買収工作を展開し、大王家に不満を持つように仕向けて行った。

 そんなある時、大事件が起きた。天宮一族と共に祭祀を行っていた出雲族での出来事である。出雲族は海部(あまべ)氏(エフライム族)の徐福系の葛城氏の一族である。

 出雲族の伊理泥王(イリネノミコ)が兄の留守の間に、管理していた御神宝の剣を秦氏に渡してしまったのである。帰って来てそれを知った兄は激怒し、イリネノミコを水浴びに誘い出し、だまし討ちして切り殺してしまった。兄弟間での血の惨劇は、カ・インとアバエルの惨劇の記憶を呼び覚ました。
 しかし、御神宝を手にした秦氏は、増々勢いづいてきた。このままでは、この小さな列島で秦氏と大戦争が発生してしまう可能性があった。そこで、大王家(海部氏・エフライム族)は一族と出雲族の代表、縄文の大王家を招集して議論した。出雲族は王権委譲に賛成していたが、大王家(海部氏・エフライム族)は最後まで抵抗の意志を示していたものの、ようやく結論を下そうとしていた。それは、卑弥呼亡き後、国が乱れた時と同様、無益な争いは避けるということだった。
 まさにその時、天から秦氏の神、イエスがニンギシュジッダに導かれて降臨した。そこには、エンキとウツ、イナンナ、イシュクルも随行していた。これにより、天宮一族は秦氏に王権を委譲することを正式に決定し、国が大混乱に陥ることが免れた。秦氏の大王フルは、その和平の印として天宮一族に婿(むこ)入りし、持っていたマナの壺を手渡した。しかし、天宮一族にとっては、最大の屈辱となった瞬間だった。

 半島での秦氏の動向は、BC2世紀頃に、東北アジアにツングース系騎馬民族の扶余(ふよ:夫余)が出現した。その大王の名が解夫婁(ヘブル)で、当然ヘブライのことである。彼らは朝鮮半島に達し、高句麗を建国した。更に南下し、元々あった馬韓(ばかん)に加え、辰韓(しんかん,)、弁韓(べんかん)を建国した。ただし、辰韓(しんかん)は海部(あまべ)氏(エフライム族)の一族が渡来し、彼らと友好を結んで建国した。
 百済の建国神話には、解夫婁(ヘブル)の息子の朱蒙(シュモウ)の2人の息子、沸流(フル:兄)、温祚(オンソ:弟)が登場する。フルは海側に、オンソは内陸に国を造り、オンソの国は百済へと発展したが、フルの方は土地がやせて衰退し、これを恥じてフルは自殺した、と。死んだことになっているのは、他の国へ行ってしまったということで、つまり、そのフルこそが、契約の箱を持って渡来した秦氏の大王だった。「百済本記」に依ると、百済王家の姓は解氏と真氏で、出自は扶余(ふよ)族とある。解氏は繁栄したが、真氏は滅びた。つまり、解氏=オンソで解夫婁(ヘブル)の“解”であって、真氏=フルである。
「新選姓氏録」には“真人は是、皇別の上氏なり”とあり、真氏の筆頭は息長真人(オキナガノマヒト)で、“誉田(ホムダ)天皇より出づ”とある。つまり誉田(ホムダ)天皇は応神天皇のことで、真氏が百済王家のフルならば、フルこそ応神天皇である。秦氏の中枢部として渡来した大王で、秦氏の初代天皇である。よって、応神の東征は神武の東征にそっくりで、応神縁の宇佐神宮(うさじんぐう)は“皇室第二の祖廟(そびょう)”とも言われている。宇佐は縄文以来の聖地である。

 秦氏がヤマトの中枢部に入って来たのは、AD240年~300年頃の、志理都彦命(シリツヒコノミコト)の時代である。その時代に海部(あまべ)氏と尾張氏に兄弟分家し、次の川上真稚命(カワカミマワカノミコト)の時代(AD315年頃)に海部(あまべ)氏本体がヤマトから丹波へと戻り、その後の丹波大矢田彦命(タンバオオヤタヒコノミコト)の時代には祭祀もヤマトから丹波へと遷され、同族の尾張氏は尾綱志理都岐根命(オヅナシリツキネノミコト)の時代(AD353年よりもやや後)に尾張に移動させられた。

 出雲族は純粋な海部(あまべ)氏の血統ではない。徐福は秦の始皇帝の命を受けて渡来した。秦帝国は失われた十支族、あるいはバビロン捕囚後にペルシャに残って移動した南ユダ王国の末裔、あるいはその両者の混合で、同じ“秦”を名乗る秦氏の正体を知ったことにより、容易に改宗した。それに、彼らの中には、海部(あまべ)一族や縄文王家に対して最初から好意を抱いていなかった者たちもいた。出雲族の悲劇は、出雲振根(イズモノフルネ)の話で日本書紀に書かれていた。

“崇神天皇は出雲大神の宮に納められている神宝を確かめさせるため、武諸隅命(タケモロズミノミコト)を出雲に派遣した。神宝は出雲振根(いずものふるね)が管理していたが、ちょうどこの時は筑紫(つくし)に行っていたので、弟の飯入根(イイイリネ)が対応し、弟の甘美韓日狭(ウマシカラヒサ)と子の鸕濡渟(ウカヅクヌ)に神宝を持たせて献上してしまった。帰って来た振根(ふるね)は怒り、いつか弟を殺そうと考えた。振根(ふるね)は密かに刀とそっくりな木刀を作り、腰に掛け、水浴びに誘った。振根(ふるね)は先に上がり、弟の刀を身に付けると、弟は驚いて兄の木刀を取ったが、振根(ふるね)に切り殺されてしまった。”

 時代的には崇神天皇=オトヨノミコトよりも後になるが、これは事実だった。場所としては現在の出雲地方ではなく、奈良県桜井市の纏向(まきむく)周辺の出雲である。また古事記の倭建命=ヤマトタケルの出雲征伐の話も似ている。

“景行天皇(けいこうてんのう)の命により、倭建命(ヤマトタケル)は出雲建(イズモタケル)を征伐しに行った。倭建命(ヤマトタケル)は木刀を作って身に付け、一緒に川に入り、倭建命(ヤマトタケル)が先に上がって出雲建の刀を取った。驚いた出雲建は上がって来て倭建命(ヤマトタケル)の刀を取ったが、抜くことができず、倭建命(ヤマトタケル)に切り殺されてしまった。”

 古事記ではヤマトタケルに変えられ、乱暴者として描かれているが、海部(あまべ)一族を陥れるためである。かつて、出雲は投馬国(とうまこく)と呼ばれる大丹波国の一部で、容易に国譲りした功績により、イリネノミコの子孫は後に出雲を与えられた。その子孫の一血統が蘇我氏である。これを、記紀では「合わせ鏡」により、最後まで抵抗していた出雲、という構図に書き換えた。むしろ、海部(あまべ)一族を出雲と重ねることにより隠した、と言う方がよい。蘇我氏は葛城氏の子孫だ、と主張しているが、そういう意味である。
 出雲大社では、本殿北側のスサノオを祀る社は素鵞社(そがのやしろ)で祀られているが、この“素鵞(そが)”も蘇我氏を暗示している。

 この事件をきっかけとして、秦氏の大王フル(応神天皇)が王権委譲されたのが、建振熊宿祢(タケフルクマノスクネ)の時代である。つまり、海部(あまべ)氏最後の大王がタケフルクマノスクネということである。兄弟分家の尾張氏は、その前の時代に尾張へと移動した。

 “フル”が名前に含まれているということは、応神の“フル”を暗示している。この大王の時代という暗示であり、かつ、御神宝=王権の象徴を渡した出雲“振”根(ふるね)も暗示している。つまり、御神宝と王権の委譲の両方の意味合いがある。古事記には気比(けひ)大神について記述があり、御食津神(みけつのかみ)である気比大神(けひのおおかみ)がホンダワケ(幼少の応神天皇)と名を取り換えるという話があり、これなどは王権を取り換えたという暗示である。
 第15代天皇の応神というと、第16代天皇の仁徳と並んで巨大な古墳が有名だが、仁徳は応神の子とされているが、事績(じせき)の一部が父の応神と重複・類似することから、元来は1人の天皇の事績を2人に分けたという説があり、日本書紀仁徳の条と古事記応神の条では矛盾が見られたりする。
 実は、タケフルクマノスクネこそ、第16代の仁徳天皇である。古事記では、仁徳は大変徳の高い天皇とされ、大阪の難波には世界最大の墳墓が造営された。これは、王権委譲に対して、最大級の賛辞と敬意が表されていることを暗示している。この大王だけは“ミコト”ではなく“スクネ”である。皇位継承権を奪われて、臣籍降下させられたことを暗示しているのである。

 ナンバは現在は大阪だが、本来の難波はその字が示す如く、日本海側だった。大阪湾では、波は凪(なぎ)なので“難”ではない。京都の日本海側の天橋立(あまのはしだて)の近くにも難波野(なんばの)という地名がある。本来は、丹後半島全体か日本海側が難波野だった。その難波を冠する大王が、タケフルクマノスクネ(仁徳天皇)の3世代前の難波根子建振熊命(ナンバネコタケフルクマノミコト、別名:丹波大矢田彦命)で、その1世代前が川上真稚命(かわかみまわかのみこと)で別名が大難波宿祢(おおなにわのすくね)で、海部(あまべ)氏本体がヤマトから丹波へと戻った時代である。よって、この大難波宿祢(おおなにわのすくね)の“スクネ”はヤマトの地から移動させられたことを暗示し、丹波大矢田彦命の難波根子建振熊命(ナンバネコタケフルクマノミコト)という別名は、難波野での祭祀が本格化したことを暗示すると同時に、実際に王権を譲らされた悲劇の大王の名を暗示している。
 タケフルクマノスクネ(仁徳天皇)は若狭の木津高向宮(こづたかむくのみや)で海部の姓を賜った。それが気比神宮(けひじんぐう)での逸話に変えられ、アマミヤ一族も“天宮”から“海宮(海部)”へと変えさせられた。
 導きのニンギシュジッダは猿田彦だが、エンキとウツ、イナンナ、イシュクルも随行したということは、海部(あまべ)一族(エフライム族)や出雲氏、縄文系は当然、イエスのことなど知らない。よって、イエス以前の彼らが祀っていた神々が降臨しなければ、王権の委譲はできない。エンキ、ウツ、イナンナ、イシュクルでメルカバー(神の戦車、天の車)を形成し、その中心がイエス。
 つまり、伊勢神宮の御紋はそれを暗示している。そして、神宮は太陽神を祀る。その原型はウツとイナンナなので、両者に共通の菱形をシンボルとした。そして、中心は十字なのでイエスだが、丸に十字で、イエスの父で地球の主エンキをも暗示する。そうなると、ニンギシュジッダも花弁の1つに入るというわけである。あるいは、十字をイエスの原型のイナンナと見なしても良く、そもそもの最高神アヌやニビルのシンボルと見なしても良い。


 また海部(あまべ)氏の奥宮、真名井神社はマナの壺に由来する。海部(あまべ)氏が代々宮司を継承する際、少々削って飲んだらしい。それは、外宮の多賀宮(たかのみや)に持って行かれ、その地下に安置された。

 また、神社は、崇神から応神までの間=応神の時代が建設ラッシュである。よって、秦氏が関与している。秦氏は、それまでの物部系神社を次々と封印していった。ヤハウェ信仰から絶対三神信仰へと変更するために。


応神天皇とキリスト----------------------------------------------------------------------------------------

 失われた十支族の流れを汲む騎馬民族の大王フル(真沸流)が、東シナ海を渡って九州物部王朝に渡来した。そこで、真沸流は婿入りし、物部王朝の大王となった。すなわち、絶対神ヤハウェ=天之御中主神信仰となったのである。この時、何故、すんなり婿入りして大王になれたのか?それは、同族ということもあるが、ユダヤの三種の神器の1つを持っていたからである。
 古代物部王朝で、海部氏と尾張氏の勢力が強かったのは、彼らが「マナの壺」と「アロンの杖」のどちらか、あるいは両方を持っていたためである。そこへ、フル(真沸流)がもう1つの三種の神器を持ってきた。アークだとしたら、エルサレム教団の秦氏から譲り受けなければならず、原始キリスト教徒に改宗する必要がある。しかし、物部氏に婿入りするとなると、また改宗しなければならない。もともと、失われた十支族の流れを汲む騎馬民族は信仰心が薄く、宗教にはこだわらなかった。そもそも、背教が原因で北朝は滅びたのである。よって、渡来する前は異教崇拝だった、もしくは特定の信仰は無かった。しかし、自らの出自であるヤハウェ信仰のことだけは忘れていなかったと考えると、原始キリスト教徒に改宗することなく、ヤハウェ信仰の物部氏にそのまま婿入りできる。
 よって、尾張氏が「アロンの杖」を持っており、そこにフル(真沸流)が「マナの壺」を持ってきたと考えるのが自然である。そして、婿入りの印として、もう1つの尾張氏である海部氏に「マナの壺」を託した。また、「マナの壺」は失われた十支族の中のガド族が継承した、という言い伝えがある。ガド族に、ヘブライ語で~出身という意味である「ミ」を付けると、「ミガド」すなわち「ミカド=帝」であり、天皇のことである。
 よって、フル(真沸流)はガド族出身であり、「マナの壺」を持っていたので騎馬民族の大王たることができた。つまり天皇というのはイスラエルからやってきたユダヤ人でもある。そして、古代物部王朝に婿入りし、最初の天皇“応神天皇”となったである。それ故、応神に続く天皇陵は、巨大な「マナの壺」の形をしているのである。日本の氏族の出自を記した「新選姓氏録」の序文には、“真人は是、皇別の上氏なり”とあり、天皇の姓は“真氏”であるとしている。天皇家にも姓があったのである。
 また、真氏の筆頭は息長真人(オキナガノマヒト)であり、“誉田(ホムダ)天皇より出づ”とある。誉田天皇とは、第15代応神天皇のことである。

 では、何故、フル(真沸流)が天皇となり得たのか。婿入りしてヤハウェ信仰となった真沸流大王は、アークを持っていた秦氏を呼び寄せた。ヤハウェ信仰とあらば、アークが必要だからである。秦氏の渡来は一度だけではなく、数回にわたった。フル(真沸流)は現在の大分県、宇佐にあたる地方に「豊国」という秦氏の王国を造り、そこに宇佐八幡宮を建立した。“八幡”とは“やはた”とも読み、やはた=イヤハダ=イエフダー=ユダヤであり、ヤハウェなのである。そして、そこから東征して行った。その途中(か最初かは未確定であるが)、フル(真沸流)の前に、イエスが降臨し、「私は在りて在る者」と言われた。ヤハウェが降臨する際に言っていたのと同じ、あの言葉である。
 真沸流は、ヤハウェとエルサレム教団の秦氏が信仰していたイエスが同一神であることが解ったのである。そして、イエスがこの大王の前に降臨して王権を授けた。それ以来、大王は秦氏から洗礼(バプテスマ)を受けて原始キリスト教徒となり、応神天皇となった。応神とは、神=イエスに応じる、ということである。天皇とは、正式には“天皇陛下”であり、天の皇帝=神の預言を梯子の下で聴く預言者、という意味である。

 こうしてイエスから王権を授かり、洗礼を受けた時点で、応神天皇は秦氏の携えているアークを手中に収めた。そして、婿入り先の物部氏は応神天皇に従った。イエスが各地に現れ、応神天皇に聖霊が降るのを見たからである。
 しかし、畿内の物部氏(海部氏=尾張氏支配下)は“自分たちは裏切られた”と思い込み、信仰を捨てた応神天皇に対して反乱を企てた。三種の神器の内の2つを保持する畿内では、旧約の神ヤハウェを唯一の神とする強い信仰があったからである。
 しかし、戦闘の最中に、天からイエス=ヤハウェが光り輝きながら降臨した為、古い旧約の神は新しい新約の神に全権を譲ることになった。すなわち、神武東征伝説に於ける「八咫烏」の導きとは、フル(真沸流)を原始キリスト教に改宗させたエルサレム教団の秦氏のことであり、勝利をもたらした、光り輝く「金鵄」とは、光り輝きながら降臨したイエス=ヤハウェのことである。
 こうして応神天皇は「契約の箱アークと十戒石板」「マナの壺」「アロンの杖」を手中に収め、イスラエル十二支族を象徴するヘブライ語“ヤマトゥ”に因んで、大和朝廷を開いたのである。よって、応神以前は架空の天皇であり、応神天皇=天皇家は祭司一族ではないから、三種の神器を直接扱うことはできないのである。
 これで、ヤハウェ=イエス=天之御中主神=天照大神となった。つまり、神道とは、天照大神=イエス・キリストを唯一神とする絶対神崇拝なのである。

 以後、天皇家は代々天孫降臨の奥義を伝えるために大嘗(だいじょう)祭を行ってきた。大嘗祭とは、新しく天皇となる儀式であり、即位の礼が表向きの儀式に対して、大嘗祭は天皇家秘伝の裏の儀式である。毎年、勤労感謝の日に行われているのが新嘗(にいなめ)祭であり、その年の収穫に感謝する儀式であるが、大嘗祭は、その特別なものである。

 大嘗祭では、まず天皇となる前の皇太子が禊ぎ=バプテスマを行う。その後、麁服(あらたえ)という白装束、すなわち“死に装束”を着用して儀式を進行する。(麁服は、代々、阿波の忌部氏が制作することになっている。阿波忌部氏の家系で有名なのが、三木元総理である。)そして、天照大神と共に食事をし、御襖(おふすま)と言われる寝床に横になり、また起き上がる。
 すなわち、大嘗祭とは“最後の晩餐”“死”“復活”を再現することによりイエス・キリストの霊と一体となり、正式に王権を継承する儀式である。
 そして、天照大神は男神であるから、天皇は男性でなければならないのであり、これこそが“男系万世一系”の真相である。
 しかし、イエスの国仕掛けの命により、日本の存在を世界の目から隠すため、すべてを封印したのである。秦氏によって。(以後、秦氏とは、純系エルサレム教団の事を指す。)

 そのカッバーラを含めた日本の陰陽道の創設者が聖徳太子である。聖徳太子の補佐をしたのが、秦河勝、秦氏であり、聖徳太子が秦氏により陰陽師を形成し、万世一系の天皇主義の根幹を樹立した。それは、次のようなものである。
 基本となる陰陽師(漢波羅)は12人であり、十二支族、イエスの12人の使徒に由来する。当然、エルサレム教団=秦氏である。この組織を「八咫烏」と言う。“烏(からす)”は鳥(とり)なので、“鳥(とり)”が象徴である。
 八咫烏こそ、応神天皇を改宗させ、祭祀を一手に担ってきた秦氏の中の祭司一族、“秦氏の中の秦氏”である。よって、鳥は秦氏の象徴でもある。
 その中の中核の3人を「大烏(おおがらす)」と言う。3人とは、いつもイエスが特別に扱ったペトロ、ヤコブ、ヨハネであり、且つ「生命の樹」の3本の柱を表す。そして、3人の大烏で「金鵄(きんし)」を構成する。天照大神と高御産巣日神(たかみむすびのかみ)が遣わした3本足の大きな烏が「八咫烏」であった。高御産巣日神(たかみむすびのかみ)は「慈悲の柱」であり、天照大神=イエスであるから天照大神も「慈悲の柱」となり、イエス=天照大神=高御産巣日神なのである。

「金鵄(きんし)」こそ、宮中祭祀の奥義を知り尽くし、すべての神社を裏から取り仕切っている裏神道の天皇、裏天皇である。神武東征伝説に於いて八咫烏と金鵄(きんし)が勝利をもたらしたのは、このことを意味し、天皇と裏天皇が表裏一体ということを表している。そもそも大嘗祭では、奥義を伝えるべき天皇は“お隠れになって”存在しないので、誰が皇太子にその奥義を伝えるのか、考えてみればその矛盾にすぐ気づく。
 表向きの神道(=八百万の神々、陰陽道)に対する裏の神道(=唯一絶対神、カッバーラ)の総本山は下鴨神社である。下鴨神社の主祭神は賀茂氏の祖、賀茂建角身命=八咫烏命である。よって、京都市左京区の下鴨神社にバプテスマ(洗礼)用の糺(ただす)の森があり、賀茂氏こそ、八咫烏である。

以下、具体例を示す。

<数字>
・意味:根幹はユダヤのカッバーラ数秘術。
1:唯一絶対神。天之御中主神。一つ巴紋。唯一絶対神とは、人間に関わる神=イエス=ヤハウェを表す。
2:「合わせ鏡」の同一神を表す。二つ巴紋。
3:「生命の樹」。三柱の神=絶対三神で唯一絶対神を構成する。三つ巴紋。
4:神の戦車メルカバー。流出世界、創造世界、形成世界、活動世界の四界。4本の柱。YHWHのテトラグラマトン。
5:五芒星(セーマン、ソロモンの星)。悪魔封じ、魔除け。
6:六芒星(ダビデの星)。2つの三角形が天と地を向き、調和していることを表す。7が神の数字であるから、それより1少ない6は人間を表す。
7:神の数字。三柱の神がメルカバーで囲まれている。7日間で天地創造。オリオン座。(三ツ星が4つの星で囲まれている。)
8:7の裏となり救世主。元々は太古の地球に君臨したシュメールの大神アヌの象徴。
9:「生命の樹」の三柱(神)三界。
10:イエスが磔刑に処せられた十字架。10個のセフィロト。
11:ダアトも含めたセフィロトの数。
12:十二支族、12人の使徒。
13:ダアト=知識の門=神界の前に達する7個のセフィロトと6個のパスを合わせて13で、完全数。12人の使徒とイエス。

・七五三
 神世七代での三柱、五柱、七代で「七五三」を形成する。「七五三」とは、神による国造りを人間の成長段階に当てはめたもの。また、「生命の樹」の配列である縦3列、横3列から成る魔法陣(ゲマトリア)が形成される。

4 9 2
3 5 7
8 1 6

 縦、横、斜め、いずれの和も15となり、15は1+5=6、すなわち、人間を表す。この升目(ますめ)を線で区切ると、漢字の「囲」となり、閉じた宇宙を表す。中心は5なので、表の神道では5が最も重要となる。(鯉のぼりの吹き流し、五色の短冊、五色の旗など。また、手足の指は5本、五体満足。人間の遺伝子は5個の塩基で構成される。)
 ゲマトリア内の奇数=陽数を結ぶと“十字”となり、聖十字架の象徴である。そして、9→7→5→3→1のZ型のジグザグはヤハウェの象徴である雷を、Zはイエス自身を指す最後の文字(オメガ)を表す。

<漢字>
 日本の漢字は中国のものと異なるものが多い。これは、漢字の表意性にカッバーラで意味を封じ込めたため。「漢字破字法」で解読する。

・天皇陛下
天皇は天+皇。(下上)賀茂神社では、「天」は下の棒を長く書き、書き順も工→人である。そして、更に分解して工+人+白+王。大工(石工)である人は、白く光り輝く王である、という意味。すなわち、イエス・キリストのこと。陛下とは、神とを繋ぐ梯子(ヤコブの梯子、天橋立)の下で、神に仕える預言者のこと。

・天照大神
天照大神とは、工+人+日+召+火+一+人+神。太陽の輝き(火)を持つ唯一の神に召された、光り輝く大工。すなわち、イエス・キリストのこと。

・山
三柱、すなわち、絶対三神と「生命の樹」を表す。原型はピラミッド。

・秦
秦は三+人+ノ+木。つまり、三柱の「生命の樹」である。

・大酒(おおさけ)神社
大酒の元字は大辟(だいびゃく)で、意味は“死刑”で、イエスの磔刑。同音で別の字では大闢(だいびゃく)。この字は、中国ではダビデの意味。

<言葉の音、読み>
・秦氏、八幡、機物
はた=イヤハダ=イエフダー=ユダヤ。それとは別に、大阪に機物(はたもの)神社がある。機物とは、織物などではなく、“磔刑用の木材”のことで、つまり十字架のこと。“生贄”という意味まである。秦氏の“はた”には、十字架の意味まで込められている。

・イエス
イエス・キリストをヘブライ語ではヨシュア・メシアッハ、アラム語ではイシュ・マシャ、メソポタミア東部やインドではイズ・マシと言う。イズは日本語ではウズとなる。太秦はヘブライ語で“ウズ=光”“マサ=賜”と同時に、イエスのことも指す。元々、イエスは光り輝く日の神なのである。弓月君は大酒(おおさけ)神社では“ゆんずのきみ”と読まれているが、“光の君=光の王=イエス”ということ。

・天宇受売命(アメノウズメノミコト)
“ウズメ”に注目する。ウズ=イエス、メ=女なので、イエスの女=妻。また、天宇受売命(アメノウズメノミコト)は猿田彦(さるたひこ)の妻となった。「多次元同時存在の法則」から猿田彦=天照大神=イエスであり、猿田彦は天宇受売命(アメノウズメノミコト)と結婚後、宇豆彦(ウズヒコ)とも呼ばれるようになった。ここからも、宇豆=ウズ=イエスであり、天宇受売命(アメノウズメノミコト)はイエスの妻だったのである。
 そして、天宇受売命(アメノウズメノミコト)のモデルはマグダラのマリアだったので、イエスとマグダラのマリアは結婚していたことになる。天宇受売命(アメノウズメノミコト)と猿田彦(さるたひこ)は猿女君(さるめのきみ)の祖となり、猿女君(さるめのきみ)は神楽(かぐら)→猿楽(さるがく)→能楽(のうがく)の祖である。神楽を舞うのは神に仕える女性、巫女であり、男神と一体となる女性である。よって、イエスは神殿の巫女であるマグダラのマリアと結婚した、と日本の神話に書かれているのである。


前方後円墳の誕生-------------------------------------------------------------------------------------------

 250年から600年頃の古墳時代、倭朝の全く太陽を意識しない特別の方位を持つ前方後円墳が現れ始めた。前方部の真北から20度西に傾けた前方後円墳である。聖なる方位という意味でそれを聖方位(せいほうい)と呼ぶ。その聖方位は、邪馬台国の冬至線、夏至線のネットワークに侵入し、自分達の新たな価値観の存在を主張した。

 後述しているが、奈良県の斑鳩宮(いかるがのみや)と飛鳥京(あすかきょう)を結ぶ太子道や法隆寺近くの道も、北から北北西に20度傾いている。これは2500年前にアヌンナキによって作られた古代ペルシャのペルセポリス宮殿と同じ傾きで、古代ペルシャのシリウス信仰からきている。ペルセポリス宮殿はアヌンナキによって作られ、アヌンナキの惑星ニビルはシリウスBの軌道を廻っていた巨大惑星である。つまり自分たちの故郷の方角を指している。

 前方後円墳は日本列島に広く分布し、約4800基が存在する。古墳内部には巨石の石室があるが、この石室の作りは世界各地にあるドルメンなど巨石遺跡と同じ作りとなっている。つまり前方後円墳もアヌンナキのテクノロジーで作られたことがわかる。
 宮内庁が陵墓に指定している古墳のうち天皇陵は41基で、9代の開化陵から30代の敏達陵(びたつりょう)が前方後円墳である。これが本当に天皇陵であるなら、これら天皇の墓はアヌンナキが作ったか、すでに存在した前方後円墳を天皇陵と呼んだかのどちらかである。天皇というのは地球総司令官エンリルが地球統治の役割を任せた存在で、アブラハムやサルゴン1世から続くアヌンナキの直系血族である。










etc.

日本でのイエス・キリスト--------------------------------------------------------------------------------

  キリストは復活した後、日本に来た。キリストは、日本では五十鈴(いすず)彦、もしくは伊勢津彦(いせつひこ)と言い、伊勢の国司に当たる存在だった。出雲族と仲が良かった。キリストは事代主(ことしろぬし)のもとで古神道を学び、大和で修行した。そのとき事代主(ことしろぬし)の養子となったので、神武の皇后となったヒメタタライスズヒメの義理の兄となる。
 そしてキリストは聖地・伊勢の港の管理人となった。そうして磯部家(のちの度会家”わたらいけ”)を管理していた。度会氏(わたらいうじ)は日本の氏族で、多くは明治初期まで伊勢豊受大神宮(伊勢神宮外宮)の祠官(しかん)を世襲した。
 キリストの弟の石切彦(いしきりひこ:伊須気由理彦”いすきゆりひこ”)も来日、石切りや測量などをする技術集団の長として日本を測量した。石切彦も出雲系の物部一族と仲が良かった。石切彦は大阪府東大阪市の石切劔箭(いしきりつるぎや)神社の祀神となっている。
 2人は海の一族であった。その証拠にキリストの十二使徒の多くは漁師出身であった。
 キリストの紋章は三角形を逆さに二つ重ねたダビデの星であり、それぞれの三角形は物体と精神を象徴している。伊勢神宮にダビデの星があるのはそのため。石切彦は石切りの組合、すなわちフリーメイソン(石工組合)と関係している。五十鈴彦(キリスト)にも石切彦にも子供がおり、青森の沢口家は石切彦の子孫で、家紋にダビデの星を持つ。

イエス・キリストから天皇への王権---------------------------------------------------------------------

 太陽神ウツは、シュメールの楔形文字では“UD”である。これは“輝く”や“白い”という意味である。また、ウツは肩から太陽光線を照射し、しばしばノコギリを手にして描かれている。太陽光線は太陽神の、ノコギリは大工の象徴であり、漢字破字法では“大工(工人)は白く輝く王=天皇”である。天皇陛下はイエスから王権を授かり、ハンムラビはウツから法を授かった。そして、UD は“ユダ”とも読める。つまり、ユダ族の王イエスは太陽神ウツに関わりが深いことを暗示している。また“ウヅ”とも読める。

 ヘブライ語で“ウズ=光”“マサ=賜”と同時にイエスのことも指し、ヘブライ語のヨシュア・メシアッハがアラム語ではイシュ・マシャ、メソポタミア東部やインドではイズ・マシで、それが更に変化して“ウズ・マサ”となったと見なした。しかし、大元はこの“UD”だったのである。また、ウヅ=ウズ=ウジであるが、ウジというのは“ウジ・エル”というシュメール語があり、これは“神の力”という意味であるから、ウジ=力である。そして、地上の生命に生きる力を与えているのは太陽であるから、ウツ=ウジという解釈ができる。大洪水の後に太陽神ウツが現れ、ジウスドラ(ノア)が舟の窓を開けるとウツはその光で舟を照らした、という伝承もあるが、これなども太陽神が人類の光であることの象徴。


イエス・キリストと十六紋菊-----------------------------------------------------------------------------

 日本に於いて、イエス=天照大神(伊勢神宮内宮の祭神)は蛇神で、唯一絶対神である。1 匹の蛇で“最初であり最後、アルファでありオメガである”ことを表すならば、蛇が自身の尾を咬んでいる様子として象徴される。これは円である。“8”の中にもカドゥケウスの杖の中にも複数の円が見られる。つまり、円は終わりなき“永遠”を象徴するもう1つのシンボルである。

 神社の拝殿に安置されている鏡は丸いが、“永遠”と“復活、再生”を象徴するのである。そして、同じ丸い「日の丸」については、「日の丸」の「○」には、更にこのような意味も含まれているのである。
 このように、十六紋菊の原型は蓮の花で“再生”を象徴しており、日本の奥義は天照大神=イエスなので、まさに“復活、再生”を象徴する皇室の御紋として十六紋菊は相応しい。(皇室の十六紋菊は、正式には「十六弁八重表菊紋」と言う。)日本では蓮の花はあまりお目に掛かれないので、身近で花弁が十六花弁紋の形に似ている菊に変えた、と単純に考えてしまうところであるが、そうではない。

 そこで、もう1つの重要なカッバーラ、漢字を考える。“艸(そう)”は「合わせ鏡」の絶対三神を象徴するが、問題はその下のつくりである。

・匊:キク、コク(音)。むす(ぶ)、すく(う)、たなごころ(訓)。

 このつくりだけで、音読みでは「キク」となる。訓読みでは基本が「勹」で、「手で包む」という意味から、手の平を表す「掌(たなごころ)」となり、英語では“handful”である。そこから派生し、掌(たなごころ)で握手して人と人、神と人を結ぶに通じる「むす(ぶ)」、また、手に一杯(水などを)すくうという意味の「すく(う)」となる。この「すく(う)」という読みは「救う」にも繋がり、救世主=イエスを象徴する。そうすると、「むす(ぶ)」は高御産巣日神(タカミムスビノカミ)=イエスの「ムスビ」でもある。
 更に、「勹」の中には何故か、「米」がある。「米」は大切な食糧なので、手に「すく」えば命の糧となり、ヤハウェが与えた白いウェハースのようなマナの象徴となる。
 また、上下左右のいずれから見ても、十字架が天使ケルビム(点)の間にあり、反対方向と「合わせ鏡」になっている。更に、「米」は分解すると「八十八」となり“88”、そして「匊」の画数は8画なので、合わせて“888”となる。ギリシャ語で“キリスト”と書くと数秘的な数値は“888”となるので、「匊」という字でイエスの象徴となる。
 つまり、「菊」という字の草冠で「生命の樹」に於ける絶対三神と「合わせ鏡」の奥義、そして下のつくりで、ヤハウェ=イエスを象徴しているのである。だからこそ、日本では“再生”を意味する蓮の花の象徴に、更に漢字のカッバーラを合わせて「菊の御紋」としたのである。以上、皇室の「十六弁八重表菊紋」は、菊の御紋にして菊の花に非ず。

 八角形で象徴されるニビルと金星、そしてイナンナが十六花弁ロゼッタの原型であり、それが皇室の十六弁八重表菊紋の基になっているのである。


太陽神ウツ=イエス=天照大神---------------------------------------------------------------------------

 日本神話とシュメールの真相から、イエス=天照大神には象徴として太陽神ウツが重ねられる。天照大神=猿田彦で、猿田彦の妻は天宇受売命(アメノウズメノミコト)であった。“ウズメ”に注目すれば、ウズ=イエス、メ=女で、猿田彦は天宇受売命(アメノウズメノミコト)と結婚後、宇豆彦(ウズヒコ)とも呼ばれるようになり、宇豆=ウズ=イエスなので、天宇受売命(アメノウズメノミコト)はイエスの妻となる。そして、天宇受売命のモデルはマグダラのマリアなので、イエスとマグダラのマリアは結婚していたことになる。


 しかし、これもシュメールの真相が原型である。王位継承順位数に着目すると、ウツが20であり、イナンナがそれに継ぐ15である。アヌンナキの夫婦関係に於ける王位継承順位数は、例えばアヌが60で正妻のアンツが55、エンリルが50で正妻のニンリルが45、エンキが40で正妻のニンキが35というように、正妻の王位継承順位数は夫よりも5小さい。
 そうすると、ウツとイナンナの王位継承順位数の関係は、夫と正妻の関係そのものである。つまり、ウツとイナンナは象徴的に夫婦と見なせる。だから、天宇受売命(アメノウズメノミコト)=猿田彦(サルタヒコ)の妻は、象徴的に猿田彦=天照大神=イエス=ウツに対するイナンナであると言える。天宇受売命(アメノウズメノミコト)は神楽(かぐら)の祖であり、神楽(かぐら)を舞うのは神に仕える女性、巫女であるが、イナンナは大神アヌの前で歌い踊ったので、神楽(かぐら)の祖と見なすことができる。

 また、巫女は男神と一体となる女性であるが、イナンナは美貌でアヌと関係し、ドゥムジ亡き後は“聖なる結婚”の儀式などを行うようになったので、裸の女神として描かれていることが多く、天宇受売命(アメノウズメノミコト)、そしてマグダラのマリアの原型であると言える。
 なお、太陽=光に関わる日本語で重要なのがウズ=ウジであるが、ウジというのはウジ・エルというシュメール語があり、これは“神の力”という意味であるから、ウジ=力である。そして、地上の生命に生きる力を与えているのは太陽であるから、ウツ=ウジという解釈ができる。大洪水の後に太陽神ウツが現れ、ジウスドラ(ノア)が舟の窓を開けるとウツはその光で舟を照らした、という伝承もあるが、これなども太陽神が人類の光ということの象徴である。
 また、ウツの別名は“バブバル=光り輝く者”であり、光を注ぎ、“天と地球を照らす者”であり、これは名称的に天照大神そのものである。よって、太陽神ウツはイエスの象徴として適切である。


イエス・キリストの日本での死---------------------------------------------------------------------------

 イエスは55歳の時、日本人女性と結婚して3人の娘をもうけた。そしてそこで暮らし、118歳で青森県の新郷で亡くなった。イエスは青森県の新郷村(しんごうむら)に埋められたが、その墓の側にはオウリキの1房の髪を納めた、小さな箱を埋めたもう1つの墓がある。そこでは、弟のイスキリの墓とされている。
 青森県新郷村、この村は実在する。十和田湖の東に位置している。木立に囲まれたほの暗い中にキリストの墓といわれる十字架が立っている。この村には昔から赤ちゃんの額に十字架を書く風習や古代ヘブライの動きに近い踊りまでもが行われている。
 第11代垂仁天皇の時、一人目のキリストは、日本の青森県の戸来村(へらいむら:現在は新郷村)に住み,この地で亡くなった。「へらい」の名は「ヘブライ」が訛ったものといわれている。

 戸来村(現新郷村)の近くにある十和田湖(とわだこ)でキリストは没したが、その十和田湖からキリスト像が発見されている。

 同地の盆踊りの唄にヘブライ語ナニャドヤラ→ナギッドヤラー(主なる神は見給う)、ナニャドナサレノ→ナギッド ナツェレット (ナザレの主よ)とある。後にやってくるテンプル騎士団は、イエス・キリストをナザレの主と呼んでいた。
 またこの村には、ユダヤの紋章(ダビデの星)と似た家紋を持つ旧家沢口家があり、生まれた子供を初めて屋外に出す時、額に消し炭で十字を書いたり、足が痺れた時は人差し指につばをたっぷり付けて足に十字を三回書いた。


大和朝廷------------------------------------------------------------------------------------------------------

 秦氏への王権委譲によって、新たな統一王国が建国された。大和朝廷である。祭祀の中心はイエスへと変えられたが、それ以前の祭祀を無くすことはしなかった。無くしてしまえば、いつ宗教戦争が勃発してもおかしくなく、結局、イエスと共にシュメールの神々も降臨した以上、無くすことはできなかったのである。
 そのため、以前の祭祀の上に新たな祭祀を重ねるというカバラ的手法が採られた。すなわち、シュメールの神々信仰の上にユダヤ教、その上に原始キリスト教という祭祀構造である。
 そのために、三輪山が新たな神山と決められた。卑弥呼の邪馬台国の都介野岳(つげのだけ)での祭祀を、大邪馬台国が引き継いで新たな神山を泊瀬山(はつせやま)としたように、この両方の祭祀を、三輪山を神山として引き継いだ。都介野岳(つげのだけ)も泊瀬山(はつせやま)も人工の山だが、新たに三輪山も造成したのである。そして、奈良県橿原市白橿町の益田岩船(ますだのいわふね)を起点、日葉酢姫(ヒバスヒメ)陵を終点として盆地全体に陰陽の仕掛けを施し、時が満ちれば邪馬台国や大邪馬台国の真相を繙(ひもと)くことができるようにされた。これは、後の平城京遷都まで考慮された仕掛けだった。岩船は磐座と同義で、大地の神を表す。

 都介野岳も泊瀬山も、そして三輪山も人工の山だったが、卑弥呼の邪馬台国の都介野岳(つげのだけ)を影向する斎槻岳と、トヨの大邪馬台国の泊瀬山(はつせやま)を影向する巻向山(まきむくやま)は最初からあった自然の山だった。それを基準に、都介野岳、泊瀬山、三輪山を造った。巻向山と三輪山(と耳成山)の山頂が見事に直線上に並ぶのは、自然ではあり得ない。
 そして、三輪山の西から見て、春分・秋分や夏至、冬至の日の出の方向に、都介野岳や泊瀬山のような見えない隠国(こもりく)の神山が無いのは、三輪山信仰は都介野岳や泊瀬山信仰の氏族とは異なる氏族=秦氏のものである、という暗示なのである。

 仕掛けについては、すべてを説明するのは大変だが、要点だけ掻い摘むと、まずは位置決め。最も重要な都介野岳を通る完全な東西ラインを中心軸とする。このラインよりも南側が陽、北側が陰という陰陽の祭祀構造となる。神器で言えば、陽は鏡、陰は剣と勾玉である。南北ラインとしては、後の平城京の神山となる春日御蓋山(かすがみかさやま:三笠山)を通り、三輪山の麓がその南北ライン(B線)になるように三輪山の東西の位置は決める。そして、泊瀬山を通る南北ライン(A線)との幅(A線-B線間距離)とほぼ同等の幅でもう1つの南北ライン(C線)を決める。

 次に、東西ラインに対して泊瀬山と点対称の位置を長谷とし、長谷と都介野岳を結んだラインを直角に折り曲げてC線と交差した点が益田岩船となる。岩船は磐座と同義で、大地の神を表す。その岩船の上部には2つの穴があり、かつてはそこに天神が降臨する依り代である神籬(ひもろぎ)が立てられており、天地の陰陽合一を表す祭祀施設だった。その名残が、大和地方の農家で旧暦4月8日に行われていたテントバナ(天道花)というお祭りで、2本の高い棹(さお)を立てて天からの穀霊を迎え、山から神を迎えた。この日は、大兵主神社(だいひょうずじんじゃ)の例祭日でもある。

 また、同様に泊瀬山と都介野岳を結んだラインを直角に折り曲げてC線と交差した点が日葉酢姫陵(ひばすひめのみことりょう:佐紀陵山古墳)で、益田岩船と点対称の位置にある。日葉酢姫(ひばすひめ)は卑弥呼が投影された海部(あまべ)氏の巫女(みこ)であることを暗示しており、“氷羽州比売(ひばすひめ)”とも書くが、これは日輪の霊と海の霊を併せ持つ大変な意味を持った巫女王という意味である。
 その陵には他の古墳には見られない特徴がある。殉死を廃止して形象埴輪を陵に立てるようになった最初の陵である。

 その埴輪の中に蓋(きぬがさ)形のものが中央に1個、その東側と西側に各々4個、計9個が置かれていて、それぞれが高さ約1.5メートル、幅約2メートルという巨大なものである。蓋は“オオガサ”と言い、朝儀や祭会の時に貴人の頭上を高く覆う笠(かさ)、天蓋のことで、これを“キヌガサ”と読むのは、表と裏を絹で覆うからである。
 このような笠(かさ)は天と地を象徴する大きな笠なので、日葉酢姫陵(ひばすひめのみことりょう)は天と地の合一を象徴するものである。9個の“9”は最大の陽数で太陽神を象徴し、八角形の“8”は横向きにすると“∞”で“不老不死”を象徴するので、天を象徴する蓋がほぼ八角形に配置されていることは、太陽神の不老不死を暗示する。

 あるいは、ウツとイナンナでも良い。そうすると、その南端の岩船は大地の神が出現する磐座で、天神の依り代である神籬(ひもろぎ)を立てたとされるので、万物の生成発展を象徴化したものとして、日葉酢姫陵(ひばすひめりょう)と対応する。
 これが奈良盆地に展開する様々な古墳群や神社群の要となっている。そして、後には神籬(ひもろぎ)として「生命の樹」をシンボル化した十一面観音が天のラインであるA線に集中して置かれ、それは天神の依り代を象徴しているからに他ならない。まさに、奈良盆地に展開された巨大な地上絵である。
 このような基本構造だが、これでは三輪山が都介野岳(つげのだけ)や泊瀬山(はせやま)と関わっていない。そこで重要なのは、天照国照尊(あまてるくにてるのみこと)の分身としての鏡を祀り、草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を奉じて太陽神を祀っていたことを暗示している正一位という最高社格の八尾鏡作(やおかがみつくり)神社である。八尾鏡作(やおかがみつくり)神社の位置は重要で、仁徳・応神天皇陵などとも深い関わりを持っているが、ここは泊瀬山と斎槻岳を結んだライン上にある。

 ここから三輪山を望むと立春の日の出を拝め、二上山を望むと立春・立冬の落日を拝むことができ、かつ、雨乞いの竜王山はほぼ真東に位置する特異的な位置にある。
 泊瀬山と斎槻岳を結んだライン上で、三輪山を望むと立春の日の出を拝める場所として選ばれたのが八尾鏡作神社なのである。そして、八尾鏡作神社から泊瀬山-斎槻岳-八尾鏡作神社のラインを90度曲げ、三輪山から真西に伸ばしたラインとの交点を多(おお)神社とした。この多神社は、八尾鏡作神社に直結しているライン上にあるから、御神体としては鏡、祭神としては太陽神の天照国照尊(あまてるくにてるのみこと)となる。

 これは山立てという手法で位置関係を決定し、そのライン上の神を降ろしてくるというものである。山立てとは、海上の船から陸地に重なって見える2つの山頂(あるいは目印となるような木や構築物)などを適宜(てきぎ)選択し、これを真っ直ぐに見通すと、海上に1本のラインを設定したことになる。
 次に、このライン上の船から別の目標を定め、このラインとその目標との角度を記憶しておけば、いつでもその場所に船を進めることができる。これを山立てと言う。
 このようにして、近海の漁師たちは豊富な魚場を発見した時、山を立てて位置を記憶し、それが航海にも応用され、航海長のことも“山立て”と呼んだ。古墳群や神社群の配置は、この手法で行われている。その主な目的は、山の神をヤマトの平野に降ろすということである。つまり、古墳や神社の造営者は、海人族ということである。


 その多神社は(1つ上の地図では)C線からわずかにずれており、太陽神を祀るための剣が無い。そこで、C線と三輪山から真西に伸ばしたラインとの交点に姫皇子(ひめみこ)神社を置き、今度は(下の地図で)箸墓-斎槻岳-八王山のラインに着目すると、斎槻岳も八王山も雨乞いや水神に関係し、剣の象徴でもある。その八王山と姫皇子(ひめみこ)神社を結べば、姫皇子神社は八王山に直結しているライン上にあることになるので、御神体としては剣、祭神としては天照国照尊(あまてるくにてるのみこと)の陰の側面、豊受大神(天照大日孁尊之分身と表現)となり、神社名も“姫”を冠して陰であることを象徴している。
 そして、これら一直線に並ぶ2つの神社、多神社と姫皇子神社から真東に三輪山を遥拝すると、三輪山に太陽神を迎え、剣を奉じて祀る形態が完成する。三輪山は、このようにかなり間接的にしか泊瀬山と関連していないので、卑弥呼の邪馬台国、トヨの大邪馬台国とは血統的に異なる王統であることを暗示している。複雑な仕掛けである。

 多神社は正式には多坐弥志理都比古(おおにいますしりつひこ)神社で、延喜式(えんぎしき)では名神大社(みょうじんたいしゃ)という最高の社格であって、弥生前期以来の遺跡の中心にある最古級の社。この志理都比古(しりつひこ)とはシリツヒコノミコトで、この時代に高尾張(タカオハリベ)氏が分家し、イリネノキミが裏切った。
 この時代は、正史では景行天皇であるが、その景行天皇陵は(上の地図では)八王山-姫皇子神社のライン上に位置し、泊瀬山-斎槻岳-八尾鏡作神社のライン上にも位置しているが、これは三輪山と泊瀬山、都介野岳とを関係付けている。その印として、八王山-姫皇子神社のライン上に配置した古墳と、新たな遥拝(ようはい)の地である多坐弥志理都比古(おおにいますしりつひこ)神社がほぼ同時期に建造されたことと、その祭司の血統が徐福の系統の葛城氏=伊理泥王(いりねのみこ)の血統であることを暗示している。言い換えれば、シリツヒコノミコトに相当する天皇が景行天皇であって、この時代にイリネノキミが裏切ったことを暗示している。

 この配置に、そこまでの意味が隠されていた。更に、このラインは陰である剣を象徴するラインであると同時に、この陵の陽の部分である後円部が陽のラインである泊瀬山-鏡作神社のライン上にある。よって、景行天皇陵は陰陽・天神地祇の合一を象徴しているとても重要な陵である。秦氏にとって王権委譲の礎が成された時代の大王なので、とても重要なわけである。
 景行天皇は日葉酢姫(ひばすひめ)と垂仁天皇(すいにんてんのう) の子で、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の父とされ、妹に倭姫命(やまとひめのみこと)がいる。記紀でも、それほど重要な扱いである。そして、景行天皇陵が箸墓と泊瀬山の両方に結ばれていることにより、統一国家としての大邪馬台国に於いてトヨが祭祀を始めたことが、神宮の起源であることを暗示している。

 三輪山の神は、大物主神(おおものぬしのかみ)の子孫とされる大田田根子(おおたたねこ)に祀らせよ、という逸話があった。御神宝をめぐってイリネノキミの一族、つまり、出雲族の間で血の悲劇が起きたが、今までに、こんなことは起きなかった。よって神話で出雲系の神は、その子孫の一族が祖先の御霊を丁重にお祭りしなければならないのである。大田田根子(おおたたねこ)はその象徴的人物であって、名にも“大=多”が入っている。つまりそれが、暗示だった。

 また、(上の地図で)箸墓の後円部-泊瀬山という正確な東西ライン(太陽の道)を基準とした場合の、30度折れ曲がって泊瀬山から東殿塚古墳を経て八王子神社の東の春日社(別名・石上神社)に至るラインと、箸墓(はしはか)の前方部-桧原(ひばら)神社-泊瀬山のラインを基準とした場合の、30度折れ曲がって泊瀬山から西殿塚古墳を経て八王子神社に至るラインの角度差はわずか1 度だが、そこまで計算して配置されている。
 広大な地上図では、土地の起伏状態などを考慮すれば、1度という角度は誤差範囲である。だからこそ、わざわざ東殿塚・西殿塚両古墳を並べ、しかも、箸墓の前方部、後円部と分けて通過している点は相当意図的と言える。
 方角として象徴的に西は陰、箸墓の前方部は陰、八王子神社は陰なので、箸墓の前方部-桧原(ひばら)神社-泊瀬山-西殿塚古墳-八王子神社のラインはすべて陰の象徴となる。対して、方角として象徴的に東は陽、箸墓の後円部は陽、春日社は陽なので、箸墓の後円部-泊瀬山-東殿塚古墳-春日社のラインはすべて陽の象徴となり、それは更に春日社で90度曲げられて三笠山に達している。つまり、陰陽の区別が明確で、それぞれに展開する陰陽を、後の平城京となる所まで遷している意図が明らかなのである。
 そうなると、桧原(ひばら)神社は意図的に泊瀬山からの正確な東西線上に乗せなかった、ということになる。それは桧原(ひばら)神社が“陰”であることを暗示させるためでもある。

 桧原(ひばら)神社は陰のライン上にある。桧原(ひばら)神社は女神の天照大神とされている天照大神若御魂神(わかみたまのかみ)を祀り、太陽崇拝のはずなので陽だ、と思われている。しかし、大邪馬台国の時代には、箸墓から泊瀬山を遥拝するのはダンノダイラで、その手前に更に遥拝所がある必要は無いので、桧原(ひばら)神社は大和朝廷が泊瀬山から三輪山崇拝へと祭祀を変更した際に、謎を解く鍵として後から建造されたものである。
 その鍵とは、女神としての天照大神。ここで“天照大神とされている天照大神(あまてらすおおみかみ)若御魂神(わかみたまのかみ)”とは、秦氏の創作した女神の天照大神であることに注意しなければならず、そのモデルは卑弥呼。それが、“若御魂”として暗示されている。そして、秦氏の最も重要な神はイエスである。イエスは自らを“神の子”ではなく“人の子”と言っているので、神を天神と見なせば陽で、それに対して人は地で生まれるからイエスは陰となる。また、シンボルの十字架もカバラでは陰である。つまり、桧原(ひばら)神社は、初めて卑弥呼とイエスを重ねて祀った場所なのである。よって、元伊勢と言われるのである。

 そして、この時から正式に天神と地祇(ちぎ)が分祀されるようになった。それが、天照大神と倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)を宮中の外に移し、両大神を分祀した、という話に創り替えられた。ただし、この神社の場所が“笠縫宮”ではなく“笠縫邑(かさぬいむら)”となっているのは、完全な祭祀が行われたのではないことを暗示している。秦氏にとって元伊勢(内宮)が“宮”となっていないことは、イエスの御神体(十字架)が無かったからである。この時点では、まだ十字架は最初の到着地点である海部(あまべ)一族(エフライム族)のお社にあった。
 分祀(ぶんし)したとなると、三輪山の神は地祇(ちぎ)の大物主神(おおものぬし)で出雲族が祀り、秦氏は天神・天照大神を祀り始めたわけではない。本来の天神を祀ることができる一族は海部(あまべ)一族(エフライム族)に限られた。秦氏の祀るイエスは陰なので、天神に対する地祇(ちぎ)である。それを端的に表しているのが内宮の千木(ちぎ・鰹木"かつおぎ")で、あの内削(うちそ)ぎは地祇(ちぎ)を暗示する。そして対する外削(そとそ)ぎの外宮は天神である。だからこそ、外宮先祭とされ、太陽神祭祀の中心地は伊勢へと移動させられた。

 古代に於ける神祭りは、特定の血統の者にしか許されないので、卑弥呼亡き後に大混乱が生じたことからも明らかなように、祭神を変えたりすることは容易ではなかった。よって、以前の祭祀を踏襲(とうしゅう)しつつ、見かけは新たな祭祀へと変えていったわけである。
  つまり一見、太陽神の天照大神祭祀は秦氏が始めたように見えても、実は、秦氏は太陽神を祀れなかったということである。よって、ヤマトの地から伊勢の地に祀る場所を変え、太陽神の祭祀は海部(あまべ)一族(エフライム族)の中の度会氏(わたらいうじ)が引き受けた。
 そして、イエスも重ねられているので、そちらの祭祀は秦氏が受け持った。後に、神宮の祭司が度会氏(わたらいうじ)から秦氏の荒木田氏(あらきだうじ)へ変えられたのは、祭祀の中心を本来の太陽神から“彼らの太陽神”イエスへと変えるためだった。これは重み付けの違い、という点でだけである。
 イエスは地祇(ちぎ)なので、いくら人類の贖罪(しょくざい)を背負って十字架に掛けられて人類に対する光になったとは言え、完全な太陽神には成り得ない。よって、蛇神の要素を持って来た。光り輝く蛇神で太陽神的なのはケツァルコアトルことニンギシュジッダである。このような地上絵を仕掛けることのできる知恵の神も彼以外にいない。

 大神(おおみわ)神社もそうだが、桧原(ひばら)神社も三ツ鳥居で有名である。大神神社(おおみわ)拝殿奥の三ツ鳥居は、桧原(ひばら)神社の三ツ鳥居を暗示している。

 この三ツ鳥居を、(下の図の)三輪山の真南に位置する春日神社の位置に置くと、三輪山山頂は春分・秋分の、斎槻岳(大兵主神社)は夏至の、玉列(たまつら)神社は冬至の日の出を拝することができる。三輪山山頂を中心として、兵主(ひょうず)神社と玉列(たまつら)神社、春日神社と秉田(ひきた)神社は綺麗な菱形を形成する。
 兵主(ひょうず)神社は鏡を祀り、玉列(たまつら)神社は玉を祀り、三輪山の神は蛇神で剣に関係するので、三種の神器が揃う。また、春日神社付近はかつては岩田村と言い、“岩田”は大神(おおみわ)神社の“祝田(いわいた)=斎田”に由来し、これは大嘗祭(だいじょうさい)の主基田(すきでん)に相当する。この対称の位置にある秉田(ひきた)神社は、秉(へい)は禾束(かそく:稲の束)のこと故に神に奉げる稲束を作る地の社を意味し、悠紀田(ゆきでん)に相当する。“ひきた”は“ゆきた”が転訛したものである。

 三輪山山頂は、新帝(しんてい)が天神地祇(てんじんちぎ)と一夜を過ごして現人神となる大嘗宮(だいじょうきゅう)だった。よって、禁足地だった。そして、これらの配置は、次のように作図することができる。

1)斎槻岳aの南北ラインと八王子神社からの45度ラインとの交点を三輪山bとする。
2)斎槻岳の南北ラインを三輪山から南に延長する。
3)斎槻岳-三輪山の長さを半径とし、三輪山にコンパスの軸足を置いて円を描き、斎槻岳の南北ラインとの交点を玉列(たまつら)神社cとする。
4)斎槻岳a-玉列(たまつら)神社cの長さを半径とし、斎槻岳aにコンパスの軸足を置いて円を描く。
5)同様に、玉列神社c にコンパスの軸足を置いて円を描く。
6)4)と5)の2つの交点のうち、西側を春日神社d、東側を秉田(ひきた)神社eとする。

 この方法により、三輪山を囲う各神社は配置できる。すなわち、3つの円によって配置できるので“三輪”という字を充てられている。海部(あまべ)氏(エフライム族)、物部氏、秦氏の輪=和ということではなかったのである。
 他にも大和三山の配置などいろいろあるが、いずれも今言った配置が基本となっている。


三種の神器の制定と新たな歴史創り---------------------------------------------------------------------

 新たな国造りに於いて、三種の神器もまた新たに制定された。海部(あまべ)一族が持っていたアロンの杖、秦氏のフル(応神天皇)が持って来た十戒石板の入った契約の箱とマナの壺、そしてイエスの十字架である。
 これらをカモフラージュするものとして、息津鏡(おきつかがみ)・辺津鏡(へつかがみ)が八咫鏡、エフライム族の鉄剣が天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、糸魚川(いといがわ)産翡翠(ひすい)の勾玉が勾玉のオリジナルとされ、それぞれの写しが作られた。
 また、海部(あまべ)一族は王権委譲以前の段階から各地に移動し始めたが、丹後、東海地方の尾張、四国が彼らの三大拠点とされた。しかし、その歴史と真相は、物部氏の歴史と合わせて、時が来るまで封印されることとなり、新たな秦氏の神話と歴史創作が始まった。

 アロンの杖は元々あったが、ここに契約の箱とマナの壺が揃ったので、ユダヤの三種の神器が新たな三種の神器とされたわけである。アロンの杖は太陽神の依り代、勾玉は王権のある土地の象徴とされた。

 内宮では御神体は御船代(みふなしろ)に収められているが、船はラテン語でアーク。つまり、十戒石板が契約の箱アークに収められているという暗示である。これらは、元々同じ神殿の本殿にあるべきだが、時が来るまで分けられることとなった。
 最初の伊勢の地は預言者イザヤに因んだ伊雑宮(いざわのみや)。そこには、十字架も含めてすべてがあった。


 その後、新制伊勢神宮を建立するにあたり、神宮を内宮と外宮、伊雑宮に分祀し、内宮には十字架本体と契約の箱、外宮・多賀宮(たかのみや)にはマナの壺、伊雑宮(いざわのみや)には十字架上の罪状板が安置された。
 そして、勾玉は王権のある御所に、息津鏡(おきつかがみ)・辺津鏡(へつかがみ)は海部(あまべ)氏の手元に、アロンの杖と天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は海部(あまべ)一族(エフライム族)の兄弟分家である尾張氏の熱田神宮に預けられた。来るべき時に、アロンの杖は伊雑宮の心御柱(しんのみはしら)となるべく。

 神宮で最も重要なのは、御神体の鏡ではなく、心御柱(しんのみはしら)である。神宮の神職ですら、口にすることが憚(はばか)れるほど神聖なものである。別名が忌柱(いむはしら)、天御柱(アメノミハシラ)、天御量柱(あまのみはかりのはしら)で、地上に打ち込まれる心御柱はその代わりである。その大元はフェニキアのベテュルである。
 イザナギとイザナミの国生みでは、天御柱(アメノミハシラ)の周りを回って国造りが行われたので、それは、心御柱を中心として新たな国造りが行われたということである。

 天御柱(アメノミハシラ)はT字型十字架の縦の柱、忌柱(いむはしら)は横の柱。天御量柱(あまのみはかりのはしら)は青銅の蛇が掛けられたモーゼの旗竿である。すなわち、十字架を中心として、秦氏に依る新たな国造りが始まったという暗示である。
 十字架のシンボルはそのまま十字型。これは閉じた“吽(うん)”でもある。ならば、開いた“阿(あ)”は丸がシンボル。つまり、十字と丸で“阿吽(あうん)”となり、陰陽の合一も暗示する。これが、海神と地球、島津家のシンボルである。そして、十字は定規、丸はコンパスで描ける。つまりそれはフリーメイソンのシンボルである。四角も定規で描けることからすると、日の丸は大洪水のノアの息子セム、ハム、ヤフェとのうち、正統セム系フリーメイソンのシンボルそのものである。

 それを隠しながら堂々と示しているのが日の丸の国旗で、典型的なカバラの仕掛けである。
 更に、神宮では、正殿の西北に正中を外して心御柱が打ち込まれている。正中は最も重要な場所なので、そこをわざわざ外してある。外宮では東南方向の内宮を、内宮では東南方向の伊雑宮を暗示しているということである。

 最も重要な伊雑宮には罪状板がある。それはラテン語、ギリシャ語、アラム語の3言語でイエスの名が書かれている。イエスは秦氏にとって神の名である。
 宇宙の歴史からすると、生命体が物質を認識したり、自らと他を区別するためには、名が必要となった。それは単に、識別のためだけのものだった。
 しかし、ある時から、その名によって自我が芽生えた。私とあなたは違う、という。それが更に進んで、自らが大元の生命エネルギーの分身であることを忘れ、我己(がこ)となってしまった。いわゆるエゴの発生である。これはとりわけ、神を自らの外に求めることによって促進された。本来は、自己の中にも他の中にも等しく存在するはずなのにである。それを忘れ、単なる“万物の創造主”という観念に陥り、エゴを発達させてしまったのが、人類型生命体のなれの果て、つまり、人類である。
 イナンナのインダス文明では梵我一如(ぼんがいちにょ)、ギリシャではヘルメス思想があったので、本来は解っていたはずだが、アヌンナキはいつの間にか遺伝子操作して人類を創り上げ、自らを人類に対する神として振る舞うことにより、人類に大きなくびきを負わせた。むしろ、全宇宙的な宿命により、地球と人類を最終的な学びの場とさせられた。よって、地球=知球=知宮と命名されている。他の言語では、決してこの真理は解らない。
 つまり真相を知る者が、神の名をみだりに唱えないために、名を外した。よって神の名“在りて在る者”も同じことである。アヌンナキの中で、それに気付いた知恵者がいた。“在りて在る者”の象形文字が勾玉である。その勾玉と神器的に同等なのがマナの壺。海神の所で、勾玉が壺にくっついて離れなくなった話があったが、それは壺と勾玉が同一物扱いという暗示である。日本語では、“眞名”と言う字が充てられた。この“眞”の字は、人が首を下向きにしている状態を象ったもので、“顛(てん:逆さま)”の原字である。
 つまり、この世の物質世界では「生命の樹」を下降することになり、更に名を唱えることによってエゴが発生し、嫌がおうにも「生命の樹」を鏡像反転した「死の樹」を下降してしまうことになる。
 現在はこの真意が封じられている壺=井戸のような状態なので“眞名井”であり、故に、名が外された伊雑宮と表裏一体となり、神宮の鳥居は額束(がくづか)の無い名が外された神明(=神名)鳥居となる。言い換えれば、“名”とは両刃の剣のようなもので、よって、剣も神器とされた。エゴを断ち切るという意味も込められて。

 そして、「生命の樹」の3本柱はシンボル化されて三つ巴となった。二つ巴では陰陽のバランスが取れているだけで、上昇も下降もしない。三つ巴となって、ようやく螺旋状に上昇(進化)・下降(退化)する。本来は上昇すべきだが、下降してしまっているので、それを食い止めるためにもう1つ必要となる。それがメルカバーで、神宮の御紋である。つまり、降臨に依ってようやく覚醒=完成するということである。


 “鏡=かがみ”も“かみ”の中に“我”があるので、自分自身を見つめて気付きなさい、ということ。反物質はCP対称性の破れにより消滅してこの世界は物質で満たされ、鏡の鏡像反転は放射性物質のベータ崩壊などを除く物質世界の基本原理。よって、鏡像反転した「合わせ鏡」の“自分”は“神”そのものということである。
 そういったことを暗示できるように、日本語は創られた。狭い国土の中で争いが起きないよう、シュメールの文法をベースとして日本語が創られたが、他の言語とは違って、主語を前面に出さない。これは、“個”を中心とすると必然的にエゴが強くなってしまうので、それを抑制するためである。
 また、日本語は創造のエネルギーの波動に最も共鳴しやすい言語で、故に、言霊という信仰が古代から発展した。悪いことを口にすると、それが現実化するから、できる限りそのような言葉は避けられるようになったわけである。

 そして、海部(あまべ)一族(エフライム族)の中で最初に四国へ渡ったのは、オヌイノミコトの時代の安波夜別命(アワヨワケノミコト)である。“阿波”という地名は、このミコト由来である。当然、阿波忌部氏(あわいんべうじ)はこの系統である。大嘗祭(だいじょうさい)の麁服(あらたえ)を紡(つむ)ぐ三木一族である。
 この一族が栽培した麻から作られた麻布でしか、この麁服(あらたえ)を作ることは許されていない。麻はニビル由来なので、神事で使う大麻(たいま、おおぬさ)は特定の氏族しか触れない。
 つまり王権委譲後の海部(あまべ)一族(エフライム族)の本体は丹後、兄弟分家の尾張氏は尾張、そして、アワヨワケノミコトの末裔は四国ということになる。尾張は熱田神宮だが、四国は大山祇(おおやまづみ)神社である。山の神でもあり海の神でもあるから、いわば地祇(ちぎ)の中の地祇で、娘のコノハナサクヤヒメは不老不死の霊峰、富士山の守護神である。よって、丹後では豊受大神=イナンナ、伊勢では天照大神=ウツ、四国では大山祇神=エンキという構造となる。
 邪馬台国では神殿はすべて東西向きだったが、秦氏がすべて南北に変えた。南から見ると、真中がイナンナ、向かって右がウツ、左がエンキとなるので、イザナギの顔がこちらに向いているなら、左目が天照大神=ウツ、鼻がスサノオ=イナンナ、右目が月読尊=エンキとなって、ぴったりである。つまりイザナギの顔から生まれた三貴神とは、この事を暗示していたのである。つまり、このように分けさせたのは、新制日本神話を創り出した秦氏ということの暗示でもある。

 本来の皇統である海部(あまべ)一族(エフライム族)は位を下げられ、神話では反抗者や鬼などの異形の者として描かれるようになってしまった。しかし、完全に封印されることは無かった。完全に封印すれば、“その時”になっても何も解らなくなってしまう。
 しかしながら、その扱いはすんなり従った出雲族と比べても酷いものであった。最高神はウシトラノコンジンとして封印され、系図は相当改竄された。系図は訳が分からなくなった。元の系図に物部各氏の系図を入れ込むだけではなく、ある大王の時代は省いたり、移動させたりして大混乱した。それが初代~第15代・応神天皇までの系図である。
 いろいろな変遷過程がゴチャ混ぜにされ、それぞれが伝承されてしまったので、例えばある天皇の御名(ぎょめい)で見た場合、それがA大王でもありC大王でもあって、よってA=Cなどという事態が発生してしまった。いわゆる“多次元同時”なのだが、これはこのような系図改竄が最も影響している。
 そして、これだけではなく、天照国照尊(あまてるくにてるのみこと)にニギハヤヒ=徐福、彦火明尊(ヒコホアカリノミコト)、櫛玉神(くしたまのかみ)をまとめてしまったことも影響している。
 基本は海部(あまべ)一族(エフライム族)の系図である。それを軸とすれば間違うことは無い。あと、系図の操作では年代操作のカラクリがある。
 記紀には卑弥呼もトヨも登場しない。唯一、日本書紀の一書で“神功皇后が卑弥呼かもしれない”とは言っているものの。それは暗に、卑弥呼がれっきとした皇統の祖だが、直系ではないということを示している。神話を創作している秦氏自身の直接の先祖ではないので、堂々と神話に盛り込むことはできなかった。そこで、初代天皇を自らの出自に合うように合わせ込み、それ以前の系図に於ける人物を移動させることにより、国家の総氏神(そううじがみ)たる内宮の創祀を古くしたというわけである。

 本当の神宮の創祀について、注目すべきは、いずれも丁巳(ひのとみ)の年に遷宮や豊受大神(とようけのおおみかみ)御遷座(ごせんざ)のお告げが成されていることである。特にAD297年は、トヨが還暦を迎えた年でもある。還暦とは、60年を一巡りとする考えで、60年を1つの年の単位とする1元と同じ。そして、AD297年丁巳(ひのとみ)から5元=300年遡(さかのぼ)らせると垂仁26年(BC4年)丁巳(ひのとみ)の年となり、内宮(ないぐう)御鎮座(ごちんざ)の年となる。“60”はシュメールの基本数で、大神アヌの象徴でもある。そして、“5”は知恵の象徴なので、まさしくシュメールの真相を知る知恵が無ければ、このような謎を解くことはできない。
 神武即位をBC660年に遡らせることに合わせて、トヨが祭祀を司っていた時代も繰り上げられた。そして、トヨが神祭りする姿は倭姫命(やまとひめのみこと)に投影された。実際に神宮が建立されたのは、本来の最高神である豊受大神と、秦氏が創り上げた女神の天照大神を同時に祀ることにより、新たな国家の神祭りが始まった時期で、それは、倭姫命(やまとひめのみこと)世紀に記載されている外宮遷宮の宣託(せんたく)があった雄略21年丁巳(ひのとみ)の年(AD477年)である。
 そして、この年から8元=480年遡らせたBC4年の丁巳(ひのとみ)の年を、内宮遷座の年とされた。“8”の意味は、これまで述べてきた通りである。
 系図のカラクリが神宮創祀まで関わっていたので、表にはなかなか出されなかったわけである。このように、秦氏は海部(あまべ)一族(エフライム族)の歴史を封印しながら、自らの歴史を創り上げていった。そして、本来の天神族である神族=カム族=賀茂族=海部(あまべ)一族(エフライム族)を乗っ取って鴨族と名乗った。
 また、徐福一団=物部氏は容易に改宗して秦氏となった。そして、原始キリスト教徒の秦氏が徐福縁の地に赴き、同じ“秦”を冠する始皇帝に縁を関連付け、徐福が求めた“不老不死”をイエスの“復活”と重ねた。こういったことがあり、秦氏の話になると様々な混乱が発生する。
 その徐福系、特に中枢に居た葛城氏は蘇我氏に姿を変え、外戚として天皇家を守ってきた。蘇我氏は物部氏と対決していたわけではなく、最後まで抵抗していた海部(あまべ)一族(エフライム族)を隠している。
 しかし、やはり一族の中には反発する者も多く、最大の争いに発展したのが、秦氏系の天智天皇と海部(あまべ)一族(エフライム族)の天武天皇の間で繰り広げられた壬申の乱である。この2人は兄弟ではなかった。

 不比等が命じて作らせた日本書紀には、大海人皇子(おおあまのおうじ)が天武天皇となるきっかけとなった壬申の乱に於ける尾張氏の活躍を黙殺していて、海部(あまべ)一族(エフライム族)の真相を隠している。それに、天武系天皇は皇室の京都市東山の菩提寺(ぼだいじ)・泉湧寺(せんにゅうじ)で祀られておらず、平安時代、天武系の天皇陵に対しては奉幣(ほうへい)の儀も行われていない。これなども、海部(あまべ)一族(エフライム族)の血を引く天武系天皇と、天武系と婚姻関係を結んでいた天皇が無視されていることの一例なのである。

 天武系(エフライム族)男系の最後の天皇、聖武天皇は藤原氏に抵抗し、東大寺に行幸して大仏に北面して頭を垂れた。これは、不比等らが創作した新生・中臣神道を否定したことを象徴している。単に、仏教を認めたということではなかったのである。仏教は真相を隠すための隠れ蓑である。エジプトでは蓮華、中東ではロゼッタでいずれもイナンナのシンボルだが、それが日本では菊となった。その理由は、草冠=“艸”は「合わせ鏡」の絶対三神を象徴する。その下は勾玉でも登場した「勹」と「米」。「米」は日本で最も重要な物で、分解すると「八十八」、そして「匊(きく)」の画数は8画なので、合わせて“888”となる。ギリシャ語で“キリスト”のゲマトリアとしては“888”なので、「匊(きく)」という字でイエスの象徴となり、これは当然、イナンナをも暗示している。つまり、漢字のカバラから“菊”としたわけである。
 皇室の十六弁八重表菊紋は、菊の御紋にして菊の花に非ず。後の歴史も同様である。海部(あまべ)一族(エフライム族)系が台頭してくると潰された。頼朝、信長、秀吉、島津氏などなど。以後、預言されし降臨があるまでは、秦氏が取り仕切ることとなったのである。その秦氏の中核は、名も無く戸籍も無い状態で、歴史の闇に隠れた。その組織は八咫烏と命名され、その使いなどは烏天狗(からすてんぐ)などと言われた。そして、山の祭祀には山の民が必要なので、縄文系のサンカと共に、山の修験者となった者達も多い。他に、忍者や虚無僧(こむそう)、渡りの旅芸人なども秦氏の諜報活動家である。


■282年頃

秦氏(はたうじ)、忌部(いんべ)、漢波羅(かんぱら)----------------------------------------------------

 忌部(いんべ)は秦氏であり、秦氏には色々な職業、家系がある。例えば、政治関係を担当する秦氏は藤原家、経済担当は三井家、武家担当には源平等がある。彼らはイスラエルからやってきたユダヤ人の子孫である。三井家は神宮遷宮時の費用を捻出していた。


 秦氏はやがて改名して歴史から姿を消す。役割分担をはっきりさせると共に国体の護持の為に秦氏は改名した。忌部は秦氏の中でも祭祀を専門に担ってきた。忌部は秦氏の中で祭祀を職に持つ者で、忌部は秦氏と同族である。しかし忌部は物部に祖がある。物部氏の中でも祭祀を担当する祖先が、後に神武天皇と共に渡来した秦氏と婚姻を結び、秦氏としての忌部がある。秦氏系忌部は神宮、熱田、諏訪、宇佐、高良等の大社の祭祀をしている。しかし物部系忌部は出雲、伊雑(いざわ)、籠、石上、大神神社等の古社の祭祀をしている。祭祀支族の太祖に、天細女命(あまのうずめのみこと)、天児屋命(あめのこやねのみこと)、天太玉命(あめのふとだまのみこと)などがある。天細女命は猿女氏(さるめうじ)、天児屋命は中臣氏、天太玉命は忌部の太祖である。

 記紀の奥義の一つに、全ての神道祭祀が開始されたのは、天岩戸開き神話からとある。天岩戸開き神話において、祭祀の中心は天児屋命、天太玉命である。天児屋命が太祝詞言(ふとのりとごと)を奏上(そうじょう)し、天太玉命が五百津真賢木(イオツマサカキ)に鏡、勾玉(まがたま)を飾り付けた。この時の祭祀が神道祭祀の始まりである。

 天児屋命の子孫、中臣氏の「中臣」は、神と人の間という意味がある。中臣氏の中でも政治に必要な行事の亀ト(きぼく)を専門に行うものをト部氏(うらべうじ)という。現在、広く知られている神宮、宮廷祭祀を担当するのはこの中臣氏である。後に中臣氏の中で政治を担当する者は藤原と名乗った。この藤原氏の中で一般向けの祭祀を行う者は斎藤と名乗る。天太玉命の子孫である忌部は、神器を直接扱う事が赦された者である。天太玉命の太祖は高皇産霊神(タカミムスヒノカミ)であり、その娘である万幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)が生んだ子である。天太玉命には5人の配下が存在し、それぞれが天太玉命とは別に忌部の祖となった。阿波忌部(あわいんべ)の祖「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」、讃岐忌部(さぬきいんべ)の祖「手置帆負命(たおきほおひのみこと)」、紀伊忌部の祖「彦狭知命(ひこさしりのみこと)」、出雲忌部の祖「櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)」、筑紫・伊勢忌部の祖「天目一筒命(あめのまひとつのかみ)」、安房忌部(あわいんべ)の祖は「天富命(あめのとみのみこと)」である。

 賀茂氏は忌部の中でも最高の祭祀支族である。大祭司は賀茂氏であり、忌部の中の忌部である。よって、賀茂氏も秦氏である。神宮の祭祀は中臣氏であるが、それは表の儀式で、陰陽道は裏表がある。裏の祭祀で神宮の心御柱(しんのみはしら)を直接奉斎(ほうさい)するのは賀茂氏。賀茂氏の中でも天皇陛下直属の賀茂氏は、戸籍と姓名が無い。戸籍の無き賀茂氏は「漢波羅(カンパラ)」や「八咫烏(やたがらす)」と呼ぶ。表の陰陽師(おんみょうじ)を陰陽師、裏の陰陽師を漢波羅と申す。この漢波羅が神道奥義を握っている。

 賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)の祭神の、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は八咫烏の化身であり、神武東征に際し、太陽神天照大神と高木神(たかぎのかみ)の令をうけ、金鵄(きんし/金色のトビ。八咫烏とも)に化身して神武天皇を先導した。その八咫烏を祖とするのが賀茂氏、すなわち鴨氏である。

 表神道の頂点は伊勢神宮で、裏神道の頂点は賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)であり、ここは漢波羅の活動拠点となっている。


■310年

 奥州の荒吐族(あらばきぞく)が大挙して大和へ迫ったので、天皇空位が2年間に及んだ。

東日流外三郡誌

■312年

 312年にローマの将軍コンスタンティンは、この異教化されたキリスト教に改宗したと宣言した。戦場への途上、彼は天に十字架を見たと主張した。この十字架に従い彼は戦闘に勝ち、イエス・キリストの為に勝利したと主張したのであった。コンスタンティンが権力を手中に収めると、彼はアポロ神を崇拝していたのにも係わらず、自分はクリスチャンであると宣言した。その後に造られた貨幣にも彼の周囲には太陽神の象徴が描かれている。バチカンにある下記の絵にはコンスタンティンが当時のローマ司教に帝国の政治権力を表わしている法令書を手渡している様子が描かれている。

 この出来事と関連しているかどうかは別にして、この頃からローマの司教が、全キリスト教会を支配するようになった。ローマ・カトリック教会がローマの国に政治権力も持つようになった。その頃実際に何が起こったのか。それは貴族の目に、キリスト教を極めて権力的なものに見せつけるため、祭司たちは異教のカルトで用いられた衣服や飾りを身に着けるようになった。そういうわけで、キリスト教徒は第一に、キリスト教のものではない祭司制度を取り入れ、これらの祭司らの衣服を取り入れた。今日人々が見かける司祭たちの衣服は、まぎれもなく異教の祭司服なのである。


キリスト教に見る異教礼拝-------------------------------------------------------------------------------

 キリスト教に見る異教礼拝教会はこのような異教の儀式を覆い隠すためには何でも行ったが、これらの儀式をあるクリスチャン聖徒たちの名にすり替えて、続けさせるのを許していた。こうして教会は異教の神々を取り入れ、それらにキリスト教徒の名を付けたのであった。今日キリスト教会に於いて、人々が目にする像の多くは、もともと異教徒たちが伏し拝み、犠牲を捧げていた異教の神々であった。

「教会の指導者たちは、初期の頃から悪の感染に抵抗し、悪魔崇拝に用いられていた器具や付属物を伝道に使用する為、キリスト教の力に託し、必要が起れば大衆の儀式や習慣を取り入れる真似をする、または是認する準備が出来ていた」
(キリスト教教義の発展372頁)。

 つまり、今日のキリスト教会の儀式はもともと異教のものであり、そのことは教会自身が認めている。

 前述の例は、より重要な太陽の祭りを挙げているだけだったが、これら異教の産物は現在でも同様の力を振っていることは明らかである。そしてキリスト教を表面に出しながら多くの場合、実際には異教の儀式を取り入れて行っている。これらの儀式が始まった起源に注意が向けられない為、これら異教の趣旨は単に見失われているだけにすぎない。この異教の浸透はあまりにも大きい為、キリスト教はミトラ教(古代ペルシャの宗教)の宗派と化してしまった。ミトラ教はローマでキリスト教が設立された当時、ローマの国教であった。明らかに日曜礼拝やミサで聖餅を食べると言ったミトラ教の名残がその頃キリスト教に取り入れられたと言える。ミトラ崇拝は占星術の一種であり、太陽神と自然の神々を拝む神秘宗教であった。
 要するに太陽礼拝は象徴的に、今日キリスト教会が祝っている大きな祭典の真髄そのものを信徒に語っており、これら異教の名残は、その神聖な儀式という媒体を通して、興味深いことに、それらの霊とは完全に対立するはずの習慣や信条と非常にうまく混ざり合ってしまったのである。


ローマ教会内に見る性的シンボル------------------------------------------------------------------------

 世の学者や歴史家たち、また教会の指導者らが自らローマのキリスト教は事実上キリスト教を装った異教の偶像礼拝であるのを認めている。異教世界の象徴がキリスト教会に取り入れられ、連盟によって是認されたと主張している。各時代の密教という本の中に「それでも、十字架そのものが男根崇拝の象徴の最も古いものであり、大聖堂の菱形(ひしがた)の窓はヨーニ(女性器)の象徴が異教神秘の破壊の中で生き残ったことの証拠である。

 教会組織自体に性的シンボル、または男根崇拝が浸透している。キリスト教会から全ての男根の、または性的起源から来る象徴を取り除いたら何も残らないとある。今日キリスト教会を見てみると、床やアーチやドームばかりであり、それらは生々しい性的シンボルを拝む異教に他ならない。教会の尖塔(せんとう)や中庭などは全て性的シンボルを崇拝する概念を反映している。

 原始キリスト教会の狂信者らが、異教をキリスト教化しようと試みた時、異教の創始者らはキリスト教を異教化する為、ただならぬ力の入れようでそれに応えた。キリスト教は敗れ、異教が成功を収めた。異教の衰退と共に、異教の創始者らは、彼らの運動の土台を原始キリスト教という新しい乗り物に乗り換え、常に賢者の計り知れない所有物であった永遠の真理を覆い隠すために、新しいカルトのシンボルを取り入れた。こうしてキリスト教はまさしく当時異教の指導者であった者たちの希望となったのであった。今やキリスト教徒を名のる異教徒たちが主導権を握った。

 キリスト教が全くの悪魔崇拝となってしまった。異教世界の犠牲制度や礼拝を見廻してみると、この礼拝はサタンとその手下どもに捧げられているのが分かる。キリスト教が同じ礼拝形式を取り入れるということは、事実上同様の権威に服していることなのである。太陽崇拝と一般キリスト教を比較してみると、今日全く類似していることが分かる。太陽の出生は(アヌンナキの)タンムズの誕生日である12月25日となっており、今日クリスマスと呼ばれている。6月24日に行われた夏至の祭りは、今日聖ヨハネ祭と呼ばれていて、異教の女神となったセミラミス(イナンナ)の被昇天は、今日聖母マリヤ被昇天の祝日となっている。聖母である女神が崇拝され、天の女王という称号が付けられた。そして今日、処女マリヤにも同じ称号が与えられている。女神に捧げられ、装飾された薄くて平たいパンには、T型の十字が刻まれている。今日教会では熱い十字の丸いパンと呼ばれている。タンムズの為になされた40日間の断食と嘆きは、今日キリスト教会で四旬節(しじゅんせつ)と呼ばれているものである。イースターの祭りは今でもイースターと呼ばれているが、もともとはタンムズの復活を祝っていたものであった。聖週間になされた刻んだ像の行列は、今日イエスやマリヤやペテロ、またその他の聖徒たちを刻んだ像の行列となっている。寺院における、イシュタール(イナンナ)やタンムズの崇敬は、今日イエス、マリヤ、またその他の聖徒たちを刻んだ像の崇敬となっている。

 霊魂不滅と地獄の信条は、何千年もの間異教徒に引き継がれてきた。煉獄(れんごく)の教理はギリシャ哲学で言う、浄化の概念から拝借したものであった。死者が生きている人に現れると言う信条もあった。11月に行われたこの祭りは、今日キリスト教でも霊魂の日として祀られている。それがハロウィンなのである。祭壇の前で線香を焚くという概念は異教からのものであった。チャント(詠唱歌)や反復の祈り、数珠(じゅず)は現在教会でロザリオと呼ばれている。十字架のシンボルはもともと太陽そしてサタンの象徴であったが、今日キリスト教会に於いて、礼拝の対象となっている。お守りは異教徒が霊を追い払う為、身に着けていたものであった。今日クリスチャンは十字架をお守りとして身に着けている。

 聖餅(せいへい)の周りの I H S は、イシスとホラス、セブを象徴しており、エジプトに於いて霊魂をなだめるために食べていた。現在教会で聖餐(せいさん)のパンとなっている。頭の周囲にある太陽の輝きを描いた子供と母親の絵は、現在東方のカトリック教会に於いて、イコンと呼ばれている。幼児洗礼、滴礼(てきれい)などは全て異教からであった。口寄せ、死者に語りかけるという概念が神秘キリスト教や、今日のキリスト教会に於いては、奇跡のひとつとされている。主の第一日目である日曜日は、全ての文化に於いて太陽神を崇めるために守られていた。今日、キリスト教会もその日を遵守している。


異教とカトリック教の共通点-----------------------------------------------------------------------------

 異教に於いて最高位の神の名称であった、ポンティフェス・マキシムスという言葉が、現在ローマ法王の名として、キリスト教会に於いても用いられている。ヤヌスとシビルはかつて小アジア(アナトリア:現トルコ)に於いて、天地の鍵を持つ者として崇められていたが、現在ローマ法王は、同様の鍵を持っていると主張している。王なる大祭司が、王座に担がれて神々の宮殿へ行くという概念は、ローマ法王が、聖ペテロ寺院(サン・ピエトロ大聖堂)に行く時に携帯王座に担がれて行くのに変わっている。異教の王なる大祭司は、太陽神の生まれ変わり、天の神の代表者とされていた。法王は自らを神の代弁者であると主張している。神々をなだめる為に捧げ物がなされていた。これらの概念が教会に於いて難行苦行や免罪符という形で引き継がれた。

 古くから売春婦や女祭司の宿が存在していた。今日教会は修道院を設けてその概念を引き継いでいる。そして、太陽崇拝が行われた各時代を通じて、太陽神の敵が生贄・人身御供として捧げられた。宗教裁判に於いて、5000万人以上の人々が殺害されたと言われている。多くの生命が奪われたのであった。

 ローマに於けるこのようなキリスト教の形をとったカルトと、ヒンズー教を比較してみると、ここでも多くの類似点が見られる。

①ローマ教に於いて聖書は、一般信徒から遠のけられ、分かりにくい言葉遣いで記されていた。そして、司祭だけが聖書を理解できると考えられていた。ヒンズー教に於いて、祭司だけがベーダ(インド最古の宗教文献)を理解できると考えられ、ベーダは一般民衆から遠のけられた。

 ②ロザリオ・数珠の使用はヒンズー教で見られる。

③贖罪(しょくざい)の苦行の概念もヒンズー教にある。

④死人の為に捧げる祈りもヒンズー教にある。

⑤全聖徒の日に灯される蝋燭(ろうそく)は、ヒンズーに於いてディマリの祭に見られる。

⑥キリスト教会で重んじられている聖徒の亡なきがら骸は、2000年前ヒンズー教に於いて、礼拝の対象として重んじられていた。

⑦ローマ教もヒンズー同様、夜通し起きて死体の番をする。

⑧死人、または墓の周りで、蝋燭(ろうそく)を燃やすこともヒンズー教は行う。

⑨聖堂の灯はヒンズーの寺院でも、カトリック教会でも見られる。教会に於いて聖徒の前で灯される蝋燭(ろうそく)は、ヒンズーで何千年もの間守られてきたものであった。

⑩ヨーロッパや今日カトリック世界で見られる宮参りの巡礼は、ヒンズーの世界でも同様に見られる。

⑪キリスト教会で棺の中にシュロの葉を聖なる葉として置くしきたりは、ヒンズー教に於いても聖なる草が同様の目的を果たしている。

⑫ローマ・カトリック教に於いて、マドンナ、聖母とその幼児が天の女王、そして神の子として崇拝されている。ヒンズー教ではナンクリヤとリバ、女神であり天の女王、そしてその長男インカ、天の王が崇拝されていた。

⑬キリスト教の修道女と、ヒンズー教の尼僧を比較してみると、あらゆる点に於いて、酷似しているのが分かる。

 キリスト教はヒンズー教と同じなのか?ローマのキリスト教がヒンズー教なのである。ローマのキリスト教は太陽崇拝である。そして異教の儀式は、今日でも続けられているのである。大聖堂で行われる礼拝に行ってみると、様々な祝典を目の当たりにする。そこで行われている礼拝式は、まさしく古代シナルの平野で始まった、バビロン形式の礼拝なのである。


性器崇拝------------------------------------------------------------------------------------------------------

 教会は、異教の偶像礼拝にどれほどはまり込んでしまっているのか。イギリス生まれのリチャード・ペインナイト(1750年 – 1824年)の「性的シンボリズム」という本によると、南イタリアの教会では、18世紀になっても、聖コスモの偶像に捧げる為の、性的シンボルを教会に持って来るよう、信徒に勧めていたそうである。南フランスでは、性器の彫刻が人々に見えるよう教会のドアの上に置かれていたのが発見された。この礼拝の驚くべき部分は、南フランスに於けるプリアプスの礼拝、すなわち男性生殖器の神の礼拝であった。そこでは性の神が礼拝堂に聖徒の名で像として置かれ、若い女性たちはその像に純潔を捧げさせられたのであった。

 こういった男根崇拝、性器崇拝が現在も引き継がれており、イルミナティがマスメディアを使って、人々にミュージックビデオや映画などから気づかぬうちに刷り込みを行っている。



666のシンボル----------------------------------------------------------------------------------------------

 異教ローマの崩壊後、登場した権力はローマ教会であった。これは過去の異教の特徴を取り入れたローマ・カトリック教会なのである。バビロンの教えと、「666」のシステムが教会中にはびこっていることを証明する方法は沢山ある。古代バビロンは今日、荒廃しきっている。メソポタミア地方は荒野と化した。
 大英博物館にあるメソポタミアからの巨大な境界石には、五つの太陽の象徴が描かれている。事実、中東近辺で発見される全ての境界石には、太陽、月、星の神々のシンボルが描かれている。明らかにこれらのシンボルの意味合いは、今日でも変わっていない。しかし、一般民衆に伝えられる意味合いは、時代を通じて変化していった。

 下記の画像の「6」という数字は、神、グノーシス、繁殖、幾何学、そして山羊(Goat)の頭文字である「G」によって、また多くの異なる方法で表わすことが出来る。「S・O・V・U」はどれも蛇の象徴であった。「3・4・7・8・10」は宇宙パワーを代表する数字として用いられた。「↑」(矢)、「✚」(十字)、「十字の中の円」、「聖痕」(十字架にかけられたキリストの傷に似た傷跡)、また「1」は、どれも自然の性の神が持つ繁殖力を象徴していた。次の列は、巨大な七つの頭を持つ龍、大いなる「666」のパワーを象徴していた。そして次の列で、ヘブル語の「S(エス)」は三位一体を象徴する三叉の矛(ほこ)を意味していた。「☆(ペンタグラム)」は自然の力を表わしていた。一方の角を上に向けるとそれは黄道帯の上の部屋を表わした。下に向けると、黄道帯の下の部屋を表わしていた。正三角形が二つ重なって、「六角の星形(✡)」になると、それは自然の繁殖力を象徴し、また魔術では悪の星となった。

 これらは皆同じものを象徴していた。オカルト(神秘教)の祭司等は、彼らの周囲や自然にみなぎる一神教的なある力を信じていたが、彼らは民衆に迷信的恐怖を植え付ける為、多神教を説いていた。祭司等はこれら憐れな民衆の生活を様々な神話や、神々のシンボルでもって、がんじがらめにしたのであった。神々の象徴の中で、最高位にあったのが太陽だった。太陽は全ての生命と健康の源として表わされている。金は黄泉の国において太陽神を反映するものと信じられていたので、神聖視されていた。この神聖な金が異教の寺院建築に用いられ、神々の像にメッキされたのであった。教会が異教に取って代わって支配権を握った時、教会もまた金を取り入れた。今日大聖堂や様々な教会を見てみると、金がいたるところに見られる。教会はまさに金の宝庫である。像や建造物も金である。カトリック教会は世界で他のどの機関よりも多くの金を所有している。


カルバリを示してはいない十字架------------------------------------------------------------------------

 古代人が目を細めて太陽を眺めてみると、瞼(まぶた)の中で太陽は十字の形に見えた。こうして「十字形」が最初の太陽の記号、あるいはシンボルとなった(十字はアヌンナキにとってはニビルの象徴)。大英博物館にあるメソポタミア時代の境界石にもそれが見られる。紀元前3000年頃の円筒印章や異教世界で使用された貨幣にも世界中で十字形が見られた。この封印には円と十字形の結合が見られる。この男女の結合を表わすシンボルはアフリカで多産の象徴として取り入れられた。
 エジプトでは「アンク十字」が不死身のシンボルであった。エジプトのコプト文化においては、背教した教会がその教理の象徴として異教のシンボルを取り入れた。それが初めて教会に取り入れられた時、もともとカルバリの十字架との関連は全くなかった。

 異教の神の十字形はあらゆる形で教会に取り入れられた。そして今日、これらの十字形や様々な異教のシンボルは教会の祭壇、建築物にも見られ、十字形は教会に於いて、礼拝の主要な対象となっている。お守りとして首にもかけられている。司祭たちはイニシエーション(秘伝の伝授、入団式)に於いて、十字の形をとって床に横たわる。他には二重の十字形がある。古代バビロニアの太陽神シャマシュ(アヌンナキのウツ。別の意味ではイナンナの象徴)の象徴である。


 メソポタミアのいたるところで、それが象徴として用いられていた。ギリシャの貨幣にも描かれている。そしてそれがローマの聖ペテロ寺院(バチカンのサン・ピエトロ大聖堂)の床にも描かれている。この二重十字は教会のいたる所で見られる。


太陽神の象徴である車輪-----------------------------------------------------------------------------------

 他には太陽神の象徴として、車輪、または車輪の中の車輪がある。それはアポロの戦車やアッシリアの太陽神に描かれている。

 オシリスの目であるエジプトの神ハトホルは、ちょうどインドのコナーラクの車輪のようである。そこの寺院でもいたる所に車輪がある。この仏教の太陽を表わす車輪は、タイでも見つかっている。

 ペルシャの太陽車輪、ギリシャの太陽車輪、そしてローマ司祭の神酒杯(みきはい)にもローマ神の太陽車輪が描かれている。

 1963年テカルでも神酒杯(みきはい)は発見された。車輪の中に車輪がある。二重の十字架に気付くことができる。真ん中には単一の十字があり、それは世界最大の輪である、ちょうど聖ペテロ寺院にある車輪のような完全な形を留めた太陽の輪である。

 太陽の輪は今日、教会中至るところで見られる。天井にも、床にも。ここには輪を持っている司祭と、輪を持っているマリヤの絵がある。

 東洋には生命の輪というのがあり、仏教から来たものである。宇宙の三局面の力を表わしている。仏教の広告や彼らの作品に於いてそれが見られる。


太陽のシンボル----------------------------------------------------------------------------------------------

 ロンドンにあるこの神道神社では、「6」が三つ合わさった形からなっている太陽の絵がある。神社からほんの少し歩くと、ウェストミンスター大聖堂がある。チャペルの床には同じ東洋から来た太陽の輪がある。「6」が三つ合わさっている。ソルあるいは太陽神は世界中で拝まれていた。

 ローマだけでなくギリシャも太陽の霊を象徴する顔の絵がある。ギリシャの寺院ではアポロ神が祀られている。曲線と波線が男女の結合を表わしている。

 これと全く同じ象徴物がカトリックの祭壇に見られる。スカンジナビアとイエズス会チャペルの講壇にも見られる。

 ブルゴ寺院では祭壇上で太陽がイエスの後ろから見つめている絵がある。また、ローマの聖ペテロ寺院の天井では、太陽の顔が天井から見下ろしている。他の教会ではドームの頂上と床に太陽が描かれている。今日キリスト教会に於いて、太陽はいたる所に見られる。

 下記の画像の心臓からは、性のシンボルを表わす光が出ている。かつて、異教徒は心臓を拝んだ。肉体から心臓をえぐり取って、それが動いている間に太陽に捧げたのであった。心臓を拝む様子は、世界中いたるところの彫像に見られる。

 下記の画像はケツァルコアトル(古代メキシコの神話中に見られる翼を持つ蛇神)の像で、その胸の空間にはちょうどイエス・キリストの彫像のように、生きた心臓だけが描かれている。このような心臓崇拝が、キリスト教礼拝で重要な一端を担うこととなったのであった。

 下記の画像の窓には雲の上にある太陽として描かれたり、または七つの剣が刺さっているマリヤの心臓として描かれている。これは七つの星の神々を礼拝していた古代の宗教を反映している。エジプトで太陽は赤いディスクとしても描かれていた。これは「ラー」という神である。

 下記の画像では、オシリスが太陽を掲げている。ホルスの頭上にも描かれている。これらの赤い円は、教会の床や祭壇にも同様に見られる。
 この墓に入っている王様の頭上には、エジプトの三位一体神のシンボルである二匹の蛇が、赤い太陽の周囲にいる。ラ神とオマン、そしてオシリスの象徴である。

 ウェストミンスター大聖堂のチャペルには、赤いディスクの周囲に絡み合っている二匹の蛇が見られる。
 金のディスクもまた太陽を表わす。エジプトばかりでなく、スカンジナビアでも見られる。明らかにこのディスクは神格を示すため、神々の頭の後ろに置かれている。

 東洋のいたる所にもあり、それが聖ペテロの頭の後ろにもある。かつてオリオレスと呼ばれたこれらのディスクは、現在ヘイロまたは後光と呼ばれている。それが太陽礼拝の名残りとして教会に溢れている。

 クリシュナの周囲にある光り輝くディスクは、明らかに後光であり、ヒンズー神の周囲にある輪も、まさしく後光である。そして、マリヤの頭の後ろにも同じような後光が射している。

 他にはニンブスという後光がある。それは生殖、繁殖力を拝む秘教から来ている。女性性器の崇拝である。古代人はこのシンボルの中に神々を置いて、それらが繁殖力、または生命を表わした。そして、教会は同じシンボルの中に、聖徒たち、マリヤ、またキリストを置いたのであった。


異教に共通する「666」と球体--------------------------------------------------------------------------

 宇宙を支配する太陽の象徴のひとつに、巨大な球体があった。メソポタミアの境界石に王様が球体を持っている様子が描かれている。またインドではヒンズーの神が太陽を手に持っている様子がある。エジプトではタマオシ黄金虫(こがねむし)が天空で天球を支えているものとして崇拝された。

 球体を持つというこの思想は、ギリシャの礼拝にも見られる。黄道帯の12の部屋をめぐる戦いでは、ヘラクレスが球体を手に持っている。ペルシャのミトラも黄道帯の支配者を表わす神として同じ球体を持っている。

 エジプトのイシスも同様である。ローマのマキシムス、またはカエサルも天球を手に持っている。教会はこの「666」のシンボルを取り入れ、自ら祀っている神格、すなわちマリヤやイエスの手に持たせたのであった。ギリシャ神話の神アトラスも宇宙を担いでいるが、ローマ・カトリックの祭壇にそれが反映されている。


 また、バチカンにある三重冠の天辺には大きな天球が置かれていて、巨大な球体が聖ペテロ寺院の頂上に据えられている。


三角形のシンボル-------------------------------------------------------------------------------------------

 次の画像の南米で見つかった石には、太陽のもう一つのシンボルである三角形を見ることが出来る。北アイルランドで古代アイルランドの異教徒たちが、巨大な一枚岩の上に、太陽のシンボルとして、三角形を刻んだ。アメリカインディアン達は神格を象徴するものとしてテラコッタ硬貨(赤土焼き)に三角形を刻んだ。

 エジプトに於いても、三角形は太陽神の象徴であった。全ての神秘的、神のパワーを表わすため、ピタゴラスは三角形のシンボルを用いた。

 異教の地ではどこでも三角形が見られる。サンノゼッシュの博物館にも同じシンボルがある。教会を見渡すと、彼らがこの異教に源を置くシンボルを、キリスト教の神のシンボルとして取り入れたことが分かる。正三角形は「666」の神を表わす。教会とは全く縁のないものである。

 他には目を拝むという風習があった。それは神の目を表わし、ピラミッドの蓋石(がいせき)に見られる。ここでは、蓋石の中心部にオシリスの目を表わす円と点が見られる。エジプトの異教徒はオシリス(ニビルのアヌンナキ)を非常に恐れて拝んでいた。

 彼らは魔除けの為、目をポケットに入れて持ち歩いていた。ローマでもこのような形態の礼拝が取り入れられ、この異教ローマの墓の上には、神のシンボルとして、巨大な目が刻まれた。

 このフリーメイソンの徽章(きしょう)では、神の目が正三角形の中に置かれているという概念を表わしている。三角形内のこの目は、大聖堂の巨大なドームから見下ろしているというのである。またイタリア・トリノにある懺悔(ざんげ)箱、フランスの教会の講壇、どこに行っても教会は、目を用いている。

 他には、重なり合った三角形のシンボルがある。それは自然の繁殖の法則を表わし、中心部には神の全てを見通すと言われる目がある。その周囲には黄道帯の36区が描かれている。その数を全て足すと「666」になる。アレイスター・クロウリーがこの六角の星形をデザインした。その中心には、数字の「6」と太陽が見られる。

 これらのシンボルが同様にキリスト教会でも見られる。カトリックの祭壇上には、サタンのシンボルがある。

 英国にある大聖堂の床にも、ロンドンにあるウエストミンスター大聖堂の天井にも、どこの教会へ行っても、オカルトから由来しているこれらのシンボルが見られるのである。サンフランシスコ大学にあるイエズス会のチャペルにも同じシンボルがある。

 この六角の星形は中心に六つの辺を持つ物体を形作っている。花に受粉した蜂が蜜蝋(みつろう)の中で六角形を形作ったのは、蜂が神の象徴だからと考えられていた。蜂は教会中の芸術作品に、しばしば見られる。

 五角の星形、ペンタグラムは宇宙の力を象徴していた。上向きであろうと、下向きであろうと、それはサタン礼拝で用いられていた。ところが、ここカトリックの祭壇や床にも同じシンボルが見られるのである。


帆立貝のシンボル-------------------------------------------------------------------------------------------

 帆立貝は宇宙、または宇宙のパワーの象徴であった。それは多くの場で見られる。海の神ネプチューンの頭の上に、またアトラスやカトリコスも担いでいる。

 ローマにある墓の上には、宇宙を象徴する帆立貝があり、階段は天国への階段を象徴している。この帆立貝の中でビーナス(イナンナ)が生まれ、この帆立貝の中で彼女が裸になるところを描いている。

 ギリシャの貨幣にも帆立貝が描かれている。ここでは異教のビーナスが多産のシンボルである開いた帆立貝の中にいる。教会は性的シンボルをコスミックフォース(宇宙の力)のシンボルとして取り入れた。今日教会のいたる所でそれが見られる。

 聖ペテロ寺院の中にも帆立貝によって洗礼を受けるイエスの絵がある。この聖堂には帆立貝が、イエスの兄弟を表わす、聖ヤコブとして描かれており、これらの貝柱が聖水盤として使用されている。

 ウエストミンスター大聖堂には、教会の床下に葬式を行う為のチャペルがある。よく注意してみると、神格のシンボルが置かれているべきアーチの頂上に巨大な金の帆立貝が置かれている。

 ローマのバチカンには教会の最も著名なシンボルのひとつに、占星術パワーのシンボルの巨大な帆立貝がある。本来キリスト教徒は何の係わりあいのないものである。イエズス会の教会の床には、帆立貝に繫がった太陽が描かれている。


魚冠------------------------------------------------------------------------------------------------------------

 太陽が海の中に沈むと、それが魚の神になると古代人は考えた。インドには沈む太陽を意味する魚の神がいる。海の神ネプチューンも半魚人である。

 エジプトでは女神イシスが死んだ夫の亡骸を探す為、魚に変身したと言われている。アッシリアでは神が魚になるという概念の下、魚が礼拝の対象となった。異教寺院の前に置かれた洗盤に祭司の彫刻が見られる。これらの祭司らは興味深い服装をしている。彼らは頭に魚を被っているのである。レアードという考古学者は、それを魚の司教冠と呼んだ。


 カナンで発見されたレリーフは、ダゴンの祭司たちが太陽の魚神ダゴンを拝むシンボルとして、魚の帽子を被っている様子が描かれている。小アジア(現トルコ)では、シビルのミステリーの中に、彼女がこの魚冠を被っている様子を描いた。確かに、異教世界のあちらこちらで、祭司たちがこの魚冠を被っている様子が見られるが、それが教会にも取り入れられた。今日でもなお、彼らは魚が口を開いているようなその魚冠を被っている。


三重冠と三日月----------------------------------------------------------------------------------------------

 他に太陽を表わすシンボルに三重の冠がある。それは天と地と地獄を治める太陽の象徴であった。異教世界の芸術品にそれが反映されている。ここでは頭に三重冠(さんじゅうかん)を被ったメソポタミアの王と、同じく三重冠を被ったインドの神クリシュナが見られ、背教したへブルの宗教ガバラは、彼らの大いなる太陽神「666」が三重冠を被っている姿を描いている。


 教会も法王が地上における神であることを異教徒に示すために、この三重冠・ティアラを取り入れたのであった。今日でもバチカンには、ある特定の儀式に法王が被る為の豪華な三重冠がある。

 真ん中に横たわっている三日月形は、女性の性的パワーを表わしている。そしてこれが天の子宮として拝まれていた。

 この円筒形の紋章には、天空の神(エンキ)として描かれている。

 バチカン博物館にあるビーナス像の頭には、三日月形の角のようなものがある。三日月形の崇拝は牝牛(めうし)の角を拝む風習から来たものであった。雄牛(おうし)の母である牝牛(めうし)は、生命の源と考えられていた。ローマの月の女神の頭上にも三日月がある。ミトラを表わしているこの女神の頭の上にも角がある。

 死の世界の女神であるバビロンのリリス(バビロニア神話-荒野に住んで子供を襲う女性の夜の鬼神)が三日月形の中に立っている。教会でもあの性的シンボルの中に立っている女神を見ることが出来る。それが表しているのは、かつての異教偶像崇拝と全く同じものなのである。それは女性の生殖パワーのシンボルである。


太陽を抱くマリア像----------------------------------------------------------------------------------------

 生殖器を崇拝する概念、また聖母崇拝が異教徒を虜にし、ローマは人々の官能に訴えるこの方式を取り入れた。

 シストルムと呼ばれたこの楽器は、異教女祭司のダンスに於いて使用された。エジプトのカルトに於いて天の女神イシスが、そのシストルムを持っている。

 イシスはこう述べている。
「われイシスは、いにしえの昔から存在し、これからも永遠に存在する者である。死すべき人間がかつてわがベールを剥いだことはない。われは太陽という子を産んだ」。
 イシスの子はホラス(ホルス)と呼ばれている。このイシスとホラス(ホルス)の絵には、彼女が後光の真ん中に立っており、その周囲には黄道帯が見られる。彼女の子は太陽神である。バチカンへ行くと、巨大なマドンナの象徴が聖ペテロ寺院の中に見られ、彼女は赤ん坊を腕に抱いている。キリスト教の描いたマドンナ像の赤ん坊もまた、太陽なのである。

 母と子が神であるというこの寓話(ぐうわ)的概念は、エジプトにも、インドにも、東洋にも見られる。日本も中国もそれぞれ独自のマドンナ、聖母と、子の象徴を持っていた。

 イシスの概念はローマ帝国のいたる所で見られた。教会に於いては、この概念が、マリヤと赤ん坊イエスとして取り入れられた。今日の教会で、マリヤとイエスの像を見ると、キリスト教に先立つ古代の偶像礼拝の反映であることが分かる。


 子供だけの像も異教に見られるが、教会にも幼子イエスの像が、それ自体神として拝まれている。

 メソポタミア時代のこの境界石には、太陽神シャマッシュ(アッカド人の太陽神)が刻まれている。シャマッシュは天の子宮である三日月から生まれたと言われている。紀元前2500年頃の円筒印章にそれが見られる。三日月の中に太陽が、または女性の中に男性が、という概念を表わしている。

 このミトラの祭壇や、このエジプトの宝石には、三日月形の中に置かれた太陽のディスクが見られる。

 インドでも三日月の中に入ったディスクをいたる所で見ることが出来る。星印・アステリスクは、ギリシャに於いて太陽のシンボルであった。ここでは三つの三日月の中に、三つのアステリスクが見られる。

 このメソポタミアのレリーフには、三日月の中に太陽神が描かれている。ローマ・カトリックの聖体顕示台(せいたいけんじだい)も、三日月の中にディスクがある。聖体顕示台の多くは三日月の中に聖餐のパンが置かれる。多くの聖体顕示台には、聖餅を入れる為の三日月形がある。それは男性と女性の性的結合を表わしており、こうして生殖の法則が礼拝の対象となっていながら、人々はそのことに気が付いていないのである。

 礼拝堂のこの小さな扉の上には、秘跡(サクラメント)の道具が置かれている。杯の周りに麦と葡萄(ぶどう)があるが、これは自然の神を崇拝するものである。その神の名はディオニュソスという酒の神、バッカス(ニビルのエンキ)とも言う。


 ローマに於いて自然の神々は、しばしば葡萄(ぶどう)やシュロの葉を持った、山羊のような人間として描かれた。太陽神礼拝には葡萄酒(ぶどうしゅ)を飲む儀式もある。それは神の血であると考えられていた。

 メキシコでは太陽神への供え物として、メースという香料が作られ、人々がそれを食べた。エジプトに於いては神への献身の表明として、人々が聖餅(せいへい)を食べた。またギリシャでは生殖の法則を祀り、神々の聖餐に於いてこれらの聖餅が食された。ギリシャのアクロポリスでは、大祭司が三人の剛健な男たちに雄牛(おうし)を持って来させた。大祭司は聖餅(せいへい)を焼き、それを祭壇の上に置いた。雄牛にそれを食べさせてから、雄牛を屠(はふ)り、それから皮を剥いだ。人々はおのおの雄牛の肉と血を食するよう促された。それから皮に穀物を詰め込み、人々は再び雄牛の身体を裂いて、その穀物を食べた。それは彼らの体内に繁殖力を取り入れることを表わしていた。


カトリックに見る異教の礼拝形態------------------------------------------------------------------------

 同様の礼拝形態は、ペルシャの神ミトラ崇拝にも見られた。それがかつてローマの国教でもあった。

 ローマの修行僧らは、聖餅(せいへい:聖餐"せいさん"のパン)を取って食べた。彼らはイニシエーションと儀式に於いて、以前からあった異教の聖餐を真似た。その食事には神が招かれ、その聖体が兵士らに配られた。おそらくミトラ崇拝は、今日のローマ・カトリック教に最も近いものと言える。驚くべきことに、ヨーロッパの大寺院の地下には、異教の寺院の遺跡があり、そこに於いて初期のクリスチャンたちは、司祭や指導者らの勧めで、礼拝していたのであった。

 聖ペテロ寺院(サン・ピエトロ大聖堂)には、ミサで使われている壮大な燭台(しょくだい)がいくつも見られる。蝋燭(ろうそく)立てを一本ずつ注意深く見ると、それぞれそこには顔が描かれている。その顔はミサで祀られている神を表わしていると推測することが出来る。ところがこれらの顔をよく見ると、人と山羊の交ざり合った生き物であることが分かる。それはまさしくサタンのシンボルなのである。ミサに参加する人々の多くはそのことを知らない。彼らは何千年もの昔から行われていたサタンを祀る儀式を引き継いだにすぎない。

 サンフランシスコにある聖マリヤ教会には、聖体顕示台に聖餅が展示されていて、扉の傍には六つのパンが置かれている。葡萄(ぶどう)は酒の神バッカスの血と考えられていて、それを飲んで酔った者は神の霊を宿したと考えられた。これは神秘宗教の重要なイニシエーションのひとつで、今日ローマ・カトリック教会でも、実際に神の血を飲む儀式として、重要な役割を果たしている。

 昔、異教偶像崇拝に於いて、蛇のシンボルはバビロンからパレスチナ、ペルシャに至るまで、太陽を拝む者のシンボルであった。後に蛇は神のシンボルとなった。
 アジアに於いては、自然のエネルギーを象徴していた。インドでは神の様々な局面を表わし、エジプトでは混沌をあわらし、生命はその混沌から生まれたと考えた。それは聖なる蛇、ウリヤを表わした。ネフェルティティの帽子に聖なる蛇ウリヤが見られる。翼を持ったケルビムがファラオを守り、ツタンカーメンの傍には翼を持った二匹の蛇がいた。それは魂の門、または死後の霊そのものを表わした。それはすなわち、太陽の霊の象徴であった。墓の上にある蛇の放線状の身体は魂の生まれ変わりを表わした。

 エジプト北部にあるハトシェプスト女王葬祭殿(古代エジプト第18王朝の第5代女王1495‐1475BC)にも、礼拝堂に至るまで、身体をねじられた翼を持つ蛇があり、神と交わる為の媒介とされていた。

 中米のメキシコや南米では、蛇がケツァルコアトル、またはククルカンという名で原住民によって拝まれ、どちらも太陽を表わす翼を持った蛇であった。チェチェンイッツアでは、大寺院に頂上まで続く階段があり、その入り口には翼を持つ二匹の蛇が置かれていた。

 ギリシャに於いて、蛇の神はアスクレーピオスと呼ばれた。アスクレーピオスには、癒しの力があると考えられ、ギリシャ帝国中で拝まれた。アポロ神も戦争と知恵の女神アテナでさえ、蛇と同等にされていた。ローマに於いて蛇は癒しと死後の魂を天に運ぶ霊力のシンボルとなった。スカンジナビアでは蛇のシンボルが全ての中心であった。船は蛇や龍の形に造られ、人々が礼拝した国教会には、いたる所に蛇の彫刻があった。

 この国教会には蛇の形をした格子作りがあり、両側には大きな翼が広がっていた。礼拝堂に入るにはその扉を通らなければならない。チャイナタウンには、仕事場に入るのに、蛇のハンドルを掴まねばならない。またタイでは寺の入り口の傍に、巨大な蛇が置かれている場所が、数多く見られる。この寺院には大きな羽のある龍の鷲や、翼のある龍のライオンや、龍の山羊のハンドル、極めつけは龍そのものの形をしたものもある。扉を開けるにはまず、これらのハンドルを押さなくてはならない。

 ところが奥殿から戻る時に、これは異教の寺ではなく、サンフランシスコにある聖マリヤ大聖堂であることに気付かれる。中庭には六つの十字模様が三列に置かれている。礼拝堂の祭壇に登る階段は六段である。何故これら異教のシンボルが未だに教会で用いられているのか。教会にこれらのシンボルを用いて来た為、他になす術を知らないのである。

 蛇は長年の間教会に於いても見られた。墓や床の上に、あるいは、ウエストミンスター大聖堂では、イエスの頭の上に置かれている。一か所で最も多くの龍の形をした蛇が見られたのは、バチカンであった。ここでは龍が墓の上から、床から、また数々の芸術品の中から人々を見つめている。天蓋(てんがい)でさえ、蛇の形をした古代の柱を模倣したものである。これらの巨大な螺旋状の柱は、杖に巻きついた蛇を表わしていた。蛇は善と悪と両方のエネルギーを象徴していた。そしてここでは二匹の蛇が宇宙の卵を持っている。その卵はベルニーニの天蓋にも見られる。異教に於いてロープは蛇の象徴として用いられ、それは法王の冠にも見られる。バチカンにあるベルニーニの大広間では、教会が巨大な金の龍によって象徴されている。

 聖ペテロ寺院の床下には、自らを「6」と称した法王の冠があり、それには六匹の蛇が見られる。

 稲妻は蛇のパワーのシンボルであった。古代の神々は稲妻を起こすことが出来ると考えられていた。古代ギルガメシュまでさかのぼると、この稲妻がメソポタミアのこれら異教の神々の手の中にあった。祭司も王もこれら神通力のある杖を持ち歩いた。大英博物館にあるこのシリア王は、雷の轟きと稲妻を表わすシンボルを手に持っている。オシリスは蛇を掴んでおり、ツタンカーメンでさえ、蛇の杖を持っていた。

 このエトルリアの神はその手に蛇を持っている。またギリシャの宗教に於いてさえ、アテナ(知恵と戦いの女神)が手に司教杖を持っているのが見られる。アクロポリスからその杖が、蛇であったことは明らかである。

 マヤの宗教に於いては、儀式中祭司たちはこれら蛇の杖を持った。また日本に於いても、神格を表わすこれらの杖を、高位聖職者らが持っていた。

 スカンジナビアでも祭司たちが同様に、蛇の杖を持っていた。このエトルリア人は螺旋状の司教杖を手に持っている。メソポタミアでも祭司たちが同様の杖を持った。ベルリンのシナル地方からの杖の柄も同様である。その先には蛇がおり、明らかに教会が主張しているような羊飼いの杖とは、何の関係もないものである。

 高位聖職者たちは、今日でもその杖を持っている。ちょうど昔の古代魔術師たちのように、多くの場合、杖には蛇の頭が付いている。ある者は象牙を彫刻したもので、時にはそれをより神聖なものにするために、聖徒の骨で彫刻したものもある。

 東方のカトリック世界に於いては、二つの蛇の頭が付いた杖も見られる。これはパトモス島で発見されたものである。

 あるものは、今日法王の王座にあるこの杖のように、生殖力を表わす花のデザインがなされている。司祭や他の高位聖職者たちも、自分たちが自然のエネルギーフォースを支配しているシンボルとして、これらの杖を持つ。

 彼らの主張に関係なく、これには元々の意味があり、聖ニコラスでさえ、蛇の杖を持っている。しかもイエズス会師の杖には、二つの頭が付いている。


三叉みつまた)の矛(ほこ)と祝福の手--------------------------------------------------------------------

 他には、アダト神が持っているような、三叉(みつまた)の稲妻がある。稲妻は様々な異なる形で見られる。

 ここではネプチューンが巨大なピッチフォークとして持っている。

 ネプチューンのピッチフォークは、ミトラやヒンズー神、あるいはギリシャの祭壇でも見られる。ここではギリシャの神が、カトリックの墓で三叉の矛を持っている。ここではイエスの頭から三叉の矛が出ており、聖ペテロ寺院ではこの十字架の角(かど)から矛が出てきている。

 三叉(みつまた)の矛の別の形は、紀元前3000年から存在した円筒印章の祝福の手である。ヒンズーの神にもそれがある。

 また仏教も宇宙の神聖なシンボルを取り入れた。これらエジプトの祭司たちは、手をその肩に組み、宇宙のフォースに対抗することで自らを守った。

 このスパルタ神は、このローマの牧神のような手の形をしている。また、ローマのユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)は、「666」のシンボルであるこのような手の形を作っている。

 ロンドンでは同様の手の形をした太陽神アポロが見つかっている。人々を角と尻尾の生えたピッチフォークを持つ悪魔から守るため、指はポケットに入れるか首のところに置いた。ゼウス神の祭壇には、この聖なる手が宇宙のフォースのシンボルとして置かれた。

 これら奉納された手は、ヨーロッパの大きな博物館に於いても見られ、異教礼拝の名残りを示している。

 学者のリチャード・ペインナイトは、自分の性的シンボルのコレクションを大英博物館に寄贈(きぞう)したが、中でも重要なのがこの宇宙を象徴する手である。男性と女性の指が一緒に挙げられ、生殖を表わす親指の先には、松ぼっくりが付いている。その周りにはエネルギーを表わす蛇、多産のシンボルである山羊の頭、三つの聖餅が置かれている祭壇がある。その下には聖母マドンナと子供がいる。手の甲にはあらゆる占星術の神々のシンボルがある。これらの手はイニシエーションを受ける人達に伸べられた。これの手からエネルギーがほとばしり、彼らに宇宙的生まれ変わりを与えると考えられていた。これらの手がキリスト教会でも見られるというのは、驚くべきことである。それは黄道帯を支配する「666」の神を表わしている。そして今日でも、司祭や法王たちが悪魔のサインを送り続けているのである。


フラドリの紋章----------------------------------------------------------------------------------------------

 他には男性生殖器のシンボルがある。メソポタミアの祭壇、あるいはこのバビロニアの魔神の頭に、今日人々がフラドリと呼んでいる紋章がある。

 イシスの頭やバッカスのシンボルにもフラドリがある。自然の性的フォースを表わしている。ところが今日ローマ教会にも見られる。


稲妻と矢じり-------------------------------------------------------------------------------------------------

 稲妻を掴む動作は、ゼウス(エンリル)が火を投げる動作として表現されることもあるが、イエズス会の教会でも同様に稲妻を掴む様子が描かれている。

 このミトラ教の稲妻は矢で表わされている。矢は世界的に自然のフォースである性的エネルギーのシンボルである。ここではクリシュナが矢を手で持ち、アスキュラピウス寺院では、ギリシャの医者が自然治癒力のシンボルとして、矢を手に持っている。

 このメソポタミアからの境界石は、矢じりを神自身として示している。ローマ人たちは鉄で矢じりを作り、それで生贄を屠(ほふ)って太陽神に捧げたのであった。イエスはその悪魔的シンボルでもって、十字架に付けられた。ところが自らも実質的に異教である教会はそのシンボルを取り入れ、今日ではそれが教会に於いて、神格のシンボルとして用いられ、祭壇や床で拝まれている。

 ここでは三つの矢がコップを支えている。イエズス会の教会には、自らの王を加えた蛇と共に、女性子宮のシンボルに矢が刺さっているのが見られる。このカトリックの聖体顕示台には聖餅から発するエネルギーを象徴するものとして、矢が刺さっている。

 古代人たちは神格のシンボルとして、常緑樹を拝んだ。メソポタミアでは生命の生まれ変わりのシンボルとして、シュロの木を拝んでいた。その象徴はギリシャやローマの宗教にも取り入れられ、現在ではそれがローマ・カトリック教会の床や祭壇、墓などに見られる。


松ぼっくりのシンボル-------------------------------------------------------------------------------------

 この生まれ変わりを表わすものとして、他には松ぼっくりのシンボルがある。この松ぼっくりはメソポタミアの中のレリーフで、魔神たちが手に持っている。

 エジプトではオシリスを象徴している。ここではオシリスが、先が松ぼっくりの形をした杖を持っている。カイロ博物館では、ツタンカーメンが自らの支配力のシンボルとして、松ぼっくりの枝を持っている。


 ヒンズーの神も手に松ぼっくりを持ち、ケツァルコアトルも一方に常緑樹を、もう一方に松ぼっくりを持っている。このギリシャの多産の女神も同様である。

 松ぼっくりは、ローマ人によって取り入れられ、このミトラ教の祭壇には、正三角形の真ん中に松ぼっくりが、また墓にも同様のものが見られる。

 バッカスは男性生殖器のシンボルである松ぼっくりの枝を手にも持っており、これらのレリーフでも、ディオニソスが松ぼっくりの杖を持っている様子が描かれている。

 パンテオンからは巨大な松ぼっくりを手に持っている巨大なディオニソスの像が見つかり、ローマに置かれている。

 初期のキリスト教史に於いて、生命の象徴として、松ぼっくりが取り入れられ、今では教会のいたる所にそれが見られる。

 この古代の性的シンボルは、教会の芸術品にだけでなく、最も大きなものは、バチカンの宮殿にある。それは世界一大きなもので、二階建ての高さになる。古代異教の神格のように、法王も松ぼっくりの杖を持っており、世界中どこへ行くにもその杖を持ち歩く。


生殖器崇拝---------------------------------------------------------------------------------------------------

 ローマに於いて生殖器は、プリアーポスという名の下で、エジプトにおいてはミンという名の下で、崇拝された。生殖器崇拝は、オシリスの男根崇拝に見られる。

 それはエジプトの寺院の前に置かれ、太陽が昇ると、その影が寺院の中に入った。地球という子宮に生命を注ぎ込む太陽の力を象徴していた。

 イスラム教ではこの概念と、これらの塔が取り入れられ、今日のバチカンでも、これらのオシリスのシンボルのひとつが、聖ペトロ寺院前の中庭に置かれた。異教世界にあるものと同じ状態で置かれたのであった。

 異教寺院の柱は、天と地の結合を表わしている。同様に生殖のシンボルでもあった。これがバチカンにあるベルニーニの柱廊で再現されている。

 尖塔(せんとう)はいろいろな教会で見られるが、それらは古代の生殖器崇拝であるプリアプスの再現なのである。


白と黒のシンボル-------------------------------------------------------------------------------------------

 東洋に於いてエネルギーは、陰と陽で表わされている。バッカスの頭もそれを表わしている。二つの頭、一つの神の二面性などである。このマヤの神は、頭に白と黒の羽毛を付けている。善と悪、陽極と陰極、男と女のシンボルである。

 またこのヒンズー経典にもある。このローマの床は、同様に神の二面性を反映している。

 フリーメイソンもそれを取り入れ、彼らがイニシエーションを行うところに、白黒の床を用いている。神は善であり、悪であることを表わしている。サンノゼ市にあるバラ十字会の寺院でも、この白黒の床の上で、イニシエーションが行われる。

 古代バビロンの寺の中庭にも、交互に置かれた白と黒のタイルがあり、そこで善と悪の両面を持つ神を拝んでいた。ヨーロッパの比較的古い大聖堂の多くにも、この白と黒の床が用いられている。


黒人の神々---------------------------------------------------------------------------------------------------

 闇と神秘、悪の神をサトルヌスと言った。バビロンの最初の神はニムロド(マルドゥク)で、彼は黒人であった。彼の名はエチオプス、クシの子とも言った。エジプトで同じ伝説を持つ、オシリスも黒人であった。異教世界では多くの神々が黒人である。ヒンズー教のビシュヌも、最高神格のリシもそうである。

 バチカンでは、ペテロが黒人になっている。古代バビロニアの創立者が黒人であったと言っているように、現代のカトリック教会も創立者ペテロが黒人であったと言っている。


足に接吻(せっぷん)-----------------------------------------------------------------------------------------

 異教偶像礼拝に於いて、足に接吻(せっぷん)するという行為は、神を礼拝することの象徴であった。ヒンズー教の信者は、彼らの霊的師匠の足に接吻し、絵や彫刻からフォースやエネルギーが流れ出ると考えられていた。ヒンズーの寺で人々が足に接吻しており、そこからエネルギーを受けるとされている。ところが聖ペテロ寺院に於いても、人々が列をなして、ペテロ像の足に接吻している。このような行為でさえ、ローマ・カトリックは取り入れてしまった。


鍵---------------------------------------------------------------------------------------------------------------

 鍵を持つ行為も、元々異教のものであった。光を開き、闇の世界を閉じることを表わしていた。今日法王は自らその力を持っていると主張している。4世紀に異教の神である、ヤヌスとシビルが夢で法王に現れ、その鍵を渡したと言われている。法王が自ら持っていると主張するこの無限の力は、地獄の権威をも彼に与えてしまう。これは人々を恐怖と不安に縛り付ける為に、取り入れられた教えである。元々キリスト教にはない教えである。


地獄-----------------------------------------------------------------------------------------------------------

 法王は意のままに、地獄の縄目から解放する力を持つと考えられているが、異教偶像礼拝の制度を見廻すと、東洋からバビロンに至るまで、どの文化にも永遠の灼熱地獄という概念が存在する。カトリック独自の思想ではない。


鷲、ペリカン、孔雀-----------------------------------------------------------------------------------------

 異教徒はしばしば、死者から離れた霊を鳥に例えた。天空を舞う鷲(わし:アヌンナキが地球へやってくる際の鷲のマスク)は彼らにとって恰好のシンボルで、墓などに刻まれている。大いなる不死鳥-フェニックス(ニビルのイナンナの象徴)は昇って来る太陽を表わし、二つの頭を持つ不死鳥は、神の究極の局面である、善と悪を表わす。羽のある霊は、死者を離れて天に昇る人の霊魂を表わし、教会でもこれらの鳥が、いたるところに見られる。

 しばしば背中に聖書を乗せている不死鳥も描かれている。これら教会の教えとは、縁もゆかりもない鳥があちらこちらに置かれている。

 ペリカンは、マンレーホールの著書によると、秘密結社などの神秘的教えで、その子らに食物を与える太陽を表わしているそうである。

 インドに於いて孔雀(くじゃく)は太陽神、または神々の生みの親を象徴している。ある時にはサタンの象徴となる。ウエストミンスター大聖堂にも孔雀がいる。

 古代人たちは死者を拝んだ。彼らは生ける神を知らなかった。彼らの神々がかつてこの地上で生き、天に昇って行ったと考えた。ローマのパンテオン(万神殿)は、占星術の神々を拝むために、人々が集まった所であった。これらの神々は、世界で最大の異教古物のコレクションを有するバチカンへと移行した。

 この死者を拝む概念は、聖人崇拝として教会に取り入れられた。エジプトには365もの神々がいた。各々は年内の一日を占めていた。ローマ・カトリックにも、1年365日中、どの日にも異なる聖人が定められている。聖人たちはそれぞれ、ある異教の神々を反映している。教会に入ってみると、いたる所に死者の棺(ひつぎ)が置かれているのが分かる。まさに教会自体が、死者の世界と化している。

 バルゴス大聖堂にあるこの巨大な祭壇は壮大で、高さは4階の建物にも匹敵するが、其処ら中に聖人たちが祀られていて、これは死者の礼拝以外の何ものでもない。法王たちの死体には防腐処理が施されて、三重の棺(ひつぎ)に納められ、聖ペテロ寺院の床下に保管される。人々はそこにやって来て死者を祀り上げ、ロザリオの祈りを捧げ、棺(ひつぎ)に接吻する。比較的小さな教会でも床下に死者を納める場所がある。


数珠(じゅず)--------------------------------------------------------------------------------------------------

 紀元前2500年頃のこの円筒印章で、祭司が何か小さなボールのようなものを持っている。バビロンやメソポタミアのレリーフでは、祭司や守り神が数珠(じゅず)を手に持っている。数珠玉はバビロンに於て礼拝の一部を占めていた。これらの数珠(じゅず)はバビロニアの雄牛崇拝から取られた。

 またファラオの数珠(じゅず)は、彼と共に墓に納められた。数珠(じゅず)は祈りに用いられ、エジプトでも礼拝の重要な部分を占めていた。ヒンズー教も仏教も皆、祈りに数珠を用いる。イスラム教世界でも祈祷(きとう)用の数珠(じゅず)がアラーの礼拝に用いられた。教会で目にする数珠玉は、まさしく異教に源を置くものなのである。キリスト教徒には縁もゆかりもないものである。


ローソク------------------------------------------------------------------------------------------------------

 ローソクは霊魂不滅を象徴している。火は太陽を象徴している。異教の寺院では常に火を絶やさず灯し続ける。ところが今日、カトリックの祭壇を見ると、そこでは異教が完璧に再現されている。何も見ることも聞くこともできない聖徒たちの祭壇に、ローソクを灯す為に、人々は多額のお金を費やすのである。


線香と人間司祭の崇敬-------------------------------------------------------------------------------------

 ミサや他の儀式の間、祭壇の周りで香が焚かれる。何世紀も前から東洋のヒンズー教でも線香が焚かれてきた。しかし、カトリック教で最も奇妙なのは、人間司祭の崇敬である。「司祭の威厳と務め」という本の中に、聖アルフォンス・リグオーリが、司祭の教理的見解と立場を述べている所がある。

「神は司祭の言葉に従って、彼らが呼べばどこの祭壇にでも降りてくる。そしてその後は、彼らが敵であろうと彼らの意のままになる。場所から場所へ好きなだけ、神を動かせる。望むならば、神殿の中に閉じ込めておくことも、祭壇上に晒(さら)しておくことも、教会の外に持ち出すこともできる。選ぶならば、彼の肉を食べ、他の人にそれを与えることも出来る。彼らの力は何と大きいことだろう。民衆はキリストの犠牲を受ける為、祭司の下に来なければならない。司祭の権力は、すなわち、神の権力である。パンの実体変化(聖餐"せいさん"のパンとぶどう酒がキリストの肉と血に変わること)は、天地創造と同じ力を要するからである。こうして、司祭は創造主を創造する者と呼ばれるに相応しい者となるのである」。

「司祭は全ての作られた権威のうち、最上の者であり、また無限の威厳と驚くべき奇跡、偉大で広大、かつ無限、天よりも高く上げられた威厳、彼は神にのみ劣るものである」。

 この立場に於いて司祭は、古代異教の祭司らと全く同じ立場を取っている。決してキリストは、地上でこのような祭司制を起こさなかった。罪人を赦免することに於いて、司祭は聖霊の務めそのものと、魂の清めをなすその務めの故、人々は清めか許しを司祭から受けられると感じて、俗人の下に罪を告白しに集まっているのは、最も悲しむべきことのひとつである。イノセント3世はこう書いた。「彼らの務めの高貴さを見ると、司祭達は、まさしく神々である」と。

 祭司が神の礼拝の為に選ばれたように、古代の寺院では、女たちがベスタの処女、あるいは女祭司として選別された。今日、女祭司の形を引き継いでいるのが、修道女である。開かれた修道院の尼僧たちは、多くの素晴らしい働きをしているように見える。ところが、閉じられた修道院では、彼女たちは司祭らにこき使われている。そこで彼女らは苦労を強いられ、そこで死んで逝く。彼女たちは二度と再び、家族や友人たちに会うことが出来ない。



法王の称号は足すと「666」--------------------------------------------------------------------------

 塔を身に着けることは、天と地の支配権を象徴した。大いなる塔の建造者であるポンティフェクス・マクシムス(最高司祭の意)、そしてこれが法王の名前なのである。バチカン中で建物の入り口や墓にそれが見られる。

 法王の称号は、足すと数字の「666」になるよう選ばれている。神の代弁者という意味の「ヴィカリウス・フィリィ・デイ(Vicarius Filii Dei)」そうである。ラテン数字として足すと、「666」になる。

 この神聖な扉を見ると、各法王が「666」の神であったことが分かる。この扉には各法王の兜(かぶと)が刻まれている。それぞれが「666」を表わしている。三つのブイ、三つのフラドリ、六つの六角星が、何故兜に描かれているのか。

 ラテン語を話す人を意味する、「ラティノス(LATEINOS)」という言葉が、ギリシャ語では、足して「666」になる。

 聖職者の長という意味の、「デュクス・クレリ(DUX CLERI)」も、法廷の代弁者を意味する、「ルドヴィクス(LUDOVICUS)」も、足すと「666」になる。

 ゼウス(エンリル)は黄道帯の円を統括したと言われている。アトラスは黄道帯を担っていた。どちらも666の神のシンボルである。
 1527年に、ローマで出版された出版物に、法王クレメンテスが、黄道帯に座している絵がある。宇宙の一部を悪魔が動かし、他の一部を天使が動かしている。星座表の本には、法王が「666」の神、黄道帯の支配者、善と悪の神として描かれている。

 イタリアの国教会という意味の、「イタリカ・エクレシア(ITALIKAEKKLESIA)」という語も、足すと「666」になる。

 その教会の中心が今日ローマにある聖ペテロ寺院(サン・ピエトロ大聖堂)である。その上に登って柱廊(ちゅうろう)を見下ろすと、そこは太陽神のシンボルだらけなのが分かる。ラテン王国を意味する、「エ・ラティネバシレア(H E LATINEBASILEIA)」という語も、足して行くと、「666」になる。その王国は、この1825年の貨幣で、周りに環のある地球に座っている女として象徴されている。教会自体が、「666」の神なのである。

 ローマ・カトリックの神とは何者なのか。一見、イエスのように見えるが、それは偽者である。サンフランシスコにあるイエズス会教会の祭壇には、ミサの神を表わしている六つのオカルト的太陽のシンボルがある。ローマのバチカンでは、ケースの下にある聖体顕示台に小さく、「S F S」と書かれている。象形文字では三つとも「6」を表わしている。

 人々はこの組織にひれ伏し、その頭である人間にひれ伏すとき、実は、「666」の神を拝んでいることに気付いていない。「サタンを表わすギリシャ語(TEITAN)」は足すと、「666」になる。

■313年頃

 イエス・キリストの死後、キリスト教は西欧で急速に広まっていった。イルミナティのローマ帝国時代、キリスト教徒達は様々な差別、迫害、虐殺にさらされたが、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世(当時は西方正帝)とリキニウス(同・東方正帝)が連名で発布したミラノ勅令が公布されると、キリスト教が公認されただけでなく、教会がそれまでの迫害で受けた損害の賠償まで保証された。これは一般に、全帝国民の信教の自由を保障した内容とされ、これによりキリスト教徒の立場は逆転したが、ユダヤ人に対する差別と迫害が始まった。イルミナティのコンスタンティヌス1世は、この1年前にキリスト教を信仰し始めた。

 キリスト教徒は8角星のニビルマークを「ベツレヘムの星」と呼び、ニビルの星の象徴をみごとに横取りした。そしてアヌンナキは、自分が地球を支配するための装置として神聖ローマカトリック教会を選んだ。人間は宗教を使って操作するのが一番簡単だからである。
 ローマカトリック教会は、次なる公式のアヌンナキ体制になる予定だった。それを達成するためには男性支配体制が必要なので、キリストが独身という捏造にもとづいて、司祭はすべて独身(禁欲)と定めた。多次元性を持つ女性の力を弱める必要があり、女性の権利は剥奪された。
 また人々に死に対する恐怖を植え付けるために、輪廻転生の知識を抹消した。そうすれば、死への恐れが多次元との接触を制限するからである。かくしてアヌンナキは地球の完全支配を手にし、宇宙からの多次元存在が人間にアクセスするのを防ぐという計画であった。


■325年頃

 これまでアヌンナキは地球人に、彼らの種を受胎させる場所として神殿を建てさせてきた。太陽の王女や巫女が、未来の王や女王を生むためにアヌンナキと交わるという昔話は実話である。太陽を巡るニビルの運行周期は3600年で、アヌンナキは実際に地球を訪れると200年以上も神殿で暮らす。7世代にわたるその期間に人間の女神を遺伝系列によって選び、子供を生んでもらう。地球を離れてアヌンナキと旅することを選ぶ子供もいれば、留まって新しい高貴な遺伝系統の種子を蒔く子供もいる。これは公平な遺伝子交換である。しかし、この体験が人間の非常に深い傷の源にもなっている。アヌンナキとの体験が人間たちに出産を促す刺激を生み出しており、それが人間の深層心理に設定されているので、それが人間の無秩序な繁殖・セックスを招いている。
 西暦0年から始まった今回のサイクルでは、旧約聖書の族長制をもとに伝統を築いたすべての神殿が、特にイルミナティのバチカンがこの無秩序に侵されている。なぜ教会は女性の肉体における主権を否定するのか、なぜ女神たちは子を産む器としてのみ有用なのか、はニビルの文化が関係している。
 惑星ニビルでは何千年も昔から、地球の神殿で行なわれる神聖な儀式で集めた受精卵を聖杯に置いて、妊娠期間を過ごさせていた。アヌンナキにとっては女神1人ひとりが出産のための「聖杯」である。人間の女性は豊かな受胎能力を持ち、彼女たちとのセックスはすばらしいものであった。しかし、アヌンナキが人間の女性の全面的な合意を得ないなかで、あまりにもパワフルな形で人間たちを利用したために、人間は心の奥底で、もっとも基本的な権利である受胎能力を自分ではコントロールできないと考えるようになった。つまり、子供をつくるという行為に責任が持てなくなったのである。
 ニビルのアヌンナキは西暦0年から西暦325年に至る大計画を考案し、「キリスト教会を設立してローマ、ギリシャ、東方、エジプトで多様な宗教運動を支配する」という方針のもとに世界へ繰り出し、こうした方法で徐々に人類を操作することに決めた。
 西暦325年には、彼らはローマカトリック教会が「聖体の秘跡(ひせき)」の正式な施行者であるとして定めた。聖体の秘跡とは、イエス・キリストの最後の晩餐に由来するキリスト教の儀式である。パンとぶどう酒は、キリスト教儀式の中で最も飲食されるもので、パンはキリストの肉体であり、ぶどう酒はキリストの血であると認識され、この考え方は一般的に聖餐論(せいさんろん)と呼ばれ、この時に口にするパンとぶどう酒を「聖体」と呼ぶ。アヌンナキの皇帝たちは、キリストがぶどう酒を血に変換させながら本当は何をしているのかに気づき、即座に秘跡を完全に支配して、その力を封じ込めることにした。
 カトリック教会が伝統的に認めてきた七つの秘跡には、洗礼(せんれい)、堅信(けんしん)、聖体、ゆるし、病者の塗油(びょうしゃのとゆ)、叙階(じょかい)があるが、この創造にセックスが介在しないという思いつきは、アヌンナキが考えたものである。このおかしな陽動作戦の目的は、マグダラのマリアとイエスが子供をつくったという事実から人々の目を逸らせるためであり、アヌンナキのバチカンが捏造した話である。そして事実は、その出産によって、キリストのコードが地球の血に埋め込まれたのである。

 イエス・キリストとマグダラのマリアの間にはサ・ラーという娘が生まれ、これまで百代にもわたる子孫を作っており、キリストは人間すべての体内のDNAに生きている。
 やがて聖体拝領(せいたいはいりょう)はまんまとローマカトリック教会に取り込まれ、バチカンは世界を改宗させていくための燃料として聖体拝領を利用した。聖体拝領とはおもにカトリック教会用語で,ミサ聖餐においてキリストのからだとなったとされるパンとぶどう酒を食することである。他にも聖餐(せいさん)と呼ばれることもある。
 彼らは情報を操作するために、まずマグダラのマリアの記録を抹消した。その後、カタリ派を虐殺したのち、司祭はすべて独身と定めたのは、それによってキリストも独身だったと人々が信じるように仕向けるためであった。そうすれば彼の血統が発見される可能性は排除され、たとえDNAが存続してもそれを本物と信じる者はいなくなるからである。バチカンは聖体拝領を自分たちの中心的秘跡とし、それを利用してカトリック信者を操作、支配することで、完全にキリストから盗みおおせたと考えた。


 死を怖れるのをやめないかぎり破滅は避けられないが、人間が死を怖れるように仕向けたのもアヌンナキである。地球に滞在するあいだは非常に老化が早いために、アヌンナキは人間の1年あたりに3600歳も年をとる。ニビル王アヌは45万年にわたる数多くの訪問で年老いて、疲れてしまった。アヌンナキは恐怖に駆られた存在であり、どんな悪事も好き放題できてしまうので、彼らは自分の感情を人間に投影し過ぎてしまった。悪意を帯びた冗談と同じで、最初は面白いが、やりすぎると面白いどころではなくなる。人間もそろそろ目を覚まし、アヌンナキが地球を訪れるときだけでなく、軌道のどこにいても人間に影響を与えていることに気づくべきなのである。アヌンナキは人間のマインドに埋め込まれた思考形態を通じて影響力を及ぼしている。アヌンナキは人間を刺激して、太陽がもう二度と昇らないかのように、買いだめと備蓄に走らせてきた。しかしもともと人間は、持ち物が少ないほうが活動しやすく、ものを分かち合う共同体で暮らしたほうが幸せなのである。


聖書は意図的に書き換えられたもの---------------------------------------------------------------------

  聖書には数多くの真実があったが、イルミナティのローマ・カトリック教会によるさまざまな会議において、聖書はかなりの部分が書き換えられた。その理由は、彼らがつくり上げたキリスト教に合致するように、その要求に応える必要があったからである。聖職者たちは、宗教会議によって聖書の多くの部分を抹消し、かつ書き換えたのである。多くの場合、”天使”であるとか、”主の御使い”などの描写はアヌンナキだった。意図的に事実が歪められたのは数回ある。それは325年のニケア公会議、381年のコンスタンチノープル公会議、431年のエフェソス公会議、そして451年のカルケドン公会議の時に、ローマ・カトリック教会によってそれが行なわれた。そのほかにもあるが、それは特別重要な変更ではなかった。聖書は、地球の多くの人々が信じているような「神の本」ではなく、それはただ本来の律法学者とは違う書き手によって多くの修正が加えられ、かつ美化された単なる古代史の文献なのである。
 キリスト教徒を除く、世界の多くの人々が輪廻を信じている。生まれ変わるという概念は、キリスト教の教義に本来あったものだが、325年のニケア公会議において削除された。こうして初期のキリスト教において、ニビルに関する情報は聖書からはすっかり削除された。そしてキリスト教やユダヤ教は、ニビルに関する情報を常に隠していく。


■326年頃

 バチカンの地はイルミナティのローマ帝国の皇帝コンスタンティヌス1世によって、イエス・キリストの使徒ペトロの墓所とされ、この地に最初の教会堂が建てられた。やがてこの地に住んだローマ司教が教皇として全カトリック教会に対して強い影響力をおよぼすようになると、バチカンはカトリック教会の本拠地として発展した。そして755年から19世紀まで存在した教皇領の拡大にともなって栄えるようになった。
 1506年には2代目である現サン・ピエトロ大聖堂が着工し、1626年に完成した。イルミナティのバチカンでは、小さな子供達を生贄に捧げる儀式が行われており、すべての法王がそれに関わっている。それは2000年代の現代も続けられている。

 またこの頃、イルミナティのローマ皇帝コンスタンティヌス1世が、ニケアで公会議(第1ニカイア公会議)を開いた。この議会の政治的背景によってキリスト教理は創作された。続く1600年間はイルミナティのバチカンがヨーロッパ全体の政治主権を握り、十字軍や宗教裁判などで悪政を率先してきた。キリスト教は神話を使って社会を巧みに操って支配する権力者に力を与え、それは現在も続いている。

 ニケア公会議の際に、女性排除がどこまで進んでいたかをこれから読み取ることができる。この頃から、イエスの教えと称して紹介された教義の中で、「女性の概念」の悪用が急速に進んでいったのである。一番悲劇的なのは、こうして紹介された教えがキリスト本人の教えとははるかにかけ離れたものでありながら、二千年もの間、地上の権力者によって支配と操作を正当化する道具として使われてきたことである。今、宇宙におけ時空間の新しいサイクルに入ろうとしているこのとき、この過ちは修正され、人間の精神に植えつけられた歪みは正されなければならない。


女性差別の根源----------------------------------------------------------------------------------------------

 ローマ・カトリック教会は教義上、女性聖職者を認めていない。宗教的な儀式においては、出血中の女性は絶対にその場にいてはならないと強調されてきた。これは、反復される儀式そのものが、4次元にいる「アヌンナキ司祭制度の儀礼」だからである。なぜ出血中の女性の参加が禁じられるかというと、出血中の女性はコントロールの力学が演じられているのを即座に見抜いてしまうからである。しかも彼女たちの血の力は、儀式における操作の影響力を弱めることができる。アヌンナキによって地球に持ち込まれたあらゆる宗教の形態が、出血する女性を穢れ(けがれ)たものとして忌み嫌うようにさせて、女性を拒否してきたのにはわけがあった。このようにしてさまざまな宗教が女性を排除し、女性を貶め(おとしめ)てきたのである。


キリスト教の誤りは正されなければならない----------------------------------------------------------

  聖書に記されている出来事の背景には、偉大な真実があるが、その多くは意図的に書き換えられており、しかもわざと翻訳せずに残されている。それは現在の地球の社会体制を作り上げて機能させている一握りの者たちが、人類のコントロールを維持するために行なってきたことなのである。

 イエスの本来のメッセージは、後世において多くの書き換え、付け加えが行なわれて、本来のものは歪められてしまったが、それを見分けるにはごく単純に、「魂の法則」に反する信念はどれも、イエスの教えたものではないということである。イエスはこうした宇宙の法則を熟知していたので、それを聞く耳を持つ者に伝えようとした。次はその中のいくつかの例である。

①すべての人間は人種や性別、宗教にかかわらず、同じ本質を持つ存在である。つまり、すべての者が進化途上の魂であり、それゆえに兄弟姉妹である。(マタイによる福音12章50節、18章12~14節)

②魂の生命は永遠であり、死は存在しない。(マタイによる福音10章28節、3章13節)

③ 地球上の人間の務めは、無条件に愛することを学び、エゴから解放されることだ。魂がどれだけ成長したかの印は、愛の力量だけで量られる。愛だけが我々を進化させるのであり、自らの内なる神へと近づける。(マタイによる福音5章43~48節)(ヨハネによる福音15章12節)

④霊的成長進歩は、自分自身の努力にかかっている。人間の肉体的死後の運命は、生きていた時の「愛の法則」に基づいた行為、あるいは反した行為によってのみ決定される。(ヨハネによる福音3章21節)(マタイによる福音18章18節)

⑤各人はそれぞれ神との独自の繋がりがあるので、仲介者に依存して霊界と交信する必要はない。(マルコによる福音11章24~25節)(ヨハネの第一の手紙5章14節)(ルカによる福音11章9~13節)

⑥魂の成長進化はただ1度の肉体的転生では成し遂げられず、より高度な霊性を獲得する進歩のためには数多くの転生が必要である。(ヨハネによる福音3章3節~13節)

⑦「霊的裁きの法則」あるいは「原因―結果」の「因果応報の法則がある。その意味は、自分が蒔いたものは自分が収穫しなければならないということ。(マタイによる福音7章1~2節、12節)

⑧この地球上以外にも人の住む多くの世界があり、その目的はどこも同じである。すなわち、魂の霊性を進化させる学校としての役目である。(ヨハネによる福音4章2節)


 次に霊的な観点から、イエスの死後に付け加えられた、真実でないキリスト教の信念の例である。挙げればたくさんあるが、中でも霊的な進歩にとって一番悪い影響を及ぼしている最も重要な例を挙げる。

①宗教的儀式の執行に精神的な何らかの価値があり、死後に天国において特別な賜物の確保に役立つという信念。

②聖書やその他の聖典が神のみ言葉であるという信念。

③教会や聖職者が、地上における人と神の仲介者であるとする信念。

④自らの悪い行為を清算するためには「告白・告解」が必要であり、司祭から許されることで解消されるとする信念。

⑤臨終において悔改めれば、すべてが許されるという信念。

⑥イエスが十字架上で死ぬことで、人類の罪を贖(あがな)ったとする信念。

⑦原罪があるとする信念。

⑧性を何か罪深いものだとする信念。

⑨人生は1度きりであり、ただ1度の人生で魂の行く末が永遠に決められるとする信念。
 (救われる者は永遠の天国と栄光が約束され、罪人には永遠の地獄と罰が待ち受けるとする信念)

⑩キリスト教信者だけが救われるとする信念。

⑪肉体の蘇えりを信じる信念。

 霊性進歩の道には近道などはなく、自分を霊的に進化させる、つまり「救済する」唯一のものとは自己の改善であり、エゴを手放して愛の能力を成長させること以外にはない。救済には宗教的儀式が不可欠とする信念は、さまざまな教会の指導者たちが人々の霊性を監督指導し、コントロールするために利用してきたものである。
 また人々の霊性を操作したり逸脱させるために、儀式を利用するのは良くないことである。儀式など必要ないのに、どうしてその儀式を行ない続けねばならないのか。人間の歴史を見ると、儀式や象徴は、メッセージの代わりに別に用意されたあるメッセージにすり替えられてしまうことが多い。その結果、そうした儀式や象徴を盾に取り、結果的に従うべき信仰にことごとく反するという大きな過ちを犯すことになる。そのいい例が十字軍と宗教裁判である。それは胸元に大きな十字の印を付けた人々による大量虐殺と殺人であった。彼らは毎日、聖体を受けており、手に聖書を握って、死の宣告を行なった。隣人に対する愛の教えは一体どこにあるのか。

 また聖餐式(ミサ)は、イエス自身によって伝えられたのではない。イエスが自分の処刑までもう時間が残されていないと悟り、別れの晩餐に弟子たちを集めたことは本当である。だが彼は聖体を与えるような儀式だけでなく、その他のいかなる儀式や式典なども確立させようと考えたことはなかった。さらに言えば、たとえそれが象徴的なものであろうと、キリストの肉を食べ、血を飲むとする行為は、まさにカニバリズム(人肉食習慣)を連想させるものであり、イエスはそうしたものと何の関係もない。

 こうした儀式には、それ以前からある他の宗教儀式がキリスト教に取り入れられたのである。そのようにしてイエスの使徒たちの名称や十字の印などとともに、後世に導入されたのである。十字の印もイエスに由来してはいない。十字架というものはイエスの時代には、現在の電気椅子と同じように、人を処刑するために用いられていた。
 もし人々に正常な判断力があれば、自分の信仰の象徴に十字を使おうと思いつく者は誰もいなかったことがわかるだろう。イエスが現代に生まれて電気椅子で処刑されていたなら、あなた方は電気椅子をペンダントとして胸に下げようとするのだろうか。
 こうした話はかなりショッキングなものなので、キリスト信者、特にカトリック信者にとってはなかなか受け入れ難いことである。この時代の宗教組織のしてきたことは、多くの迷信と戒律で人々を怖れさせ、聖職者が自らの富と権力を手にするために神の名を利用し、長い間人々の真の霊的成長を阻害してきたのである。複雑な儀式を利用して人々からお金を巻き上げ、人々の犠牲の上に裕福な暮らしをしていた。そしてイエスがその事実を曝露したので、彼を殺した。当時のイルミナティのユダヤ教会は、イエスの人物像を利用して彼の教えを操作し、人類の霊的な成長を押さえ込んで生きながらえてきた今日のイルミナティのキリスト教会の姿と、非常に良く似ていた。こうしたことはきちんと正されるべきである。


キリスト教会の十字架の尖塔はアンテナ---------------------------------------------------------------

 古代に限らず現代でも、宗教的な建造物などの多くには富を表す秘密のシンボルが置かれて崇拝されている。キリスト教会の楕円形の窓や屋根の尖塔は、人間の性器を模(かたど)るものである。西洋の教会建築の一番上の十字架は、古代のシンボルであり、ある伝統においては「十」はエネルギーが交差する交差点を表す。
 その時代、魔女とされた人々はエネルギーを操ることのできる人々だったが、彼女たちはそうした道が交差している場所はエネルギーが何倍にも増すことを知っており、そのために互いの力を交換するためにそうした場所で集会を開いた。
 また十字架はアンテナの役目もしている。つまりその時代、人々を磔(はりつけ)の刑で罰する時、その苦痛と恐怖のエネルギーが、エーテル次元に直接放射されるアンテナとなることを、当時の政治と宗教の支配者たちは知っていたからである。そして現在でもそれはエネルギーを集めて送るアンテナの働きをしている。これは人間のエネルギーを食料としているアヌンナキたちがいるからである。
 この世界は両極化の世界である。アヌンナキはこの世界を毒や苦難、苦しみだけしか選択できない場所であると、人々に信じ込ませようとする。そしてこうしたものを選択してしまうことによって、無意識的ではありながらその周波数をエーテル次元に放ち続けてきた。もし人々が、平和的で目的を持ち、責任ある生き方に焦点を合わせることを選択するならば、人間は常にその生き方とともに存在することができる。


■366年

 東国(とうごく:関東から静岡辺り)は天下泰平の世が続いていた。しかし倭朝はまたも日高見国(ひたかみのくに)を己の王領にしようと、上毛野(かみつけの)君祖・竹葉世(たかはせ)に荒吐族(あらばきぞく)討伐を勅(ちょく)した。
 この時の荒吐族(あらばきぞく)領大津(滋賀県大津市)は凶作が続き、大津に駐留していた荒吐族(あらばきぞく)五王が大津より奥州に引き揚げることにした。
 それを聞いた竹葉世(たかはせ)と弟の田道は、時を得たとばかりに荒吐族(あらばきぞく)王が引き揚げる際に三万の兵を率いて迫った。
 そして東日流(つがる)行丘に陣を張り、荒吐族(あらばきぞく)と戦ったが敗れて中山に追われ飯積(いいずみ:千葉県印旛郡酒々井町)、山田というところで荒吐族(あらばきぞく)五王の達磨(だるま)が奇襲して田道軍を攻め破り、上毛野(かみつけの)田道はついに右肩をとりかぶとの毒矢で射抜かれ討ち死にし、兵の半数が殉じた。
 その時、田道軍の副将倭毛津禰という忠臣(ちゅうしん:家来)がいて、残る官軍を率いて魔神山に脱して田道将軍の遺骸を常棣樹の煙で干し、一年の歳月をかけて墓をつくり埋葬した。
 帰朝した上毛野(かみつけの)竹葉世(たかはせ)より報告を聞いた倭朝は、しばらくの間征夷を中断していた。

東日流外三郡誌

トマス(キリスト教)、達磨(だるま:禅宗)、縁起ダルマのつながり----------------------------------

 荒吐族(あらばきぞく)の達磨大師(だるまだいし)は、インドからやってきた僧侶で、禅宗の開祖でもあり、中国や日本で禅を広めた。昔からダルマは七転び八起きの縁起物とされてきた。キリスト教の聖書にも、「正しい者は七たび倒れても、また起き上がる」と書かれている。

 達磨大師(だるまだいし)は南インドから来たが、そこはキリストの弟子であるトマスが宣教していた場所であった。達磨大師の話にはトマスの伝説がかなり取り込まれ共通点が多い。見た目の部分で言えば、髭(ひげ)や赤い服などである。また達磨大使の命日は10月6日、そしてこの日はギリシア正教会がトマスの召天日(しょうてんび:命日)と定めている。
 京都府にある金戒光明寺に所蔵されている五百羅漢図(ごひゃくらかんず)という絵画には、キリストの昇天、弟子達の復活への祈り、それを人々に宣教するトマス(達磨)の姿が描かれている。つまり達磨(だるま)は、キリストの十二使徒の一人トマスと同一人物であった。
 その達磨(トマス)が荒吐族(あらばきぞく)五王の一人だった。キリスト教も仏教もアヌンナキとその闇の子孫たちが、宗教操作によって中身を作り替えられたものであり、名前や場所が宗教ごとに異なって作られている。それらはエジプト神話、そしてアヌンナキの物語に起源がある。

 荒吐族(あらばきぞく)の領地だった群馬県高崎市は、現在、縁起ダルマの生産量日本一を誇っている。縁起ダルマは、達磨の坐禅姿を模した置物で玩具である。


埼玉古墳群---------------------------------------------------------------------------------------------------

 この時代、関東地区にある荒吐族(あらばきぞく)の古墳数は約3万8000基であり、大和王権の2万9900基よりも多かった。この埼玉古墳群は、関東地区にある荒吐族(あらばきぞく)の古墳である。

 古墳より埴輪や黄金の装飾品も多数出土している。埴輪は垂れ目のものが多い。


■368年

 田道将軍が荒吐族(あらばきぞく)追討(ついとう)に来たが、東日流(つがる)国において敗死、伊津水門というところに埋葬された。

東日流外三郡誌

■381年頃

 コンスタンチノープル公会議で、イルミナティのローマ・カトリック教会によって聖書の一部が書き換えられる。

■392年頃

 イルミナティのローマは、キリスト教を認め国教とした。この時キリスト教以外の宗教は禁じられたことにより、オリュンピア大祭(オリンピック)も禁じられることになった。最後の第293回オリュンピア祭は翌393年に開催され、これが古代オリンピックの最後の年となった。

■395年頃

 イルミナティのローマ帝国が、西ローマ帝国と東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に分裂。サンヘドリンがビザンツ時代初期に解散したとされるが、地下で活動は続く。この直前まで会合はティベリアで行われていた。

■400年頃

 中国、南アジア、朝鮮半島など大陸から儀式用の音楽や舞踊が伝わり、後に雅楽となる。唐より唐楽が、朝鮮より高麗楽が伝わり、日本の古来の音楽と融合し、昔の歌謡や平安時代に創られた歌曲の総称が現代の雅楽となる。雅楽は神に奉納するため奏(そう)されるもので、そのルーツは古代イスラエル、さらに遡りシュメールにある。それが様々な文化と融合して変化し、秦氏などを通して日本へ伝わった。
 雅楽で使用される篳篥(ひちりき)も、シュメール文明から古代ペルシア、中国の唐の時代を経て日本へと渡ってきた。

■410年

 荒吐族(あらばきぞく)が挙兵、大和へ迫ったので、天皇空位が1年間に及んだ。

東日流外三郡誌

■414年

 荒吐族(あらばきぞく)に悪性の疫病が流行し、奥州に引き揚げる。

東日流外三郡誌

■415年

 この時代のイルミナティのグランドマスターであったヒュパティアが、415年にキリスト教徒により異教徒として惨殺された。ローマ帝国アエギュプトゥスの著名な女性の数学者・天文学者・新プラトン主義哲学者であるヒュパティアは、370年頃に生まれた。ヒュパティアは400年頃、アレクサンドリアの新プラトン主義哲学校の校長になった。彼女はプラトンやアリストテレスらについて講義を行った。そして、彼女の希に見る知的な才能と雄弁さや謙虚さと美しさは、多数の生徒を魅了した。
 
■431年頃

 エフェソス公会議で、イルミナティのローマ・カトリック教会によって聖書の一部が書き換えられる。

■450年頃

「英語」はイルミナティが作った------------------------------------------------------------------------

 古英語が450年半ばから1100年を中心に、イングランドで使われた。これはインド・ヨーロッパ語族ゲルマン語派に属し、現代英語の祖語にあたる言語である。古英語の前はインド・ヨーロッパ祖語と呼ばれ、インド・ヨーロッパ語族の諸言語の共通の祖先とされる理論上の言語である。

 音楽はまぎれもなく「世界共通言語」である。この言語も他の言語と同様に、「数学」に基づいている。テンポからピッチに至るまで、音楽は本質的に数値的な重量であり、感情を伝える振動の伝達であり、さらに情報や知性の音である。そして耳やDNAで聴くこの音楽は、精神性を向上させたり、また貶めたりもする。つまり数学は、すべての創造の基礎なのである。

 言葉とは、音である。音とは、音響的な電磁的周波数である。これらは、水分の存在する空気中に浮かぶ電子の圧縮と膨張であり、池の水面に投げた小石が作り出すさざ波によく似ている。鏡のような水面や、賛美歌が歌われているような澄み切った場に小石がふいに投げ込まれれば、水面にも聴衆の心にも思わず波が立つ。それは「ハイドロソニック」(水中音響)でも同じで、音は水を伝わっていく。水中だけでなく、水分を含む空気中であればどこでも、部屋や屋外などどんなところへも伝わる。しかし液晶の超伝導体である水を取り除くと、音の伝達はまったくできなくなる。

 周波数は、ヘルツまたはサイクル/秒で測定され、活性化した水の波が数で表現される。つまりすべての言語は、音楽楽曲と同様に数学に基づいている。すべての言語が数学に基づいているように、文字や象形シンボルも当然「数」に基づいている。特に西洋言語においては疑う余地がない。英語という言語の理解のために数秘術の考察が必要となる。西洋言語の創造のために文字を数字に変換するコードが存在し、この知識は地球の生物の創造、そして宇宙の生命について理解するために欠かせないものである。

 創造主の言語は数学である。すべての自然創造物は数学に基づいている。なぜならすべての自然の構造は、「聖なる幾何学」に立脚しているからである。原子番号6である炭素の有機化学連鎖が典型的な例である。雪の結晶や蜂の巣は、自然の中の数字を映し出している。シンプルな数学に基づくこうした秩序は、宇宙のいたるところに見ることができる。自然界では、エネルギー的に調和のとれた状態が保たれており、たとえ不調和なものであっても調和するように平和的に機能している。
 自然は、恒常性(ホメオスタシス)や、また宗教的な「正義」と呼ばれるものを好む。「正義・恒常性」とは、「罪・混沌」の対義語である。つまり自然のエネルギーである、数学、音楽、振動エネルギーは、健康へのより深い理解や、病気の治療法提供のために必要とされるものなのである。ジョゼフ・ブレオ博士は、古代ソルフェジオ音階を使った研究をしていた時にこの概念を理解した。彼は、もっとも緻密な言語である数学は、常に真実を語るがゆえに「神の言語」であるという。

A-1  B-2  C-3・・M-13=1+3=4 W-23=2+3=5 Y-25=2+5=7 Z-26=2+6=8
(略)「8」は神性・永遠性を表す。「9」は完全を表す。

「無限のサイン」である8は、創造主の数である。それはまた、宇宙の構造でもある。「8」はまた、元素周期表において酸素を意味する数でもある。これは興味深い事実である。原子番号8が、命の奇跡の中心となるエネルギー(電子)を持っていることは確かである。水素がその電子を提供する。原子番号8の酸素と、原子番号1の水素との組み合わせが、水酸化イオン「OH-」の中の「9」の数字を生み出す。アルカリ化物質である水酸化イオンは、純粋なエネルギーを持つことから、おそらく宇宙一素晴らしい病気予防物質であろうと考えられる。さらに「H+」+「OH-」=H2Oという組み合わせは水である。

 過去10年間にわたりNASAの科学者たちは、宇宙には水があふれていることを発見した。宇宙深部の氷の結晶を撮影し、火星の岩からも水を発見している。宇宙の至るところで数は基礎となり、「ハイドロソニック」(水中音響的)な創造説を支えてきた。建設的な振動周波数が水を伝わり、実際の物事の発現を指揮するエネルギーが言語や数学的情報を伝達したのである。
 創造主のシンボルである「8」は、非常に独特な性質を持っている。8の倍数を並べると、アルファベットを後ろからカウントダウンして(逆に戻る)数が得られる。この「後ろから(backwards)」という言葉は、「反故(ほご・破られた)約束(backwords)」を表している。「新世界の言語(英語)」の創造主であるゲルマンの血を引くアングロサクソンと、後の支配層であるノルマン人は、人類の精神性を最大限に抑圧するために、意図的に英語を数字的に逆さま(backwards)にし、逆さまの精神性になるように仕組んだのである。
 イルミナティ=地球の独裁者は、キリストの処刑の500年から1000年後の時代に、ヘブライ語を数学的に崩して英語を作り出した。それはテンプル騎士団が創設される少し前のことである。

 英語を逆さまに作るために、明らかにピタゴラスの神秘学の数学が基になっている。数学はギリシャにおいては、創造的で霊的なテクノロジーとしてよく知られており、テンプル騎士団がエルサレムの「神殿の丘」を拠点としていたころに、団員によってもたらされたと信じられている。旧約聖書の「民数記」の節番号を古代のソルフェジオ音階を使ってコード化(暗号化)したレビの司祭のように、英語を構築した者たちも同じく、ピタゴラス数学をコード化して英語に組み込んだ。創造性と言語、また霊的な物事など、そして人類に影響を与えるエネルギー的な関連から、彼らが英語に多くの意図を組み込んだことは明らかなのである。

 この英語の構築に関する深遠な真実は、考えられる二つの理由によって隠蔽(いんぺい)されてきた。なぜなら「知識」とは「力」であるからで、イルミナティは数学に基づいた言語の知識と力を得たのである。「聖なる言語」は、理性的な左脳からハートで話す人々に対してよりその力を及ぼし、コミュニケーションにおいては個人的に表現される神や、人との交わりを反映する神の現れであるのが普通だった。そしてイルミナティは、彼らの目的を実現することで利益を得るために、言語を変えたのである。つまり、英語という「新世界の言語」は、本来の霊性をひっくり返し、人々を精神的・文化的機能不全に陥れることで、独裁者が人々を奴隷のように操作できるようにしたのである。
 今、神の計画が次々と明らかになりつつある。英語圏では、この力ある天啓の知識と、人々の潜在能力の解放が成熟を迎える前に、「退化する時代」を必要としている。つまりあえて言うなら、英語の持つ数秘術的な意味において、英語はエネルギー的に混乱し、破壊されているのである。英語による個人的なコミュニケーションだけでなく「交わり」そのものが、ヘブライ語やサンスクリット語、古代アラム後、さらに古代ハワイ語などの聖なる言語と比べると、「退化」してしまっている。


■451年頃

 カルケドン公会議で、イルミナティのローマ・カトリック教会によって聖書の一部が書き換えられる。

■464年

 出羽国(山形県と秋田県)の荒吐族(あらばきぞく)が悪性の疫病によって全滅する。

東日流外三郡誌

■476年頃

 西ローマ帝国の皇帝ロムルスは実際は権威を持っておらず、ゲルマン人の将軍達が実験を握っていた。その中で軍人オドアケルが皇帝ロムルスを退位させたことで西ローマ帝国は滅んだ。その後オドアケルは東ローマ帝国の皇帝ゼノンへ西ローマ皇帝位を返上、自らはゼノンの代理としてラヴェンナを中心としてイタリア統治を開始し、イタリア王に即位した。オドアケルはローマ元老院をそのまま残し、古代ローマ式の統治方法を採用した。

■477年

 伊勢神宮が建立される。

 伊勢神宮の外宮(げくう)の別宮(べつぐう)には、アヌ、エンキ、エンリルが祀られている。峻厳(しゅんげん)の柱は風宮(かぜのみや)でエンリル、均衡(きんこう)の柱は高宮(多賀宮"たかのみや")でアヌ、慈悲(じひ)の柱は土宮(つちのみや)でエンキが祀られている。
  
 
■495年頃

 イルミナティのカトリック教会では、イエス・キリストに従った使徒の一人のペトロを初代のローマ教皇とみなし、初期のローマ司教たちはペトロの後継者、ペトロの代理者を任じていたが、時代が下って教皇の権威が増すに従って、みずからをもって「イエス・キリストの代理者」と任ずるようになっていった。「キリストの代理者」という称号が初めて歴史上にあらわれるのは495年で、ローマの司教会議において教皇ゲラシウス1世を指して用いられたものがもっとも初期の例である。教皇はカトリック教会全体の首長という宗教的な地位のみならず、ローマ市内にある世界最小の独立国家バチカンの首長という国家元首たる地位をも担っていた。ただこのキリスト教は、326年頃の第1ニカイア公会議で、民衆を巧みに支配する為に創作されたものであり、現在まで続いている。

■550年頃

 この頃、イスラエルから伝わった相撲は西日本各地で広まり、須恵器には力士の小さな像が装飾として飾られている。島根県、岡山県、兵庫県などでもそういった須恵器は作られた。

■552年頃

 仏教伝来。百済の聖明王(せいめいおう)の使いで訪れた使者が、欽明天皇(きんめいてんのう)に金銅の釈迦如来像や経典、仏具などを献上したことが始まり。仏教伝来と日本の被差別部落には関係があり、被差別部落は日本にやってきた古代ユダヤ人によって作られた集落である。この根拠は、仏教伝来と共に牛を殺す=殺生となり、古代ユダヤ人たちは、牛を犠牲にし続けたため、江戸時代になって身分制度に組み込まれ、穢多(えた)と呼ばれるようになった。そして明治時代になって解放されたが、なお差別は続く。
 この牛を犠牲にする習慣は、人間が創造主の前に罪を犯し悪をやった場合は、牛あるいは羊を犠牲とし、創造主の前に罪の許しを得るというもので、旧約聖書に書かれている。故に、犠牲の字は両方とも牛偏(牛偏に正義の義、また義は羊の下に我)、(牛偏に生きる)であるとする。

 秦氏の一団には、鞣革(なめしがわ)職人もおり、これが後の皮多(かわた)・河原者となった。(元に戻れば、波多 → 秦と遡ることが出来る)。また、被差別者である穢多(えた)=古代ユダヤ人は裏社会を形成したため、忍者、ヤクザ、四条河原などで勧進興行を行い、安土桃山時代には河原者(河原乞食)とも呼ばれた出雲阿国(いずものおくに)が始めたと言われる歌舞伎や、室町時代には伊賀服部氏の出自である世阿弥(ぜあみ)が大成した能(または芸能界の役者・俳優)などの職種に、多くを見出すことが出来る。

etc.

関東の荒吐族(あらばきぞく)------------------------------------------------------------------------------


 またこの頃、関東の荒吐族(あらばきぞく)と中国の北斉(550〜577年)の間には交流があり、北斉から水瓶(みずがめ)が荒吐族(あらばきぞく)へもたらされていた。しかし倭国と北斉との間には国交はなかった。北斎は騎馬民族の国であり、それが荒吐族(あらばきぞく)へ伝わった。


 これまでにメソポタミア文明のデザインを持つ太刀がもたらされたが、それが荒吐族(あらばきぞく)の群馬県の高崎観音塚古墳より出土する。

 観音塚古墳(全長約105m)の前方後円墳には、一尺35センチの高麗尺(こまじゃく)という古代中国の寸法が使われていた。この石室を35センチで計算すると石室内の350cm(10尺)と280cm(8尺)ときれいに計算できる。さらに天井の石は畳一畳より大きく、50トンを超える重さである。

 また伊勢塚古墳の中は小さな小石の間に大きな石を挟んだ緩やかなドーム状の部屋になっている。その壁の小石だけで天上の巨大な天上石を支える造りになっている。これは日本外からやってきた技術のある人々がこの王の墓を造ったのであった。

 また、古墳から出土する埴輪では、関東の埴輪は武人や武器などが多く、近畿では家が多い。

東日流外三郡誌
 
■553年

 蘇我稲目(そがのいなめ)が奈良県に向原寺を建立し、仏教をひろめたが、天下に大疫病が流行するのはこの仏法のせいだと物部(もののべ)連が天皇に奏上(そうじょう:申し上げる)して向原寺を焼き払い、仏像を難波の入江に放棄してしまった。稲目(いなめ)はまた再建したが、物部氏がまたもこれを焼き払った。

 またこの頃、物部氏(もののべうじ)は勢力を得るようになると、自家に関連する歴史の改ざんを行い、家柄の箔(はく)付けを行った。そして、この改ざんされた歴史を各地の物部氏に広めた。また、海部氏(あまべし)の系図に、海部氏の祖アメノホアカリがニギハヤヒと同じであるという文章を付け加えるように圧力をかけた。各地のアメノホアカリを祀る神社の中には、二ギハヤヒを祀るところも出てきた。

『ベールを脱いだ日本史』 坂本政道

■574年頃

 秦氏(はたうじ)で有名な人物である秦河勝(はたのかわかつ)は、飛鳥時代の皇族であり政治家である聖徳太子に仕え、太秦に蜂岡寺(広隆寺)を創建した。そして推古天皇の摂政として活動し、冠位十二階の制や憲法十七条を制定し、中国に小野妹子などの遣隋使を派遣するなど海外との対等外交も展開した。

 秦河勝はこの頃に朝鮮半島を経由して日本列島の倭国へ渡来した渡来人集団である。また大阪の四天王寺(593年〜)にある聖徳太子の七星剣(しちせいけん)には、北斗七星が刻まれている。北斗七星はシルクロードを旅する時の道標として使われたが、北斗七星を崇拝することはペルシャに繋がっている。
 聖徳太子と繋がりの深い奈良の飛鳥寺を建てた職人達の名前の名簿は、漢字の当て字で書かれているが、それはペルシャ語で解読できる。大阪外国語大学の名誉教授、井本英一氏の解読によると、太良未太(タラミタ Tara Mita)はペルシャ語の当て字でダーラー・ミトラと言い、寺の匠(たくみ)や総監督のような意味である。また白昧淳(はくまいじゅん)はPayman-dunで物差し入れの名前、麻奈文奴(まぬもんぬ)はMarnar+Minagで大理石+上薬というようにである。つまりペルシャ語の職業や道具の名前を、職人達の名前としていた。これは飛鳥寺の建立にはペルシャ人が関わっていた事を意味している。

 また聖徳太子が住んだ斑鳩宮(いかるがのみや)と飛鳥京(あすかきょう)を結ぶ太子道や法隆寺近くの道は、北から北北西に20度傾いているが、これは2500年前にアヌンナキによって作られた古代ペルシャのペルセポリス宮殿と同じ傾きで、古代ペルシャのシリウス信仰からきている。シリウスは、古代ペルシャで第二の太陽とされていた。古代ペルシャの暦では冬至の日(12月22日頃)が大晦日だったが、どちらの神殿も20度傾けることにより新年を迎える瞬間、南南東20度の角度の正面にシリウスが見える角度が北北西20度だった。これを聖方位としてペルシャ人は崇めていて、住居の窓もそれにあわせて作られていた。当時の太子道でも同じくシリウスが見られた。つまり聖徳太子や秦河勝、そして秦氏はメソポタミアからの渡来人であり、その知識を受け継いでいた。
 アヌンナキのニビルはシリウスBの軌道を廻っていた巨大惑星であり、そこからやってきた。 全ての文化はアヌンナキが揺らいであり、よって彼らの故郷のシリウスを崇めるのである。



ここまでの秦氏渡来の流れ--------------------------------------------------------------------------------

 古代日本は、物部王国であった。彼らは、海のシルクロードを渡ってきたイスラエルの失われた十支族の中の一部の者たちである。日本の建国はBC660年であり、失われた十支族が建国したと考えても良い年代である。(北朝が滅亡したのはBC722年。)
 最も勢力を誇っていたのは、東海地方から畿内まで治めていた尾張氏(尾張地方の名の由来)と、畿内から丹後付近(京都府北部)までを治めていた海部(あまべ)氏である。尾張氏は代々熱田神宮の宮司の家系であり、別姓が海部氏である。つまり、尾張氏と海部氏は同族の物部氏である。よって、愛知県西部に海部(あま)郡があり、海部(かいふ)なる姓がある。海部氏こそ、代々、京都の天橋立の袂にある籠(この)神社の宮司の家系である。

 籠(この)神社は天橋立(京都府北部)の袂(たもと)にある。天孫降臨となった場所は、全国にいろいろあるが、天橋立を伴うものはここしかない。天橋立は、天浮橋(あめのうきはし)が倒れたもの。似たようなものにヤコブの階段(梯子)がある。アブラハムの孫ヤコブ(後のイスラエル)は、旅の途中、野宿して夢を見た。先端が天まで達する階段が地に立てられ、天使たちが昇り降りしていた。そして、天橋立も同様に神が昇り降りしていた。故に、天橋立のモデルはヤコブの階段(梯子)である。

 この古代日本の物部王朝へ、原始キリスト教の流れを汲む秦氏が来日した。そして、ある目的のために国中をカッバーラで封印し、今日に至る。それには、日本固有と思われている神道(しんとう)が大きく関わっている。

 秦氏は朝鮮半島からの渡来人であり、土木工事や鉄器製造、機織りなどに優れた殖産豪族であることは知られている。例えば、京都の嵐山は秦氏の拠点の1つであり、桂川の治水工事や有名な渡月橋の建造は、その例である。それだけでなく、彼らは芸術的センスにも優れ、秦氏の氏寺、広隆寺にある新羅様式の弥勒菩薩半跏思惟像は国宝第1号に指定されたほどのものである。

 北朝イスラエルが滅亡後、北朝十支族は歴史から消えた。聖書には、失われた支族は東で膨大な数になっている、とある。そして、彼らは「マナの壺」と「アロンの杖」を携えていた。エルサレムから見て東側、大陸には多くの遊牧民が生活していた。スキタイ族、サルマタイ族、匈奴(きょうど)、鮮卑(せんぴ)、烏桓(うがん)などである。ユダヤ民族は元々遊牧民の血統であるから、いつしか遊牧民と同化した。遊牧民は宗教に対しては寛容であるので、彼らが何を信仰していても問題なかった。

 そして、次第に極東方面までに達していた。このような騎馬民族が、大国中国をして、戦々恐々とさせていたのである。その防衛手段として造られたのが、万里の長城である。

 BC2世紀ごろには、東北アジアにツングース系騎馬民族「扶余、夫余」が出現した。その大王の名が「解夫婁(ヘブル)」であり、当然ヘブライのことである。従って、扶余(ふよ)族こそ、失われた十支族の流れなのである。そして解夫婁(ヘブル)の息子の大王フルが婿入りして、日本で応神天皇となる。

 ついに南朝ユダ王国も滅亡寸前になると、異教徒の手に落ちる前に、原始キリスト教徒の祭司(レビ)一族は密かにアークを持ち出していた。原始キリスト教徒は祭司一族と共に、失われた十支族の後を追ってシルクロードを東征したのである。「契約の箱アーク」とイエスに関する物を持ち出して。
 彼らを追った理由の1つには、彼らは「マナの壺」と「アロンの杖」を持っている。そして、もう1つはイエスの教えである。イエスは、ユダヤ人のみに対して伝道したが、“イスラエルの家の失われた子羊”にも伝道しなければならないとしていた。子羊とは神の生贄であり、神の僕のことである。それは、神と契約を交わした、失われた十支族のことに他ならない。そして、聖書には、失われた支族は東で膨大な数になっている、とある。
 そこで、ユーフラテス川を越え、シルクロードを東征していくと、ヤマトゥ(弓月王国)の地に当たる。そこで彼らは、元々いたシュメール~ヒッタイトの末裔と同化し、鉄器製造、土木工事、芸術などの高度な技術を受け継いだ。

 彼らが更にシルクロードを東征して中国へやって来た時、中国式の名前、すなわち、漢字で姓と名が必要とされた。ユダヤ人は姓が無かったので、何か姓を付けなければならない。中国は彼らの姓を“秦氏”とした。“秦”とは“秦の始皇帝”の“秦(シン、チン)”ではない。当時、中国ではローマ帝国のことを大秦と書いた。この頃のエルサレムは、ローマ帝国領であった。大秦(だいしん)から字を採って“秦氏”、また先ほどのように“秦人”で“流浪の民”の意味がある。彼らが、放浪の民だったからである。
 更に、彼らが自分たちのことをアラム語で“イエフダー(ユダヤ)”と言っており、「フダー」から「ふた」「はた」としたのである。(中国や朝鮮半島の非ユダヤ系秦氏は「チン」と読む。)よって、南朝の原始キリスト教エルサレム教団の彼らこそが、本当の秦氏なのである。

 彼らは中国と戦ったり牽制(けんせい)したりすることなく、失われた十支族の後を追った。そして朝鮮半島に達し、とうとう失われた十支族の流れを汲む扶余(ふよ)族と合流した。そして、更に南下して伽耶(かや)に達した。
 そして、文化的には新羅(辰韓)の様式を継承していた。しかし、4世紀頃に中国が台頭すると、高句麗がそれに抵抗。そして半島全体が動乱に巻き込まれた。この頃の伽耶は新羅と百済に挟まれた小国だったので、海を隔てた九州物部王国と同盟を結んでいた。この動乱を機に、伽耶に居た十支族の流れを汲む騎馬民族が、東シナ海を渡って九州物部王朝に渡来した。その頃の遺跡に、突如として馬具が多く見られるのは、そのためである。その大王こそが、伝説上で海側に国を造ったが衰退し、自殺したと言われている、フル(真沸流)なのである。
 物部氏は失われた十支族の内、海のシルクロードを渡ってきた者たちである。彼らは「アロンの杖」を携えていた。そこへ、「マナの壺」を携えた騎馬民族の大王フルが婿入りして初代天皇、応神天皇となった(神武ではない。)。

 応神天皇は何回かに亘って秦氏を呼び寄せた。そして、イエスのカッバーラに従い、今日の日本の基礎となる土台を作り上げた。ユダヤの三種の神器なども封印した。徹底的に封印した。神社は言うまでもなく、民一人一人までも。カッバーラに囲まれているので、いつしか誰もカッバーラをカッバーラとも思わなくなった。漢字、相撲、七五三、門松、御札、家紋などである。(日本の場合、西洋の黒魔術的カバラと違い、イエスが明らかにした正統派カバラなので、原音に近い「カッバーラ」とする。)

 秦氏は弓月君に率いられて来日したとあるが、それが真沸流ではない。真沸流は失われた十支族の流れを汲む騎馬民族の大王であり、“秦人”と呼ばれていた秦氏である。エルサレム教団の秦氏ではない。しかし、外から見れば、同じユダヤ系の区別のつかない秦氏なのである。
 つまり、朝鮮半島から渡来した秦氏とは、最初が失われた十支族の末裔の騎馬民族であり、後の日本の根幹を形成することになる中核の秦氏は、原始キリスト教エルサレム教団(特に祭司一族)だったのである。

 イエス・キリストをヘブライ語ではヨシュア・メシアッハ、アラム語ではイシュ・マシャ、メソポタミア東部やインドではイズ・マシと言う。イズ・マシという発音は京都の太秦(うずまさ)である。「ウズマサ」はヘブライ語で「ウズ=光」、「マサ=賜」という意味もある。
 また、種なしパンを「マッツォ」と言い、聖体拝領で使う特別なパンも種無しパンである。そして「秦氏」の総本山は京都の「松尾大社」である。松尾大社は酒の神でもある。マッツォと酒。まさに、聖体拝領を連想させる。ちなみに、マッツォはロシア語では「モチ」と言う。
 古代ローマ帝国の時代、中国ではローマ帝国のことを「大秦(だいしん)」と書いた。この頃のエルサレムは、ローマ帝国領。「大秦」と「太秦」は極めて類似している。

 京都御所は、聖徳太子のブレーンであった秦河勝の邸宅跡である。何故、天照大神の子孫が秦氏の邸宅跡に住んでいたのか?それに、聖徳太子は厩戸皇子(うまやどのおうじ)と呼ばれ、馬小屋で生まれたとされており、大工の神様でもある。まさにイエスである。さらに八角形の夢殿もある。
 天皇陛下をはじめとした貴族が着る服で、最も高貴な色は紫。イエスが鞭打たれていた時も、(赤)紫の外套を着せられていた。


■581年

 物部連が奥州に来て蘇我氏討伐の兵を募り、戦乱を起こしたが遂に敗退、荒吐族(あらばきぞく)の長となった。

東日流外三郡誌

■594年頃

 推古天皇の時、ムハンマド(モハメッド)が来日する。ムハンマドは570年ごろサウジアラビアのメッカで、交易商人の子として生まれた。604年頃、帰国する。

■613年頃

 476年にゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって西ローマ帝国が滅び、7世紀にムハンマドを指導者とする「新興宗教イスラム教」が誕生すると、それまでキリスト教によって圧迫を受けていたパレスチナ地方は、イスラム運動の支配下に入った。イスラム教によって民族的に目覚めたアラブ人により、イスラム帝国は急激な成長を遂げ、西アジアから北アフリカ、そして南ヨーロッパ一帯にかけてを版図にし、キリスト教圏と対峙した。しかし、イスラム教徒は一部の例外もあるが、基本的にはユダヤ人を迫害し弾圧するということはなかった。なぜならば、アラブ人とユダヤ人はアブラハムの兄弟関係に当たるからである。そのため、アラブ人はユダヤ人を被保護民族と位置づけ、特別な人頭税を課す代わりに、その宗教と生活を保護した。そのため、ユダヤ人は本部をバビロンに置いた。
 このように、イスラム圏内の大多数のユダヤ人は、身分差別をされながらも、その共同体を保ったまま、安定した生活を送ることができたのである。しかも、中世イスラム社会では、ユダヤ教学最高の学者マイモニデスを一大頂点とした学術活動がなされ、ユダヤの思想文化面に輝かしい展開もみられたのである。
 だが、中世イスラム社会とは対照的に、中世ヨーロッパ社会、すなわちキリスト教社会においては、古くからユダヤ人を嫌悪する差別感情が定着していたため、ユダヤ人の職業は制限されていた。


■638年

 荒吐族(あらばきぞく)が一挙して倭の政治にそむいた。倭朝は上毛野(かみつけの)片名に荒吐族(あらばきぞく)の討伐を宣(せん)した。
  上毛野(かみつけの)片名は大挙して日高見国(ひたかみのくに)に攻め寄せたが、兵が寄せ集めの烏合(うごう)の衆(しゅう)であったので一戦で敗退した。
 倭朝はこれだけ敗北が続くのには何かわけがあると考えた。結論は、奥州を討伐するのに旭日(きょくじつ)に向かって矢を射るゆえであるとし、以後から戦いは旭日(きょくじつ)に背を向けて戦える位置へ寄せて、そこから大軍で攻めれば利があるとして、以後はその策をとることに決めた。

東日流外三郡誌

■645年

 春、東日流(つがる)有澗郡に物部一族が落ちて来た。

東日流外三郡誌

大化の改新---------------------------------------------------------------------------------------------------

 大化の改新が起こる。大化元年(645)から翌年にかけて中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)・中臣鎌足(なかとみのかまたり)が中心となって行った、蘇我氏打倒に始まる一連の政治改革。唐の律令制を手本として、公地公民制による中央集権国家建設を目的としたもの。その国家の実態は「支配階級は中国人を中心にし、その中国人に妥協した藤原氏」となっていた。中大兄皇子は天智天皇であり、中臣鎌足は藤原氏の始祖で藤原鎌足である。


■647年頃

イスラエルのダビデと大避神社(おおさけじんじゃ)の関係------------------------------------------

 中国ではダビデを漢訳して「大闢(だいびゃく)」と書くが、秦氏は西日本の日本海各地に大避神社(おおさけじんじゃ)と号する神社を建立し、また京都の広隆寺の隣に秦始皇帝を祭神の1つとして建立した大酒神社(おおさけじんじゃ)も、昔は大辟、さらにさかのぼると大闢(だいびゃく)と号していた。つまり大避神社は、ダビデ神社ということである。


 また同神社が管理している木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)にある「三柱鳥居(みはしらとりい)」という珍しい鳥居は三位一体を表し、カバラの生命の木とも関係している。


 秦河勝を祭神に祀るのが兵庫県坂越(さこし)の大避神社(おおさけじんじゃ)で、坂越の大避神社で天神祭にあわせて「神社貴重宝物特別展」が開催され、河勝の作とも河勝が弓月国から持ってきたとも言われている舞楽面が展示されていた。


■648年

 この頃まで日本は平穏な世が続いていたが、荒吐族(あらばきぞく)王に津刈丸(つがるまる)が就くと、自ら日本将軍と名乗り、五州の五王を挙動して故地邪馬台国奪回を企てた。
 あわやまたも倭国との間で、騒乱が起こるやに見えたが起こらなかった。

東日流外三郡誌

■652年

 唐国船が東日流(つがる)於呂処浦に来航、十二宗(じゅうにしゅう)の仏法寺を三峰山(みうねやま:三重県と奈良県)の麓に建立し、僧30人を住(すま)いさせるようにと願った。

東日流外三郡誌

■655年

 難波の倭王宮(大阪市中央区)より招きがあり、柵養(きこう)の荒吐族(あらばきぞく)郡司五人、荒吐族(あらばきぞく)長老と津刈丸(つがるまる:のちの安倍安東)が、その招きによって、騎馬兵600人を従えて談議に訪れた。
 要件は、荒吐族(あらばきぞく)が異国の政治に倣(なら)って行っている居住地の五王制の制度を改め、倭国の治政に服することを要求するものだった。
 またも同じことの要求だったが、即刻回答のできるものではなかった。この時、倭は回答は後日、安倍比羅夫(あべのひらふ)を赴かせるのでその時で良いと言った。倭朝は話し合いに訪れた者全員に、その証として冠二階の位を授けたが、津刈丸(つがるまる)だけは断り応じなかった。

 荒吐族(あらばきぞく)の一行は、和睦することを条件として奥州に引き揚げた。倭朝は安倍比羅夫(あべのひらふ)を奥州に赴かせるにあたり、もし荒吐族(あらばきぞく)が倭朝の治世下に服さない時は、征討(せいとう)するようにと命じた。
 安倍比羅夫(あべのひらふ)は四年の歳月をかけて軍船380艘(そう)をつくった。その規模は兵の数が1万8000人も乗り込めるほどのものだった。
 安倍比羅夫(あべのひらふ)はまずその内の180艘を率いて東日流(つがる)に向かうこととし、残りの船200艘(そう)は予備として越(こし)の国(福井県から山梨県の一部)に控えさせた。

東日流外三郡誌

■656年頃

 京都の八坂神社が創建される。高句麗より来日した伊利之使主(いりしおみ)が、新羅の牛頭山に祀られる素戔嗚尊(すさのおのみこと)を山城国(やましろのくに)愛宕郡(おたぎぐん)八坂郷に祀り、「八坂造」の姓を賜ったのに始まる。ヘブライ語で八坂→ヤーサカとは神を称える「神よ!」という表現で、神(ヤー)の尊敬表現。

■658年

 安倍比羅夫(あべのひらふ)は軍船180艘(そう)に兵一万を乗せて、越州柏津を進発して東日流(つがる)に入り、荒吐族(あらばきぞく)王・津刈丸(つがるまる)と五王全員と会って、倭国に帰属する回答を求めたが、色よい返事は得られなかった。
 安倍比羅夫(あべのひらふ)は味方の軍船が停泊している有澗浜に引き揚げて陣をたてなおし、いざ、荒吐族(あらばきぞく)討伐の兵を挙動しようとしたその時、荒吐族(あらばきぞく)は、安倍比羅夫(あべのひらふ)が大勢の兵を伴っていたことから、戦は避けられないと想定していて、いつでもそれに対応できるよう軍策、その配備に怠りはなかった。
 会談が決裂したことから、荒吐族(あらばきぞく)は先手を打って陸と海より安倍比羅夫(あべのひらふ)の船団を囲んだ。あわや惨事発生かと思われたが、危険を察した安倍比羅夫(あべのひらふ)は、とっさに討伐の備えを急遽、鹿狩りにする布陣に改め、兵は弓や楯を踊りの道具に変じ、大円形をつくって踊りつめた。
 こうして、人垣で囲んで狩った獣は、鹿20頭、兎68匹、狐7匹、狸28匹、猿43匹、熊3匹、野生の馬17匹、山鳥31羽で、それを料理して大饗宴(だいきょうえん)を催し、歌い踊って荒吐族(あらばきぞく)の蜂起(ほうき)をかわした。
 その宴会の席上で安倍比羅夫(あべのひらふ)は、荒吐族(あらばきぞく)の齶彦、渟代彦を倭国の臣にすると言い、荒吐族(あらばきぞく)の長老・東日流(つがる)のワケグラ王馬武(ばぶ)に大乙上(だいおつじょう)、宇曽利(うそり)小表の青蒜(あおひる)に小乙下(しょうおつげ)、その臣、有健者には位一階を授けると言って、さらに長老馬武(ばぶ)には蛸旗(たこはた)20頭、鼓二面、弓矢二具、鎧二領を授け、改めて倭朝への帰属を請願したが、受け容れられなかった。
 こうして安倍比羅夫(あべのひらふ)の荒吐族(あらばきぞく)を倭朝へ帰属させる説得は失敗に終わった。
 やむなく安倍比羅夫(あべのひらふ)は、引き揚げるための物々交換の話に移り、軍船20艘(そう)と北海の干物、飲水、干肉、食糧との交換を申し出た。
 しかし荒吐族(あらばきぞく)王の津刈丸(つがるまる)は、この条件を納得せず、さらに50艘(そう)の軍船と、その軍船に積まれている矢、鎧のたぐいもすべて差し出すようにと追加要求した。
 安倍比羅夫(あべのひらふ)は致し方なくすべてを受け容れて倭に帰り、荒吐族(あらばきぞく)と物々交換で得た北海の産物を荒吐族(あらばきぞく)の貢物であると報告し、宮廷人の前でつくろった。
 荒吐族(あらばきぞく)は安倍比羅夫(あべのひらふ)と物々交換で得た軍船を荒吐族(あらばきぞく)の船と比較し、速度が劣るとしてすべてを焼き沈めてしまった。
 倭に帰った安倍比羅夫(あべのひらふ)の諸将は、この失策の恥をすすごうと再度荒吐族(あらばきぞく)討伐を企てた。

東日流外三郡誌

 
■659年

荒吐族(あらばきぞく)の浮木(うきぎ)の軍策-----------------------------------------------------------

 荒吐族(あらばきぞく)討伐の企てを朝廷に奏上して許可を得、越(こし)に残して置いた軍船200艘(そう)に、よりすぐった精兵を乗せ、朝廷の立てた旭日(きょくじつ)を背にして戦う作戦を実践、東日流(つがる)外浜の後方に上陸しようと軍船を寄せ、いかりを降ろした。

 しかし、これも荒吐族(あらばきぞく)が察知し、夜中ひそかに浜辺近くに停泊している軍船に近づき何やら仕掛けをし、地中から湧き出る大量の油を運び、浜辺に停泊している軍船のまわりに流した。

 翌日、夜明けと共に宇曽利(うそり)の荒吐軍(あらばきぐん)が、ハタという数十艘の小舟で安倍比羅夫(あべのひらふ)の船団に近づくや、数艘のハタを残してパッと四方に散った。
 しばらくすると、残し置かれた数艘のハタよりもうもうと黒煙があがり、その黒煙は、海風にあおられてみるみるうちに広がり視界を絶した。
 そして海辺では荒吐族(あらばきぞく)の兵の一人が、その水面に向かって矢を放つと、一瞬にして海が燃え上がり、浜辺近くに停泊していた軍船に火が移り燃え上がった。
 安倍比羅夫(あべのひらふ)の兵は「あれよ、蝦夷(えみし)の地の海は燃える」と言って肝をつぶし、船上の兵は戦意を喪失して恐怖におののいた。
 浜辺近くにとまっていた22艘(そう)の軍船が紅蓮(ぐれん)の炎につつまれて燃え上がった。安倍比羅夫(あべのひらふ)の兵は、急ぎいかりを揚げようとしたが、時すでに遅く、軍船は舵を切り落とされて漂い、船同士が激突して移り火し、燃え上がり沈んでいった。その様はあたかも船の墓場を見るようだった。
 これは荒吐族(あらばきぞく)の長老・馬武(ばぶ)の軍策で、荒吐族(あらばきぞく)が仕掛けた海中の水隠れ柵・浮木(うきぎ)のからくりによるものだった。浮木(うきぎ)は荒吐族(あらばきぞく)が鯨(くじら)を捕まえるときに使う漁法の一つで、この仕掛けによって安倍比羅夫(あべのひらふ)の軍船は見事なほどに、外浜の入江に封じられた。
 浮木(うきぎ)の仕掛けは十重に張られ、船の自在がきかず、浜に上陸しようとする者は、波打際で待ち構える荒吐族(あらばきぞく)兵のかっこうの的となりえじきとなった。
 また燃え上がる火の熱さから逃れようと、海に飛び込む者もあったが、燃えている火に巻き込まれ、苦しみの叫び声をあげて死んでいくのみだった。

 安倍比羅夫(あべのひらふ)はなす術がなく、船中の弓、矢、武具を海に投げ込み、貢物を献じて降伏を願い出たが許されなかった。
 安倍比羅夫(あべのひらふ)は荒吐族(あらばきぞく)の虜となって、船に積んでいた兵船具から兵糧まで、全荷物を戦利品として奪われ、そのうち軍船200艘(そう)のうち100艘を焼失した。
 この時、東日流(つがる)より援軍に駆けつけていた荒吐族(あらばきぞく)の長老・馬武(ばぶ)が、虜となっている安倍比羅夫(あべのひらふ)に向かって言った。
「わが東日流(つがる)は、倭の鬼門に当たるところにあり、そこへ向かって弓を引くような仇心(あだごころ)は、汝らに百厄(ひゃくやく)を招くことになる」
と、安倍比羅夫(あべのひらふ)は大いに得心(とくしん)し、降伏の証としておのれの頭冠を荒吐族(あらばきぞく)王の津刈丸(つがるまる)に献(けん)じ、それに付しておのれの姓・安倍の姓を与えた。これ以後、荒吐族(あらばきぞく)の王らは安倍姓を名乗った。

 安倍比羅夫(あべのひらふ)は解き放たれ、生き残った兵を指揮し、陸路と海路に分けて退帰させたが、海路をとる兵は、いつ沈没するかわからないような朽ち船、26艘(そう)をあてがわれ、陸路をとる兵は裸にされて解き放たれた。裸にされて退く兵は、武人としてこれほどの恥はなかった。

東日流外三郡誌

■661年

 またも荒吐族(あらばきぞく)に敗れた安倍比羅夫(あべのひらふ)は、おのれの恥に憤怒(ふんど)やるかたなく、三たび朝廷に奏請(そうせい)して許しを得、援軍に大華下阿雲比羅連、大山物部連熊(だいせんもののべのむらじくま)・大山守君大石(だいせんもりのきみおおいわ)を加えて兵船180艘(そう)を連ねて、東日流(つがる)安東浦及び後潟(うしろがた)に攻め寄せた。

 しかし安倍一族(荒吐族)は、その領港諸々に、一挙皆兵で飽田(あきた)、渟代(ぬしろ)、胆振(いぶり)、吹浦(ふくら)、吾妻浜(あづまはま)、十三湊(とさみなと)の水戸口(みとぐち)、外浜(そとはま)、宇曽利(うそり)に至る海辺の警護を固め、安倍比羅夫(あべのひらふ)の軍船に上陸を許さなかった。
 安倍比羅夫(あべのひらふ)はまたもなす術がなく降伏した。沖に停泊していた軍船はそれを見ると、皆逃げ失せてしまった。
 安倍比羅夫(あべのひらふ)は虜となり、多くの物を戦利品として奪われ、30日の間、八枚河岸に捕縛(ほばく)されていたが、一族の長老・馬武(ばぶ)の情けによって死刑だけは免じられた。
 安倍比羅夫(あべのひらふ)は涙を流して己が犯した罪の深さを謝罪したが、安倍一族(荒吐族)はこれを許さず、今女慎国に流すことを決めた。安倍比羅夫(あべのひらふ)以下全員が渟代(ぬしろ)まで歩かされ、そこより朽船に乗せて解き放たれた。粛慎国(みしはせのくに)は契丹(きったん:中国北部)の東北にあり、韃靼(ダッタン:北アジアのモンゴル高原から東ヨーロッパのリトアニアにかけて)の属国であった。
 粛慎国(みしはせのくに)に流された安倍比羅夫(あべのひらふ)は、このまま帰参(きさん)しては朝廷に対して面目が立たないと、渡島(わたりしま:北海道)粛慎国(みしはせのくに)のおとなしい地住民の珍愚志族(ツングースぞく)を名目上、討鎮めたと、安倍一族(荒吐族)の王に頼み込んで証明してもらい倭に帰った。(※この史伝を日本公使では、奥州及び粛慎国"みしはせのくに"を討ったと言っている)


 この三度の戦で勝てなかったことを倭では、東日流(つがる)は倭宮の鬼門にあたると怖れ、侵せば百厄の凶が兆すと、以後東日流(つがる)は、征夷の軍議から外された。

東日流外三郡誌

■662年

 中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:後の天智天皇・38代)が、荒吐族(安倍一族)の建国600年を祝う。

東日流外三郡誌

■663年頃

 朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)で、倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との間で戦争が起こる。これは白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)と呼ばれ、唐・新羅連合軍は18万の大軍であった。日本は白村江の戦いに敗れ、唐の植民地支配を受け入れる。そこでヘブライ語から漢字へと強要され、仏教、景教(キリスト教)、儒教、道教が混合し、密教として日本に渡来した。そして倭国は「日本」へ国号を変えた。


■672年

 壬申の乱が起こる。671年に天智天皇が崩御すると、その子、大友皇子と天智天皇の弟、大海人皇子(オオアマノミコ)が不和となり、672年に壬申の乱が起きたが、大海人皇子(オオアマノミコ)は勝利して第39代天武天皇として即位した。
 これにより応神天皇以来続いていた秦氏系の皇統から海部氏(エフライム族)系の皇統である天武系列が八代続くことになる。


■677年

 荒吐一族(あらばきいちぞく)は、十三湊(とさみなと)、安方湊(やすかたみなと)、吹浦湊(ふくらみなと)、舞戸湊(まいとみなと)、土崎湊(つちざきみなと)を要湊とし、更に加えて小泊(こどまり)、金井、神田、野追知、大間、糠部(ぬかのぶ)の七湊を設け、陸海共に実益をあげ巨万の富を得た。

東日流外三郡誌

■685年頃

 天武天皇14年、第40代の天武天皇が、伊勢神宮の神宮式年遷宮の制を制定する。

封印された宇宙人-------------------------------------------------------------------------------------------

 天武天皇のころに、日本古来の多くの神的な存在たちが封印された。聖徳太子も封印された。ニビルのイナンナである女性的な神的存在(瀬尾律姫=せおりつひめ、白山姫=しらやまひめ、アラハバキ)も封印された。もっと多くの神々が各地にいたのを、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の系統に統一した。縄文からの信仰も封印された。
 三輪山の大神神社に関連するニギハヤヒという大君がいて、古代にニギハヤヒ王朝があったが、これも封印されている。ニギハヤヒを鎮魂(ちんこん)する儀式を、新嘗祭(にいなめさい)の前日の11月22日に宮中で行なっている。これは鎮魂祭(ちんこんさい)と言い、天皇の鎮魂を行う儀式である。三輪山にはシリウス人、デイアナ・観音も関連している。

『ベールを脱いだ日本史』 坂本政道

■690年頃

 日本で最初で最大の都城である藤原京が、持統天皇によって奈良県橿原市に遷都される。

■697年頃

ヴェネツィア共和国の誕生--------------------------------------------------------------------------------

 東ローマ帝国の自治領として誕生したヴェネツィア共和国(697年-1797年)は、アドリア海と東地中海での貿易により繁栄し、強力な海軍を背景に、その版図はダルマチアを始めとしてアドリア海沿岸からイオニア海、エーゲ海、キプロスに及んだ。

イエスに追放された者たちのその後---------------------------------------------------------------------

  AD18年頃、イエスによって神殿から追放された者たち、特に、金貸しや神殿売春を行っていた者たちはフェニキアに逃れ、いつかイエスと彼らの信者に復讐してやることを誓っていたが、そのために、彼らが目を付けたのは地中海対岸のヨーロッパだった。そこはまだ、イエスの教えが普及しておらず、フェニキアとの交易が盛んだった。そこに加担したのが、イスラエルの支族の中のダン族である。彼らはフェニキアの商人に紛れて渡航し、最初の寄港地をフェニキアに因んでラテン語風にフェニーチェ=ヴェネチアと名付け、彼らの拠点とした。

 そこでも、彼らは相変わらず高利貸しを続けていたが、いつしか、王侯貴族に貸し付けるのが最も効率的に利益を回収できることが解った。彼らは金を貸し付けた王侯貴族の弱みに付け込んで婚姻関係を結び、社会的地位も確保していったが、あくまでも“裏”に徹した。表の位は高くはなく、裏から王侯貴族を操った。彼らは皮膚が浅黒かったので、“黒い貴族=ゲルフ”と言われた。そして、後に普及した教会も彼らの手中に落ちた。

 呪われたカナンとは、追放された者たちが隠れ住んだからで、そして、いわゆる“ヴェニスの商人”の一部となった。彼らの宗教はユダヤ教だと多くの人がそう思っていたので、事あるごとに“ユダヤ人が…”と言われるようになってしまった。しかし、実情はタルムードを曲解したサタン崇拝である。イエスに敵対し、カネを崇め、性的退廃や人身供儀(じんしんきょうぎ)を主体とするのはサタン崇拝である。それが後に、シオン議定書(1897年頃)となって彼らの計画が文書化された。

 王侯貴族の中でも、最初はヴェネチアのあるイタリアだが、後に本拠地はオランダを経て英国となった。オランダはダイヤの取引など、彼らが独占的に行っていた国である。そして、世界を股にかけ、麻薬貿易も盛んに行って莫大な利益を上げてきた。そのオランダから渡ったのが、彼らの血を引くオレンジ公ウィリアムで、英国はそれ以来、ずっとその家系であり、エリザベス女王へと続いていく。

 特に、ダン族は王侯貴族に深く関わっている。祖のダンは、旧約では“マムシ”と表現され、ヨハネ黙示録の中では、通常は十二支族とされているダン族が外され、代わりにレビ族が加えられている。それは、後にダン族がこういったことに深く関わり、救われないことを預言してのことである。ヨーロッパ王室は家系が複雑に入り組んでいるので、金融と麻薬貿易という点で彼らの手中と言っても良い。それを仕切っているのが国際銀行で、いわゆる国際金融資本である。
 時代が下って表に出てきたのが、ドイツで“赤い楯”を称したロスチャイルド一族で、彼らの中枢中の中枢である。元々のバビロニア式貨幣経済では貨幣は物々交換の手段だったが、彼らが手段から目的へと変えた。そして、彼らに逆らって貨幣発行を独自に行おうとしたのがアメリカ独立戦争だが、実質的には独立できなかった。

 “自由の国アメリカ”は“特定のレールの上に乗った自由”ということである。アメリカの中央銀行とされている連邦準備制度は、彼らの米国代理店のプライベート銀行である。それが、勝手に貨幣を発行している。つまりアメリカ大統領も彼らの傀儡(かいらい)である。
 そして、産業の発展に伴って軍事技術が隆盛(りゅうせい)になると、彼らは“戦争”という手段を使って莫大な富を得るようになった。裏から、対立する両方に資金提供していた。例えばナチスなどにである。表向きは対立させ、裏では手を結んでガッポリ儲ける。あらゆる戦争がそのように仕組まれ、偶然に起こった戦争など、1つも無い。そして、多数の人々を処分し、その怒りをまた別の方向に向けさせて、憎しみが憎しみを呼ぶ“魔の連鎖”で富を増やしていった。まさに、サタン的にである。
 そして、かつてのイスラエルに彼らのサタン崇拝の神殿を建設するため、失われた国家イスラエルを第二次大戦中に造り上げた。そのために、多くのユダヤ人たちが犠牲にされた。特に、本来のユダヤ人の血統である日本は、焼き尽くす捧げ物としてイスラエル国家建設のために捧げられた。
 聖書では、重要な願いや儀式の際には、生贄を捧げていたが、つまり、焼夷弾(しょういだん)や原爆で無差別爆撃された日本ほど、その犠牲としてサタンへの捧げ物に相応しい生贄は無かった。よって、トドメとして長崎の教会の上に、冥界の王プルートの名を冠するプルトニウム爆弾を投下した。

 またフリーメイソンとの関係がよく言われるが、フリーメイソンは元々技術者集団の組合で、そこにカバラの使い手たちが加わった。それを、彼らが乗っ取った。しかし、本家のフリーメイソンは日本に来ているので、それはヤフェト系である。当然、秘密の地下組織としての活動だが、その中心が薔薇十字団(1614年頃〜)である。ここから派生したのがイエズス会、テンプル騎士団、マルタ騎士団、聖ヨハネ騎士団などで、裏からヴァチカンに潜り込み、いつの間にか手中に収めた。ある時点から、その中心はイルミナティという名称に変えられた。
 “イルミナティ”は“光明を得た者”という意味だが、そのように神の装いをしているが、ルシファーも“光をもたらす者”という意味である。そちらの意味で使っている。神とサタン、善と悪、いずれも二元論を基本としている。最大の悪を行うには最大の善を施(ほどこ)さなければならない、というのが彼らの哲学である。よって、彼らの息の掛かった金融家は、多大な寄付をするわけである。その悪は、すべてサタン意識への忠誠である。いわゆる神智学などもここから出ているので、オカルトは彼らの強固なマインドコントール手法である。五芒星をひっくり返し、神の知恵の象徴からサタンの知恵へと転換しているなどである。表向き、誰もが納得できるようなことも彼らの“魔術”の1つである。
 例えば自由、平等、博愛。自由と平等は二律背反(にりつはいはん)なので両立し得ないが、納得してしまう。フランス革命は、彼らが扇動して引き起こした。この手法が、21世紀の初めまで、堂々と使われた。そのシンボルは、フランス国旗の赤、青、白である。だからこそ、表に国旗として堂々と出して隠しているわけである。これがカバラの常套手段である。彼らは“闇のカバラ”なのである。
 赤、青、白を国旗として掲げる国は他には、北朝鮮、アメリカ、イギリス、オランダ…いずれも同根ということである。それに五芒星は、一握りの国際金融家が富の大多数を独占して多数の貧しい人たちを“平等”に管理するという、悪魔的な意味合いで使われている。北朝鮮、中国、旧ソ連など、共産国家である。アメリカは五芒星が50個もあり、つまり裏では共産主義ということである。そして“50”は“5+0=5”である。星の数も意図的だった。

 
■701年頃

 この頃、中国の百済の滅亡など緊迫する東アジアの国際情勢の中で、倭国は中央集権化を進めることで政権を安定させ、国家としての独立を保とうとした。そのため当時の政権は、唐・朝鮮半島の統治制度を参照しながら、王土王民思想に基づく国家づくりを進めていった。その集大成が大宝律令であった。大宝律令により国家の楽制として雅楽寮(うたいのつかさ)が設けられ、平安時代には代々の天皇は雅楽が必須教養とされた。

役小角(えんのおづの)--------------------------------------------------------------------------------------

 大和国修験宗(しゅげんしゅう)役小角(えんのおづの)仙人が、東日流(つがる)石化崎に漂着して自ら宗をひろめ、入滅する時には、東日流(つがる)の仏宗が十三宗となって、於呂処浦を十三湊(とさみなと)と呼ぶようになった。


東日流外三郡誌

■700年頃

アヌンナキが地球から去る--------------------------------------------------------------------------------

 この頃、地球には約400人のアヌンナキがいた。彼らの4分の3がマルドゥクを支持しており、マルドゥクを地球の王でありニビル王だとも思い込んでいた。これはニビル王国にとって大きな問題であり、マルドゥクは常に時代の爆弾であり、大きな懸念であった。またマルドゥクに従う者たちは、誰もアヌ王の後継者とみなされることはなかった。
 700年頃、アヌンナキが地球を去ることになった時、北アメリカ中西部、南東部および南西部のアヌンナキの植民地では、先住民がアヌンナキから農業、畜産、および他の基本的な事柄を管理する方法を指導された。こうして紀元前30万年頃にアヌンナキが人間を作り出して以来、初めて人間は、地球上に一人で放置された。

■710年頃

 平城京が日本の首都になる。唐の都「長安」などを模倣して作られ、藤原京より遷都。元明天皇によって行われる。奈良県奈良市及び大和郡山市に位置していた。


 中国神話の四神である朱雀(すざく)はアヌンナキのイナンナのことであり、平城京にあった12の門のうち最も重要な門であった朱雀門とはイナンナの門である。朱雀門の正面にあった朱雀大路(すざくおおじ)も、イナンナの道ということになる。
 平城京は中国の長安城を模したもので、長安城にも朱雀門がある。紀元前206年〜8年の前漢(ぜんかん)の時代に劉邦(りゅうほう)が長安城を建設した。そもそも中国の文明もアヌンナキが作ったものであり、さらにイスラエルから失われた10支族の秦氏が中国で都を作った。その文化が日本へも伝わった。朱雀門はバビロニアの神イシュタル(イナンナ)のイシュタル門のアジア版である。


 倭朝は元明帝(43代天皇)の時、巨勢麻呂(こせのまろ)を鎮守府(ちんじゅふ)将軍に、佐伯石油(さえきのいわゆ)を征越後蝦夷将軍(せいえちごかいしょうぐん)に任命し、初めて出羽(でわ)に城柵を築かせた。

etc.

■712年

古事記の編纂と偽書説-------------------------------------------------------------------------------------

 倭朝では、太安万侶(おおのやすまろ)が古事記を編纂し、元明天皇に献上する。しかしその内容には邪馬台国や荒吐族(あらばきぞく)についての歴史がなく、その他矛盾点も含め偽書説は現在もなくなっていない。『古事記』の原本は現存せず、幾つかの写本が伝わるのみである。
 日本神話は秦氏によって創られた。それは、まずは天照大神ありき、という大前提に立って創作されたのである。籠(この)神社の石碑が示しているように、「豊受大神 別名 天御中主神 別名 天照大神」で、すべての神々が天照大神に集約されること、最初に登場したわけでもないが、天照大神が国家の最高神であること、各家の神棚には必ず天照大神の御札が必要なことからも言える。よって、“天孫降臨”神話により、実際に“太陽神の孫”たるイエスが地上に降臨したことを暗示しているのである。


■720年

日本書紀の編纂と偽書説-----------------------------------------------------------------------------------

 倭朝では藤原 不比等(ふじわら の ふひと)が命じて、日本書紀が完成する。日本書紀の編纂は国家の大事業であり、皇室や各氏族の歴史上での位置づけを行うという極めて政治的な色彩の濃厚なものである。しかしそこにも古事記と同様、邪馬台国(海部氏・エフライム族系)のことなどの記載がなく、信頼性が低いものという見方が現在も続いている。古事記と日本書紀には、本当の歴史が書かれていない。

 
■723年

 倭朝が陸奥(むつ)に多賀城を築いたが、荒吐族(安倍一族)が怒り、これを焼き払った。

東日流外三郡誌


■744年頃

八咫烏の結成-------------------------------------------------------------------------------------------------

 イスラエルの十支族のレビ族が秦氏となった後、日本で八咫烏となる。元出雲・丹波国で唐の長安より会得した迦波羅(かばら)の呪術を基に、陰陽道、神道、神祇祭祀(じんぎさいし)の陰を司り、奉仕する為に八咫烏神を主祭神とし、種々の呪術や火、水、土、木を用いた祈祷(きとう)、儀式を執り行っている。

 平安時代(794年〜)から江戸中期(1700年代)まで榮え、明治政府の陰陽道弾圧により消滅寸前までの衰弱を強いられるが、その困難を乗り越えて現在に至るまで、小規模ながらも唐の時代より続く迦波羅(かばら)による陰陽道、神道儀礼の祭祀祈祷を続けている。
 八咫烏は丹波本拠や下賀茂神社(京都)、糺の森河合神社(ただすのもり かわい じんじゃ:京都)、上賀茂神社(京都)、熊野大社(島根)、伊勢神宮(三重)、出雲大社(島根)などを拠点に祭祀活動も行っている。八咫烏は戸籍、皇籍に属さない金鵄(きんし)3人、十二烏12人、二十四烏24人に加え、戸籍に属する天狗烏の神職など69人の奉職者からなっている。
 現在、八咫烏は大震災や大噴火に備え国家地鎮、世の迷いを鎮める国家安泰の祭祀や宮中祭祀の委任奉仕に力を注いでいる。

■761年

 倭朝が陸奥と出羽に築いた柵に荒吐族(安倍一族)が攻め入り、朝廷人を追い出して柵を掌握する。

東日流外三郡誌

■765年

奈良の平城宮にいたペルシャ人の証拠------------------------------------------------------------------

 2016年に、奈良市の平城宮跡から出土した8世紀(700年代)中頃の木簡に、ペルシャ(現代のイラン付近)を意味する「破斯(はし)」という名字を持つ役人の名前が書かれていたことが、奈良文化財研究所の調査でわかった。
 国内でペルシャ人の名前を記した出土遺物が確認されたのは初めてで、奈良時代の日本の国際性を裏付ける成果となる。
 木簡は1966年、人事を扱う式部省があった平城宮跡東南隅の発掘調査で出土した。文字が薄く肉眼では一部が判読不能だったが、赤外線撮影をした結果、役人を養成する「大学寮」でのペルシャ人役人の宿直に関する勤務記録とわかった。
 表側の上部に「大学寮解 申宿直官人事」、下部に、定員外の特別枠で任じられた役人「員外大属(いんがいだいさかん)」という役職名、中国語でペルシャを表す「波斯(はし)」と同じ読み・意味の「破斯」という名字を持つ「破斯清通」という人名と、「天平神護元年(765年)」という年号が書かれていた。
■770年

 男系男子で見れば第47代・淳仁天皇(じゅんにんてんのう)までは確実に天武天皇=海部氏(エフライム族)・尾張氏の血統だが、第49代・光仁天皇からは天智系(秦氏系)となった。第45代・聖武天皇は藤原不比等の娘を后とし、実質的にこの時点から藤原鎌足と藤原不比等という表の秦氏が外戚として権力を握っていった。

 海部氏系の天武系天皇は皇室の菩提寺・泉湧寺(京都市東山区)で祀られておらず、平安時代、天武系の天皇陵に対しては奉幣の儀も行われていない。これなども、海部氏・尾張氏の血を引く天武系天皇と、天武系と婚姻関係を結んでいた天皇が無視されていることの一例である。
 天武系男系の最後の天皇、聖武天皇は藤原氏に抵抗し、東大寺に行幸して大仏に北面して頭を垂れた。これは、藤原不比等らが創作した新生・中臣神道を否定したことを象徴する。
 天武天皇は海部氏(エフライム族)によって養育された海部氏の王であった。熱田神宮、源氏、織田信長、豊臣秀吉など、海部氏(エフライム族)・尾張氏系が台頭してくるたびに潰されている。
 現在、マナの壺は外宮に、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は皇居にあるが、外宮の元伊勢は唯一、籠(この)神社だけなので、外宮は海部氏(エフライム族)=古代の皇統(秦氏の応神天皇以前)を、皇居は現在の皇統を象徴している。
■784年頃

 京都の長岡京が日本の首都になる。桓武天皇の勅命により、平城京から北へ40kmの長岡の地へ遷都。現在の京都府向日市や長岡京市、西京区に位置していた。

■791年

 坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)が巨軍で東日流(つがる)へ攻め入ったが、修験宗、依行者の説得によって軍を退いた。

青森ねぶた祭-------------------------------------------------------------------------------------------------

  青森ねぶた祭りの起源は、のちに征夷大将軍となる坂上田村麻呂が、この時、荒吐族(あらばきぞく)の東日流(つがる)の蝦夷征討(えみしせいとう:三十八年戦争・第3期)の戦場において、敵を油断させておびき寄せるために大燈籠(だいとうろう)・笛・太鼓ではやし立てたことを由来とするものである。
 現在、青森県青森市で8月2〜7日に開催される夏祭りであり、毎年、延べ300万人以上の観光客が訪れる。1980年には国の重要無形民俗文化財に指定された。

東日流外三郡誌

■794年頃

 桓武天皇により、平安京が日本の首都として定められた。現在の京都市の中心部。1869年(明治2年)に政府が東京に拠点を移すまでの日本の首都。エルサレムはヘブライ語で平和な都市、つまり平安京を意味する。ここにも朱雀大路(すざくおおじ)や朱雀門(すざくもん)があり、朱雀とはアヌンナキのイナンナのことである。

 太秦(うずまさ)周辺で鴨川を修復しながら先住していた秦氏たちを、同じユダヤ人である藤原氏が後からやってきて、彼らを追い出して平安京を作った。そして藤原氏の子孫は天皇の外戚となって勢力を拡大し、摂政・関白という位について摂関政治を行っていく。摂政とは天皇が子供や女性だった場合に天皇の代わりに政治を行う立場であり、関白とは天皇が大人になってからも天皇の代わりに政治を行う立場のことである。

 藤原氏にとって藤原という姓は、中国人から付けられたものであり、それを嫌っていた彼らは後に、近衛(このえ)、冷泉(れいぜい)、鷹司(たかつかさ)、一条、二条、などと改名する。

日本の支配階級はイスラエルからのユダヤ人の末裔-------------------------------------------------

 次の図を見れば、日本の支配階級は過去から現在まで、古代イスラエルからのユダヤ人の末裔であることがわかる。秦氏が藤原、源、平、三井、忌部などに改名し、その一族が現代まで日本を支配している。


etc.

平安京の構造-------------------------------------------------------------------------------------------------

 平安京がアダム・カドモンであるが、下の図は旧平安京の見取り図である。正方形の部分を塗りつぶしていくと、長方形の升目(ますめ)で構成された人形(ひとがた)が浮かび上がる。船岡山はアダム・カドモンの頭部に相当する。更に、その浮かび上がった人形の外形を浮かび上がらせると鳥居となり、鳥居の額束の部分が大内裏となる。このアダム・カドモンは、上から見て向かって右=東が重要である。平安京は南向きで、太陽は南から北を照らし、太陽は神の象徴である。だから、太陽から見て向かって右=上から見て向かって右=東が重要となる。そのため、貴族の館を含めた現在の御所は、元々の大内裏の位置(船岡山の南)よりも西ではなく東に移動している。

 秦氏は船岡山に磐坐(いわくら)を置き、神の姿を完成させた。また、船岡山はT字型十字架の罪状板にも相当する。罪状板には「ナザレのイエス、ユダヤの王」とギリシャ語、アラム語、ラテン語の3言語で書かれていた。これをラテン語で記述すると、“Iesus Nazarenus Rex Indaeorum”であり、頭文字を取ると“INRI”で、“稲荷=INARI”の語源である。

 その証拠に、船岡山には命婦稲荷神社があり、稲荷神社の総本山である伏見稲荷の元宮として最古の稲荷神社となっており、稲荷は宇迦御魂(ウカノミタマ)=豊受大神=ヤハウェであるから、稲荷という名称からも、ヤハウェ=イエスということを暗示している。また、この人形自体が十字架でイエスを象徴すると同時に、鳥居はヤハウェを象徴しているから、イエス=ヤハウェを暗示している。そして、船岡山の船=「アーク」だから、「契約の箱アーク」も暗示しており、南北(条)、東西(坊)それぞれ12の升目は、イスラエルの十二支族とイエスの12人の使徒を表している。
 エルサレムには船岡山に相当する山があり、それは“聖なるオリーブ山”である。エルサレムのT字型の頂点は神殿の燔祭台の位置であり、その下に血を落とすための丸穴が開いていた。その場所はアブラハムが息子イサクを犠牲にしようとしていた場所であるため、その丸穴はアブラハムが聖別して建てた柱の跡と考えられている。そこは“モリヤの山”“シオンの丘”とも言われている。


平安京のルーツはインダス文明、そしてシュメール文明--------------------------------------------

 平安京は日本では珍しい計画都市であったが、平安京はこのインダスの文明に歴史的な繋がりがあり、そのルーツは紀元前2700年頃に栄えた都市モヘンジョダロなどのインダス文明にあり、モヘンジョダロなどインダスを計画したのは、紀元前4400年頃に大きく栄えた文明であるシュメールの叡智を引き継いだ人々である。モヘンジョダロもシュメールも計画都市であり、荘厳な建物が数々存在し、多くの人々が暮らす美しい街であった。
 平安京は、秦氏の力によって作られたものだが、秦氏は、その数10万人という人数で渡来して来た人々であり、西方の地からやってきた。その意味は、秦氏がインダスから来たということではなく、両者の文化的ルーツが同じで、シュメールということである。

ひらがな・カタカナとヘブライ語------------------------------------------------------------------------

 古代イスラエルからの末裔が日本へやってきて、ヘブライ語からひらがなとカタカナを生み出す。ヘブライ語は古代イスラエルにおいて神代文字が流用されて作られた。

■800年

ハザール国がバビロンのタルムード・ユダヤ教を国教にする---------------------------------------

 この頃、コーカサスからカスピ海北岸のハザール王国には100万人が存在し、巨大王国として存在していた。そしてハザール国王に、ロシアや周辺国から最後通告が言い渡された。ロシアなどの周辺国の国民は長年の間、ハザール国から甚大な被害を受け続けた。そのためロシアや周辺国はハザール国王に、アラブの3種類の宗教(イスラム教、キリスト教、ユダヤ教)のうちの1つを選びハザール国民(子供たちも)に実践させるよう通達した。ハザール国王はユダヤ教を選んだ。そして周辺国の要請に応えてバビロンの黒魔術オカルトは二度と実践しないことを約束した。
 しかしハザール国王とその取り巻き(オリガルキー)は約束を破り、バビロンの黒魔術(悪魔崇拝)を実践し続けた。彼らが実践していた悪魔崇拝儀式は、子供たちを生贄に捧げ、子供たちの身体から血液を抜き取り、その血液を飲み、心臓を食べるというものであった。
 このような闇のオカルト儀式は、バアル信仰(マルドゥク)から来ている。ハザール国王はロシアや周辺国に彼らが黒魔術オカルトを実践し続けていることを隠すために、ユダヤ教と彼らが信仰していたルシファーの黒魔術をユダヤ教に併合させ、新たなユダヤ教(悪魔のハイブリッド密教)、つまりバビロンのタルムード・ユダヤ教(邪悪なオカルト)をハザールの国教にした。そしてハザール人は、これまで通り、周辺国から来た旅人らに盗賊行為、窃盗、殺人を繰り返した。
 そして周辺国の旅人らを殺害した後、彼らの身分証明書を盗み、彼らに扮して生き続けた。彼らは現在まで身分を偽り続けてきた。また、今でも子供を生贄にする古代バアル信仰(マルドゥク)のオカルト儀式を実施している。




■811年

 陸奥(むつ)鎮守府(ちんじゅふ)将軍永世官の藤原冬嗣(ふゆつぐ)左大将が、東日流(つがる)へ攻め入ったが敗退する。

東日流外三郡誌

■827年

 唐船が十三湊(とさみなと)に来航し、泉大光院に像を献ずる。

 
■855年

 荒吐族(あらばきぞく)の統主・安倍清兼が奥州平征に侵領していた和人(わじん:アイヌ以外の日本人)の役付(やくつき)者を滅ぼし、自ら日本(ひのもと)将軍を宣言した。

東日流外三郡誌

■869年頃

祇園祭---------------------------------------------------------------------------------------------------------

 祇園祭の起源となった御霊会(ごりょうえ)が、京都にある東寺真言宗の寺院の神泉苑(しんせんえん)で行われた。これは疫病の流行が続いた為に朝廷によって無病息災を祈念して行われ、970年からは毎年行うようになる。
 祇園祭はノア一家が大洪水を無事乗り越えたことを祝う王のシオンの祭り(古代ユダヤ7月の祭り)であり、ノアの箱船と大洪水を表している。両祭りは日にちも内容も類似している。
 どちらも疫病を払うもので、7月1日から1ケ月間祭りは続く。7月17日の山鉾巡行(やまほこじゅんこう)の日はイスラエル人にとって聖なる日で、旧約聖書「創世記」第8章、ノアの箱船がアララト山に漂着した日で、祭りもクライマックスを迎える。
 また祇園祭を彩る山鉾(やまほこ)はノアの箱船そのものを象徴し、山鉾を装飾する鳥獣や草花は洪水を生き延びるために箱船に収容された生き物を表している。山鉾のような祭の飾り付けを「山車(ダシ)とも呼ぶ。


 これは、シルクロードの果てから、新羅経由でやってきた秦氏が、古代イスラエル文化を日本に伝えたもので、平安京をつくったのは桓武天皇だが、技術・資金の多くは秦氏からのものでもあり、祇園祭を主催する八坂神社をつくったのも秦氏だった。

 祇園祭は毎年7月17日がクライマックスである。この日は、ノアの箱舟がアララト山に漂着した日であり、それを記念したものである。(一般的な謂われは表向きである。)
 祇園の名称の由来は、日猶(にちゆ)同祖論者の間では“シオン(Zion)の丘”と言われている。シオンの丘は、アブラハムが息子イサクを犠牲にしようとしていた場所であり、“モリヤの山”とも言われている。確かに、祇園の氏神がある八坂神社の後ろは東山であるものの、平安京の風水的には水を司る青龍であり、祇園の場所も平地であるから、丘や山には相応しくない。
 それよりも、エデンの園にあった川の名称の方が相応しい。エデンの園は4本の川、すなわちピソン川(多量の)、ギホン川(外へ流れ出る)、ヒデケル川(チグリス)、プラス川(ユーフラテス)の水路から水を引いた場所にあった。チグリスとユーフラテスは知られているが、ピソンとギホンに相当する川は、現在は見られない。しかし、ランドサットによる高解像度画像で、クウェートとバスラ付近にある砂利の堆積跡がクウェート川で、ピソン川に相当すること、また古代の国クシュシュの主要な川で、現在は干上がってしまったカルン川がギホン川に相当することが判明した。ラテン系言語のように、ギホンの発音から“h”を抜けばギオンとなる。そして、ギホン川はクシュシュの土地全部を取り巻いており、ノアの洪水で世界が水に覆われていたイメージに重ねることができる。
 また、ギオンがギホン川の象徴であるならば、鴨川から祇園の東端に至るまで川ということになり、東端にある八坂神社が青龍を祀る氏神なのも納得できる。そうすると、到達する八坂神社(の後ろの東山)はアララト山に相当し、そこから現在の人類の繁殖が始まった。八坂は弥栄(いやさか)であり、繁栄を意味する。
 そして、大洪水後に人類の繁栄を約束したのは主=ヤハウェであるから、八坂=弥栄=ヤハウェが人類を繁栄させる約束をした、となる。(また、箱舟で救われたノアの家族は8人で8=ヤ=ヤハウェとなる。)つまり、祇園の語源はエデンの園のギホン川である。

 祇園祭で繰り出す32隻の山鉾(やまほこ)は、「生命の樹」に於けるセフィロトとパスの数を合わせたものである。セフィロトは隠されたダアトを除いた10個、パスは22個である。ダアトは“知識の門”であり、そこを通るにはイエスのカッバーラを知らなければならない。この祭りはエデンの園、ノアの洪水、ヤハウェに関連するが、イエスには直接関係しない。そのため、隠されたセフィロトであるダアトは数えないのであろう。
 山鉾(やまほこ)は「(アララト)山」に関連するが、何故か、他の祭りで使われるような神輿(みこし)ではなく山車(だし)である。神輿(みこし)は「契約の箱アーク」であり、モーゼ以降の時代のことである。祇園祭で再現しているのはノアの箱舟なので、「アーク」が造られるよりも前のことである。そのため、神輿ではなく、山に関連する山車(だし)となる。
 なお、伊勢神宮のお祭りでも神輿(みこし)は出ないが、神輿とは「アーク」を模したものであり、“本物”が存在する神宮では神輿を担ぐ必要が無いからである。

 祭りで使用される山鉾(やまほこ)という絵には西洋や中近東を描いた絵がかけられており、旧約聖書の内容のものまである。これは10支族であるユダヤ人がやってきた行程や、先祖のルーツを描いている。彼らはアヌンナキのエンリルより地球統治を託されたアブラハムの子孫で、直系血族である。



五山の送り火(ござんのおくりび)---------------------------------------------------------------------

 京都の7月の祭りが祇園祭ならば、8月は「五山の送り火(ござんのおくりび)」である。(「大文字焼き」は通称で、正式名称ではない。)送り火は仏教の精進送りのように思われているが、そうではない。日本に於ける仏教は死者のための宗教のように思われているが、仏教は元々、死者や祖先を無視した。すべてを断ち切るのが解脱・悟りへの道だからである。しかし、中国に導入されてから、先祖を敬わないとは何事だ、ということで、ユダヤ教やキリスト教のように先祖を敬うことを始めたのである。だから、精霊流しや送り火は、仏教のものではない。

 その証拠に、京都よりも古くから送り火を行っていた所がある。それは、群馬県である。群馬県多野郡吉井町の付近は、昔は多胡(たご)群と呼ばれ、統治していたのが羊太夫(ヒツジダユウ、7~8世紀)という人であった。興味深いことに、この人の墓からキリスト教の十字架と、イエスを示す“INRI”の文字が刻まれた古銅券が発見された。これは、年代的に後のキリシタンのものではなく、秦氏の原始キリスト教である。そして、名前の“羊”は“神の子羊”である。
 また、群馬県もその名の通り、奈良時代前後から羊や馬が放牧され、遊牧民の流れを汲む者たちが居たことを表している。その羊太夫の死後、この地の人たちが彼を偲んで、送り火を毎年行ってきた。
 毎年8月16日、城山(しろやま)という山の斜面で行う。文字はその時々で異なり、「大」であったり、雨乞いを兼ねて「雨」や「天」であったりする。点火道具は仏教式に108燈が用いられるが、昔は12束の藁であった。そして、集めた柴(しば:大きくない雑木)の束に12人で点火する。
「契約の箱アーク」はシケム→ベテル→ギルガル→シロ→エルサレムへと移されたが、「サムエル記」で扱われている紀元前1050年~紀元前920年頃には、北イスラエル王国のヤハウェの聖所はエルサレムの遥か北の「シロ」にあった。(その当時、「契約の箱」は南ユダ王国の聖所にあった。)これに因んで、「城」という言葉ができた。
 また、ヤハウェのシロ(聖所)、ということで「ヤ・シロ=社」である。12束と12人は十二支族と12人の使徒に因むことは、言うまでもない。柴については、モーゼの前に初めて主の使いが現れたのは、柴が燃え上がっている炎の中であった。そして、柴は炎で燃えているのに、柴は燃え尽きなかった。つまり“燃える柴”は、モーゼの前に初めて現れたヤハウェの姿を象徴している。

 エルサレムに神殿があった時代、ユダヤ暦7月15日の仮庵(かりいお)祭の時には、神殿の庭に巨大な灯火が設置され、高い位置に掲げられた。そこに来るヘブライの民も、篝火(かがりび)や松明(たいまつ)を持って集まった。そして、神殿自体も大きな燭台で照らされた。これらの光は、夜のエルサレムとその近郊を明々と照らし出し、その光景は遠くからも見ることができたという。人々はその灯火の下で踊った。これが盆踊りの起源である。

 このように、京都の送り火は、ユダヤの仮庵(かりいお)祭が原型であることが解る。仮庵(かりいお)祭とは、出エジプトの際、荒野で天幕に住んだことを記念し、祭りの際は仮設の家=仮庵(かりおい)を建てて住んだことに因む。
 更に、その原型は何と、シュメールにある。シュメール人は、ニビルが天空に現れると、「神々」を地上に召喚する儀式を行っていた。その儀式は日没と同時に始まり、木星、金星、水星、土星、火星、月などの星が夜空に現れる毎に「手洗いの儀式」が行われた。そして、すべての惑星が出揃ったところで聖餐が始まった。聖餐が終わると、一瞬の静寂が地を支配した。その後、大祭司が立ち上がり、讃歌を歌った。“カガブ・アン・エテル・シャアメ(大神アヌの星が天に昇る)”これを受けて、すべての祭司がその讃歌を歌った。(最後の晩餐の後、ゲッセマネで祈ったことに似ている。)

 そして、ニビルがついに姿を現すと、讃歌を歌う声は一段と高まり、篝火(かがりび)が次から次へと点火されていった。篝火は野火のように広がっていき、ついにはシュメール全土が光り輝いた。その光に呼び寄せられるように、「神々」は天から降臨してきた。神道の祭祀に於ける篝火(かがりび)には、このような意味がある。
 では、五山の送り火には、それぞれどのような意味があるのか。送り火は、2つの「大」と「妙法」の文字、鳥居の形、舟の形である。


・鳥居
 YHWHをヘブライ語で表すと下の図のようになる。これを、下から組み合わせると鳥居の形になる。そして、鳥居がアダム・カドモンになる理由は、左側の文字が下から両足、胴体、両腕、頭と象徴されるからである。

 この文字は炎のように燃えている。モーゼの前に初めて主の使いが現れたのは、柴(しば)が燃え上がっている炎の中であった。つまり、これはモーゼの前に初めて現れたヤハウェの姿を象徴している。そして、柴(しば)は炎で燃えているのに、柴(しば)は燃え尽きなかった。
 また、モーゼは旗竿に「炎の蛇」を掲げ、主は「生命の樹」に至る道を守るために、エデンの東にきらめく剣の炎を置かれた。炎とは主であり、「生命の樹」そのものである。
 4つの部分は「生命の樹」の四位階を表し、それは神の戦車メルカバーでもある。メルカバーは人間・獅子・牛(ケルビム)・鷲などで表され、人間は流出世界で神の栄光を、獅子は創造世界で神の玉座を、牛(ケルビム)は形成世界で神の戦車を、鷲は活動世界で地上を表す。
 そして、鳥居の形の上から一つ巴(Y)、三つ巴(H+W)、二つ巴(W)となる。巴は“神の御心の炎”である。その基字は己、已、巳であり、いずれも蛇がとぐろを巻いた状態を表す。特に、巳は陰陽五行説では火を表すが、それはまさに「炎の蛇」である。“忌”は“蛇の御心=主の御心”であるから、神宮に於いては死ではなく、この上なく清浄な、という意味で使用する。忌竹(いみだけ)、忌火(いみび)などのように。
 鳥居、特にお稲荷さん系の鳥居は朱に塗られているものが多いが、これは「過ぎ越の祭り」で家の柱を生贄の血で赤く染めたことに由来するのと同時に、主の炎を表す。このように、燃える鳥居は主の炎、ヤハウェの炎を表す。


■938年

 安倍勢が出羽一円を掌握した。

東日流外三郡誌

■977年

 東日流(つがる)荒吐族(あらばきぞく)と津刈(つかり)族は和合して安倍一族となり、奥州の五国は建固となった。

東日流外三郡誌

■1000年頃

マルドゥクが再び地球へやってくる---------------------------------------------------------------------

 マルドゥクと約300人のアヌンナキが再び地球に戻ってきた。彼らはマルドゥクを宇宙唯一の神とするピラミッド型の権力構造を作った。マルドゥクは聖書のサタンであり、成長する地球の人口を操作し、地球人を分裂させて征服するために、すべての主要な宗教を支配した。
 彼が最初にしたことは、人間が自分の歴史と起源について持っていたすべての知識を消して、自分を全能の神としての地位に置くために、歴史を書き直そうとする試みであった。その中の一つに、バビロニア神話の創世記叙事詩エヌマ・エリシュを書き直すという仕事もした。この中ではマルドゥクが、初期メソポタミア文明において神々の王とされていたエンリルの地位を超越した存在となっている。
 現在、マルドゥクは多くの秘密結社で神として崇拝されている。しかしフリーメイソンなど多くの秘密結社では、そのことをほとんどのメンバーには知らされていない。マルドゥクはフリーメーソンのピラミッドの上にある“万物を見通す目”である。こうして歴史と秘密とオカルトの指示書を書き直すことによって、すべての秘密結社をマルドゥクのために働く知的組織に変えていった。
 この時代、地球にはエンリルやエンキはいなかった。そこでマルドゥクは自身の評議会を設立する。そして自分はニビル王であるとし、マルドゥクは地球の王(サタン)とニビル王の両方であることを発表する。
 こういったマルドゥクの主張にニビルの評議会は反対し、マルドゥクを地球に隔離(かくり)することを決定した。これによって地球全体が隔離され、人間も宇宙の遠くまで飛行することはできなくなった。
 今日、マルドゥクは世界中のほとんどの機関、銀行カルテル、教育システム、宗教、エンターテイメントなどを支配している。しかし、彼は完全な独占を維持しているわけではない。それはエンリルとエンキの派閥と、さらに少なくとも2〜3種類の他の宇宙種族との駆け引きが行なわれているからである。こうしたことにより、事態はより複雑になっている。
 そしてマルドゥクと彼に従った者たちは、地球の4次元からサタンやルシファーとしてすべての人類にネガティブな影響を与え続けていくことになる。こうして現代まで続くイルミナティは、サタニズム(悪魔崇拝)の儀式でマルドゥク達とコンタクトを取って、世界を支配し続けていく。


ロマネスク様式の教会-------------------------------------------------------------------------------------

 この頃、フリーメイソンはキリスト教会に、ローマや古代ギリシャの偶像様式を混ぜ合わせたロマネスク様式の教会を造り、中世の石工や建築家たちの組合として知られた。当時は、聖母マリア崇拝や異教の女神崇拝が隆盛した時代で、彼らはこれを石による信仰として取り入れ、ゴシック建築を隆盛させ、「キリスト教の偶像神殿」を建設していった。

 この石工組合に入門した石工は、徒弟(とてい)、職人、親方という身分を経て、技能や知識を身につけた。徒弟は現場から現場へと渡り歩きながら職を身につける「ツール・ド・フランス」と呼ばれるフランス巡礼修行を行い、熟練の職人から指導を受けた。そして必要なレベルの技術が身につくと、カイエンヌと呼ばれる秘密の会議で親方から秘伝を授けられた。そしてこの石工の組合はやがてエルサレム神殿を建造したイルミナティのソロモンにちなんで、ソロモンの子らと呼ばれるようになった。


三方楽人------------------------------------------------------------------------------------------------------

 平安の中頃から、雅楽寮(うたりょう)の機能は「楽所(がくそ)」に受け継がれ、京都御所の「京都楽所」、奈良興福寺・春日大社・東大寺などの「南都楽所」、大阪の「四天王寺楽所」を「三方楽所」といい、その楽人(がくにん)は「三方楽人」と称された。1467年の応仁の乱の勃発により、京都楽所の楽家(がくけ)は解散させられるが、戦国期の正親町天皇(おおぎまちてんのう)の時代に秦氏のもとで四天王寺に属していた楽家が、かつての京都楽所にかわって京都御所に招かれた。秦氏は林氏・小野氏・岡氏・東儀氏にわかれて宮廷に仕えた。東儀氏は、安部氏の姓を与えられて宮廷の御神楽(みかぐら)の式典では篳篥(ひちりき)を演奏した。1868年の明治維新の東京遷都とともに「三方楽所」の楽人は東京に移り、合体して今日の宮内庁式部職楽部となった。



■1051年

 安倍頼時が朝廷に貢税(ぐぜい)を断納し、奥州の官職者を追放した。

東日流外三郡誌

■1056年

 源頼義が奥州に赴いて来たが、安倍一族に敗退する。

東日流外三郡誌

■1062年

 源義家(みなもとのよしいえ)が安倍貞任(あべのさだとう)と交戦、安倍一族(荒吐族)が敗亡する。

東日流外三郡誌

■1078年頃

 1078年にイルミナティのローマ教皇グレゴリウス7世がユダヤ人に対し「公職追放令」を発令すると、全ての職業組合からユダヤ人が締め出される事態となった。キリスト教は、他人にカネを貸して利息を取ることは罪悪であると考えていた。ところが、ユダヤ教は『タルムード』の中で異邦人から利子を取ることを許していたので、ユダヤ人は古くから自由に高利貸業を営むことができた。そのため公職追放令が発令されると、ユダヤ人はキリスト教徒には禁止されていた金融業に喜々として手を染めていったのである。「カネに汚い高利貸し」というイメージがユダヤ人に定着したのはこの頃からだと言われている。

 11世紀に「イスラム東方世界」が分裂すると、それまでユダヤ人に対して穏健であったイスラム政権は、ユダヤ首長を追放。これによりバビロンのサンヘドリン本部は陥落してしまった。そのため、彼らは本部をヴェニスに移動した。ヴェニスはユダヤ商人の活躍により、地中海貿易最大の港町へと発展していった。
 紀元1世紀前後に、イルミナティの古代ローマ帝国に迫害された本来のユダヤ人の多くはスペインに移住していたが、このイスラム勢力下にあったスペインが、15世紀にキリスト教勢力に支配されると、スペインの地にいたユダヤ人は全て国外追放されてしまった。この事件以前にも、ユダヤ人はイギリスやフランスから追放されたことはあったが、スペインのそれは徹底的なものであった。この時、スペインから追放された大量のオリエンタル・ユダヤ人たちは「スファラディ系ユダヤ人」と呼ばれ、東欧圏で生活していた白人系ユダヤ人とは区別されている。



 ユダヤ人を追放しなかったキリスト教国でも、イエスを殺害した民族という偏見から、ユダヤ人は抑圧対象とされた。中でも「ユダヤ人集団隔離居住区(ゲットー)」の誕生はその典型である。ゲットーは1554年にヴェネチアに初めて設置されたもので、イルミナティのローマ教皇パウルス4世がユダヤ人にゲットーへの居住を強制すると、瞬く間に世界各地へ広まった。ゲットー内ではシナゴーグ(ユダヤ教会堂)や学校が設置され、ユダヤ人の高い教育水準と宗教文化が保たれることになったが、ユダヤ人に対する差別政策は完全に制度化してしまった。

 しかし、全てのユダヤ人がゲットー生活を強いられていたわけではなかった。完全に自由な特権を享受していたユダヤ人が存在していたのである。彼らはドイツ諸侯の高級官僚や宮廷出入りの御用商人となっていたため「ホフ・ユーデン(宮廷ユダヤ人)」と呼ばれていた。彼らは天性の商才によって、莫大な富を蓄積していった。現在、世界最大の財閥のロスチャイルド財閥も、もともとはホフ・ユーデンの出であることで知られている。


■1096年頃

 この頃、西ヨーロッパのイルミナティのキリスト教の中でも、主にカトリック教会の諸国が、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に十字軍を編制し派遣した。十字軍はイスラム教徒から聖地エルサレムを奪回したが、巡礼者たちの安全までは確保することが出来ず、1096年の第1回十字軍の終了後に巡礼者たちの保護を目的として聖堂騎士団が創設された。ただ創設の他の目的には、キリストの血を受けたとされる聖杯や失われたアークの調査などもあった。ソロモンの神殿の置かれていた王宮の跡地に本拠があった為、聖堂(テンプル)騎士団という名称がつき、この騎士団は瞬く間にヨーロッパ全土に普及し、貴族だけでなく様々な階層からなる巨大な組織に発展してゆくことになった。



■1146年頃

 フランス・カペー朝の第6代国王ルイ7世の命により、フランス王国の国庫は正式にテンプル騎士団に預けられ、この体制はフィリップ4世の統治時代まで続く事となる。


■1147年頃

 イルミナティのテンプル騎士団は1147年の第2回十字軍に際して、フランスのルイ7世を助けて奮闘したため、十字軍の終了後、ルイ7世は騎士団にパリ郊外の広大な敷地を寄贈。ここにテンプル騎士団の西欧における拠点であるタンプル塔が建設された。この支部は壮麗な居館のまわりに城壁をめぐらした城砦のごときものであり、教皇や外国人君主がフランスを訪れる際の宿舎となり、王室の財宝や通貨の保管まで任されるようになっていった。

 またこの頃、テンプル騎士団はキリストの聖遺物を探して守るのが役割で、失われたアーク(契約の箱)を探しにキリストの墓がある青森に来ている。新郷村の農作業着がテンプル騎士団の服装と似ていたり、新郷村の日本人の墓には星の形をしたテンプル騎士団のペンタグラムの家紋の家庭もある。


■1177年頃

 イルミナティのテンプル騎士団はモントギサールの戦いでサラディン率いるイスラム軍を撃退し、フランスのフィリップ2世やイングランドのリチャード1世とも共闘し、スペインやポルトガルでも対イスラム教徒戦闘に従事して、その勇名を不動のものとした。

 そして、テンプル騎士団の入会者たちは、個人の私有財産を会に寄贈して共有しており、騎士団は軍事活動のみならず、巨大金融機関としての側面も持つようになり、テンプル騎士団が巡礼者の預金証を作成し、彼らの資産を預かる銀行システムを編み出した。

 このような銀行システムの構築と、多くの寄進を集めたことによって、12世紀から13世紀にかけて騎士団は莫大な資産をつくり、それによって欧州から中東にいたる広い地域に多くの土地を保有し、そこへ教会と城砦を築き、ブドウ畑や農園を作り、やがて自前の艦隊まで持ち、最盛期にはキプロス島全島すら所有しており、パリにあったテンプル騎士団の支部のタンプル塔は、フランスの非公式な財務省といえるほどの規模になり、たびたびフランス王に対する財政援助を行った。



■1185年頃

 源頼朝が鎌倉幕府を創設する。場所は現在の神奈川県鎌倉市で、日本初の武家社会である。源氏もまたイスラエルからのユダヤ民族であり、同じイスラエルの失われた10支族のユダヤ民族である藤原氏の藤原王国を転覆させた。
 源氏とは藤原氏たち貴族の土地を守っていた武士・傭兵であり、それが武器を手に取って日本を引っくり返した。つまり藤原氏たち貴族に長年虐げられてきた下層階級の同じ古代ユダヤ人が、その後の日本を支配し続けていくことになる。
 また鎌倉幕府職制の守護・地頭という職にあったのが毛利と島津である。これが後に、倒幕・明治維新を行う事となる。鎌倉の源頼朝の墓の後ろの山の中腹に大きな穴が二つ開いており、その中は毛利と島津の先祖伝来からの墓がある。つまり鎌倉の昔からこの二氏は古代ユダヤ人としての墓を作っていた。藤原氏から見ると源氏は同族でありライバルでもある。
 下記の写真にあるように源頼朝が王冠と笏(しゃく)を持っているのは、古代イスラエルから続く王権の象徴である。

etc.

■1190年頃

 鎌倉時代、後鳥羽天皇は相撲の伝統を守り続けるよう吉田司家に命じた。1945年までは横綱の免許を与えられるのは吉田家だけで、土俵の規格、行司の登場礼式、力士が登場する作法などを定めてきた。相撲の宗家として代々「追風(おいかぜ)」の号を名乗る。元来、古代イスラエルの子孫である藤原氏が改名してできた京都二条家に奉公し、奈良・平安時代の宮中の年中行事の節会相撲(すまひのせちえ)の行事官として務めていた。本来、相撲とは神と行うもので、天下泰平、国家安全、五穀豊穣の政として相撲を行ってきた。


■1200年頃

ハザール国の滅亡とロスチャイルド---------------------------------------------------------------------

 ロシアや周辺諸国は野蛮なハザール国の犯罪行為(ハザールの子供たちを拉致し生贄にしていた)に対し我慢の限界に達したため、それを止めさせるためハザール国を占領した。このようにハザール国民を虐殺するなど数々の野蛮な犯罪行為を行ってきたハザール国王とその取り巻きのオルガルキーをハザール・マフィアと呼ぶ。
 ハザール国王とその取り巻きはハザール国を占領し、彼らの地位や権力を奪ったロシアや周辺国を恨み、ロシアや周辺国に対する永遠の報復を計画した。
 ヨーロッパの国々に逃げたハザールのリーダーらは、十分なスパイ・ネットワークを構築していた。彼らはヨーロッパにあった大量の金や銀を強奪した。そして彼らは新たな身分を得た後に再編成を行い、彼らがハザール人であることを隠した。しかし彼らは秘密裡に黒魔術のオカルト儀式を行い続けた。彼らが崇拝する悪魔のバアル神(マルドゥク)は、これまで通りの儀式(子供たちを生贄に捧げ、子供たちの身体から血液を抜き取り殺害する)を続けるなら、彼らに世界の支配権と富を与えると約束した。

 こうしてハザール・マフィアはハザール国から追放された数百年後に、イングランドを侵略することになる。イングランドを侵略するために、彼らはオリバー・クロムウェルを雇い、チャールズ一世を殺害させた。そしてイングランドを彼らの金融ビジネス天国にする。その後、イギリスでは10年間内戦が続き、イギリスの王族や純粋なイギリス貴族が大勢殺害された。このようにしてハザール・マフィアはロンドンをヨーロッパの金融の中心地にし、英国帝国の歴史が始まる。
 ハザール・マフィアは、バビロンの黒魔術オカルトの一種である無からお金を生み出したり、悪質な高利貸しを行い巨額の富を得るバビロンの金融マジックを使って、世界中の金融ビジネスを奪い支配した。彼らは、悪魔崇拝儀式を通して悪魔のバアル神(マルドゥク)から教えてもらった金融マジックによりた巨額の富を得た。そして彼らが独占する金融システムを構築した。
 その後、ハザール国王と彼の取り巻きはドイツに侵入し、Bauersという集団を結成し、バアル神(マルドゥク)の魔力を得た悪魔システムを実践し続けた。Red ShieldのBauersとは、子供を生贄にした秘密の儀式を執り行う集団であり、のちに、ロスチャイルド(ロック=サタンのチャイルドと言う意味)と呼ばれるようになる。


ハザール国のアシュケナジー系ユダヤ人----------------------------------------------------------------

 ハザール国が滅亡したこの時に発生した大量の難民(改宗ユダヤ教徒ハザール人)は、西へと移住し、東欧に住み着いた。この東欧に住み着いた難民たちが「アシュケナジー系ユダヤ人」と呼ばれるようになった人々である。祖国を失ったハザール人は、この時からユダヤ人として生きることとなった。

 国家的な「ユダヤ化政策(改宗政策)」を推し進めたハザール王オバデアから200年たったヨセフ王時代の書記は、以下のような記録を残し、ハザール人は全トルコ民族の先祖であるトガルマを通じ、ノアの長男セム(黄色人種)ではなく第3番目の息子ヤペテ(白人種)の直系子孫であることを断言している。

「我々の父祖の系図から、トガルマには10人の息子があったことを知った。その子孫の名前はウィグル、デュルス、アヴァル、フン、バシリー、タルニアク、ハザール、ザゴラ、ブルガル、サビールである。我々は7番目の息子ハザールの子孫である。」

 このようにアシュケナジー系ユダヤ人は、旧約聖書に登場するユダヤ人(セム系民族)とは「血縁的に全く関係のない民族(ヤペテ系民族)であり、国をあげてユダヤ教に大改宗して以来、現在に至るまでユダヤ人になりきってしまっているのである。
 アシュケナジー系ユダヤ人が非セム系民族であるとすると、現在、世界中に散らばっているユダヤ人と呼ばれている人間の90%以上が、本来のヘブライ人とは全く関係のない異民族ということになってしまうが、この偽りのユダヤ人問題は世界史におけるタブーである。
 ただ白人系ユダヤ人問題という問題を扱う場合、幾ら偽りのユダヤ人とはいえ、彼らは長い間ユダヤ人として生き、本来のユダヤ人と同じキリスト殺しの汚名を背負い、悲惨な迫害を受け続けて来たという歴史はある。
 反対に白人系ユダヤ人がまだ登場していない紀元1世紀前後、イルミナティの古代ローマ帝国でユダヤ独立戦争があり、大敗を喫した本来のオリエンタル・ユダヤ人たちは徹底的に追放された。この迫害により離散したユダヤ人のうち、イベリア半島(スペイン)のコルドバに移住したオリエンタル・ユダヤ人(セム系民族)の子孫をスファラディ系ユダヤ人という。
 彼らは中世において世界のユダヤ人の約半数を占め、ラディノ語を話し、アラブ・イスラム文化とも同化し、最も活動的であった。ちなみにこの頃、既に彼らの間ではハザール人のユダヤ教改宗はよく知られており、有名なユダヤ人の詩人・哲学者であるユダ・ハレビは、ハザール人の改宗についてハ・クザリという詩で歌っていた。
 しかし1492年に、スペインでキリスト教への改宗を拒否したユダヤ人に対して、徹底的な追放政策がとられると、約25万人が北アフリカ、イタリア、オスマン帝国に移住。オスマン帝国はユダヤ人を喜んで受け入れたので、コルドバに代わってギリシャのテサロニケがスファラディ系ユダヤ人の中心地となった。

 アラブ人はアブラハムの次男イサクの子ヤコブの子孫(イスラエル12支族)ではないが、アブラハムの長男イシュマエルの子孫である。そういうこともあって、本来のユダヤ人とアラブ人とは、同じアブラハムの血族(セム系民族)として昔から仲が良かった。事実、20世紀初頭に第一次世界大戦が起こるまでのパレスチナでは、アラブ人とユダヤ人とは仲良く共存しあっていた。


■1238年頃

 現在のスペインに、ナスル朝ララマール王がアルハンブラ宮殿の建設に着手し、その後増改築が重ねられていく。その宮殿の窓に天皇家の菊花紋がある。これもイナンナの十六花弁ロゼッタが原型である。


■1300年頃

 イルミナティのテンプル騎士団が祀っていたキリスト教の悪魔の一人バフォメットの記録が、カトリック教会の異端審問の裁判記録に残されている。両性具有で黒山羊の頭を持つ姿で、魔女の崇拝対象となった悪魔である。


■1307年頃

 当時のフランスはイギリスとの戦争によって多額の債務を抱え、テンプル騎士団が最大の債権者であった。そのためフィリップ4世は、債務の帳消しをはかってテンプル騎士団の壊滅と資産の没収(略奪)を計画した。まず手始めにフィリップは聖ヨハネ騎士団との合併をテンプル騎士団総長ジャック・ド・モレーに提案したが、これは即座に拒絶された。そこで王はどのようにテンプル騎士団の資産を没収するかを検討したが、そもそも何の罪もない人々を一般的な裁判形式で裁いても有罪の立証に持ち込むことは難しい。そこで、匿名の証言を採用できる「異端審問方式」を用いることで有罪に持ち込もうと考えた。異端審問を行うにはローマ教皇庁の認可が必要であるが、当時のローマ教皇はフランス王の意のままに動くフランス人のクレメンス5世であり、何の問題もなかった。こうしてテンプル騎士団を入会儀式における男性同士の性愛の男色行為(なんしょくこうい)、反キリストの誓い、悪魔崇拝といった容疑で起訴することになった。


■1314年頃

 資産の没収を終えると、フィリップ4世は口封じのために投獄されていた4人の指導者たちの処刑を指示。最後の総長のジャック・ド・モレーら最高指導者たちは、パリを流れるセーヌ川の中州のシテ島の刑場で、生きたまま火あぶりにされた。
 この時、ローマ教皇庁と対立していたロベール王の率いるスコットランドは、そもそもローマ教皇の決定など意に介していなかったので、同地の騎士団は弾圧を免れ、テンプル騎士団の残党もスコットランドに逃れた。この時に生き残った騎士団がフリーメイソンとしての組織を作り、スコットランドが近代フリーメーソンの発祥の地となり、ロッジが数多く存在することとなった。
 テンプル騎士団の総長ジャックドモレーが殺された後、団員達が総長の遺体を掘り起こした。そのとき、頭蓋骨と2本のクロスした骨が埋まっていた。これを見た騎士団の団員は、人は頭蓋骨と2本の骨さえあれば復活できると言って、ジョリー・ロジャーという海賊旗を作ったとされている。海賊旗の始まりはテンプル騎士団で、テンプル騎士団解散後、海賊となって海を渡った団員や石工職人となってフリーメイソンになる者もいた。海賊とフリーメイソンはつながっている。




■1335年頃

 インダス河の港湾都市タッタに、サンマー朝、アルグン朝、タルハーン朝という3つの土着の王朝が首都を置いた。そのタッタの遺跡に天皇家の菊花紋がある。これもイナンナの十六花弁ロゼッタが原型である。

■1336年

はだか祭り---------------------------------------------------------------------------------------------------

 平安時代より、天下の奇祭、国府宮(こうのみや)のはだか祭が始まる。愛知県の国府宮(こうのみや)の尾張大國霊(おわりおおくにたまのかみ)神社で、毎年2月中旬頃行われる勇壮な祭りである。大まかに説明すると、祭りは次のように行われる。

①神男は神社でくじ引きにより選ばれる。
②選ばれた神男は全身の毛を剃り落とす。
③御神事の3日前になると、神社に籠もって身を清める。
④前々日に土餅搗神事並秘符認(つちもちつきしんじならびにひふしたため)が行われる。
⑤前日に庁舎(ちょうや)神事が行われ、大鏡餅が奉納される。
⑥当日(旧暦正月13日)、御神事の前に儺負笹(なおいざさ)が奉納される。
⑦祭りに参加する裸男は、白い下帯1枚の姿になる。裸男から儺負布(なおいぎれ)をもらうと御利益がある。
⑧以前に神男を務めた者たちが全裸の神男を取り巻いて守り、参道に出る。
⑨神男はすべての厄を受けるので、神男に触れた者は厄が落ちる。そのため、裸男たちは争って神男に触ろうとする。
⑩神男は最後に儺負殿(なおいでん)に引き入れられ、表向きの祭りは終わる。
⑪翌日の午前3時に庁舎に於いて夜儺追(よなおい)神事が行われ、祭りは終了する。

 実に奇怪で勇壮な祭りであるが、実はイエスが磔にされる場面を再現している。以下、その意味を見ていく。

①くじ引き
 聖書に於いて、何かを決める場合、特に御神意を伴う場合はくじ引きで決められた。一般的には神男と言うが、正式には儺負人(なおいびと)と言う。儺負(なおい)とは厄を背負うことであり、本来の儺(な)=厄とは、イエスが背負った全人類の贖罪のことである。

②剃髪(ていはつ)
 古来、毛髪には不思議な力が宿るという観念があった。旧約に登場するナジル人、サムソンは怪力の持ち主だったが、長い髪を剃られて怪力を失い、ペリシテ人に捕らえられた。ナジル人とは、自らを聖なる者として神に捧げ、献身する者のことである。そのため、厳格な規定があり、髪を剃ってはならないというのもその1つである。
 対してエジプトでは、僧侶が剃髪(ていはつ)するのは神に対する恭順(きょうじゅん:命令につつしんで従う態度)の姿勢を表わした。また、すべての大元である“主エンキの御言葉”では、アダパがニビルの大神アヌの下へ連れて行かれた時、ボサボサだった頭を剃られた。よって、剃髪(ていはつ)だけならば、髪を剃ることによって“イエスの奇跡の力”を無くして厄を背負わせることと同時に、神の前に従順であることを象徴していると見なせる。しかし、全身の毛を剃るわけなので、そのようなことではないだろう。この祭りは以前に死者も出たように命にも関わる危険な祭りであり、“毛が無い”ことは“怪我無い”ことに繋がるので、祭りの安全無事を祈願するものであろう。あるいは、“生まれたままの姿”に戻ることにより、穢れの無い純粋無垢な状態となり、他人の厄を一手に背負うのであろう。

③3日間の籠もり
 順序的には逆だが、イエスが処刑されて3日後に復活したことの象徴。

④土餅搗神事並秘符認(つちもちつきしんじならびにひふしたため)
 土餅搗神事(つちもちつきしんじ)とは、旧正月11日早朝、あらゆる罪穢(けが)れを搗(つ)き込んだものと言われる土餅(昨年の夜、儺追神事(なおいしんじ)に於いて焼かれた礫(つぶて)の灰を餅に包み、外も真黒に灰をぬった餅、土餅(どべい)、灰餅、儺追餅とも言う)を宮司が搗(つ)き、夜儺追神事(よなおいしんじ)に儺負人(なおいにん)に背負わせ追放する御神事である。
 土餅搗神事(つちもちつきしんじ)に引き続き、宮司が御神前に於いて“一宮・真清田神社、二宮・大縣(おおがた)神社、三宮・熱田神宮、総社・尾張大國霊神社”の四柱の神様の御神名を奉書に認め秘符を作り、御鉄鉾(おてっしょう、3メートル程の大榊(おおさかき)で、儺追神事(なおいしんじ)で使われる神籬(ひもろぎ))に結び付けるのが秘符認(ひふしたため)である。秘符に書かれた四柱の神様は、神の戦車メルカバーの象徴である。

⑤庁舎神事と大鏡餅
 庁舎神事とは、旧暦正月12日に境内東南の庁舎に於いて“一宮・真清田神社、二宮・大縣神社、三宮・熱田神宮、総社・尾張大國霊神社”の四柱の神様を招聘(しょうへい)し、天下泰平・悪疫退散・五穀豊穣を祈る神事で、儺追神事(なおいしんじ)の前夜祭である。鏡餅は本来、正月にお供えするものである。大鏡餅が奉納されるのは旧暦正月12日で、旧暦ではほぼ正月に相当する。鏡餅の2枚の餅はそれぞれが鏡で「合わせ鏡」を象徴しており、上に太陽の輝きを表す橙(だいだい)が乗せられる。これで「生命の樹」を象徴する。上に乗せる柑橘類は橙(だいだい)に限られる。その字の如く“木を登る”こと、すなわち「生命の樹」を上昇することを意味するからである。

 本来、餅は種無しパンの日本版であり、ユダヤの過越祭(すぎこしのまつり)が起源である。種無しパンを意味するマッツォが変化してマツオ、モチになった。過越祭(すぎこしのまつり)は春、ユダヤの正月に相当する。

⑥儺負笹(なおいざさ)の奉納
 笹とは竹のことであり、竹の旧字は“艸(そう)”を「合わせ鏡」で逆にした字である。“艸”は左右それぞれ3本の木から成る「生命の樹」であり、両方で「合わせ鏡」による古事記と日本書紀の絶対三神を象徴している。神社の御神事では忌竹(いみだけ)が使われるが、意味はそれと同じである。“忌”とは“この上なく清浄”という意味であるが、イエスの死に関係していることから“忌”であり、イエスは蛇神なので“蛇=巳の心”ということで“忌”であり、つまり忌竹(いみだけ)とは、イエスが掛けられた聖十字架の象徴で「生命の樹」でもある。“儺(な)を負う笹”とは、まさしくイエスが掛けられた聖十字架に他ならない。

⑦⑧全裸の儺負人、裸男の白い下帯、儺負布
 イエスは十字架に掛けられた時、衣服を剥ぎ取られた。それ故、儺負人(なおいにん)は全裸となる。ユダヤとの関係でよく言われるのが、契約の箱アークが20年ぶりに戻った際、ダビデは裸になって踊ったので、これがはだか祭りの起源だ、という説がある。しかし、この話だと、儺負人(なおいにん)が厄を一手に背負うという意味がまったく不明であり、はだか祭りではアークを象徴する御神輿が登場せず、矛盾する。儺負布(なおいぎれ)は剥ぎ取られた衣服を象徴している。剥ぎ取られた衣服はくじ引きでローマ兵に分けられたが、イエスが身に付けていた神聖な布であるため、それを象徴する儺負布(なおいぎれ)をもらうと御利益がある。裸男については、本来、裸である必要は無い。御神事上、儺負人(なおいにん)が全裸で厄を背負い、儺負人(なおいにん)に触れると厄が落ちるのであれば、儺負人(なおいにん)だけが裸だと目立って人が殺到し、大変なことになる。そのため、御神事に参加する男たちは下帯(したおび)だけを付けた裸になり、儺負人(なおいにん)の影武者も登場する。下帯は、死装束の象徴である白。

⑨儺負人(なおいにん)はすべての厄を受ける
 イエスは全人類の贖罪を背負って十字架に掛けられた。その象徴である。

⑩儺負人(なおいにん)は最後に儺負殿に引き入れられる
 儺負殿は御社の聖域であり、十字架に掛けられたイエスが死んで聖域=天国に召されたことの象徴である。

⑪夜儺追神事(よなおいしんじ)
 表向きの祭りが終了した翌日の午前3時に庁舎に於いて斎行される、はだか祭りの本義。儺負人に土餅を背負わせ、御神宝の大鳴鈴(おおなるすず)や桃と柳の小枝で作られた礫(つぶて)で追い立てて、境外へ追い出す。追い出された儺負人は、家路につく途中で土餅を捨てる。この土餅を神職の手により埋めることで、世に生じた罪穢悪鬼を土中に還し、国土の平穏を現出するのである。称徳天皇の御世より現代に至るまで最も神聖視され、重要視されている。

 イエスは十字架刑と“復活”により人類の贖罪を清算したが、儺負人は多くの人の厄を受けたままである。その厄を落とすために、このような御神事が行われる。特に桃は、イザナギが冥界から戻ってくる際に投げてつけて悪霊を退散させたことから、厄除けや悪霊払いに使われる。この時期に行われる節分は厄除けの行事であるが、日本に於ける節分行事の発祥は、秦氏の重要拠点である京都の吉田神社である。ここでは豆を蒔かず、疫鬼を追い払うために神職が桃弓で葦矢を放ち、桃が使われる。豆を蒔く風習は、室町以降に行われるようになったと言われている。

 このように、国府宮のはだか祭りは、神道の謎を解くための重要な鍵が秘められたお祭りで、イエスが磔にされる場面を再現しているのである。


■1340年

 人口20万人だった青森の十三湊(とさみなと)を大津波が襲い、安東水軍は一夜にして壊滅した。かくして津軽の地は衰え、その歴史は抹殺されていった。この大津波の際に出港中の安東船は536艘2000余人。十三湊(とさみなと)の壊滅によって帰港できずに諸国に散らばり、その地に定住している。

東日流外三郡誌

■1376年頃

 英語のフリーメーソンという言葉が、文献に登場し始める。14世紀から18世紀にかけて、イギリスで書かれた約150の写本にはレギウス写本(1270年)、ヨーク石工令(1352年)、ロンドン石工令(1356年)などがあるが、なかでもクック写本(1430年)は、近代メーソンの創設者たちにインスピレーションを与えた。

 これらの資料では、石工たちが建築現場の脇に設けられた集会所のロッジに集まっていたことが記されている。ロッジでは、徒弟の養成・支援にあたる石工長の権威の下で、仕事の秘密が伝授された。そこでは秘儀の伝授があったとしても技術的知識の伝授にとどまり、象徴的な儀式による参入儀式があったわけではなく、現会員による新会員の選考制もなく、仕事の能力だけが入会を決める唯一の条件であった。

 真のフリーメーソンであるための条件とは、神への信仰、道徳律の尊重、ロッジのメンバーは男性に限られる、秘密を守る義務、などはこの時代に定められた。


■1391年頃

 チベット仏教の初代ダライ•ラマとなるゲンドゥン・ドゥプパが生まれる。ダライ・ラマは観音菩薩の化身とされ、チベット仏教では、チベットの国土と衆生は「観音菩薩の所化」と位置づけられている。太古の地球ではベガ人を菩薩として崇めており、宇宙の中でも様々な種族の指導者として敬われている。

■1400年頃

惑星ニビルでの王の交代-----------------------------------------------------------------------------------

 この頃、ニビルではニビル王退位の問題が起こっていた。そこでニンギシュジッダは、エンリルの息子のナンナールが適した継承者だと考えた。ニンギシュジッダは実際にはアヌ王から彼の後継者として考えられていたが、それを丁寧に辞退し、再びナンナールが良い後継者であると主張した。
 長い熟考の後、アヌ王は同意し、アヌの孫でエンリルの息子のナンナールをニビル王にすることに決定した。少なく見積もっても数十万年の王位からアヌ王は退いた。彼は流血なしで王位が移行したことに喜んだ。
■1410年

 18年にイエス・キリストに追放されたエルサレムの両替商達の一派が、14世紀には銀行家として台頭し、フィレンツェ共和国政府にもメンバーを送りこむまでになった。その一つのメディチ家は、ジョヴァンニ・ディ・ビッチの代の1410年に、ローマ教皇庁会計院の財務管理者となり、教皇庁の金融業務で優位な立場を得て、莫大な収益を手にすることに成功した。このメディチ家が1727年に三百人委員会となる。

 メディチ家は、ルネサンス期のイタリア・フィレンツェにおいて銀行家、政治家として台頭。フィレンツェの実質的な支配者として君臨し、後にトスカーナ大公国の君主となった一族である。その財力でボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ヴァザーリ、ブロンツィーノ、アッローリなどの多数の芸術家をパトロンとして支援し、ルネサンスの文化を育てる上で大きな役割を果たしたことでも知られている。


■1438年頃

 インカ帝国が成立。1533年にスペイン人によって滅ぼされる。彼らの神の象徴は太陽神であり、官僚制度は王の血縁組織アイリュに所属する官僚団体から成り立っていた。また軍を持ち、皇子によって統率されていた。


■1453年頃

 イルミナティのローマ帝国が滅亡したとき、ローマの建築職人の集団が、コモ湖のコマキ島に逃れ、ローマの石造建築技術を維持する事になった。その後、中世の大石造建築の建設には、このコマキ島の建築集団によって温存された建築に関する秘伝が使用された。彼らの組織は、「親方」と「徒弟」からなり、ひとりの「大親方」によって支配され、集会所は「ロギア」と呼ばれ、「ロッジ」と呼ばれるフリーメーソンの集会所の語源となった。



■1485年

 フッガー家(財閥)は、銀の先買権を手に入れ莫大な利益を獲得する。フッガー家は、中世ヨーロッパのアウクスブルクを中心に鉱山、金融を営んだヨーロッパの富豪である。


■1513年

メディチ家からのローマ教皇-----------------------------------------------------------------------------

 18年にイエス・キリストに追放されたエルサレムの両替商達の一派のメディチ家(財閥)のジョヴァンニ・デ・メディチが、ローマ教皇(法王)「レオ10世」に即位し、メディチ家(財閥)はフィレンツェとローマ教皇領を支配する門閥となり、ローマを中心にルネサンスの文化の最盛期をもたらしたが、多額の浪費を続けて教皇庁の財政逼迫を招き、サン・ピエトロ大聖堂建設のためとして大掛りな免罪符の販売を認めたことで、1517年のマルティン・ルターによる宗教改革運動のきっかけを作った。

サラマンカの城と宇宙飛行士-----------------------------------------------------------------------------

 スペインの都市サラマンカにある城が1102年に建築されたが、1513年から1733年の間に、その城の壁に宇宙飛行士を思わせる彫刻が加えられた。全体的な服装、ヘルメットの形、胸元と背中に背負う四角い物や、その間をつなぐチューブ、靴底のデザインなど、1960年代のアポロ計画の宇宙服とよく似たデザインとなっている。

■1518年

 1517年に、ヨアヒム1世(ブランデンブルク選帝侯)の弟のアルブレヒト(マクデブルク大司教)は、マインツ大司教位も得ようと考え、ローマ教皇庁から複数司教位保持の特別許可を得るため、多額の献金を行うことにし、その献金をひねり出すため、フッガー家(財閥)の人間の入れ知恵によって、自領内でサン・ピエトロ大聖堂建設献金のためという名目での免罪符販売の独占権を獲得し、稼げるだけ稼ぐという秘策を考え出した。
 カトリック教会の発行した免罪符の販売で宣伝されていた「免罪符をお金で買えば、生きている間に犯した罪が軽減される」ということに反感を持ったマルティン・ルターは、ドイツのハイデルベルクで総会を開き、自説を熱く語り、総会後にはローマ教皇「レオ10世」であるジョヴァンニ・デ・メディチに対して、自らの意見を書面にして送付した。こうして、マルティン・ルターによる宗教改革運動が始まった。
■1522年頃

茶の意味------------------------------------------------------------------------------------------------------

 この頃、わび茶(草庵の茶)の完成者の千利休が生まれる。

①茶碗
 茶碗は3回半回す。3回転半と言えば、「生命の樹」に絡みついた蛇の巻き数である。そして、イエスに関連する「生命の樹」と言えば聖十字架である。つまり、茶碗は「生命の樹」と聖十字架を象徴している。

②抹茶と御菓子
 茶碗が「生命の樹」と十字架ならば、抹茶はイエスの血であるワイン、菓子はイエスの肉であるパンの象徴。茶道は禅寺系から発生しているので酒は禁物で、それでお茶ということである。茶はラテン語系で“テ”と言う。これは“主、神”という言葉のヴァリエーションである。そして、日本語では“手”であり、手は神と人を結ぶもの。(おむすびは手で握るが、この“むすび”は古事記の高御産巣日神(たかみむすびのかみ)と神産巣日神(かみむすびのかみ)の“産巣(むすび)”に由来している。)初期の茶道菓子は“ふの焼き”と言い、小麦粉を練って焼き、味噌を塗ったものだった。つまり、酵母の入らないパンそのものである。

③蹲い(つくばい)
 蹲い(つくばい)とは、茶室の庭にある、手を洗って清める場所、つまり、神社の手水舎(ちょうずや)に相当する。石庭で有名な竜安寺には有名な蹲い(つくばい)がある。“吾唯足知(われ、ただ足ることを知る)”である。
 “口”を中心に四文字が配置され、メルカバーの形である。庭の石はすべては見えないが、足ることを知らなければならない。人生も同じである。

④茶室に入るにじり口
 にじり口は狭い。一般的には、武士も刀を外さないと入れず、茶室内は身分の上下を無くすため、と言われている。しかし、真相は新約にある。マタイの福音書7:13、14 にこうある。
“狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。”
 茶室のにじり口は命に通じる門、神の国に通じる門なのである。

⑤“茶”という字
 最も重要な草冠がある。草冠の元字は“艸(そう)”で、三叉(さんさ)の「合わせ鏡」である。三叉は3本柱の「生命の樹」なので、古事記と日本書紀、旧約と新約に於ける絶対三神の「合わせ鏡」である。“ホ”は一対のケルビムの間に安置された十字架で、契約の箱の上に安置された聖十字架を象徴する。その間の“人”は、土俵の上にある屋根、ピラミッドの「重力拡散の間」の天井の形で、「生命の樹」の至高世界である。

⑥祈祷殿に奉られた2献のお茶
 2本の「生命の樹」なので、古事記と日本書紀、旧約と新約に於ける絶対三神の「合わせ鏡」である。そして「知恵の樹」と「生命の樹」の「合わせ鏡」である。
 他にも、茶道にはキリスト教の儀式に近いものが多く、キリスト教徒の人が茶道のお手前を拝見すると、キリスト教との共通点を見出すらしい。そして、茶道の創始者、千利休は洗礼名サン・ルカに因む。神社は天照大神=イエスを祀る神殿なので、イエスに関係の深い茶道が奉じられる。


支那(中国)由来の粽(ちまき)-------------------------------------------------------------------------------

 粽(ちまき)は支那由来の菓子で、笹には祓(はらい)の力があるとされ、祇園祭でも供えられる。京都の川端道喜(かわばたどうき)という老舗の粽屋は、お茶会の注文がある時以外は、普段は粽(ちまき)とお干菓子しか作っていない。しかし、明治時代までは毎朝、塩餡(しおあん)を包んだ餅を宮中に献上していた。その餅は“お朝物(あさのもの)”と呼ばれ、後に朝餉(あさがれい)の儀として形式化し、明治天皇が東京に移るまで続いた。京都御所には、建礼門(けんれいもん)の東横にこの老舗の名を冠する「道喜門」という名の専用門が今も残っている。

 お茶はお寺が主体と思っている人が多いが、神社の御神事でも供えられる。また、茶菓子の元は、小麦粉を練ってクレープ状に焼き、西京味噌(さいきょうみそ)を塗った麩(ふ)の焼きである。つまり、酵母を入れずに焼いたパンと同じである。つまりお茶はワインの代わりということである。よって茶道は、キリスト教の聖体拝領の暗示である。お茶室の躙(にじ)り口は狭いわけはこういった理由がある。

“イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか?」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである」(ルカ13 章22~25 節)”


■1523年

 教皇・レオ10世の下で枢機卿として有能な手腕を発揮していたメディチ家(財閥)のジュリオ・デ・メディチが、ローマ教皇「クレメンス7世」に即位する。ローマ教皇レオ10世であるジョヴァンニ・デ・メディチは1521年、死去した。
 
■1526年頃

ゴールドシュミット家とロスチャイルド家-------------------------------------------------------------

 1200年頃のハザール国の滅亡後、悪魔のバアル神(マルドゥク)を崇拝するハザールのリーダーらはヨーロッパの国々に逃げ、ドイツのフランクフルトに大量に移住し始める。そして両替・金貸しをするユダヤ人も集結。そのひとりがモーゼス・ゴールドシュミット(ゴールドスミス)で、またロスチャイルド家の祖アムシェル・モーゼス・ロートシルトもいた。アムシェル・モーゼス・ロートシルトはフランクフルト・アム・マインのゲットーで両替商や絹布貿易を営んだ。
 ロスチャイルド家はもともとゴールドシュミットから派生した一族である。現在のロスチャイルド家はゴールドシュミット(ゴールドスミス)家と、複雑に結婚し合ってきた同じ家系なのである。ロスチャイルド家の掟は、男子相続であり、フランクフルト家では後に男子が生まれず、フランクフルト家最後のミンナ・ロスチャイルドが結婚した相手が、同じフランクフルト出身のユダヤ系財閥ゴールドシュミット一族のマクシミリアン(Maximilian von Goldschmidt-Rothschild)である。
 このマクシミリアンの弟の孫が、今日の世界的投資家で欧州議会議員のジェームズ・ゴールドスミスだが、このゴールドシュミット一族が、マクドナルドの大株主である。

 お金を汚いものとした清貧思想のカトリックキリスト教では、金貸しビジネスをユダヤ人に押し付けたため、ゲットーは差別としてのユダヤ人隔離のためのユダヤ人居住区であると同時に、中世の金融街を形成していった。ただ世間に流布するユダヤ陰謀説は誤りで、ロスチャイルドは本当のユダヤではないと考えた方が良い。
 ゴールドシュミット家は、このゲットーで大きく育ち、1700年代に入ってから、この一族から一人の大きな巨人を輩出し、ロンドンのシティを支配する金融業者になっていく。


■1534年

 18年にイエス・キリストに追放されたエルサレムの両替商達の一派のメディチ家(財閥)のジュリオ・デ・メディチ(ローマ教皇「クレメンス7世」)が死去し、アレッサンドロ・ファルネーゼが、ローマ教皇「パウルス3世」に即位して、対抗宗教改革(カトリック教会を建て直してプロテスタントの教勢拡大を食い止める運動)を目的として、イグナチオ・デ・ロヨラとフランシスコ・ザビエルに、イエズス会 (別名「教皇の精鋭部隊」)を創設させる。

 イエズス会が発展するに伴ってイエズス会の活動分野は三つに絞られていった。第一は高等教育であり、イエズス会員は神学だけでなく古典文学にも精通していることが特徴で、ヨーロッパ各地で学校設立の願いを受けてイエズス会員は引く手あまたであった。第二の活動分野は非キリスト教徒を信仰に導く宣教活動であった。第三はプロテスタントの拡大に対するカトリックの「防波堤」になることであった。イエズス会員の精力的な活動によって南ドイツとポーランドのプロテスタンティズムは衰退し、カトリックが再び復興した。イルミナティのイエズス会のトップは影の支配者サンヘドリンより権力を持つ立場で、強大な力を持ち、ブラックポープと呼ばれている。
 イエズス会の紋章にある「IHS」は、エジプトのイシス、ホルス、セツ(セト) を表し、それはアヌンナキのことである。イシスとセツ(セト)はニビルのマルドゥク(ルシファー、サタン、ニムロド)の子であり、ホルスはイシスの子である。


■1541年頃

 フリーメイソン最古のロッジがあるスコットランドのアバディーンでは、アバディーン・ロッジがアバディーン市を訴えている。これによって、当時のスコットランドでフリーメーソンの力がいかに強かったかを知る事ができる。アバディーンには公文書に残されている最古のフリーメーソンの記録がある。

 また幕末に、坂本龍馬の亀山社中(後の海援隊)にヨーロッパの武器を売っていたグラバー商会のトーマス・グラバーは、スコットランドの寒村フレイザー・バラに生まれ、そこからさほど遠くない港町アバディーンに移り住んだ。


■1549年

 イルミナティのフランシスコ・ザビエルが、イエズス会の宣教師として日本へ来日した。日本は豊臣秀吉の室町時代だった。
 この当時のイルミナティのローマ法王が、日本にフランシスコ・ザビエルが来る前に、側近もほとんど連れずにわざわざ日本を視察しに来ていた。このローマ法王が日本へやって来た後、フランシスコ・ザビエルが日本にやって来て、一斉にキリスト教を広めたのである。この事実は日本の教科書からは抹消されている。この時、日本側で手引きしたのは明智光秀だった。明智光秀は「天海」であり、天海は比叡山密教系である。よってなぜ彼が織田信長を暗殺したのか、その理由は明確で、織田は高野山系の密教と神道系の呪術の両方を使うので、そのような無敵の強さを持つ織田をイエズス会がけむたく思い、1582年に天海の明智光秀を使って「本能寺の変」を起こさせた。つまり比叡は本来キリスト教なのである。また、明智光秀の三女で細川忠興の正室の細川ガラシャは、キリスト教信徒であった。


■1575年頃

八咫烏と国際金融資本-------------------------------------------------------------------------------------

 現在のオランダ国内にある大学としては最も古いライデン大学が、八十年戦争におけるネーデルラント側の指導者ウィレム1世によって設立された。

 イエスに追放された者たちの末裔は、着々と西洋社会を蝕んでいき、中世には日本にも目を付け始めた。それに気付いた八咫烏は、室町時代頃からオランダのライデン大学に密使を派遣して西洋思考を学習させ、密かに彼らの組織に潜り込ませると同時に、裏から操るよう、息の長い工作を開始した。その資金は、縄文以来の王家の血統が受け持ち、後には金融王国スイスの財政基盤となるぐらいまでの規模となった。無論、その資金の名目上のトップは皇室である。
 追放された者たちの末裔は、イエズス会が率先して宣教師となり、アジア・アフリカ・中南米諸国に潜入した。彼らが扇動し、資源を根こそぎ剥奪して人々を蹂躙する手口はどこの国に対しても行われ、日本も例外ではなかったが、日本ではキリシタン禁止令と鎖国が、彼らに対する防波堤となっていた。

 しかし、時代の流れに抗(こう)することは難しくなってきたので、西洋フリーメイソンなどの組織に潜り込んで工作した者たちが、開国時の日本に渡来した。グラバーなどの工作員である。彼らが表で動き、裏では八咫烏が天皇の偽装崩御工作などを秘密裏に実践することにより、西洋式の破壊的な革命は最小限に抑えられたのである。これは皇室が南北朝に分裂した際、秘密裏に統合する時に実践された手法を応用したものだが、いずれも最大の目的は、国体護持であった。
 そして、国際金融資本に対抗すべく、日本独自の金融と世界的商社ネットワークも設立された。特に重要だったのが、八咫烏の金庫番とも言うべき四井一族による銀行で、クエーカー(キリスト友会)教徒の多いフィラデルフィアを発祥地とさせた。後に平成天皇の教育係となるヴァイニング夫人もまた、クエーカー教徒の一人である。

 明治以降の世界的戦争は、いずれも国際金融資本によって計画的に引き起こされ、その目的は富の略奪と戦争に依る資産の増殖、余剰人員の削減に他ならないが、日本への被害は最小限に抑えられるよう、最大限の工作が図られた。
 しかし、第二次世界大戦の頃には、八咫烏の中にもナチスに協力する者が出てきたり、日本政府や軍、官僚の中にも、裏事情を理解すること無く、国際共産主義にのめり込んだスパイ的人物も多数現れるようになった。そのため、本来は勝てたはずの大東亜戦争も負けてしまい、多大な被害を被り、大東亜共栄圏の実現はかなり先延ばしにされてしまった。それに伴い、神宮の式年遷宮も2013年に照準を合わせ、延期された。
 しかし、いち早く敗戦を予期した八咫烏は、皇族を中心としてアジアの日本軍を秘密裏に指揮させ、資金をあちこちに分散させた。それが、戦後の敗戦処理に利用されたのである。また、陸軍中野学校のメンバーをアジア各地に配置して資金を守らせたり、ベトナムなどでのゲリラ戦を現地人に叩き込んだりして、欧米からのアジアの独立を推進させた。そして、朝鮮半島を防共の砦とし、米ソが冷戦となることまで見越して、北朝鮮が造られたのである。
 中には、国際共産主義に協力するフリをして、裏工作を進めた者たちも居た。中野学校の教訓と同様、表面的には国賊の汚名を受けても、生き恥をさらしてでも国体護持に務めるという者たちであった。加藤忠商事を世界的な諜報組織にまで仕立て上げた瀬島隆二氏などは数々の疑惑が叫ばれていたが、それはあくまでも表向きのものであり、裏では八咫烏の伝令通り、将来の日本が世界的に果たす使命に向けて、着々と準備を進めていたのである。それでも、表の世界は錯乱した国際金融資本の思うツボだった。


■1582年

 本能寺の変(ほんのうじのへん)が起こる。1582年6月21日、備中高松城包囲中の羽柴秀吉を救援しようとしていた織田信長に対して、先発させた家臣明智光秀が謀反(むほん)を起こして丹波亀山城から引き返し、京都の本能寺に宿泊していた信長と妙覚寺に宿泊していた当主の織田信忠を襲撃したクーデターである。
 この頃、イルミナティのイエズス会は高野山系の密教と神道系の呪術の両方を使う織田をけむたく思い、天海である明智光秀を使って本能寺の変を起こさせた。比叡は本来キリスト教である。



 またこの頃、イルミナティの第226代ローマ教皇のグレゴリウス13世が、ユリウス暦を改良して制定したグレゴリオ暦を使用し始める。これは後に現代社会で広く使われる暦となる。


■1600年

エリザベス女王と徳川家康の関係------------------------------------------------------------------------

 エリザベス1世は、日本との貿易を望み日本の銀を独占しようとしていた。英国からウィリアム・アダムス(=三浦按針”みうら あんじん”)がリーフレス号に乗って日本に漂着した。アダムスが大量の武器を日本に密輸し、徳川家康はアダムスの武器を買って「関ヶ原の大戦」に備えた。


 イギリス公文書館に残っていた資料から「20ポンド(現在の約500万円)のお金を(イギリス)東インド会社がイギリスに残されたアダムスの妻・メアリに渡した。この他、確認されただけでも5000万円ものお金がアダムスの妻に渡されていた。」
 アダムスの手紙には「我々は日本を目指した」と書かれてた。按針(アダムス)を送り込んだのはエリザベス女王の密命だった。
 なぜエリザベス女王は家康に勝ってほしかったのか?石田三成の西軍にはキリスト教信者が多く、スペインやポルトガルと密接な関係にあった。エリザベス女王としては東軍の家康を応援することによって日本への影響力をつかみたかった。

 1600年9月、関ヶ原の戦いが起こる。徳川家康率いる東軍7万5千人、石田三成率いる西軍8万2千人。両軍16万人の戦いは3ヶ月はかかるものと見られていたが、家康は開始7時間で勝利した。
 関ヶ原の戦いで東軍が勝ったおかげで、日本からスペイン・ポルトガルを追い出し、イギリスはオランダが台頭してくるまで日本の貿易を独占する。エリザベス女王はイルミナティであり、すでにこの時代からイルミナティは日本へ接触していた。

 関ヶ原の戦いは、徳川家康を総大将とする東軍と、毛利輝元(てるもと)を総大将とし石田三成(みつなり)を中心とする西軍との戦いと知られているが、別の見方がある。それは、イスラエルからやってきたユダヤ人の子孫の源氏の末裔である徳川家、同じく源氏の末裔である毛利家・島津家の戦いである。この時は徳川家にイルミナティやフリーメイソンからの支援があった。この両者は約267年後の明治維新でも争う。関ヶ原の戦いの主な東西の大名は次の通り。

東軍、徳川家康256万石、前田利長84万石、伊達政宗58万石など
西軍、上杉景勝120万石、毛利輝元112万石、島津義弘73万石、石田三成19.4万石など


■1602年頃

 世界初の株式会社と言われるイルミナティのオランダ東インド会社が、オランダで設立される。会社といっても商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えられ、アジアでの交易や植民に従事し、一大海上帝国を築いた。資本金約650万ギルダー、本社はアムステルダムに設置され、重役会は17人会と呼ばれた。18世紀末に政府により解散させられた。


■1603年頃

 この頃、日本は江戸時代で、相撲は庶民に親しまれるようになった。

■1605年

 18年にイエス・キリストに追放されたエルサレムの両替商達の一派のメディチ家(財閥)のサンドロ・オッタビアーノ・デ・メディチが、ローマ教皇「レオ11世」に即位する。彼が教皇の座に就けたのは、トスカーナ大公国大公のフェルディナンド・デ・メディチの影響力が大きい。

■1613年

 イギリスから国王使節が初めて来日したのは慶長18年(1613)のことで、オランダ国王使節の来日から4年後のことである。イギリスとの通商交渉にも、ウィリアム・アダムズが深くかかわっていた。アダムズは自分の身の上に起こった出来事を書簡にまとめ、イギリスに送っていた。その手紙には、皇帝家康がイギリスとの貿易を望んでいることも書き、イギリスが日本と交易することを薦めた。

 1613年に日本は、イギリスと初めて国交を結ぶ。国交樹立の記念として、2代将軍、徳川秀忠がイングランド王ジェームズ1世に岩井与佐衛門(いわい よざえもん)作の日本の鎧を贈った。これはイギリスのロンドン塔に所蔵されてある。

  江戸幕府である徳川家康は豊臣軍との大坂の陣(1614年〜1615年)に備え、イギリスからカルバリン砲を4門購入した。射程距離は6300mで、遠く離れた場所から大坂城に球を1.7秒で届かせる事ができた。この戦いは徳川家康が勝利した。

世界へGO! 徳川家康×エリザベス1世 大坂の陣の真実

■1626年

アヌンナキのデザイン的要素とサン・ピエトロ大聖堂-----------------------------------------------

 1626年にバチカン市国にあるカトリック教会の総本山、サン・ピエトロ大聖堂が完成する。このデザイン的要素は、アヌンナキが作ったバールベックのバッカス神殿とジュピター神殿と同じである。また同様に、アヌンナキが作ったヨルダンのペトラのエル・カネズなどとも同じである。

 この三角形部分の原型は、「生命の樹」のケテル(王冠)の部分であり、古代メソポタミアのエンリルの監視塔の形も三角形であった。その部屋にサーチライトのレーダーが設置され、それによってエンリルは、すべての土地の深奥部(しんおうぶ)を捜索することができた。これが「すべてを見通す目(プロビデンスの目)」であり、エンリルの監視塔の象徴でもある。


■1665年頃

 エチオピアのアスクムにあるシオンのマリア教会が再建される。エチオピア正教会は、契約の箱を納めているとしている。


■1694年頃

 イルミナティのイングランド銀行がロンドンに作られる。1689年、オランダのフリーメーソンであったオレンジ公ウィリアムス(ウイリアム3世)が、イギリスにフリーメーソン結社のオレンジ結社を創設した。これに参加した貴族たちが中央銀行の元締めとしてイングランド銀行を創る。その銀行が後にロスチャイルド一族に管理されることになる。

 英国はこの時期後、戦争と内戦に突入するが、ソロモン神殿を作った「フラムの子ら」であるイルミナティのフリーメイソンは、英国に軍事費用を貸し付ける代わりに、英国銀行の設立権と理事権、そして金本位制を確立する法的権限を得た。


■1717年頃

 6月24日の聖ヨハネの日、ロンドンの4つのロッジの代表者が、グース・アンド・グリドアイアンに集まって「ロンドン・グランド・ロッジ」を設立した。イングランド型ロッジの最初ということで「マザー・ロッジ」と呼ばれ、フリーメーソンは長い地下組織の歴史に終止符を打ち公然化させ、近代フリーメイソンの歴史がこれにより始まる。「フリーメーソンの理想は、社会や国家を改良して、普遍的人道主義的な世界共和国を建設することである」と詠った。ロッジをまとめるグランドロッジも設立された。またロッジ運営の中心となる役職グランド・マスターが配置され、新しいロッジを承認する権限が与えられている。近代フリーメイソンのすべては、1717年に発足したイギリスのグランド・ロッジに端を発する。この年より、フリーメイソンの規模は世界中で急速に拡大し、支配者層、権力者層が会員となっていく。

 4つのロッジから始まったロンドングランドロッジは、1725年に64ロッジを支配下に置いた。1733年にロンドン・グランドロッジは126ロッジへと増加した。1773年にフランスのグランドロッジ「大東社」が設立され、フランス革命前にフランスには629のロッジがあり、パリだけでも69のロッジが、また69の軍隊内ロッジがあった。


■1727年

 14世紀に、銀行家として台頭していたメディチ家に起源を持つ三百人委員会が設立される。イルミナティの三百人委員会の思想の大元は、古代バビロニア王室(アヌンナキのマルドゥク)である。彼らはアジアや中近東、ヨーロッパ間の貿易によって富を築いた。その後仲介するビザンチン帝国を避けるため、港町アムステルダムに本部が移行された。そこで東インド商会を作り、直接アジアと取引することにより更なる富を得た。
 こういった歴史的な流れがあり、1727年にイギリス東インド会社の300人の会議をもとにして、英国貴族によって三百人委員会は設立された。フリーメイソンの第33階級、最高大総監に相当する。三百人委員会はオリンピアンズ(オリュンポス十二神)とも呼ばれる。三百人委員会の根本思想は、イルミニズム、悪魔主義である。その超国家的組織は超選民主義の究極的な形態である。

 彼らは三つの原則によって社会を管理してきた。火薬、金、ペンである。要するに暗殺、賄賂、プロパガンダの組み合わせである。現代彼らは三つの小さな独立都市から世界を支配している。「火薬」である戦争の担当はアメリカから独立をしている都市ワシントンDC。そして「金」である賄賂担当は独立都市であるロンドン。最後に「ペン」であるプロパガンダ担当はバチカン帝国である。
 三百人委員会のメンバーは悪魔教の信者であり、彼らの配下に存在するのが多くのアシュケナージユダヤ人やアングロサクソン民族。そして彼らは現在でも人間を生贄にする儀式を定期的に行っている。


■1743年

 マイヤー・アムシェル・バウアー(後のマイヤー・アムシェル・ロスチャイルド)がドイツのフランクフルトで生まれる。彼が後にロスチャイルド財閥を築くことになる。彼は両替商及び絹布貿易を営んだドイツ系ユダヤ人モーゼス・アムシェル・バウアーの息子。彼らはハザール国からやってきたが、本当のユダヤ人ではない。
 マイヤー・アムシェル・バウアーは、モーゼス・ゴールドシュミット家から独立して両替商となり、会計事務所の経営者となる。出入り口のドアに彼は赤い看板を据える。この看板は、約200年後にロスチャイルドの指示でイスラエルの国旗になる六芒星(幾何学的、数的に666)である。
■1756年頃

 音楽家のモーツァルトや初代アメリカ合衆国大統領ジョージ•ワシントンも、フリーメーソンの会員となる。

■1760年

 ドイツのハノーヴァー(ハノーファー)のオッペンハイマーが所有する銀行で、マイヤー・アムシェル・バウアーは10年間修行する。そこで彼は大きく成功し、ジュニア・パートナー(パートナーシップにおける立場の低いメンバー)になる。銀行で働いている間、彼はエストルフ将軍と知り合いになっている。エストルフ将軍とはカルル・ビュルデスというヴィルヘルム1世の財務官を通じて近い関係になっている。ビュルデスもロスチャイルドも野心家であり、徹底的に頑固で、忍耐強く、人目につかないことを好む点で似た者同士で、意気投合し、相互援助の協定を結んだ。

 マイヤー・アムシェル・バウアーの父親が亡くなり、バウアーは父親のビジネスを引き継ぐためフランクフルトへ戻る。バウアーは、赤い看板の重要性を認識し、バウアーからロスチャイルドに名前を変更する。その後、出入口のドアの上に666を示す赤い看板を垂れ下げる(レッドはドイツ語で腐る、サインはドイツ語でシルト)。

 名前を変えたマイヤー・アムシェル・ロスチャイルドは、エストルフ将軍(Emmerich Otto August von Estorff)がドイツのハーナウのヴィルヘルム1世 (ヘッセン選帝侯)の宮廷にいることを発見する。そして彼は将軍に、価値のあるコインや装飾品を割引の値段で売ることを口実に、再び近づく機会を作った。
 彼の計画では、ロスチャイルドは続いてヴィルヘルム1世に自分を紹介し、珍しいコインや装飾品を割引いた値段で提供して満足させ、またロスチャイルドは王子においしい話を提供する。そうしてロスチャイルドはヴィルヘルム1世と親しくなり、宮廷のメンバーとも取引を始める。

 
■1769年

 マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドは、ヴィルヘルム1世から正式に彼の事業の看板を、会社の正面に掛ける許可を与えられる。


■1770年

 マイアー・アムシェル・ロスチャイルドはグトレシュナッパー(Guttle Schnapper)と結婚する。彼はイルミナティの創始の計画を作成し、1773年にその構成と開発をアダム・ヴァイスハウプトに託す。


■1773年

 長男アムシェル・マイアー・ロスチャイルドが、ドイツのフランクフルトに生まれる。フランクフルト家を継承。
■1774年

 次男ザーロモン・マイヤー・ロスチャイルドが、ドイツのフランクフルトに生まれる。オーストリアのロスチャイルド財閥の創始者で、ウィーン家の祖。


■1776年頃

イルミナティの設立-----------------------------------------------------------------------------------------

 1776年5月1日、ロスチャイルドより任命されたバヴァリアのインゴルシュタット大学法学部教授アダム・ヴァイスハウプトが、イルミナティを設立する。この日付は共産主義圏の祝日。
 ヴァイスハウプトは深く古代神秘科学にも傾倒していた。「イルミナティ」という名称は、「神や人間についての内的な啓示」という意味を持つ言葉として、古くから多くの宗派に用いられてきたものである。このことから、イルミナティを創設したアダム・ヴァイスハウプトがイルミナティの教義の“始祖”ではなく、彼は古代ギリシアやエジプトの神秘主義的哲学を研究し、それを復活させたということである。
 アダム・ヴァイスハウプトがロスチャイルドより任命された目標は、全部で25項目。概要は次の通り。

 1 人々を善ではなく悪に導け
 2 リベラリズム(自由主義)を説け
 3 “自由”の概念を使って階級戦争を起こせ
 4 イルミナティの目的達成の為ならどんな手段も惜しまないこと
 5 イルミナティの権利は力の中にある
 6 我々の富の力は表面化しないように保たなくてはならない・・・どんな狡猾さ、力によっても損なわれない強さを得るまでは
 7 群衆心理をつかんで、大衆を操作しろ
 8 酒、麻薬、退廃的モラル、あらゆる悪徳を使って若者のモラルを組織的に低下させよ
 9 どんな手を使っても不動産を没収せよ
10 心理戦争として「自由、平等、博愛」などのスローガンが大衆の口から出るようにさせよ
11 戦争を仕掛けよ どちら側の国々も負債を抱え込むよう戦争を実行させよ また和平会議では双方が領土を獲得しないようにせよ
12 我々は財を活用して、要求におとなしく従い、陰で操る者たちのゲームの駒となる候補者を議員に選ばなくてはならない。彼らの助言者たちは、幼少のころから世界情勢を支配するための訓練を受ける
13 メディアを支配せよ
14 エージェントたちはトラウマを生む状況を扇動しながら終わった後大衆の救世主として現れる(実際はその逆で大衆の殺戮に関心を抱く)
15 不況、金融パニック、失業、飢え、食料不足を引き起こし、これらを大衆コントロールに利用せよ。生意気な邪魔者は暴徒を使って一掃せよ
16 フリーメーソンの中に潜入し彼らを利用しろ
17 組織的な目くらましに価値がある。理想の高いスローガンや言葉を利用し無理とわかっていても大衆には太っ腹な公約をせよ
18 決議の計画を詳細に立てよ。大衆を速やかに服従させるには「市街戦」が必要
19 戦争後にはエージェントを使って背後から助言してもらえ。支配を手に入れるために密使を使った外交活動をせよ
20 世界統一政府につながる巨大な独占支配を樹立せよ
21 原材料のコントロールによる経済破綻を導くために、高い税率と不公平な競争を用いよ。労働者同志の間に争いを起こし、競争相手に補助金を与えよ(GATT,NAFTA)
22 我々の利益を守るのに足るだけの武装警察、兵力をたくわえよ
23 世界統一政府の指導者はディレクターによって任命されるだろう
24 嘘とわかっている理論や原則を教え込むことで、社会の若い構成員を騙し、混乱させ、腐敗させる。この目的のために社会・政府のすべての階級の中に潜入せよ(これは国連によって結果重視の教育が押し付けられている)
25 国内法、国際法は文明を破壊するために使う(世界人口を5億人まで、米国の人口を2000万人まで減らす)

 元FBIロサンゼルス支部長テッド・ガンダーソン(1928年-2011年)は自らの調査で、イルミナティという組織が陰謀論ではなく、実在する悪魔崇拝カルトであると証言している。次の動画でそれを見ることができる。


フリーメイソンであるゲーテ-----------------------------------------------------------------------------

 ゲーテ(1749年〜1832年)はフリーメイソンであった。ゲーテはドイツの詩人、劇作家、小説家、自然科学者、政治家、法律家で、ドイツを代表する文豪であり、小説『若きウェルテルの悩み』『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』、叙事詩『ヘルマンとドロテーア』、詩劇『ファウスト』など広い分野で重要な作品を残した。
 その文学活動は大きく3期に分けられる。初期のゲーテはヘルダーに教えを受けたシュトゥルム・ウント・ドラングの代表的詩人であり、25歳のときに出版した『若きウェルテルの悩み』でヨーロッパ中にその文名を轟かせた。その後ヴァイマル公国の宮廷顧問(その後枢密顧問官・政務長官つまり宰相も務めた)となりしばらく公務に没頭するが、シュタイン夫人との恋愛やイタリアへの旅行などを経て古代の調和的な美に目覚めていき、『エグモント』『ヘルマンとドロテーア』『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』などを執筆、シラーとともにドイツ文学における古典主義時代を築いていく。


フリーメイソンであるヘーゲル---------------------------------------------------------------------------

 ヘーゲル(1770年〜1831年)はフリーメイソンであった。ヘーゲルはドイツの哲学者で、ドイツ観念論を代表する思想家である。優れた論理性から現代の哲学研究も含め、後世にも多大な影響を与えた。観念論哲学及び弁証法的論理学における業績のほか、近代国家の理論的基礎付けなど政治哲学における業績も有名である。認識論、自然哲学、歴史哲学、美学、宗教哲学、哲学史研究に至るまで、哲学のあらゆる分野を網羅的に論じた。


■1777年頃

 三男ネイサン・メイアー・ロスチャイルドが、ドイツのフランクフルトに生まれる。ロンドン家の祖。


■1787年頃

 フランス革命が起こる。1787年に王権に対する貴族の反抗に始まった擾乱(じょうらん)は、1789年から全社会層を巻き込む本格的な革命となり、絶対王政が倒れたのち、フランスは立憲王政から共和制へと展開する。さらに1794年のテルミドール反動ののち退潮(たいちょう)へ向かい、1799年にナポレオン・ボナパルトによる政権掌握と帝制樹立に至る。この1787年の貴族の反抗からナポレオンによるクーデターまでが、一般に革命期とされている。ナポレオンやフランス革命の当事者たちの多くがフリーメイソンであった。


■1788年

 四男カルマン・(カール)マイヤー・ロスチャイルドが、ドイツのフランクフルトに生まれる。ナポリ家の祖。


■1789年頃

 フランスの人間の自由と平等、人民主権、言論の自由、三権分立、所有権の神聖など17条からなるフランス革命の基本原則を記した「人間と市民の権利の宣言」が、憲法制定国民議会によって採択された。フランス人権宣言とも呼ばれ、その図の中央上部にピラミッドの目のマークがある。これは侯爵で軍人で政治家であるラファイエットが起草に着手した。ラファイエットは1779年の20歳代はじめにフリーメイソンに加入した。参入儀式はアメリカのジョージ・ワシントンが執り行った。フランスのグランドロッジ大東社は、この年のフランス議会の準備期間及び開催中の組織的プロパガンダの主役だった。

■1791年

 ロスチャイルド家は工作員アレクサンダー・ハミルトンを通じ、アメリカに「第一合衆国銀行」という名の中央銀行を設立して「一国の通貨の管理」をその手に握る。同行は20年間の認可を得て、設立された。この銀行は、新たに形成されたアメリカ合衆国中央政府の財政的需要と要求事項を取り扱うために創設された。それまでは13植民地がそれぞれに銀行、通貨および財政制度と政策を持っていた。
 当時の国務長官トーマス・ジェファーソン(後の米国大統領)は次のように述べている。
「わが国の憲法を改正して借金をする権利を連邦政府から剥奪出来たらどんなにいいか。」


■1792年

 五男ジャコブ・マイエール・ロスチャイルドが、ドイツのフランクフルトに生まれる。パリ・ロスチャイルド家の祖。


■1796年

 長男アムシェル・マイヤー・ロスチャイルドはエヴァ・ハーナウと結婚する。

■1798年

 三男ネイサン・メイアー・ロスチャイルドはフランクフルトからマンチェスター(イングランド)に移る。ここで彼は英国の織物をヨーロッパに輸出し、父親と兄弟を助ける。


■1800年

 次男ザーロモン・マイヤー・ロスチャイルドはキャロライン・スターンと結婚する。

ホワイトハウスはアヌンナキのデザイン的要素を取り込んでいる---------------------------------

 1800年には、アメリカの大統領府であるホワイトハウスが完成する。そのデザイン的要素も、アヌンナキが作ったバールベックのバッカス神殿やジュピター神殿と同じである。またギリシャのパルテノン神殿とも同じである。ホワイトハウスを使用するアメリカ政府は、アヌンナキと、その中のマルドゥクを悪魔崇拝するイルミナティによって支配されている。
 三角形は「生命の樹のケテルと三角形」と「エンリルの監視塔」の象徴でもある。